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奇跡の代償
放課後、夕焼けの差し込む廊下に少女の姿があった。
学校の制服に身を包んだ少女は、大きな古めかしい本を手にしている。
色あせた頁を包む表紙には、金で箔押しされた異国語が記されていた。知識のある者ならば、それが高度な魔道書である事が知れただろう。
大人びた知性的な瞳を持った少女──白樺雪穂は、目的の場所へとまっすぐに向かっていた。
雪穂にとって学校とは、学ぶべき物がない場所だ。むしろ無用に近い。
気まぐれに学校を訪れた時、雪穂は必ず図書室へと足を運んだ。
静かに扉を開くと、新旧入り混じった本の香りが広がる。
古いものはそれだけで魔力を宿す。
そういったものに敏感な身体が、喜びともつかない震えを呼び起こす。
小学校という属性には不釣合いな程、数多くの蔵書を有するこの場所は、雪穂の数少ないお気に入りの場所だ。
ちょうど入れ違いで数人の少女が図書室を出て行くところだった。
上級生の少女達は、ひそひそと何事かを囁きあいながら図書室を後にする。
「あれは……」
振り返り、廊下の向こうへと消えていく少女達を見送りながら、雪穂はぽつりと呟いた。
少女のひとりが手にしていた本に見覚えがあったのだ。
それは恋を叶えてくれる天使の召喚の仕方などが記された、召喚術の書物だったはずだ。
少女達にとってはただのおまじないの本だが、雪穂にとっては正式な召喚術書である。
それがなんであれ、成功の確率は極めて低い。
「そう簡単にはできないのに……」
願いを叶える事も、人間以外のモノを御す事も。
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高く長い塀に囲まれた庭に、夕闇が訪れる。
季節に応じた花が咲き乱れる広い庭を抜け、雪穂は玄関扉を開いた。
重い両開きの扉を抜けると、外の喧騒が遮断される。
灯りのともらない薄暗い室内に、天窓から今日最後の光が一筋差し込み、壁の繊細な彫刻を照らしていた。
雪穂は階段を上り、自室へと向かった。
部屋の中には、少女らしい雑貨や調度品に混じって幾つもの魔道具や魔道書が置かれている。
傍らの西洋机に荷物を置くと、雪穂はゆっくりと振り返った。
「久しぶり、珍しいね」
視線の先、部屋の中央に不意に現れた異形の存在。人の世では広く、悪魔と呼ばれる存在が、そこにいた。
それは、召喚専門の魔術師である雪穂がこれまでに何度か召喚する事に成功した馴染みの悪魔だ。
悪戯心に富み、雪穂とも仲良しである。とはいえ、悪魔から訪ねて来る事などそうあることではない。
「どうかした?」
「近くまで来たからな」
真意の計れぬ笑みを浮かべながら、悪魔は答えた。
「近くというと……?」
図書館ですれ違った少女達が、雪穂の脳裏をよぎる。
確信に満ちた問いかけを肯定するように、悪魔は一層笑み強くした。
少女達は、恋を叶えてくれる天使だとか、叡智を授ける天使などという甘い誘いに乗り、願いを叶える為に召喚術を行ったのだろう。
だが、実際に召喚されたのは、天使などという曖昧な存在ではなく悪魔だったという訳だ。
「あの人たちはどうなったの?」
興味がわいたというより、惰性に近い気持ちで雪穂は尋ねた。
「あんまりに欲が過ぎたからな」
それで全てが通じるだろうと、悪魔は笑いながらその姿を来た時と同様に不意に闇の中へと隠す。
後には微かな気配の残滓すらない。
雪穂は机に置かれた魔道書へと視線を移した。
そっと慈しむように本の表紙に触れながら、椅子にその身を預ける。
「あの人たち、ちゃんと読まなかったのね。願いが叶うごとに自分の大切な物を失うということを」
目を閉じ、雪穂はそう呟いた。
代償を。
何の為に悪魔の力を借り、何を失ったのだろう。
強く思えば思うほどに、零れる砂のごとく、大切なものはその手をすり抜けていく。
召喚術という魔道に関わる雪穂には常にそれがつきまとう。
願いを叶えるための代償を。
その身をもって知っているが故に。
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