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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


underground circus


 夜の街角でピエロの姿を見た瞬間、彼女はそれを不吉に感じた。
 それは、巷で流れている益体もない噂話のせい。
 夜道を歩いていると、ピエロに声をかけられる。返事をしたり、何かを貰ったりすると、そのまま連れ去られてサーカスに売られ、おぞましい姿にされて見世物扱いされる。愚にもつかない都市伝説のひとつ。
 連れ去られた者の家族の元には後日、黒いチケットが送られてくる。
 それに書かれた場所に向かうと、何もなかったはずの場所にサーカステントが張られている。中を覗いたが最後、家族は発狂してしまうというくだりには、悪意めいたものすら感じられる。
 だが、得てして都市伝説というのはそういうものだ。絶対に自分の身には降りかかる事のない災厄。だから「友達の友達に聞いたんだけど……」という枕詞と仲良く手を繋いで人々の口の端に上る。
 それは無責任に、「対岸の火事は派手に燃え上がるほど楽しい」と思う人間が増えた証左のような気もした。
 彼女は頭をひとつ振り、つまらない考えを追い払う。
「お姉ちゃん、どうかした?」
 妹が軽やかに彼女を追い越し、ピエロを見つけてはしゃいだ声を上げた。
「あ、ピエロが風船配ってる。珍しいね、こんな時間に」
 幼い子供のように、妹がそれに駆け寄るのに、彼女は何故か戦慄を覚えた。
 葬式の前を通る時、親指を隠すのが迷信なら、今、目の前にいるピエロを不吉に感じるのもまた迷信だ。そう理性では分かっているのに。
「瞳、やめなさい。小さな子供じゃあるまいし、風船なんか貰ってどうするの」
 戒める声が震えるのは何故だろう。
「えー、いいじゃん。たまには童心に返るのもさ」
 妹はピエロから風船を受け取り、大きくピョンと跳ねて見せた。その稚気に、先程までの緊張も忘れて思わず微笑みかけた瞬間。
 まるで風船に強く腕を引かれたように、妹の姿が路地に消えた。悲鳴。ピエロが、にいっと笑う。
「瞳!?」
 駆け寄って覗いた路地は細長く、どこにも人が隠れる隙間などない。影が差したのに驚いて振り仰ぐと、妹が手にしていたはずの風船が、月を横切って飛んでいくのが見えた。
 消えてしまった。妹も、そしてあのピエロも。
 すぐに警察に届けた。悪い夢に酔ったような日々が続いた。どれだけ捜しても何の痕跡も見つからない、出口のない悪夢。
 そんなある日、彼女の鞄からヒラリと何かが落ちた。身を屈めて拾ったそれは、真っ黒なチケット。
 悪寒がぞわりと背を撫でる。嘘だ。こんな事はあり得ない。

 チケットの裏には、妹の独特の癖字で『たすけて』と書かれていた。

 くすんだ赤い文字から、血液独特の金気臭さを感じ取って慄然とする。
 不吉な黒い影そのものの姿で、チケットが床に落ちた。



 ソファに支えられるようにして座る依頼人の顔は憔悴しきっていた。
 シュライン・エマはそれを痛々しい気持ちで見つめる。彼女の心労はいかばかりだろう。徒に質問を重ねてはいけない気がして、聞きたいことは最小限に留めおく事にした。
 それにおそらく、彼女に訊ねても有益な情報は得られないだろうという気がしている。相手は都市伝説の中の登場人物だ。現実の世界に何らかの痕跡が残っているとは思えない。鍵は噂の中にあるはずだと確信しているのは、多分シュラインだけではないだろう。
「ひとつだけ、聞かせてもらって構いませんか?」
 静かな声音で、そっと訊ねたのは陸玖翠だ。依頼人は、落ち窪み、隈の浮いた目を上げ、茫と頷く。
「ソレを見たときに、『絶対』にありえない、そう思いましたか?」
 質問の意図を掴み損ねたのか、彼女は虚ろな目を彷徨わせている。翠はそれに、そっと背中を撫でるような優しい口調で問いかける。
「もしかしたら、ソレは噂のものなのではないか、と思ってしまったのではないですか?」
 みるみる依頼人の目が焦点を結び、さっと逸らされる。何も語らずとも、まるで己の罪を突きつけられた咎人のような反応が、彼女の心中を如実に表していた。
「夜の街角、ピエロ、風船……。キーワードとあまりにも符合してるんですもの。咄嗟にそう思われるのも無理はありません」
 口先だけの慰めではなく、芯からの優しさに満ちたシュラインの言葉に、何か感じるものがあったのだろう。依頼人は弱々しく口を開いた。
「でも、私、どうしても思ってしまうんです。……あの時、私があんな不吉な噂の事なんか思いださなければ、瞳は連れていかれたりしなかったんじゃないか、って」
 抑えた嗚咽を聞きながら、シュラインは目を伏せる。被害者の家族は往々にして、何の落ち度もなかったにも関らず、こうした自責の念に苛まれる。怒りの矛先を向ける相手が判然としない状況ならば尚更だった。
「バカな事言うなよ!」
 どこか怒ったような、それでいて必死に彼女を慰めるような声を上げたのは氷室浩介だ。彼は、諌めようとした草間武彦の手を振り払って言い放つ。
「あんたが信じた事が本当になったってんなら、妹さんが無事で帰ってくる事を信じろよ! 悪い想像ばっかりしてたって、何にもならねえだろ!」
「彼の言う通りです」
 翠が同じた。
「人間の『信じる心』というのは、存外に強いものです。貴方はただ、妹さんの無事を信じて待っていて下さい」
 口調は淡々としていたが、その言葉には不思議な説得力があった。依頼人は泣き濡れた顔を上げ、こくりと頷く。
「間違っても、そのチケットに書かれた場所になんか近寄っちゃいけねえ。そこに行くってことは、あんたがこの噂を信じてる証拠になっちまうだろ」
 言って、氷室はローテーブルの上に置かれた黒いチケットをひったくった。握り潰さんばかりの勢いだった。
「依頼は確かにお引き受けしました」
 氷室の手からチケットを奪い取りながら草間が言う。
「妹さんからのSOSにも、必ず応えてみせます」
 血で書かれたメッセージを正視できないというふうに、依頼人は俯いたまま力なく頷いた。


「ピエロ、か……」
 依頼人が退場して、それまで壁にもたれたまま沈黙を守っていた夜神潤が、腕組みしながらぽつりと呟いた。
「どうして犯人はピエロなんだろう……?」
「さあな。でも、いかにもって感じはするぜ。殺人ピエロとか、よく話の中に出てくるだろ」
 ぞっとしねえな、と言う氷室に、シュラインが思い出したというように答えた。
「ひょっとしたら、アメリカに実在してた大量殺人鬼のイメージが強いのかもしれないわね。それに、ピエロは素顔が判らなくて、表情を読み取れない分、相手に恐怖感を与えてしまいやすいのかもしれないわ」
「俺は、ピエロって言われたら『天井桟敷の人々』のジャン・ルイ・バローのイメージが強いんだけど、世間のイメージはそうなのかな。元々は、コメディア・デラルテのキャラクターなのに」
 夜神の言う事がさっぱり理解できない、と氷室の顔に書いてあるのを読み取ったのだろう。翠が補足するように口を開く。
「ピエロというキャラクターは、イタリアの即興喜劇から生まれたのですよ。人を楽しませ、笑わせる為に、わざと素顔を隠す。まさに『道化』と呼ぶに相応しい存在のはずだったのです。──化け、道を極める」
「それが今や、『ピエロ恐怖症』なんて言葉が生まれて──こんな都市伝説の主役にまでされるなんて、何だか哀れだな」
 どこか憂いを含んだ表情で俯く夜神を、氷室はきょとんと見る。
「何だよ。いやにピエロの肩持つんだな。知り合いがピエロやってたりとかするのか?」
「そういうわけじゃないけど、ついこの間、番組の企画でサーカスの密着取材があったんだ。ピエロをやってる人達にも色々話を聞かせてもらった。皆、自分の仕事に誇りを持ってて、観客を楽しませようと精一杯頑張ってるのに、こういう噂が流れてるんだと知ったら悲しむだろうな、って思って……」
 そんな夜神を、氷室はまじまじと眺めた。視線に気づいたのか、夜神は顔を上げる。
「……何か?」
「いや、アイドルなんてアタマ空っぽな奴ばっかだと思ってたんだけど、あんた、すげえしっかりしてんな。俺よりもよっぽど物知りだし、きっとちゃんと勉強してるんだろうな、ってさ。……悪ィ、俺、変な偏見持ってたみたいだ」
 明け透けな物言いだったが、根が誠実なのか、氷室の言葉には全くと言っていいほど嫌味がなかった。夜神は小さく笑って、気にするなというように手を上げる。
「偏見というより、おまえのはやっかみじゃないのか?」
 草間のからかうような口調に、氷室は笑い混じりにむくれて拳を返した。それを軽く受け流して草間も笑う。
「でも、そういう言葉を夜神くんの口から聞かされちゃうと重みが増すわね。キラー・クラウンもアイドルも、どっちも偶像でなければならないんだもの。しかも、与えられた役目を真摯に演じようとすればするほど、現実の自分と乖離していく……」
 そこまで言って、シュラインは言葉をふいに途切れさせた。
「あら、ごめんなさい。話が逸れちゃったわね」
 シュラインは口許に手を当てた。彼女は成熟した大人であるにも関らず、時折、こういう少女のような可愛らしい仕草を見せる。それが妙にいとおしく、翠はうっすらと笑った。勿論、その僅かな表情の変化に気付く者はなかったけれど。
「とにかく、今回の依頼の成否は情報収集にかかっていると言ってもいい」
 草間の言葉に全員が頷いた。早速、というふうにシュラインが自分の机に向かう。
「私は件の噂の変遷を探ってみるわ。できるだけ多角的に、この噂について調べてみたいの。それに、このチケットに書かれている場所のことも気になるわね。あと、失踪現場の様子も……」
「現場の事は俺が調べてくるよ。この中だと多分、俺が一番適任だと思う」
 夜神が言う。口調こそ淡々としていたが、その底には確かな自信が満ちていた。
「頼もしい事言ってくれるじゃねえか。じゃ、そっち方面は任せて、俺は地道に足で情報を稼いでくるぜ。ぜってえピエロの奴をとっ捕まえて、妹さんの居場所を聞き出してやる!」
 腕が鳴る、というように、氷室は自分の掌を拳で打った。草間がそれに釘を刺す。
「逸るな。重要な情報を掴んだら、すぐに他のメンバーに知らせろ。間違っても一人でサーカスに乗り込んでやろうなんて思うなよ」
 草間の言葉が図星をついていたのだろう。氷室は返答に詰まって、不自然にあさっての方向を向いた。草間がやれやれというように肩を竦める。
「おまえは鉄砲玉だからな。飛び出して行ったが最後、無事に戻ってくるかどうか一番怪しい。だから、おまえには囮役の護衛も頼む。できれば夜神も、日が暮れるまでに二人と合流してくれ」
 夜神は目顔で頷いた。「囮ィ!?」と、氷室が素っ頓狂な声を上げる。
「誰がやるんだよ、そんな危ない役!」
「海原みなも嬢だ。授業が終わり次第、おまえと合流するように頼んである」
「女の子に、そんな危険な真似させられるかよ! 囮だったら俺がやる。それでいいだろ?」
「駄目だ」
「何でだよ!?」
 草間は答えず、煙草に火をつけた。シュラインがPCのモニタから目を離さずに答える。
「本人たっての強い希望なの。みなもちゃんも危険は承知してるわ。でも、彼女も可愛い妹を持つ『お姉ちゃん』だから、とても他人事だとは思えないんだそうよ。だから囮役を志願してくれたの。……武彦さん、どうしてちゃんとそう説明してあげないの?」
 回答はなかった。ただ紫煙だけが沈黙の代わりに吐き出される。氷室は答えを聞きだす事を諦めたように溜息をつき、一言「分かった」とだけ呟いた。
 草間の背後で、シュラインの「困った人ね」という溜息混じりの声と、翠の「困った奴だな」という呆れたような声が綺麗にハモったが、彼は努めてそれを黙殺した。
 夜神の背が壁を離れる。彼は滑るような動きでドアの前まで移動し、ちらりと背後を振り返って言った。
「そうと決まれば、時間を無駄にしていられない。何か分かった事があったら、すぐに連絡を入れるから」
「頼む」
「俺も出る。護衛役、確かに引き受けたぜ」
 夜神のあとを追い、氷室も事務所を出て行く。草間はごく軽い溜息をついた。そうして翠を振り返る。
「……で? おまえは一体どうする気だ? 陰陽師殿」
「どうもこうも、シュラインという優秀な情報収集役がいて、可憐な囮役がいて、やる気に溢れた護衛がいて、おまけに現場で何が起こったのかを調べられる人材もいる。私の出る幕などあるまい」
 悠々とソファの上で寛ぎながら、翠はそんな事を言う。
「あの夜神という青年、吸血鬼だろう。しかも只の、というわけではないようだ。彼がいれば、どんな危険に遭遇しても何とか切り抜けられるだろう。私は高みの見物をさせてもらう」
「あら、つれないこと言うのね翠。私が目の前で忙しくしてるのに、手伝ってもくれないの?」
 言いながら、シュラインはキーボードを叩く手を休めない。的確なキーワードを入力して、必要なデータを確実に抽出していく。とても手助けが要るようには見えなかった。
「茶を淹れるくらいなら」
「翠が淹れてくれると、紅茶はラム・ウインナ、コーヒーはアイリッシュになるんだもの。遠慮するわ」
「美味いだろう?」
「おいしいわ。おいしいけど、仕事中に、たっぷりとアルコールの入った飲み物は駄目。酔いはしないけど、何だか仕事をしている気にならないんだもの」
 公私の区別をきっちりと付けられるシュラインらしい言葉だ。翠は微苦笑を浮かべて立ち上がった。
「では、アルコールはうんと控え目にしよう」
「……それでも絶対に入れるんだな、酒は」
 草間が呟くのを、翠はジロリと見た。文句があるのかと言わんばかりの視線から逃げるように、草間はジャケットを羽織り、事務所を出て行く。
「俺は警察関係者から、ここ数ヶ月の失踪者について聞き込みをしてくる。何かあったら連絡してくれ」
「分かったわ。いってらっしゃい」
 草間を見送り、シュラインは再びPC画面に視線を向ける。と、いつの間にやら机の上にはカップが置かれており、ウイスキー混じりのコーヒーの香気が鼻先をくすぐった。
 翠は伸びをすると、悠然とソファの上に寝転がる。どうやら本当にお茶汲み以外の手伝いをしてくれる気はなさそうだ。
 それでも、困った事があればきっと手を貸してくれるだろう。シュラインはコーヒーを一口飲むと、文字の羅列を目で追い始めた。



 制服を着替えに戻ったら、少し遅くなってしまった。
 こういう時、学生というのは不便なものだ。海原みなもはそんな事を考えながら、氷室との待ち合わせ場所に向かう。
 週末の街は、ふわふわした昂揚感に包まれていた。これから遊びに出かける若者が多いのだろう、ごった返している。これだけたくさんの人間がいれば、一人くらい消えてしまっても街は気がつかない。見過ごされてしまう。そんな気がする。
 不意に漠然とした不安に襲われてしまった。いけないいけないと、みなもは自分の頬をぴしゃりと叩く。
 氷室はどこだろう。きょろきょろ見回すみなもの耳に、「だーかーら!」という怒ったような困ったような叫び声が飛び込んでくるのと、その青い目が氷室の姿を捉えたのは、ほぼ同時のことだった。
「ナンパじゃねえって。ピエロの誘拐魔についての噂を知らねえか、ちょっと教えてくれればそれでいいんだって!」
 氷室の目の前には、彼を怪訝そうな目つきで眺める二人組の少女がいた。その顔には警戒の色がありありと浮かんでいる。それもそのはず、氷室は少女の片割れの腕をガッチリと掴んでいた。
 そして、少女の手の中にはピンク色の風船。
 今にも「おまわりさん!」とでも叫びだしそうな少女達の表情を見て取って、みなもはわざと大きな声をあげた。
「氷室さーん! お待たせしてごめんなさい!」
 これみよがしに明るく笑って手を振って見せると、少女達の表情が幾分か和らいだ。それと同時に氷室の手の力も緩んだのか、風船を持った少女が勢いよく振り払う。
 それでようやく、氷室は自分が随分と必死に、見ず知らずの少女の腕を掴んでいた事に気がついたらしい。慌てた様子で謝り始めた。
「悪ィ。ちょっと慌ててたもんでよ。痛かったか? ゴメンな」
 少女は咎めるような視線を向けながら二の腕をさすっていたが、特に抗議らしい言葉を口にはしなかった。みなもは彼女達に急いで駆け寄り、とりなすように訊ねる。
「あの、すみません。その風船、どこで手に入れられたんですか?」
「これ? そこのショップの前で、ピエロのカッコしたおじさんにもらったんだけど……」
 それを聞いて氷室は、すわとばかりに駆け出そうとする。柔和な顔立ちに似合わぬ素早さでその首根っこをガシッと掴むと、みなもは重ねて少女に問う。
「じゃあ、あなたはピエロの格好をした、謎の誘拐魔の都市伝説をご存知じゃないんですね?」
 相手は小首を傾げている。その代わり、彼女の隣に立っていた少女が、「あたし知ってる」と声を上げた。
「アングラサーカスの噂でしょ? ピエロが夜中に風船配ってて、それを貰っちゃうとさらわれて、サーカスで働かされるってやつ。逃げられないように手足を切り落とされて、芋虫レースってのに参加させられるの。それでビリになった奴から、ライオンのエサにされちゃうっていう……」
 氷室とみなもは思わず顔を見合わせていた。少女の語る都市伝説は、二人が聞かされていたものとは違う。尾鰭がつき、より残酷なシナリオに書き換えられていた。
「やだ、だからあんた、あのピエロに風船貰わなかったの? ひどーい! あたしが貰った時に、どうして止めてくれなかったのよ!」
 縁起が悪いとでも言うように、少女は風船から手を離す。風船は人いきれにあおられ、ふわふわと頼りなく空をたゆたっていってしまった。
「違うよ。そんなの、ただの作り話じゃん。だって信じられないもん。……それに、別に風船なんか欲しくなかったしさ」
 信じていないと少女は言うが、最後の一語はとってつけたふうに響いた。みなもは二人に丁寧に礼を言って別れ、氷室にそっと囁きかける。
「何だか内容がエスカレートしてるみたいですね。……このまま放っておいたら、一体この都市伝説、どんなふうに『終わる』んでしょう……?」
「早く止めねえと、何かヤバい気がするな。……ところであんた、本当に囮役なんか引き受けちまっていいのか?」
 氷室の問いかけに、みなもは決然と頷いて見せる。
「はい。皆さんを信じてますから。きっとこの物語を、いい結末に導く事ができるって」
「……そっか。じゃあ、頑張らなきゃな」
 まるで気合を入れ直すかのように、氷室は両の拳を握りしめる。それからはたと気がついたように顔を上げると、みなもにくるりと背を向けた。
「そうだ! さっき、あの子が言ってたピエロ! とっ捕まえて話を聞かねえと!」
「あっ、待って下さい!」
 弾丸のように走り出そうとする氷室のジャケットを慌てて掴み、みなもは言う。
「今はまだ夕方ですし、多分、そのピエロさんは関係ないんじゃないでしょうか。話を聞くのはいいですけど、ケンカ腰じゃダメですよ」
 年下の少女に諌められ、氷室はいささかきまり悪そうに、トレードマークのツンツン頭を掻いた。
「関係ないって決まったもんでもないだろ」
「でも、『夜』っていうキーワードは外せないような気がするんです。だから……」
 みなもは昨晩、今日の打ち合わせのためにシュラインと電話で話をしていた。その時に、二人が感じた事を話し合った結果、一致した意見が幾つかあったのだ。みなもはそれを、氷室にも話して聞かせる。
「都市伝説が途中で変わっちゃうってのは、当たり前のようにある事ですけど、それでもずっと変わらずに残り続けるキーワードっていうのがあると思うんです。この都市伝説の場合は、『夜』と『ピエロ』と『風船』と……、ひょっとしたら『見世物』もそうなんじゃないかな、ってシュラインさんもおっしゃってました。『風船』に関しては、これが何かの象徴なのか、比喩なのか、それとも単なるアイテムに過ぎないのか、ちょっと判断がつかないんですけど……」
 流布するうちに形を変えていく都市伝説。けれど、確かに枝葉こそ違え、根幹の部分は変わらない事も多い。そしてこの事件の場合、解決の糸口が、その『変わらない部分』にあると考えるのが、確かに妥当だという気がした。
「なるほど。じゃ、夜になるまでは、地道に聞き込みを続けるのが賢明ってこったな」
 納得したふうの氷室に、みなもは期待を込めた笑みを浮かべて見せる。
「ええ。という事で、夜になったら、氷室さんの本領を思う存分発揮して下さいね」
「任せとけ。絶対にあんたを危険な目に遭わせたりしねえから」
 氷室は親指を立てて、自信ありげに自分の胸を指さす。みなもは小首を傾げ、大きな目をぱちくりさせた。
「いえ、危険な目に遭わないと駄目じゃないですか。虎穴にいらずんば虎児を得ずって言いますし。その点、氷室さんと一緒なら確実だって、草間さんが……」
 今度は氷室が目をぱちくりさせる番だった。
「俺の役目はあんたの護衛だろ?」
「えっ? 草間さんはそんな事、一言も……」
 言いかけて、みなもはハッと両手で口を覆った。ひょっとして、これは言ってはいけない事だったのだろうか。
 みるみる訝しげな表情になって、氷室は問う。
「一体、草間さんは俺に、あんたと組んで何をさせるつもりだったんだ?」
「え、ええっと、あのう……」
 根が真面目なみなもには、この場を嘘で切り抜ける事ができなかった。言いにくそうに、ちらちらと氷室の表情をうかがいながら、正直に答える。
「草間さん、『氷室は怪異を引き寄せるタイプだから、一緒に行動すれば、かなりの高確率で問題のピエロと遭遇できるだろう』、って……」
 それを聞いた氷室の顔がみるみる赤くなっていく。彼は歯をむき、悔しげに髪を掻きむしり始めた。
「ちっくしょう! ハメられた! 草間さん、最初から俺をそういうふうに利用するつもりで呼んだんだな!」
 行きかう人々が怪訝な視線を向けるのにも構わず、氷室は叫ぶ。
「俺は撒き餌かよ! クソっ、こうなったら、何が何でも犯人に食らいつかれてやるからなー!!」
「……あ、あの、……頑張って下さい」
 途惑いながら、そう返すしかないみなもだった。



 現場は、大通りをひとつ隔てた場所だった。幾つもの路地に繋がる裏通りは雑然としており、近道をしようと入り込み、足早に通り過ぎていく者が絶えない。
 依頼人の妹が消えた問題の路地は、けばけばしい看板のついたビルに面していた。まるで人目を忍ぶ待ち合わせでもしているように、夜神はそっと路地に足を踏み入れ、ビルの壁にもたれて目を閉じ、軽く額に精神を集中させる。
 すぐに、彼の体を夜気が包んだ。依頼人と、その妹の会話が聞こえてくる。見えないカメラが全てを捉えていたかのように、鮮明に、克明に、ここで起きた事件を再現する。誰の先入観が混ざる余地もない、純粋な情報を。
 事件当日、この場で誰が、どのようにして彼女を連れ去ったのか、それを夜神は読み取ろうとしていた。このリーディング能力が、事件解決に一役買ってくれるといいのだが。
 踊るような軽い足音がした。路地の前で少女がおどけて回っているのが見える。その瞬間、まるで生き物のように風船の紐がうねり、少女の体を路地に引き込んだ。
 少女は何が起こったのか分からないという顔をしていた。どうして自分は用もないのに路地に足を踏み入れてしまったのだろう、という顔。きょとんと目を瞬いている彼女の体に向かい、伸ばされた腕があった。闇から生えた腕。それも複数──五本や十本の騒ぎではない、幾つもの腕。あるものは細くやつれ、あるものは丸々と肥えていた。高価そうな腕時計をはめた腕もあれば、働きすぎて生活に疲れたように見えるものもある。
 それを見て、少女が目を見開いた。何かとてつもなく恐ろしい事が、自分の身の上に起ころうとしている。それを察知したのだろう、意識とは関係なく、本能が上げさせたような鋭い悲鳴が辺りに響いた。
 腕は先を争うように彼女の体を捉え、闇の中へと引きずり込んだ。それを逃れられたのは、彼女が恐怖のあまり咄嗟に離してしまった風船だけ。
 夜神はゆっくりと目を開く。
「あれは……」
 彼の能力は、あの腕の正体すら読み取っていた。
 肥大しやすく、性質の悪い、人間の感情が生み出したもの。そしてそれは、件のピエロの共犯者的な立場にあるものだった。
 夜神はピエロの立ち位置に足を向け、その正体を探るべく目を閉じる。通行人がうさんくさげな視線を向けてくるのを感じたが、そんなものを気にしてはいられなかった。
 リーディングを終えた夜神は、急いで携帯電話を取り出した。これを急いで草間に伝えなければ、という焦燥感に駆られながら。
 できれば今夜中にでも片を付けなければ。猶予はない。急がなければ、この物語は最悪の結末を迎えるかもしれないという予感があった。些細なきっかけで、どう破裂するのか予想もつかない。

 ──これを暴走させちゃいけない。

 短いコール音のあと、苛立ったような草間の声が返ってきた。



 草間が事務所に取って返すと、シュラインが難しい顔をしてPCモニタを眺めていた。その傍らに立つ翠も、平素より表情が硬い。
「戻った。時間がないから手短に報告する。例の都市伝説と関係がありそうな失踪事件が数件あった。どれも最終的には失踪者が保護されてるが、全員が、失踪中の事については何も語らずにいるらしい。しかも、ほとんどが事件後に、貧血や精神不安や不眠といった症状を訴えてるそうだ。……そっちの収穫は?」
「これを見て」
 シュラインが示した画面には、ゴーストネットOFFの掲示板が表示されていた。スレッド名は『アンダーグラウンドサーカス』。
「ピエロ誘拐魔についての噂を集めたスレッドよ。噂が広まるにつれ、どんどん内容が過激になっていくの。最後の書き込みを読んでくれる?」
 そこには、下半身を切り落とされて魚とくっつけられ、『人魚』にされた娘の解体ショーと、縄でぐるぐる巻きにされたまま、肉食魚のプールに突き落とされ、生きたまま餌にされる青年の話が書かれていた。みなもと氷室、二人の顔が脳裏に浮かび、草間は思わず渋面を作る。
「あと、気になる事があるの。あのチケットに書かれていたサーカスの場所と、『夜』『ピエロ』『風船』っていうキーワードで検索をかけたら、ひとつだけ合致する事件があって……」
「だが解せないのは、それが十数年以上前の事件だという事なんだ。この噂が流れ出したのは、ここ数ヶ月のはずなのだがな」
 翠は腕を組み、深く考え込むように俯く。
「もしもこれが、この都市伝説の『原型』なのだとしたら……今頃になって何故、という感じだな」
「そうよね。でも、きっとここに何かあるっていう気がするの。もっと詳しく調べてみるわ」
「頼む」
 草間の答える声と、携帯電話の呼び出し音が重なる。彼は噛み付くようにそれに飛びついた。
「夜神か。首尾はどうだ?」
 シュラインは黙々と資料を探りながら耳を澄ませる。『犯人の正体』という言葉が草間の口から出ているところから察するに、夜神の調査はかなり核心に迫っているらしい。
「今のところはそれだけ分かれば充分だ。そろそろ日が暮れる。できるだけ早く氷室達と合流してくれ。……気をつけろよ」
 電話を切ると、草間はシュラインと翠の顔を見回しながら、少々困惑したような表情で言った。
「夜神からの報告だと、誘拐ピエロには共犯者がいるらしい」
「共犯者?」
 思わずオウム返しに繰り返すシュラインに、草間は頷いて見せた。
「ああ。夜神によると、その共犯者の正体は『事件とは関係ない第三者の、無責任な好奇心と妄信』で、ピエロ本人は架空の存在──だが、受肉しかけている、ということらしい。……どう思う? 翠」
 問われ、彼女は面白くもなさそうに、PC画面を指で弾く。
「都市伝説の流布に関るのも、『無責任な好奇心と妄信』を抱いた『事件とは関係のない第三者』だ。むべなるかな、と言うべきなのかもしれぬな」
「受肉って……、まさか噂の力で、ピエロ誘拐魔が実在の人物になるって言うの?」
 シュラインは新聞記事のスクラップをめくる手を止め、眉根を寄せる。
「どういうカラクリかは知らんが、何らかの形で、噂が現実のものになる危険性が高いと夜神は言ってた」
 翠はPCの画面を見つめたまま思考を巡らせているのか、ぴくりとも反応を示さない。そんな彼女を横目に、シュラインは再び資料を繰り始めた。
「だったら、一刻も早く解決の糸口を見つけなきゃいけないわ。このまま放っておいたら、どんな酷い展開になるか分からないもの。……実在の事件が元になったのなら、良心が歯止めをかけてくれる部分もあるでしょうけど、この話はそれがはっきりしないのが辛いわね」
 と、翠が指先でとんとんとシュラインの肩を叩いた。何かと思って目をやると、彼女は掲示板の画面を指差す。
「シュライン、『このピエロ話を他人に話したあと、怖い夢を見た』という書き込みが数件あったのを憶えているか? しかも、誰も具体的な内容を記さない割に、強固に『こんな噂を流すのは良くない』と言い張る者が多かったのは何故なのだろうな?」
「被害者と同じ、だんまりか……。くそ、輪郭が曖昧だな」
 煙草を取り出したものの、一服する気になれなくて、草間は結局それを胸ポケットに戻す。と、画面を凝視したあと、急に何かを思い出したように、シュラインの手が資料をめくりだす。
「そう言えば、気になってたことがもう一つあるの。これは月刊アトラスで『都市伝説の生まれる場所』っていう連載企画の為に作られた資料なんだけど……」
 シュラインの差し出した資料には『都市伝説分布図』と書かれ、日本地図の上に、噂の伝染していくさまが表されていた。それを覗き込んで、草間は呻くように呟く。
「ピエロ誘拐魔の噂の発生場所と、黒いチケットに書かれた場所が同じ……?」
「そうなの。私、今からここに行ってみるわ。さっき言ってた、『夜』と『ピエロ』と『風船』っていうキーワードと符合した事件もここで起こってるんだもの。きっと何か掴める気がするの」
「私も同行する」
 珍しく自発的に、翠がそう言い出した。ようやく重い腰を上げてくれたか、と、草間は内心で呟く。
「任せた。俺は事件の被害者に会ってくる」



 道行き、翠はシュラインが見つけ出した、事件を報道する新聞記事を読んだ。
 被害者は小さな少女。両親は共働きで、夜遅くになっても帰ってこない事が多く、彼女は祖母に面倒を見てもらっていた。
 その日、少女は母親に買ってもらった風船を手にしていた。よほど嬉しかったのだろう、誰彼構わず見せびらかして歩いていたのを、近所の人間が目撃している。
 夜、祖母が居眠りをしている間に、彼女は風船を手に外へと抜け出した。まだ風船を自慢し足りなかったのかもしれない。だが運悪く、風船は少女の小さな手をすり抜けて舞い上がり、木に引っかかってしまった。どうやっても少女には手の届かない、高い場所に。
 少女は泣き出した。そこを偶然通りかかった男があった。男は近くに住むアパートの住人で、風船は、彼が住む二階の窓から手が届くところで揺れていた。
 風船をとってあげるという口実で、男は少女を自分の部屋に招いた。
 そして、少女は二度と戻る事はなかった。
 無惨な遺体が発見されたのは二週間後のこと。詳述はされていなかったが、世に言うバラバラ殺人を手酷くしたものであったらしい。
 男は事件発覚後、すぐに逮捕されていた。大道芸人を職業とするその男は、倒錯した性癖の持ち主だった。風船をとってやったのに、少女が礼の一つも言わなかったのが気に入らなくて殺したのだと供述していたが、少女の遺体は、それだけではない事を明確に物語っていたという。
 犯人は後日、刑務所の中で、罪を償いきる事なく自殺を図っている。
「胸が悪くなるような話だな」
 読み終え、翠は率直な感想を口にした。シュラインは手にしたファイルを掲げて言う。
「当時の週刊誌記事を読んだら、もっと胸が悪くなるわよ。被害者がどんな目に遭ったのか、詳細に記されてるもの。もっと酷いものになると、虚実ない交ぜの三文小説みたいになってるわ。これじゃ、被害者はまるで見世物みたい」
 自分で言ってから、シュラインはその言葉を反芻する。
「……そうだわ。見世物、っていうキーワードも、この事件には当てはまるのかもしれないわね……」
「可能性は高いな」
 翠がそう答えた時に、シュラインの携帯電話が不吉なメロディを奏でた。おあつらえ向きの葬送行進曲である。
「随分と趣味のいい着信メロディだな」
「私の趣味じゃないわ。雫ちゃんのリクエストなの」
 相手があの瀬名雫ならさもありなんだ。翠は苦笑を浮かべる。
『やっほぉー! シュラインさん、あたしあたしぃ!』
 勢いのある雫の声が、シュラインの耳だけでなく、翠の耳にまで届いてきた。
『あのねっ、例のアングラサーカスの噂、発生元を特定できたんだけど、詳しく聞きたい〜?』
「本当!?」
 草間と同じ、携帯電話に噛み付きそうな勢いでシュラインは問い返す。えっへん! と、雫が答える声がした。
『瀬名雫様を甘く見てもらっちゃ困るなぁ。ホントだもん。シュラインさんのたってのお願いだから頑張っちゃった! ほめてほめて!』
「すごいわ。さすがは雫ちゃん。実はとっても頼りにしてたの」
 シュラインは目線で翠に笑いかける。大きな進展だ。
 雫の言う『発生元』となった人物の住所を、シュラインはメモにとった。彼女が綴る流麗な文字を見て、翠は唇を引き結ぶ。
 その住所もやはり、大道芸人の男による殺人が行われた事件現場の目と鼻の先だった。



 失踪者の一人に、草間はようやく会う事ができた。相手は「話したくない」の一点張りだったが、粘り勝ちで何とか対面にこぎつけた。
 神経質そうな痩せぎすの少年だった。彼が指定する喫茶店に足を運んだはいいが、口が重く、何を訊ねてものらりくらりとかわされる。
 失踪している間、どこにいて、どのような生活を送っていたのかと問うてみれば、貝のように押し黙ってしまう。埒があかないと思った草間は鎌をかけることにした。
「自分が見世物にされた事なんて話したくない、と思う気持ちはよく分かる。でも今、君と同じ被害に遭っている女の子がいるんだ。何とか力になってもらえないかな」
「ほっとけば帰ってくるよ。命までは取られないから」
 関り合いになりたくない、という嫌悪感いっぱいの口調で少年は答える。「見世物にされた」という草間の発言は否定されなかった。
「例のアングラサーカスの噂が、どんどん過激になっているのは知ってるのかな?」
 少年は力いっぱい首を横に振った。無事に戻ってこられて以来、その手の話は敬遠しているのだと彼は言う。
「このままだと、次は本当に死者が出るかもしれない。何でもいいんだ。犯人について知ってる事があったら話してくれないか」
 彼は草間の顔と、膝の上に置いた自分の手を交互に見た。そうやって少し逡巡したあとに、か細い声で答えた。
「僕も意識がぼうっとしてて、はっきり憶えてないんだ。でも、あのピエロは時々、誰かの名前を呟いてたような気がする。女の子の名前……。それから……」
「それから?」
 少年はゴクリと唾を飲み込んだ。それから、ちょっと泣きそうな表情を浮かべて口早に言い放った。
「他人を見世物にした奴を全員、反対に見世物にしてやるんだって言ってた。面白がって勝手な噂話を流した奴らは、みんな同罪だって」
 彼は握り拳を作り、テーブルを叩いた。呆気に取られる草間の前で、少年はどんどん激昂していく。
「どうしてだよ! 他にもあの話を面白がってバラ撒いてた奴はいるじゃないか! どうして僕だけあんな目に遭わなきゃならなかったんだ!」
 草間は彼を落ち着けようと、その肩に手を置いた。彼は乱暴にそれを振り払う。
「僕は何も悪い事なんかしてない! ただの作り話じゃないか! 別に本気で信じてた訳じゃない! なのに、どうして、あんな……」
 とうとう少年は顔を覆い、椅子に背をもたせかけて、そのままずるずると滑り落ちていった。草間はその傍らに膝をつく。
「……貧血の具合はどうかな?」
 彼の気を紛らわせようと、話の矛先を少し変える。少年は涙に濡れた目をしばしばさせながら、気恥ずかしそうにそれを拭った。
「検査の結果は、異常なしだって」
「でも貧血を起こしてた。お医者さんもさぞ不思議がってただろうな」
 少年はこくりと頷く。
「うん……。体のどこにも傷なかったし、針の跡ひとつ見当たらなかったのに、どうして貧血なんか起こしてるのかって、頭ひねってた」
「君は何故だと思う?」
 その質問に、彼は少し怯む様子を見せた。けれどやがて、震える声でぼそりと答えた。
「……あの悪夢みたいなサーカステントの中で切り刻まれて、いっぱい血を流したから……だとしか思えない」
「そうか」
 草間は彼の頭に手を置く。
「辛い話をさせて悪かったね。……最後に一つだけ質問しても?」
「……何?」
「その噂を聞いた時、君はそれをどう思った?」
 少年は唇を閉ざした。長い長い沈黙のあとに、ようやく絞り出すようにして答えた声はかすれていた。
「嘘だって思った。……でも、本当だったら面白いのにな、って」
 項垂れたその姿が、今はもう、その思考が罪深いものであると知っていると語っているようだった。草間は立ち上がり、彼の肩を軽く叩いて店をあとにした。
「被害者も受肉しかかっている……と考えるべきか……?」
 呟きながら、他のメンバー達に連絡をとろうと携帯電話を取り出す。と、タイミング良く夜神からの着信があった。
「どうした?」
『氷室と海原が連れて行かれた』
 草間は思わずその場に立ち止まる。気付けば、辺りにはもう夕闇が落ちていた。
『チケットの一枚は俺が持ってる。ひょっとしたら、草間さんのところにも届いてるんじゃないかな』
 言われてあちこちのポケットを探ると、確かに黒い紙がシャツの胸に突っ込まれていた。いつの間に、と歯噛みしながらそれを見ると、女の子らしい丸々とした文字で『助けて下さい』と書かれていた。
 まだ乾き切らない血文字からは、生々しい匂いがする。
「くそ!」
 草間は忌々しげにそれを握り潰した。



 疲れたから休憩にしよう、と氷室が言い出した事までは憶えている。
 そのあとはどうしたのだろう、と、みなもはぼんやりとした頭で考える。
 ああ、そうだ。
 夜神がジュースを買いに行ってくれた。待つ間、氷室と事件の話をしていた。そうしてふと気がつくと、風船を持って佇むピエロの姿が目に入った。
 緊張しているのを悟られないよう、笑顔でピエロに風船をねだった。けれど、何も起こらなかった。
 氷室も風船を貰った。けれどやはり何も起こらなかった。夜神が戻るのを待った方がいい、と諌めるみなもを振り切り、氷室がピエロに詰問を始めた。そしたら。

「あんた達、あの噂を信じてるのか?」

 ピエロがそう答えた。まだ幼さの残った、尖った少年の声だった。途端、幾つもの手に捕えられて──。
 みなもは飛び起きた。
 真っ暗だ。何も見えない。なのに、人の気配が濃厚に漂っている。暗闇の中で息を殺す、複数の視線を感じる。
「氷室……さん?」
 小さく呼びかけたが、応答はない。
 みなもは手探りで辺りの様子を調べた。自分はどうやら木の床の上にいるようだ。特に縛られたりはしていない。ひょっとして、檻の中だったりするのだろうか。
 とにかく立ち上がってみよう。そう思った瞬間、みなもは異変を感じた。
 足がないのだ。いや、正確には足のあるべき場所に、違うものがくっついていた。ざらざらした感触、どこか生臭い匂い。これは──。
 途端、光がみなもを射すくめた。スポットライトだ。それでようやく、みなもは自分がどこにいるのかを悟った。
 サーカステントの中だ。自分はその中央にいて、木の台に載せられている。
 そうしてその下半身には、魚の体がくっついていた。勿論、それはみなものものではない。彼女は本物の人魚が持つ鱗の輝きを知っている。これは、死んだ大型魚の体だ。
 じゃあ、とみなもは心の中で独白する。本物のみなもの体は、この魚の死体の中に押し込められているのだろうか。
「皆様、本日はアンダーグラウンドサーカスへようこそ!」
 出し抜けに、陽気なピエロの声がした。先だって聞いたものとは違う、奇妙な裏声だ。
 観客席がさざめいた。それでようやくみなもは観客席の様子がおかしいことに気がついた。
 圧倒的に多いのはパジャマ姿の者だった。それに時折、下着姿の男性や、浴衣を着た女性などが混じっている。およそサーカスの観客とは思えないその姿に、みなもは自分の置かれた状況も忘れてきょとんとした。
「今日皆様のお目にかけますのは、世にも珍しい、人魚の解体ショーでございます!」
 ざわ、と観客席が揺れる。みなもは改めて自分の姿を見下ろした。そうして、自分が乗せられているのが、馬鹿馬鹿しいぐらい大きなまな板であることに気付く。
 やがて舞台の袖から、二頭のライオンを従えたピエロが現れた。その手には、刃渡り40センチはあろうかという大きな包丁が握られている。
「さて、ここにおりますは、美しく可憐な人魚の娘。人魚の肉は美味にして、不老不死の妙薬と言われておりますが、その真偽やいかに?」
 スポットライトを反射して、刃先がきらりと光る。みなもは、恐怖のあまり逃げ出したくなるのを必死にこらえ、意を決して口を開いた。
「瞳さんはどこです?」
 ピエロは、何の事やら分からない、というふうに、オーバーに首を傾げてみせる。
「あなたがさらった女の子です。ご家族がとても心配していらっしゃるんです。彼女に会わせて下さい」
「これはこれは。人魚姫と言えば口がきけないものですが、この人魚はちょっとおしゃべりなようですね」
 包丁が振り上げられた。みなもは毅然とそれを見上げる。
 大丈夫。これは物語だ。作り物なのだ。この下半身だって偽物に違いない。だから、怖くなんてない。
 勢いよく振り下ろされた刃で、尾びれが切り落とされた。焼かれるような熱を感じ、みなもは息を飲む。

 ──え?

 一瞬遅れて痛みが襲ってきた。反射的に悲鳴が喉の奥からせり上がる。
 ピエロは切り落とした尾びれを、二頭のライオンに向けて無造作に放り投げた。飢えた獣は争うようにしてそれに喰らいつき、あっと言う間に平らげてしまう。
 観客の大半は、その光景から目を逸らした。残りは目を逸らす事もできずに呆然としていた。
「おやおや、どうやら人魚の肉が美味だというのは本当らしいですね」
 ピエロは刃物を持ち替える。魚の腹をさばく時の持ち方だった。みなもは歯を食いしばり、ピエロを見据える。
「あなたの……目的は何ですか?」
 おどけた仕草が返ってきた。答える気はない、という意味だろうか。
「さらった人達を返して下さい。誰も、こんな酷い目に遭うような悪い事はしていないはずです」
「うるせえよ」
 苛立ったような少年の声。刃先がみなもの鼻先をかすめる。咄嗟にかわしたが、うっすらと頬が切れたのが分かった。
「お願いです。こんな酷い事、もうやめて下さい」
 みなもの言葉など聞く耳持たないという様子で、ピエロは刃先を魚の体に押し当てる。ぶつりと皮膚が切れる痛み。
 それに耐えて、みなもは叫ぶ。
「あなたは、こんな残酷な物語の主人公になりたかったんですか!? この物語を望んだのは、本当にあなたなんですか!?」
「うるせえ!」
 包丁は真一文字に魚の──みなもの腹を切り裂いた。そこから溢れ出たもので、周囲に強い磯の匂いが漂う。
 痛みに絶叫を上げ、みなもはまな板の上から転がり落ちた。獅子が走り寄り、鋭い牙の生えた口を開く。

 ──嘘、こんなの。

 あまりの激痛に、意識は全てを手放したがっている。みなもはそんな自分に鞭打ち、自らの体から流れ出たものを眺める。
 ただの魚のはらわただ。人間のものではない。そもそも、この魚の下半身はみなものものではない。

 ──なのに、どうしてこんなに痛いの……?

 ただの都市伝説。作り話のはずだった。けれど、この痛みは本物だ。
 痛みに喘ぎながら、みなもは思う。瞳は、そして氷室はどうなってしまったのだろう。

 ──誰か、お願いです。

 獅子が魚のはらわたを食いちぎっている。なのにもう、麻痺してしまったのか、痛みをほとんど感じない。
 むしろ、みなもには、青い顔でこちらを見ている観客者達の方が哀れに思えた。そしてそれ以上に、包丁を握る手を震わせながら自分を見下ろしているピエロも。

 ──助けて下さい。皆を。

 それきり、みなもの思考は途切れて闇に飲まれた。



 雫がよほどうまく立ち回ってくれたのか、ピエロの噂を流したのは自分だと主張する少女は、嫌がるどころか上機嫌で待ち合わせ場所に現れた。シュラインも翠も、複雑な心境で彼女を迎える。
「アングラサーカスの噂について取材してるんですよね? あたし、取材なんて受けるの初めて!」
 そのはしゃいだ表情を保てるのも今だけだ。現状を知れば、すぐに強張るに違いない。気が進まないながらも、シュラインは努めて穏やかな口調で訊ねた。
「その噂なんだけど、ひょっとして何か原型があったりするのかしら? 例えばオルレアンの噂とか。それとも、全部あなたのオリジナル?」
「おるれあん? 何それ」
 都市伝説の代表とも言うべき話を、少女は知らないらしかった。どこか得意げに彼女は語る。
「オリジナルってほどでもないけど、作り話だよ。モデルになった奴はいるけどね」
「モデル?」
「うん。うちのクラスにさ、サカシタっていう、すっごい陰気でウザい奴がいるの。あたし達が楽しく喋ってると、時々すっごい目で睨んできやがってさあ、もうムカツクのなんのって。だから、嫌がらせ」
 言って、少女はクスクスと笑う。シュラインと翠はちらりと視線を合わせたが、あえて咎めるような言葉は口にしなかった。
「じゃあ、その彼がピエロのモデルなのかしら?」
「ううん。そいつの妹を殺した奴がピエロだったって話聞いたから、それをパクったの。奴の目の前で披露してやったら、なんか怒ってたみたいだけど。だからって仕返しするわけでもなし。ホント根性ないんだから」
 勝った、とでも言わんばかりの誇らしげな口調だった。シュラインはバッグの中から、例の新聞記事を取り出す。
「その彼の妹さんが殺された事件って、ひょっとしてこの記事の事?」
「あれっ? やだ、何で知ってんの? もう調べたの? お姉さん達、スゴイじゃん。カッコいい!」
 少女は愉快そうに手を叩いてみせた。心の底から溜息をつきたい気持ちを抑えてシュラインは訊ねる。
「彼は今、どうしてるのかしら?」
「さあ。そういや最近見ないけど。とうとう不登校になっちゃったんじゃない? ああいうウザい奴は家にこもってるのがお似合いだよね」
 可愛らしい顔立ちに似合わぬ、残酷で辛辣な言葉を吐いて、けらけらと少女は笑う。
 見たところ、どこにでもいそうな女子高生だ。身につけている服もバッグも靴も高価なブランド物で、何不自由なく豊かな生活を送っていそうな少女が、どうしてこんな残酷さを持ち得るのかと、シュラインは暗澹たる気持ちになる。
「あなたが流した噂が今、どんなふうに変化しているのかは知ってる?」
 質問に、彼女はあっけらかんと答えた。
「知らなーい。別に興味もないし」
「じゃあ、あなたが流した噂にそっくりな失踪事件が、実際に起こっている事は?」
 そこで初めて少女の笑みが途切れた。彼女は慎重にシュラインと翠の顔を見比べながら言う。
「知らないよ、そんなの。……何? ひょっとしてあたし、何か疑われてんの?」
「そういうわけじゃないわ。でも、あの話を生み出したあなたとしては気にならないかしら?」
「別に。カンケーないもん。ただの作り話なんだし」
 気分を害された、というように少女はむくれた顔をして、忙しなく指で髪を梳き始めた。それがふと、何か面白いものを見つけたという表情になる。
「あ、ひょっとして、疑われてんのアイツ? それだったら分かる。やりかねない感じするもんね。妹の敵討ちとか言ってさあ、関係ない奴を大量殺戮したりしそう」
「貴方は」
 ずっと沈黙を守っていた翠が、おもむろに口を開いた。その声にはいつものように抑揚がなかったが、隣にいるシュラインには彼女の静かな怒りが見えるようだった。
「実際にあった事件をモチーフに作り話をする事が、どれだけ残酷なのか想像もしてみなかったのですか」
 さっと少女が顔色を変える。一瞬真顔になった思うと、すぐさま鋭く翠を睨みつけた。
「何なの? お説教? 取材だって言うから来てあげたのに、そんなつまんない事言い出すんだったら、あたし帰るからね」
 くるりと背を向けかけた少女の体がぴたりと止まる。翠は禁呪の符を掲げていた。影を縫い付けられでもしたかのように、少女は動けない。
「ちょっと……。やだ、何なのこれ!」
 往来で騒がれては面倒だとばかりに、翠は符を振り下ろす。途端、少女は魂を抜かれたように静かになった。
 深々と溜息を落とし、翠はちらりとシュラインを見る。
「シュライン、都市伝説を壊すのに必要なものと言えば、やはり『対抗神話』なのだろうな」
「ええ。都市伝説の嘘を暴く、新たな物語。……今回の場合は、この子がそれになるのかしら……?」
 ずっと考えていた。風船を手にして消えた失踪者達。彼らを取り戻すのには何らかの対価が必要なのではないかと。
 ピエロの真意は未だにはっきりとは掴めない。けれど、犯人が過去の殺人事件の遺族なのだとしたら、彼が心の底から望んでいるものの片鱗が少しだけ分かるような気がした。
「とにかく、武彦さんに連絡して指示を仰ぐわ」
 携帯電話を取り出そうとバッグを開けると、ひらりと黒いものが落ちた。シュラインは慌てて身を屈めてそれを拾い上げる。
 おそらくは氷室のものであろう豪快な文字が書かれていた。
 一言、「来るな」と。



 道行く人々を捕まえ、噂に関する情報を聞きだすも、一向に核心へと近づかないまま、夜だけが近かった。
 合流した夜神から、架空の存在であったはずのピエロが実在の人物とリンクし、現実のものとなる危険性があると聞かされて、氷室は焦っていた。性質の悪い『共犯者』がいると聞かされればなおさらだった。
 どうやらここは覚悟を決めて、虎穴に入るしかないのかもしれないと思い始めていた頃に、そいつは現れた。
 例のピエロだった。ふん捕まえてとっちめてやろうと思ったのに、逆に捕まってしまうとは情けない。誰にも言い訳するつもりなどないのだが、何もない空間からいきなり現れた手の力は異様なまでに強く、抗えなかったのだ。
 氷室は耳を澄ませた。こそとも音がしない。一体ここがどういう場所なのか探りたいのはやまやまだったが、こう縄でぐるぐる巻きにされていては動きようがなかった。
 みなもは無事だろうか。それが気がかりだった。
 おそらくは今頃、夜神が草間に連絡をとって動いてくれているだろう。だからと言っておとなしく助けを待つ気などなかった。何としてでも瞳を見つけ出し、みなもを守らなければ。
「さて、次にお目にかけまするは、人間生餌でございます!」
 唐突に、調子はずれの明るい声が聞こえた。キイキイと響く耳障りな裏声だ。途端、四方からスポットライトが浴びせられて、氷室は眩しさに顔をしかめる。
「プールの中におりますは、悪名高き肉食魚ピラニア。そこへ生きたまま放り込まれ、肉をついばまれる男の苦悶の表情をとくとご覧あれ!」
 ようやく光に目が慣れ、滑稽なピエロの姿が見えた。そしてその隣には、血を流して倒れる少女の姿が。
「……みなも?」
 氷室は芋虫のように這い、何とかして彼女に近づこうとした。だが、氷室を捕えた縄は天井に繋がれており、人間の力で引きちぎる事など到底不可能だった。
 下半身を魚の鱗につつまれた少女は、呼びかけてもぴくりとも動かない。そこからどろりと流れ出したものに、ライオンがむしゃぶりついていた。もともと白い肌が青いほどに見えて、氷室は顔色を変える。
「みなも! おい、返事しろよ!」
 何の反応もない。ぞわりと肌が粟立った。必死に身をよじって、なんとか縄を解こうとする氷室の体が地面から離れる。
 滑車がカラカラと回る音ともに、氷室は天井近くまで吊り上げられた。真下には大きな水槽があり、腹を空かせているらしい魚達が、獲物の影に群れて集っているのが見える。
 痛いほどの視線が、観客席から自分に注がれている。それに向けて、苛立ったように氷室は叫んだ。
「おい、あんたら、こんな悪趣味なサーカスを楽しんでるわけじゃねえんなら、そのピエロを捕まえろよ!」
「できない」
 誰かが声を上げる。呻くような悲痛な声だった。
「体が動かないんだ。俺達だって、こんな気味の悪いものはもう見たくない! 助けてくれ!」
「おやおや。これはおかしな事をおっしゃる」
 包丁をひらひらと動かしながらピエロは言う。その刃は血で赤く濡れていた。
「この物語を望んだのはお客様方。ワタクシはお客様にご満足頂けるよう、ただこうして尽力しているだけなのに、つれない言い様をなさる」
「誰もこんな残酷な見世物、望んじゃいない!」
 そうだ、と同意する声が上がる。それを、ピエロの声が刃物のように鋭く断った。
「じゃあ、何でこんな荒唐無稽な話を、面白おかしく他人に話したりしたんだよ」
 低い声だった。怒りを含んだ、まだ幼さの残る少年の声。
「ただの作り話だ、都市伝説だって言いながら、心のどこかで面白がってたんだろ? 本当だったら面白いのにって思ってたんだろ? 他人事だから。自分には関係ないから」
 観客席の誰も反論ができなかった。夜神の言っていた『共犯者』の正体を、氷室はようやくこの目で見ていた。
 包丁の切っ先が、まっすぐ観客達に突きつけられる。
「お望み通り、この都市伝説を『本物』にしてやるよ。……次はお前らの番だ。一人ずつ順番に切り刻んでいってやるからな」
 女性のすすり泣く声や、誰かのくぐもった呻き声がさわさわと観客席を揺らしていた。氷室は蓑虫のようにぶらぶらと揺られながら、それでも気迫を込めてピエロを睨みつける。
「確かに、こいつらはちょっと配慮に欠けてたかもしれねえさ。でも、だからってこんな目に遭わせるこたないだろうが。あんた、あからさまに行き過ぎなんだよ!」
「これくらいしないと、こいつらには分からないんだよ。……見世物にされるほうの気持ちなんか」
 ピエロは陰鬱な、憎々しげな口調で吐き捨てた。そうして、また裏声を作って、底抜けに朗朗と口上を始める。
「さあ、ピラニア達が、生き餌が落ちてくるのを今か今かと待っております。お預けを食らわせては可哀想というもの。活きのいい餌に、彼らもさぞ満足してくれることでしょう!」
 観客席の何人かが、生贄にされる氷室から目を逸らした。氷室はそんな観客席に叱咤を飛ばす。
「目を逸らすんじゃねえよ! ちゃんと見ろ!」
 そうして、ピエロに向けて不敵に笑って見せた。
「俺は、このアングラサーカスで、無傷で芸をやり遂げてやる。この伝説も、それで終わりだ!」
 ピエロが手を上げる。大きな水音を立てて、氷室の体が水槽の中に落ちた。
 わらわらと肉食魚が寄ってくる。彼らはまさに飢えていた。数に物を言わせ、鋭い牙で獲物を骨までしゃぶってやろうと喰らいついてくる。氷室はそれに抗わなかった。ただ、その体を覆う透明なものがあった。
 光の加減で、ごく淡く青く輝くそれは、魚の牙ごときが傷ひとつつける事のあたわぬ竜の鱗だ。魚達はそれに喰らいつき、途惑ったように離れてはまた噛み付く事を繰り返す。だが、文字通り歯が立たない。
 氷室はニヤリと笑う。水槽越しに見るピエロの表情は、あの独特のメイクのせいで読めない。だが、どこか困惑したような様子が見て取れた。
 肉食魚を振り払い振り払いしながら、氷室の体は少しずつ水槽の底に沈んでいく。肩から足首まで縄がぎっちりと掛けられているのだ。立ち泳ぎはおろか、普通に浮かぶことすらままならない。
 潜水能力に自信はあったが、氷室の肉体は人間のそれだ。いくら竜神の加護を得、常人離れしているとは言っても限度がある。

 ──餌にはならなくても、溺れ死んだりとかしたらシャレになんねえよな……。

 先ほど啖呵を切った威勢はどこへやら、少し気弱になった氷室の耳に、みなもの呼ぶ声が聞こえたような気がした。
 途端、ごぼりと水から気泡が上がったと思うと、それはものすごい勢いで蒸発を始め、あっと言う間に氷室の膝下ほどまでになった。氷室は、びちびちと跳ねる魚達を置いて、金魚鉢から飛び出す金魚のように勢いよく水槽から飛び出し、その勢いで尻をしたたかに打ってしまった。
「いてて……」
 宣言通りに無傷で芸をやり遂げたはいいが、溺れかけるわ格好はつかないわで、こんな姿をとうてい草間達には見せられない。そう思っていたところに、場違いな拍手の音が聞こえてきた。



「結構な見ものだったぞ」
 テントをくぐり、入ってきた人影は三つ。先頭に立つ草間が、ニヤリと氷室に笑いかける。
「ちょっと溺れそうになったり、尻餅をついたりしなけりゃ、おひねりのひとつも飛ばしてやっても良かったんだがな」
「よく言うぜ……。俺とおっつかっつの万年貧乏のクセによ」
 氷室は軽口を叩いて照れ隠しをする。その前をスッと横切り、翠がみなもの傍らに膝をついた。取り出した符でその体をひと撫でするだけで、みなもの姿はいつもの彼女のものへと戻る。
 草間が氷室の縄を解く間、ピエロは彼らを見据え、ジッと立ち尽くしたまま動かなかった。ただ、包丁を握る手に力が込められたのが見て取れる。
「サカシタ、アキトくんね?」
 シュラインが一歩を踏み出した。ヒールの音が、静かなサーカステント内に響き渡る。
「あなたの物語を終わらせに来たわ」
 毒々しい赤で縁取りされたピエロの唇が、にいっと嫌な笑みをかたどる。
「できるもんならやってみろよ。無理だ。もう誰にも止められない」
「いいえ。止められるわ」
 シュラインは振り返り、誰かを招くような仕草をする。おずおずとテントをくぐってやって来た少女の顔を見て、文字通りピエロは凍りついた。
「彼女についての説明はいらないかもしれないけれど、一応紹介しておくわね。この都市伝説の作者で、あなたのクラスメイトよ。この話を打ち消す事のできる、ただ一人の人」
 そっとシュラインに背を押され、少女は蒼白な顔色のままピエロの前に立つ。その唇はぶるぶると震えており、何かを言おうとしても到底言葉にはならないだろうと思えた。
「許してあげてほしいの。ここまで追い詰められたあなたの姿を見るまで、彼女は自分の過ちに気がつかなかったけれど、今はもう知っているのよ」
 ピエロは小さく首を振った。何度も何度も。それが拒絶なのか、それとも他の意味を持つのかは分からない。
「ごめん……」
 やがて、少女はその場にへたりこんだ。その目はピエロを見てはいなかった。ただ、その目に浮かんだ深い深い恐怖の色は、自分のしでかした過ちを充分に理解している事を、端的に表していた。
 そういえば、こんな都市伝説があった事をシュラインは思い出していた。都市伝説を自分で作り上げ、その主人公である殺人鬼に殺される作者。
「こんなの嘘だよ。全部作り話なの。あたしバカだった。本当にごめん。ごめんね、サカシタ」
 少女はぼろぼろと涙を零し始める。綺麗に化粧をほどこした顔が汚れてくしゃくしゃになるほどに。
「あたしが妹さんの事件を元に、こんな嘘っぱちの話を作り上げたせいで、あんた、ホントにこのまま人殺しになっちゃうの? この都市伝説が本物になっちゃうの? あんなの、全部嘘だったのに」
 ピエロの手は、包丁を握り締めたまま震えていた。それは、目の前の諸悪の根源を消し去りたいという衝動のせいか、それともその衝動を押し殺そうとしているせいか。
「……あたしを殺したいの? 殺したいほど憎んでる? 酷い目に遭った人の気持ちなんかちっとも考えずに、バカな事ばっか話してたあたし達が憎い? 消してやりたいと思ってる?」
 矢継ぎ早に問う言葉のあとに、言外に滲むものがあった。違うよね? そんな事思ってないよね? 見逃してくれるよね? そこまで酷い事はしないよね?
 苦い気持ちを噛みしめながら、シュラインはピエロの答えを待った。
 彼女がこの都市伝説の作者であるのならば、主人公であるピエロはそれを許せるだろうか? 過去に彼が受けた傷の痛みも知らぬ少女が、好き勝手にこしらえた物語を許せるだろうか? ましてや、そんな少女を憎む自分の気持ちが、他でもない彼女が作り上げた殺人鬼の気持ちとシンクロして、被害者に肉体的な影響を及ぼすほどの力を得つつある今になって。
 ピエロが包丁を振り上げた。
 主人公である彼が心の底から真の殺戮を望めば、この都市伝説は完成してしまう。文字通り、血肉をまとった陰惨な物語。最初の犠牲者が出れば、彼の殺意は堰を切り、多くの人を傷つけるだろう。
 シュラインは祈っていた。彼がその刃を振り下ろせば全てが終わってしまう。本来ならば被害者であった彼が加害者となり、被害者達は彼を憎む。悲劇の連鎖を生むのは簡単なのに、それを断ち切る力を持つ、光に満ちた物語を生み出す事は、どうしてこんなに難しいのだろう。
 けれど自分達は、その光の物語を生むために戦っている。それが叶うならば、誰が労を厭うだろう。だからどうか、その凶器を手放してほしいと。
 振り上げられた包丁の切っ先は、まっすぐに天井を向いていた。振り下ろそうか振り下ろすまいかの逡巡が、小さくそれを震わせている。
 その時、舞台の袖から黒い影が現れた。腕に華奢な少女を抱いて、ゆっくりとピエロに向かって歩み寄ってくる。
 夜神だった。彼の腕の中にいるのが瞳なのだろう。紙のように白い顔でぐったりとしていたが、怪我はない様子だった。
「……あの日、君は風邪を引いて寝込んでた」
 ぽつりと夜神は口を開いた。まるで誰かに物語を読み聞かせるような、穏やかで優しい口調だった。
 ピエロがぎごちなくそれを振り返る。
「祖母は君の看病に疲れて居眠りをしてしまった。その間に妹さんは家を抜け出した」
 夜神の漆黒の瞳は、ピエロの中のわだかまりを読み取ろうとするかのように、その内側に向けられていた。荒んだ少年の声にならない声を聞き、やり場のない憤りを見ていた。今まで、誰も光をあててはくれなかった部分を。
「事件後、周囲の人間は、君達にとっては育ての親だった祖母を、犯人と一緒にして責め立てた。どうして目を離したんだと。祖母のせいで妹さんは殺されたようなものだと。その結果、祖母は心労で寝込み、妹の後を追うようにして亡くなった」
 夜神の語る物語は、新聞や週刊誌では語られた事のないものだった。ピエロの唇がわななく。
「何だよ、あんた。どうしてその事を……」
「二人が亡くなったあと、君は自分を責めた。自分が風邪なんかひかなければ、祖母が看病疲れで居眠りする事はなく、妹さんも家を抜け出したりしなかっただろうと」
 冷たい金属音を響かせて、包丁が床に落ちる。誰もが固唾を呑んで、夜神の言葉に耳を傾けていた。
「週刊誌はこぞって、妹さんの身に降りかかった不幸を脚色して書き立てた。周囲はそれを鵜呑みにして、君達は好奇の目にさらされた。両親は離婚して、疲れ果てた母親は家を出て行った。……そんな不幸な境遇に育った君を、周囲の人間は責め立てる。『暗い奴だ。いつまで過去の事件に囚われているつもりだ。もう終わってしまった事なのに』……そう言いながら、時折君の過去をほじくり返しては、傷つけようとする人間もいた。君にとっては、誰も彼もが加害者だった。……自分も含めて」
 ぽきりと折れるようにして、ピエロがその場にくずおれた。夜神はそれを、深い哀れみに満ちた目で見つめて呟く。
「……今までずっと、辛かっただろうな。……可哀想に」
 その一言に、ピエロの姿をした少年は声を上げて泣き始めた。今まで張りつめていたものがぷつりと切れたかのように。
 まるで、誰かがその言葉をくれるのを、ずっと待っていたのだというように。
 少女は這い、少年の手を握った。何度も何度もごめんねを繰り返し、彼と一緒になって泣きじゃくる。その涙に洗い流されて、ピエロのメイクが落ちていくのを、シュラインは安堵の表情で見守っていた。
「皆様、このサーカスは本日でおしまいです」
 客席を見渡しながら、翠がそう言い放つ。
「お代は貴方がたの反省と後悔。それを得る事ができたのならば、悪い見世物ではなかったはず。……さあ、お帰りなさい」
 呪縛から解き放たれた観客達は、一人、また一人と消えていく。やがて観客席は空になり、サーカステントも消えた。あとにはただ、身を寄せ合って泣く少年と少女だけが残った。



「危なかったよなあ……」
 まだ縄の跡が残る手首をさすりながら氷室は呟いた。
 みなもは傷一つなかったが、他の被害者達と同じように貧血を起こしていた。彼女は念の為、シュラインが予め手配していた救急車で病院へと運ばれる事になった。この手際の良さと配慮は、さすがは草間の片腕と言うべきだろう。
「夜神もすげえよな。お前の言葉であのピエロ、憑き物が落ちたって顔してた」
 近づいて来るサイレンの音を聞きながら、氷室は感心しきりの口調で言った。夜神は瞳を抱いたまま、淡い笑みを返す。
「あら、氷室くんだってかっこよかったわよ。あのサーカスで見世物にされて無傷だった人なんて、今までいなかったはずだもの。呪縛を解くいいきっかけになったと思うわ」
 あでやかな笑みを向けられ、氷室は大いに照れた。それに草間がぼそりと呟く。
「ケツは打ったみたいだがな」
 氷室は草間を睨んだが、あっさりと受け流されてしまった。それにしても、と草間はシュラインを見る。
「あの女の子をここに連れてくるのは難儀だっただろう。よく説得できたな」
「そりゃあ……」
 シュラインは、意味ありげな視線を翠に向けた。
「ピエロの彼が、あの物語の中で繰り広げた惨劇を余す所なく頭の中に叩き込まれて、改心しない人は少ないと思うわ」
 当の翠は涼しい顔でそっぽを向いている。それはかなりの荒業だったが、同時に何よりも効果的だっただろうと言える。翠だけは怒らすまいと、氷室は心に誓った。
「出る幕はなかったんじゃないのか?」
 ニヤニヤ笑いながら草間が言うのを、翠はきれいに黙殺している。彼女は女性特有のか細い腕で、意識を失ったままのみなもを軽々と抱いていた。それをしみじみと眺めて、揶揄するように彼は言った。
「そういう絵面を見るとますます男前だな、おまえは。思わず惚れ惚れするくらい男前だ」
 表情の全くうかがえない顔で、翠は草間を見据える。その視線に何やら不穏なものでも感じ取ったのか、草間はぴたりと口をつぐんだが、時すでに遅し。
 翠はみなもを氷室に預けると、つかつかと草間に歩み寄った。そうして反射的に身構えた彼を、造作もなく抱き上げる。
「ちょっと待て! これは何の真似だ!?」
 泡を食って草間が叫ぶ。
「お褒めに預かり光栄だ。そんなに誉めてくれるのならば、武彦の事も抱っこしてやらねばと思ってな」
「……前言は撤回する。おまえはか弱い女性だ。だから下ろしてくれ。後生だ、翠」
 翠の鉄面皮は揺るがない。草間がもがいて暴れても、その腕は万力のように彼を押さえつけている。その光景に氷室が盛大に吹き出し、きょとんとしていたシュラインもくすくすと笑い始めた。夜神までもが顔を逸らしてくつくつと笑っている。草間はとうとう諦めて溜息をついた。
「俺は見世物か……?」
 やがて到着した救急隊員が見たものは、細身の女性に抱かれて憮然とする大の男の姿と、それを囲んで笑い合う男女の姿だった。その笑い声は、重い責務を逃れた反動か、底抜けに明るく辺りに響き渡っていた。



 病院のベッドの上でようやく目を覚ましたみなもは、事の顛末を聞かされ、胸を押さえて目を閉じた。その腕には点滴の針が刺さっている。貧血を起こしているせいで体は重く、反対に頭がふわふわとする。
 あの観客席にいた者達は全員、被害者であると同時に加害者でもあったのだ。それが直接的なものでなかったにせよ、ピエロにとっては憎しみの対象でしかなかった。事件を遠巻きにし、面白がって騒ぎ立てる社会の総意を象徴しているかのように思えていたのだろう。
 けれど、彼らはもう代償を支払った。夜毎訪れる夢の中で、醜悪な出し物を見せ付けられ、いずれ自分もそこに引きずり出されるという恐怖を味わった。自分達が止めなければ、その恐怖が本物になっていたのだという事実は、みなもを心胆を寒からしめた。
「怖いですね……。無責任な噂を信じる事が、それを現実化させてしまうなんて……」
 あのサーカス自体は、噂から生み出された悪夢でしかなかった。けれど、そこでみなもが流した血は本当に彼女の体から失われ、与えられた痛みの記憶は消えない。あの場所は、あのピエロは、それほどまでの現実に対する影響力を蓄えていた。自分達は、本当に間一髪で救う事ができたのだ。まだ実感は湧かないけれど。
「噂話なんてものは、それがどんなに根も葉もない突飛なものだったとしても、受け取る側が本当だと思えば本物になる。……そういう事なんだろうな」
 諦観の漂う溜息を吐きながら草間が言った。沈んだ気持ちで視線を落としたみなもを元気づけるように、シュラインが口を開く。
「でも、翠も言ってたけど、『信じる』っていう気持ちにはそれだけの力があるって事よ。私達は、明るくて優しい未来を信じましょ。アキトくんはきっと立ち直れるし、噂を作り出した彼女はちゃんと反省してくれる。観客席の人達だって、これからは痛ましい目に遭った人を気遣えるようになるって」
「……はい」
 みなもはこくんと頷いた。そうそう、と氷室が同意する。
「あんた言ってただろ? 俺達なら、あの都市伝説をいい結末に持ってく事ができるってさ」
 確かにそうだった。少なくとも、みなもの信じた明るい未来はひとつ現実のものとなったのだ。だから今は、あのサーカステントのいたるところにわだかまっていた闇よりも、自分の望む、光に満ちた世界に目を向けようと思う。
「しかし情けねえよな。あそこまでされなきゃ、他人の痛みが分からねえなんてよ」
 世も末だ、という口調で氷室は言う。シュラインが、それに、ちょっと困ったような笑みを浮かべて答えた。
「みんな、分からないんじゃないわ。怖い事件や嫌な噂話は全部他人事にして、傍観者に徹して、自分には関係ないって思いこまないと怖くてしょうがないのよ、きっと。不幸はいつ、誰の身に降りかかってもおかしくない事なんだって、本当はみんな知ってるから」
「そう……かもしれませんね」
 その気持ちは理解できるような気がした。それは傲慢さでも卑怯さでもなく、ただの弱さだ。誰もが当たり前のように持っている。それを責めては酷というものだろう。
 きっと、この都市伝説が消えても、また新たな物語が生み出されるのだろう。それは人の弱さを映す鏡で、その破片は時に誰かを傷つけるだろう。けれど、人間は誰でも、それを消し去るだけの力を持つ物語を生み出す事もできるのだ。今は、それが分かっただけでも充分なのかもしれなかった。
 みなもは気を取り直して、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「でも残念です。あたしも見たかったな。……お姫様抱っこされる草間さん」
 シュラインと氷室が同時に吹き出し、草間は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「そう言えば、夜神さんと翠さんはどこへ?」
 みなもが目を覚ました時から、二人の姿は病室になかった。シュラインがその手を握って答える。
「翠なら、後始末があるって言って現場に残ってるわ。夜神くんは、さっきまでここにいたんだけど……」
「あの二人の事なら心配ない。一番重症なのはおまえだ。危険な役を任せてすまなかったな。俺達は席を外すから、ゆっくり休んでくれ」
「はい」
 実を言うと、さっきから眠くて眠くて仕方がなかった。けれど、眠るのが怖い気もしていた。眠れば、またあのサーカステントの闇に引きずり込まれそうで。
 その心中を察したかのように、シュラインの手に力が込められる。
「私は、みなもちゃんが目を覚ますまでここにいるわ。だから安心して眠って?」
「……はい」
 何だかちょっと照れくさいが、同時にひどく安心した。と、部屋を出ていきかけた氷室が振り返り、手を上げる。
「そうだ、言い忘れてた。助けてくれてサンキュな」
「え?」
「俺が水槽ん中で溺れかけてた時、水を蒸発させて助けてくれたのはあんただろ? ……違うのか?」
 みなもは小首を傾げる。意識が途切れるその瞬間まで、氷室の身を案じていたのは事実だが、具体的に何かをした記憶はない。だが、この事件に関った全ての人を助けたいと強く願ったのは確かだ。ひょっとしたら無意識のうちに、人魚の力を使っていたのかもしれなかった。けれど、みなもはこう答えた。
「それ、あたしじゃないかもしれません。少なくとも記憶にはないですから」
「ええ!?」
 何故か氷室はとてつもなく嫌な顔をした。
「じゃ、あいつか……? いや、あのごくつぶしの居候がそんな気のきいた真似をしてくれるわけねえよな……」
 何やらぶつぶつと呟きながら、彼は病室を出て行った。みなもはシュラインと顔を見合わせ、同時に首を傾げる。
「さ、横になって。武彦さんの言う通り、私達の中だとみなもちゃんが一番重症なんだから」
「はあい」
 素直に返事をして、みなもは毛布の中に潜り込む。病院の白い天井と、優しいシュラインの笑みを見つめながらとろとろと目を閉じた頃になって、ようやく事件は終わったのだという実感がわいてきた。



 保護された瞳は、みなもよりももっと重症で、数日は入院を要するだろうという話だった。
 救急車の中で目を覚ました彼女は錯乱状態で、鎮静剤を打たれるまで悲鳴を上げ続けていた。駆けつけた家族は安堵と不安の混じった複雑な表情で、涙の跡の残る痛々しい寝顔を見守っていた。
 それでも数日の後には、彼らは日常に帰れるだろう。事件を『過去』という分類にファイルして、遠くに押しやってしまう事ができさえすれば。
 夜神は自分の元に届いた黒いチケットを取り出す。シュラインの元に届いたチケットに書かれた文字は確かに氷室のものだったが、彼に問うと、そんなものを書いたり書かされたりした記憶はないと言う。草間が手にしたものも、おそらく同様なのだと思う。
 何も書かれていないチケットを受け取ったのは自分と、そして翠の二人だけだ。確かにチケットには何も記されていないけれど、代わりに刻み込まれたメッセージがあった。それを読み取った夜神は、みなもが無事目を覚ましたのを見届けてから病院を抜け出し、サーカステントのあった場所──過去に痛ましい事件が起こった場所へと足を向けた。
 事件が起きたアパートは取り壊されたが、土地は今も買い手がつかないらしく、放置の憂き目を見ている。
 そこには二つの人影があった。ひとつは翠。もうひとつはピエロの仮面を失った少年だ。
「貴方の行動を咎める気はありません」
 翠の声が、初秋の夜のひんやりとした空気を静かに震わせる。
「ただ、少し気になる事があったので、こうして直にお会いして話しておきたかったのです」
 月明かりに照らし出された、ひょろりと細い少年の影が揺れた。おそらくは頷いたのだろう。
「あのサーカスの噂が残れば、貴方はそれを耳にするたび、今回の事件を──ひいては妹さんの事件を思い出して、辛い思いをなさるでしょう。もしも貴方が望むのであれば、私はそれを消し去りましょう。勿論、今回の件で彼らが得た『教訓』も、ともに消える事になってしまいますが……」
「いいえ」
 思っていたよりもしっかりした声が返ってきた。
「たとえ架空の物語の中の事だとしても、あれは確かに僕がやった事ですから、その報いは受けます。あなた達は僕を止めてくれた。それだけで充分です」
「……そうですか」
 翠の表情はうかがえなかったが、その声音から安堵しているのが読み取れた。きっと彼女は、少年のその答えを待っていたのだろう。
 夜神は背を翻し、静かにその場を去った。
 話に尾鰭がつき、物語が凶暴さを増すにつれ、少年の中の憎悪も増していった。彼は、あの悪夢の中で『加害者』として手を汚すたび、現実の『被害者』である自分との乖離に悩んだだろう。
 そのうち、どちらが本物の自分なのか分からなくなるほどに。
 あの物語を望んだのは、自分ではなかったはずなのに。
 自分は誰よりも『加害者』を憎んでいたはずなのに。
 けれど、彼は自分を取り戻した。もう、悪意に満ちた醜い物語の主人公になど堕ちはしないだろう。夜神はチケットを二つに裂き、手近のゴミ箱に放り込んだ。
 うまく形にならなかった、あの少年の、救いを求める声が刻み込まれたチケットを。
「貴方も同じものを受け取っていたのですね」
 不意に暗がりから声をかけられ、夜神は反射的に身構える。
 声の主は翠だった。いつの間に先回りをしていたのかと問う前に、彼女の方から先に問いかけてくる。
「今からどこへ向かわれるのです?」
「……多分、陸玖さんと同じ所だと思うけど」
 夜神の答えに、翠が僅かに目を細めたような気がした。
「何の為に?」
「黒幕を片付けに、かな」
 事も無げに夜神は答える。
 いかに人間の妄信が力を持とうと、それが具現化するには何らかの因子を要するはずなのだ。例えば、霊的な存在や、超自然的な力が。
「いつから気付いておられたのです?」
「ピエロの正体をリーディングした時に、ちょっと。後ろに大きな影を感じたから。……そっちは?」
「確信を持ったのは、サカシタ殿に直接お会いした時です。彼には亡霊が憑いていた形跡がありました」
 夜神は、表情のない翠の瞳を見据えた。
「サカシタの妹を殺した奴が黒幕?」
「ええ。どうやらそのようです」
「そいつ、今はどこに?」
「彼が光の中へ導かれたため、憑いていられなくなったらしいですね。闇の中を逃げ惑っています」
 翠の視線は目の前の夜神ではなく、その後ろにある暗がりを見ていた。夜神はゆっくりとそれを振り返る。
「……消すのか?」
「さて、それは捕まえてみない事には。浄化できれば転生の道も開けるでしょうが、穢れきっていては救いようがない」
 言って、翠は夜闇を泳ぐようにゆらりと夜神を追い越した。夜神はその背に問いかける。
「草間さん達に連絡は?」
「事後報告はします。……夜神殿、私はできれば、あんな醜悪なものを彼らの目には入れたくないのです」
 同感だ。八神は闇に目を凝らす。その姿は目視できないが、想像はつくような気がした。幼い少女を毒牙にかけたばかりか、その遺族までもを自分の欲望を満たすために操り、多くの血を啜った黒い魂。もはや、救いを求める事すら許されないほど罪深い存在。
「了解。黙ってるよ。でも、代わりにひとついいかな?」
「何です?」
「俺も付き合う」
 彼女はちらりと夜神を振り返る。その表情には相変わらず何の色も浮かんでいなかったが、視線が僅かにやわらいだような気がした。
「では、助太刀をお願いできますか?」
「手加減しなくてもいいんなら」
 剛胆な答えに満足したのか、翠はその背を軽く叩く。
「無論です。その必要はない」
 二人の脚が同時に地を蹴る。闇は、己の眷属である二つの影を受け入れるようにそれを溶かした。
 それきり、そこからは何ひとつ滲み出る事はなかった。強欲な魂があげる、耳を覆いたくなるような断末魔の叫びも、それを裁く者達の峻烈な姿も。



 後日、僅かながらも報酬が出るからという事で、一同は草間興信所に会していた。
「そういえば、最近はあの誘拐ピエロの噂って聞かなくなりましたね」
 貧血も解消され、すっかり顔色のよくなったみなもがお茶を配りながら言うのに、シュラインが頷く。
「雫ちゃんにお願いして、ゴーストネットOFFの例のスレッドが自然消滅するように誘導してもらったからっていうのもあるのかもしれないわね。でも、元々が行き着くところまで行き着いた感じの都市伝説だったから、下火になるのも早かったみたいよ」
「人間は飽きっぽいから」
 夜神がぽつりと言った。短い言葉だったが、核心をついている。
「瞳嬢も、今はすっかり元気になったそうだ。おまえ達に──特に夜神にはくれぐれもよろしくと伝言があった」
「……何で俺に?」
 コーヒーカップを手に、夜神は怪訝そうな表情を浮かべている。それを、氷室が肘でつついた。
「そりゃ、高嶺の花のアイドルが自分を助けに来てくれたなんて、普通の女の子にとっちゃ一大イベントだからだろ」
「助けに行ったのは俺だけじゃなかったのに、一人だけ特別に礼を言われても困るな」
 どうやら本当に困っているらしい表情で夜神は言う。彼の生真面目さを微笑ましく思いながら、氷室はコーヒーを啜った。
「礼と言えば、サカシタ殿からも伝言が。氷室殿とみなも殿に丁重に詫びておられましたよ。それからやはり、夜神殿には特にくれぐれも礼を言っておいてほしいと」
 翠に言われ、ますます夜神は居心地悪そうな顔になる。それを察して、話題を変えようとシュラインが口を開いた。
「そう言えば、今度は全然違うサーカスの噂が流れてるらしいわよ。ね? 武彦さん」
「へえ。どんな噂なんですか?」
 身を乗り出すみなもとは正反対に、氷室が軽く身を引いた。それを横目で見ながら草間は答える。
「何でも、出し物を純粋に楽しむ心を持ってないと招待券を貰えないサーカスらしい。アイドルの夜神潤によく似たピエロが、フリー・スタンディング・ラダーを披露するって話で、ファンは血眼になって招待券の入手方法を探ってるとか」
 夜神は軽く柳眉を寄せる。みなもが目をぱちくりさせた。
「フリー・スタンディング・ラダーって何ですか?」
「支えのない梯子を使ったジャグリングよ。かなり高度な技らしいわ。本当にそんなかっこいいピエロがいるなら、是非とも芸を披露してもらいたいところよね」
 笑顔を浮かべるシュラインをちらりと見てから、草間は続ける。
「他にもあるぞ。人魚の衣装をまとった美少女による華麗な水中ショー。動物の言葉を話せる黒髪の美女が、魔法のように猛獣を操って見せるとか」
 そろりと氷室がソファから腰を浮かす。みなもが唖然と口を開けた。
「それって、もしかして……」
「みなもちゃんと……ひょっとして、私の事かしら?」
 頬に手を当てるシュラインに、草間はニッと笑って「だろうな」と答える。
「だが、そのサーカスでしか見られない出し物と言えば、やっぱりこれだろう。大の男を軽々と空中に放り投げてお手玉をする謎の美女」
 それまで黒猫を膝の上に抱いて、まるで他人事のような顔をしていた翠がぴくりと反応した。
「……それはやはり、私の事なのだろうな?」
「他に誰がいる? ところで氷室、この噂を流したのはおまえだな?」
 草間に呼び止められ、こっそりとその場を逃げようとしていた氷室は、咄嗟にソファの背に隠れた。
「いや、その……、あの最高に暗いピエロ話を吹き飛ばすにはさ、やっぱこれくらいインパクトのある噂を流さなきゃ駄目なんじゃないかなー、ってさ……」
「なるほど」
 翠は黒猫を置いて立ち上がる。氷室は慌ててドアのところまで飛びすさった。
「氷室殿のおっしゃる通りです。暗い話を払拭するには、それくらいしなければなりません」
「へ……?」
 てっきり怒られるのだとばかり思った氷室だったが、翠の口調は優しかった。表情がないせいで分からないが、どうやら気分を害してはいないようだ──と安堵しかけた瞬間。
「だが、話だけでは到底信じられぬとおっしゃる方々も多い事でしょう。ですから」
 いつの間に間合いを詰められたのか、氷室の眼前に翠の顔があった。そのままくるりとひっくり返され、気付けば片手で高々と持ち上げられていた。
「ちょっとこのまま近所を一周してくるとしましょう。噂好きな人達が、盛大に尾鰭をつけて流してくれる事を期待して」
「ま、待ってくれよ翠さん! お、怒ってるんなら謝るからさ!」
 大慌てで弁解を始める氷室を片手でくるくる回しながら、翠は飄々と答える。
「いいえ。私はけして怒ってなどいませんよ。ただ、氷室殿が折角流して下さった噂に、信憑性をつけて差し上げようとしているだけです」
 草間のいかにも愉快そうな忍び笑いが聞こえてくる。救いを求めて事務所内を見渡すと、シュラインが困ったような笑顔を浮かべて言った。
「お手柔らかにね、翠」
「大丈夫。翠さんなら氷室さんを落っことしたりしないと思います」
 みなもがにっこり笑って手を振る。夜神と目があったので、助けを求めるように手を伸ばすと、冷たく「自業自得」という一言が返ってきた。
 仕方ない。こうなったら高々と放り投げられてやろうではないかと氷室は腹をくくった。これも自分の撒いた種だ。



 やがて、その噂には新たな情報が加えられた。
 いわく、お手玉にされる青年はサーカステントを突き抜けるほど高く放り上げられ、その姿と悲鳴は少々哀れなれど、観客の笑いを誘わずにはいられないと。
 噂は明るい笑い声を含んで広まっていった。まるで、誰もが本当は、心の底から楽しめる物語を待ち望んでいたのだと示すように。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女性/13歳/中学生】
【6725/氷室・浩介(ひむろ・こうすけ)/男性/20歳/何でも屋】
【7038/夜神・潤(やがみ・じゅん)/男性/200歳/禁忌の子】
【6118/陸玖・翠(リク・ミドリ)/女性/23歳/面倒くさがり屋の陰陽師】