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夏遊び 〜天女、衣にて頬を染め〜
「そろそろ暑うなってきましたし、梅雨が過ぎれば夏ですの…夏は良いのですが、日本の夏は湿気を何とかして欲しいものでして…」
青銀の髪が夏のゆるやかな風に靡く。東京の夏というあまり嬉しくない風はそれでもこの場にいる二人の柔らかな髪を揺らせるには十分に優しい。
柳仙閣、決して大きな製薬会社でもなければテレビに出る漢方薬のお店でもないそこは、店主である青年の半ば遊び場のような一応はしっかりとよく効く漢方薬の専門店である。
口コミで広がるそこは十分に客足がついているものの、気まぐれに開き時々によって閉まっているというのだから、矢張りメディアに向かない場所となっていた。もっとも、店内のあからさまに辛気臭い人魚の干物や河童の皿のような物があればどんな番組で取材をしてもでっちあげでしかないと視聴者は訴えるだろうが。
そんな店に青銀色が二人。日本に居る外国人を調べてみてもそんな髪色の人物はあまり思いつく事はないだろう。一人、もし居たとしても同じ場所に二人も存在しないであろうその色が今日は二つ。辛気臭い柳仙閣一階店舗上にある中華式の建築が目立つ二階に腰を落ち着かせて笑い合っていた。
「聊か鬱陶しい湿気もまた、日ノ本の特徴」
口元を綻ばせる青年こそがこの店の主――玲・焔麒(れい・えんき)、彼である。
客人にと持ち寄った中国茶を自らも喉に通し、目の前に居る少女のような麗龍・公主(れいりゅう・こうしゅ)の様々な反応を見て時折楽しげに肩を揺らせている。
(むむ、焔麒殿のお言葉はいつも私を惑わせてばかり…。 ならば私もかの方の慌てふためくお顔が見て見たいというもの)
遊び半分の言葉の掛け合いに公主はよく負けていた。いや、正確に言えば元の自分が温厚なせいだろうか。とはいえ男性に言葉でも弄ばれるのは面白くない。負けたと微笑みを零すのもまた一興であったが、焔麒の端正な顔が驚愕に揺らぎ黄金の瞳が見開かれる様を見て見たいものなのだ。
「ああ。 しかし、夏になりますと薄着に着替えねばなりませぬし…後、水着も、ですかな?」
世俗の事についてはさほど知識があるわけでも無かった。ただ、見知った者がよく見ている雑誌や店先で見た事がある程度。仙姑である公主がそうであるから焔麒も似たようなものだと、ふと思いついたのはそんな事で、自分と同じ白い肌にどのような水着が選ばれるのかという期待も秘めたものである。
「おや、水着…ですか?」
願った通り黄金色は太陽を受けて輝き驚愕の表情を、浮かべる筈だった。
暑さの話に答えながら焔麒を見やれば何やら考える事があるようで、それが自分の言った水着に関してという事ならば嬉しいことこの上ない。
「その脚線美を大衆の目に晒してしまうのは勿体無い。 まぁ…――見てみたくはありますがね」
「えっ」
思わず素っ頓狂な声が漏れてしまい口を隠す。
「そのような。 世辞を言うても何も出ませぬぞ? 兎も角、下界で我らの服は目立ってしまいますからの。 何やら、こすぷれ。 とやらに間違えられるかも知れませぬし…」
言葉を繕うのがやっとであったというのは語らずとも分かる事実だ。
女性が嬉しい、戸惑う台詞を知っていて焔麒はそれらの宝石のような言語を多種多様に使いこなす。だからこそ公主もこうして話すという事が楽しく思えてしまうのかもしれないが、それだけでは自分の気持ちがおさまらない。
こうなったら是が非でも彼に水着を着せてやろう、薬剤師でも天狐何より仙姑である自分の衣服の提案をすればすぐに水着を見繕う日時の返答がなされた。
「とてもお美しい公主殿の事、人目を惹きますからね」
「焔麒殿に言われとうござりませぬ」
帰り際に囁くようにして言葉にされる宝石に頬を染めながら受け取り、自分もまた彼に一矢報いようと小さな棘の花を贈る。
「それは公主殿に美しいと思って頂けている。 という事ですね?」
光栄です。と付け加えられる一言に公主は返す言葉も見つからずただ少女のように逃げ出してしまうばかり。
明日こそは、と強い願いと意志を持って、今はただ戦略的な撤退といつもの如く負けてしまったのである。
+
夏と言えば海。日本という国は島国故か特にそんな印象が強いようだ。
店の一つ一つ、この時期に水着売り場が無い場所などは存在しないかのような気合の入り具合はどことなく公主にとっては恐ろしいものがある。
色とりどりの水着が恐ろしいのではなく、そこに集まる女の熱気というものだろうか。念はどの国でも共通して強ければそれを感じ取る者がいるという事だ。今日、うだるような暑さの中焔麒が選んだ店はそのような念は感じられずゆったりとした空間に商品が見易く設置された一枚の絵のような場所。
(ううむ、心なしか焔麒殿の着るような水着が少ない気がするのだがの…)
熱気にも似た念を感じずに済むのは良い事だが、少女のような女性が一人ただ連れ合いも無しに立っているには寂しい場所だとも思う。
今日の為に用意したワンピースも白い日傘もきっと何処も可笑しく見える筈は無いと思うが如何せん、店員や道行く人間の視線が気になってしまう。元の格好は特異とはいえ慣れすぎていたせいもあるだろう、待ち合わせの時刻よりも数時間早く来た自分を少しだけ呪った。
何もこんな日に女一人、待たせるとは良い度胸だと言ってやりたいものの、男の来る数時間前に来たのだから文句は言えない。待って、待ち続けてため息が出るようになった頃、遠目から見てもよく映える艶やかな黒髪に公主は安堵の笑みを漏らす。
水着選びの待ち合わせをしたあの日、二人とも能力を使用し同じ黒髪茶色の瞳にしようという約束は思いの外効果てき面だったらしい。街に溢れるのは流行を気取った茶色の髪が多いのだ。
「これは、お綺麗なご婦人がお一人で、さぞや寂しい思いをされたでしょう?」
黒いシャツは透ける素材で出来ており、中の服が暑苦しくない程度に見える。
「おお、待ちにまってしまいましたぞ? 故郷に帰ってしまいそうなほどでございまする」
「それは勿体無い。 公主殿」
英国紳士という種族のように彼は軽い会釈をして、今まで見た事の無い黒髪長髪。何より自分を映す瞳が澄んだ琥珀色である相手を見て頬を染めそうになるも、平常心を保って公主はその手を取った。
「では、参りましょうかの? 焔麒殿」
声が上ずったのは気のせいだと信じたい。
普段の公主は毅然としていて女の一面はあれどそれもどこか豪傑のような凛とした美しさを保っていたというのに、この焔麒の前ではどうしてしまったというのだろう。単なる一つの色恋に溺れているのか、彼が心揺さぶる事に関して特化しているのかそれは分からない。
「このお店は上品な水着が多くて良いと思ったのですよ。 公主殿には是非にと」
値段を見ても公主にはあまり分からない。が、少し0の数が多いと思った程度であろうか。それらが高い物であるか、安いものであるかは世俗関係に疎い自分には分からず、ただ聞くだけの店と違い店員が五月蝿く近寄ってこないのが特徴的であった。
さほど大きくは無いモノトーンの店内に色とりどりの水着が並び、店員は女性が三人程、カウンターと試着室前に待機しているだけだ。
「そういう焔麒殿の水着も買いに来たのですぞ? これでは、私の物だけになってしまうではありませぬか…」
この店の前で待っていた時そんな考えを随分浮かべたものだ。焔麒の背はいつも高く、自分と同じ黒髪琥珀の瞳だというのにまるで生きる世界が全く違うように見える。
「私の水着も買いますよ。 ただ麗しい方の艶姿も見ずに紳士物を見るのは少々野暮というものですから」
「上手い事を言われる。 ふむ、ではこれでどうですかな?」
公主の選んだ物は所謂タンキニススタイルと言われるどちらかというと露出の少ない物だった。
店内のようなモノトーンの上品な色合いが目立ち、少しだけ差し込まれた濃い蒼の華が美しく開く一着だが、選んだ当人は勿論この水着のスタイルなど知らず、何より水着として選ぶのにはあまりにも露出が少なすぎる。
「美しい人が纏う衣は全て美しいと言われますが。 それですと折角の麗しい場所を拝見できぬというもの、公主殿これは如何です?」
焔麒という人物に恥じらいというものは無いのだろうか。選ばれたタンキニススタイルの水着を戻す手伝いをするふりをして公主を後ろから柔らかく抱きとめる。
「ほほう、それはどのような代物ですかの?」
手渡された物が今度はセパレートスタイルである事は勿論公主が知るところではない。
ただ、焔麒の甘い巧妙な手口にひっかかるまいとその水着を早々にして受け取ると試着室の方へ歩き出した。
「ご試着はこちらでどうぞ」
「うむ」
途中店員が気を利かせ女性が入るのに一番気分の安定する隅の試着室に誘導するが足はそちらに向くものの、後ろで微笑んでいるだろう焔麒を意識してしまい顔は固まり、話も何も聞かずにただ一人になってしまう。
(参った…)
試着室という狭い中でただ一人盛大なため息をつく。その理由はどうしても女のような振る舞いを隠せない自分にもあったが、焔麒に持たされた水着にも問題があった。
「どうです? お気に召されましたか?」
姿見に映る自分に思わず頬が赤らむのが分かる。
本日これで何度目であろう。露出の高い服など公主にとってなんら抵抗のあるものではなかったというのに、たとえそれが男性に見せるものであろうとも大して気に留める事もなかったというのに。焔麒の声が試着室の外からかかった時点で何も出来ない小娘のようだ。
「う、うむ。 まぁまぁ、と行ったところですかな…。 じゃがこれは流石に華美というもの私には少し難しいと思いまするが、焔麒殿は如何か?」
セパレートから覗く腿や、無駄の無い身体についた胸が大きく開けていて落ち着かない。本来はそういう意味なのだがあえて言わず、ただ白い水着から肌が透けるようだと上目遣いにおどけてみせる。
「十分お似合いですよ」
「あ、ありがたいが…」
「ですが、そうですね。 私と二人の時以外にその白桃のような肌を曝け出すのは酷く癪に障ります。 ささ、公主殿これに着替えて」
なんと歯の浮く台詞であろう。けれど焔麒が言えば本当にそう思っているように聞こえるのだから戸惑うしかない。
(あのお方はそういう所が良いなどとは。 些か不本意ではあるがの…)
二度目に閉まった試着室の扉の内側で、公主はそう思いながらもほくそ笑んだ。
焔麒が二度目に手渡してきた水着の色は黒。最初に自分が選んだ水着と同じ色という事で安心して受け取り、着替えの準備にかかる。確かに、白い肌は蛍光灯に真珠のように輝き、現代の日本人を装って黒くした髪と琥珀色の瞳はいつもの自分より随分と変わって見える。
(なかなか味わう機会が無いものだな、これがお洒落、というものであろうか。 焔麒殿には感謝を…)
曝け出した肌に当てる布をと黒い水着をボディラインそのままの同じく黒いハンガーから外そうとした時だった。
「焔麒殿ッ!?」
「はい? お着替えは済みましたでしょうか?」
「――!? 済んではおりませぬ。 これは…!」
何食わぬという声で焔麒の声が弾んでいるのに対し、公主はただ必死だった。ハンガーから取った水着の面積は酷く少なく細身とはいえ胸のある女性には大胆なものである。
「ビキニですよ。 色も落ち着いておりますから、公主殿本来の美しさが醸し出されて良いかと」
ビキニ。そうだ、胸を隠すよりも寧ろ強調したスタイルに太股はセパレートの比ではない露出度。羽織る物もそれ以上も以下も無い。だからと言って嫌とも言えずに身に纏った公主はただ自分の姿を呆然と鏡に映し立ち尽くしていた。
「どうです? お気に召しましたか?」
もう一度、焔麒の声がかかったが公主は上の空でただ頬を赤らめ、視線を鏡の中へと彷徨わせている。なんと言って良いか分からない。そういう事なのだが。
「とてもお素敵ですよ、公主殿。 さしあたってはこの水着を購入ついでに一度浜辺よりも私の前で着て頂きたいものですが、どうでしょうかねぇ」
からかわれている。楽しまれている。それは十分に承知していて首を縦に振らざるを得ない。焔麒という人物はつまりそういう存在なのだ。公主は瞳を細め、唇だけを動かして吐息だけで返事をすると彼の感嘆に近い吐息が肩にかかる。
黒髪に琥珀色の瞳。日本の神話にも登場すると言われる天女は羽衣を盗まれ天に帰られなくなったという。現代人の茶色の髪や色の付いた瞳には決して映らないそれを鏡に映しながら、公主はただ。
(こんな筈ではなかったというに。 許してしまうのもまた私、かの?)
天女は永遠ではなくとも、数日。天に帰る事は許されないだろう。
終
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