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<東京怪談ノベル(シングル)>


     桜のアリバイ―後日談―

四月十二日
 画家から依頼を受けた。女性。先日の殺人事件で被害者となった男の友人らしい。報道では容疑者は少年ということになっており、彼女はその少年に心当たりがあると言う。明日会って詳しく話を聞くつもりだ。
 殺人事件:発生時刻は深夜二時過ぎ。被害者は男、友人の画家の絵を売り、その仲介料で暮らしていた。容疑者は少年。目撃証言あり。警察が捜索中。

四月十三日
 依頼人に会った。彼女の話では、友人の男を殺したのは『桜の下に出る幽霊』だという。男が死ぬ直前に依頼人に電話をかけてきて、「一本桜に……。」と言ったらしい。画家はその言葉から、犯人は桜の幽霊だと思っているようだ。警察にも話したらしいが相手にされなかったと言っていた。だからおれに依頼が来たのだろう。おれも幽霊はこの目で見るまで信じないが、依頼人の言葉は信じるつもりだ。明日、件の桜を探しに行く。

四月十四日
 目的の桜は見つからなかったが、昔の同僚である警察関係者から事件の詳細を聞くことができた。犯行現場は桜の花を散らしたように血が飛び散っていて、凄惨なものだったらしい。自殺や事故であると断定できるような痕跡は見つからなかったようだ。遺体には、鋭い爪によって力ずくで引き裂かれたような五本並列の傷が無数にあったという。もしこれが『手』によってついたものなら人間業じゃない。警察は、傷跡から自殺はあり得ないと判断したようだ。そんな傷を負いそうな危険物も現場にはなかったという。事故でもないと判断した警察は凶器を断定できないまま、殺人事件として(犯人が凶器を持ち去ったと考えることにして)調査をしているが、倒れた男の傍で少年を見たという目撃証言以外、有力な情報は得られていないようだ。目撃された少年が手で(あるいは何らかの武器で)男を殺したのなら、返り血を浴びているはず。そんな格好で歩いていたら人目につくだろうに、他の目撃者がいないところをみると本当に幽霊だったのだろうか?

四月十六日
 『容疑者』である桜を見つけるのに三日もかかってしまった。だが、代わりに優秀な協力者を得た。海原(うなばら)みなもという少女。利発。しかも可愛い。桜の幽霊にも会うことができたが、犯人ではなさそうだった。アリバイはないが動機もない。
 桜の下に封筒が隠されているのを発見。差出人は死んだ男、宛名は画家だった。みなもと共に画家に届ける。手紙の内容は、死んだ男の画家に対する謝罪と告白。男は画家に言った値段の倍の額で実際は絵を売っていたらしい。それを悔いて手紙を残し、着服した金を振り込んだ銀行のカードを同封していた。その封筒の在り処を死ぬ前に教えようと画家に電話してきたようだ。奇しくも、男は告白と謝罪の手紙を残し、街を去るところだった。
 犯人は、みなもの推理では画家が描いた絵だという。画家も男の不正には薄々気づいていたというから、魂のこもった絵が彼女の代わりに復讐したとしても不思議はないかもしれない。おれが今まで知らなかった(信じていなかった)ものは確かに存在している。何しろおれは、あの桜の下で幽霊だって見たのだから。

五月二日
 画家から連絡。昔、桜の幽霊を見た時に描いたという古い絵が、アトリエから消えているのが判ったとのこと。どうやら本当に『絵の中の少年』が男を殺したようだ。画家は落ち込んでいたが、新しく絵を売ってくれる人間を探してほしいと言ってきた。自分で取引をするのは苦手らしい。いくつかの画廊と交渉してみると、彼女のことを知っている画廊が良い値段で買い取ることを承諾した。今後はその画廊で個展も開くことになるだろう。痛ましい事件ではあったが、良い方向に向かっているようだ。あれからみなもに会う機会がないのが残念だが、バイトが忙しいようだから仕方がない。いつかまた会う機会もあるだろう……。



 桜が一本だけぽつりと立つ広場へみなもが足を踏み入れると、そこには思った通り雨達圭司(うだつけいじ)の姿があった。会うのは久しぶりだったが、相変わらず冴えない風貌で、のんきにぶらぶらしているようである。もっとも、みなもの方も多忙な日々には変わりなく、出会った頃と同じように知人と会えるのは悪くないことのようにも思えた。
 みなもは青と白の制服を爽やかにひるがえし、雨達の下へ歩み寄る。相手もそれに気づいて持っていた手帳のような物から顔を上げると、そこに明らかな喜びの色を浮かべ盛大に手を振った。
 「お久しぶりです、雨達さん。」
 みなもがそう言うと、雨達も「ああ、本当に久しぶりだ。」と明るい声をあげた。
 「相変わらずバイトで忙しいのかい? あれから会う機会もなかったしなぁ。今日はバイトがないのかな。まさか、おれに会うためだけに来たわけじゃないよな?」
 雨達は矢継ぎ早にそんなことを言い、久方ぶりの再会に興奮しているようだった。その言動に何やら懐かしさに似たものを感じ、みなもも笑顔を見せる。それから少し口調を硬くし、こう切り出した。
 「雨達さんに会いに来たのは本当ですけど、どうしても気になる点があるので、専門家――雨達さんのご意見をお聞きしたいんです。……相談料金はあまり出せませんけど。」
 「友人からそんなもの、取るわけがないだろう?」
 心外だというように雨達は言って、その太い眉を寄せた。そして、ふと思い当たったかのように言葉をつぐ。
 「もしかして、あの事件のことか?」
 雨達のこの言葉に、みなもは無言で頷いた。自称探偵は頭をかきながら、
 「おれはあまり細かいところに気がつく性質じゃなくてなぁ。まあ、おれに判ることなら喜んで答えるよ。」
 と言い訳がましく言い、これにみなもは再度頷いて、口を切った。
 「一つは犯行現場のことなんですけど……当時、『目撃された少年』がいましたよね。現場に彼が『凶器を持ち去った』形跡や足跡はあったんでしょうか。」
 この問いに雨達は困ったような表情を浮かべて唸った。持っていた手帳を肩に当て、とんとん、と叩く。
 「『凶器を持ち去った』形跡……か。残念ながらそれはなかったようなんだが……。」
 彼はそう言って一度言葉を切った。みなもはそれを不思議に思いながらも、先を促すように首を傾けてみせる。雨達は、やがてため息を一つついてこう言った。
 「実は、凶器自体なかったんじゃないかとおれは思うんだ。」
 「どういう意味です?」
 問いを重ねたみなもに、雨達は黙って手帳を差し出した。
 「これは?」
 「おれの日記だ。依頼に関することも書くようにしている。四月十二日以降を読めば判るよ。お前さんの知らなかったことも書いてある。それから五月の……二日だったかな。そこも読んでみるといい。お前さんの推理が正しかったって証拠があるぜ。」
 そう言われ、みなもは雨達から手帳を受け取った。ページを繰り、目的の日付の部分に目を走らせる。思っていたよりも読みやすい几帳面な字で淡々と書かれている文章を黙読した。
 「爪で引き裂いたように……って、武器ではなく、手でやったというんですか?」
 一通り読み終えたみなもの第一声がそれだった。これに雨達は首を縦に振ってみせる。
 「おれはそう思うよ。目撃者は、少年が何かを持っていたとは言っていなかったようだからな。警察は、到底少年の力でできることとも思えなかったが他に手がかりもなく、自殺・他殺の痕跡も見つけられなかったために、唯一の手がかりである『目撃された少年』を探すしかなかった。」
 その『少年』が人間ではなく、心を持った『絵の少年』だったのなら、人間では考えられない力で人を殺せるのかもしれない、と雨達は付け足し、それにはみなもも同意した。
 「人の心から生まれるような存在は、『思いの強さ』が力です。画家さんの描いた絵の『少年』が本当にあの男の人を許せないと思ったのなら、その『思いの強さ』で人を傷つけることだってできるかもしれません。……でも、どうしてこのことを教えてくれなかったんですか? 凶器ははじめからなかったのかもしれない、なんて。雨達さんは以前、凶器があるかのようにあたしに言いましたよ。」
 言葉の後半をやや責めるような調子で言ったみなもに、雨達は肩をすくめて、
 「鋭い爪でもって力ずくで引き裂かれた死体、なんて中学生の女の子にあまり言いふらしたくなるような話じゃないだろう? それに、おれはあくまで警察の見解を言っただけさ。『おれ個人の意見』を求められたわけじゃなかったからな。」
 と申し訳なさそうに答え、取り繕うようにこう提案した。
 「とりあえず現場を見に行ってみるか? 事件の痕跡はもう、何も残ってはいないかもしれないけどな。」

 かつて犯行現場であった住宅地には、今ではどこにでもあるようなありふれた日常の風景ばかりが広がっている。そこに漂う空気は、事件があったことなどすっかり忘れてしまったかのように穏やかなものだった。
 「やっぱりもう何も残ってないですね。」
 桜を散らしたような血痕があったという現場を見ながら、みなもが呟くように言った。
 「血は飛び散っていたみたいなのに、足跡一つ見つからなかったなんて……。」
 「幽霊みたいに足がなかったんじゃないか、絵の少年ってのは?」
 みなもの顔に落ちるどこか暗い色を払おうとでも思ったのか、軽い口調で雨達はそんなことを言ったが、みなもは心ここにあらずといった様子で言葉をついだ。
 「……本当に、画家さんの描いた絵があの男の人を殺したんですね。」
 雨達の日記にあった、画家のアトリエから絵が消えたという話を思い出し、みなもはそう言って、まだ持ったままだった雨達の手帳を持ち主に返した。
 「どうして“今”だったんでしょう。」
 ぽつり、と唐突に呟いたみなもに雨達は、どういう意味だというように眉を上げてみせる。そんな彼を真っ直ぐに見返し、みなもは疑問を口にした。
 「『良心が咎め』、『罪の告白』をして『他の街に行くつもり』だった彼が、どうして“今”殺されたんでしょうか。それに、判らないのは被害者だった男の人の動機です。彼は、画家さんの話では『悪人にはなれない人』でした。それなのに、画家さんが『薄々気づいていた』くらい不正を繰り返していました……その動機は何だったんでしょう。そもそも、仲介手数料五十パーセントなんて、高くはあっても、不正でもなんでもない金額だと思うんですけど。」
 唇に手を当て、考え込むように言ったみなもに対し、雨達はすっかり感心しきった様子で唸り、腕を組んだ。
 「なるほど、本当にお前さんはいろんなことに気が付くんだな。おれはそんなこと、考えもしなかったよ。」
 自称とはいえ探偵という肩書きを持つ人間がこんな調子で良いのだろうかと、みなもは思わず雨達ののんきさに不安を覚えた。しかし、当の自称探偵は訳知り顔でみなものことを見返してくる。
 「お前さんは頭がいいし、きれいな人間で嬉しいよ。」
 「からかってるんですか?」
 「褒めてるんだよ。死んだ男が不正をした動機は、おれにはよく判る。」
 雨達はそう言ってどこか決まり悪そうな笑みを浮かべた。
 「お前さんも画家の絵がいくらで売られていたかを知れば判るかもしれないが……それは結構な金額だったんだよ。そいつを男は半分の値段で売ったと画家に言っていた。しかも、その半額の中からきっちり正規の割合で自分の取り分も受け取っていたんだぜ。言わば二重取りさ。それを月に数回やってみろ、楽をして何十万という金が手に入る。人格が変わってもおかしくないさ。」
 「そんな……。」
 「大金っていうのはな、善良な人間の心に『出来心』ってのを思いの外簡単に植え付けてしまうものなんだよ。最初は本当に出来心だったんだろう。『魔がさす』ってやつさ。芯の弱い人間ならその誘惑に負けちまう。お前さんがさっき指摘した通り、画家はこう言った、あの男は『悪人にはなれない奴だった』って。不正をして、何食わぬ顔をずっとしていられるほど図太い神経の持ち主じゃなかったんだ。心が弱いから誘惑に負ける、そして、心が弱いから罪悪感にも耐えられない。……そういうことじゃないかな。それに彼女は――あの画家は絵を描ければそれでいいという性格だ。自分でもそう言ってたかな。生活するために描くんじゃなくて、とにかく絵を描いて、それで食うに困らなきゃあとは絵にいくら付加価値が付こうが興味はない、という様子だ。だから友人に不正をされていると薄々気づいていても何も言わなかったし、彼が死んでからも自分から相応しい値で絵を売ろうとは思わない。それでおれに適当な値で買ってくれる画廊との仲介を頼んできた。そんな人間だから、あの男は友人として、彼女に対して苛立つところもあったんじゃないかとおれは思う。彼女の絵が実際にはいくらで売れていたのか知りたくて、件の銀行口座の明細を見せてもらったが、まるでそれが義務だと言わんばかりに派手な使い方をしていたのが判ったよ。やけっぱちと言ってもいい。もっとも、後半は生活費程度の額しか減ってなかったがな。きっとその頃から後ろめたく思いだしたんだろう。」
 雨達の言葉にみなもは黙したまま、あどけない顔に影を落とした。その肩を軽く叩き、雨達は言う。
 「人が過ちを犯す理由ってのは、案外そんなもんだよ。お前さんがそんな考えを『納得できない』と思えるのは、きっといいことさ。そういう人間は少ないが、そんな人間が多ければこの東京は――いや、世界はもうちっと住みやすいんだろうな。」
 そう言って雨達は肩をすくめ、みなもはやや複雑な表情を浮かべたまま、共に閑静な住宅地に立ち尽くし、少しの間その静寂を享受した。平和なだけの光景をぼんやり見ながら、やがて沈黙を破ったのは雨達の方である。
 「彼が何故“あの時”殺されたかについては、おれにも判らない。何か理由があったのかもしれないし、ただの偶然かもな。」
 「あの男の人は街を出て行こうとしていたんですよ。あたしには、とても偶然とは思えません。」
 雨達の言葉に毅然としてみなもは言い返した。これに雨達は眉をひそめてみせる。
 「逃がすまいとして、『絵の少年』が彼を殺したって言うのか?」
 「そこまでは言ってませんけど……でも、不正のことを『絵の少年』が知っていたのなら、いつでも彼に警告なりすることはできたと思うんです。わざわざ、彼が罪を悔いて出て行こうとしているところを殺す必要なかったように思います。」
 みなもの指摘に雨達は、なるほど、と口の中で呟いた。「そう言われると確かに妙だな。」
 「『絵の少年』が“本人”に触発されたんでしょうか?」
 「“本人”? 桜の幽霊のことか。」
 雨達の言葉にみなもが頷く。
 「たとえば“本人”に会ったり、話に聞いたりして、絵が人を殺せるくらい力を持ってしまったのかもしれません。」
 「そういうことで絵が人を殺すようになったりするものなのか?」
 「必ずそうだとは言えませんけど、画家さんの絵は、本当に魂があります。雨達さんも言いましたよね、画家さんは生きるために絵を描くのではなく、絵を描くために生きているような人です。あたしにも判ります。画家さんの描く絵には画家さんの思いが詰まっています。ですから、言葉を話したりすることはなくても画家さんの描く絵は皆生きていて、アトリエで起きることを静かに見守っているのかもしれません。その中で一つ――『一人』だけ、何かのきっかけで画家さんのために人を殺すことを決意して、大きな力を得ることがあってもおかしくはないように思えます。ただ……その『きっかけ』が何であったかがあたしには判らないんです。」
 そう言ってみなもは考え込むように口を閉ざした。その真剣な表情を見ながら雨達も「ふむ。」と呟いて首をひねる。
 「おれにもよく判らないが、こうも考えられないか? 『絵の少年』は男が不正をしていたことは知らなかった。画家だって確信を持っていたわけじゃない。何年も前に描かれた『絵の少年』が気づいていなかった可能性もある。だが、“あの時”初めて男が不正をしていることを知って、頭にきたのだとしたら? しかもそれが、男が別の街に逃げ出す直前だったとしたら? 以前から不正のことを知っていたなら、今さらあえて男を殺す必要はなかっただろう。だが、事実を知ったのが“あの時”だったのなら、その場の怒りで衝動的に殺意を抱いて殺したのかもしれない。」
 「その可能性もありますけど……でも、彼が死んだのは『ここ』ですよ? 彼が画家さんのアトリエで殺されたのなら判らなくもないですが、ここは街中です。」
 みなもは両腕を広げてみせ、雨達はその小さな手が指し示す光景に唸った。
 「そうか……そうだよなぁ。彼は深夜に出かけていて――たぶん桜の下に手紙を隠しに行ったんだろうが――その帰宅途中で死んだんだったな。」
 「それに、今まで彼の不正のことを知らなかったのなら、どうやって『絵の少年』が“あの時”に知るんです?」
 「うーん……男が絵に告白したとか?」
 みなもの鋭い質問の答えに窮し、さして考えることもせずに思いつきで雨達はそんなことを言ったが、それにみなもははっと息をのんだ。
 「……そうかもしれません。」
 「何だって?」
 てっきり、ふざけないで、というお叱りの言葉を受けるものと思っていた雨達は、間の抜けた顔で思わず訊き返した。一方みなもは真剣そのものの表情である。
 「雨達さんの日記に、画家さんから『桜の幽霊を描いた絵がなくなっているという知らせが来た』とありましたよね。アトリエから持ち出したのがあの男の人だったとしたら、どうでしょうか。告白の手紙を桜の下に隠したくらいです、彼にとってあの桜は特別な存在だったんでしょう。実際、普通の桜の樹ではありませんし。だから、たとえば自分の罪を忘れないために、あの桜の幽霊を描いた絵を手元に置いておこうと思ってアトリエから持ち出したのかもしれません。勝手に絵を持っていくなんて泥棒ですけど、画家さんに返したお金の中にその代金も含まれていたのかも。それに彼は画家さんの絵を売っていたんですから、売り物と一緒に持ち出すことはきっと簡単にできたはずです。そして、彼は罪の告白文を書いて、持ち帰った絵にも自分の犯した過ちを告白しました。それを聞くまで『絵の少年』は彼の不正を知らなかったんでしょう。それで、彼が手紙を隠しに行って、帰ってくるところを殺したんじゃないでしょうか。」
 「しかし……それなら何故男が罪の告白をしたその時に殺さなかったんだ?」
 「殺意の後押しをしたのは、時刻かもしれません。」
 みなもの答えに、雨達は訳が判らないというように首を傾げる。それに対し、みなもは苦笑にも似た微かな笑みを浮かべ、こう言った。
 「古典的すぎますけど、彼が死んだ時間を思い出してください。警察に通報があったのは深夜二時台――丑三つ時です。」
 丑三つ時は、魔物の時間である。古来より、人以外の妖しき者たちがもっとも力を持つ時間だと言われている。絵の中の『少年』の殺意を本物にしたのは、『魔物の時間』かもしれないのだ。
 そのことに思い至り、雨達は驚愕と興奮の入り混じった声音で半ば呆然とこう言った。
 「思わぬ罪の告白を聞き、殺意を抱いたものの、『絵の少年』にはまだその場で男を殺す力はなかった。だが、男が自宅を出てから時刻は深夜二時になり、『絵の少年』は絵から解き放たれて男を追い、殺した……ってわけか。」
 「これも推測にすぎませんけどね……。」
 そう言って再び表情を曇らせたみなもに、雨達は肩をすくめて笑いかける。
 「仕方ないさ。本当に真実を知っているのは犯人である『絵の少年』だけだ。そして、おれたちは彼からその真実を聞く術を持たない。絵は画家のアトリエからいつの間にか消え、確か、死んだ男の自宅にも絵は一枚もなかった。絵が自らアトリエを出たのかもしれないし、男に持ち出されたあとに行方をくらませたのかもしれない。あるいは、別の真実があるのかもしれないが、おれたちには判らない。お前さんとおれで今できることといったら推測だけで、そうやって得た答えが――結局のところ、真実であるとは限らないが、逆に言えば真実である可能性だってある。」
 そう言って今度は雨達が腕を上げ、静かな街に目を向けた。
 「『ここ』を見てみろよ。何ヶ月か前にここで殺人事件が起きたなんて、今の様子からじゃ全然判らない。おれたちの目の前に広げられているのは穏やかな日常の風景だけだ。誰がここに、たくさんの血を流して男が一人無残に倒れていたなんて考える? だが、確かにそれは過去に起きたことなんだ。今、おれたちの目には見えないというだけで。」
 言いながら周囲を手で示した雨達は、そこで一度言葉を切ってみなもの方に向き直った。
 「推理というのも、これと同じかもしれないとおれは思う。この目には真実は何も見えない。だけど、情報や推測で真実を知ることはできるんじゃないかってな。今この場にはない『事実』が、確かに過去にはあったのと同じように。『見えないもの』が『存在しないもの』だとは限らないってことを、おれたちは知ってるじゃないか。」
 雨達はそう言ってから、陽気な声で「なんてな。」と笑った。
 「何にしろ、おれにはお前さんの言うことこそ真実に思えるよ。おれはそれで満足だが、お前さんは――どうかな。」



八月十日
 久しぶりにみなもが訪ねてきた。おれに訊きたい事があったらしい。相変わらず真面目で頭のいい嬢ちゃんだ。正直、おれの答えに彼女が満足したかどうかは判らない。だが、何故彼女が今になって事件のことを訊きに来たのかは、何となく判ったような気がする。彼女は最初、あの男が殺される必要はなかったと言っていた。彼は街を出て行くところだった。それをわざわざ『絵の少年』が殺す必要はなかったのだと。「何故男はあの時死なねばならなかったのか」――それが判れば、あるいは男が死なずに済んだ可能性を見出せたかもしれない。彼女の抱いたいくつかの疑問がすべて解ければ、『過去』に救いを見出せたかもしれない。そんなものが見つかったとしても現実を覆すことはできないが、意味がないことはないだろう。過ぎてしまったことに『もしも』なんて言うのは無益かもしれないが、その『もしも』が、次に来る未来を変えるかもしれない。
 考え続けることは大切だ。考えるということが何より大事だ。だから、おれが考えたことが間違っていたとしても構わない。その時はまた彼女が、はっとするような質問を携えておれに会いに来るだろう。おれはただそれを楽しみにしていればいいだけなのだから。



     了