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<東京怪談ノベル(シングル)>


【ハーメルンの魔法使い】


 あたしはきっと夢を見ているのだと思う。
 まるで水中に居るように、音が遠く聞こえるけれど、水が何時ものようにあたしに語りかけてこない。
 だから、あたしはこれが夢だと思った。

 楽しげな音楽が耳に届く。やっぱり水中から外の音を伺ったときのように、それはくぐもって聞こえた。
 あたはしは何処に居るのだろうと、辺りを見渡す。まっくらな周りには誰も居なくて、けど、それとは逆に眩しいスポットライトがあたしの座っている向かいのステージに幾つも色とりどりの帯を伸ばしている。
 ステージの上では三匹のライオンが次々と火の輪をくぐり、誇らしげに台座の上で吼えたところだった。やっぱりその声は遠い。
 まっしろなスポットライトの下、大きなシルクハットで顔のよく見えない男の人が、鞭を片手に深々とお辞儀をする。
 高々とファンファーレが鳴った。

 ああ、これはサーカスなのだ。慣れてきた視界の中で、ぶらぶらと無人の空中ブランコが揺れている。
 お客さんはあたししかいないから、あたしは精一杯拍手をした。それがステージの上にいる人への礼儀だと思ったから。
 あたしの拍手にシルクハットの人はわずか見えている白塗りされた顔に赤く派手な紅の引かれた口だけでにこりと笑う。彼が鞭を鳴らすと、ライオンたちは大きな身体を揺らしながらステージの裾に帰っていく。

「次はお嬢さん。あなたに手伝っていただきましょう」

 何故か彼の声だけ、やけにはっきりと聞こえてあたしは席から飛び上がるほど驚いてしまった。
 彼の長い腕があたしに差し出される。シルクハットの淵に見え隠れする口元が優しく笑って、何故だか安心してしまった。
 白い手袋に包まれた大きな手を取ると、あたしは何時の間にかステージの上に居た。
 傍らであたしの手を握って笑っているこの人の腕は、数メートル離れたあたしの席まで伸びたのだろうか?
 距離感も聞こえてくる音も安定しなくて、あたしはやっぱり夢だと思って、だったら好き勝手やってもいいや、と心は大胆になった。
 夢の中くらい、真面目じゃない振りをしたって、きっと許される。

「よろしくお願いします、ピエロさん」

 あたしは精一杯の大胆さで、手袋ごしの骨ばった手をぎゅっと握る。
 彼は少し困ったように口角を上げた。

「わたくしはただのクラウンで御座います。お嬢さんはピエロをお望みですか」

 我々は道化師はクラウン。ピエロはクラウンの役割の一つで御座います、と彼はあたしの耳元にそっと囁いた。
 男の人の息が耳に掛かるのがくすぐったくて、思わずあたしは身を竦めて目を閉じる。

「そのまま目を閉じておいで下さい」

 頭の上に大きな布をかぶせられる感触がして、驚いたときには、パパン、とクラッカーの弾ける音がした。

「さあ、準備完了ですよ」

 あたしの頭と肩にかかっていた布が、バサバサと羽音を立てる。目を開けると、それらは鳩に変わって飛び立つところだった。

「お嬢さんに、よくお似合いだ」

 向かいに立つ道化師が優しい声で差し出した姿見は、絵本の中に出てくるような装飾を施されている。だから、あたしにはそれが扉にも見えた。
 向こう側に、人形や遊園地でしか見たことのないピエロが立っている。
 白塗りの顔に目立つ赤い鼻、大きく描かれた笑うピンクの唇。
 それから、三つ又に分かれた帽子の先で、それぞれカラフルなポンポンが鈴と一緒に楽しそうに揺れた。
 あたしが頬に手をやると、向かい合うピエロもそう動く。ああ、あたしでないようで、確かにこれは、あたしなのだ。

「この涙がピエロの証ですよ」

 何時の間にか後ろから抱き締めるように道化師はあたしの顔を撫でる。鏡の中でその白い手に触れられる顔に、大きな涙の形をしたメイクを認めた。
 あたしが道化師に何か聞こうと口を開きかけた時には、彼はパチリと器用に指を鳴らして見せた。
 音につられ煙のように姿見は消え、代わりに新しい光の帯があたしに注いだ。

「少女ピエロが今宵、あなたがたに夢幻を!」

 ワァッ! と辺りは歓声に包まれた。
 ステージに溢れる光に邪魔されて、客席はよく見えない。けれど、ぐるりとステージを囲む客席から注がれる声と拍手。
 何時の間に、と声は出なかった。
 あたしと同じ格好をしたピエロたちがステージの裾から次々と集まり、道化師が鞭を掲げると、楽器を手にした彼らは踊りだす。
 タンバリンが、アコーディオンが、バイオリンが、自分勝手に音を紡ぎだし、それは絡まって楽しげな音楽に変わっていく。

 さぁ、と道化師に背を押され、踊るピエロの輪の中心にあたしは歩み出た。
 彼らは笑っている。私も笑わなければ、踊らなければ、とぎこちなくステップを踏み始めた。
 他のピエロの踊りにつられるうちに、彼らのものと全く同じ奇抜な道化のダンスになっていく。

 キラキラと輝く世界。楽しい音楽。転げまわるように踊るあたし。
 周囲からは割れんばかりの拍手と歓声。
 光の差で見えないはずの客席で、それでもあたしたちを指差し、だらしなく大口を開けて笑う声。
 踊るのに疲れてきたあたしは、なぜ彼らが笑っているのか道化師に聞こうとして、声が出ないことに気づいた。
 それから疲労にガタガタの足も、腕も、勝手に動いていることに。
 くるくると踊り回る視界の中、他のピエロは張り付いた笑顔の化粧をぐしゃぐしゃに溶かしながら、涙を流している、ことに。

 今や更に遠くなった音楽の中で、間抜けな舞踏を繰り返しながら、あたしはステージ裾のカーテンを見ていた。
 その影にちらつくのは、カーテンの皺と光の加減であるはずなのに、あたしには大きな手とそれが操る紐に見えた。
 それは道化師の白い手に、よく似ていた。

 あたし一人きりだった時と同じファンファーレが鳴り、拍手の洪水が巻き起こって、あたしはようやく足を止めることができた。
 拍手の洪水の中、道化師がシルクハットを取り、深く腰を折った。
 その顔が見たいと思ったけれど、次々と舞台の裾に吸い込まれるピエロの足並みに、あたしはまた勝手に吸い込まれる。
 けれど道化師の顔より、開放されることを喜んでいた。
 あたしはもう舞台に立たなくていい。指差されて笑われることもない。
 もう、あたしは誰の目に触れなくても、いい。

 カーテンの裏に駆け込む瞬間、後を追ってきた道化師の声が聞こえた。

「みなもさん、あなたの出番はこれから、だ」

 振り返ろうとした瞬間、白い手に背中を押され、あたしは落ちた。
 知らない水槽の中に。

 ピチャン、――。

 深く深く、沈んでいく感触だけ、あたしに残った。


 * * *


 あたしは学校に向っていた。
 なんだか今朝は変な夢を見た気がする。
 少しだけ覚えていないのが残念だったけど、夢だから仕方がない。

 足元を見ながら歩いていたあたしは、場違いな音楽に顔を上げる。
 音源は、最近近所のデパートの屋上に訪れているとかいう、小規模のサーカスのビラ配りピエロたちだ。
 シルクハットのピエロがあたしに歩み寄って、どうぞ、とビラの一枚を差し出す。
 あたしは足を止めることなく、それを受け取る。
 ペラ、と捲った紙には"世にも珍しい人魚のダンス、お見せ致します”と書かれていた。
 あたしは首をかしげ、振り返る。
 きらびやかな衣装に、色とりどりの音楽。ピエロは笑っていた。

 ――うらやましい。

 と、あたしは何故か呟いていた。