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<東京怪談ノベル(シングル)>


少女のレリーフ(後編)


 時計の針が夜を示している。あたしがアルバイトに来てから随分時間が流れたみたいだ。
「簡単なものしか今は食べられないと思うけど、食事にしようかしら」
 と、生徒さんはあたしの手におにぎりを渡してくれた。
「食べられそう?」
「やってみます」
 石膏に多少固められていると言っても、元々口の近くに手があったこともあって、何とか出来そうだ。まるで小鳥が啄ばんでいるみたいに、ゆっくりゆっくりおにぎりを口に含んだ。
 鮭フレークが中に入っていて、それをこぼさずに食べるのが難しい。自分の身体なのに、人のものみたいな感覚に囚われる。
 それを興味深そうに見ている生徒さん。
(普通レリーフになる人なんて見かけないもんね)
 ……やっぱり緊張していたのかな。味は特別おいしかった。
 ところで、さっきから気になっていることが一つ。
「あの、生徒さん……」
 言い辛いことなので、つい小声になってしまう。一度解けた緊張が再び蘇って、あたしは俯きながら訊いた。
「トイレはどうすれば……?」
「心配しなくても大丈夫よ」
 あたしとは違って生徒さんは笑みを浮かべている。
 と、“道具”を持ってきて、
「みなもちゃんは今レリーフであんまり動けないんだから、ここでしてね」
「え……」
 驚いた表情のあたしに、生徒さんは笑顔のまま言う。
「だってそのために後ろ側を石膏で固めなかったんだもの」
「あの、でも、身体をレリーフから取り出せばトイレに……」
「それは却下ね」
 うう。
 そんなあっさり断られるなんて。言葉に詰まってしまう。
(あたしが仙人さんとかだったら、トイレに行く必要もないのに)
 でもあたしは人間(人魚でもあるけれど)だから、そうも行かないし……。
「そうそう、心拍数も時々測らせてね」
 と、手首を掴まれた。生徒さんったらあたしのとまどいなんて全然気にしていないみたいだ。
「本当は丸一日測っていたいんだけど、器具を胸につける訳にもいかないからね」
「そうですよね」
 って、あたしまで生徒さんのペースに流されている……。
(勝てないなあ、もう)
 もしあたしの気が強かったら、自分の意志を突き通せたのかな。
(ううん)
 きっと流されちゃうよね。生徒さん、強いんだもん。
「ちょっと脈が速いわね。このポーズでいるのには無理があるのかしら」
「ええと……」
 口をもごもごさせるあたし。
(トイレのことを考えていたせいだと思う……)
 覚悟を決めて、目をぎゅ〜っと強く瞑って(眼をあけている分、恥ずかしさが増すような気がしたから)トイレを済ませると、またリラックスし始めたんだろう、急激な眠気に襲われた。
 うとうと。
 うとうと。
 生徒さんはあたしがこの姿勢で眠れるのか心配してくれていたらしいけど、あたしはごくあっさりと眠りの世界に導かれたのだった。

 朝眼が覚めると、手が痺れていた。
「そうそう、忘れていたわ」
 と生徒さん。
「背中に器具をつけて、筋肉が硬くならないようにちょこっと電流を流さないとね」
 ゼリーみたいなものを塗られたあと、ペタン、と吸盤を後ろにつけてもらった。
 正直、身体の痺れが辛かったから、これは有難かった。
 ピリピリと背中がくすぐったいけど、気持ち良い。また眠くなっちゃいそうだ。
 次は朝ごはん。昨日と同じようにおにぎりをもらった。あとは卵スープ。前日の体験から少しは手の動かし方が上手くなっていて、何とかスープをこぼさずに飲めた。
(でも難しい)
 この感じ、なんて言えばいいんだろう。やったことはないけど、二人場折をしているみたいだ。強めに口にあてがわれたり、ちょっと遠かったり。手だけ別人格があるよう。
 それから、また嫌なトイレタイム。生徒さんにお願いして一人にさせてもらっても、これだけは慣れそうにない。羞恥心が棒で突付かれている――そんな気分になる。

 後ろ側が見えないように上手く配置してもらって、個展初日を迎えた。
(バレないのかなあ)
 さすがに緊張してしまう。
 電流を流してもらって良かった、こんな気持ちじゃあ身体がいつもより硬くなってしまうもの。
 やがてポツポツとお客さんたちが来始めた。
 瞬きをしたら人間だってわかってしまうから、あたしは瞼を閉じることにする。
(これならドギマギしなくていいし……)
 でも時間が経つにつれて、どんな人が見に来ているのか想像がつくようになった。
 例えば今聞こえている足音。
 カツン、カツン――。
 これはハイヒールの音だから、こっちに向かってきているのは女性だとわかる。
「綺麗ねえ……」
 息がかかる程近くで見られているみたいだ。ため息みたいなものが胸にかかる。
(何だか恥ずかしい……)
(こんなにそばで……)
(気付かれたらどうしよう……)
 さまざまなことを考えて、身体が震えてしまいそうになる。
 息を飲んで――、
 カツン、カツン――。
 足音が遠のいていくとやっと呼吸が出来るのだ。
 ――たくさんの音があたしの前を通っていった。
 足を止める人、通過する人。
 そのたびにあたしは息を止めて、遠ざかる音を待つ。
 ――男性の足音と共に、声がひとつ。
「可愛いなあ」
 カッと身体が熱くなった。
 眼を瞑っていて良かった。あけていたら、きっと俯いてしまっただろう。
 ――子供も来ているみたいだ。
「おひめさまみたーい」
 小学校低学年くらいかな、滑舌がはっきりしてきた年頃の声があたしに向けられた。
「こら、静かにして」
 そんなお母さんの声までする。
 いいなあ、なんて思ったりして。

 この個展には昼休みがあって(多分、あたしへの配慮だと思う)、その間にご飯とトイレを済ませる。
 トイレは恥ずかしいけど、用を足す時間がない程辛いものはないから仕方がない。
 脈もこのときに測ってもらう。
 結構せわしないのだ。
 午後になるとお客さんの数は益々増えて、複数の足音が混じり出した。
 さっきしたばかりなのに、緊張のせいでまたトイレが恋しくなる。
(我慢、我慢……)
「涼しい〜」
 なんて言葉が入り口の方から聞こえてくる。
 確かにここは冷房がよく効いている。おかげであたしも汗をかいて人間と気付かれてしまうこともなく過ごせるのだ。
 ――筋肉が痛むことはなかったけど、夕方にはぐったりした。
「調子はどうだった?」
「大変でした……」
 ココアをもらいながら、あたしはため息をついた。
 思っていたよりも姿勢をキープするのが難しかった。石膏で固めて電気を流してもらっているとは言え、途中から筋肉の疲れを感じ始めていたから。手がプルプルと震えだしそうになるのを、肩に力を入れて耐えた。
 それにここは冷房がかかりっぱなしで、身体が冷えるのだ。
 バイトはあと二日残っている。その間に風邪を引いてしまいそう。
(病弱な訳じゃないけど、注意しなくちゃ)
 脈を測られるために手を生徒さんに差し出したとき――、
「みなもちゃん、手が冷たくなっているわねえ」
「はい、少し冷えたかもしれません……」
「かと言って冷房を切ったらここは凄く暑くなるからねえ……そうだわ」
 突然、生徒さんは“壁”に手をつけてあたしにくっついてきた。
「私があたためてあげる。今日は一緒に寝ましょう……」
 羞恥心があるけど、生徒さんの身体はあたたかくて気持ちが良くて。
 穏やかな気持ちで、あたしは瞼を閉じた。


 終。