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<東京怪談・PCゲームノベル>


桜媛奇譚――雨歌の章――



■ 宿夢 ■

 ひとひらの花弁が目の前を過ぎり、藤宮永は我に返った。
 見上げた空には朧に霞んだ月が浮かんでいた。直線状に続く真白の砂利道が、仄かな月光に照らされて次第に浮き彫りにされてゆく。沿道には、紅色の花弁をつけた無数の桜が植えられていた。
「……さて、ここはどこでしょう?」
 見知らぬ場所だった。
 夢でも見ているのだろうかと思いはすれど、踏みしめる砂利の感覚や、眼前に広がる光景は、夢にしてはあまりにも鮮明過ぎた。だが、夏に桜が咲くなど聞いた事が無い。
 乾いた風が流れる。その流れに乗って花弁が舞い散り、白い砂利をうっすらと紅色に染め上げる。
 月光に照らされたそれはまるで血の涙のようにも見え、永は己を取り巻く空気に顔をしかめた。
「あまり良い場所とは言えませんね……何か、錆びた匂いが立ち込めている」
 恐らく血の匂いだと、永は漠然と思う。前方から風に乗って血の香が流れ込み、この辺り一体に充満しているのだ。
 あまり深入りしない方が良さそうだと、永がそう判断をして踵を返そうとした時。どこからともなく多くの子供の声が聞こえてきた。ひそひそとしゃべる声や笑い声、わらべ歌を歌う声などが至るところから聞こえてくる。
 永が再び視線を巡らすと、突如として桜が意志を持ったように枝をしだらせて道を塞ぎ、永がこの世界から抜け出ようとするのをせき止めた。
 行く手を阻まれ、永は軽く溜息を零す。
「……どうやら厄介な事に巻き込まれたようですね」
 だが戻る事が叶わない以上、先へ進むしかない。この先に何が待っているのかは解らないが、とりあえず行ってみようかと思い直すと、永は血の香のする方へ向って歩き出した。


 道の終わりに、一人の青年が佇んでいた。
 深縹色の長い髪を一本に結い上げ、藍色の狩衣を来た青年は、永の足音に気付いたのか、ゆっくりと振り返る。視線が合い、永は青年に言葉を紡ごうとした。けれどそれよりも先に、青年は己の口元に人差し指を押し当てながら、静かにするようにと永を無言で制した。
 永がそれに応じて口を閉ざすと、青年は人差し指でついと前方を指し示した。そこには一際大きな桜の古木があった。その樹の元で、一人の少女がこちらに背を向けて泣いている。
 長い黒髪を湛え、桜柄の和服を身に纏った少女の泣き声が、周囲の静寂を打ち破った。

『助ケラレナカッタ――……間ニ合ワナカッタ――……』

 一体何を助けられなかったのか。
 少女の背中を見つめていると、永はやがてある事に気がついた。
 座り込んでいる少女の周りに、血だまりが出来ているのだ。よく見ると少女は己の腕に、別の少女を抱いている。腕に抱かれた少女は血にまみれており、既に事切れているのか、その顔からは生気が失われていた。
 先ほどの血の匂いはここから流れてきたのかと、永は悟る。

『何ガ祀リダ――……コンナ事ノ為ニ――……』

 憎々しげに少女がそう呟いた次の瞬間。
 少女を中心にして豪風が巻き起こった。荒れ狂った風は次々と周囲の木々をなぎ倒し、枝に咲かせた花さえも奪い去ってゆく。
 だが、その暴風が永や深縹の青年を傷つける事は無かった。目の前の光景が現実のものではないからなのか、それともこの深縹の青年が、永に害が及ばないよう何かをしているのか。いずれにせよ自分がこんな場所にいること自体、理由がわからない。永はただ静かに目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。


 風が収まり、周囲に静寂が戻り始めた頃。永の隣に佇んでいた深縹の青年がぽつりと言葉を零した。
「……夢が終わり、夢が始まる」
 気がつくと、先ほどまで樹の元に座り込んでいた少女の姿は消え去っていた。永の眼前には、全ての花弁を落とした巨大な桜の古木が一本残されているだけである。
 一体何が起こったのか、何が起こっているのか。判然としないままに永は深縹の青年へと問いかける。
「今のは一体……」
「あれは過去の残像……桜の古木に宿る神が、かつてこの地で起きた出来事をいまだに夢に見続けているのです」
「随分と禍々しいもののように感じられましたが……」
 自分をこの場に留めた桜の木々や子供達の声。そして血にまみれた二人の少女。どう考えても、良い夢であるはずがない。
 深縹の青年は永の言葉に無言で頷くと、微かに視線を地へと落とした。
「夢に歪みが生じ始めています。このまま放っておけば、この神木桜に宿る神は人間に禍をもたらすものになってしまう」
「禍をもたらすとはまた、随分と切迫した状況のようですね」
「ええ。古木を夢から目覚めさせれば……現実を現実と認めさせれば、自我を取り戻して正気に返ってくれるかもしれませんが」
「……なるほど」
 ここへ来るよう促したのは、桜の木々だった。もしかしたらあの木々は、永にこの古木を助けて欲しかったのかもしれない。だから返ろうとする己の足を止めさせ、この場所へと向わせた――。
 助けを乞われてそれを無下に断ろうものなら、それこそ神の祟りを蒙りかねない。永は再び軽い溜息を零すと、深縹の青年へと向き直った。
「ところで私は藤宮永と申しますが……貴方は?」
 このご時世に狩衣を身に纏っているような相手だ。到底一般の人間とは思えない。かといって青年からは邪悪な気配を感じなかった。
 永の問いかけに深縹の青年は一度瞳を瞬かせると、そういえばまだ名乗っていませんでしたね、と穏やかな口調でこう言った。
「僕は夏の神で……蔓王と申します」
「夏の神、ですか」
 神木桜に夏の神。日本という国には一体どれだけの神が存在しているのだろう。そう思いながら、永は蔓王へ向けて笑顔を見せた。
「私に出来る事は限られていますが、宜しいですか? 夏神様」
 乗りかかった船である。神木桜を助けられるかどうかは別として、このまま何もせずに戻ってしまうのは、流石の永も気が引けた。
「……この夢の中では、僕は思うように動けません。ご助力頂けると助かります」
 永の言葉に蔓王はそう返しながら微笑む。瞬間、周囲を眩い光が取り囲み、永は咄嗟に己の瞳をきつく閉じた。



■ 雄滝村 ・ 伊―呂 ■

 どれほどの時が流れたのか。一瞬のような気もするし、随分と長い事瞳を閉じていたようにも思う。
 今まで目蓋裏に感じていた鋭い光が、次第に柔らかなものへと変化してゆく。それと同時に、先ほどまで周囲に満ちていた穢れが一転して、優しい澄んだものへと変わった気がした。
 耳に届くのは、頭上から降り注いでくる数多の蝉の声。その蝉の声に誘われるようにしてうっすらと瞳を開くと、いつの間にか月も夜の闇も消え去り、世界は夏の光で溢れかえっていた。

「……ここは?」
 周囲を見渡して、最初に言葉を放ったのは榊紗耶だった。
 先ほどまであったはずの桜の古木は消え去り、いつの間にか、眼前には古ぼけた鳥居が姿を現していた。その鳥居の向こうには、白砂利で埋め尽くされた道が真っ直ぐに続いており、遥か向こうにもう一つ鳥居が見える。
 続いて言葉を発したのは芳賀百合子。
「不思議な場所……どうして神様の通り道を塞いでいるの?」
 白い砂利道と二つの鳥居がある事から、ここが神域である事を察したのだろう。砂利道を「神様の通り道」と呼んだ百合子は、己の背後を眺めながら不思議そうに呟いた。
 前方にはどこまでも続く長い参道があるのに対し、鳥居の外――百合子達の背後には、巨大な屋敷が建てられ、土塀が参道を塞いでいる。
 百合子の言葉に、周囲を見渡していた冷泉院蓮生がぽつりと呟く。
「でも、さっきまで居た場所とは違うような気がする。ここは神聖な空気で包まれている」
「いえ、同じ場所なのでしょう。私が見た夜の世界とこの場所とでは、恐らく時間が違います。まだ、何も起こっていないのですよ」
 今この場に集っている全員は、恐らくあの惨劇を見ているのだろう。蓮生の言葉にそれを察し、返事を返したのは藤宮永だった。
 血まみれの少女と、それを抱くもう一人の少女――。
 樋口真帆は、微かに瞳を伏せながら、先ほど見た夜の光景を思い出した。
「この先に、あの二人がいるんでしょうか……」
 既に事切れていた少女。まだ何も起こっていないのであれば、あの少女はまだ生きて、この場所にいるはずである。
 その言葉に、五人とは少し離れた場所に居た蔓王がゆっくりと頷いた。
「先ほど皆さんが見た夜の光景は、神木桜が見ている夢の終わりです。そしてここからが夢の始まりになります」
 蔓王は一度全員を見渡すと、ついと鳥居の向こう側を指差した。
「この鳥居より先は雄滝(おだき)村と言います。距離がありますから少々見え難いと思いますが、向こうに見えるもう一つの鳥居の奥には雄滝御流(おだきごりゅう)と呼ばれる神社があります。御神体は、先ほど見た桜の古木です」
「桜の、古木……」
 蔓王の指差す方向を眺めながら、蓮生が反芻するように呟く。
 花をつけていなかったあの神木桜は、一体今どうしているのだろう。夢の始まりであるならば、まだ穢れを帯びていないかもしれない。蓮生は何より神木桜の状態を心配していた。
 蓮生の傍らに居た永は、束の間周囲を見渡し、やがて蔓王の方へと向き直った。
「古めかしい……どこか排他的な印象さえ受けます。このような地に突然私達のような者が入り込んでは、夢主に訝しがられるのではありませんか?」
「……私も、そう思う。お手伝いはしたいけど……村には入れてもらえないような気がする、かな」
 永の言葉に同意を示したのは百合子だった。自分の住んでいる村の因習的な空気を思い出したのだろうか、やや遠慮がちに百合子が呟く。
 蔓王は、一度頷くと、真帆と紗耶を交互に見遣りながらこう告げた。
「そうですね。確かにこのままでは村に入れません。ですから真帆さんと紗耶さんにご助力願おうと思います」
 その言葉に、真帆と紗耶はきょとんとした表情で顔を見合わせる。
「……何をするの?」
「私に出来る事なら喜んで協力します。でも私はまだ見習いだし、大きな事は出来ませんよ?」
 力を貸すといっても具体的に何をすれば良いのか解らずに、真帆と紗耶は首を傾げながら蔓王の言葉を待った。そんな二人に、蔓王は穏やかな笑顔を見せる。
「お二人とも夢を渡る力をお持ちでいらっしゃる。その力をお借りしたいのです」
 真帆も紗耶も、夢見の能力を持っている。夢の内容そのものを大きく変えることは出来ないが、それでも夢から夢へ自在に渡り歩ける力は、この場所において有効的だった。
「この鳥居は、夢の内と外とを隔てる境界になります。何もせずに鳥居を潜れば、間違いなく僕たちは夢の世界から弾かれてしまうでしょう。ですから夢見の力で、夢の内と外とを繋げて頂きたいのです」
「繋げる?」
 紗耶の言葉に、蔓王が頷く。
「僕達は元々この村の住人なのだと、夢主にそう思い込ませるのです」
 夢の改ざんとまではいきませんが、その部分だけ夢をすり替えるのだと、蔓王は言う。
「お二人の力をお借りして、僕達の存在を夢の中に馴染ませます。お二人とも、右手を僕の手の上に乗せて、僕に心を預けてください」
 蔓王に言われるまま、真帆と紗耶は蔓王の手のひらに己の手のひらを重ね合わせた。二人手を蔓王がゆっくりと握り締める。
 一体何が始まるのだろうと、全員が固唾(かたず)を呑んでその光景を眺めていると、不意に、それまで聞こえていた蝉の声がぴたりと止んだ。


 蝉の声、風に揺れる木々の葉擦れの音。夢の世界から、音という音の一切が消えてゆく。
 そんな中、「心を預けて欲しい」という蔓王の言葉の通り、真帆と紗耶は一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと瞳を閉じた。
 蔓王の手のひらから、とてつもなく大きな力が流れ込んでくるのがわかる。それと同時に、己の身の内が次第に熱くなってゆくのを、真帆と紗耶は感じていた。
 嫌な感じはなかった。全てを包み込むような優しさと、強さとを併せ持つ力は、そのまま蔓王の性質を表しているのかもしれない。その力に、自分達の体の奥底に沈んでいる潜在的な夢見の力が引き上げられ、沸きあがって来る。二人は己の体が浮遊するような錯覚を覚えた。その瞬間、重ね合わせた手の内から眩い閃光が放たれた。
 先ほどとは比類にならないほどの強烈な光は、強風と共に瞬く間に周囲に広がり、夢の世界を覆いつくしてゆく。


 気付いた時には、何事も無かったかのように世界に音が舞い戻っていた。
 じわじわと喚き立てるように鳴く蝉の声に、思わず両手で耳を塞いだのは百合子だ。
「……耳、痛い」
「すぐに慣れますよ」
 百合子の言葉に、蔓王は一度小さく微笑んでそう告げると、真帆と紗耶へ向き直って声をかけた。
「真帆さん、紗耶さん、お体は大丈夫ですか?」
 眠っている力を最大限に引き上げて夢の世界へ解き放ったのだから、体力を消耗してもおかしくはない。だが、それよりも自分の中に在る力の大きさに驚いて、紗耶と真帆はやや呆然としながら蔓王へと頷いた。
「平気。なんだか体が熱いけれど……」
「大丈夫です。でも今ので、私達は夢の世界に受け入れてもらえたんでしょうか?」
 力を放出したのは確かだが、目に映る光景は先ほどと何らかわりが無い。実際のところ、自分達が古木の見る夢の中に馴染んだのかどうかは、良く解らなかった。
 その時。

「そんな所で何をしておる」
 ふと誰かに声を掛けられて全員がそちらの方へ視線を向けると、鳥居の向こうに腰の曲がった老人と、まだ幼さの残る顔立ちの少女が佇んでいた。
 老人の顔は貧相ではないにしろ随分とやつれており、疲れが見え隠れしている。身に纏った和服も麻のもので、かなり着古したものだった。
 老人は鳥居の外にいる全員を一瞥すると、眉間に皺を寄せながら深い溜息をついて言い放った。
「もうすぐ御縄結いが始まるというのに……そんなところで油を売っとらんで、さっさと呂の鳥居に集まらんかね」
 これだから若い者は……と独り言のように言うと、老人は踵を返して真白の砂利道を歩き出す。
 残された少女は老人を見送ると、全員を見渡しながら声をかけた。
「皆まだ伊のところに居たのね。呂の御縄の儀式がもうすぐ始まるわ。村長(むらおさ)も気が立っているから、一緒に行きましょう?」
 どうやら真帆と紗耶の力が通用したのか、全員はこの村に最初から居たものとして捉えられているようだった。

 内と外とを隔てる鳥居を「伊」、遥か先に見える鳥居を「呂」と呼んだ少女は、長い黒髪に上質の桜柄の和服を身に纏っていた。まだ16、7歳程なのだろうか。均等の取れた顔は可愛いというよりも美しいと称した方が似合っている。けれど微笑む少女はどこか儚げで、物静かな印象を全員に与えた。
 蓮生は少女の顔を見た瞬間、先ほどの夜の光景を思い出した。間違いなくあの古木の下に居た少女だ。
「……雨歌? 桜? どっち?」
 泣いていた少女か、それとも死んでいた方の少女か。どちらも同じ顔をしていたから、今ここに居るのがどちらなのか、蓮生には解らない。
 少女は蓮生の言葉に一度微笑むと、こう言って返して来た。
「私は桜の方。雨歌なら拝殿で子供達と遊んでいるわ」
 早く行きましょうと告げてくる桜に従って蓮生が歩みを進めると、やがて真帆、百合子、紗耶、蔓王は伊の鳥居を潜って参道へと進んだ。
 一人残った永は、束の間鳥居を眺めた後で、全員よりも遅れてゆっくりと鳥居を潜り抜けた。


*


 伊の鳥居から呂の鳥居まではかなりの距離があった。
 参道の両脇には木々が植えられ、その奥には数多の家屋が軒を連ねている。
 呂の鳥居へ辿り着くまでの間、永はただ静かに村の様子を眺めていた。建てられている家屋は全てが木造平屋の簡素な造りで、土塀が突き崩されている家まである。時折家の中から参道へと村人が姿を現したが、彼らが身に纏う和服もまた上等なものとは言い難く、綻びが多く見られた。
 裕福な村ではないのだろう。その分、絹の和服を身に纏っている桜だけが、村の中でも特別な存在のように感じられた。
 それを裏付けるかのように、村人は桜の姿を見るや否や「桜媛様」と口々に名を呟き、深々と頭を下げて来る。六人を先導するように歩く桜は、そんな村人に軽く会釈を返していた。
 桜と村人との間には、一線を隔てた何かがあると察した永は、斜め前を歩く蔓王へと声をかけた。
「彼女はどのような立場にあるのでしょう? 皆随分と恭しく振舞っているようですが」
「村の巫女です。祀り神の声を聞き、それを村人に伝える役割を担っていますから……」
「なるほど」
 神事の巫女であれば、桜だけが上質な衣を着ている事も、村人達が桜に頭を垂れて来る事にも得心が行く。
 村人達は桜に拝礼すると、重々しい様子で鳥居へと向かって歩みを進めていた。

 大勢の人の気配に気付いた紗耶は、誰に問いかけるわけでもなく不思議そうに呟いた。
「呂の鳥居に随分と人が集まっているようだけれど、これから一体何が始まるの? 先ほど御縄の儀式と言っていたけれど……」
 その声が桜の耳に届いたのだろう。桜は歩きながら微かに顔を紗耶の方へと向けてくる。
「呂の御縄結いの儀式が始まるのは正午からよ。早朝に伊の御縄結いを終えたでしょう?」
「御縄結い……?」
 聞きなれない言葉に、紗耶が口元で小さく桜の言葉を反芻する。すると、隣を歩いていた百合子が桜のかわりに言葉を紡いだ。
「鳥居の注連縄、張り替えるんだと思う……御縄結いって、聞いたことあるよ」
「呂が終わったら、深夜には波の鳥居の御縄結いが行われるわ。波の儀式は女性だけで行うから、紗耶さんも百合子さんも真帆さんも、まだ休んでいて大丈夫よ」
 伊と呂は男の人の仕事だから頑張ってねと、桜は蓮生と永を見つめながら微笑んだ。


 桜の言葉から察するに、この村内には三つの鳥居があるようだった。
 村の入り口にある鳥居が「伊」。これから向おうとしている神社の前にある鳥居が「呂」。そして深夜に注連縄を張り替えるという「波」。
 蓮生は次第に近づいてくる呂の鳥居へ視線を向けた。
 ここからでも、その巨大さが手に取るように解る。あの鳥居の注連縄を張り替えるのだから、かなりの肉体労働になるだろう。蓮生は思わず瞳を細めながら呟く。
「一日かけて注連縄を張り替えるのか……でも俺、重いもの持ち上げるだけの体力が無い……」
 自然や動物達と意志の疎通を図る事は可能だが、その分体力が皆無なのは自負している。仕事をしろと言われても、肉体労働だけは自分の手に負えそうも無かった。
 蓮生のそんな言葉を聞いた桜は、ふふと楽しそうな笑顔を浮かべると、視線は鳥居へ向けたまま蓮生へ返した。
「御縄を張る人達は既に選ばれているでしょう? 蓮生さんや永さんは手鏡を持って鳥居の前に座っているだけよ」
 桜の言葉に、永がふと顔を上げる。
「鏡、ですか」
「そういうしきたりでしょう?」
 忘れてしまったの? とでもいう風に桜は首を傾げたが、やがて視線を落とすと、独り言のような言葉を零した。
「でもそうね。この祭祀自体、随分と久しぶりに行われるから……私もあまり記憶には残っていないわね……」
 三つの鳥居の注連縄を張り替えている間、村人は手に鏡を持ってその儀式を見守り続ける――古来から村に伝わる祭祀は、桜の言葉からも毎年行われるわけではないようだった。

 それまで参道を歩きながら、興味深そうに村を見渡していた真帆が、ふと桜へと質問を投げかけた。
「桜さんは村の巫女なんですよね。巫女は御縄結いの時、何をしているんですか?」
 巫女というからには、当然何か特別な事をするのだろう。
 紗耶も「儀式なら巫女が祈祷したりするのかな」と、真帆の言葉に付け加える。だが、桜から返ってきた言葉は予想外のものだった。
「何もしないわ。巫女に選ばれた人間は、時が来るまで何もしないの。だから波の御縄結いにも携わらないわ」
「時って?」
「……来年の三月まで。私の役目は、呂の鳥居の内側で、ただ静かに時を待つこと」
 来年の三月――
 一体何が行われるのか解らず、真帆は再び桜に問いかけようとした。だが、それを拒むかのように桜は歩く速度を速めた。

 気付けば呂の鳥居は目前。随分と古びてはいるが、伊とは比類にならないほど巨大な木造の鳥居が目に留まり、思わず真帆は口をつぐんだ。
 後ろを歩いていた百合子が、呂の鳥居を見上げた途端、僅かに顔をしかめる。
「……なんだろう……嫌な感じがする」
 呟いた百合子自身、何が嫌なのかは解らなかった。ただ鳥居と、鳥居に張られている古びた注連縄とが、百合子の心内に不快感を芽吹かせる。
 それは蓮生も同じだった。見えないものを見、それらと対等に渡り合える人間のみが感じ取れる何か――。それがこの鳥居にはあるようだった。
 桜は無言のまま、真っ直ぐに呂の鳥居を潜り抜けると、拝殿へと歩みを進めた。


 桜に従って呂の鳥居を潜ると、正面に荘厳な造りの拝殿が姿を現した。
 圧巻としか言いようのない巨大な拝殿は全ての柱が朱で塗られ、中央には見事な注連縄が張られている。参道に軒を連ねていた民家と拝殿とでは、雲泥の差の造りである。
 それに驚き、永は思わず感嘆の溜息を零した。
「これは……また見事な拝殿ですね」
「…………」
 だが、傍らに居た蔓王は、無言のまま険しい表情で拝殿を見上げている。蔓王のその様子に気付いた永は、首を傾げながら蔓王へ問いかける。
「どうかしましたか? 蔓王さん」
「いえ。どうという事はないのですが……」
 言いよどむ蔓王に、永が再び言葉を発しようとした時。
「あれは……雨歌?」
 蓮生の声が聞こえて、永は拝殿の脇に建てられた小振りの社殿へと視線を移した。社殿の前には、数人の子供達と一緒にお手玉で遊んでいる少女が居る。
 桜は蓮生の言葉に頷くと、穏やかな口調で少女の名を呼んだ。
「雨歌!」
 桜の声に、雨歌は束の間視線を彷徨わせ、やがて拝殿前に桜と六人の姿を見つけると、嬉しそうな笑顔を浮かべて手を上げた。



■ 雨歌 ■

 社殿の前に居た雨歌が、数人の子供達に背中を押されながらこちらへと近づいてくる。その雨歌の容姿を見た途端、紗耶は微かに驚きの色を浮かべた。
「……桜さんと雨歌さんは、双子なの?」
 一卵性なのだろうか。顔は言うに及ばず、長い黒髪も身長も、桜柄の和服までもが同じで、一体どちらが桜でどちらが雨歌であるのか、一見しただけではまるで見分けがつかない。
 紗耶は二人が立ち並ぶ様子を見て、思わず自分の兄の存在を思い出した。
 自分と魂を分けた半身――この二人にも、自分達と同じような繋がりがあるのだろうか。
 紗耶の言葉に返事を返したのは、雨歌の方だった。
「双子よ。見れば解るでしょ?」
 雨歌はさも当たり前といわんばかりに笑いながらそう言って、隣に佇む桜へと抱きついた。そんな雨歌に、桜はただ困ったような表情を浮かべるだけで、返事を返す事はしない。
 百合子は二人の様子を眺めながらニコリと笑顔を浮かべる。
「雨歌さんと桜さんは仲良しなんだね。同い年の姉妹って羨ましいな」
 百合子には歳の近い兄弟姉妹が居ない。もし自分も双子だったりしたら、色々と悩み事を相談出来るのになと、百合子はポツリと羨ましそうに呟いた。

「雨歌姉ちゃんお手玉はぁ?」
 気がつくと、それまで雨歌を取り囲んでいた子供達が、和服の裾を引っ張りながら雨歌を見上げていた。
 まだ遊び足りないのか、子供達は頬を紅潮させたまま両手にお手玉を握り締めている。雨歌はそんな子供達へ向き直ると、パンパンと軽く手を打ってお姉さん口調で言葉を紡いだ。
「今日はもうおしまい! これから大人は忙しくなるから、子供は帰って家の中で遊んでなさい」
 雨歌の言葉に、子供達は不服を示した。全員から「えー!」という不満の声が上がり、その中の一人が雨歌へと言い放つ。
「雨歌姉ちゃんだって子供のくせに、大人とかゆってるー」
「ねー。子供のくせにー」
 その様子を見た雨歌は、群がる子供達の一人を背ろから羽交い絞めするようにして抱きしめる。
「こらぁっ。誰に向って生意気な口きいてるのかなー!?」
 言葉とは裏腹に、雨歌はその顔に満面の笑みを浮かべていた。羽交い絞めにするといっても半ばじゃれあっているだけである。子供も雨歌に抱きしめられた事できゃっきゃと笑い声をあげていた。
「今日は御縄結いの日なんだから遊ぶのはこれで終わり! また今度皆で遊ぼう!」
 雨歌はそう言うと、子供達の頭を一人づつ撫でて背中を押す。子供達はそれで漸く雨歌と遊ぶ事を諦めたのか、笑いながら手を振って呂の鳥居の外へと走って行った。


「子供って元気よね。無邪気でさ、何も悩みなんてなさそうだし」
 子供達の後ろ姿を見送りながら、雨歌は軽い溜息とともにそんな独り言を零した。
 同じ顔をしてはいるが、儚げな印象の桜に対し、雨歌は明るく、どこか親しみやすい雰囲気を抱いた少女だった。
 そんな雨歌へ、桜が心配そうに言葉を紡ぐ。
「……雨歌、あんなに動きまわって大丈夫なの?」
「平気よ。桜は心配のし過ぎだって」
 桜が雨歌の体をいたわるような言動をしたことに気付いた蓮生は、ふと顔を上げると雨歌を見つめた。
 先ほどまで子供達とじゃれあっていた雨歌からは、体調の悪さなど微塵も感じられない。顔色が悪いというわけでもなく、むしろ儚げな空気を漂わせる桜の方が余程病弱なように見える。それでも、桜の言葉が気になった蓮生は、雨歌へと質問を投げかけた。
「具合、悪いのか?」
 口数は少ないが、それでも蓮生が雨歌を心配する気持ちは伝わったのだろう。雨歌は満面の笑みを浮かべて蓮生へと返してきた。
「悪くないわよ、ここのところ全く雨が降らない上に暑いから、ちょっと目眩はするけど」
「やっぱり目眩がするんじゃないの……」
「だから大丈夫だってば! 別に病気ってわけじゃないもの……もうっ、皆過保護過ぎ!」
 蓮生と桜の心配そうな視線を受けて、雨歌は苦笑交じりに「私は大丈夫だから」と念を押した。

 そのやり取りを眺めていた真帆は、百合子へ近づくと耳元でこそりと囁く。
「双子だから顔はそっくりですけど、雨歌さんと桜さん、随分性格が違いますね」
「ん、そだね。桜さんの方がお姉さんなのかな、静かな感じだね。雨歌さんの方がちょっと……えと、大雑把?」
 上手い言葉を見つけ出せず、百合子が少しずれた返事を真帆へ返す。真帆は百合子の言葉にあははと軽い笑い声を上げた。
「それを言うならちょっと短気な感じ、ですよ」
「そっか。短気で庶民的って感じかな」
「そうですね。庶民的っぽいですね」
 真帆と百合子がずれまくった会話を繰り広げていた時だった。
「……ちょっと二人とも、聞こえてるんですけど?」
 不意に雨歌の低い声が聞こえてきて、真帆と百合子は慌てて雨歌の方へ視線を向けた。
 真帆も百合子も、小さな声で話していたつもりだったが、その言葉は全て雨歌の耳に届いていたらしい。雨歌は、むむむと眉間に皺を寄せ、頬を膨らませながら二人をねめつけている。その様子に気付いた二人は、慌てて雨歌へとフォローを入れ始める。
「あっ、えと、えと、悪い意味で言ったんじゃないよっ! 明るくって元気で男の子みたいだなって思っただけで」
「そうですよ! 桜さんは女性らしくて物腰も柔らかですけど、雨歌さんはその正反対といいますか、肝っ玉母さんみたいで明るいなって思います!」
 真帆と百合子の弁明を聞いていた雨歌は、両腕を組みながら溜息を零した。
「あのね、全然褒め言葉になってないわよ、それ」
「…………えへ」
「…………あはは」
 明るいのは良いけど、男の子みたいで肝っ玉母さんって何よ、と雨歌が頬を膨らませながら拗ねているのを見て、百合子と真帆は互いに顔を見合わせると、誤魔化すように笑いあった。


 一方紗耶は、そんな三人のやりとりを微笑ましげに眺めていた。
 自分は率先して会話の中に入っていく性質ではないが、人の会話を聞いているのは楽しいものだと思う。何気なく視線を桜へ向けると、桜も三人から一歩離れたところで楽しそうな笑顔を浮かべている。自分と同じく巫女という立場に在る桜も、他人の会話に割って入るような性格ではないようだった。
 やがて、紗耶の視線に気付いたのか、桜がふわりと柔らかい笑顔を向けてきた。その笑顔を受けて紗耶も小さく微笑むと、思い出したかのように御縄の儀式のことを口にする。
「そういえばさっき、波の鳥居に行けるのは女性だけと言っていたけれど、何故?」
「拝殿から奥は男子禁制なの。だから必然的に波の御縄結いは女性。伊と呂は男性が行う事になっているらしいわ」
「伊と呂の鳥居、女性は手伝わなくて良いの?」
 波の鳥居の御縄結いは夜に行うと言っていた。とすると、自分を含め、真帆も百合子もそれまでは何もする事が無い。暇であるなら、いっそのこと手伝った方が良いのではないかと紗耶は思った。
 けれど桜は、紗耶の言葉に首を横に振って答えた。
「夜通し注連縄を張る儀式を行うから、それまで女性は家で体を休めているか、各々自由に過ごしているわ」

 桜がそう言った時だった。
 話を聞いていた真帆が、妙案を思いついたとばかりに軽く両手を叩いて笑顔を浮かべた。
「それでしたら、今から女性全員で水浴にでも行きませんか? 雨歌さん暑さで目眩がするって言ってましたよね。禊……とまではいきませんけど、暑い時は水浴で涼むのが一番です♪」
 何処かに泉や川などはないでしょうか、とにこやかに告る真帆の言葉に、一瞬桜と雨歌が顔を見合わせる。
「拝殿裏に川が流れているけれど……でも、川は今……」
 困惑したような、怪訝そうな表情。
 けれどそれに気付いた者はおらず、真帆の言葉にやや頬を紅潮させながら百合子が呟く。
「私も行ってみようかな。大勢で水浴って楽しそうだね」
「……そうね。夜まではする事がないのだから、ここに居ても仕方がないし」
 次いで紗耶が同意を示すと、真帆はその顔に満面の笑みを浮かべた。
「そうと決まれば善は急げです!」
 言うや否や、真帆は雨歌の背後に回りこむと、その背中を押し始める。
「ほらっ。こんなに暑いんだからたまには息抜きしないと。本番までにバテちゃいますよ♪」
「えっ、あ、ちょっと!?」
 突然背中を押されて驚いている雨歌を他所に、真帆はふと思い出したようにくるりと男性陣へと向き直った。
「あ、永さんに蓮生さんに蔓王さんは来ちゃダメですよ? 御縄結い頑張ってくださいね♪」
 女性の水浴をのぞき見たりしたら天罰が下っちゃいますからね、と冗談めかして男性三人へ告げると、真帆達五人は川へと向うべく、拝殿裏手へと姿を消した。


 女性陣が姿を消すと、まるで嵐が過ぎ去った後のように、周囲に静寂が戻った。
 永は五人を笑顔で見送った後で、溜息を零しながら蓮生と蔓王へ言葉をかける。
「女性というものは、どうにも群れるのがお好きなようですね」
 女性陣の勢いに押され、口を挟む事が出来ずにいた蔓王は、苦笑しながら永に返した。
「あはは。ですが、皆さん明るく優しい方々ですし。何も問題はないと思います」
 暫くの間は五人で楽しく過ごすのも良いかと思いますよ、と告げる蔓王の言葉に、蓮生も頷く。
「……このまま何も無く、皆無事で居る事は出来ないんだろうか」
 どうしても、古木のもとで血まみれになっていた二人の姿が蓮生の脳裏から離れてくれない。あんな辛い事など起こらず、皆この村で楽しく過ごしていて欲しいと願わずには居られなかった。
 そんな蓮生に、蔓王はいたわる様な笑顔を浮かべる。
「せめて夢の中だけでも、終焉を幸せなものに変えることが出来ればいいのですが……」
 それが出来るのかどうかは解らない。けれど今はまだ、雨歌と桜が無事で居てくれる事が、蓮生には救いでもあった。
「……行きましょう。御縄の儀式が始まってしまいます」
 永が二人にそう告げると、蓮生と蔓王は頷いて呂の鳥居へと向って歩き出した。



■ 御縄の儀 ・ 呂 ■

 正午を過ぎた頃、拝殿の前で直衣に身を包んだ宮司が祝詞をあげ始めた。
 朗々とした声に従うように、やがて呂の鳥居の前に多くの男衆が集い、列を成してゆく。その最後尾に蓮生と永、蔓王は場所を移すと、改めて村の周囲を見渡した。
 桜が言っていた通り、村人達は全員が手や首に小さな鏡を結い下げている。
 今から注連縄を張り替えるのだろう。やがて拝殿の脇から十数人の男達が、真新しい注連縄を御台に乗せてこちらへと向ってきた。

 永は鳥居に張られた古めかしい注連縄を見ると、瞳を細めながら呟いた。
「随分と古い時代に張られた注連縄のようですね。色褪せて腐食が始まっています」
 赤茶色に変色した注連縄は所々藁の捻り(より)が解け、紙垂(かみしで)は既に失われている。何とか原型を留めてはいるものの、もう数年したらぼろぼろに朽ちてしまいそうな程だった。
 だが、永の言葉に蔓王は首を横へ振って返してきた。
「どうでしょう。恐らく五年も経ってはいないと思いますが……」
「五年?」
 永は再び鳥居を見上げた。どう考えても二十年、三十年は放置していたかのような朽ち方である。わずか五年でここまで注連縄が変色するとは考え難い。
「……夏の祭は魂送り等、鎮の意が多くあります。此方の祭は如何様なものなのでしょう」
「祈雨です」
 蔓王が告げると、それまで静かに二人の会話を聞いていた蓮生が疑問を投げかけてきた。
「祈雨?」
「はい。雨乞いと申し上げればお解かりでしょうか。この地方は雨が極端に少ないので、夏季……特に旱魃(かんばつ)が酷い年に、村全体でこうした祭りを行うようです」
 それを聞いた永が、束の間思案した後で蔓王へ向き直る。
「御流神社でしたか。ここの祀神は桜の古木と伺っています。桜に祈雨とは、また奇妙な取り合わせですね」
「……そうですね。僕は神の側の存在ですから、人間が僕達に救いを求めて祀りを行う気持ちは解ります。ですが祭祀の詳細は不可解です。某の神が人間に形式を伝えたのか、長い時の中で人間が独自に創り上げて来たのか……」

 蔓王の言葉を聞きながら、蓮生は空を見上げた。
 近くに川があるというのに、村を吹き抜けてゆく風は妙に乾いている。木々の狭間から見える空はどこまでも青く、太陽は刺すような日差しを地上に向けて降り注いでいた。雨が降る気配は微塵もない。
「……少し、歩いてくる」
 何を思ったのか、蓮生はそう呟いて永と蔓王から離れると、踵を返して伊の鳥居の方へと歩き出した。


*


 永は呂の鳥居から離れた蓮生に声をかけることはせずに、少しの間その背中を眺めていたが、やがて遠方にある伊の鳥居へと視線を移した。伊の鳥居の向こうには、参道を遮るように土塀が設けられている。百合子も言っていたが、参道は云わば神の通り道である。その道を土塀で塞ぐなど、聞いた事が無かった。
「……奇妙な村ですね」
 だが、永の言葉に蔓王は返してこない。永がちらと蔓王を見遣ると、蔓王は拝殿を見ていた時と同様に、無言のまま険しい顔つきで呂の鳥居を見つめていた。

 やがて男衆によって真新しい注連縄が運ばれてくると、鳥居の前に集っていた村人達は誰からともなく腰を落とし、その場に跪いた。
 拝殿で祝詞を唱え続ける宮司の声が、風に乗って周囲に響き渡っている。男衆は形式に則った所作で神社へ拝礼を行うと、やがて古い注連縄を外さぬまま、鳥居へ新しい注連縄を張り始めた。
 その様子を眺めていた永が、思わず顔を顰める。
「……左本、右末?」
 御流神社の注連縄は、綯い始めが左、綯い終わりが右。即ち左本右末に張られていたのだ。
 一般神社では、通例左右尊卑本末に則り、左末右本で注連縄を張る。だがここでは、その正反対の形式をとっているのである。さらに訝しむべくは、古い注連縄を外すことなく新しい注連縄を取り付けているという点だった。
 男衆は新しい注連縄を張り終えると、腰に挟んでいた鎌を手に取り、古い注連縄を鳥居から切り外してゆく。
 その所作は酷く乱雑で、まるで忌々しい何かを切り刻んでいるかのように、永には感じられた。
 一体どこの世に、鎌で注連縄を切り落とす神社があるだろう。唖然としながら永がその光景を眺めていると、独り言にも似た蔓王の声が届いた。
「何故……」
「……どうかしましたか? 夏神様」
 やはり蔓王も御縄の儀式に違和感を覚えているのだろうか。永は、一度言葉を置いた蔓王に先を促す。
「先ほどから険しい顔をなさっていますが……」
 永の言葉に、蔓王は鳥居へ視線を向けたまま、こう返してきた。
「僕は、人型を保った状態でこの鳥居の先に入らない方が良いかもしれません」
「……人型を保つとはどういうことでしょう」
 蔓王の言っている事が理解出来ず、永は疑問を投げかける。
 蔓王は束の間沈黙した後で、こう話を切り出した。
「人間は桜が咲く事で春の訪れを知り、緑の生い茂る様を見て夏の到来を実感します。そこに『春』や『夏』という概念は存在しますが、それらの言葉は抽象的で具体性を伴わないのです。それと同様に、僕達『神』という存在も、本来肉体を持ちません」
 蔓王の言葉を遮るかのように、切り離された注連縄が重い音を立てて地面へと落とされる。蔓王は伏し目がちにその注連縄を見つめながら、言葉を続けた。
「僕が人型を取るのは、それが人間と接する最も有効な手段だからです。夏の気を凝縮させてこの体を仮初めに作り上げている。ですがこの注連縄の内側では、僕の力は押さえ込まれてしまう……」
 永は蔓王の言葉の意味を咀嚼しながら、呂の鳥居に張られた御縄を見上げた。
 呂の鳥居には、蔓王の力を押さえ込むだけの力があるのだろうか。そうなれば、この神社の祀り神も、その力を封じられているという事になる。
「……ご覧になられましたか。伊の鳥居は、呂とは異なり左末右本に張られていました」
 永は先に見た伊の鳥居を思い出して、蔓王へと語りかける。
「注連縄は、元来不浄なものの侵入を拒む為に神前に張られるものです。そういう意味で、伊の鳥居に張られた注連縄は、俗世の穢れからこの村を隔離する為のものでしょう」
 永は一度そこで言葉を置いた。言うべきかどうか束の間悩み、ややあって蔓王へと向き直る。
「異論は多くあります。ですから私にはどれが正論なのか、その是非を唱える事は出来ませんが……。左本右末の注連縄は、不浄が内側から出てこないよう、禍を封じるときに用いられるという説があります」
「…………」
「出雲大社にしかり熊野大社にしかりです。その説をこの神社が採っているのだとすれば、この神社は一体何を封じようとしているのか……」

 奇妙な造りの村だが、それには相応の理由があるはずだと永は考えていた。
 蔓王が人型を保てない程の力を宿した神社――。
 祈雨のために神木桜を祀っているのであれば、桜の神を封じていると考えるのが妥当だが、自分達がここへ訪れたのは、神木桜が禍つ神になってしまうのを阻止する為である。既に神木桜が禍つ神として祀られているのであれば、話が矛盾してしまう。
「……情報が少なすぎますね。解らない事が多すぎます」
 もう少し村の詳細を知る必要があるように感じられて、永は深い溜息を零した。それと同時に、永の脳裏を過ぎって行ったのは、村の巫女である桜の存在だった。詳細を尋ねるならば、其れを司る巫女に聞くのが一番である。
 永の横で、蔓王が苦しげに呟く。
「物事の善し悪しも、神社という場も、その在り方も、全て人間が考え生み出したもの。そこに神意はありません。形式だけで神を縛り付ける事は不可能です。けれど時に、人間の創り上げたものが神の力をも凌ぐ事があります。それは……」
 蔓王がそこまで告げた時だった。
 俄かに拝殿の方から数名の女の声が響き渡り、永と蔓王はそちらへと視線を向けた。
 見ると、先ほど水浴をしてくると言って川へ向った真帆が、懸命に何かを宮司に訴えている。
「……あれは真帆さんではありませんか?」
 永の言葉に、蔓王が頷く。
「そのようですね。どうしたのでしょうか、何か……様子が」
 非常の事態を察したのだろう。村人達の間にもざわめきが起こり始めている。やがて真帆は、宮司の静止を振り切るようにして呂の鳥居に向って走り寄り、こう叫んだ。
「誰か手伝ってください! 雨歌さんが……雨歌さんが倒れて!!」
 その言葉に、一瞬永と蔓王は顔を見合わせる。すぐさま視線を拝殿脇へ移すと、そこには紗耶と百合子、そして桜が、ぐったりとした雨歌を支えながら、助けを求めるようにこちらを眺めていた。
「蔓王さんはここに居てください」
 永はそれだけ言うと、村人の合間を縫って呂の鳥居を潜り抜け、五人のもとへと走り出した。



■ 枕辺の約束 ■

 倒れた雨歌を社殿の中まで運び入れたのは永だった。
 巫女である桜の妹が倒れたというのに、村人たちはまるで他人事とでも言わんばかりの様子で、誰一人として手を貸さず、見舞いにすら来ない。
 その事に真帆と紗耶は憤りを感じ、蓮生と百合子は酷く心を痛めた。
 既に時は夕刻。逢魔が時とでも言うのだろうか、連子窓の隙間から見える空は毒々しいほどの朱に染まっている。雨歌は依然として目を覚まさず、その顔色は死人のように青白い。皆無言のまま、眠る雨歌の枕辺を囲んでいた。

「私が水浴に誘ったりしなければ……」
 沈黙を破るように、ぽつりと零したのは真帆だった。
 暑さで目眩がするという雨歌に水浴を勧めたのは自分だ。水浴などせず、桜が言ったように体を休めていれば、雨歌は倒れたりしなかったかもしれない。真帆はその事で己を責め続けていた。
 蓮生はそんな真帆に向って静かに言葉を紡ぐ。
「真帆のせいじゃない。そんな事を言ったりしたら、多分雨歌は怒ると思う。それに、自分を責めるのはあまり良くない」
 蓮生は、他人が苦しんだり悲しんだりするのを自分の事のように捉えてしまう。だから今、真帆が自らを呵責している行為を見ているのは辛かった。
 蓮生はそっと雨歌の額に手をあてると、瞳を閉じる。心配しているみんなの為に、倒れた雨歌自身の為に、いま自分が出来る事は、雨歌の疲れた肉体と精神を癒してあげる事だ。
 少しでも自分の力が役に立てばいい……そう思いながら、蓮生はただひたすら雨歌の容態がよくなる事を願い続けた。

 そんな中、不意に桜が、紗耶と百合子、真帆の三人を見渡しながら言葉を紡いだ。
「貴方達はそろそろ波の御縄結いの準備をした方が良いわ」
 それに首を横に振って返したのは百合子である。
「でも、雨歌さんが心配だから……」
 百合子の言葉に肯定の意を表したのは紗耶。
「……そうね。御縄結いには村の人達も行くのだし、私達は雨歌さんについていた方が良いと思う」
 けれど桜は、百合子と紗耶に穏やかな笑顔を浮かべながらこう返した。
「大丈夫よ。私は元々御縄結いには行かないから、雨歌を見ていられるし……蓮生さんや永さんもついていて下さるから」
 雨歌の事は心配しないで御縄の儀式に行っていらっしゃいと、桜は告げる。
 だが百合子と紗耶と真帆は互いに顔を見合わせ、暫くの間その場から離れようとしなかった。
 そんな三人を、永が静かにうながす。
「桜さんもこう仰っている事ですし。蓮生さんが雨歌さんを癒して下さっていますから大事ありません。それに、雨歌さんが目を覚ました時、大勢で覗き込んでいては逆に『大げさだ』と叱られてしまいますよ」
 雨歌の気質からして、恐らく皆が心配すればするほど、元気な素振りを見せ続けるだろう。
 永の言葉に漸く三人は頷いて、「御縄結いが終わったらすぐに戻ってくるから」と言い残すと、躊躇いがちにその場を後にした。


 三人が波の御縄結いの準備の為に社殿から出て行くのを見届けた後、ややあって桜は雨歌の枕辺から離れた。
「少し雨歌を見ていてくださいませんか? 一応、村長に雨歌の容態を知らせてこなければなりませんから」
「……解った。俺が見ているから」
 桜の言葉に、蓮生は頷いて返す。桜は蓮生に礼を述べた後で、雨歌の眠る部屋を出ようとした。
 そんな桜を、不意に永は呼び止めた。
「桜さん」
 桜は一度足を止めると、ゆっくりとした所作で振り返り、首を傾げながら永を眺めてくる。
「……どうかしました?」
「このような時に申し訳ありませんが……後で、お時間が取れるようでしたら話をしませんか。少々お伺いしたい事がありまして」
 桜はやや怪訝そうな表情を見せると、永へと返した。
「今ここで話してはいけないのですか?」
 その言葉に、永は静かに頷く。
 村の祀りの詳細を知りたくはあったが、今この場には、雨歌と蓮生が居る。桜が村長を呼びに行けば、恐らく村長も社殿へやってくるだろう。そうなれば、桜と話をする時間など無くなってしまう。
 村人達に気付かれず、人に聞かれない場所という事になれば野外か。
「貴方の用事が済んでからで構いません。今日の夜、呂の鳥居の前でお待ちしております」
 有無を言わせぬ永の物言いに何かを察したのか、桜は一度頷くと、
「……解りました。では後のほど」
 そう言葉を残して、雨歌の部屋から下がっていった。



■ 伝承 ・ 雄滝御流 ■

 外は闇に包まれていた。
 新月であるのか、頼るべき月明かりも無く拝殿辺りは深い闇で覆われている。
 雨歌が眠っている社殿から外へ出た永は、手に持った灯火で足元を照らしながら、呂の鳥居まで歩みを進めた。
 深夜に行われるという波の鳥居の御縄結いは、拝殿よりもさらに奥にある本殿で行われるはずである。暗がりの中、無事に女性達だけで御縄の儀式が行えるのかどうか、永には疑問だった。

 そんな事を考えながら呂の鳥居へ辿りつくと、そこには既に桜の姿があった。
 一歩一歩、歩く度に灯火の光で桜の輪郭が明確になってゆく。永は桜と向き合うほどに近づくと、その場で足を止めて声をかけた。
「申し訳ありません。夜半にお呼び立てして」
 桜はそれに首を横へ振って返してくる。
「いいえ。私は呂の御縄結い以降、この鳥居から村の方へ抜ける事が出来ません。社殿には雨歌達が居ますから……お話をするのであれば、永さんの仰るとおり外の方が良いのかもしれません」
 呼び出された理由に気付いているのだろう。永の言葉に返す桜の声は妙に冷めたもので、夜の闇に恐怖を抱いている気配は無い。
 灯火に映し出された桜の顔は硬質で、昼間に見た優しげなそれとは異なっていた。
 永は桜から緊迫した空気を感じ取ると、安心させるべく穏やかな笑顔を浮かべてみせた。
「少々祭りの仔細を尋ねたく思いまして……聞くのであれば其れを司る巫女に聞くのが一番でしょう。話したくなければ口を閉ざしたままで居て下さっても構いません」
 その言葉に、桜が永を真っ直ぐに見上げてきた。永は変わらぬ笑顔のまま、それに対峙する。
 腹の探りあいのような沈黙が流れ、ややあって桜が口を開いた。
「……何をお知りになりたいの?」
 永はそれに頷くと、手にしていた灯火を掲げて鳥居を見上げる。
「折しも季節は南呂。鳥居の名、伊呂波歌からなのでしょうが……真中が呂というのは面白い」
「……面白い?」
「ええ。『呂』は背骨、軸であり髄です。そして陰。六律六呂に世の音は分かれ、呂は陰に属します。陰の季節に陰の鳥居……そして左本右末の注連縄……」
 そこまで言って、永は真顔で桜を見つめた。
「一体、何を鎮め封じようとしているのか」
 教えてはいただけませんかと、永は半ば直球で桜へと言葉を投げかける。
 蔓王が鳥居から奥へ入れない以上、頼りにすべきは自分自身と、ここへ連れてこられた他の四人のみである。だが行動を起こすにせよ、予め必要な知識が無ければ無駄足を踏みかねない。自分が今何をすべきなのかを見定める為にも、祭りの仔細を知るのは当然の事だ。
 ストレートな物言いが功を奏したのか。桜の表情が崩れてゆく。驚愕に満ちた表情であったものが、やがて不安げな、今にも泣き出しそうな顔へと変わるのを、永はただ静かに見つめていた。
 話したくなければ口を閉ざしたままで構わないと、事前に桜へ告げてある。何か話したい事があるのであれば、桜は自ずと口を開くだろう。永はそれを待った。


 どれほどの時間が流れたのか。
 随分と長い事沈黙を通していた桜が、やがて重い口を開いた。
「豊かになれば神の存在を忘れ、貧しくなれば神に縋りつく……人間ほど欲深いものはないと、そう思うのは私だけでしょうか」
「…………」
「かつてこの神社に祀られていたのは、拝殿奥に流れる御流川の神だったといいます。それがいつの時代からか、御神体が本殿にある神木桜に変わってしまった」
「……それは何故です?」
 永の問いに、桜は首を横に振る。
「知りません。私は神木桜を祀る巫女ですから、川の神の声を聞くことは叶いませんし、なぜ御神体がすり変わったのかも解りません。……ですが雄滝御流という神社の名は、昔の名残なのでしょう」
 恐らくこの村の祀りの形式も、御神体が変わったと同時に歪んでしまっていると、桜はどこか遠くを見つめるように呟いた。
「呂は軸です。陰の気を帯びたものであり、女を示します。神木桜に宿るのは姫神。そして同時に、陰の気は、中に閉じ込めて塞ぐという意味をも持ちあわせます」
 桜はそこで一旦言葉を区切ると、己を落ち着かせるかのように軽い吐息を零した。
「旱魃が酷い年、翌年の豊作を願って祀りが行われます。祈雨の祭りだというのはご存知でしょう?」
 永は、蔓王の言葉を思い出して、無言のまま頷く。
「祭りは翌年の三月までに三度。前年の夏季、即ち陰の季節に一の祭り、御縄の儀式が行われます。左本右末の注連縄で姫神の力を村内に封じ込めるのです。陰の存在は陰の力をもって封ずるというのが、村に伝わる伝承ですから」
「……神木桜に宿る姫神は、この村に禍をもたらすような神なのですか?」
「いいえ。姫神はそんな方ではありません」

 まるで神木桜に宿る神を見たことがあるような物言いだった。
 巫女であればそれも可能なのかもしれないが、禍をもたらす神ではないと言うなら、何故村内に封じ込める必要があるのか。その理由を桜は知っているのだろうか。
 永がその質問を投げかける前に、桜は話を続けた。
「二の祭りは飽贄(あきにえ)の祭りと言い、秋から冬にかけて行われます。閉じ込めた神の心を癒す為に行われるので、境内で村の皆が集まって食事をし、拝殿の先にある神楽殿では女達が神楽を舞います。そして……」
 不意に口篭った桜に、永は静かに先を促す。
「……そして?」
 桜は言葉を選んでいるようで、決して永へ視線を向けることなく、瞳を伏せたまま己の両手を握り締めていた。
「三の祭り……神哭(かんなき)の祭りは、村に籠もった神の力を解き放つもの。解き放つ仲立ちをするのが私の役目です。三つの祭りが全て揃って、初めて神は村に雨をもたらすと……祈雨が成立すると、村長は仰っていました」
 封じた神の力を、どのようにして巫女が解き放つ仲立ちをするのかは解らない。だが、告げる桜は酷く辛そうな表情をしていた。
「……生きていく為の糧を得る為、雄滝の村の繁栄を願う為だけに、私達は神を縛り続けている……」


 永が桜へと言葉を返そうとした時だった。不意に砂利を踏む音が聞こえて、二人は口を噤むと音のするほうへ視線を向けた。
 足音の主を知るべく永が手にしていた灯火を前方へ掲げると、その灯火の光に相手が気付いたのだろう。足音の主が声を掛けてきた。
「……桜?……と、永さん」
 呂の鳥居へ遣って来たのは、蓮生だった。
 永は、桜が安堵にも似た溜息を零すのをききながら、蓮生に声をかけた。
「蓮生さんでしたか。闇夜に明かりも持たず、どうしました?」
「別に、どうというわけでもない。村長に、部屋を用意したから少し休むようにと言われて……でも眠れそうにもなかったから、外に出ただけだ」
 蓮生は二人の傍らまで来ると足を止め、二人を交互に眺めながらそう言った。
 桜と永が何故二人でこの場所に居るのか、蓮生は別段気にしていないようだった。そんな蓮生に、桜は穏やかな口調で話しかける。その声色に、先ほどまでの思いつめたような様子は欠片も無い。
「雨歌の傍に、村長がついているの?」
「ああ。顔色も大分良くなっていたけど、まだ安静が必要だと思う。村長も心配していた」
 それを聞いた桜は一度押し黙った後で、ゆっくりと隣に居た永を見上げた。
「雨歌のところへ戻ります。永さん、失礼して構いませんか?」
 まだ聞きたいことはあったが、蓮生が居る手前、先ほどの話の続きは出来そうに無い。永は桜の言葉に頷くと、やんわりとした笑顔を浮かべた。
「構いません。私の方こそ、時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした……またいつか、先ほどの件を伺いたいものですね」
 桜は二人に軽く会釈をすると、何事も無かったように社殿の方へと戻っていった。



■ 齟齬 ■

 永は暫くの間桜の後姿を眺めていたが、ややあって蓮生へ向き直ると質問を投げかけた。
「雨歌さんの容態ですが、大分落ち着いたようですね」
 だが、蓮生は永の言葉に返す事はせず、ただじっと呂の鳥居を見上げている。不思議に思った永は、軽く蓮生を覗き込むようにして声をかけた。
「……蓮生さん?」
「ああ……何?」
「どうかしましたか? 先ほどから思案げにしていますが」
 問われた蓮生は一度永を見上げると、再び呂の鳥居の方へと視線を移した。
「何故だか解らないけどあの鳥居、とても嫌な感じがするんだ。でも村長は、雨歌がこの鳥居の内側からは出られないと言っていた。桜も御縄の儀式から神哭の祀りの日まで、呂の鳥居の内側で生活するみたいだ」
 永は手にしていた灯火を呂の鳥居へと掲げると、蓮生に倣うようにして鳥居を見上げる。
 真新しい注連縄を張った鳥居は、灯火の光に照らされて異様な存在感を放っている。闇夜であることが心理的に影響を及ぼしているのだろうか、それは真昼と全く違う様相を呈していた。


「雨歌さんが外へ出られないというのは、何故でしょう」
 永のその問いに、蓮生は先ほど聞いた村長の言葉を思い出す。
「雨歌は人の多く集まる場所が苦手らしい。何かある度に倒れると言っていたから……もしかしたら、穢れに弱いのかもしれない」
 人の多い場所は空気が淀む。人間の抱く念や情といったものが、場の空気を汚すからだ。
 そういった空気とは無縁に育てられた蓮生だからこそ、ほんの僅かな空気の淀みを敏感に感じ取れる。
「……この神社は普通と少し違う。鳥居から神聖な空気を感じ取れない」
 村内も拝殿も、別段嫌な気配は感じないのに、この鳥居からだけは邪念が滲み出ている。それが何故なのか、蓮生には解らなかった。
 そんな蓮生の隣で、永が呟く。
「この注連縄は左本右末に張られています。これは通例とは異なり、鳥居より内側に在る穢れや禍を閉じ込める意味で用いられるのですが……」
「穢れを閉じ込める?」
「ええ。ですがこの村では、禍をもたらす神を祀っているのではなく、あえて左本右末の注連縄で神の力を封じ込めているようです」
 永の言葉に、蓮生は束の間口を閉ざした。先ほど村長から聞いた話と、何かが食い違う。
「……村長は、神木桜に宿る神が怒っていると言っていた。その怒りを静めるために古木を祀り、祈雨を願っていると。だから、村人達が神を封じ込めるというのは……」
 おかしいのではないか――。蓮生は語尾を濁して永へと呟く。
 それを聞いた永は、蓮生へと静かに言葉を紡いだ。
「村長は何と仰っていたのですか? 神木桜の神が怒っているのは何故です?」
「村の男が神木桜を血で穢したのが原因で、神が村に旱魃を招いていると言っていた」
 だからこそ、蓮生は神の怒りを解き放ち、村に平穏が戻ってくれればいいと考えていたのだ。それなのに、何故村人は神を封じ込めるような真似をしているのか。
 再び沈黙した蓮生の隣で、永が怪訝そうな顔をしながら独り言を零す。
「……妙ですね。それでは神木桜は禍を招く神として捉えられている事になる。桜さんは、そのような事は一言も仰っていませんでしたが」
「…………」
「村の造りといい、祀りのしきたりといい……どうにも腑に落ちないことが多すぎます」
 永はそこまで言うと、鳥居内から外へ抜け出して周囲を見渡した。
 どうしたのだろうかと蓮生が永の様子を眺めていると、永は灯火を掲げながら虚空に向って言葉を放った。
「……蔓王さん。いらっしゃいますか?」
 永が呼んだのは蔓王だった。
 そういえば、御縄の儀式以来、蔓王の姿を見ていない。一体今、どこで何をしているのだろうかと蓮生が疑問に思った時だった。

 不意に、前方から一陣の澄んだ風が流れ始めた。
 村の空気よりも一段と清浄な気配が周囲を取り巻いてゆく。蓮生と永がそれを感じながら前方を見つめていると、俄かに眼前に広がる景色が揺らぎ、波紋の形を作り始めた。
 まるで見えない水の壁が自分達の前に現れたようだった。蓮生が思わず瞳を凝らすと、やがてその波紋の中からゆっくりと蔓王が姿を現した。


 名を呼ばれて姿を現した蔓王は、二人を交互に眺めた後で複雑そうな笑顔を見せる。
 蓮生が突然現れた蔓王へと言葉を紡ぐ。
「蔓王……今までどこにいたんだ?」
「申し訳ありません。僕はこの鳥居より奥へ入る事が出来ないのです……」
「……鳥居を取り巻いている穢れが原因?」
 蔓王が蓮生へ頷き、言葉を返そうとした時だった。
 傍らに立っていた永が一歩進み出ると、端的に蔓王へと用件を述べた。
「夏神様。咲かずの桜樹、今は何処に? 拝見したいのですけれど」
 村へ来てから、まだ一度も神木を見て居ない。桜が神木は本殿にあると言っていたが、今どのような状態に在るのか見ておく必要があると、永は考えていた。
 そんな永に、蓮生がぽつりと呟く。
「多分、無理だと思う」
「何故です?」
「拝殿より先は男子禁制の聖地。神木があるのは拝殿を越えた本殿よりもさらに奥にあるって村長が言っていた。……だから、俺達男は見ることが出来ない」
 確かに、禁を犯して神木の元へ行くのは村のしきたりに反する。それに今は、女性達が波の御縄結いの為に本殿へ向っているはずだ。鉢合わせてしまう可能性も十分にある。だが――
 永は真顔で蓮生に向き直ると、きっぱりと言い放った。
「ですが拝殿の外に居るだけでは埒があきません。考えているだけでは、事は進まないのではありませんか?」
「…………」
 永は沈黙する蓮生から視線を外すと、蔓王へ顔を向ける。
「夏神様。可能であれば案内して頂けませんか」
「……僕自身は参れませんが、お二人だけを樹の元へお送りする事は可能です……蓮生さんはどうなさいますか?」
 蔓王が、蓮生と永を交互に見遣りながらそう問いかける。永は既に御神木の元へ行く決心がついていたが、蓮生は依然沈黙したままだった。
 そんな蓮生を見て、永は微かに溜息をつくと再び蓮生へ声をかけた。
「もし躊躇いがあるのであれば、私一人で参りますが……」
 これから先何があるか解らない以上、出来うる事は全てしておいた方がいい。村の祭り、御神木の状態、桜と雨歌の事――。全てを把握していなければ、不測の事態に対処できる術を見出せないからだ。
 出来る事なら蓮生にも桜の状態を見ておいて欲しいと思うが、流石の永も、無理に蓮生の気持ちを捻じ曲げてまで神木の元へ連れて行く気は無かった。
 だが、蓮生は意を決したように顔を上げると、永と蔓王を見つめながら頷いた。
「……俺も行く。俺も、神木の様子が気になるから」
「決まりましたね」
 永は蓮生に笑顔を見せると、蔓王を見遣る。
 蔓王はそれに頷くと、ついと右手を二人の方へ差し出しながら言葉を紡いだ。
「では、お二人とも目を閉じていて下さい」
 蔓王に言われるまま、二人はゆっくりと瞳を閉じた。瞬間、周囲を強い風が取り巻き、二人は風に体が浮遊するような感覚を覚え、身構えるように己の顔を両腕で覆い隠した。



■ 神木桜 ■

 気がつけば風は止み、浮遊する感覚も無くなっていた。
 瞳を開くと、周囲には深淵の闇が広がっており、どこに何があるのかさえ解らない状態だった。
 踏みしめる砂利の感覚や葉擦れの音から、ここが外なのだということはわかる。だが、本当に神木のある場所へ辿り着けたのかどうか、この暗がりの中では二人には解らなかった。

 永が手にしていた蝋燭に再び灯りを点すと、ほんのりと柔らかい炎が揺らぎ、僅かに周囲を照らし出した。
「蓮生さん、大丈夫ですか?」
 永は手にした灯火を掲げながら、一緒に飛ばされたはずの蓮生を探して辺りを見渡す。
 やがて近くで蓮生の気配を感じてそちらを見遣ると、
「大丈夫だ。暗くてよく解らないけれど……本当にここに神木があるのか?」
 言いながら自分に歩み寄ってくる蓮生の姿があった。

 風に乗って、祝詞を唱える女の声が聞こえてくる。
 永が心を落ち着けながらその声に耳を澄ましていると、どうやら祝詞は自分達の背後で唱えられているようだった。
 次第に目が闇に慣れてきたのか、永は自分達の背後に小さな社殿がある事に気付いた。
 社殿を挟んだ向こう側から、微かな明かりが漏れており、何人もの女の声が聞こえてくる。
「……恐らくここは本殿の奥なのでしょう。社殿の向こうで女性達が波の御縄結いを行っているようですね」
「それなら、御神木は一体どこに……」
 ここが本殿の最奥であるなら、神木は自分達の前面にあるはずだ。永は再び灯火を前方に掲げると、思わず瞳を見開いて、視界に映し出されたものを凝視した。
「…………あれではありませんか?」


 闇の中、蝋燭の光に照らされて姿を現したのは、枝に満開の花を咲かせた桜の巨木だった。
 初めて見た時、御神木は一つも花をつけていなかった。だが、今二人の目の前にある御神木は、見事なまでに紅色の花をつけている。
「……これが、神木桜? 本当に?」
 蓮生は呟きながら、半ば誘われるようにして御神木へと近づいた。
 巨大な幹の根元から上を見上げると、まるで桜の花弁に抱かれているような心持になる。蓮生はそっと御神木に触れると、瞳を閉じた。
 御神木は、一体どんな気持ちで花を咲かせているのだろう。
 己の身の内に、いまだ抑えきれないほどの怒りを抱えているのだろうか。
 蓮生は心配しながら、古木に語りかける。だが、蓮生の心の声に、古木が返事を返してくる事は無かった。
「うつろだ……声が聞こえない」
 古木が答えたくないのか、それとも答えられないのか。判然とせず、蓮生は幹へ額を押し当てると、さらに深く古木の心を探った。
 蓮生が呼びかければ、他のどの植物達も必ずその呼びかけに答えてくれる。蓮生が持つ清浄な神気は、精霊や神にとって心地の良いものだからだ。
 だが、どれほど蓮生が古木に語りかけ、その心に触れようと思っても、古木からは何も感じ取る事が出来なかった。
「……居ないんだ」
「居ない、とは?」
 蓮生の言葉を、永が反芻する。
 蓮生は永に解るよう、古木に触れたまま話を切り出した。
「今、この木には神が宿って居ない……きっとこの中から抜け出している。主である神がこの木から抜け出した時、時間の流れが止まった。だから、夏なのに桜が咲いているんだ」
 だから声が聞こえない。返事を返してくれない。
 蓮生は確信を持ってそう言葉を紡いだ。
 恐らく抜け出した季節が春なのだろう。
 何故神が木から抜け出したのか、真相はわからない。だが封じられているという永の言葉が真実なのだとしたら、神はまだ村内に留まっているはずだ。
 無事で居てくれればいいと思いながら、蓮生は幹から手を離すと、再び御神木を見上げた。


 蓮生の言葉を聞きながら、永もまた御神木を見上げていた。
 蓮生は、神木に神が宿っていないという。だとすれば一体今どこに居るのか。そう思ったとき、ふと桜の顔が脳裏を過ぎった。呂の鳥居で会話をしたとき、桜は神を見た事があるような事を言っていた。だとすれば、桜は間違いなくこの神木に関する事を知っているはずである。
 永は考え至ると、無言で懐に入れていた懐紙を取り出し、携帯していた筆で文字を綴り始めた。
「……永さん? 一体何を……」
 だが永は蓮生へ言葉を返さず、心を集中させて文字を綴る。懐紙には『護』という文字が認められていた。
「……それは何?」
「お守りです。御神木の為に」
 永はそう告げると、書き上げたばかりの文字を木の人目につかぬ場所へと置いた。
 今すぐに己の文字が効力を発揮する事はないかもしれないが、それでも、何もせずに神木桜を放置しておくよりはましだろう。
 蓮生と永は、静かにその場に佇んで、古木に宿っていた神の事を考えていた。




<桜媛奇譚―雨歌の章― ・ 終>






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】


【1711/榊・紗耶(さかき・さや)/女性/16歳/夢見】
【3626/冷泉院・蓮生(れいぜいいん・れんしょう)/男性/13歳/少年】
【5976/芳賀・百合子(ほうが・ゆりこ)/女性/15歳/中学生兼神事の巫女】
【6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生*見習い魔女】
【6638/藤宮・永(ふじみや・えい)/男性/25歳/書家】



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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、綾塚です。この度は『桜媛奇譚――雨歌の章――』をご発注くださいまして、まことに有難うございました。 そして、自分の予想をはるかに上回る文章量になってしまい、日程調整がつかず遅延してしまいました事を深くお詫び申し上げます。

 三連作の一話目になります。今回はお選びいただいた選択肢によって、得られる情報が異なっております。大まかに女性陣は村の地理、男性陣は村の祭祀に関する情報が手に入っていると思いますので、他のPC様のノベルをお読みいただくと話が繋がる場合がございます(ただしPC様はその内容を知り得ませんのでこの点だけはご了承下さい)
 それにしても、設定が設定だけに複雑怪奇になってしまい……さらに連作ゆえに謎を謎のまま伏線として多々残しておりますので、不可解な点が万歳だと思います(すみません…)。あまりにも謎だという点がありましたら、遠慮なくご一報くださいませ。
 それでは、少しでもお気に召して頂けましたら幸いです。