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<東京怪談・PCゲームノベル>


桜媛奇譚――雨歌の章――



■ 宿夢 ■

 ひとひらの花弁が目の前を過ぎり、樋口真帆は我に返った。
 いつの間にか、見上げた空には朧に霞んだ月が浮かんでいた。直線状に続く真白の砂利道が、仄かな月光に照らされて次第に浮き彫りにされてゆく。沿道には、紅色の花弁をつけた無数の桜が植えられていた。
「知らない場所……夏に桜が咲くなんて、聞いた事ありませんし……」
 それと意識していたわけではないけれど、どうやら知らぬ間に夢渡りをしていたらしい。
 乾いた風に乗って花弁が舞い散り、白い砂利をうっすらと紅色に染め上げる。それは酷く幻想的である半面、どこか憂いを含んだ夢のようにも感じられた。
「綺麗ですけど、少し寂しい夢ですね」
 誰も居ない世界の中、真帆は歩きながらぽつりとそんな言葉を呟いた。
 月の光が足元を照らしてくれるから、見知らぬ場所を歩いていてもさほど怖いとは感じない。けれど一人で居る事にどこか心細さを感じて、真帆は軽く溜息を零した。
「誰も居ないんでしょうか……」
 誰か、誰でもいいから傍に居てくれれば心強いのにと思ってしまう。
 夢主が誰であるのかは解らないけれど、この世界からは楽しさや穏やかさを感じ取る事が出来ない。月はどこか冷たい光を放ち、周囲にはぴんと張り詰めた空気が満ちている。
 月の力を少しだけ借りて、自分が心に思い描く楽しい夢を、夢主に与えてあげようか。そうすれば、夢主もきっと安らかな眠りにつく事が出来るような気がする。
 真帆がそう思った時だった。

 不意に視界が開けて、真帆はふと足を止めた。
 気がつくと、真帆の目の前には古びた鳥居が姿を現していた。小さな木造の鳥居は所々腐食が見られ、かろうじてその形を留めているに過ぎない。
「鳥居があるということは、ここは神社なのでしょうか……」
 呟いてはみたものの、そこには鳥居があるだけで、拝殿や賽銭箱といった類のものは何一つ無い。
 何故こんな所に鳥居だけが存在しているのだろうと、真帆が不思議に思いながら鳥居の奥へ視線を向けると、やがてある事に気がついた。

 鳥居の奥、無数に咲き誇る桜の木々の中央に、一つだけ花を咲かせていない古木があった。
 どれほどの歳月を重ねた桜なのだろう。巨大な幹からは幾重にも枝が伸び、離れた位置からでも圧倒的な存在感を放っているのがわかる。けれど――。
「どうしてあの桜だけ、花をつけていないんでしょう?」
 それが真帆には疑問だった。
「咲かない桜……ううん、咲けない…のかもしれませんね」
 乾いた風が真帆の茶色い髪を揺らしてゆく。その風に乗って、周囲に咲き誇っていた桜が吹雪きだす。
 それはまるで、咲くことの出来ない古木の為に、周囲の桜達が涙を流しているように真帆には感じられた。
 これだけ大きな木なのだから、花をつけたらどんなにか綺麗だろう。
 真帆がそんな事を考えながら、古木へ歩み寄ろうとした時だった。
「鳥居を潜ってはだめです」
 突然背後から声を掛けられて、真帆は思わず振り返った。
 いつからそこに居たのだろう。今まで人の気配など微塵も感じられなかったのに、真帆の後ろには一人の青年が佇んでいた。
「……あの?」
 深縹色の長い髪を一本に結い上げ、藍色の狩衣を身に纏った青年は、真帆と目が合うと穏やかに微笑んでくる。
 彼が夢の主なのだろうか?
 一瞬真帆はそう考えたが、夢の中の物悲しい空気と、青年を取り巻いている強く優しい空気は、相容れない、どこか一線を隔したもののように感じられる。
 真帆は青年に名を聞こうとして、口を開きかけた。
 けれど真帆が言葉を発する前に、青年は己の口元に人差し指を押し当てて、静かにするように真帆を無言で制すと、やがてついと前方を指し示した。
 そこには、こちらに背を向けて座り込んでいる一人の少女の姿があった。
 顔はわからない。長い黒髪を湛え、和服に身を包んだ少女は微動だにせずその場にしゃがみ込んでいる。
 一体何をしているのかと、真帆が疑問に思った時。不意に少女が言葉を放った。

『助ケラレナカッタ――……』

 憎しみと哀しみが入り混じったような声が、周囲の静寂を打ち破る。
 真帆にはそれが泣いているようにも感じ取れて、思わず己の胸元を両手で押さえた。
 何を助けられなかったのか。どうして少女は泣いているのか――。

 束の間少女の姿を見つめていた真帆は、やがてあることに気がつくと、思わず悲鳴を上げそうになった。
 座り込んでいる少女の周りに、大きな血だまりが出来ていたのだ。
 よく見ると少女は己の腕に、別の少女を抱いていた。腕に抱かれた少女は血にまみれており、既に事切れているのか、その顔からは生気が失われている。

『間ニ合ワナカッタ――……助ケタカッタノニ――……』

 何故あんな惨い光景が自分の目の前で繰り広げられているのか。
 夢主は何故こんな悲しい夢を見ているのか。
 思わずふらついた真帆を、背後に居た青年が支えてくる。その手の暖かさに真帆が思わず後ろを振り返ると、青年は静かな口調で言葉を紡いできた。
「これは桜の古木が抱き続けている夢。僕達はその夢の断片を垣間見ているだけに過ぎませんから……あれが貴女に危害を加える事はありません」
 自分が無意識のうちに渡ったのは、あの古木の夢なのだと、真帆は青年の言葉から知る。
「でも、こんな夢……」
 夢主が古木だとしても、こんな凄惨な夢を見続けるのはあまりにも辛すぎる気がした。
「そうですね。現実に起きた出来事を繰り返し夢に見続けてしまう程、悲しみが深いのでしょう。夢が歪みを産み始めています」
「……夢から目覚めさせる事は出来ないんでしょうか」
 どうせ見るのなら、悪夢よりも楽しい夢の方が良いに決まっている。それが出来ないのであれば、せめてこの夢の中から救い出してあげたいと、真帆は思わずには居られなかった。
「出来ないことではありません。現実を現実と認めさせれば……」
 青年はそこで一度言葉を置くと、真帆へと向き直った。
「お手伝い頂けませんか? 貴女は人の夢を渡る力をお持ちのようだ。貴女なら、古木の意識を現実へ戻せるかもしれない」
 古木の意識を夢の中から現実へと引き戻すこと――。
 自分の持つ力が少しでも役に立つのであれば、協力したい。
 真帆は青年へと小さく頷く。
「はい、私でよろしければ、お手伝いさせていただきます。花が咲けないのは寂しいことだから」
 まして過去の夢に縛られているのは辛いことだから……
 真帆がそう呟くのを聞いた青年は、
「僕は夏の神。蔓王と申します」
 そう言って真帆へと静かな笑顔を見せた。
 瞬間、周囲を眩い光が取り囲み、真帆は咄嗟に己の瞳をきつく閉じた。



■ 雄滝村 ・ 伊―呂 ■

 どれほどの時が流れたのか。一瞬のような気もするし、随分と長い事瞳を閉じていたようにも思う。
 今まで目蓋裏に感じていた鋭い光が、次第に柔らかなものへと変化してゆく。それと同時に、先ほどまで周囲に満ちていた穢れが一転して、優しい澄んだものへと変わった気がした。
 耳に届くのは、頭上から降り注いでくる数多の蝉の声。その蝉の声に誘われるようにしてうっすらと瞳を開くと、いつの間にか月も夜の闇も消え去り、世界は夏の光で溢れかえっていた。

「……ここは?」
 周囲を見渡して、最初に言葉を放ったのは榊紗耶だった。
 先ほどまであったはずの桜の古木は消え去り、いつの間にか、眼前には古ぼけた鳥居が姿を現していた。その鳥居の向こうには、白砂利で埋め尽くされた道が真っ直ぐに続いており、遥か向こうにもう一つ鳥居が見える。
 続いて言葉を発したのは芳賀百合子。
「不思議な場所……どうして神様の通り道を塞いでいるの?」
 白い砂利道と二つの鳥居がある事から、ここが神域である事を察したのだろう。砂利道を「神様の通り道」と呼んだ百合子は、己の背後を眺めながら不思議そうに呟いた。
 前方にはどこまでも続く長い参道があるのに対し、鳥居の外――百合子達の背後には、巨大な屋敷が建てられ、土塀が参道を塞いでいる。
 百合子の言葉に、周囲を見渡していた冷泉院蓮生がぽつりと呟く。
「でも、さっきまで居た場所とは違うような気がする。ここは神聖な空気で包まれている」
「いえ、同じ場所なのでしょう。私が見た夜の世界とこの場所とでは、恐らく時間が違います。まだ、何も起こっていないのですよ」
 今この場に集っている全員は、恐らくあの惨劇を見ているのだろう。蓮生の言葉にそれを察し、返事を返したのは藤宮永だった。
 血まみれの少女と、それを抱くもう一人の少女――。
 樋口真帆は、微かに瞳を伏せながら、先ほど見た夜の光景を思い出した。
「この先に、あの二人がいるんでしょうか……」
 既に事切れていた少女。まだ何も起こっていないのであれば、あの少女はまだ生きて、この場所にいるはずである。
 その言葉に、五人とは少し離れた場所に居た蔓王がゆっくりと頷いた。
「先ほど皆さんが見た夜の光景は、神木桜が見ている夢の終わりです。そしてここからが夢の始まりになります」
 蔓王は一度全員を見渡すと、ついと鳥居の向こう側を指差した。
「この鳥居より先は雄滝(おだき)村と言います。距離がありますから少々見え難いと思いますが、向こうに見えるもう一つの鳥居の奥には雄滝御流(おだきごりゅう)と呼ばれる神社があります。御神体は、先ほど見た桜の古木です」
「桜の、古木……」
 蔓王の指差す方向を眺めながら、蓮生が反芻するように呟く。
 花をつけていなかったあの神木桜は、一体今どうしているのだろう。夢の始まりであるならば、まだ穢れを帯びていないかもしれない。蓮生は何より神木桜の状態を心配していた。
 蓮生の傍らに居た永は、束の間周囲を見渡し、やがて蔓王の方へと向き直った。
「古めかしい……どこか排他的な印象さえ受けます。このような地に突然私達のような者が入り込んでは、夢主に訝しがられるのではありませんか?」
「……私も、そう思う。お手伝いはしたいけど……村には入れてもらえないような気がする、かな」
 永の言葉に同意を示したのは百合子だった。自分の住んでいる村の因習的な空気を思い出したのだろうか、やや遠慮がちに百合子が呟く。
 蔓王は、一度頷くと、真帆と紗耶を交互に見遣りながらこう告げた。
「そうですね。確かにこのままでは村に入れません。ですから真帆さんと紗耶さんにご助力願おうと思います」
 その言葉に、真帆と紗耶はきょとんとした表情で顔を見合わせる。
「……何をするの?」
「私に出来る事なら喜んで協力します。でも私はまだ見習いだし、大きな事は出来ませんよ?」
 力を貸すといっても具体的に何をすれば良いのか解らずに、真帆と紗耶は首を傾げながら蔓王の言葉を待った。そんな二人に、蔓王は穏やかな笑顔を見せる。
「お二人とも夢を渡る力をお持ちでいらっしゃる。その力をお借りしたいのです」
 真帆も紗耶も、夢見の能力を持っている。夢の内容そのものを大きく変えることは出来ないが、それでも夢から夢へ自在に渡り歩ける力は、この場所において有効的だった。
「この鳥居は、夢の内と外とを隔てる境界になります。何もせずに鳥居を潜れば、間違いなく僕たちは夢の世界から弾かれてしまうでしょう。ですから夢見の力で、夢の内と外とを繋げて頂きたいのです」
「繋げる?」
 紗耶の言葉に、蔓王が頷く。
「僕達は元々この村の住人なのだと、夢主にそう思い込ませるのです」
 夢の改ざんとまではいきませんが、その部分だけ夢をすり替えるのだと、蔓王は言う。
「お二人の力をお借りして、僕達の存在を夢の中に馴染ませます。お二人とも、右手を僕の手の上に乗せて、僕に心を預けてください」
 蔓王に言われるまま、真帆と紗耶は蔓王の手のひらに己の手のひらを重ね合わせた。二人手を蔓王がゆっくりと握り締める。
 一体何が始まるのだろうと、全員が固唾(かたず)を呑んでその光景を眺めていると、不意に、それまで聞こえていた蝉の声がぴたりと止んだ。


 蝉の声、風に揺れる木々の葉擦れの音。夢の世界から、音という音の一切が消えてゆく。
 そんな中、「心を預けて欲しい」という蔓王の言葉の通り、真帆と紗耶は一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと瞳を閉じた。
 蔓王の手のひらから、とてつもなく大きな力が流れ込んでくるのがわかる。それと同時に、己の身の内が次第に熱くなってゆくのを、真帆と紗耶は感じていた。
 嫌な感じはなかった。全てを包み込むような優しさと、強さとを併せ持つ力は、そのまま蔓王の性質を表しているのかもしれない。その力に、自分達の体の奥底に沈んでいる潜在的な夢見の力が引き上げられ、沸きあがって来る。二人は己の体が浮遊するような錯覚を覚えた。その瞬間、重ね合わせた手の内から眩い閃光が放たれた。
 先ほどとは比類にならないほどの強烈な光は、強風と共に瞬く間に周囲に広がり、夢の世界を覆いつくしてゆく。


 気付いた時には、何事も無かったかのように世界に音が舞い戻っていた。
 じわじわと喚き立てるように鳴く蝉の声に、思わず両手で耳を塞いだのは百合子だ。
「……耳、痛い」
「すぐに慣れますよ」
 百合子の言葉に、蔓王は一度小さく微笑んでそう告げると、真帆と紗耶へ向き直って声をかけた。
「真帆さん、紗耶さん、お体は大丈夫ですか?」
 眠っている力を最大限に引き上げて夢の世界へ解き放ったのだから、体力を消耗してもおかしくはない。だが、それよりも自分の中に在る力の大きさに驚いて、紗耶と真帆はやや呆然としながら蔓王へと頷いた。
「平気。なんだか体が熱いけれど……」
「大丈夫です。でも今ので、私達は夢の世界に受け入れてもらえたんでしょうか?」
 力を放出したのは確かだが、目に映る光景は先ほどと何らかわりが無い。実際のところ、自分達が古木の見る夢の中に馴染んだのかどうかは、良く解らなかった。
 その時。

「そんな所で何をしておる」
 ふと誰かに声を掛けられて全員がそちらの方へ視線を向けると、鳥居の向こうに腰の曲がった老人と、まだ幼さの残る顔立ちの少女が佇んでいた。
 老人の顔は貧相ではないにしろ随分とやつれており、疲れが見え隠れしている。身に纏った和服も麻のもので、かなり着古したものだった。
 老人は鳥居の外にいる全員を一瞥すると、眉間に皺を寄せながら深い溜息をついて言い放った。
「もうすぐ御縄結いが始まるというのに……そんなところで油を売っとらんで、さっさと呂の鳥居に集まらんかね」
 これだから若い者は……と独り言のように言うと、老人は踵を返して真白の砂利道を歩き出す。
 残された少女は老人を見送ると、全員を見渡しながら声をかけた。
「皆まだ伊のところに居たのね。呂の御縄の儀式がもうすぐ始まるわ。村長(むらおさ)も気が立っているから、一緒に行きましょう?」
 どうやら真帆と紗耶の力が通用したのか、全員はこの村に最初から居たものとして捉えられているようだった。

 内と外とを隔てる鳥居を「伊」、遥か先に見える鳥居を「呂」と呼んだ少女は、長い黒髪に上質の桜柄の和服を身に纏っていた。まだ16、7歳程なのだろうか。均等の取れた顔は可愛いというよりも美しいと称した方が似合っている。けれど微笑む少女はどこか儚げで、物静かな印象を全員に与えた。
 蓮生は少女の顔を見た瞬間、先ほどの夜の光景を思い出した。間違いなくあの古木の下に居た少女だ。
「……雨歌? 桜? どっち?」
 泣いていた少女か、それとも死んでいた方の少女か。どちらも同じ顔をしていたから、今ここに居るのがどちらなのか、蓮生には解らない。
 少女は蓮生の言葉に一度微笑むと、こう言って返して来た。
「私は桜の方。雨歌なら拝殿で子供達と遊んでいるわ」
 早く行きましょうと告げてくる桜に従って蓮生が歩みを進めると、やがて真帆、百合子、紗耶、蔓王は伊の鳥居を潜って参道へと進んだ。
 一人残った永は、束の間鳥居を眺めた後で、全員よりも遅れてゆっくりと鳥居を潜り抜けた。


*


 伊の鳥居から呂の鳥居まではかなりの距離があった。
 参道の両脇には木々が植えられ、その奥には数多の家屋が軒を連ねている。
 呂の鳥居へ辿り着くまでの間、永はただ静かに村の様子を眺めていた。建てられている家屋は全てが木造平屋の簡素な造りで、土塀が突き崩されている家まである。時折家の中から参道へと村人が姿を現したが、彼らが身に纏う和服もまた上等なものとは言い難く、綻びが多く見られた。
 裕福な村ではないのだろう。その分、絹の和服を身に纏っている桜だけが、村の中でも特別な存在のように感じられた。
 それを裏付けるかのように、村人は桜の姿を見るや否や「桜媛様」と口々に名を呟き、深々と頭を下げて来る。六人を先導するように歩く桜は、そんな村人に軽く会釈を返していた。
 桜と村人との間には、一線を隔てた何かがあると察した永は、斜め前を歩く蔓王へと声をかけた。
「彼女はどのような立場にあるのでしょう? 皆随分と恭しく振舞っているようですが」
「村の巫女です。祀り神の声を聞き、それを村人に伝える役割を担っていますから……」
「なるほど」
 神事の巫女であれば、桜だけが上質な衣を着ている事も、村人達が桜に頭を垂れて来る事にも得心が行く。
 村人達は桜に拝礼すると、重々しい様子で鳥居へと向かって歩みを進めていた。

 大勢の人の気配に気付いた紗耶は、誰に問いかけるわけでもなく不思議そうに呟いた。
「呂の鳥居に随分と人が集まっているようだけれど、これから一体何が始まるの? 先ほど御縄の儀式と言っていたけれど……」
 その声が桜の耳に届いたのだろう。桜は歩きながら微かに顔を紗耶の方へと向けてくる。
「呂の御縄結いの儀式が始まるのは正午からよ。早朝に伊の御縄結いを終えたでしょう?」
「御縄結い……?」
 聞きなれない言葉に、紗耶が口元で小さく桜の言葉を反芻する。すると、隣を歩いていた百合子が桜のかわりに言葉を紡いだ。
「鳥居の注連縄、張り替えるんだと思う……御縄結いって、聞いたことあるよ」
「呂が終わったら、深夜には波の鳥居の御縄結いが行われるわ。波の儀式は女性だけで行うから、紗耶さんも百合子さんも真帆さんも、まだ休んでいて大丈夫よ」
 伊と呂は男の人の仕事だから頑張ってねと、桜は蓮生と永を見つめながら微笑んだ。


 桜の言葉から察するに、この村内には三つの鳥居があるようだった。
 村の入り口にある鳥居が「伊」。これから向おうとしている神社の前にある鳥居が「呂」。そして深夜に注連縄を張り替えるという「波」。
 蓮生は次第に近づいてくる呂の鳥居へ視線を向けた。
 ここからでも、その巨大さが手に取るように解る。あの鳥居の注連縄を張り替えるのだから、かなりの肉体労働になるだろう。蓮生は思わず瞳を細めながら呟く。
「一日かけて注連縄を張り替えるのか……でも俺、重いもの持ち上げるだけの体力が無い……」
 自然や動物達と意志の疎通を図る事は可能だが、その分体力が皆無なのは自負している。仕事をしろと言われても、肉体労働だけは自分の手に負えそうも無かった。
 蓮生のそんな言葉を聞いた桜は、ふふと楽しそうな笑顔を浮かべると、視線は鳥居へ向けたまま蓮生へ返した。
「御縄を張る人達は既に選ばれているでしょう? 蓮生さんや永さんは手鏡を持って鳥居の前に座っているだけよ」
 桜の言葉に、永がふと顔を上げる。
「鏡、ですか」
「そういうしきたりでしょう?」
 忘れてしまったの? とでもいう風に桜は首を傾げたが、やがて視線を落とすと、独り言のような言葉を零した。
「でもそうね。この祭祀自体、随分と久しぶりに行われるから……私もあまり記憶には残っていないわね……」
 三つの鳥居の注連縄を張り替えている間、村人は手に鏡を持ってその儀式を見守り続ける――古来から村に伝わる祭祀は、桜の言葉からも毎年行われるわけではないようだった。

 それまで参道を歩きながら、興味深そうに村を見渡していた真帆が、ふと桜へと質問を投げかけた。
「桜さんは村の巫女なんですよね。巫女は御縄結いの時、何をしているんですか?」
 巫女というからには、当然何か特別な事をするのだろう。
 紗耶も「儀式なら巫女が祈祷したりするのかな」と、真帆の言葉に付け加える。だが、桜から返ってきた言葉は予想外のものだった。
「何もしないわ。巫女に選ばれた人間は、時が来るまで何もしないの。だから波の御縄結いにも携わらないわ」
「時って?」
「……来年の三月まで。私の役目は、呂の鳥居の内側で、ただ静かに時を待つこと」
 来年の三月――
 一体何が行われるのか解らず、真帆は再び桜に問いかけようとした。だが、それを拒むかのように桜は歩く速度を速めた。

 気付けば呂の鳥居は目前。随分と古びてはいるが、伊とは比類にならないほど巨大な木造の鳥居が目に留まり、思わず真帆は口をつぐんだ。
 後ろを歩いていた百合子が、呂の鳥居を見上げた途端、僅かに顔をしかめる。
「……なんだろう……嫌な感じがする」
 呟いた百合子自身、何が嫌なのかは解らなかった。ただ鳥居と、鳥居に張られている古びた注連縄とが、百合子の心内に不快感を芽吹かせる。
 それは蓮生も同じだった。見えないものを見、それらと対等に渡り合える人間のみが感じ取れる何か――。それがこの鳥居にはあるようだった。
 桜は無言のまま、真っ直ぐに呂の鳥居を潜り抜けると、拝殿へと歩みを進めた。


 桜に従って呂の鳥居を潜ると、正面に荘厳な造りの拝殿が姿を現した。
 圧巻としか言いようのない巨大な拝殿は全ての柱が朱で塗られ、中央には見事な注連縄が張られている。参道に軒を連ねていた民家と拝殿とでは、雲泥の差の造りである。
 それに驚き、永は思わず感嘆の溜息を零した。
「これは……また見事な拝殿ですね」
「…………」
 だが、傍らに居た蔓王は、無言のまま険しい表情で拝殿を見上げている。蔓王のその様子に気付いた永は、首を傾げながら蔓王へ問いかける。
「どうかしましたか? 蔓王さん」
「いえ。どうという事はないのですが……」
 言いよどむ蔓王に、永が再び言葉を発しようとした時。
「あれは……雨歌?」
 蓮生の声が聞こえて、永は拝殿の脇に建てられた小振りの社殿へと視線を移した。社殿の前には、数人の子供達と一緒にお手玉で遊んでいる少女が居る。
 桜は蓮生の言葉に頷くと、穏やかな口調で少女の名を呼んだ。
「雨歌!」
 桜の声に、雨歌は束の間視線を彷徨わせ、やがて拝殿前に桜と六人の姿を見つけると、嬉しそうな笑顔を浮かべて手を上げた。



■ 雨歌 ■

 社殿の前に居た雨歌が、数人の子供達に背中を押されながらこちらへと近づいてくる。その雨歌の容姿を見た途端、紗耶は微かに驚きの色を浮かべた。
「……桜さんと雨歌さんは、双子なの?」
 一卵性なのだろうか。顔は言うに及ばず、長い黒髪も身長も、桜柄の和服までもが同じで、一体どちらが桜でどちらが雨歌であるのか、一見しただけではまるで見分けがつかない。
 紗耶は二人が立ち並ぶ様子を見て、思わず自分の兄の存在を思い出した。
 自分と魂を分けた半身――この二人にも、自分達と同じような繋がりがあるのだろうか。
 紗耶の言葉に返事を返したのは、雨歌の方だった。
「双子よ。見れば解るでしょ?」
 雨歌はさも当たり前といわんばかりに笑いながらそう言って、隣に佇む桜へと抱きついた。そんな雨歌に、桜はただ困ったような表情を浮かべるだけで、返事を返す事はしない。
 百合子は二人の様子を眺めながらニコリと笑顔を浮かべる。
「雨歌さんと桜さんは仲良しなんだね。同い年の姉妹って羨ましいな」
 百合子には歳の近い兄弟姉妹が居ない。もし自分も双子だったりしたら、色々と悩み事を相談出来るのになと、百合子はポツリと羨ましそうに呟いた。

「雨歌姉ちゃんお手玉はぁ?」
 気がつくと、それまで雨歌を取り囲んでいた子供達が、和服の裾を引っ張りながら雨歌を見上げていた。
 まだ遊び足りないのか、子供達は頬を紅潮させたまま両手にお手玉を握り締めている。雨歌はそんな子供達へ向き直ると、パンパンと軽く手を打ってお姉さん口調で言葉を紡いだ。
「今日はもうおしまい! これから大人は忙しくなるから、子供は帰って家の中で遊んでなさい」
 雨歌の言葉に、子供達は不服を示した。全員から「えー!」という不満の声が上がり、その中の一人が雨歌へと言い放つ。
「雨歌姉ちゃんだって子供のくせに、大人とかゆってるー」
「ねー。子供のくせにー」
 その様子を見た雨歌は、群がる子供達の一人を背ろから羽交い絞めするようにして抱きしめる。
「こらぁっ。誰に向って生意気な口きいてるのかなー!?」
 言葉とは裏腹に、雨歌はその顔に満面の笑みを浮かべていた。羽交い絞めにするといっても半ばじゃれあっているだけである。子供も雨歌に抱きしめられた事できゃっきゃと笑い声をあげていた。
「今日は御縄結いの日なんだから遊ぶのはこれで終わり! また今度皆で遊ぼう!」
 雨歌はそう言うと、子供達の頭を一人づつ撫でて背中を押す。子供達はそれで漸く雨歌と遊ぶ事を諦めたのか、笑いながら手を振って呂の鳥居の外へと走って行った。


「子供って元気よね。無邪気でさ、何も悩みなんてなさそうだし」
 子供達の後ろ姿を見送りながら、雨歌は軽い溜息とともにそんな独り言を零した。
 同じ顔をしてはいるが、儚げな印象の桜に対し、雨歌は明るく、どこか親しみやすい雰囲気を抱いた少女だった。
 そんな雨歌へ、桜が心配そうに言葉を紡ぐ。
「……雨歌、あんなに動きまわって大丈夫なの?」
「平気よ。桜は心配のし過ぎだって」
 桜が雨歌の体をいたわるような言動をしたことに気付いた蓮生は、ふと顔を上げると雨歌を見つめた。
 先ほどまで子供達とじゃれあっていた雨歌からは、体調の悪さなど微塵も感じられない。顔色が悪いというわけでもなく、むしろ儚げな空気を漂わせる桜の方が余程病弱なように見える。それでも、桜の言葉が気になった蓮生は、雨歌へと質問を投げかけた。
「具合、悪いのか?」
 口数は少ないが、それでも蓮生が雨歌を心配する気持ちは伝わったのだろう。雨歌は満面の笑みを浮かべて蓮生へと返してきた。
「悪くないわよ、ここのところ全く雨が降らない上に暑いから、ちょっと目眩はするけど」
「やっぱり目眩がするんじゃないの……」
「だから大丈夫だってば! 別に病気ってわけじゃないもの……もうっ、皆過保護過ぎ!」
 蓮生と桜の心配そうな視線を受けて、雨歌は苦笑交じりに「私は大丈夫だから」と念を押した。

 そのやり取りを眺めていた真帆は、百合子へ近づくと耳元でこそりと囁く。
「双子だから顔はそっくりですけど、雨歌さんと桜さん、随分性格が違いますね」
「ん、そだね。桜さんの方がお姉さんなのかな、静かな感じだね。雨歌さんの方がちょっと……えと、大雑把?」
 上手い言葉を見つけ出せず、百合子が少しずれた返事を真帆へ返す。真帆は百合子の言葉にあははと軽い笑い声を上げた。
「それを言うならちょっと短気な感じ、ですよ」
「そっか。短気で庶民的って感じかな」
「そうですね。庶民的っぽいですね」
 真帆と百合子がずれまくった会話を繰り広げていた時だった。
「……ちょっと二人とも、聞こえてるんですけど?」
 不意に雨歌の低い声が聞こえてきて、真帆と百合子は慌てて雨歌の方へ視線を向けた。
 真帆も百合子も、小さな声で話していたつもりだったが、その言葉は全て雨歌の耳に届いていたらしい。雨歌は、むむむと眉間に皺を寄せ、頬を膨らませながら二人をねめつけている。その様子に気付いた二人は、慌てて雨歌へとフォローを入れ始める。
「あっ、えと、えと、悪い意味で言ったんじゃないよっ! 明るくって元気で男の子みたいだなって思っただけで」
「そうですよ! 桜さんは女性らしくて物腰も柔らかですけど、雨歌さんはその正反対といいますか、肝っ玉母さんみたいで明るいなって思います!」
 真帆と百合子の弁明を聞いていた雨歌は、両腕を組みながら溜息を零した。
「あのね、全然褒め言葉になってないわよ、それ」
「…………えへ」
「…………あはは」
 明るいのは良いけど、男の子みたいで肝っ玉母さんって何よ、と雨歌が頬を膨らませながら拗ねているのを見て、百合子と真帆は互いに顔を見合わせると、誤魔化すように笑いあった。


 一方紗耶は、そんな三人のやりとりを微笑ましげに眺めていた。
 自分は率先して会話の中に入っていく性質ではないが、人の会話を聞いているのは楽しいものだと思う。何気なく視線を桜へ向けると、桜も三人から一歩離れたところで楽しそうな笑顔を浮かべている。自分と同じく巫女という立場に在る桜も、他人の会話に割って入るような性格ではないようだった。
 やがて、紗耶の視線に気付いたのか、桜がふわりと柔らかい笑顔を向けてきた。その笑顔を受けて紗耶も小さく微笑むと、思い出したかのように御縄の儀式のことを口にする。
「そういえばさっき、波の鳥居に行けるのは女性だけと言っていたけれど、何故?」
「拝殿から奥は男子禁制なの。だから必然的に波の御縄結いは女性。伊と呂は男性が行う事になっているらしいわ」
「伊と呂の鳥居、女性は手伝わなくて良いの?」
 波の鳥居の御縄結いは夜に行うと言っていた。とすると、自分を含め、真帆も百合子もそれまでは何もする事が無い。暇であるなら、いっそのこと手伝った方が良いのではないかと紗耶は思った。
 けれど桜は、紗耶の言葉に首を横に振って答えた。
「夜通し注連縄を張る儀式を行うから、それまで女性は家で体を休めているか、各々自由に過ごしているわ」

 桜がそう言った時だった。
 話を聞いていた真帆が、妙案を思いついたとばかりに軽く両手を叩いて笑顔を浮かべた。
「それでしたら、今から女性全員で水浴にでも行きませんか? 雨歌さん暑さで目眩がするって言ってましたよね。禊……とまではいきませんけど、暑い時は水浴で涼むのが一番です♪」
 何処かに泉や川などはないでしょうか、とにこやかに告る真帆の言葉に、一瞬桜と雨歌が顔を見合わせる。
「拝殿裏に川が流れているけれど……でも、川は今……」
 困惑したような、怪訝そうな表情。
 けれどそれに気付いた者はおらず、真帆の言葉にやや頬を紅潮させながら百合子が呟く。
「私も行ってみようかな。大勢で水浴って楽しそうだね」
「……そうね。夜まではする事がないのだから、ここに居ても仕方がないし」
 次いで紗耶が同意を示すと、真帆はその顔に満面の笑みを浮かべた。
「そうと決まれば善は急げです!」
 言うや否や、真帆は雨歌の背後に回りこむと、その背中を押し始める。
「ほらっ。こんなに暑いんだからたまには息抜きしないと。本番までにバテちゃいますよ♪」
「えっ、あ、ちょっと!?」
 突然背中を押されて驚いている雨歌を他所に、真帆はふと思い出したようにくるりと男性陣へと向き直った。
「あ、永さんに蓮生さんに蔓王さんは来ちゃダメですよ? 御縄結い頑張ってくださいね♪」
 女性の水浴をのぞき見たりしたら天罰が下っちゃいますからね、と冗談めかして男性三人へ告げると、真帆達五人は川へと向うべく、拝殿裏手へと向ったのだった。



■ 御流川・水浴 ■

 禊と称した水浴をするべく女性五人が足を運んだのは、御流川(ごりゅうがわ)と呼ばれる川辺だった。
 拝殿から脇にそれ、山道を少し登ったところにある御流川は、上流に位置する事もあってさほど大きな川ではなかった。切りだったむき出しの岩や、倒れ落ちた大木が隋所に見られ、その合間を透き通った水が流れている。けれど何より全員を驚かせたのは、御流川を流れる水の少なさだった。その水かさは、足のくるぶしまであるか否かという程に低い。
 真帆は周囲を見渡すと、やや困惑したような声音で呟いた。
「水が……随分と少ないですね」
 そんな真帆の言葉に頷いて返したのは紗耶だった。
「上流だから、と言うだけではなさそうだけれど……」
 下流域より上流域の方が水が少ないのは当然だが、これでは水浴というよりも日光浴をしに来たようなものだ。水辺であるにもかかわらず、傍らを掠めてゆく風は妙に乾いており、照りつける日差しを直に受けた岩は焼けるように熱い。
「どうしちゃったのかな。もっと水が溢れてると思ったんだけどな」
 川べりにしゃがみ込み、首を傾げながらそう呟いたのは百合子。
 お魚がいるかと思って楽しみだったんだけどなと、百合子は残念そうに御流川の水面を見つめていた。

 雨歌はそんな三人の様子を見て、軽く溜息をつきながら言葉を放つ。
「日照り続きで川の水かさが極端に減っているのよ。田畑にだって水をまわせないくらいなんだから、水浴が出来る状態じゃないわ」
 雨歌の声音に微かな不機嫌の色を見出した真帆は、しゅんとしながら雨歌へと謝罪を述べる。
「すみません。私がちゃんとお二人の話を聞いていれば……」
 少しでも雨歌と桜の疲れをとる事が出来ればと考え、良かれと思って水浴に誘ったのだが、それが裏目に出てしまった。
 真帆はどうしてよいか解らず、うなだれたまま微かに視線を落とした。
 そんな真帆に対して、優しい口調で言葉を紡いできたのは桜だった。
「気にしなくて良いの。私達に息抜きをさせてくれようとしたのでしょう?」
 言って、桜が真帆の顔を覗き込んでくる。視線が合い、真帆が微かに戸惑いながら桜の顔を見つめると、桜は穏やかな笑顔を浮かべてきた。
「ありがとう。大人数で話をするのは久しぶりだから、嬉しいわ」
 だから気にしないでねと告げる桜に、真帆もまた小さな笑顔を零した。
「……はい」
 己の感情をストレートにぶつけてくる雨歌に対し、桜は人の心を汲み取ってその場の空気をやんわりと和ませる。やはり雨歌と桜とでは随分と気質が違うのだなと、真帆は心の中で思った。

 やがて桜は、真帆から雨歌へと視線を移すと諌めるような口調で言葉放った。
「雨歌。折角気を使っていただいたのだから、そんな口の聞き方って無いわ。それに怒るのは体に良くないから……」
「別に怒ってなんかいないわ」
「でも、苛々しているでしょう? 真帆さんの言うとおり、たまには息抜きをしないとバテてしまうわよ?」
「…………」
 桜の言葉に、雨歌は微かに拗ねたような表情を浮かべると、そのまま口を閉ざして近くにあった岩場に座り込んでしまった。

 雨歌の様子に、真帆も紗耶もどうしてよいか解らず困惑した表情を浮かべる。
 その傍らで、百合子は何を思い立ったのか、突然自分のはいていた靴を脱ぎ始めた。
 何事かと全員が視線を向ける中、百合子は脱いだ靴を整え置くと、洋服の裾を軽く両手でつまんで川の中へ入って行く。
 驚いた紗耶は瞳を瞬かせながら、川に入り込んだ百合子へと声をかけた。
「どうしたの? 百合子さん」
 百合子は名を呼ばれると、川岸に居る四人へむけて手招きをしながら、満面の笑顔を浮かべてくる。
「ね、水浴とまではいかないけど、足だけでも冷たくて気持ちいいよ」
 折角ここまで来たのだから楽しもうよと告げる百合子に、川岸に居た四人は顔を見合わせた。
 険悪気味にしている桜と雨歌に気付いていない訳ではないのだろうに、百合子はそんな事など気にも止めず、ほんわりとした笑顔で全員を川の中へ誘ってくる。
 天然気質とはこういう事を言うのだろうか。だが、強引なわけでもなく、嫌味なわけでもない百合子の何気ない行動は、確かに全員の張り詰めた空気を和ませた。
 真帆は笑顔を見せると百合子に倣って靴を抜き出す。
「そうですね。ここまで来たんですから、楽しんじゃいましょう!」
「夜まではする事もないし、全く水が無いというわけでもないのだから……」
 雨歌さんも桜さんも、一緒に行かないかと、紗耶が静かに二人を誘う。
 拗ねていた雨歌は、束の間戸惑ったような仕草を見せたが、桜に「ほら」と促されると、気恥ずかしそうにしながらゆっくりと腰を上げた。


*


 空気が乾燥しているせいでそれほど汗をかくことは無かったが、夏である事にはかわりが無い。
 容赦なく照りつける日差しに、やはり心持ちバテ気味だったらしい。川の水に足を浸した途端、それらの一切がひんやりとした水に洗い流されていくようで、気持ちが良かった。
「ここは空気が澄んでるね。水が優しくて……心が穏やかになる」
 百合子が独り言のように呟く声を耳にして、川に入っていた紗耶はふと自分の足元を見つめた。
 周囲に満ちているのは優しい水音。水は何処までも透明で、その川面に陽光が降り注ぎ銀色の輝きを放っている。川底の土や小石が流れにのって自分の足を掠めてゆく感触をこそばゆく思いながら、紗耶は瞳を細めて小さく微笑むと、百合子へ言葉を返した。
「今頃男の人たちは御縄結いで大変でしょうに」
「女の子達だけ少し得した気分かな」
「波の御縄結いは夜に行うと言っていた。こうやって他の祭を手伝う事になるなんて思わなかったけど、きちんとやらなくてはね。神様が居るのだから」
 それを聞いた百合子が、不意に真剣な表情で紗耶へと質問を投げかけてくる。
「注連縄を張るのは体力を使うのかな」
 伊の鳥居も大きかったが、呂の鳥居はそれをさらに上回る巨大さだった。当然そこに張られる注連縄もかなりの重量を有するものになるだろう。
 紗耶は束の間思案した後、微かに困惑しながら顔を上げた。
「どうだろうか。伊と呂の鳥居はかなり大きかったけれど、波の鳥居はまだ見たことがないから……」
 果たして女性達だけで波の鳥居の御縄結いが出来るのだろうか。紗耶も百合子も、それを考えるとやや不安な面持ちになった。
 そんな二人の様子に気がついたのだろう。傍らにいた桜が楽しそうな笑い声を零しながら、安心させるように言葉を紡いでくる。
「大丈夫よ。波の鳥居は呂のものよりずっと小さいから」
「そうなの?」
「ええ。注連縄自体も細いものだから、むしろ鳥居に辿り着くまでが大変かしらね」
 波の鳥居のある場所は、山道を登った先にあるからと、桜は付け加える。
 眠い時間帯、真っ暗な山道を登った後で御縄結いの儀式が待っているのだ。矢張り少しでも休んでおくべきだったかなと、百合子と紗耶は思わず顔を見合わせた。

 そんな中、ふと思い立ったかのように真帆は雨歌へと近づくと、質問を投げかけた。
「そういえば、一日をかけて三つの鳥居の注連縄を張るんですね。一体何の為の儀式なんですか?」
 真帆が知っている祭りは、神社で行われるにしても、もっと楽しいものだった。夜店が立ち並び、人込みの中を浴衣で友達と歩きながらかき氷を食べたり、輪投げをしたり……。
 けれど参道には夜店など一つも無かった。大体にして、何故一日のうちに三つもの注連縄を張り替えるのか。どうせなら三日に分けて行えば良いのにと、真帆は思う。
 それを聞いた紗耶も、真帆の言葉に頷くと、雨歌を眺める。
「儀式的なお祭だと思うのだけれど、一体どのようなお祭なの……?」
 真帆と紗耶から質問を投げかけられた雨歌は、近くにあった岩場へ腰掛けると、軽く溜息を吐いた後で二人を眺めながら端的な言葉を返してきた。
「祈雨の祭りよ」
 真帆は雨歌から返された言葉を反芻する。
「祈雨?」
「雨乞いって言ったら解る? 昔から滅多に雨が降らないでしょう。農作物が作物が育たないの。だから酷い日照りが続くと、巫女をたてて御神体に雨が降るよう祈願するのよ」
「それでは、桜さんは祈雨の祭りの巫女なのね」
「……そう言うことになるかな」
 雨歌の言葉に、真帆はふと周囲を見渡してみる。
 村は山の麓にあるようで、御流川より奥は深い樹木で覆われていた。だが日照りが続いていると言った雨歌の言葉通り、川岸にある土は乾燥してひび割れいるのが見て取れる。そんな土地に生えている木々も、どこか頼りなく細々しい印象を受けて、真帆は思わず空を仰ぎ見た。
 真夏の空は無慈悲なほどに青く、雲ひとつ無い空からは朝と変わらず容赦ない太陽の光が照り付けている。
 雨が降る気配など微塵もなかった。
 雨が降らず土がひび割れていれば、どんなに人間が努力をしたところで、日々の糧を得るのは難しい。旱魃はやがて飢餓を生む。人間は生きてはいけなくなる。だからこそ村人達は巫女を立て、神へと雨を請うのだ。
 真帆は束の間考え込んだ後で、再び雨歌へと質問を投げかける。
「あの、桜さんが巫女に選ばれたのはどうしてですか? 双子だから?」
 昔から双子という存在はある種の力を持つといわれている。それゆえに双子を忌み嫌う風習も存在していたほどだ。この祈雨の祭りに桜が巫女として立ったのは、やはり双子の片割れだからなのだろうか。
 だが、真帆の言葉に雨歌は首を横へ振って返してきた。
「違う。雨の日に生まれたから」
「……え?」
「誰が決めたのかは知らないけど、昔から雨が降る日に生まれた女子は、巫女としての資格を持つと言われているのよ」
「雨の降る日に生まれた子、ですか?」
 雨歌から返された言葉に、真帆はきょとんと瞳を瞬かせる。そんな真帆を見ながら、雨歌は話を続けた。
「日照りが続くこの村で、雨の日に生まれた子供は『雨を招く子』として巫女になる資格を得るの。旱魃が長く続いて村が飢え始めると、春に資格を持つ者の中から一人だけ、祈雨の祭りの巫女が選ばれる。今回の巫女は桜」
 雨歌の言葉から、真帆は祈雨の祭りが毎年行われるわけではない事を知った。どれくらい長い事、この村は旱魃に苦しめられているのだろう。
「夏に御縄の儀式が終わると、秋から冬にかけて飽贄(あきにえ)の祭りが行われるわ。ほら」
 言って、雨歌は先ほど歩いてきた道の向こうをを指差した。
 雨歌が指し示したのは、御流川を渡った向こう岸にある古びた建物だった。木が邪魔をして全貌をうかがう事は出来ないが、その敷地面積は拝殿よりも随分と大きいように思う。

 紗耶はそれを見留めると、雨歌へと言葉を紡いだ。
「あの建物は何?」
「神楽殿よ。飽贄の祭りの時、村の女達はあそこで神楽を舞い、男性は拝殿前で宴を催すの」
「神楽? ここの神社も神楽を奉納するのね」
 自分が居た場所でも巫女舞を奉納する事があったなと、紗耶はそんな事を思い出しながら呟く。
 まだ幼い頃、紗耶も巫女舞を舞ったことがあった。夢の中に生き続ける身となって以来、もう随分と長い事それに携わってはいないけれど、幼い頃に身につけた所作は今でも体が覚えている。
 ある程度を見る事は額の文様で出来るだろうけれど、目が見えていないから今舞いを舞ったら少しふらつくかもしれない。ここの神楽舞は、一体どんなものなのだろうかと、紗耶は微かに興味を示した。
「そして最後に……来年の三月に神哭(かんなき)の祭りが行われる。神楽殿を越えて山道を登っていくと波の鳥居と本殿があるわ。御縄の儀式と飽贄の祭りを経て……神哭の祭りの日に御神体の前で巫女が祝詞を唱えて、初めて祈雨の祭りは正式なものになるって……村長は言うけど……」
 雨歌は一度言葉を置くと、大きく溜息を零した後で忌々しげに独り言を零した。
「……こんな祭り、人間が勝手に作り上げた決まりごとよ。下らないわ」

 傍らで空を眺めていた百合子は、吐き捨てるように呟いた雨歌の独り言を聞くと、視線を雨歌へと移した。
「人間の、つくりごと?」
「だって他に誰がこんな事考えるの? 御神体に宿る神? 雨を降らせてやるから祭りをしろなんて、そんな滑稽な事を言う神がいるわけ無いじゃないの。馬鹿馬鹿しい」
 村の祭り。
 祈雨を願う祭り。
 自分の住む村にも、豊穣を願って行われる祭祀がある。百合子もそれに巫女として携わる身だが、雨歌のように祭りを下らないと思うようなことは無かった。ただ言われるままに全てを受け入れて、己の成すべき事を成す。そのために自分は居るのだと、そう考えていた。
 だから百合子には、雨歌のような考え方が理解出来ない。祭りのありようを否定するのは、同時に自分の存在を否定するのと同じようなものだ。
 返す言葉を見出せず、百合子は雨歌を無言で見つめ続けた。けれど、やがてある事に気付くと、百合子は思わず雨歌へと言葉を紡いだ。
「……雨歌さん、顔色良くない」

 百合子の言葉に、真帆と紗耶も思わず雨歌へと視線を向けた。
 見ると、岩に体を預けている雨歌はどこか青ざめているように感じられる。
「平気よ。いつもの事だから気にしないで」
 言って、雨歌は全員の視線から逃れるようにふいと顔を背け、岩場から離れようとした。その途端、重心を崩したように、雨歌はその場に倒れるようにしてしゃがみ込む。
「雨歌さん!?」
 驚いた真帆が咄嗟に雨歌の傍らへ走りよると、両手で雨歌の肩を支えて覗き込んだ。
「大丈夫ですかっ!? もしかしてまた目眩が……」
 肩に置いた手から、雨歌が苦しげに呼吸をしているのが伝わってくる。覗き込んだ雨歌の額には脂汗が滲んでおり、その顔からは益々血の気が引いてゆくのが解る。
「……こんなの、すぐにおさまる……大したことない」
「平気じゃないですよ。凄い顔色じゃないですか!」
 雨歌は平気だというが、どう考えても大丈夫なはずがない。真帆は振り返ると、川中に居る桜へ言葉を放った。
「桜さん! 雨歌さんが!!」
 その声に気付いた桜が、こちらへと視線を向けてくる。桜は一瞬で何が起こっているのかを察したのだろう。すぐさま雨歌の元へと走り寄ってきた。
「雨歌!」
 既に意識が混濁しているのか、雨歌は桜の呼びかけに答える事はせず、そのまま桜の胸元へと倒れこむ。
 自分達では雨歌を運ぶ事は難しいと察した真帆は、咄嗟に立ち上がると全員に向けて、
「私、誰か男の人を呼んできます!」
 そう叫ぶと、踵を返して走り出そうとした。
 だが。
「待って!」
 桜が厳しい口調で真帆を呼び止めた。
 先ほどまでのやんわりとした口調とは異なり、有無を言わせない厳しさがそこにはあって、真帆は思わず足を止める。
 雨歌を抱いた桜は、自らを落ち着かせるように一度深呼吸をすると、真帆へ向けて再び言葉を続けた。
「ごめんなさい……拝殿から奥に男の人は入ってはいけないの。拝殿まで行けば何とかなるから、そこまでは私達で雨歌を運びましょう」
 手伝って頂けませんかと、桜が全員の顔を見渡しながら告げてくる。三人は桜の言葉に頷くと、倒れた雨歌を支えながら急いで拝殿へと向った。



■ 枕辺の約束 ■

 倒れた雨歌を、拝殿近くにある社殿の中へ抱え入れてくれたのは藤宮永だった。
 拝殿で祝詞を上げていた宮司も、呂の鳥居の前に佇んでいた村人達も、雨歌が倒れたというのに、まるで他人事とでも言わんばかりの様子で、誰一人として手を貸してはくれなかった。
 その事に真帆と紗耶は憤りを感じ、蓮生と百合子は酷く心を痛めた。

 既に時は夕刻。逢魔が時とでも言うのだろうか、連子窓の隙間から見える空は毒々しいほどの朱に染まっている。雨歌は依然として目を覚まさず、その顔色は死人のように青白い。皆無言のまま、眠る雨歌の枕辺を囲んでいた。
「私が水浴に誘ったりしなければ……」
 沈黙を破るように、ぽつりと零したのは真帆だった。
 暑さで目眩がするという雨歌に水浴を勧めたのは自分だ。水浴などせず、桜が言ったように体を休めていれば、雨歌は倒れたりしなかったかもしれない。真帆はその事で己を責め続けていた。
 冷泉院蓮生はそんな真帆に向って静かに言葉を紡ぐ。
「真帆のせいじゃない。そんな事を言ったりしたら、多分雨歌は怒ると思う。それに、自分を責めるのはあまり良くない」
 蓮生は、他人が苦しんだり悲しんだりするのを自分の事のように捉えてしまう。だから今、真帆が自らを呵責している行為を見ているのは辛かった。
 蓮生はそっと雨歌の額に手をあてると、瞳を閉じる。心配しているみんなの為に、倒れた雨歌自身の為に、いま自分が出来る事は、雨歌の疲れた肉体と精神を癒してあげる事だ。
 少しでも自分の力が役に立てばいい……そう思いながら、蓮生はただひたすら雨歌の容態がよくなる事を願い続けた。

 そんな中、不意に桜が、紗耶と百合子、真帆の三人を見渡しながら言葉を紡いだ。
「貴方達はそろそろ波の御縄結いの準備をした方が良いわ」
 それに首を横に振って返したのは百合子である。
「でも、雨歌さんが心配だから……」
 百合子の言葉に肯定の意を表したのは紗耶。
「……そうね。御縄結いには村の人達も行くのだし、私達は雨歌さんについていた方が良いと思う」
 けれど桜は、百合子と紗耶に穏やかな笑顔を浮かべながらこう返した。
「大丈夫よ。私は元々御縄結いには行かないから、雨歌を見ていられるし……蓮生さんや永さんもついていて下さるから」
 雨歌の事は心配しないで御縄の儀式に行っていらっしゃいと、桜は告げる。
 だが百合子と紗耶と真帆は互いに顔を見合わせ、暫くの間その場から離れようとしなかった。
 そんな三人を、永が静かにうながす。
「桜さんもこう仰っている事ですし。蓮生さんが雨歌さんを癒して下さっていますから大事ありません。それに、雨歌さんが目を覚ました時、大勢で覗き込んでいては逆に『大げさだ』と叱られてしまいますよ」
 雨歌の気質からして、恐らく皆が心配すればするほど、元気な素振りを見せ続けるだろう。
 永の言葉に漸く三人は頷いて、「御縄結いが終わったらすぐに戻ってくるから」と言い残すと、躊躇いがちにその場を後にした。


*


「雨歌さん……大丈夫かな」
 雨歌の部屋を出ると、百合子は不安げな声音で言葉を零した。
 昼間に見た雨歌の顔色は、死人のそれのように青白かった。一見明るく元気なように見えるが、今思い返してみると、桜は常に雨歌の体調の事を気にかけていた。
「もしかしたら、何か病気……してるのかな」
 それは真帆も同じ考えで、百合子の言葉に同調するように頷いて返した。
「そうですね。でも蓮生さんは人を癒す力をお持ちのようですし……」
 本当なら御縄の儀式に行くことなどせず、せめて雨歌が目覚めるまで傍についていたかった。
 けれど桜や永の言うとおり、雨歌は心配する人の事を気にして、己の体調の悪さを押し隠してしまうような気がする。
「御縄の儀式が終わるまでに、雨歌さんが意識を取り戻してくれると嬉しいです」
 その言葉に、紗耶が頷く。
「今は、雨歌さんのためにも、波の鳥居の御縄結いを無事に終わらせることに集中しよう」
 倒れた雨歌の為に自分たちが出来る事は、与えられた仕事を最善をもってこなす事だ。
「そうだね。私達は御縄の儀式を一生懸命頑張ろう」
 百合子と紗耶と真帆が、そう心に誓って頷いた時だった。

「お姉ちゃんたち、やっぱりまだここにいた」
 不意に声を掛けられて、三人は同時に声のした方へと視線を向けた。
 まだ11、2歳くらいだろうか。桜と同じように長い黒髪を湛え、桜柄の着物を身に纏った女の子が、廊下の向こうからこちらを見つめていた。
 女の子はニッコリと笑顔を浮かべると、全員に向って話しかけてくる。
「波の御縄のぎしきが始まるから、呼んでらっしゃいって言われたの。お姉ちゃんたち、案内してあげる」
 付いてきてと、それだけ言うと、女の子はくるりと踵を返して廊下を歩き出す。
 三人は一度互いに顔を見合わせると、誰からともなく無言で女の子について歩き出した。



■ 御縄の儀 ・ 波 ■

 外は深い暗闇に覆われていた。
 今日は新月であるのか、見上げた空に月は見えず、ただ拝殿に灯された明かりだけが煌々と周囲を照らしている。
 既に村の女達は全員集っているのか、拝殿の前に列を成していた。
 最前列に居た数人の女達は注連縄を乗せた御台を肩で支えるようにして持ち、その後ろに桜柄の和服を着た十数人の子供達が、それぞれ灯火を手にして佇んでいる。
 誰一人として口を開かず、列を乱すものも居ない中。紗耶、真帆、百合子の三人と、案内をしてくれた子供は最後尾に就いた。

 真帆は、前方に居る桜柄の和服を着た子供達を見留めると、小さく呟く。
「桜さんもそうでしたけど、この村には桜柄の和服を着た人が多いですね」
 どうして皆同じ柄の着物を身に纏っているのか、真帆には不思議だった。
 そんな真帆の独り言が聞こえたのだろう。女の子は前方を見据えたままで真帆の疑問に返してくる。
「巫女と、巫女の資格を持つ子は、桜柄の和服を着るの」
「巫女の資格を持つ子って……雨の日に生まれた子の事ですか?」
「うん」
 静かに頷いて真帆を見上げてくるこの子も、桜柄の着物を身に纏っている。ということは、この女の子も巫女の資格を持っていることになる。
 真帆はふと雨歌の身に纏っていた着物の柄を思い出すと、思案げに呟いた。
「それじゃ、雨歌さんも巫女の資格を持っているんでしょうか」
 雨歌も桜も同じ桜柄の和服を身につけていた。確かに双子であるなら、二人して同じ雨の日に産まれてもおかしくはない。今回の巫女は桜だが、もしかしたら次に行われる祈雨の祭りの巫女は、雨歌になるのかもしれない。
 けれど真帆の疑問に、女の子は首を横へ振った。
「雨歌姉ちゃんは、巫女の資格をもたないよ」
「え……でも」
「すぐに倒れちゃうから、お祭りの時に死んじゃったりしたら、巫女としての役目をはたせないからって、村長が雨歌姉ちゃんを俗世に戻したの」
「……俗世へ戻すって?」
「巫女の資格を持つ子は名前を持たないの。巫女に選ばれて初めて『桜』っていう名前を貰うから……資格がなくなったとき、雨歌姉ちゃんは『雨歌』っていう名前をもらったの。それが俗世に戻すっていうこと」
「……じゃぁ貴方も、名前を持って居ないんですか?」
 真帆の問いかけに、女の子は無言で頷く。
 桜が『桜媛』と呼ばれているのは、今回の祭りの巫女だからなのだろう。桜も、以前はこの女の子と同じように名を与えられず、ただ静かに巫女に選ばれる時を待っていたのだ。
 名前は自己を確立させ、他人と区別をつけるために必要不可欠なもの。
 自分にも樋口真帆という名前がちゃんとある。肉親が自分の為につけてくれた大切なもの。それなのに名前を付けてもらえないなんて、まるで巫女は人ではないとでも言っているかのようで、真帆は思わず哀しくなった。


*


 しんと静まり返る中、程なくして拝殿に集っていた女の列が動き出した。
 注連縄を持つ女達に続いて、巫女の資格を有するという子供たち。さらに村の女達が拝殿の中へと入っていく。それに従って三人が拝殿へと足を踏み入れると、外へと続く奥の扉が開かれていた。
「拝殿の奥から、外へ抜けることが出来たんだ……不思議な造り」
 百合子は歩みを進めながら、独り言のようにそう呟いた。
 奥の扉を潜り抜けた先には橋が掛けられており、その下を御流川が流れていた。
 昼間水浴をした時、川の向こう岸に神楽殿があったのを百合子は思い出す。とすると、この橋を越えた先には神楽殿があるはずだ。
 百合子は思わず顔を上げると、暗がりの中で瞳を凝らした。
 最前列に居る子供達が灯火を持っているおかげで、闇夜の中でも神楽殿の全貌を捉えることが出来る。
 神楽殿の周りには、他者を拒絶するかのように土塀が巡らされており、この橋を渡る以外に、神楽殿へ入る方法はないようだった。
 けれど荘厳な造りの拝殿に対し、神楽殿を囲む土塀はかなり老朽化が進んでいるようで、土を継ぎ足した跡や、崩れかけている場所随所に見られた。

 暗闇の中、一つ、また一つと小さな灯火が灯されてゆく。
 百合子たちの進む道に沿って、一定の間隔で石灯籠が置かれている。恐らく子供達が、その一つづつに灯りをともしているのだろう。
 そんな中、百合子は神楽殿の内に入るや否や、舞台を見ながら怪訝そうな表情を浮かべた。
「……変」
 木造萱葺きの巨大な神楽舞台。だが、何かがおかしい。
 百合子の呟きが紗耶に届いたのだろう。ふと隣を歩く紗耶が百合子に話しかけてきた。
「どうかしたの?」
 百合子は舞台へ視線を向けたまま、紗耶へと言葉を紡ぎ出す。
「神楽殿の造り、おかしい……」
「……そう?」
 紗耶は首を傾げながら、百合子に倣って神楽殿へ視線を向ける。
「別段おかしいところは無いように思うけれど……」
「…………」
 通例、神楽殿の舞台は本殿に近い位置に造られるか、拝殿奥にあったとしても脇にそれた場所に造られるものだ。だが、雄滝の村にある神楽殿は、拝殿の真正面に舞台を置いていた。これでは神の通り道を塞いでしまう。
 さらに百合子を驚かせたのは、舞台が拝殿に背を向けていることだった。
「全部が普通と逆。……こんな造り、私見た事無い」
 拝殿の扉を開けて奥へ進む事自体、妙だと思っていた。けれどそれ以上に、神楽を舞う事を常とし、幼い頃から一日の半分近くを神楽殿で過ごしてきた百合子とって、この村にある舞台は異質なもののように感じられた。
「嫌な感じがする。何も無いといいけど……」
 呂の鳥居を見た時と同じような、歪んだ空気が神楽殿に満ちているような気がして、百合子は思わず舞台から顔を背けた。


*


 神楽殿を抜けて山道に入ってからどのくらいの時間が経ったのだろう。
 月が無いから時を計ることは出来なかったが、もう随分と長い事歩き続けているように、紗耶には感じられた。
 山中にも、橋や神楽殿にあったものと同じ石灯籠が設けられており、その一つ一つに灯りが灯されてゆく。それゆえに波の鳥居へ向う速度も遅い。
「波の鳥居……」
 鳥居の名を呟きながら、紗耶は軽い溜息を零した。
 波から連想するのは海。それは、自分にとって終わりの場所でもあり、同時に始まりの場所でもあるところだ。それと同じ名をもつ鳥居は、一体どんな姿なのだろうと思う。
 昼間、雨歌は鳥居と本殿の奥に御神体があると言っていた。恐らくこの村へ最初に来た時に見た古木が、咲かぬままに植えられているのだろう。
「咲かない桜は、ただの木ではないのかしら。花を咲かせたくないのは、桜の意志ではないのかな」
 でも、何故桜は意志を持って自ら咲くことを拒んでいるのだろう。紗耶にはそれが解らなかった。
「咲いて何かを出したくないのかもしれない……ああ、だからこそ夢を辿るのか……そっか」
 古木が抱き続けている悲しい夢。あれは現実に起こった出来事なのだと蔓王は言っていた。それが引き金になって桜は咲くことを拒んでいるのかもしれない。詳細を知りたくて、古木に宿る神を助けたくて、自分達は今ここでこうしているのだ。
 紗耶は納得したように一人静かに微笑みを浮かべた。

 やがて前方から一際大きな炎が上がり、紗耶は前方を見据えた。炎は左右両方から立ち昇っている。
 揺らぐ炎の光に照らされて、紗耶の視界に映し出されたのは、小さな木造の鳥居とその奥に建てられた本殿だった。
 それを見た瞬間、紗耶は思わず瞳を見開いた。
「あの鳥居……」
 その言葉に、百合子と真帆も顔を上げて鳥居を見つめる。
「あれって、この村で一番最初に見た鳥居と、同じ?」
「私も見ました。鳥居の先に咲かない桜があって……でも、本殿は何処にも無かったように思いましたけど……」
 夜の夢の中、腐食が進み今にも崩れ落ちてしまいそうな鳥居を見た。あの場所が、今自分達の立っている場所と同じところなのだと、三人が同時に思い立った時。これまで歩みを進めていた女達の列がぴたりと止まった。


*


 本殿の前に立って祝詞を唱える子供の声が、風に乗って周囲に響き渡る。
 その声にあわせて、注連縄を御台に乗せて歩いていた女達が数人、形式に則った所作で拝礼を行うと、やがて古い注連縄を外さぬまま、鳥居へ新しい注連縄を張り始めた。
 桜が言っていたように、伊や呂の鳥居と違い、波の鳥居は小さかった。だが、眼前で繰り広げられる光景に、紗耶は思わず言葉を放った。
「どうして、古い注連縄を外さないで新しい御縄を張っているの?」
 何か意味があるのだろうが、その問いに答えをくれるものは、この場に誰も居ない。
 女達は新しい注連縄を張り終えると、腰に挟んでいた鎌を手に取り、古い注連縄を鳥居から切り外してゆく。
 その所作は酷く乱雑で、まるで忌々しい何かを切り刻んでいるかのように、三人には感じられた。

 切り落とされてゆく古い注連縄を見つめながら、やがて真帆がポツリと言葉を紡ぐ。
「御神木は、きっと本殿の奥にあるんですよね。見られないんでしょうか……」
 あの古木は、今一体どうしているんだろう。出来る事なら見ておきたい。真帆はそう思い至ると、百合子と紗耶の方へ視線を向けた。
「ここから、奥へ行ける道ってないんでしょうか」
 それに首を傾げて返してきたのは紗耶。
「どうだろうか。行けないことはないのだろうけれど……」
 村の地理を熟知しているわけではないから、今列から離れてしまうと、村へ戻れなくなるかもしれない。
 そんな紗耶と真帆に、束の間考え込んだ後で言葉を発したのは百合子だった。
「……私、案内できるかも」
「え?」
「本当ですか!?」
 百合子の言葉に、二人は驚きの声を上げた。百合子はこくりと頷くと、二人を交互に見つめながら言葉を紡ぐ。
「周りの木々の声を聞けば、道を教えてくれるかもしれないから」
 霊にしかり、動植物にしかり、百合子は人ではないものと対等に言葉を交わすことが出来る。常であれば他人に言う事など決してしないのだが、状況が状況だった。
「……こっち、ついてきて」
 百合子は視線を彷徨わせた後で、列から離れると歩き出す。
 真帆と紗耶は一度顔を見合わせると頷きあい、女達に気付かれないように百合子の後を追った。



■ 神木桜 ■

 百合子の導きで本殿の奥に足を踏み入れた真帆と紗耶は、眼前にある光景に思わず言葉を失った。
 背後にある本殿では、依然御縄の儀式が続いているのだろう。朗々と祝詞を上げる子供の声が響き渡り、本殿前に掲げられた炎が夜の闇をかき消している。
 その灯りに照らされて、三人の前に忽然と姿を現したのは、あの桜の古木だった。
――否。同じなのだろうか。
 初めに見た古木は、枯れたように枝を左右に広げているだけだった。けれど今、ここにある古木は、夏であるにもかかわらず満開の花をさかせていた。
「どうして……?」
 誰からともなく、言葉を放つ。

 静かに、静かに。音もなく、風に乗って紅色の花弁が舞い落ちる。
 それはまるで古木の流す血の涙のようで。穢れこそないものの、周囲は古木の発する哀しみにも似た空気で満ちていた。
 桜の古木を見上げながら、やがて百合子がぽつりと呟く。
「……声が聞こえない」
 その言葉を聞いた紗耶が、半ば呆然としながら問いかける。
「聞こえない?」
「古木の声。神様の声、聞こえない……どうして?」
 ここへ来る前、蔓王は古木に宿る神が夢を見続けていると言っていた。そうであるならば、神の声が自分に届いてもおかしくはない。
 けれど百合子がどんなに古木へ語りかけても、古木がそれに返してくる事はなかった。

 咲く時を見誤ったかのように花を咲かせる古木を見つめながら、真帆もまた不思議に思っていた。
「村で祀っているのは、この木なんですよね……一体、どうしちゃったんでしょう」
 祈雨の為に御神木を祀り、御縄の儀式や飽贄の祭り、神哭の祭りを執り行なうと雨歌は言っていた。
 それぞれの祭りがどんな意味を持つのか、真帆にはその詳細まではわからなかったが、百合子は木から声が聞こえないという。
 言葉を忘れてしまったのか、それとも、神がこの木に宿っていないのか――。
 いずれにしても、この御神木が本当に雨を降らせてくれるのかどうか、真帆には疑問だった。

 二人の言葉を静かに聞いていた紗耶は、一度考え込んだ後で独り言のような言葉を紡いだ。
「一度、皆で集って整理する必要があるのかもしれない」
 この村のこと、祭りのこと、神木桜のこと――
 女性達が川で遊んでいた時、呂の御縄結いが行われていたはずだ。呂の御縄結いも、波の御縄結いと同じ形式で執り行なわれたのだろうか。
 何故忌々しいものを切り刻んでいるかのように、あんなにまで乱雑に古い注連縄を切り落としたのか。紗耶にはそれが疑問でならなかった。
 もっと、それぞれが持つ情報を持ち合って整理した方が良いかもしれない。
 紗耶のその言葉に、真帆と百合子が頷く。
「そうですね。戻ったら、皆で色々と考えた方が良いかもしれません。私達がここへ来たのは、古木に宿る神を助けてあげる事なんですから……」

 一見平和そうに見える村で、初めに見たあの惨劇がいつか本当に起こるのだろうか――。
 三人はその場に佇んだまま、ただ静かに桜の古木を見上げていた。




<桜媛奇譚―雨歌の章― ・ 終>






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】


【1711/榊・紗耶(さかき・さや)/女性/16歳/夢見】
【3626/冷泉院・蓮生(れいぜいいん・れんしょう)/男性/13歳/少年】
【5976/芳賀・百合子(ほうが・ゆりこ)/女性/15歳/中学生兼神事の巫女】
【6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生*見習い魔女】
【6638/藤宮・永(ふじみや・えい)/男性/25歳/書家】



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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、綾塚です。この度は『桜媛奇譚――雨歌の章――』をご発注くださいまして、まことに有難うございました。 そして、自分の予想をはるかに上回る文章量になってしまい、日程調整がつかず遅延してしまいました事を深くお詫び申し上げます。

 三連作の一話目になります。今回はお選びいただいた選択肢によって、得られる情報が異なっております。大まかに女性陣は村の地理、男性陣は村の祭祀に関する情報が手に入っていると思いますので、他のPC様のノベルをお読みいただくと話が繋がる場合がございます(ただしPC様はその内容を知り得ませんのでこの点だけはご了承下さい)
 それにしても、設定が設定だけに複雑怪奇になってしまい……さらに連作ゆえに謎を謎のまま伏線として多々残しておりますので、不可解な点が万歳だと思います(すみません…)。あまりにも謎だという点がありましたら、遠慮なくご一報くださいませ。
 それでは、少しでもお気に召して頂けましたら幸いです。