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【歪みの館】地下迷宮へ
「歪みの館へようこそ。……と、お客様。ちょうど良いところへいらっしゃいました」
霧雨が降る肌寒い日の事。偶然か必然か、貴方が辿り付いたのは霧に包まれた古い館。
窓枠や屋根が奇妙に捻じ曲がり、所々に不可解な文様が浮かんでは消える。
「実は昨日、私の飼っていた獣が逃げ出してしまって。……人の希望を餌にしておりまして、性格も最悪で戦闘能力もそこそこ。美しいのは見目だけ」
貴方を出迎えたのは青色をした小さなトランプだ。次々に変わる数字とスートはトランプなりの表情といったところか。
やれやれ困ったものだと、芝居がかった仕草で溜息をつく。
「どうやら逃げ込んだ先は……地下迷宮。捕獲の為、どうぞお力をお貸しくださいませ。必要なものがあればご用意致します」
そう言ってトランプはゆるりと一礼をすると、重々しい館の扉を開いた。
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「や。久しぶりだね、トランプさん」
「これはこれは鎖姫様。またお会いできて嬉しく思いますぞ」
入り口で客人を出迎えたトランプはゆるりと礼をして、短い挨拶を述べた。
館の中は相変わらず。逆さまに掛けられた絵画、踊る人形、欠けたティーカップが宙を舞い、哀色の唄を歌う。現実離れした空間でありながら、どこか懐かしさを感じる空気があるが、そんな感覚を鎖姫は不快とは思わなかった。
「今日はお礼も兼ねて獣の捕縛、手伝おうと思って。迷路とかそういうのは割と好きなんだよね」
鎖姫の肩にひょいと飛び乗り、トランプは地下迷宮の扉まで案内をする。黒い扉は呪符で何十にも封印されていたようだが、今は解かれているようだ。引き裂かれたような符と、鋭い獣の爪痕が扉に残されている。
「それで…獣、って言うけど、具体的にどんな容姿なのか、教えてもらってもいいかな」
「はい。黒い体躯に赤い眼、一見すると猫のようですが大きさは……豹並みに。爪と牙にはお気をつけくださいませ。私も何度か遊び相手をした事がございますが、力加減というものを知らないようで……身体を取り替えねばならぬ程でした」
トランプが小さく何かを唱えると、扉がゆっくりと開かれていく。中は薄暗いが、歩けない程ではない。月明かりのある夜、といった明るさだ。迷宮の名を冠するだけあって、細い通路がどこまでも続いている。時には右に曲がり、時には左に曲がり、真っ直ぐ行ってもすぐまた分かれ道。壁に手をついて歩けば、いつかは出口にたどり着ける。そんな迷路の常識さえ、此処では疑がってしまう。同じような角を幾つも過ぎると、時間の感覚さえおかしくなってくる。自分という存在が迷宮という大きな口に飲み込まれていく気がして、鎖姫は眉を寄せた。風さえも通らない閉鎖空間は身体に、そして精神にも毒だ。
押し潰されそうな心の中で不意に浮かび上がってきたのは、金という一色だった。柔らかで暖かく、光を放つ宝石。何故かその瞬間、すっと身体が軽くなる。正確にいえば、足の疲労も頭の奥に感じていた鈍い頭痛さえも、溶けるようになくなってしまった。
同時、どこからともなく、地の底から響くような声が耳に届いた。そう遠くはない。
「鎖姫様……」
肩に乗ったトランプが緊迫した様子で小さく告げる。
「わかってる、その為に僕がいるんだから」
薄闇の中から姿を現したのは黒き猫だった。猫と表するのは体躯が大きく、赤き瞳には物騒な光を宿していたが。
どうやら空腹らしい。獣らしい低い唸り声を立て、今にも飛び掛って来そうな勢いだ。
「どうしようかな。傷オッケー?」
「死なぬ程度でしたら」
トランプを一旦床に降ろし、その手で鎖姫は小振りのナイフを取り出す。手に馴染ませるようにくるりと回し、銀色の刃をゆったりと構えた。
「おいで、ちょっとだけ遊んであげる。たまには身体動かすのも悪くない、かな」
その一言を合図にして、獣と鎖姫との攻防が始まる。
しなやかな身体が跳躍し、その白い牙が喉元を狙う。柳のような動きでひらりと避けた鎖姫は片手に持ったナイフで獣の後ろ足を切り裂く。目的は切り伏せることではなく、動きを封じ捕獲すること。
人間と同じ赤い血が飛び、鎖姫の腕を少しだけ汚すが両者動じた様子はない。低く構え、先に動いたのは鎖姫だった。片腕を薙ぎ、獣の背中へ一本の赤い線を描く。
「鍵師の仕事、見せてあげるよ。痛くしないから、ちょっとだけ我慢して」
床に捨てられたナイフ、響く乾いた音。獣が訝しげに唸るのと、鎖姫が「鍵」を使ったのはほぼ同時だった。
かちゃり、と小さく確かに響く金属音。空中に突如として現れた鍵穴、差し込まれる黒色の鍵。驚き色を浮かべたまま氷のように動きを止める獣。鍵師の仕事は流れるが如く、まさに一瞬だった。
「お見事でございます。……こうして見ると、まるで赤子のようですな。こうしていつも大人しくしていれば、私も少しは楽をできるというものなのですが……」
傍らで一匹と一人の攻防を見守っていたトランプが進み出、溜息混じりに呟く。困った子だと零しながらも、獣に向けられる眼差しは酷く優しい。
「一応怪我治しておくね」
大した怪我ではないが、そのままにしておくのも気になってしまう。
鎖姫は「鍵」をもう一度手に取り、獣が怪我をした部分の鍵を開ける。一瞬にして魔法のように傷は塞がり、後には流れた血が床を汚すだけだ。
「お心遣いありがとうございます。この子は後で館の者に運ばせましょう。黒影も白執事も暇を持て余しているようでしたから」
トランプは一度だけ獣の頭を撫でるような仕草をして、鎖姫を上の屋敷まで案内した。
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「それにしても鎖姫様は探しモノがお上手でございますな」
「まぁ……何かを探しながら彷徨い歩くのは、人生でよくやってるわけだし、ね」
白い素地に淡い花柄のテーブルクロス。砂糖漬けの果実を練り込んだパウンドケーキにチョコレートクッキー。二人が上に戻ると、タイミングを見計らったようにお茶の用意が始められ、断る理由もなく席についた鎖姫は陶磁のティーカップからお茶を飲み始めた。紅茶とも似ているが、記憶にない不思議な香りが鼻先をくすぐる。
「それにしても、人の希望を餌に、ね……割と悪食だね」
「あの子が姿を現したのはきっと、鎖姫様のおかげでしょう。随分腹をすかせていたようでしたので」
「僕の?……どうして」
希望、とやらが自分の内にあるのだろうかと首を傾ぐ。心当たりがあるような、ないような。どちらともない曖昧さが恐らくこの問いの答えだ。
「私は現の人を捨てた身。絶望することがない代わりに、希望という光を宿さぬのが我が心。……しかし希望無しに人は生きられません。だからこそ、「私たち」は貴方様のような強い光に惹かれるのでしょう」
コト、とカップを置いて鎖姫がほんの微かに笑む。
「死に至る病、か。それはそれで良い気がするけど、……やっぱりダメだね。まだそんな気分じゃない」
「はい。それこそが館と現実を分ける境界線。歪みの館、その本質にございます。――つまらぬ話は捨て置き。さて、お茶のお代わりは如何ですか」
見るとカップは空になっていた。小さく頷きカップを差し出すと、控えていたポットがふわりとお茶を注いでくれる。
いつの間にか雨は上がり、窓の外には虹が掛かっていた。明けない夜はないように、全ては流れるように変わっていく。雨上がりの空を漂う白い雲を眺めながら、鎖姫は何枚目かのクッキーに手を伸ばした。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2562/屍月・鎖姫/男/920歳/鍵師】
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■ ライター通信 ■
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ご参加ありがとうございました。お待たせしてしまって申し訳ありません。
今回も鎖姫様の「鍵」能力を描かせて頂きました。如何でしたでしょうか。
またのご縁を祈りつつ、これにて失礼致します。
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