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時の契約
アンティーク時計の鐘の音が、微かに室内に響く。
雪穂は手にした魔道書から顔を上げ、ゆっくりと室内を見回した。
窓の外は、今にも雨をもたらしそうな雲で覆われている。それに応じて、室内は薄暗い。
僅かに差し込む柔らかな光に照らされた室内には、およそ雪穂の外見にそぐわない魔道関連の書物や、道具が所狭しと置かれていた。
その使い込まれた道具や、読み込まれた書物が、召喚術に携わってきた年月を如実に物語っている。
雪穂の視線が、同じ部屋で本を読んでいる双子の姉妹──夏穂に向けられる。
色違いの愛らしいドレスに身を包んだ夏穂の肩には、ぼんやりとした姿を見せる蒼馬の姿。九つの尾を震わせて、本を覗き込んでいるようにも見える。
「夏ちゃん……ごめん」
不意に、掠れた声で雪穂は呟いた。
ともすれば室内に溶けてしまいそうな程、微かな声。
それでも夏穂は、不思議そうな面持ちで顔を上げた。
「どうして?」
雪穂に返ってきたのは、「なにが?」ではなく「どうして?」
どうして謝るの?
夏穂の澄んだ緑色の瞳が、雪穂にそう語りかけていた。
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多分、一番初めに覚えたのは夏穂の名前だったと、雪穂は思う。
それほど近くに、いつも感じていた。
それは、今も変わらない。
まだ、両親が健在だった頃、洋服を取り替えて二人を騙したことがあった。
いつもと違う色の服を着た双子を、父も母もすぐに見分ける事が出来なかった。
「まるで鏡ね」
これは母親の口癖。
この時もそう言って、父と二人で笑っていた。
双子も、いたずらの成功した喜びに、満面の笑みを浮かべた。
それは、どこにでもある家族の風景。
ずっとこのままだと思っていた。
変わることのない日常。
あの日、それが打ち砕かれるまでは。
────────────
季節外れの長雨が、窓の外の風景を滲ませていた。
雪穂はそっとため息をついた。
雨は嫌いではないが、旅行の間中つきまとわれていては、さすがに気が滅入る。
どこに行っても曇り空か、雨模様。
そのせいか人影はまばらで、おかげで楽に観光が出来ると、父は強がりを言う。
この日最後の観光を終え、車に戻る途中で雪穂は立ち止まった。
「あっ」
小さく声をあげると、前を歩いていた夏穂が振り返る。
「どうしたの?」
「……忘れ物しちゃった」
答えながら、雪穂は今出てきた建物を振り返った。
傘を差すのに邪魔だったので、すぐ傍の台の上に一時的に預けたものをそのまま置いてきてしまったのだ。
「一緒に行こうか?」
見ると、両親の姿はすでに遠ざかりつつある。二人同時に居なくなっては心配をかけるだろう。
「ううん、大丈夫。先に行ってて」
雪穂はそう言って、踵を返した。
「うん」
頷く夏穂の声を背中に聞きながら、ロビーに戻る。
忘れ物は、置いた時のまま雪穂を待っていた。
それを手にし、再び外へと出る。
雨は、僅かに強くなっていた。
雪穂は傘を手にし、急いで三人の後を追った。
灰色に沈む庭園を抜け、人影の殆どない駐車場に差し掛かったとき、雪穂は足を止めた。
それが何故だったのか、説明のつけようもないが、ある種本能だったのかもしれない。
違和感を感じていた。
雪穂は無意識のうちに、すがるように手にした物を抱きしめていた。
閑散とした駐車場に、見慣れた車がある。
周りに人影はなく、車の中にも両親と夏穂の姿がない。
「どこに行ったんだろう」
雪穂は呟きながら車に近づいた。
違和感が大きくなっていく。
先程死角になっていた場所を覗き込んだ時、雪穂の手から傘が落ち、激しい雨が全身を包み込んだ。
そこにあったのは、変わり果てた両親の姿。
折り重なるように倒れ伏す二人。こちらに向けられた澱んだ目が、すでにその命が失われたのを物語っている。
さし伸ばされた腕。
何かを守るように。
けれどその腕が動くことは、もうない。
「夏ちゃん……」
無意識のうちに、雪穂は呟いていた。
夏穂の姿がない。
振り返り、探そうとした時、
「雪ちゃん、危ないっ!」
悲鳴と共に、衝撃が雪穂の体を襲った。
何が起こったのか、にわかには理解しがたかった。
ゆっくりと目を開けると、目の前に夏穂の体が横たわっている。
実感するほど胸が激しく脈打ち、膨張した血液が五感を圧迫する。立ち去る足音も、雨音も雪穂には届かなくなっていた。
「夏ちゃん……?」
震える呼び声に、答える声はない。ただ、急速に夏穂という器から命が流れ出ようとしている。
次第に血の気を失っていく体。
雪穂は必死に夏穂の体を抱きしめ、叫んでいた。
「お願い!願いを叶えて!」
傍らには、先程まで雪穂が抱きしめていた召喚術の本が落ちていた。
落ちた衝撃で開いたページには、魔方陣が描かれている。
そこに何が書かれているか見ずとも、雪穂には解っていた。
今、自分に一番必要な物だと。
正当な手順も、儀式も行う時間がない。
ここにあるのは、己のみ。
雪穂は指についた夏穂の血で、地面に魔方陣を描いた。
雨に濡れた地面に文様が刻まれる事はないが、必要なのは形ではなく、道筋。
恐るべき速さで魔方陣を描いた雪穂は顔を上げ、再び願った。
『願いを叶えてくれる悪魔』の召喚を。
──私を呼び出したのはお前か
声が、直接雪穂の頭の中に語りかけてくる。
目の前には、エーテルに満ちた不可視の存在。圧倒的な力を誇る者。
広く、悪魔と呼ばれるその異形の姿から目をそむけることなく、
「お願い、夏ちゃんを助けて!」
それだけを願った。
失われつつある命の対価がどれほどのものか、雪穂には想像もつかない。
──それ程の対価を支払う覚悟があるのか
静かな問いかけに、雪穂は頷いた。
今までにない苦しみが、胸を締め付けている。少しづつ、自分の中の何かが溶け出していくような、喪失感。
これ以上の苦しみがあるのだろうか。
──承知した
空間が乱れ、言葉と共に悪魔は姿を消す。
音が、感触が戻ってくる。
再び全身を濡らす雨に打たれながら、雪穂は呆然と空を見上げた。
「雪ちゃん……?」
微かな声に、雪穂は自分の願いが聞き届けられたのを確信した。
──────────
自分を恨んでいるものに殺されなければ死ねない。
科せられた代償は、大きかった。
不老の体と、条件付きの不死の体。
そして、それは雪穂だけでなく、夏穂の体をも蝕んだ。
それこそが、悪魔のもたらした代償なのかもしれない。
──────────
降り出した雨が、静寂を破るように窓を打つ。
その音を聞きながら、夏穂は本を閉じた。
夏穂の視線の先には、言葉をなくしうつむく雪穂の姿。
手を伸ばし、細い糸のような繊細な髪を漉くように、優しく撫でる。
夏穂にとって、雪穂と過ごせるこの時間、今が一番大切でそれ以外のことはどうでもよかった。
それはきっと雪穂が思ってくれたことと同じだと思う。
「お茶にする?」
夏穂は覗き込むように、雪穂に微笑みかける。
いつもと変わらない風景。
雪穂は顔をあげ小さく頷いた。
これが、雪穂の守った二人の日常。
夏穂は雪穂の手を取り、部屋を後にした。
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