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アリスの宴
路地裏にひっそりと店を構えるアンティークショップ、その前で、少女はずいぶんと長い間ショーウィンドゥを眺めていた。
華奢なレリーフで縁を飾られたまるい鏡がビロードにディスプレイされている。
けれど、覗きこむ自分を映し出すはずの鏡面は、骨董品ゆえに磨かれていないのか、まともな像を結ばない。
映らない自分と向き合いながら、少女は深い深い思考に沈む。
愛していた。いや、愛している。今も彼女たちとの時間を思い出すと、胸に甘美な昂揚感が広がっていく。
許されない罪を望む。
許されないことを望む。
そうして皆と一緒に楽園の住人であり続けたいと望む。
手が粘り気のある赤でべったりと染まる、それを心地良いと感じる自分は少し怖いけれど、でもあの連帯感と一体感に変えられるものではない。
けれど、彼女たちは違うかもしれない。彼女たちは目を醒ましてしまうかもしれない。重すぎる罪におののき、目を醒まし、自分を置いて外の世界へと――
「そんなのは、いや……」
思わずこぼれた呟きを待っていたかのように、店の『扉』は開かれた。
「ようこそ」
薄闇の中、黒衣の青年はこの世ならざる美貌にひそやかな笑みをたたえて、誘いの言葉を綴る。
「ここは夢を永遠にする場所……貴女の望みもまた、永遠にふさわしい……」
夢と現の境界を曖昧にしてゆく、優しい声。
差し伸べられた大理石のような白い手は、儚く透明感あふれる繊細な氷菓子を思い出させた。
少女は自分へと向けられた微笑に惑いながらも、魅入られるまま、その手を取って――
*
窓を開けたところで湿り気を帯びた熱気が押し寄せてくるだけの興信所。その扉が叩かれ、押し開き、制服に身を包みながらも華のある少女たちを目にした瞬間、草間は嫌な予感に捕らわれた。
探偵として培われた『長年の勘』というべきか。
ここにたったいま持ち込まれようとしている話が、自分が嫌う類の代物だとすぐに察しがついてしまったために。
それでも無碍にできず、こうして彼は少女たちと向き合うはめになる。
ふわり、ふわり。
4人の少女の視線が何かを探して興信所の狭い応接間をさまようのも、そうしながら、誰から話そうかと無言で譲り合うのも黙ってやり過ごした。
そして。
「……こわいんです」
純粋培養を思わせる無垢な瞳、あどけない表情で、ようやく少女のひとりが思い切ったように話を切り出した。
「あの、あちこちに映るんです。アタシなのにアタシじゃないアタシが、鏡とか、窓ガラスとか、金属とか、カップの中のコーヒーとかに映るんです」
「わたしも、ふとした瞬間にスッゴク悪そうな顔したわたしと目が合って」
「私も、なんです」
「しかも変なことが起こっていて……」
後は堰を切ったように、訴えたいことが次から次へとあふれてくる。
それをまとめるならば。
全寮制の郊外の小さな学園を住居とする彼女たちは、夏休み期間も実家に帰らないでともに寮で過ごす仲間だということ。
そして、休みの半ば辺りから、鏡やその他のものに、自分ではない自分が映りこむようになったということ。
同時に時折、それぞれの記憶が曖昧になることがあるということ。
更には、嫌がらせのように服やモノがなくなるのだということ、だった。
「映りこんでいる別のアタシ達が一体なんなのか、知りたいんです、探偵さん」
「わたしたちのなくなった記憶を探してほしいんです、探偵さん」
「嫌がらせの犯人を捕まえてほしいんです、探偵さん」
「お願いします」
警察にではなくこの興信所に、彼女たちは懇願する。
ねえ、探偵さん。
真摯な瞳で異口同音に告げる言葉に抗うすべを、残念ながら当の草間は持ち合わせていない。
だから。
「分かった。その依頼、引き受けよう」
不吉な予感を胸に抱きながらもハードボイルドに徹し切れない探偵は、そう頷きを返すしかなかった。
不可逆的な悲劇の予感、あるいは闇色の予兆に抗うため、それまでと同じように、彼は黒電話へと手を伸ばす。
―――そこは、まるで妖精の隠れ家のようだった。
「こちらが、私たちが生活している寮です」
少女たちに望まれ、請われるままに、草間興信所から派遣された4人の調査員たちは、不可解な謎を孕んだ箱庭へと足を踏み入れる。
「緑が豊富なのね」
藤井せりなは、手入れの行き届いた木々や足元を彩る花々に視線を向け、フラワーショップを切り盛りするものの目で眺める。
さわりと風が頬を撫で、小川のせせらぎのような葉擦れの音が耳に心地よい。
ふと、見上げた先。
鋼鉄の重い門の内側に広がる敷地には木々があふれ、西洋建築の装飾と、その奥に望める時計塔とが来訪者の視線を出迎えた。
「もっと詳しい話を聞かせてくれるかしら?」
安心させるようにほのかな笑みを浮かべつつ凛と立つシュライン・エマの姿に、少女たちは一種憧れめいた視線を投げ掛ける。
「例えば無くなったモノ、それにまつわる思い出、それからあなた達以外に誰かいなかったのか……まずはこの辺を網羅したいんだけど、大丈夫?」
「なくなったもの……思い出、ですか?」
少女のひとり――物静かな印象のノゾミが、肩で切りそろえた黒髪を揺らして首を傾げてみせる。
「共通点から割りだせることもありますからねぇ」
都築秋成が穏やかに言葉を重ね、
「モノが語りかけてくる真実というのは、これでなかなかあなどれないものですよ?」
ここまでの移動用に黒塗りの車を手配し、現在はゆったりとした歩調で進むセレスティ・カーニンガムがそれを引き継ぐ。
彼女たちは一様に顔を見合わせ、互いの記憶を確認しあっているようだった。
「服がほとんどなんだけど、ときどき靴とか、それから指輪のアクセサリーもなくなっていたかな」
クセのあるショートカットを掻き撫で、タマエが最初の回答を口にする。
バラのボタンが可愛らしいブラウスも、ヴェネチアン・グラスをあしらった手製のリングも、品物の価値に関係なく持ち出されてしまっていた。
「この間もお気にいりのワンピースが朝起きたら無くなっていたわ」
「なくなる時間はほぼ一緒なのかしら?」
「ええと、ね、うん……そうでもないけど、でも、みんな、朝に気がつくことが多いかな? ね?」
ふわりとした薄茶の巻き毛をツインテールに結い上げていたミノリが、小さく首を傾げながら隣を歩くカナエへと同意を求めて微笑み掛ける。
「あのね、あたしたちの寮ってホントは規律がスッゴク厳しいの」
腰に届くソバージュの掛かった長い髪を揺らし、笑う少女がカナエ。他の子たちより小柄なせいか、幼い印象が強い。
「……本来なら、不審者なんて入る隙もないわ」
「タマエちゃんの言うとおりなの。ね? ふしぎなの」
「なのに、モノは盗まれたわけね」
せりなは思案する素振りで視線を巡らせる。
一瞬、その青い瞳に光が閃いた。
揺れる炎。不可視の光。ソレは彼女だけが見える、ヒトの心を模るモノ。彼女の前でヒトは自身の内なる感情と過去を隠すことができない。
だが。
かすかに眉をひそめる。
お互いを仲間だと認識している、離れがたい存在だと強く感じているのは分かる、そしてそれがどこか恋愛めいてすらいるというのも分かるのに。
少女たちから消えた記憶、少女たちがなくした日常の断片、ソレがまったく読み取れない。
彼女たちを取り巻く情報から、まるでその部分だけそっくり削ぎ落とされてしまったかのように空白なのだ。
タマエ、ノゾミ、ミノリ、カナエ……
何かが彼女たちの中に入りこんでいる、もしくは第三者が外から記憶を操作していると考えはしたのだが。少なくともそれを行うのに、草間興信所の抱える『依頼』に相応しいチカラが作用している。
せりなは視線を逸らす。
周囲への警戒も含め、関わり方を変える必要があるかもしれない。
「少し、この辺りを案内していただけますか? できれば、そうですね、ここはとても広いようですし、皆様はよろしければ手分けしてくださると助かります」
カーニンガムが微笑みとともに提案したのは、少女と調査員を対とした4組に分かれての探索だった。
「俺も賛同させてもらいます。もちろん、万が一にも君たちに危害が加わるようなことにはならないよう、全力は尽くさせてもらうから安心してください」
そう続けた都築の穏やかな視線に、今度は少女たちは身を寄せ合って照れたような困ったような笑みをかわしあう。
「できるだけ早急に把握したいというのもあるのよ。ね、お願いできるかしら?」
「怖い思いはさせない、約束するわ」
せりなの優しいまなざしと、シュラインの言葉が最後の一押しとなった。
彼女たちはもう一度互いの顔を見、瞳で会話し、そしていくぶん緊張しながらも頷きで了承の意を返してくれた。
「おやおや……」
時計塔から眺める漆黒の影は、その口元にゆるく笑みを刻みながら、目を細めた。
レイリー・クロウ――人の姿をした、ヒトならざる闇の具現者は、風をまとい、木々のさざめきに耳を傾けながら、小さく呟きをもらす。
「大きな闇の気配を感じてここに来たのですがね……さて、どうしましょうか?」
眼下には、8人の人間の姿が四手に別れて方々に散らばっていく様が見えていた。
木々は揺れる。時は刻まれる。この領域には不可解な気配、そしてどれほど拭おうとも隠しきれない血の匂いが滲んでいる。
けれど、自分が追いかけていたはずのモノは、何かに覆われでもしたのか、残り香ひとつ留まらせずに『存在感』が途切れてしまった。
遠く近く曖昧な距離で自分を呼ぶ声がする。
自分を引きつけるものが語りかけてくる。
なのに、『闇』はいずこかへと唐突に隠蔽されてしまった。
そのことがひどく好奇心を刺激する。
「4人の少女、4人の庇護者、その中の誰があれほどの病んだ闇を宿したモノなのか調べる必要がありますね」
そして、それはどこに隠されてしまったのかも。
漆黒の青年は、漆黒の鳥へと姿を変えて、空高く飛翔した――
*
ソレは契約。
コレは願い。
ずっとずっと、一緒にいましょう?
だってこれは、遠い昔から決められていたこと――
*
「4人で夏休みを寮で暮らすというと、ずいぶん仲がよいのでしょうね」
「ん、そうかも、ね」
寮の外壁を探索するため、足の悪いカーニンガムの歩調に合わせながら、ミノリはまるでリズムを取るように小さく頭を揺らしながら言葉を繋げていく。
「ミノリたちはね、小等部からずっと一緒なの。十年間ずっと、ここで同じ時間を過ごしてきた仲間よ」
家からの迎えが来なければほとんど外に出ることもないのだと、彼女は続けた。
「退屈にはなりませんか?」
「ずっとこうだからあまり感じたことない。それに、ちゃんと楽しく日々を過ごしているもん。厳しいお父様のいるお家の中に閉じ込められるよりはずっとずっと楽しいの」
「あなたは他の三人がお好きなんですね」
「大好き。ノゾミちゃんも、カナエちゃんも、タマエちゃんも、みんな好き。ずっと一緒にいたし、仲間だし、なんか他の人とは違うきずなを感じるの」
だが、そんな彼女の表情がわずかに曇る。
「こんなことがなければ、もっと楽しかったと思うの」
すっと視線が揺れる。
白い壁にはめ込まれたガラス窓、そこに映る自身の虚像と彼女は視線を合わせているらしい。
カーニンガムもまた彼女にならってガラスに反射するモノを見る。
何の変哲もない、彼女が怖れるようなものなどそこにはない、と言ってあげられたのならよかったのだが。
「……スッゴク悪い顔をしたミノリ、鏡の中のミノリは一体誰なのかしら」
「まるで鏡の国に迷い込んだアリスですね」
「セレスティさん、アリスを知っているの?」
ふと、少女の声が嬉しそうに弾んだ。
「私が知っているのは、言葉遊びの巧な物語なのですが」
「ミノリたちはね、アリスごっこも良くやるの」
マザーグースを歌いながら、手に手を取って輪遊びをしたり、本から得た役を割り当ててごっこ遊びをしてみたり、他愛はないけれど、逆にソレが楽しいのだとクスクス楽しげに笑う。
「この学園では伝統的な遊びなのですか?」
日本ではあまりマザーグースは馴染みがないように思うのだが。
「伝統的な遊びって言うんじゃなくて、アレはね」
答えようとしたミノリの後ろで、虚像がふわりと揺れて、薄く暗く残酷に哂った。
「……ん〜、誰かが教えてくれたんだと思ったんだけど……ど忘れしちゃったかも」
彼女は気付いていない。
何も感じていない。
自分の台詞が故意に歪められた可能性に思い至ることもない。
しかしカーニンガムの瞳は、確かにそこに『魔』を見た。
「……場所を移した方がいいかもしれませんね……」
ぽつりと小さく呟きをこぼす。
ここは危険な場所。ここに留まっていはいけない。何者かが閉じ込めているのだろう悪意に少女たちがこれ以上曝されるのは避けなければいけない。
「セレスティさん?」
足を止め、窓を見つめたまま思案する彼を、ミノリは不思議そうな顔で振り返り、その名を呼んだ。
アンティーク系の調度品が目立つ寮の内装は、伝統と財力とに支えられた高級ホテルを思わせた。
エントランスや左右が伸びる階段、三階までの吹き抜け、十分な距離を置いて並ぶ扉は意匠を凝らし、フランス窓から差し込む光はあくまでも穏やかだ。
そこの探索はせりなとノゾミが担当した。何かが隠れていないか、何かを隠せる場所はないか、不審なものを発見できないか。
失せものがもしかしたらまだどこかにあるかも知れないという可能性を確認するために2人は歩きまわる。
「そういえば、ねえ、あなたたち怪我とかはしていない?」
気遣わしげなせりなに、ふるふると首を横に振ってノゾミは答える。
艶やかな黒髪が天井からの光で天使の輪を作っていた。キレイな子だ。その姿につい娘の姿が重なる。
「私にも、あなたたちよりちょっとだけ年上の娘が2人いるんだけどね」
懐かしそうに目を細め、口にする思い出。
「いつのまにかちょっとずつ、女の子って秘密って増えていくものなのよね。妖精たちに会うために冒険することも、願いごとのために真夜中に家を抜け出すことも、仲間以外にはナイショにするの」
でも、ときどきそれを母親だけには教えてくれる。
小さな女同士の連帯感。
それってちょっと素敵なのよね、と微笑み、語る。
「そういう秘密ってステキですね……私たち、あまり親と会うこともないから、せりなさんみたいな関係、憧れます」
「全寮制ということだけど、家族は面会にはあまりきちゃいけないのかしら?」
「そういうわけじゃないんですけど、忙しいから。あ、でも、タマエ達がいるから平気です。私たち、名前でつながっているんですよ」
運命みたいってはしゃいで、それからずっと一緒なのだとノゾミは言う。
「繋げると、ノゾミ、カナエ、ミノリ、タマエ……ね?」
「あら、ステキね」
クスクスと笑いながら、小さな日常の小さな出来事を少しずつ話し合っていき。
その流れの中で、せりなはそろりと問いを混ぜ込む。
「ねえ……不思議な現象が引き起こされるようになる少し前、いつもと違ったことをしなかった? あるいは、違ったことが起きなかった?」
「あ」
ノゾミは不意に足を止め、そして、揺れた。
少女の心を具現化する炎が、まるで風に煽られたロウソクの日のように大きく揺らいだ。
訴え掛けるのは、かすかな戦慄。
小さな罪悪感。
けれど、それ以上先に進めない。イヤ、読み取ろうとした瞬間、なにかの力が彼女の中から記憶を奪っていった。
「……わから、ない……そんなこと、した記憶はないんですが……」
ノゾミは俯く。
彼女の傍、フランス窓のガラスだけが彼女の表情を捉えていた。
鏡をはじめとする、この寮の『姿を反射するモノ』全てに布を被せることで、何らかの効果が得られるのではないか。
半ば予防策といった体でシュラインが提示した案に賛同し、手伝いを買って出てくれたのはタマエだった。
食堂のテーブルはまるで高級レストランのようなしつらえで、花瓶にいけられた薔薇の花はみずみずしい赤を放っている。
「シュラインさんはアリスの話を知ってます?」
黒布をシルバー食器に被せながら、彼女はふとそんな話を振ってきた。
「ええ、何度かそれをモチーフにした小説の翻訳を手掛けたこともあるわ」
アリスシリーズ――言葉を巧みに操り、数学者独特の感性で構築され、少女のために生み出されたイメージの源泉を持つ作品。
「ここにもアリスがいるんですよ」
「アリスが? どんな?」
「この学園では迷子をそう呼んでいるの。迷子って言ってもいろんな意味があって……普通はこの広くて複雑な敷地で迷った子を言うんだけど、ときどき、帰るべき場所を別に探す子のことも言うみたい」
ふっと遠くを見る瞳。
「帰る場所があるってステキよね……」
だから。
「だから、こんなふうに不安な気持ちで過ごすのはイヤ。ね、シュラインさん、きっと事件を解決してね?」
「ええ」
「ありがとう」
タマエは嬉しそうに微笑み、それじゃあやっぱり細かいことでも思い出さなくちゃダメよね、と呟いて頭を振る。
「ん……どう考えても、なくなったものに共通の思い出なんかないけど、でも……」
言い淀んで、口を噤んだ彼女を見つめながら、シュラインは考える。
手元に落ちた視線。
表情に落ちた翳り。
「……でも、なくなったモノは全部全部、わたしたちの記憶が曖昧になっている間に消えている気がする」
服も靴もアクセサリーもなにもかも、気がつくとなくなっていた。もしかすると、気づかないだけでもっといろいろなものが消えているのかもしれないけれど、けれど、共通点らしきものはこれしか思いつけなかった。
「……鏡の中のわたしが移動させたのかしらって思うと怖い……」
けれどその怖さに立ち向かおうとでもいうのか、挑むような強い視線を持つ彼女を、シュラインは努めてやわらかな、けれど真剣な眼差しで受け止める。
「鏡の世界に移動してしまった、と考えることもできるかもしれないわね」
話を聞いた時に自分の中で生まれた、ひとつの仮説。
彼女たちは無垢で無邪気で、光の世界に生きていることは疑いようがないと思えるほど澄んだ色を持っている。
けれど、わずかな違和感を覚えている。
あるいは、不協和音。
もしも、『鏡』たちが真実のみを映しているのだとしたら。
連想するのは、許されざる罪の存在。
「あら……ねえ」
ふと、シュラインの手が止まった。食堂の奥に設置されたキッチンにも黒布を被せようとしたのだが、調理器具を保管する扉を開いて首を傾げる。
「ずいぶん、包丁が偏っているのね……誰か持ち出しているのかしら?」
ペティナイフにパン切りや菓子切り包丁まで揃えているというのに、出刃包丁や牛刀といったオーソドックスな種類のものが欠けていた。
まるで使い勝手の良いものだけが抜き取られているかのようだ。
「あれ、ホント……安井さんがどこかに持っていったのかしら?」
「安井さん?」
「寮で食事を作ってくれる人。通いだから夜にはいなくなっちゃうんですけど……」
「聞いておきましょうか?」
「……うん」
自分の指摘に、彼女が動揺した素振りはない。チラリとした怯えすら走らない。
だからこそ、シュラインは惑う。
罪を犯すもの、彼女たちを怯えさせるもの、その闇を抱えた存在がどこにあるのか、その所在の一端を掴んだらしいという感覚に。
寮から離れ、古びてはいるけれど厳かな雰囲気を漂わせる礼拝堂に向かいながら、都築はカナエとともに
「いくつか確認させてもらいたいのですが」
都築は周囲の微妙な変化に気を配りながら、隣を歩く小さな女の子を見やる。
「例えばなくなった記憶の断片とはどういったモノなのか、どのタイミングで起こるものなのか、難しいとは思いますが、何かヒントのようなものでも思い出せませんか?」
カナエは首が痛くなりそうなほど目いっぱい首を逸らして空を見、むぅっと眉間にしわを寄せた。
「……記憶から消えちゃったから、消えちゃったのが何かなんてよく分かんない……けど……ん〜ん〜……」
「失せものに気づくのは朝が多いということでしたが」
「ん〜ん〜……ソレいうと、記憶ないのって夜のことが多いかなぁ」
ソバージュの髪が彼女の合わせて跳ねて揺れる。
「みんなでお休みってしてそれぞれの部屋に戻ってからとか、おいしいもの食べたいねって言って集ろうかって約束した後とか、ときどき昼の時間にもぽっかり時間が抜けてる、かな?」
頭があんまり良くないから役に立てないかも、と申し訳なさそうにしながら、それでもかなり真剣に、一生懸命、思い出そうと彼女は頑張る。
その姿勢はなんとも微笑ましかった。
「えっとね、うんとね、都築さんは」
聞いてみようか、でもどう言えばいいのか、カナエは言葉を選びきれずにグルグルと悩んで視線をあちこちにさまよわせる。
「どうしました?」
「ん、うん、都築さんは鏡の世界に入り込んでみたいと考えたことある? ね?」
映りこんだ見知らぬ自分。
内側には、アリスが迷い込んだような逆さまの世界がどこまでも広がっているのだろうか。
「俺にはそこに訪れるだけの能力がそもそもないので、何とも言えませんが……カナエクンは行きたいと望みますか?」
「……コワイ人がいるならイヤ。かな。でも、キレイなものだけがあふれているなら、ちょっと憧れる」
「キレイなモノ、ですか」
溜息のようにそっと、彼女の言葉をなぞる。
少女が望むキレイなもの――ソレは一体何で作られ、どんな姿をしているのだろうか。
「ん?」
思考する、その都築の視界に何かが引っ掛かった。
「待ってください」
片手でカナエをその場に留め、ひとり、都築は茂みを掻き分ける。
背の高い草に隠されるようにして地面から生えているのは、どうやら古い型の焼却炉のようだ。
周囲の草は折れ曲がり、少なくとも複数回はヒトが行き来していることを告げている。
「こんなところに……」
突き出た煙突からケムリはなく、熱を持っている様子もないのを確認し、都築はそっと蓋を持ち上げた。
中には形の分からない黒く焦げた灰がひっそりと積み重なっている。
何を燃やしたのかは分からない。
けれど、そこからは言い様のない不吉な匂いが漂ってくる。肌が敏感にそれを感じ取る。
「……これは……」
ソレが何かを確かめたくてのぞきこんでみた彼の目に止まる、小さな光り。
「……半分以上溶けていますが、どうやらバラのボタンのようですね」
「あたしのお気にいりのブラウス……誰かが隠しているんじゃなかったんだ……」
自分の持ち物が燃やされている。
それは思いのほかショックが大きいものだ。
カナエは泣きそうな顔で都築を見上げ、彼の服の裾をキュッと握り締めた。
「もしかすると、なくなったモノの大半が燃やされたのだとしたら……」
証拠隠滅。
思わず、そんな単語が都築の中で閃く。
だが、なんのために?
いくつかの燃えカスの中から、衣類など、若干原形を留めていそうなモノを拾い上げてビニールの袋に小分けすると、カナエの頭をそっと撫で、一度戻ろうと促した。
これらを元に情報の整理がしたいというのもある。
だがそれ以上に、できる限り早く彼女をここから引き離すために、都築は彼女を寮へと誘う。
背後では、それまでひっそりと静寂に沈んでいた礼拝堂が、触れてはならないモノに触れた咎に反応でもしたかのように『闇』を深めた、気がした。
鳥は漆黒の男としての姿を取り戻し、まとう黒衣を翼のように広げ、堕天使のごとく聖母の像の前に降臨するのだ。
彼は誘われた。
礼拝堂の厳かな佇まいに劣らぬ深い咎のニオイに引かれ、失われた闇の気配の変わりにここへと導かれたのだ。
昼だというのに、ここはひどく薄暗い。
「アリスが支配する場所、ですか……」
少女たちはそれぞれの調査員たちと歩く。
そこで綴られた言葉たちはどれも、求めるべき『真実』に近くて遠い。
ただひとり、クロウだけは、誰よりも傍で語られるべき真実に寄り添い、歩いていた。
「何故人は己が信ずる神の足元に秘密を埋めるたがるのでしょうねぇ……」
コツコツと木目の床に靴音を響かせ、脇に添えられたパイプオルガンの鍵盤へとたわむれに指を滑らせた。
音は生み出さない。
けれど、触れた皮膚がドロリとした血の気配を感じ取っている。
どこかに『死』が充満している。
闇が息をひそめている場所があるはずなのだ。
ソレはどこで、どのように隠れているのか。
ふと。
興味深げに巡らせた視線が、キラ…ッと、天井に掲げられた薔薇窓からわずかに差し込む光を反射するモノにひきつけられる。
するりと進み出、身を屈め、祭壇と床の隙間から摘みあげたのは、あまりにも小さなカケラ。
「おや、ヴェネチアン・ガラス、ですか……」
手作りであるがゆえにひとつひとつに微妙な個性が生み出されるビーズ、赤のグラデーションが美しいソレをしげしげと眺め回す。
そこに刻まれているのは、間違いようのない闇の気配。
まとわりつくのは、濃厚な血のニオイ。
ぬらりとした艶のある光が、天井の光を受けて囁きかけてくる。
「素晴らしい……なるほど、あなたはそれほどに強く望むのですねぇ」
彼の足元には、拭き取りきれなかったのだろう黒いシミが歪なカタチで広がっている。
「愛している、というのでしたか?」
ビーズを手の平で転がし、目を細め、そこにはいない『アリス』へと問いを投げ掛け、囁く。
「なるほど、ではその想いを是非とも成就して頂きましょうか」
コロリと手の平でころがして。
握りこみ、それと同じ気配を辿る。
一度は消えた闇が、再びその濃度をあげているのを感じた。
彼はソレに誘われることを望み、飛ぶ。
一通りの探索を終えた所で、8人は食堂に集っていた。
「いろいろお話も聞けたし、この敷地内の大まかな見取り図の作成もできた。事件が起きた前後のお話も聞けた所で、そろそろ調査の範囲を広げたいと思うの」
一同を前にして、シュラインは次の提案を募る。
「どうかしら?」
「では、ホテルへの宿泊という手段がいかがでしょう? ノゾミさんたちは私のホテルで安全を保障しましょう。そうした上でシュラインさん、都築さん、せりなさんには別行動を取っていただくというのがよいと思うのですが」
カーニンガムの少女たちへの申し出には、危機回避とは別の意図が隠されている。
この中にアリスがいるのかもしれない。
あるいは、彼女たち以外にアリスがいるのかもしれない。
分からない、けれど、それを確かめる術を彼は持っている。
「……夏休み中なのですから、外出の許可も出やすいでしょう?」
そもそも部外者たる自分たちがこの学園に長く留まることは許されない。まして住み込みで警護や調査に当たるなど、令嬢を預かる学園側が許可するとも思えない。
ならば、こちらから場を提供すればいいだけだと、好事家であり富豪でもある彼はしごく簡単に告げてみせた。
「あの、よろしいんですか?」
ためらいがちに、ノゾミが問う。
「ええ、構いません」
「そうね。あなたたちに接触する輩がいたとしても、セレスティさんのホテルでなら対応が迅速にできる」
せりなは微笑み、気遅れしている少女たちに優しく説く。
「ここは少し広すぎるわ。あなたたちの依頼を遂行するため、そしてあなたたちが安全であることに私が安心したいためにも、協力してもらえないかしら?」
実は彼女は、第三者が事件を引き起こしているのだという可能性もゼロでないことから、カメラなどを用いて彼女たちの周りを徹底的に監視することも考えていた。
身辺警護を兼ねた、ある種のトラップだ。
しかし、それならばいっそカーニンガムの案に乗っかってしまった方が、対象も範囲もより絞られ、効果は上がる。
調査員それぞれの思惑は、水面下で見事な連携となり。
「それでは、あの、お世話になります」
躾の行き届いた少女4人は、わずかに戸惑いを残しながらも深々と頭を下げてから、各々の部屋へと散って行った。
「……彼女たちの周辺、洗った方がよさそうですね」
ノゾミたちの姿が完全に消えた後、都築は静かに呟いた。
「礼拝堂付近からひどい邪気が漂ってきていました。祓う前にその素性を知っておいた方がいいでしょう」
家業として『拝み屋』であり続ける彼の中で警鐘を際限なく打ち響かせるモノ。
「アリスの正体を探るために、私も同行させてもらおうかしら」
「じゃあ、せりなさんは都築さんと周辺の聞き込み、セレスティさんはホテルで彼女たちの様子を、そして、私は鏡の関係して思いついた場所があるから、そこの聞き込みに行ってみるわ」
指先で唇をそっとなぞり、割り当ての確認をしながら、シュラインは俯き、眉を寄せる。
「……罪の起点を早急に見つけなくちゃ……いやな予感がするわ」
*
鈍い音を立て、骨の折れた小鳥が手の中で息絶える。
生命がたやすく途切れた感触に、昏い笑みが浮かんだ。
礼拝堂の傍にある人口池。石膏の天使像が置かれたその縁に腰掛け、己を水面に映す少女。その姿を、一羽のカラスが像の上から見下ろしている。
鳥は、彼女が小さな命を握り潰す一部始終をじっと眺めていた。
ガラス玉のような瞳で、じぃっと。
「ナイショよ」
くすくすくすくす。
人差し指を唇に押し当て、水の中の少女が嗤う。それにあわせて、小鳥の骸を手にした彼女も嗤う。キレイに、幸せそうに、病んだ闇色の笑みをこぼす。
「本当はもっと楽しいことがたくさんあるんだけど」
ドロリとした真っ赤な液体にこの両手を濡らし、指先から滴り落ちる、あのあたたかさを堪能したかった。
恍惚とした香りの中で彼女たちと見る夢は心地良い。
けれど、今は我慢しなくてはいけない。
そうしなければ楽園からも、叶えるべき願いからも遠く追放されてしまうから。
あと一度の儀式で、願いは成就されるのに、それを邪魔されてしまってはなにもかもが壊れてしまうかもしれない。
「では、私があなたのお手伝いを致しましょうかねぇ?」
「え」
少女の目が驚きで見開かれる。
カラスはヒトとなり、そして彼女の傍らに降り立った。
「彼女たちを永遠に閉じ込めておきたいのでしょう? そのためにこれほど強く願われ、代償を支払われたのだとしたら」
私は応えたいと、冷たい唇が耳に触れるほどの距離で闇色の青年は密やかに囁く。
彼は少女を抱き寄せ、小鳥の骸を握る華奢な手をそっと包みこむと、小さく小さく誘惑の呪を紡ぐ。
「私の名を呼んでいただきましょうか。そうすれば、いずこに行こうとも、必ずあなたの手をこうして取りにまいります」
「そうすれば、『永遠』はずっとこの手の中、ね」
「ええ、あなたが望むあなたの永遠は、ずっとその手の中ですよ」
愛しいものを抱いて生きる。
愛しい者たちとだけ、共に生きる。
夢のような楽園の時間を、ここに閉じ込める手伝いを、美貌の鳥は彼女に請け負ってみせた。
「美しい提案だと思いませんか? いかがです?」
「とても、ステキ」
ふわりと微笑み、小鳥のように可愛らしい笑みで、少女は彼の手に自分の手をそっと重ねた。
*
カーニンガムに少女たちの保護を任せると、せりなと都築は近くの図書館、新聞社、近隣の住宅街と、方々に足を向けた。
知らなければならない情報を得るために、必要な場所。
多角的視野を約束してくれる場所を2人は求めたのだと言ってもいい。
少女たちの証言はどれも主観的で、シュラインは他の寮生や職員から情報を得ようとしたのだが、夏休みの寮はほとんどの人員が出払っていた。
実質、寮にいるのは4人の少女たちだけ。
だが、外側と内側では見方や評価が一変することはそうめずらしいことではない。
より多くのことを知り、客観的観測するには、ではどうすればいいか。
令嬢たちが集う、ある種の隔離施設が、果たして学園として以上の機能を持ち合わせているのか否か。
その答えを、2人は求めた。
そして。
「彼等はどこに消えたのかということですが」
近所の公園でひとときの休みを取りながら、都築はベンチの隣に座るせりなを相手に口を開いた。
「行方不明者、ね」
学園に付きまとうのは、死の影と事件のニオイ。
情報を手に入れようと果敢にも調査に挑んだ若い記者は姿を消し、興味本意で隣町からやってきた学生もその後の消息が知れていない。
もちろんこれとてただ尾ひれがついただけの、蓋を開ければ何のことはない、勝手に自主退社したり別の遊び場を跳びまわっているだけというのが真相かも知れないのだが。
「彼女たちの休み期間にかかっているという符号は、確かに気になるわね」
「どうにも俺には『侵入者の死』という感触が拭えません。彼らはおそらくもう、この世にはいない、けれどカタチを変えて留まってはいる、そんなふうにしか捉えられないんですよ」
ひとり、ふたりと消えていく。
興味を持った者たちが、消されていく。
あの子たちを怖がらせ、嫌がらせをした犯人だと考えることもできるのに、何故かその可能性が低いと肌が感じている。
「彼女たちからは何も感じ取れない、だからこそ怖かったのだけど……」
せりなは、子供たちが遊ぶ滑り台やブランコへと視線を移しながら、呟く。
「……いやな仮説に行きあたりそうね」
鉄壁の要塞。森の中の鳥籠。そんな文句がつらつらと証言者たちは並べていた。
学園の乙女たちに近付くことはないと、彼等は口を揃えて言う。
「政府の要人とまではないかないけれど、かなり厳重な態勢なのが気になるのよ。まるで、そこで起きた一切を外にもらさないための措置みたいで」
「あるいは、そこにいるモノを一切外へ出さないため、ですね」
もしも今が夏休みでなければ、おそらくもっと厳重に管理されているはずだ。
しかも。
「しかも、アリスという呼び名はこの辺りではちょっとした禁忌みたいね」
「それについてもひとつ、古い事件ながら該当するのではないかというモノを見つけてきました」
一度だけ、都築はせりなから離れ、いずこかに電話を掛けていた。そこから稼いできたのは、普通の人間ならば得ることなどできないはずの裏側の事情、である。
「十二年前の惨劇、というにはずいぶんと脚色されているようですが」
学園にまつわる、もうひとつの黒いウワサ。
――『迷子のアリス』
「満月の夜、願いを叶えるために生贄を捧げた少女……彼女は十二年前、自らが帰るべき場所の扉を開くため、あの学園で3人のクラスメイトを始め、10人ものヒトを殺めたのだといいます」
空を漂うように頼りなげに、儚げに、人気の途絶えた住宅街をさまよい歩く白い少女の姿を幻視する。
彼女はナイフをかざし、血に染まる。
行くべきところへ行くために。
気のふれた彼女を止める術はなく、そして少女は切り刻んだ骸たち、そしていくつもの鏡を残して、姿を消した。
「……あの子たち、もしかして」
「儀式の場がどこかは既に判明しています。近付くのすらためらわれますが、俺は閉じ込められた魂を鎮めるためにも、一度向かうべきじゃないかと思っていますよ」
せりなと都築の表情はひどく穏やかで。
ゆっくりと西に傾き始めた光の中で、ただ悲しみだけをつのらせていた。
少女たちは、自分たちを映すものなど何もない『安全な場所』で穏やかな時間を過ごす。
交わされるのは、他愛のないお喋りめいたもの。
そんな彼女たちをやわらかく見守りながら、カーニンガムは自身のパソコンから情報を引き出していた。
ディスプレイに並ぶ文字。
読み取るためになぞる指先。
そうして得られた情報を糧とするたびに、リンスター財閥の総帥の表情は、ゆるやかに曇っていった。
「……禁じられた遊びに興じてしまうほど、彼女たちは歪んだ庇護に縛られていたということでしょうか」
憂いを帯びた彼から、溜息が落ちる。
あどけない笑みと思いやりを交わしあう少女たちもまた嘘偽りない姿であるというのに、その裏側に残酷な事実がひた隠しにされている。
令嬢たちの背後には財閥やそれに類する巨大なものが控えている。
彼女たちを取り巻く環境一切にまつわる情報を得るには、それ相応の手順と資格と豊かな人脈がなければ難しい。
それら全てを網羅しているこの手元には、求めたモノが期待した以上の成果とともに届いていた。
あそこは鳥籠であり、いずれ権力者をはじめとする『上層』へ『献上』されるべく純粋培養される乙女の園。
同時に、罪を罪として認識させない教育の場。
裏側では、いくつもの罪が握り潰されている。
しかも。
本来なら、どれほど彼女たちが望もうと、部外者である調査員が踏みこむことなどできない。それを可能としたのは、カーニンガムの肩書きだ。
けれど。
ノゾミたちを救うには、その財閥総帥という肩書きだけでは不十分なのだ。
では、どうするのか。
電話が鳴った。
せりなと都築からだろう。
ソレは違えることのない直感。
自分がこうして知りえた事実と同じように、2人もまた、ひとつの答えを手に入れているはずだ。
ぴちゃん……
「……どなたです?」
覚束ない足取りで、カーニンガムは扉の向こうのベランダへ向かう。
初めはわずかな音、けれどホテルの部屋をとりまく結界の水が徐々に騒ぎだし、知らせるのだ。
侵入者。
あるいは歓迎すべきではない訪問者。
果たして、それは相手の第一声によって証明された。
「御機嫌よう、罪深きアリスを匿うもの」
ガラスを隔ててなお、淀むことなくその声は届く。
数十階という、眩暈を覚えるほど上に位置する部屋のその窓辺に、彼は立っていた。
「私の名はレイリー・クロウ――宴をひらくアリスのために、少々そのお手伝いをしようと思いましてね、こうしてご案内にきた次第です」
「学園からずっと闇の気配を感じておりましたが、そうですか、貴方でしたか……」
カーニンガムの澄んだ蒼が映すのは、猛禽類と見紛う鋭さを宿した金の瞳を持つ男。
ガラスを隔ててなお、交わされる言葉たち。
「数百年の時を経た美しい人魚の鱗もまた私の蒐集心を掻き立てますが、なに、今宵はあくまでもお誘いに来たのですから、次の機会に変えましょう」
「貴方の蒐集物は、そう、あのアンティークショップの店主を彷彿とさせます」
「彼の淹れた紅茶は心地良い罪の味がしたと、そう述べておきましょうか」
意味は繋がらない。
会話として成立しているとは到底思えないけれど、しかし、二人の間ではっきりと意思の疎通はなされ、そしてスタンスの違いによる決別までが決定付けられた。
「神の足元ですべての秘密は暴かれ、ヒトは等しく闇に堕ちる……ソレが定め……ほら、破滅の訪れを告げるノックが聞こえてくるではありませんか、ねえ?」
ガシャ―――
「セレスティさん――誰か来たんですか?」
不意の物音。背後を振り返ると、タマエが不思議そうな顔で扉を薄く開き、そこから顔を覗かせていた。
「……少し、大きな鳥が迷い込んできたようですね」
一瞬彼女の気を取られた、その隙に、黒き訪問者は姿を消してしまったらしい。
あとにはただ、開け放たれた窓と、そこから吹き込む風で揺れるカーテンだけが来訪者の痕跡を留めるのみだった。
だからカーニンガムは少女のために淡い笑みを浮かべ、
「そろそろお茶を持ってこさせましょうか」
優雅な提案を口にする。
そうしながら、まもなくこちらへ到着するだろう調査員たちに話すべき内容の吟味に掛かった。
太陽の下にありながら、なお、ひっそりとした夜の気配がわだかまる裏路地で、シュラインはひとり、店の前に立つ。
少女、鏡、曖昧な記憶、閉ざされた楽園。
散りばめられたキーワードから連想したのは、路地裏にひそりと店を構える黒衣の青年だった。
ここに足を運ぶのもすでに4度目。
慣れたと言えば慣れたかもしれないし、勝手は知っているつもりだが、それでも扉の向こう側に広がる闇色の世界へ踏み出す瞬間には妙な緊張を覚える。
呼吸を整えて。
手を伸ばす。
カロン……
鈴の音は重く虚ろに来客を告げた。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
ふぅっと闇の中から浮かび上がる、ひとつの影。
ヒトらしい熱を持たない白皙の美貌をもつ店主は、客ではない来訪者をも微笑みでもって迎える。
「お久しぶりですね、シュライン・エマさん。こうしていらしてくださるとは……ですがやはりお客様にはなって頂けないのでしょうね」
「私がここにくる目的はたったひとつ、そしてソレは多分これからも変わらないわね」
そういえば、自分ひとりで彼と対峙したのは初めてだったのではないか。
ふとそんな事実に思い至りはしたが、肌にまとわりつくうっすらとした寒気をはらい、彼を見た。
「草間興信所の調査員として、あなたに質問があるわ」
「はい。何をお聞きになりたいのでしょう?」
「……そう『鏡』について、かしらね」
ショーウィンドウには、細やかなレリーフで縁取られた鏡がベルベットのアンティーク椅子にもたれ、街の密かな光を反射していた。
これまでの経験上、あそこに飾られているものこそが自分の求める事件を解くキーであると知っている。
「自分以外の自分を映す鏡を売った記憶はあるかしら?」
「鏡はご自身を映すモノ、真実を包括するモノ、そして時折内側に異界を宿すモノでしかありません」
「真実と異界……」
連想したのは、鏡に映る≪罪≫の所在。取り込まれた先にあるもの。それらが空想を越えて事実となる瞬間をシュラインは知る。
「ただ、閉じ込めることはできます」
店主の微笑は、魔性のソレだ。
「鏡はもうひとつの世界、望むモノの心を映すこともあれば、真逆の世界を用意することもあり、そしてまたガラス一枚を隔てた檻へと成り代わることもあるでしょう」
「……それを、ある女の子が買いに来た、と考えていいかしら……」
おそらくは、あの4人の内の誰か、が。
「けれど、それがすべての始まりではないはずだと考えているわ」
これは予感であり直感。
永遠を求め、ここにやってくるモノたちは、既にある種の罪を抱いてしまっている。
ソレがどのような種類のものであれ、踏み外してしまった道に修正を掛けることは容易ではないことも知っている。
店主は沈黙の中、笑みを深める。
否定も肯定も述べない相手を前に、揺れ動く多感な彼女が望んだことはなんだったのかと考える。
檻として機能させるなら、異界として広がる別世界、そこに閉じ込めたものとはなんなのか。
少女たちの言葉が蘇る。
表情を思い出す。
細やかな仕草や、ちょっとした視線の揺れを描きながら彼女たちの思考をなぞり、心を重ね、聞こえてくる声を読み取るならば――その答えはひどく哀しく切実なものとなる。
閉じ込めてしまいたい、自分の心。
閉じ込めてしまいたい、記憶。
誰にも邪魔されない楽園を護るために、誰かに壊されてしまう前に、誰かが目を醒ます前に、閉じ込めて、永遠を夢見たい。
「……あなたが叶えるに足ると認めた『永遠』……ソレは、鏡でなければなし得なかったものね?」
「きらめく美しいモノが鏡の中には閉じ込められています。一度構築された『永遠』を壊してしまえば、けして元の通りには戻りません」
過去、事件に関わり、彼と契約を交わしたモノを救えたことなどなかった。
その事実がシュラインの心を軋ませる。
けれど今度もまた同じ結末になるとは限らない、という可能性に賭ける。
ほしい情報は手に入った。
あとは、それをどう活かすかだ。
「閉じた世界……遮断された世界なんて本当はどこにもない。あるにはただ、ひとりひとりが心の中に抱いた罪の小瓶だけ。でも、その小瓶のフタを開ける方法さえ間違えなければ、きっと違う世界が見えると信じているわ」
自身へと言い聞かせるように、彼へと告げて。
シュラインは短く礼を言い、そうして歪んだ闇色の店から、外の世界へと戻っていった。
「ところで」
彼女が立ち去ったあとに、店主はゆったりと視線をめぐらせ、赤いグラスビーズで装飾された時計を啄む鳥へと問い掛ける。
「あなたは永遠を望みにいらしたのでしょうか?」
微笑みは、あくまでも優雅に。
「レイリー・クロウさん」
「私に『永遠』など必要ないことは知っているのでしょう? せめてご挨拶だけでもしておこうと思ったまでですよ」
闇は闇に惹かれる。
闇はより濃い闇を引き寄せる。
「あの子の闇が私は欲しいのですがねぇ?」
「あいにくと当店には購入契約がございますので、お客様の『夢』をお渡しするわけには参りませんが……別のお取引ということでしたらご相談に乗れるものと思います」
きらり。
ひらり。
言葉よりなお雄弁に、2人の双眸が語り合う。
*
≪アリス≫は二度に渡り、別の世界に踏み込んだ。
でも知っている?
この学園にもアリスはいるの。
別の世界を開いたアリス。
だから、ねえ、一緒に楽園へいきましょう?
*
少女たちをホテルに残し、4人の調査員はここへ来た。
月が見下ろす、病んだ闇に包まれた学園、そのなかで最も強い歪みを抱えた『礼拝堂』のもとに。
ずらりと並ぶ椅子の先には、天井に届くパイプオルガンと、掲げられた神の像、そして厳かな凄みを湛えた祭壇が配置されていた。
都築は迷うことなく進み、黒いシミが点在する祭壇の足元に手を伸ばす。
「……ここでいいんですね、セレスティさん?」
視線は下に落としたまま、占い師に問いかける。
「ええ、そこに僅かに刻まれた魔法陣らしき紋様が見えるでしょうか? それを右にふた回り、左にひと回り分なぞっていただければ」
「アリスの扉は開かれるわけね」
「あの子たちはここを見つけてしまった……それが偶然なのかは分からないけれど、始まりは多分ここにあるはず」
せりなとシュラインは、己の調査が行きつく先をじっと見つめる。
時折、窓の外で風が木々をざわめかせる。
それ以外にはただ4人の息遣いだけが伝わる静寂の中、都築の手により、ギシリ……と床が軋んだ。
ギシリ、ギシ、ギギギギギギ…………
呼応して、更なる音が連なっていき。
「……よくこれだけの情念を押し込めていられると、いっそ感心しますが」
都築の言葉とともに一同の視線は祭壇と神の偶像の中間、そこに口を開いた地下へと続く階段を見下ろした。
そこから先へ続くのは、秘密の花園。
鼻先に不快なニオイを運ぶ風が、吹き上げてくる。
「俺が先頭に立ちますんで、ゆっくりとついてきてください」
警戒するように象牙の数珠を握り、彼が最初の一歩を踏み出した――
*
黒い帽子屋さんがアリスに囁いたの。
この手を握り、あの素敵なお店で買った鏡の使い方をこっそりと教えてくれた。
*
懐中電灯の人工的な光が照らし出す狭い通路を降りていく。
地下室でありながら、どこかで外と繋がっているのだろう、空気が流れ、冷たすぎる石の壁と床にはほのかな水の流れる気配があった。
「十二年前も、ここが舞台となったのかもしれないわね」
せりなの瞳が揺れる。
「そして、ある日、この隠し部屋に潜り込んだモノがいたとしたら」
「その人が発見された時、生きていたか死んでしまっていたかは分からないけれど、十二年前の『アリス事件』を髣髴とさせるには十分だった。だからあの子たちは」
あの子たちは『実行』してしまったのだ。
「せりなさんとシュラインクンの推理はたぶん、限りなく正解だと思いますよ」
「ええ……この学園に隠された親たちの意図を考えれば、そしてそれを知ってしまった時のあの子たちの衝撃を考えれば、鏡の向こうの世界に逃げたくなるのも道理だとは思います」
カーニンガムは痛みを覚え、そっと目を伏せる。
罪にまみれ、永遠を願う彼女たちを救う、その術を自分は持っている。できることならそれを行使して、彼女たちを護りたいと願う。
「ああ、ここで行き止まり、ですね」
石の壁にはめ込まれ、すでに朽ちかけた木製の扉。禍々しい気配にじりじりと神経を焼かれながらも都築は手をかけて――
「ようこそ、麗しき闇の晩餐会へ」
いつからそうしていたのか。
懐中電灯ではない、備え付けられた燭台のロウソクに灯された幾百の炎が、布を被せて乱立させたキャンパスのようなものや四方の壁に影を躍らせる。
「水を支配するモノ、炎を繰るモノ、音を識るモノ、力を握るモノ、今宵の観客の皆々様は実に興味深い」
恭しく頭を垂れ、超然とした笑みを貼り付け、クロウは挨拶を述べてみせる。
「これより皆様に触れていただくのは、実に美しく精製された高純度の闇と罪でございます」
「……レイリー・クロウ」
「おや、名を覚えていただけたとは光栄ですねぇ、リンスター総帥」
「ホテルでは大変印象的な自己紹介を頂きましたからね」
対峙する、この世ならざるふたつの美。
「何をなさるつもりです?」
「私は美しく煌く宝をコレクションするもの、そして、闇を喰らうもの」
ゆえに、と彼は続ける。
「闇を排する皆様から彼のモノを護り、救った純度の高い闇を育て、そうして開かれるアリスの宴を皆々様にごらんいただこうかと」
バッ――
取り払われた布たち。
その下から現れたのは、いくつもの大きな姿見だった。
まるで何かの悪い冗談か、あるいは前衛芸術の作品だとでもいうように、歪みきった鏡が周囲を取り囲む。
そして。
黒い鳥に手を引かれ、少女は彼の背後から姿を現す。
「タマエ、ちゃん」
シュラインの口から、少女の名がこぼれ落ちた。
「彼女は私の名を呼び、私の手を取り、そうしてここにやってきたのですよ」
漆黒をまとう巨大な美しい鳥は、タマエの後ろにつきそうように佇み、嗤う。
何故、と問う言葉すらも飲み込ませる、縁然とした微笑は、冷え冷えとした地下室に底知れぬ奇禍の訪れを予言しているかのようだった。
「アリスの話をしたでしょ、シュラインさん?」
右手にナイフを握り閉めた彼女のカオにも、ひび割れた黒い微笑が浮かんだ。
「帰るべき場所を探す迷子のアリス、あの子と同じように、わたしたちはわたしたちの愛を閉じ込めておける、いるべき楽園を探しているの」
タマエであってタマエではなくなったモノ――鏡の虚像≪アリス≫は、崇高なる理想を語る乙女の笑みを湛える。
「そのために……この学園を訪れた侵入者を生贄にしたのね? 失くした服はすべて血で汚れてしまったから燃やした。調理室から消えた包丁は、都築さんが森の中から見つけてくれたわ……」
ここへ来る前に、シュラインの中で全ての物語はひとつの形を構築し終えていた。
「はじまりは、そう……十二年前、ね」
十二年前。
どのような背景があったかはわからないが、アリスと呼ばれるひとりの少女が惨劇を引き起こた。
しかし、それでも一度はあらゆる手段を用いて、事件は隠蔽されたのだ。
礼拝堂に淀んだ魔を閉じ込め、学園の中にひっそりとした伝説を残すだけに留めて。
だが、時を経て、封じられた罪が暴かれた。
ただ何者かが迷い込んだけなら、事件にはならなかったのに。
4人の少女はアリスの伝説を手に入れ、純粋培養で育てられていたがゆえに欠落した感性で、その手を楽園幻想の罪に穢したのだ。
やがて、ふと小さな不安を覚えた。
誰かが、この夢から目を醒ましてしまったら、楽園へ逃避するという願いは潰え、後はもう、世界が壊れるのを待つばかりなのではないかと。
でも、どうして――どうしてそんな真似をしてしまったのかと、そう続けることをシュラインはしなかった。
代わりに選び、差し出したのは、優しい厳しさを湛えた言葉。
「閉鎖的小箱、閉じた箱庭、逃れられない籠の鳥……けれど、本当はそんなものはどこにもないのよ。逃げようと思えば、方法はいくらでもあるんだもの。迷子なんかじゃないわ」
「……いや、夢を壊すようなことを言ったらダメよ」
彼女はふわふわと微笑む。
「好きなの、愛しているの、ずっとこのまま永遠に、幸せな夢の世界で一緒に暮らしたいの。許されざる罪を共有し、許されない罪とともに、わたしたちはアリスになる」
あの子たちは特別だから。
名前で繋がれた、生まれた瞬間に結ばれることが運命付けられた4人だから。
「一方的に愛を押し付けてはだめ……そんなこと、してはダメよ。名前で繋がっているのがステキだって、運命だってノゾミちゃんは笑っていたけれど、それに縛りつけちゃダメ」
せりなの言葉も、少女の心には届かない。
「妄執に捕らわれれば、戻れません。俺はそうした魔を見続け、対峙してきました。カナエクンは確かにキレイなら鏡の向こう側へ行きたいと言ったが、血塗れになることを望んだわけじゃない」
都築の声にも、耳を塞ぐ。
「ずっと一緒にいたいとミノリさんも願ってはいました。けれど、こんな哀しいことがなければもっと楽しいのだと言っていましたよ」
セレスティもまた、少女の想いを語る。
けれど、タマエは取り合わない。
「あなたたちを生贄にすれば、アリスの扉は開かれる……」
そうしてうっとりと呟きをもらし、刃物の光に目を細めるのだ。
「そんな真似をしても、その先に本当の幸せが待っているはず、ないじゃない」
それでもせりなは、静かに、けれど懸命に諭す。
ゆらゆらと頼りなげに揺れる儚い心の炎を見つめ、鏡を抱いた少女に語り掛ける。
「楽しい夢はいつか醒める。無理に心を縛っても、その綻びは時とともに大きくなっていくだけよ」
「そんなことないわ。心を縛りあうのは無理矢理じゃない。そして、楽しい夢は鏡の向こうで永遠になるの」
ふわりと彼女は嗤う。
細い触手のように揺らめき踊っていた闇が、彼女の心の同調し、刺々しくカタチを変えて膨れ上がる。
「わたしたちはこのままじゃここから逃げられない。ずっと迷子のまま。そんな運命から逃れたいという望みを叶え、実らせるたに、アリスの扉と儀式は必要だから」
「ノゾミ、カナエ、ミノリ、タマエ……ということね」
「ねえ、シュラインさん。わたし、あの子たちを愛しているわ。あの子たちは特別。こんな汚い世界から逃げ出して、美しい夢を見るべきなのよ。血の結束、魂の契り、ソレはきらびやかな幸福を約束してくれるわ」
金のためにヒトを陥れる。
権力のためにヒトを踏み潰す。
私利私欲のために、娘を差し出す。
そんな醜く穢れた親たちから逃れ、真実の愛と共に幸福の楽園に棲まうのだと彼女は言う。
「アリスの儀式をあの子たちも楽しんだ。みんなみんな、楽しんだ。どんな瞬間よりも、儀式を執り行っている間のあの子達が一番キレイだった」
噴き上げる、闇。
鏡の中に、少女たちが映る。
妙に現実味の薄い不可解な存在感で、彼女は鏡の中の仲間に語りかける。
「ね、お揃いだわ。私たちの両手は真っ赤、服もカオも返り血で真っ赤、なにもかも真っ赤だけれど、秘密の花園にいる限りは幸せなのよ?」
想いを受け止めて。
想いを受け入れて。
そう願う心が、引き合う。
『そうね』『楽しかった』『とてもとても楽しくて』『ずっとこのまま一緒にいられたらステキ』『アリスのように』『儀式を』『楽園を』『そのための生贄を』
結界をはり、ホテルで待機しているはずのノゾミ、カナエ、ミノリ、3人の姿が鏡の中で揺れ、虚像は歪な笑みを浮かべる。
彼女たちの一部は既にこの中で、明確な自我と実体を持ちはじめてしまったのか。
「少しずつ少しずつ、魂を鏡の中に映していくの。儀式の途中で目が醒めてしまったら哀しいから、記憶も一緒に閉じ込めながら」
そうしながら、彼女たちは殺した。
白く華奢な手にはモノを握って、この地下で、罪を犯した。
彼女たちは逃避を願い、悪魔的ともいえる偶然の重なりあいによって成就させる術を得て。
そうしてすべては儀式という必然になりかわってしまった。
だから。
「わたしたちの楽園の礎になって?」
無垢なる彼女の提案に、黒衣の魔物は優しく艶やかに囁き、賛同する。
彼の指と彼女の指が重なる。
彼の声に、彼女の声が重なる。
「そう、殺すのがいい。永遠を手に入れるならば」
「そうね、殺すのがいい。死こそが永遠の楽園へと導く鍵」
うっとりとタマエは嗤い、今や部屋全体を覆うほどに膨れ上がった闇をまといながらナイフを振りかざして。
「鏡を通して、あの子たちも呼ばなくちゃ。一緒に儀式を楽しまなくちゃ」
「そうは、させません――っ!」
ぐわん。
闇が震えた。
不可視の力で溢れた都築の拳が、クロウのたなびくマントを削り、厚い鏡を粉々に砕き割った。
「鏡の中には渡れない。俺はそういったチカラを有していませんからね。ですが、ここでできることならありますよ」
「おや、私と戦おうというのですか?」
黒鳥は冷酷に目を細め、冷笑に嘲りの色を濃く乗せた。
「やりあいたいわけではありません。何事も穏便に……それが信条ですから。ただ……」
握り締めた都築の拳は、更なる≪鏡≫砕きのために振るわれる。
少女を抱いて避けるクロウと、それを追い掛けているかのような都築。
奇妙な追いかけっこの末に、魔を宿し、チカラを内包し、少女の記憶を映しこんで操るモノが、ただのガラス片に変わっていく。
「彼女たちを護る、その一点を譲るわけにはいきませんから」
「そうね。どんな結末になっても、私はこの子たちのために戦わせてもらうわ」
せりなの瞳が青い燐光をまとう。
手の中に生まれる炎。
清浄なる美と荘厳さを湛えた、チカラの具現。
「揺れる彼女たちの心を守りたいと、そう私は望んでいます」
カーニンガムは静寂を身にまとい、しなやかな指先で操るのは『水』だけではないのだと、たおやかな笑みで告げる。
「運命は変わる」
ソレは神のごとき指揮者の演奏。
「この瞬間、運命を紡ぐ糸は私の指と絡まり、私とともに新たな旋律を描き出す」
ヒトならざるがゆえに長い時を紡いできた彼の声は、闇をも祓い、べっとりと両手を染め上げる鮮赤の罪すらも拭い去っていく。
鏡の中の少女たち。
見知っていながら見知らぬ咎人の影が、べりり……と音を立てながら少女たちから引き剥がされる。
そして――
「逃がさないわ――っ」
シュラインはただ二つだけ残る『入り口であり出口である』姿見で、もがき逃れようと暴れるソレを受け止め、すかさず合わせ鏡とする。
彼女によって生みだされたは、映し、捕らわれる、逃れることのできない無限の牢獄。
閉じていく。
閉じ込められていく。
少女たちから生まれ、少女たちを操り、少女たちの記憶を食い潰しながら実体を持ちつつあった禍々しき存在が、閉じ込められる。
「せりなさん――っ」
「任せてっ」
黒布ごと、突き出されたせりなの炎が鏡をぐわりと包んだ。
誰も触れることのできない、何者も干渉することの許されない、潔癖の蒼さで、1000度を超える炎は『罪』を閉じ込めた鏡をどろどろとしたただの液体へと変えていく。
鮮やかな連携。
美しい、宴の終焉。
「レイリー・クロウ、これでもあなたはまた少女たちを唆すつもりなのかしら?」
「あなたの計画は破壊されたわ。それでも?」
これ以上手がないことを見透かすように、シュラインはせりなと共に並び、立ち、正面から主催者を睨みつける。
「ならば俺が相手をしましょうか」
意識を失ったタマエを抱き起こし、都築が睨みつける。
「あなたが望んだ闇はもうここにはありませんが、いかがでしょう?」
4人の視線を一心に受け、くつくつと彼は嗤う。
追い詰められたという感覚も、そして自身の目論見が費えたという状況も、まるで意に介していないかのように、実に愉しげに笑みをこぼして。
「……これはこれは……いささか分が悪いですからねぇ。今夜はめずらしいショーを見せて頂きましたし、これで暇を告げましょうか」
漆黒の鳥は、鏡からあふれ出した闇と共に空へ溶けて消えた。
追いかけるモノは誰もいない。
そうしてあとには、闇の溶けたあどけない寝顔を見せる少女と、調査員たちだけが残された。
血の穢れは都築が祓うことで正常化されていく。
しかし、拭えないものもあるのだ。
「……彼女たちが殺した彼女たちの罪……」
「この地下に潜むアリスという魔がそれをなしたとするには難しいのでしょうが……」
タマエを捉えていた闇は、黒い使者とともに消えた。
だが、ここで行われた罪までは消えるわけではないのだと言うことを、せりなも都築も理解している。
「ひとつ、考えていることがあります」
全てが終わったわけではない、その重苦しい雰囲気の中、カーニンガムと、そしてシュラインの表情に曇りはない。
彼は眠る少女の服から、手鏡を取り出し、翳して見せる。
「この鏡の中には姿を映したモノを取りこむ性質があるようなのです。もし、犠牲者たちの魂の一部でもここに映りこんでいたのだとしたら、それを元に鏡の中から彼らを実体化させられるかもしれません」
その手配は請け負うと、カーニンガムは微笑んだ。
「……なかったことにはできないし、時は巻き戻せない。でもそれに近い状態にまで回復させられるかもしれないと私も考えているわ」
少女たちの求めた『楽園』は、方法こそ間違ってはいたけれど、願った想いそのものまで否定することができない。
だから、せめて全員を救える可能性があるのならソレにかけたいというのが、シュラインの、今この瞬間に叶えたい願いだった。
月はゆるやかに天空を横切って行く。
アリスの宴は、閉じられた。
*
表通りから離れ、路地裏に構えられていた一軒のアンティークショップ。
普段の姿というものがまったく想像できないその店の奥で、ごく小さな茶会が催されていた。
天井から下がる鈴蘭のシャンデリアが橙のやわらかな光をそっと頭上から注ぎ、白百合をモチーフとした華奢な白磁のティーカップから香る紅茶が黒をまとう二人を楽しませる。
「やれやれ……せっかく育てたというのに、食べ損ねてしまいましたよ」
さほど残念がる素振りもなく、それでもやや芝居がかった様子で、クロウは肩を竦めて哀しげな笑みを浮かべて嘆いてみせた。
「少々反則ではないですかねぇ」
運命の糸を操れるモノはそういない。
だが、やってのけるモノがいた。
「たまにはこういう結末も新鮮でよいのかもしれません」
手元に排した水晶をそっと撫ぜ、語られた一部始終に興味深く耳を傾けるのは、この店の主だ。
「時にヒトはこのような楽しみを与えてくれるから、やめられません」
「そう言われてしまうと確かに、ちょっとした余興ではありましたが」
「それだけではご不満ですか?」
「……何も手にすることなく帰るというのも寂しいものですから」
「では」
――カロン。
「おや、お客様のようですよ」
「ええ、そのようですね」
会話を途切れさせたのは、来訪者を告げる鐘の音。
例え誰かが別の誰かの手によって『夢』から目醒めてしまったとしても、別の『永遠を夢見るもの』によって、この扉は開かれる。
「いらっしゃいませ。ここは夢を永遠にする場所――あなたは何をお求めになられますか?」
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【3228/都築・秋成(つづき・あきなり)/男/31/拝み屋】
【3332/藤井・せりな(ふじい・せりな)/女/45/主婦】
【6382/レイリー・クロウ/男/999/商人】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、こんにちは。廃墟探索に心惹かれ、古城をメインとしたモノクロの写真集にうっとり溜息をこぼすライター、高槻ひかるです。
上乗せ期間ギリギリまでお時間を頂いてしまった当依頼にご参加くださり、誠に有難うございます。
22タイトル目の今回は、ひそかにシリーズと化している【アンティークショップ・獏】の第4弾でございます。
本編は基本個別描写がメインなのですが、物語の分岐はありません。
相変わらずの分量ではありますが、長くじんわりと綴られた少女たちとの時間を少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
>セレスティ・カーニンガムPL様
6度目のご参加有難うございます!
少女の心を護りたいと言ってくださった総帥の優しさに触れ、今回、最悪のバッドエンドを回避する着地を見つけるコトができました。
ほの暗さを残しつつも決着を見たこの物語ですが、セレスティ様には真のハッピーエンドに至るまでもう少しご尽力いただくことになりそうです。
なお、能力についていくぶん拡大解釈めいた作用となっておりますが、お許しいただければ幸いです。
それではまた、別の事件でお会い出来ますように。
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