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<東京怪談ノベル(シングル)>


青満ちる世界

 夏季休暇前最後の課題を提出した日の夜、姫森優奈はお気に入りのボストンバッグに旅支度とカメラ、それから水彩の道具にスケッチブックを詰め込んだ。
 翌日の朝には東京駅を発ち、何処とも当てを決めない一人旅。乗り込んだ私鉄が都内を抜け、やっと空いた席に腰掛けながらふうと一息、優奈は思う。
 自分の出立はいつもこう。不意に、まるで攫われるかの様に無造作に、果ての見えない遠くへ引かれて、当て所ない道へと彷徨い出る。
 列車は灰色に林立したビル群を抜け、やがて、穏やかな曲線を持つ木々や丘の緑が車窓の外に流れ出す。終点と始点とを成り行きに任せ乗り継いで、県境や川を幾つも越えた。鉄橋を渡る時の、ごおお、という轟音と振動。眼下には、夏の日差しに煌く川面。硝子を散らした様なそれを見て、ふと、脳裏に言葉が過ぎる。
 自分も。────そう自分も、流れずにはいられない水の様。



 バイトのシフトが入っていなかったので、優奈には数日の猶予があった。
 在来線でゆっくりと南下し、気紛れその地へ降り立ち、宿を取り。しかし長くは留まらずにまた、流れ行く。
 梅雨は既に全国で明けていて、何処も日傘を手放せない快晴だった。とある駅のホームで空を仰げば、抜けるような青が視界の限りに広がっていて、白光。日輪の眩しさに思わず手廂、目を細める。

 ああ青があんなにも濃く、そして果てしなく。
 夏の日差しは命を謳い上げ、無限に夢幻に、目映い。

 そういえば聞いたことがある。日陰で暑気を遣り過ごしながら、不意に優奈は思い出す。
 何でも、海の青さは空のそれを映し取ったものだという。水平線の上から降り来る光を、鏡の様に映し、身に纏い。故にどちらも青いのだと────ならば、この世界は足の下も頭の上も、総て青色に染め上げられているのだと、確かその時感じながら、絵筆に青を含ませた覚えがある。

 澄んだ海の深い青。
 昼の空の抜けるような蒼。
 宵の刹那に現れる境の濃紺。
 それから、草木に宿る藍に。
 水滴る花弁の雫の露草色。
 輝石を彩る美しい瑠璃色。
 この世界に満ち溢れる、包み込む色────あお。

 そんなことを考えながら、列車を選んだせいだろうか。結果として、今回の旅の終着点となった場所へ優奈は辿り着いた。
 鄙びた、小さな港町の駅。一歩降り立った時より、波の音が絶え間なく打ち寄せていた。
 少し高台になっているホームから見下ろすと、空と同じ色の大洋が、湾に抱かれ広がる光景。都会では見られぬ明瞭りとした色彩に、優奈は一瞬見惚れた。

 ──── うみの、あお 。



 荷物と日傘をそれぞれ片手に、海へと下ってみることにする。
 海の傍まで山が迫っている地形のせいで、石造りの道と背の低い家の軒とが、その麓にしがみついている様な町だった。小路はどこも複雑に曲がりくねり、何度も袋小路に行き当たっては、踵を返させられる。
 また漁港があるせいだろうか、店の入り口や玄関先、果ては家と家の隙間道に至るまで、大小・色さまざまの猫を見かけた。人懐こいある茶虎などは優奈の足元にまとわりついて、なぁ、と見上げ啼いてくる。甘える仕草に、屈んで、喉を撫でてやる。
 すると、なぁ、ともう一声。細められた瞳が、三日月の様。
「可愛い」
 ふふ、と優奈の口元が緩む。猫はその後身を翻し、垣根を越えて姿を消した。移り気という性質、あれもきっと、水の様なものなのだろう。
 立ち上がり、石の階段を下っていく。つれて、波の音が大きくなっていく。両脇を軒の連なりに囲まれたそこを降りきると、突然ぱっと視界が開けた。
 思わず足を止め、息を呑む。先刻よりもずっと近く、目の前に海だ、海が見える。
 海岸線に沿って走る車道を横切り、下は崖になっているのだろう、設けられた柵ぎりぎりにまで優奈は進んだ。左手の汀はゆっくりと曲がりながら遙か彼方まで続き、右手は少し向こうで大きく海へと張り出している。その先端には真白な灯台、海を見守る瞳の背後に、同じく白い雲が浮かぶ。
 優奈は、荷物を緑鮮やかな草の上に置き、風に煽られる傘は閉じ、両手で柵を掴むと少しだけ身を乗り出した。
 潮風が、顔に当たって割れていく。
 潮騒が、鼓膜を震わし行きつ戻りつする。
 ふわ、と下から吹き上げた風に一瞬、飴色の髪が宙に泳ぐ。その力強さ、まるで浮かんでいるかの錯覚。
 誘われるように目を閉じた、大気を深く吸い込んで、肺を満たす。

 砕ける波濤、海鳴り。
 ────目を開けたらそこにはやはり、天にも地にも尽きることの無い、青。

 頭上で幾羽もの海鳥たちが旋回と上昇を繰り返している。きっとこの風に乗っているのだろう。
 その嘶きを波の音と共に聴きながら、優奈は足元の鞄を探り水彩の道具とスケッチブックを取り出した。カメラも出番を待ち侘び控えていたが、今は違うと、迷いなく絵筆を選ぶ。この景色は切り取るだけでは足りない、見て、凝視めて、自らの手で表現したいと思った──のかもしれない。
 飲料用にと買っておいたミネラルウォーターで絵具を溶き、青、だけではなく白も緑も紫も、海と空とに内包されている色総てを、優奈は慎重に画面の上へと置いていく。
 相変わらず風は強く、打ち寄せる音も啼声も途切れることが無い。
 陽射しのせいで絵の具の乾きが早い、しかし煌く取り取りの色味を再現したくて、水を少し多目に、色と色とが混ざり、出逢い、微妙な表情を生み出すように筆を走らせ。
「お嬢ちゃん」
 と、急に背後から声を掛けられ肩が跳ねる。
 過剰な反応を些か恥じながら振り向くと、にこやかな初老の女性が立っていた。普段着らしい姿から地元の人だと察する。
 何か、と尋ねると、女性は被っていた麦藁帽子を差し出して。
「これ、使いなさいな。こんな暑い中立ってたら、倒れちゃうからねえ」
 言われて、そういえば覆いのない頭頂部が随分と熱を持っていたことに漸く気付く。絵に夢中だったせいだろう、日射病という言葉を思考の埒外に放り出していた。自覚した途端、くらり、と眩暈。
 いいんですか? と確認すれば、女性は大らかな微笑で首肯する。見ず知らずの人からという戸惑いはあったが、これも何かの縁と思い直し、優奈は好意に甘えることにした。
「では、すいません、有難く使わせてもらいます。あ、いつお返しすれば」
「ああ、帰る時にでもそこ、足元に置いといてくれればいいよ。風で飛ばされないよう重石でもつけてね」
 それじゃね、と女性は手を振り立ち去った。
 その背を見送り、ぽふり、と帽子を被る。顎の下に紐を通し、親切な人だと感謝して、再び海と向かい合う。
 きっと、この大洋のせいなのだろう。凪いだ波の音を奏で続けるこの景色が、町も人の心をも、穏やかな温みで満たしているのに違いない。

 ──── …… だって私も、そう 。

 海は、優奈にとって特別なものだ。
 見ているだけで、不思議と心が安らぐ。そして何処か、懐かしさにも捕らわれる。在るべき場所に立ち帰ったかのような、親鳥の羽根に包み込まれたかのような、そんな感慨を海は優奈に抱かせる。
 流れ流れてここへ辿り着いたのも、ともすると、自身が求めての帰結だったのかもしれない。

 ざああん、ざああん。夏の澄み渡る空に、見渡しきれないほど大きな海。
 目の前の光景を鮮やかに描き出しながら、優奈は暫し、響き渡る緩やかな濤声に心を委ねていた。



「あらぁ、まだいたのかい」
 そんな笑い混じりの声が後ろから掛けられて、優奈ははたと我に返った。
 聞き覚えが、と首を巡らすと、何のことはない先刻の女性だった。彼女は優奈の横に並び、没しかけた橙の陽光に染まる海原へと視線を投げ────え?
「熱心に描いてると思ってたけど、こんな時間まで。よっぽどここの眺めが気に入ったんだね」
 ええ、と曖昧に返事をして優奈は苦笑した。
 描き出してから何度か場所を変え、違う角度から見える海を延々と映し続けていた。遠くを横切っていく白い船影の汽笛を聞き、また灯台の白を砕ける波の花の上に描き──。そうこうしている内に、いつの間にか随分と時間が経ってしまっていたらしい。今はもう夏の夕暮れ、陽射しも風も日中の熱を和らがせ、髪を靡かせるそれはむしろ、心地良いほど。
「……海が、」
 女性と共に海を臨みながら、優奈はぽつりと零した。
「好きなんです、見ていると落ち着くというか。それに青い色にも、自然と心が惹かれてしまって」
「ああ、確かに綺麗な青だ。嬉しいね、うちの景色をこんな風に描いてもらえて」
「……ありがとうございます」
 手元のスケッチブックを覗き込む女性に、優奈は少しはにかむ。それから気付いて、
「あの、これ」
 ありがとうございます、と帽子を差し出すと、彼女は目元に笑い皺を刻んでそれを受け取った。いいえ、どういたしまして。
「ところでお嬢ちゃん、見たとこ他所から来たみたいだけど、今日は何処に泊まるんだい?」
「あ……いえ、実はまだ決めていなくて」
 そういえばと眉を寄せた優奈に、彼女は一瞬きょとんと、それから豪快に笑った。
「何だ、あはは、じゃあうちに来るかい? 狭い所だけど、部屋からあんたの好きな海が見えるよ?」

 断る理由の無かった優奈は、女性の経営する宿に一晩お邪魔させてもらうことにした。
 彼女の言う通り、和室の窓の桟に腰掛けると、宵の紫がかった紺の海が一望の元だった。すう、と息を吸い込むと、ここですら潮の香を感じる。
 食事を摂り風呂に浸かり、清潔な浴衣に袖を通して再び窓へ。波の音は相変わらず打ち寄せていて、最早聴こえない静寂など忘れてしまったかの錯覚。夜の昏い海に一筋、月の光の道が神道の様に果てへと渡っていた。
 旅の疲れにか、優奈は早めに床についた。灯りを消し瞼を閉じると、もう世界は音だけ。故に一層、海の調べを強く感じた。
 ざああん、ざああん。まるで海に、抱かれて眠っているかの様な────。








  なりつづける、うみのおと。
  ふかいふかい、あおのおと。

  しっている、とわたしはなみだをうかべる。
  しっている、ほんとうは、おぼえている。
  なにを────いいえ、わからない。
  わからない、けれど、おぼえているの。

  ながれながれて、いくつものときをみずのようにながれ、すぎて。
  わたしは、あなたというみなとをめざし、もとめ、とどまれない。

  しっている、おぼえているの。
  ほんとうは、ずっと。

  ほおになみだがつうとつたう。

  わたしはきっと、しっている

  ────あなたを、おぼえている。








 覚醒は、波と共にだった。
 意識より先に音が聴こえて、ああこれは波の音、あれは海の音、そして私は────。
「……え?」
 薄く開いた瞼に違和感、瞬いて、頬に手を遣って気付いた。自分は、泣いていた。
 どうして、と問いかけても返ってくるのは波ばかり。夢を見ていたのだろうか、と記憶の糸を辿っても、既に引潮の様に遠ざかって掴めない。ただ手の内に感触だけが残っていて、それを優奈は「懐かしい」と感じた。
 懐かしくて、涙を零す様な夢。ぼんやりと思いながら身を起こす、そしてふと、障子の閉まった窓を見る。
 ────その姿勢のまま、動けなくなる。
「…………」
 ざああん、ざああん、と海が聴こえる。瞳が、見つめる色に染まっていく。
 白い和紙を透かして部屋を潤していたのは、見たこともないほどに清浄な、蒼く真青な光。
 あお、と一言呟いて────優奈は知らず立ち上がっていた。

 手早く着替え、駆け出す様にして宿を出た。時刻はまだ早朝にも満たぬ暁、視界が得られるほどには明るいが、陽は未だ稜線の向こうにいて昇ってきていない。
 こんな夜と朝との間に目覚めることは余り無くて、なので優奈は知らなかった。曙直前のこの時間、世界は、かくも青に染められているということを。
 人影は何処にも無い町の中を、優奈は足早に進んだ。石畳を歩いて、下って、無意識にそこと決めていたのだろうか、絵筆を執っていた場所にまで迷うことなく辿り着いた。
 昨日した様に柵を掴んで体を伸ばし、静かな明けの海を臨んだ。
 波は、穏やか。風は、涼やか。
 蒼穹の彼方を、黒く小さな鳥影が飛んでいる。その一点の黒を除いて、世界は全て青に満たされていた。
 海の青と空の蒼とが交わり、見分け難く、つまり今、世界は全て青の中に在った。

 青の波間に、世界が、自分が、浮かんでいた。

 ざああん、ざああん、と繰り返す、永遠の音に耳を傾ける。
 優奈は青を見ていた。青に包まれ、青に抱かれ、青の指先に髪を撫でられながら、無限に広がる青を見つめていた。
「……ちがう」
 呟いたのは無意識、何が違うのかわからないままに首を横に振る。さららと、曲線描く髪の先が揺れる。

 違う? ────そう、違うの。
 何が? ────だって、この青は。

「海が、空を映しているんじゃない」


 ──── しっている、おぼえているの 。


 ざん、と足の下で波が大きく砕けた。
 命の源より吹き上げる風が、身体を突き抜けていく。
 青い風が、自分を、海から生まれた命の世界を満たす。

「空が、海を映している。海が……空をも染めているのよ」

 自分の言葉に頷いて、それきり。
 やがて昇り始めた金の光。東雲色の金環が空を朱に染めていくまで、優奈は暫し、青満ちる世界を見つめていた。


 了