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Gluttony
大食いという言葉がある。
あるものはその響きに憧れ、あるものはその響きを恐れ、あるものはその響きを狙う。
世の中実にうまいもので、大食いという言葉だけである種一つの市場が出来上がっている。
金にするものされるもの。まるで食物連鎖のように連綿と続いていく。
都内某所。そこには大食いメニューを売りにした、有名な中華飯店があった。
そこには絶え間なく客がやってくる。大食いという響きに惹かれて。そしてメニューには一言添えられている。
『食べ切れたら金一封!』
単なる大食いメニューを出すだけならば、おそらくはすぐに飽きられるだろうし、そういう店ばかりを狙うハンターとも言える大食漢たちに荒らされていただろう。
だがしかし、この店は今も絶え間ない客のおかげで繁盛している。無論そうならない理由はちゃんとある。
味が確かなことも理由として挙げられるが、何よりもその量が半端ではないのだ。
ある日、あるその筋では有名な一人の男がその暖簾を潜った。世が世ならテレビなどで持て囃されることがあったかもしれないほどのその有名な男は、しかし店を出る頃には保々の体となっていた。
そして一言こう叫んだという。
『大食いってレベルじゃねーぞ!!』
ちなみに彼はその後食べすぎにより病院に運ばれたそうな。
他にも逸話は枚挙に暇がない。挙げだせばきりがないが、兎も角それくらい凄いのだ。
今日も一人の女性が真紅の暖簾を潜った。あぁ、また犠牲者が一人増えるのだろうか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「表の看板のことだが」
店に入るなり、女性はいきなり切り出した。
席についている客と、何時もどおりに接客するなり料理するなりしていた店員たちの視線が一斉に彼女へと集まる。
「あれは、確かだな?」
たとえ人の外であっても惹かれずにはいられない鮮紅の瞳が細くなる。それはつまり、
「えーと、お客さんあれ希望?」
「質問に質問で返すな。答えは?」
「いやまぁ、看板に偽りはありませんが…」
そういうことで。
その言葉に満足したのか、女性は丁度あいていたすぐ近くのテーブル席へと腰掛ける。そしてメニューも開かず、
「メニューを端から順に。チャレンジメニューを全て」
きっぱりと言い放った。
「…はっ?」
素っ頓狂な声が返る。店員は流石に耳を疑った。何故なら、
「聞こえなかったか? チャレンジメニューを端から順に、と言ったんだ」
それは明らかに常軌を逸した行動だから。
店員は自分の店のメニューには絶対の自信を持っているし、だからこそ破られることもないと知っている。
今まで病院へと送った客は数知れず。少なくともその業界では有名だという自負もある。
だというのに、この目の前の女性は、よりにもよってそれを全て持ってこいといっているのだ。
最近そういう大食い女性タレントがいるというのも知っている。しかし、そういう女性であるなら少なからず情報網に引っかかるだろう。しかし、目の前の女性は明らかに違う。
「…お客さん、正気で?」
思わず声が震えた。美しいとさえ思える女性であるのに、得もいえぬ迫力というのだろうか。兎も角、何かそういうものが漂っているようにさえ感じられたのだ。
「無論だ。一人で何品挑戦しても構わないのだろう?」
返す言葉には寧ろそれが当たり前であるかのような響きが混ざる。
「…分かりました」
だから、店員は渋々引き下がりオーダーを告げた。
「一品目、棒々鶏です」
前菜ですらこの店ではチャレンジメニューとして出てくるらしい。
棒々鶏といえば、蒸し鶏をゴマソースで和えたヘルシーな一品。カロリーが低く、たんぱく質も豊富な鶏肉とさっぱりとしたピリっと辛いゴマの組み合わせはいかにも食欲をそそり、女性にも人気が高い。
…とはいえ、それは普通のもの。チャレンジメニューとして出るからには全く桁が違う。
女性の目の前に置かれたのは、二人がかりで運ばれてきた巨大な皿。その上には蒸し鶏がもはや数えるのも馬鹿らしくなるほど積み重ねられ、真っ赤なゴマソースがまるでマグマの如く流れ出している。
それはもはや食欲云々の前に、見るのすら躊躇するような棒々鶏。なるほど、確かに来る客が裸足で逃げ出すわけである。
しかし、
「いただきます」
丁寧に手を合わせ、箸を持つ女性は怯む素振りすら見せずにそれを口の中へと運んでいく。
店員たちは、どうせこの女性も何時もと同じ運命を辿るのだろうとその光景を眺めていた。小さな口へ料理が運ばれていく様はまるで一つの絵画のようで、見とれていたと言ってもいい。
だがしかし、そんな彼らの顔色も数秒後には変化していくのだった。
女性らしい動作など一瞬。少し目を離した間に、蒸し鶏がごっそりと消えていた。
誰も何が起こったのかしら理解できていない。あるのは、既に空となった皿だけ。
「次は?」
あの山のような棒々鶏は一体何処へ?
口元を拭く動作から食べたということをかろうじて伺い知るくらいしか店員には出来なかった。
「麻婆豆腐です」
日本における中華の定番ともいえる料理が運び込まれる。
ひき肉と豆腐、豆板醤などの香りはやはり人の食欲を増進させる。
ただし、ここで出てくるからには半端なものではない。
豆腐は数十丁(調理人曰く正確な数はもはや把握するのも馬鹿らしいらしい)にひき肉が十キロ単位で。さらに豆板醤や鷹の爪、その他諸々のスパイスが辛味を異常なものへと昇華させている。
どうやらこの店では、量もさることながらその辛さも数多の挑戦者たちを退ける要因となっているらしい。
しかし、
「次」
その女性には一切効果がなかった。
皿を下げてきた店員の顔が真っ青になっていた。
今までにない強敵。いや、これは天敵と呼ぶべきだろう。
こっそりとカウンターから女性を見やる。そこには、まだ全然足りていないといわんばかりの顔がある。
「ど、どうする…?」
「と、兎も角食べさせて潰すしかない!」
既に会話がおかしい気もするが、あまり気にしないほうがいいのだろう。
「古老肉です」
山のような酢豚が運ばれてきたが、
「次」
「青椒牛肉絲です」
野菜も色鮮やかな…というよりは野菜の海のチンジャオロースが運ばれ、
「次」
「酥炸蝦仁です」
山積となった海老の天麩羅が、
「次」
何度これを繰り返したのだろうか。既に料理を運ぶ店員にも覇気が感じられなくなってきていた。
既に制覇されたメニューは半分を超えた。
「人間技なんてレベルの大食いじゃねーぞ!!」
思わず叫んでしまうほどの大被害。
一方の侵略者は、爪楊枝を片手にお茶をせびる。なんとも対照的な光景に、その場に居合わせていたほかの客たちの視線も自然と釘付けになっていく。
この難攻不落だった帝国を今まさに打ち砕かんとしている侵略者。その瞬間を目の当たりにしているのだからそれも仕方がないだろう。
その頃厨房では、
「ここまでやられて負けられるか、この店の威信にかけて絶対にあの女の腹を壊すんだ!」
「「「「「オー!!」」」」」
やたら物騒だった。
「八宝菜です」
ありとあらゆる野菜が惜しみもなく投入されたそれは、もはや八宝菜というよりは百宝菜とでも言うべきもので、
「次」
「春捲です」
あらゆる具が巻かれたそれはさながら巻物というべき大きさであり、しかもそれが数本並び、
「次」
「魚翅湯です」
最高級の鱶鰭が使われたそれは、黄金色の威圧を挑戦者に向けて、
「次」
「北京鴨子です」
無論ここで出るからには一羽丸ごと。しかもそれが数個積み重なって異様な光景と、
「次」
それでも侵略者の足は一向に止まらなかった。まさに目の前に立つものは全て打倒していく勢いである。
その食べぶりは当然尋常ではなく、店はもやはその女性の独壇場と化していた。居合わせた客たちは珍しいもの見たさに女性の一挙手一投足に注目しては溜息を漏らす。勿論その美しさも要因の一つではあるのだろうが。
その頃厨房では、
「駄目です、止まりません!!」
「材料が足りない、材料を買って来いアパームッ!!」
「アパムなんて人はここにはいませんよー!!」
嵐の如き状況だった。
まさかの大打撃。普段そこまで食べるものなどいるはずもなく、材料が尽きてきていたのだ。
「あぁ、またオーダーがー!?」
「腕が、腕がー!!!」
「ボク、今日限りで店やめます」
あるものは顔面蒼白になり、あるものは包丁を握る腕が攣り、あるものは恐怖のあまり厨房から逃げ出していく。
まさに地獄絵図。それを、たった一人の女性がもたらしているのだ。
そして気付けば早夕刻。
「…炒飯です」
積み上げられたのは山のような皿。そこに、げっそりとやつれた店員が最後の弾だと言わんばかりに炒飯を持ってきた。
メニュー最後にして最もシンプルな一品。
シンプルながらも美しい金色の皿には、当然の如く人の頭ほどもある炒飯が盛られていた。
だがしかし、店員は理解していた。この女には、もはやどんなものでも無駄だということを。
「……」
静かにレンゲが皿に置かれる。米粒一粒すら残らない皿はいかにも美しかった。
「…負けた…」
「認めよう…彼女の勝ちだと」
厨房にいたコックが、がっくりと項垂れるとともに地面へと平伏す。そして聞こえ始める嗚咽。
店内では自然に拍手が巻き起こっていた。まさに快挙とも呼べるそれは、ある種の感動を呼んでいたのだ。
まだ席に座ったままの彼女の前に、コック長である中年の男が立つ。その顔はげっそりとやつれていたが、同時にある種の満足感も浮かんでいた。
「おめでとうございます。この店始まっての快挙です、いやはやまさか成し遂げられて」
「棒々鶏」
コック長の声は途中で遮られた。
「…はっ?」
女性の言葉の意味が分からず、素っ頓狂な声が返る。
「もう一度。チャレンジメニューを最初から」
店内の空気が、完全に凍った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「…行くか」
女性――物部楓が眩しそうに空を見上げ、そして歩き始めた。
随分と潤った懐と、そしてまだまだ足りないという空腹感を共にして。
かつて有名だった中華飯店がある。
ある日、一人の女性客が入ったそこは、次の日にはある貼り紙が貼りだされていた。
『諸事情により暫く休業致します』
その理由は、今でもあの日その場に居合わせた客たちの語り草になっているという。
<END>
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