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<東京怪談ノベル(シングル)>


【ハーメルンの魔法使い-III】


 こうなってしまってから、あたしは夢を見ているのだろうかとぼんやりと思うことが多くなった。
 余り、不覚物事を考えないようにしているような気がする。
 その理由はいまいち分らない。

 先週はあたしは空中ブランコの上で逆立ちをしたまま、キラキラと輝く光を高い場所から見ていた。あたしが大きく揺れるブランコを渡る度に、ピエロになったあたしの帽子についた鈴がしゃんしゃんと鳴る。下から喝采が聞こえるけれど、それに興味がわかないのは何故だろう。
 あたしはきっと、褒められることに喜ぶべきだ。

 三日前は獣の姿で火の輪をくぐった。
 シルクハットのあたしの相方が鞭を揮い、あたしは高々と吼え、二本足で立ち上がってみせる。
 やはり、拍手が聞こえた。そらから、きゃあきゃあと子どものはしゃぐ声。
 あたしはそろそろ、どうしてあたしはこんなに空っぽなのだろうかと考えていた。

 昨日、あたしは水槽に満たされた水だった。
 あたしの中を、人魚のあたしが泳いでいた。
 揺れる水面から顔を出して、濡れる髪のまま歓声を浴びているのは、確かにあたしだ。あたしであるはずだ。
 あたしはどうしてあたしを見ているのだろう。それはとても大切なことだったはずなのに。

「分らない方が、いいの」

 ぽつり、と泳ぐあたしが、水のあたしの中で呟いた。
 どうしてあたしは、分らない方がいいなんていうのだろう。
 知らないことが多いのは辛いことだと思う。真実があるのなら、その全てを知りたいと思うのが、生きるものの願望じゃないかしら?

「それでも、知らない方がいいことだってあるの」

 一滴の涙があたしの中に溶けてくるのが分った。
 ――分らない。
 どうしてこうなったのか、どうしてこうしているのか。あたしは大切なことを忘れている。


 * * *


 今日は、あたしは光だった。
 スポットライトから満ちる光。サーカスのテントの中は、あたしでいっぱいに満たされていた。
 ラインダンスを踊るピエロ、獣たちのショー。夢のような光景を、あたしはたはひたすら、輝かせるために明るく降り注ぐ。

 これは――夢?
 だってあたしには、こんな色々に変化する力なんてない。
 あたしは夢の一部なんだ。だから、あたしはこのサーカスの中で、なんでもあって、なんでもない。

 じりじりと、背中に小さな火が点ったようだった。
 あたしは一体、何処にいるの?
 応えるように、ちいさくちいさく、耳の中で声がする。

“何処にでもいるから、何処にもいないのですよ”

“あなたはもはや、夢のひとかけら。在って無いようなもの”

 言葉に、あたしの頭の中を麻痺させていた霧が晴れていく。
 どうしてあたしは、この状態を甘んじていたのだろう。
 どれ程の時間、この場所で、こうやっていたのだろう。
 もう帰らなくちゃ、帰して! ねぇ帰してよ!
 叫んだはずの声が空気を震わせることはない。だってあたしは光で、そんな権利は、ない。
 ――あたしは泣けるはずの目も失くしていることに気付いた。助けを求める手も、逃げ出す足も。
 では、これを見ているあたしは、なに?
 狂いそう。ああ、こんなことなら何も知らなければよかった。
 “あたし”のいう通り。――だから、あたしは自ら記憶を捨てたんだ。
 そうして、あたしはもう一度それを手放そうとする。

 ふと、いつか怖い夢を見たときに、家族があたしにいってくれたことを思い出した。
「夢は、いつか終わるから。だから、大丈夫よ」
 と。
 じゃあ、あたしは終わるまで耐えないと。だって忘れていたら、逃げることも忘れてしまう。
 昨日までのあたしみたいに。
 あたしの身体は、まだじわじわと形を変えていた。テントに描かれた人魚の絵に変わろうとしている。
 あたしは、何時か夢から抜け出せると、今度こそ思っていた。

 パチン、と鞭の音がもう一度。
 ない顔を上げると、あたしをこの夢に誘ったピエロがあたしを見ていた。
 ゾっとした。

「さぁ、次は誰の夢に出張しようかね。僕らはサーカス。夢から夢へ渡るものなのだから」

 それは、終わりなどこの場所に存在しないという、絶望の言葉だった。