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『君と歩く夏の小径』
◆01
「ねえ、ジェフ」
冷蔵庫の中身を眺めながら今日の夕食のメニューを考えていたジェフ・チェンに、マリア・リュウが後ろから声を掛けた。
「え……あ、な、何、マリア?」
考えに没頭してマリアの気配に気づかなかったにしては大げさすぎる反応だが、ジェフの驚きというかおびえにはきちんと理由がある。マリアがキッチンに立つとき、それは九割九分での確率で食材や酷いときにはキッチン自体の破壊を意味するのだから。
そんなジェフの心のうちを読んだかのように、マリアはぷうと頬をふくらませた。
「なによ、そんなにおびえなくたっていいでしょう? 別に今日は料理しに来たわけじゃないんだから」
その言葉にほっとジェフは胸をなで下ろした。そんな様子にマリアは更に怒りを募らせたりするのだが。
「もう! せっかくいい話をしに来たのに、そんなんじゃ教えてあげないんだから」
「ごめんごめん。それでなんだって?」
ジェフは両手を合わせて頭を下げた。こんな仕草が自然に出てくるくらいにはジェフもマリアも日本の生活になじんできていた。
「聞きたい? どうしても?」
どちらかといえば自分が言いたそうに目をキラキラさせながら、マリアはそう聞いてきた。ここで意地を張ってみせるほどジェフは子供ではなかったし、自覚はないがマリアに対して甘くもある。
「どうしても聞きたい。お願いだから教えてくれよ」
もう一度手を合わせて拝む真似をする。そのジェフの様子に満足したのかマリアは一つうなずいて、内緒話をするようにジェフの耳に顔を近づけた。耳をくすぐるマリアの吐息に少しどぎまぎしながらも努めてそれを表に出さないように気をつけて、マリアの言葉に耳を傾ける。
「あのね、今日の夜、近くの神社でお祭りがあるんだって」
マリアが教えてくれたことは言われてみればジェフにも聞き覚えがあった。確か、クラスメイトが今日学校で話していたのだったか。
「ああ、何かそうらしいな」
「ね、ジェフ。面白そうでしょ? 行ってみない?」
母国とは全然様子が違うであろう日本の夏祭りにはジェフも確かに興味があった。
「そうだな……じゃあ晩飯の後にでも顔を出してみるか」
「ああ、違うの。夜店がたくさん出ていて、そこでご飯も売ってるんですって。色々売ってるからお腹はへらしていった方がいいってクラスの子達が教えてくれたわ」
「へえ……じゃあお金を持っていった方がいいんだ」
「うん。小銭がたくさんあると楽なんだって」
ピンポーン。
そんな風に出かける相談をしているところで、二人が暮らしている離れのチャイムが鳴った。
「あら、誰かしら?」
「――あ!」
マリアはこんな時間に尋ねてくる人がいるなんて珍しいと首を傾げていたが、ジェフには心当たりがあった。
「よう」
入ってきたのはジェフの予想していた通り、草間武彦だった。
「草間さん! いらっしゃい」
予想していなかった珍客にマリアははしゃぎ出す。
「そうだ! 草間さんも一緒に行きませんか?」
そんなことまで言い出したマリアに草間は困惑顔だ。
「行くって、お前ら、こんな時間に出かけるのか?」
草間は別に二人の保護者ではないが、ジェフの師匠から二人のことを頼まれている身である。高校生の夜遊びは感心しないぞと眉を顰めた草間に、ジェフは事情を説明した。
「今日、近所で夏祭りがあるらしくって、日本のお祭りは初めてだから二人で見て回ろうって話してたんですよ」
「何だ、夏祭りね。それじゃあ、まあ夜出歩くのも仕方ないか」
「ね、ね、面白そうでしょう? 草間さんもお時間があったら一緒に行きましょうよ」
無邪気にマリアは草間を誘うが、草間は苦笑して手を振った。
「いや、俺はいいよ。せっかくのデートなんだから二人で楽しんでこい」
『デート?!』
思いもかけない草間の言葉に二人の声が思わず重なってしまう。共同生活を初めても相変わらずな様子の二人に、草間の苦笑が深くなる。
「男と女が二人きりで出かけるんだからデートだろ。まあお前さん達はいつも一緒にいるからそんなつもりはないのかもしれないけどな」
傍目には間違いなくカップルと見えるだろう。ましてやこの二人の容姿だ。人目を引くことは間違いない。そんなことには全く思い至らないのだろう、デートという言葉にそれぞれ顔を赤くしている二人を草間は優しそうな目で見つめた。
「そういうことなら俺は帰るよ。邪魔して悪かったな」
そう言って草間は踵を返そうとした。
「あら? でも、じゃあ草間さんはそもそもどうしていらっしゃったんです?」
そんな草間の背に罪のないマリアの問いが降りかかる。う……と言葉に詰まって草間とジェフは顔を見合わせた。
草間が香楓院を訪れた理由ははっきりしている。しかし、そのことはマリアには聞かせたくない。
「――……マリア。祭りに行くなら制服のままってわけにはいかないだろ? 着替えて来いよ。草間さんの話は俺が聞いておくから」
「そうだな。まあ別にたいした用事でもないから、ジェフ一人に話せば済むことだし」
「……そうなの?」
指を頬に当ててマリアは首を傾げたが、そんなマリアをジェフは自室へと追い立ててしまった。マリアはもう、とまた頬をふくらませていたが祭りに行けば機嫌が直るだろう。
「良いのか?」
「……マリアには聞かせられない話ですから」
そうして二人は向き合って話し出す。
「あの件、に関してですよね」
ジェフが草間に頼んでいたこととは、ジェフが来日した目的でもある親の仇の一族についてだ。だから、マリアには絶対に聞かせたくなかった。これはジェフ自身の問題で、絶対にマリアを巻き込んではいけないことなのだから。
「そうなんだが……ちょっとした立ち話程度で済む事じゃないな。お前がこの前感じた視線の件もあるしな。日を改めて出直すよ。マリアがいないときの方がいいのか?」
「はい……巻き込みたくありませんから」
ジェフの真摯な表情を見て、草間はふうと嘆息した。
「お前のその姿勢は立派だけどな、あまり一人で抱え込むなよ。マリアだって相当な使い手なんだろ? 自分のことは自分で守れるさ。それに――一番近くにいる人間に大切なことを隠している、隠されているってのは、結構辛いもんだぞ」
「わかっています」
そう言いながらも頑ななジェフの頭を草間はポンポンと撫でてやる。全くしょうがない子供だ、とでも言うかのように。
「今すぐじゃなくても良い。マリアが大事なら、俺の言ったことの意味もよく考えてみろよ」
「はい……」
そうしているうちに、マリアが私服に着替えて部屋から出てきた。そのマリアの姿を見て、草間は首を捻る。
「お前ら、その格好で夏祭りに行くつもりなのか?」
その言葉にジェフとマリアはお互いの服装を見直した。別に、どこかおかしいところがあるわけではないと思うが、草間は何か言いたいのだろう?
「そうか、初めてなんだもんな。よし、せっかくだから、お前ら祭りに行く前に俺の興信所に寄っていけ。確か若者向けで、別に怪奇絡みじゃないやつがあったはずだから」
草間の言葉の意味がわからず、きょとんとしたまま顔を見合わせた。
◆02
「草間さんが言ってたのはこういうことか」
はふうとジェフがため息をついた。
今ジェフが着ているのは、学校の制服でも私服でも修行用の道服でもなく、日本の伝統的な衣装の一つ、浴衣だった。せっかくだから、と草間が貸してくれたのだ。
「しかし、どんなもんなんだろうな、これ」
一人呟いてジェフは自分の姿を見下ろした。
草間がジェフに貸してくれたのは、紺無地の浴衣に茶色の角帯。一件地味そうだが、若いジェフが着るとどこかストイックでシックにも見せてくれ、かなり似合っている。似合っているのだが、しかしジェフには自分ではそれがわからない。そんなわけで、ジェフはどこか不安な気持ちになるのだった。
それになかなか現れないマリアのこともある。元々男より女の方がおしゃれに時間がかかるのは当たり前だが、それにしても時間がかかりすぎではないだろうか。ジェフが先に草間興信所を後にしたときも、マリアが着替えに借りていた奥の小部屋からは「えっと、この紐をここで結んで……」だの「帯をここで裏返して……あら?」などと悪戦苦闘する様子が聞こえてきていた。
「マリア、大丈夫かなあ……」
家事以外のことは大抵そつなくこなすマリアだが、着物の着付けは家事にはいるのだろうか? だとしたら草間興信所に甚大な被害を出していないと良いのだが。いやいや、普段の身支度はマリアだって普通にしているのだから、ちょっと着慣れない服を着るくらいではそんなことあるはず無いだろう――。
そんなふうに悶々と考えて込んでいるジェフの前で、からんと下駄の音がした。その音にジェフが顔を上げるとそこには艶やかな色の浴衣を着たマリアが立っていた。
「マリア……」
「お待たせ……えっと、どう? どこか変じゃない?」
マリアの浴衣は鮮やかな茜色を基調にむら染めにしたものだ。金色の半幅帯は途中で折り返していて、そこにも鮮やかな赤が見えている。帯の上に浴衣と同じ色の牡丹をかたどった帯飾りを付けていて、それもまた華やかだ。髪もいつものお団子に後ろを下ろしたものではなく、全部を結い上げてこれまた赤いダリアの花がついたかんざしを挿している。一筋だけまとめずに流した髪が彼女のうなじの白さを際立たせていて、普段より大人っぽく見える。そして、何よりも特筆すべきは、それらの華やかな衣装に負けないマリア自身の美貌だろう。
そんなことをつらつらと考えていたジェフの沈黙をどう受け取ったのか、マリアは顔を赤らめて下を向いてしまった。
「やっぱり変かしら。草間さんのところにあった本を見ながら一生懸命着たんだけど、日本の浴衣って着方も難しくてね、髪も結い上げるのがお作法みたいだからこんなふうにしたんだけどでもいつもと違って首筋がすーすーするの。やっぱり私にはまだこんな髪大人すぎて似合わないわよね。後はね――」
「変じゃない」
他にも何か色々言いたそうなマリアの言葉を遮ってジェフはきっぱりと告げた。
「似合ってるよ。すごく」
それは紛れもないジェフの本心だったのだが、マリアはそれを聞いてかあっと更に顔を赤くしてしまった。
「そうかな」
「そうだよ」
「えっと……ジェフも、すごくよく似合ってる、浴衣」
うつむき加減のマリアにそう言われて、ジェフも思わず赤面してしまう。
「――……うん、じゃあ二人そろったし、早速祭りを見に行こうか!」
「――……そうね! せっかくなんだから楽しまなくっちゃね」
お互いの照れを隠しながら、努めて明るく二人はそう言って人混みにあふれる夜店の中へと繰り出していくのだった。
まず二人が食べたのはお好み焼き。これは食事をしないで行くと言ったら、草間が薦めてくれたものだった。草間曰く「お好み焼きなら、たこ焼きと違ってタコが入ってないってことはないし、腹もちょうどよくふくれるしな」とのことだが。
「美味しいね。ジェフ」
「うん、このソースがいつもうちで使うと違ってまた……」
料理の得意なジェフはどうやったらこの味が出せるのかと思案している。
次にマリアがほしがったのはリンゴ飴だ。これがほしかった理由は単純。ただ単に見かけが可愛かったからだ。しかし、小さなリンゴを綺麗な赤い飴で包んだその菓子は、マリアが着ている浴衣の色にも似合っていたし、味も飴の甘さとリンゴの酸っぱさが絶妙に混ざり合い、これまた美味しかった。
屋台のおじさんに呼びかけられてゲームも色々と挑戦した。とはいえ、特にジェフの運動神経で本気を出したら、輪投げや射撃などでは商品を根こそぎ持ち帰ることになりかねないので、そこはうまく調節したがそれでも戦利品はかなりの量となった。
そんな中でマリアがひときわ興味を示したのは金魚すくいだ。
「きゃあ、ジェフ。この金魚可愛い! うちで飼いましょうよ」
「飼うって、ちゃんと世話しなくちゃいけないんだぞ」
「わかってるわよ」
「そもそもすくえなきゃ持って帰れないんだからな」
「わかってるってば……えいっ!」
ジェフの言葉を聞き流しながら、マリアは薄い紙が貼ってあるすくい網を水の中に入れる。
「やだ、逃げられちゃった。もう一回、それ……あら?」
はじめに勢いよく水へと入れすぎたのか、マリアのすくい網はいとも簡単に破れてしまった。
「もー、こうなったら絶対すくってやるんだから!」
息巻いて「おじさん、もう一回!」と言っているマリアの姿にジェフはため息をついた。ほんの少しの呆れと大きな安堵を込めながら。そうだ、格好が大人っぽくても、これはやっぱりマリアだ。
「どれ、貸してみろよ」
そう思ったらなんだかおかしくなって、ジェフも金魚すくいに挑戦してみることにする。マリアからすくい網を受け取って浴衣の袖をまくった。
「どいつがほしいんだ?」
「あ……えっと、あ、あれ、あの子。あの赤くて元気な子!」
金魚なのだから赤いのは当たり前なのだが、それでもジェフはマリアがどの金魚を指したのか理解してねらいを定める。
「それっ!」
「やったあ! ジェフ、すごいすごい!」
ねらい通りの金魚をすくい上げ、マリアが歓声を上げる。その声に周りの客も金魚すくいの屋台へと近寄ってくる。
「もう一匹いけそうだな。マリア、どれが良い?」
「え、いいの?」
マリアの言葉に屋台の店主は笑顔でうなずいた。基本的に金魚すくいはすくい網の紙が破れるまでは何度でも挑戦出来ることになっている。
「じゃあね、今度は黒い子」
「出目金か……お、こいつがすくえそう――」
一度目に比べると紙ももろくなっているので、ねらいは慎重に。出来るだけ水面近くに浮かんできた時をねらってそっとすくう。紙が破けるすんでの所で受け皿に移して、ジェフは見事二匹目の金魚を獲得した。
「やー、おめでとさん。可愛がってやってくれよ」
店主が紐の付いたビニール袋に二匹の金魚を入れてくれた。
「しかし何だな、ちょうどその二匹、嬢ちゃんと坊みたいじゃねえか。お二人さんみたいに仲良く出来そうだなあ」
その言葉にジェフ達は二人そろって顔を赤くする。
「仲良くって、別に俺たちは……」
「そうです! それに、どうして私たちみたいだなんて……」
「簡単だよ、あんた達の浴衣だ」
「あ」
店主の言葉に二人は互いの浴衣姿をふたたび見つめ合った。紺色のジェフと茜色のマリア。確かに、ジェフがすくった金魚の色と同じだ。
◆03
「あー楽しかった」
「おい、あんまり振り回すなよ。金魚がかわいそうだから」
「こっちの手はそんなに振ってないもん」
お祭りの熱気が抜けないまま、二人で楽しそうに話しながら夜道を歩く。草間興信所に借りた浴衣を返しに向かう途中だった。祭りの会場からはだいぶ離れてきたが、まだ道沿いにぽつりぽつりと屋台が出ている。マリアはふらふらとそれらの屋台を一軒一軒のぞき込みながら歩くので、追いかけるジェフは大変だ。
ちりんちりん。
そんな二人の耳に涼しげな音が響いた。何の音だろうと見回してみると、少し行った先に風鈴屋が店を開いていた。
「風鈴かあ。日本の夏の風物詩よね」
そんなことを良いながら、マリアは風鈴を見にその店へと近づいていった。
「まったく……まだ見るものがあるのかよ」
そう言いながらも、ジェフの顔にも微笑みが浮かんでいる。マリアが楽しそうにしているのは嬉しかったし、何よりジェフ自身がこの夏祭りをとても楽しんでいた。つり下げられた風鈴を物色しているマリアをジェフは優しく見つめていたが、ふと視線を感じて振り向いた。
そこに立っていたのは、藍染めの浴衣に赤い半幅帯を結び、髪は長くつややかな黒髪をまっすぐ下ろしている美少女だった。肌は色白で黒目がちな瞳が印象的な、いかにも大和撫子といった風情だが、あいにくジェフにはまったく見覚えがない。
その少女はジェフからの視線に気づくと、たおやかに微笑んで見せた。
「誰だ……?」
思わず誰何の声を上げるが、この距離で彼女に届いたかどうかはわからない。
「ジェフー!」
と。マリアが自分を呼ぶ声が聞こえ、思わずそちらの方へと顔を向ける。
「ねえ、うちにも一つ風鈴飾りましょうよー」
だから一緒に選ぼうと自分を呼ぶマリアにいま行くと手を振って、ジェフは先程の少女をもう一度見た。しかし、少女は既にもうその場所には居ずに、辺りを見回しても見あたらない。
訝しみながらもあまりマリアを待たせるわけにはいかずに、ジェフは風鈴屋へと足を運んだ。
「これかこれが可愛いと思うんだけど、どっちが良いかしら?」
無邪気にマリアは風鈴を選んでいる。ジェフは、そんなマリアに今の少女のことを話そうかと一瞬だけ迷った。草間に先刻言われた言葉が蘇る。
『一番近くにいる人間に大切なことを隠している、隠されているってのは、結構辛いもんだぞ』
しかし――やはり、彼女に心配はかけたくない。出来る限りマリアには危険から遠いところにいてほしい。だからジェフは、口を噤んでマリアと一緒に風鈴を選ぶ。
「そうだな、俺はこっちの方が好きかな……」
マリアにはずっとこうして笑っていてほしいから。
だから、今はまだ話せない。
ちりんちりんと嬉しそうに風鈴をならすマリアの姿を見ながら、ジェフは隠し事をすることに決めて一緒に夏の夜道を歩いていった。
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