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<東京怪談ノベル(シングル)>


『幸せのあしあと』



◆01

 丁寧に丁寧に生地を折りたたむ。中心がずれないように細心の注意を払ってまち針で止める。ここでミスをしてしまったら今までの苦労が水の泡だ。
「よっし。次は奥まつり縫いで……」
 神楽・琥姫(かぐら・こひめ)が今作っているのは、アンティーク着物の生地を使ったネクタイだった。ネクタイといえば社会人男性の必需品のような気がするが、生地と大きさを変えれば十分女の子のおしゃれ用品にだってなるのだ。いや、琥姫は仕事で男性用の服飾品を作ることもあるのだけれど、とにかく今作っているのは色も柄も大きさも女の子向けのものだった。
「………………」
 縫い針を操る琥姫の表情は真剣そのもの。いつだってそう、裁縫をする時の琥姫は全身全力で一生懸命だ。
「――……出来た。後は小剣通しを仕上げてかんぬき止めして……ってあれ?」
 仕事が一段落したところで、ミシン台の前の時計を見る。
「きゃああああ! 時間過ぎてるー!?」
 慌てて作業台の上を片づけはじめた。少しだけ迷ったが、作業途中のネクタイは丁寧に畳んで鞄に入れる。今日も大学の後にアトリエに行く予定だから、そこで仕上げてしまえばいい。
 バタバタと身支度をして、大きな姿見で今日のファッションチェック。うん、大丈夫、今日の格好も可愛いぞ。
「それじゃあ今日も琥姫、元気に行ってまいります!」
 姿見の脇にいる大きなぱんだのぬいぐるみに敬礼する。ぬいぐるみは片手をあげて、行ってらっしゃいと手を振って……はくれないけれど、代わりにこんな言葉を返してくれた。
『そんなこと言ってる間にますます遅れちゃうよ、琥姫ちゃん』
 もちろん、ぬいぐるみはしゃべらない。だからこの声は、琥姫が自分でアテレコしているものだ。本当はこんなやり取りをしている間にも走らなきゃいけないのだけれど、これは琥姫にとって毎朝の大切な儀式のようなものだった。
「そうだった! きゃあ、本格的に遅刻しちゃうー」
 そうして琥姫はあたふたと自室を後にするのだった。



◆02

 一生懸命に走ったが、やっぱりダメだった。1コマ目の講義は完全に遅刻だ。
「そっと、そうっと」
 ぬきあしさしあし、扉の開け閉めも慎重に。こっそり教室に入って空いている席を探す。小さくなりながらキョロキョロしていると、教室の一角を占めている集団が手を振っている。琥姫の大切な親友たちだ。彼らの元に小走りで近付くと、あらかじめ鞄をおいて取って置いた席を空けてくれた。
「ありがとね」
「いいのいいの。それより講義聞かないと。そろそろ教授もこっち気付くんじゃない?」
 これ今日の資料だって、と渡されたプリントを広げて黒板に向き直る。
 しかし、友達の忠告もむなしく琥姫はほどなくして睡魔と戦うことになる。昨日は軽く仮眠を取っただけでずっと裁縫をしていたのだから仕方ない。仕方なくても講義はきちんと聞かなくちゃ。えっと今先生が説明しているのはプリントの……どの化学式についてだっけ。
「うー」
 あくびをかみ殺して眠い目をこする。
 こう言う時は退屈な化学よりも、まず楽しいことを考えよう。
 楽しいこと。それはやっぱりトマトのこと。真っ赤に熟したトマトは本当に美味しい。アパートにもアトリエにもいつだってストックしてある。あ、そう言えば今朝はバタバタしてたから、自家栽培のプランターに水やりするのを忘れてきてしまった。一日くらい水をあげなくても枯れたりはしないだろうけど、味が落ちてしまったら嫌だな……。
 それから服飾のことを考えるのも大好きだ。今制作中のあの服、今日頑張れば出来上がるかな? 大丈夫。いざとなったら今日も徹夜したっていいんだし。後残っているのはスカートの仕上げと、そうそう今朝作っていたネクタイも。早く完成したところを見たい。きっと今回の服も可愛く仕上がるはず……。
 そんなことで頭をいっぱいにしているうちにいつの間にか講義は終わり、教室の中は移動をはじめた学生でがやがやしている。
「あれ?」
「琥姫ちゃん、今日もいいトリップ具合だったねー」
 クスクスと周りの友達から笑いがこぼれる。それは、決して悪意あるものではなく、普段と変わらない琥姫を可愛らしく思ってのものなのだが。
「むー、眠ってはいなかったよ?」
「でも頭がお留守だったでしょ?」
「それはそうだけど……」
 からかう声にシュンとなる琥姫だが、それで終わる琥姫ではない。おもむろにタッパーからトマトを取り出してかじり出す。それはいつもの光景なので、誰も驚かない。
「あ、そうだ琥姫ちゃん。今朝琥姫ちゃんが来る前に次の試験の説明があってね、プリントのこの辺、最重要事項だって」
 そう言って友達の一人が琥姫のプリントに赤線を引いてくれた。これは正直ありがたかった。大学も大好きな場所だが、実家から離れる口実として入学したことはどうしても否定出来ない。服飾と違ってどうしても苦手な分野というのもあるのだ。だから勉強するポイントを教えてもらえるのは、とても助かる。
「ありがとうー。これ、お礼のトマト」
「どういたしまして。でも、トマトはいらないかな」
 困ったように友達は苦笑する。
「遠慮しなくてもいいのに」
 いつもそうだ。琥姫は大好きなトマトをみんなに勧めているだけなのに、なかなか受け取ってくれる人はいない。こんなに美味しいのに。シャクリと3つ目のトマトを食べながら琥姫は残念がった。
「さ、そろそろ私達も移動しよう。琥姫ちゃん2コマ目も講義入ってたよね?」
「うん。今度は遅刻しないようにしなくちゃ」
 その通りだ、と笑い声が起こる。琥姫はタッパーを鞄にしまって、友人たちと一緒に教室を後にした。



◆03

 今日取っている講義は昼で終わりだ。2コマ目の講義の後、琥姫は友達への挨拶もそこそこに大学を走り出した。そのまま、キャンパス前のバス停から発車寸前のバスに飛び乗ってやっと一息つく。
 お昼は食べていないけれどトマトでいい。むしろトマトがいい。トマトだけ食べていられれば他に何もいらない、と言いたいところだが、残念ながら人間の身体はそうは出来ていないようで、「お肉や魚も食べなきゃダメだよ」といつも親友たちに言われていることを思い出す。
「でも、今日一日くらいはいいよね?」
 今日は出来るだけ早くアトリエに行って、どうしてもあの服を仕上げてしまいたかった。
 駅前でバスを降り、今度は電車に乗り換える。ガタンゴトンという電車の規則正しい揺れは忘れかけていた眠気を運んでくるけれど、今度も琥姫は眠ることは出来なかった。向かいの席に座っている女性がとてもおしゃれだったのだ。
 小物の使い方が気が利いている。派手になりすぎないように、でもちゃんとアクセントになっている。それに何より、メインに着ているワンピースが素敵だ。その人は、流行の服をきちんと自分流に着こなしている大人の女性に琥姫には見えた。
 琥姫の目的地より一つ前の駅で降りていったその人を目で見送って、琥姫は自分だったらさっきの服をどうやって着るだろう、と考えた。
 ワンピースの裾のアシンメトリーが素敵だったな。それを魅せるためにボトムスは手を加えない。その代わり上着を工夫しよう。袖もアシンメトリーになるように、でもあまり重くなりすぎないように……そう、シフォン素材のパフスリーブがいい。それから、琥姫は小柄だからサンダルはウェッジソール。何色がいいかな? アクセントになるように差し色、それともあえてベージュ系で足を長く見せるのもありかも。
 そんなことを考えていると一駅など瞬く間に過ぎてしまう。危うく乗り過ごしそうになり、琥姫は朝と同じように大あわてで電車を駈け降りる。
 改札を出てしまえば、アトリエまでは後少しだった。

「こんにちは、社長。琥姫、今日も元気に仕事をしにきました!」
 アトリエに足を踏み入れたら、まずはミシン台の上にいる大きなくまのぬいぐるみに敬礼をする。自室のぱんだと一緒だ。違うのは、このぬいぐるみには社長という名前が付いていること。
『うむ。今日も頑張りなさい、琥姫くん』
 だから、アテレコもちょっとだけ偉そうだ。
「さあ、今日は絶対仕上げまで行くぞー」
『昨日もそう言ってませんでしたか?』
「昨日は途中でちょっと脱線しちゃったからー」
 昨日は縫製の途中で突然新作のアイデアがひらめいて、そのデザイン画に時間を取られてしまったのだった。
『そう言いながら君が取り出しているそれは何ですか』
「あははー。ここに来る途中、おしゃれな人を見かけて……」
 一人二役をしながら、琥姫はスケッチブックを取り出していた。さっき電車の中で考えた服のアレンジ。あれを形に残しておきたい。
『まったく君は……』
 その社長の声を最後に琥姫はしばらくデザイン描きに没頭する。こうして描いたデザインはかなりの数になる。それらは実際に作ったものもあるし、まだデザイン画でしかないものもあるけれど、どれも大切な琥姫の宝物だ。
「でーきたっ!」
 素材の指定まで書き込んで、琥姫はスケッチブックを置いた。
 さあ、次は縫製だ。今日こそ絶対完成させるんだから。
 またも琥姫は無言で作業に熱中する。こういう時の琥姫の集中力はすごい。周りの物音が一切耳に入ってこない。何より、しばらくトマトを食べなくても平気だったりする。
 しばらくの間、アトリエの中にはミシンをかけたりしつけ糸を抜いたりという琥姫の仕事の音だけが響いていた。

 そして――。

「出来たっ! 出来ましたよ、社長!」
 マネキンに着せたプリーツスカートから最後のしつけ糸を取り去って、琥姫は飛び跳ねた。嬉しさのあまりに社長に抱きついたりもする。
『こ、こら、琥姫くん。暑いではないですか』
 そんなことを言いながらも社長の声も嬉しそうだ。琥姫が声を当てているのだから当たり前なのだけれど。でも、嬉しくて当然だ。ここしばらく掛かりきりになっていた服がようやく完成したのだから。
 今回作っていた服は女の子向けのカジュアル系。レイヤード系を好む琥姫にしては珍しくプレッピースタイルを取り入れている。
 とはいえそこはブランド『KOHIME』、随所に琥姫デザインらしさが現れている。たとえば今朝作っていたネクタイ。アンティーク着物の生地を使っているからかなり大胆な柄なのだが、それを見せるためにあえてU字ネックのカーディガンから外に出している。そのネクタイと同じ生地をスカートのプリーツの内側にもあしらっている。こうしてマネキンがきているとおとなしめだが、実際に着て歩くと鮮やかな色がちらちらと見えて可愛いはずだ。カーディガンにも工夫をしているし、インナーとして着ているブラウスももちろん手作りだ。
 上から下まで全て琥姫の手によって生み出された服。こうして自分で作った服をながめることは、トマトを食べる時と同じくらい幸せだった。
「そうだ! 早速明日、これを着て学校に行こうっと」
 いい考えだ。自分だけじゃなくて友達の評価も聞くことが出来る。
「そうと決まったらコーディネイトしなくちゃ。プレッピーにはやっぱり帽子だよね。キャスケットかベレーが定番だけど、あえて外すのもありかな……」
 そんなことを呟きながら、琥姫は社長を抱えてクローゼットへと向かう。
『琥姫くん、私をどこへ拉致しようと言うのですか?』
「いいからいいから。社長も一緒に小物選んで下さいよう」
『まったくもう……』
 そんなやり取りをしながらアトリエを横切る琥姫の目に、ふと窓の外の光景が目に入った。そこにあったのはあまりにも鮮やかな夕焼け。
「うわあ、綺麗……」
 そう言いながらも琥姫の声にはいつもの元気がない。
 東京の空。この空はもちろん実家まで続いている。色々と悲しいことがあって、考えることもあって神楽の実家を飛び出してきた。そのことは後悔していない。だから、今琥姫は家族と一緒にいることが出来ない。それも当たり前のこと。だけど、それは、やっぱりとても寂しい。
 夕焼けを見ているのが辛くなって、琥姫はうつむいてギュッとぬいぐるみを抱きしめた。ぬいぐるみはぬいぐるみ。琥姫がアテレコをしなければ、社長は何も言ってくれない。だから、何か言わなくちゃ、何か……このままじゃ、せっかくの嬉しい気持ちがどこかへ消えてしまうから――。
『ええと、あー、琥姫くん。その……私はトマトが食べたいのですが』
 結局社長の口から出てきたのはそんな言葉だった。思わず琥姫はぷっと吹き出してしまう。それは、いかにも自分らしいアテレコに対してか、もしも本当に琥姫を慰めてくれる相手がここにいたとしたらやっぱりそんなことを言うだろうと思ったからか、自分でもよくわからなかった。
「そうですよね、社長! こういう時はやっぱりトマトだよね!」
 だけど、どっちでもいい。大好きなトマトを食べれば、きっとまた元気になれるから。
 琥姫は引き返して社長をミシン台の上の定位置に戻し、冷蔵庫からトマトを大量に取り出した。社長が食べたいっていったから、社長の分も。普段の倍の量だが、これくらい琥姫にとってはどうってことない。むしろ、トマトを食べれば食べただけ元気が出るのだから、これでいいはずだ。
 ミシン前の椅子に座って、琥姫はトマトをシャクシャク食べる。良く熟した甘さとトマト本来の持つ酸味が絶妙にブレンドして美味しかった。
「うーん、美味しいー! トマト、最高!」
『そうですか、それは良かった』
 社長の声はとても穏やかだ。だから、やっぱりこうして正解だったのだ。

 今こうしてトマトを食べていることは今日の幸せ。
 目の前にある完成したばかりの服は、昨日まで頑張ってきた幸せの証拠。
 この服を着て大学に行く明日の自分はきっと幸せ。

 ひとつひとつはとてもささやかだけれど、全部繋げればきっと大きな幸せになる。それは昨日から今日、今日から明日に続く確かなあしあと。こうやって日々にあしあとをつけて琥姫は歩いていく。
 だから、もう大丈夫。私はとても幸せ。

「さあ、もう一回小物を選ばなくっちゃ!」
『ってやっぱり私を拉致するのですね』
 クローゼットに向かう琥姫の目に再び夕焼けが映る。今度は寂しくはならなかった。



 <END>