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時空図書館〜月見の会〜
【オープニング】
「あら、お兄さん。留守の間に、誰か来たみたいですよ?」
鍵を開けて事務所の電気をつけた途端に、零が軽く目をしばたたいて、応接セットのテーブルの上を指差した。そこには、一本のススキと共に、四角い飾り気のない封筒が一枚、置かれている。
本日の草間は、零の買い物につきあって二人で出かけていたのだった。もちろん、玄関も窓もしっかり施錠していた。さして盗られるものもないように思える草間の事務所だが、パソコン内と棚のファイルに収められた事件の記録や顧客データなどは、貴重なものだ。
草間は眉をひそめて室内を見回す。だが、他人が出入りした気配はなく、異変はテーブルの上のススキと封筒だけである。
「人ならざるものからの仕事の依頼か、はたまたどこかへの招待状と言ったところかな」
小さく肩をすくめて呟き、草間はそちらへ歩み寄った。封筒を取り上げ、口を開ける。封はされておらず、中にはカードが一枚入っているきりだ。それを出して広げてみると。
『ご無沙汰しています。月の美しい季節柄、月見を兼ねて明後日の夜八時より、お茶会を開きたいと思います。よろしければ、ご友人ともども、ご出席下さい。もちろん、菓子や飲み物などの差し入れも歓迎いたします』
流麗な文字の最後にある署名は「三月うさぎ」。このしばらく音沙汰なかった、時空図書館の管理人からのものである。
ふり返ってそれを伝えると、零はたちまち破顔した。
「管理人さんからの、招待状だったんですね。もちろん、出席しますよね? 他の方たちも誘って」
「そうだな。久しぶりだしな」
草間は零のはしゃぎぶりに苦笑しながら、うなずく。そして、誰と誰に声をかけようかと頭の中でアドレス帳をめくるのだった。
【月下の庭園】
エレベーターが止まる時のような一瞬の浮遊感の後、目の前に広がった光景に、シュライン・エマは思わず息を飲んだ。
あたりは一面、銀色の海である。いや、そう思ったのは目の錯覚で、実際にはそこは、皓々と降り注ぐ月光に照らされたすすきの原だった。
(私たち……時空図書館の庭園に来たはずよね?)
彼女は目をしばたたきながら、ようやく胸に呟く。
草間からお茶会への招待を聞かされたのは一昨日の夜ことだ。三月うさぎが主催する時空図書館の庭園でのお茶会には、これまでも何度か参加していたから、もちろん彼女は行くことを承知した。これまでのお茶会は昼間ばかりだったので、夜間だというのも楽しみだった。差し入れは自由とのことで、あれこれ考えた末、栗の渋皮煮と生姜の蜂蜜漬け、溶き卵や色つき素麺などを流し込んだ出汁寒天を持って行くことにした。昨日作ったそれらは、手にしたトートバックの中にしっかりと収められている。
これまでのことを考えても、なんらかの趣向は凝らされているかもしれないとは思っていたものの、まさかこんな光景に出くわそうとは、彼女も思ってもいなかった。そもそもこれは、「庭園」ではあり得ない。
彼女は改めて周囲を見回した後、共に来た者たちへと目を向けた。
今回一緒に来たのは、草間と零の他はセレスティ・カーニンガム、綾和泉汐耶、藤田あやこの三人だ。
セレスティは、長い銀髪と青い目の美貌の青年である。一見すると二十代半ばにしか見えないが、実際には七百年以上生きている。アイルランドに本拠地を持つリンスター財閥の総帥で、その本性は人魚なのだ。ただそのせいで視力と足が弱く、今も彼は車椅子に乗っていた。
また汐耶は、短い黒髪と青い目、銀縁眼鏡のスレンダーな体型の女性で、シュラインより三つ年下の二十三歳だった。都立図書館の司書で、本の虫といってもいい読書好きである。そのスレンダーな体型によく似合う、濃紺のパンツスーツに身を包み、肩からはシュラインと同じく大きめのトートバックを下げていた。
一方あやこは、長身のほっそりした体と長い黒髪、黒い目の女性だった。シュラインより二つ年下の二十四歳だという。この年でブティックやカフェバー、芸能プロダクションなどを手広く経営している実業家だった。しかしながら本日は、なぜか背中の大きく開いた赤いボディースーツに網タイツ、頭にはうさぎの耳を模したヘアバンドという、いわゆるバニーガールの格好をしている。片手に下げているのは、誰もが目にしたことのある、某ハンバーガーショップの袋だった。
「……ここ、本当に時空図書館の中……よね?」
小さくかぶりをふって、最初に口を開いたのは、汐耶だ。
「ああ。そのはずだが……」
どこか呆然と呟くように、それへ草間が答える。
その時、銀色のすすきの海の中にゆったりした中国風の白い衣服に身を包んだ青年が現れた。肩のあたりまでの薄紅色の髪と、薄紅色の目、途中から小さな羽根に変じた耳を持つ二十代半ばぐらいに見えるその青年こそが、今宵彼女たちを招待した人物、三月うさぎだった。
「ようこそ、みなさん。今宵は時空図書館の庭園へ」
ゆっくりとシュラインたちの前に歩み寄って来ると、彼は全員に微笑みかけて言った。
「三月うさぎ……。てことは、やっぱりここは、時空庭園の一端だってことなんだな?」
草間がその彼を見やって、半信半疑で尋ねる。
「もちろんですよ、草間さん。招待状にも書いたとおり、今夜は月見ですからね。それにふさわしい場所を用意したまでですよ」
穏やかに言って、三月うさぎは半身をひるがえすと、自分の後方を示した。
「あちらの四阿(あずまや)で、お茶の用意をしていますので、どうぞいらして下さい」
見れば、彼の指し示す方向には小高い丘があって、そこに白い四阿が建っている。そして、彼女たちがいる場所からそこまでは、すすきの間を縫うようにして道が続いていた。
シュラインたちは、三月うさぎに案内されるままにその道を歩き出す。見上げれば、空には銀色に輝く巨大な満月があった。
(なんだか、怖いぐらいの月ね。……でもあれは、本物なの?)
ふとシュラインは胸に呟く。実際にはまだ、満月まではいくらか日数があったはずだ。それともここでは、実際の時間は関係ないのだろうか。そんなことを考えながら、彼女は無言で歩いて行く。他の者たちも、その月に圧倒されたのか、それとも周囲の風景を堪能しているためか、あまり言葉を交わすことなくただ歩き続けていた。
【四阿にて】
丘の上の四阿は白い大理石で造られており、どこか巨大な鳥籠のようにも見えた。
シュラインたちがたどり着いてみると、そこには先客がいた。短い黒髪と黒い目をした長身の青年――妹尾静流である。草間と零はもちろん、シュラインやセレスティ、汐耶とも顔見知りであるため、それぞれ笑顔で挨拶を交わす。
それからシュラインは、テーブルの上を見渡した。
四阿の中央に据えられた丸テーブルの上には、すでにいくつかの菓子類が並べられていた。白磁の大皿に、彩りよく盛り付けられているのは、三色のおはぎだった。一般的な粒餡のものと、黄粉のものの他に青海苔をまぶしたものがある。その隣には一口大の長方形をした最中が盛られた皿があり、更にその隣にはスィートポテトらしきものの乗ったアイスクリームを盛り付けたガラスの器を並べた皿がある。
だが、シュラインの目を引いたのはもう一つの皿の中身だった。小さな栗が盛られているのだが、よく見るとそれは本物ではなく、菓子らしい。
「これはお菓子ですか?」
声を上げたのは零だ。シュラインと同じものが目についたらしい。
「それはユルランという、韓国のお菓子ですよ。ゆでた栗の実を裏ごしして味付けし、栗の形にまとめたものです。まぶしてあるのは松の実ですよ」
三月うさぎの説明に、零が目を見張り、シュラインも目をしばたたく。そして苦笑した。
「やっぱり誰しも今の季節、栗のお菓子や料理を思い浮かべるのね」
言って、トートバックから自分の差し入れの入ったタッパーを取り出す。
「これ、今夜の差し入れよ。栗の渋皮煮と生姜の蜂蜜漬け、それと出汁寒天なんだけど。生姜の蜂蜜漬けは、シロップを炭酸や水で割って飲んでも美味しいかと思って」
「そうですね。それじゃあ、後で炭酸水を用意させましょう」
うなずいて、三月うさぎが礼を言う。
「あ……。私も差し入れを持って来ました」
「私も」
セレスティと汐耶も口々に言って、テーブルの上に自分の持って来たものを出す。続いて零とあやこも、自分の持って来たものを置いた。
セレスティの差し入れは、栗羊羹と緑茶の葉だった。汐耶は紅茶に入れるためのブランデーと、あとはクラッカーやチーズ、ハム、サーモン、サワークリームや果物など、カナッペの材料一式と、なんだか酒のつまみのようなものを持って来ている。零のはごく一般的な団子――いわゆる月見団子と、栗とヨーグルトを使ったティラミスだった。そしてあやこのは、袋からも想像できるとおり、ハンバーガーだった。中に目玉状の卵を挟んだ、「月見バーガー」と呼ばれるものだ。
最後に、草間が手にしていた大きな白いビニール袋をテーブルの上に置き、その袋の口を開けた。
中から出て来たのは、両手で抱えられる程度の大きさの鉢に植わった花である。白い大きな蕾をつけていた。
「これは……」
シュラインたちは、思わず目を見張って小さく声を上げた。
「月下美人ですね。……こんなものを、どうしたんですか?」
全員を代表するように言って尋ねたのは、静流だった。
「昨日、知り合いの花屋で見かけて、買って来たんだ。安くしてくれるって言うし……なんでも夜花が咲いて、それがえらくきれいだって教えられて、たまにはこういうのもいいかと思ってな」
草間は、少しだけ照れたように返す。自分が花など、柄じゃないとでも思っているのだろう。
ちなみに、この花のことはシュラインもまったく聞いておらず、今夜事務所を訪れた時から、実はずっと気になっていたのだった。
「……なかなか、悪くない趣向じゃないですか?」
三月うさぎは楽しげに笑って言うと、改めて全員に椅子を勧めた。
しかし。
「悪いけど、私、帰るわ」
突然言い出したのは、あやこだった。見れば彼女の目は充血して赤くなり、まぶたを中心に目の周辺も赤くはれぼったくなっている。まるで、長時間泣いた後のようだ。
「私、イネ科のアレルギーなのよ。……さっきからずっと我慢してたけど、こんな所にもう一分だっていられないわ」
言うなり、彼女は唖然としているシュラインたちから素早く身を翻し、そのまま四阿を走り出て行ってしまう。
「お、おい……! ちょっと待てよ!」
慌てて声をかけたのは草間だ。帰ると言ったところで、ここは普通の場所ではない。そうすんなり戻れるはずもないのだ。後を追おうとする草間に、三月うさぎが声をかけた。
「大丈夫ですよ。彼女は、自分に必要なものを探しに行っただけですから。心配なら、うちの女たちに後を追わせますから、草間さんはそのままここでお茶を楽しんで下さい。――どうぞ、他の方々も」
彼の言葉に、シュラインたちは思わず顔を見合わせる。庭園に来てからずっと、あやこは静かだったので、誰もまさか彼女がアレルギーで苦しんでいるとは思いもしなかったのだ。しかしながら、どちらにせよここでは全ては三月うさぎに任せるしかしかたのない部分もある。
「お兄さん、管理人さんがああ言うのなら、あやこさんはきっと、大丈夫です」
零が、代表するように草間に言った。
「あ、ああ……」
草間もうなずき、黙って椅子の一つに腰を下ろす。シュラインたちも、あやこのことが気になりながらも、それにならってそれぞれ席に着いた。
見ればテーブルの上からは、いつの間にかシュラインたちの差し入れが持ち去られていて、最初に並んでいた皿と月下美人の鉢があるだけになっている。彼女たちが話している間に、翡翠色の髪と衣服の女たちがかたずけたのだろう。
ほどなく持ち去られたそれらは、それぞれが大皿に美しく盛られて改めて運ばれて来た。同時にティーカップが各人の前に並べられ、薫り高い紅茶が注がれる。その香りにシュラインは、ふと心も体も溶けて行くような錯覚を覚えた。
「遠慮なく、どうぞ」
三月うさぎの言葉に、シュラインはカップを持ち上げ、口をつける。馥郁たる香りと共に、なんともいえない味わいが口中に広がった。
(美味しい……)
思わず胸に呟き、吐息をついた。茶葉は、ダージリンのセカンドフラッシュだろう。だが、今までに飲んだどれよりも美味しいと感じる。
他の者たちも同じなのか、誰もがただ無言で吐息をついている。
やがてシュラインは、最初に気になったユルランを一つ手にした。口に入れるとほっこりとした甘さと香ばしさが広がる。
「モンブランなんかの洋菓子とは、また違った美味しさね」
彼女が言うと、三月うさぎは味付けに蜂蜜とシナモンパウダーを使っているのだと教えてくれた。
青海苔に包まれた緑色のおはぎにも彼女は気を惹かれたが、そちらはセレスティの緑茶が出てからもらうことにして、最中と零が持参したティラミスを取り分けてもらった。
「あら、この最中は、中の餡が柚子なのね」
一口かじって、口中に広がる味と香りにシュラインは思わず声を上げる。
「ええ。先日、和歌山の方に旅行したので、その土産に私が持って来たものです」
答えたのは静流だ。
「ああ、そうなの」
うなずきつつも彼女は、和歌山って柚子が名産品なのかしらと胸の中で首をかしげた。京都や奈良のような観光名所ならともかく、それ以外の関西の名物などについては今一つよくわからない。だが、なかなか悪くはない味だと、残りを口に入れて彼女は胸にうなずくのだった。
【庭園散策】
ひとしきりお茶とお菓子類を堪能したシュラインは、草間を誘って庭園の散策に出た。
四阿のある小高い丘の後ろに広がる、萩園である。そこは、寺社の境内を思わせるような石畳の小道が続き、その周囲に萩が並ぶ、まさに萩の園だった。
ちなみに萩はもともと野生の草花なので、すすきと同じく、基本的にはどこででも見られるものでそれほど珍しくないといえばない。ただ、この庭園のものは一見して野生のように見えて、一定の規律というか法則に則って形作られているようにも見えた。色も一般的なピンクと白だけではなく、淡いもの濃いものなどさまざまで、しかも月の光の下では茎や葉の緑も、花の色もどこかやわらかくしっとりとして見えた。
四阿を出る前に、三月うさぎに許可をもらって来たので、シュラインはそれらを堪能しながら時おり持参したデジカメで写真を撮る。
「萩も、これだけ並ぶと壮観ね」
今も一枚撮ってデジカメを降ろし、彼女は感嘆の呟きを漏らす。そして、草間に相談したいと思っていたことを切り出した。
「あのね、もし武彦さんが妹尾さんと同じぐらい三月うさぎさんと親しかったとして、年月が過ぎて自分は年取ってしまって、そんな姿を彼に見せたくないと思っていたとして……誰かからこの庭園の写真とかをもらったら、迷惑かしら」
「なんだ、そりゃ?」
草間は一瞬、怪訝な顔になる。
「だから、たとえばの話よ」
シュラインは、どう言えばいいのか少しだけ困って返した。
彼女がたとえに託して口にしたのは、静流の祖父のことだ。以前、静流と共にその祖父の誕生パーティーに出席して親しく言葉を交わしたことがある。その時、静流の祖父・大(まさる)は、自分がかつて三月うさぎを知っていたことを彼女に告げたのだ。対してシュラインは、今度三月うさぎから招待状が届いたら彼にも知らせようかと申し出たが、彼は年老いた自分の姿を三月うさぎに見られたくないからと、それを断ったのだった。
今回シュラインは、三月うさぎを含む出席者の記念写真を撮って帰るつもりでいた。以前ここに来た時、他の参加者が撮ったものをもらい、この不思議な場所が写真に収められるのだと知って、記念写真をと思いついたのだ。零も楽しみにしているし、きっと他の参加者にも否やはないだろう。そう考えた時、彼女の胸に浮かんだのが、大のことだった。さすがに三月うさぎの写真は辛いかもしれないが、庭園の様子を写したものならば、懐かしく感じるかもしれない。……とは思ったものの、渡していいものかどうか、迷っているのも本当だった。
そこで、誰のこととは言わずに草間に相談してみようと思いついたのである。
草間はシュラインの顔を見やって、真剣な話だと察したらしい。考え込んだ。
「そうだなあ……。年取った俺の写真を三月うさぎに見せるっていうならともかく、庭園の写真なら逆に懐かしく感じるんじゃないかな。三月うさぎ本人の写真ってのは、ちょっと辛いかもしれないけどな」
「そうよね。ここの写真だけなら、懐かしいと思ってくれるわよね」
草間の言葉に、シュラインはうなずく。そして、やはり庭園の写真だけでも送ろうと決める。
そんな彼女に、草間は「いったい誰のことなんだ?」と問いたげな目を向けた。だがシュラインは、その目に気づかないふりをする。相談に乗ってもらっておいてなんだが、あの時の大の言葉はあまり他の者には言いたくない。あれは、触れてはいけないことだったのだとシュラインは思っている。だから、たとえ草間にであっても、内容を語りたくはなかった。
対して草間も、あえて口に出して問おうとはしなかった。彼女が口を閉ざしている以上、話せない何かがあるのだろうと察してくれたのだろう。
シュラインは、そんな草間が好きだと、ふいに思う。
ともあれ、気持ちも晴れてシュラインは、時おり写真を撮りながら、草間とたわいのない会話を繰り広げつつ萩園の散策を続けた。
【月下美人】
やがて散策を終えてシュラインが草間と共に四阿に戻ると、帰ると言ってそこを出て行ったはずのあやこが戻って来ていた。機嫌よく何事かを三月うさぎと話しながら、他でもないシュラインの持って来た出汁寒天を口にしている。
「あやこさん、戻って来たの?」
シュラインが思わず声をかけると、ふり返った彼女は少しだけバツの悪そうな顔で笑った。
「ええ。……途中で道に迷っちゃって。でも、おかげでアレルギーの症状も少しは楽になったから、戻って来たのよ。ごめんなさい。嫌な思いをさせて」
言って謝った後、続ける。
「ところでこれ、あなたが作ったものですって? とっても美味しいわ」
「ありがとう。……よかったわ。戻って来て。だって、せっかく一緒に来たのに、辛い思いだけして帰るなんて、もったいないもの」
シュラインは笑って言うと、自分の席に腰を下ろした。散策したせいか、喉も渇いているが、わずかに空腹も覚えている。
そこへ、散策に出ていたらしい他の者たちも戻って来た。
それを見計らってか、翡翠色の髪の女たちが新しいお茶を運んで来た。セレスティが持参した緑茶だ。一緒に炭酸水も運ばれて来たのは、シュラインの持って来た生姜の蜂蜜漬けのシロップを割るためだろう。こちらは、リクエストに応じて女たちが取り分ける趣向だろうか。
シュラインは配られた緑茶をありがたくいただき、さっきは口にしなかった青海苔のおはぎを小皿に取る。それを食べようとしてふと気づいた。テーブルの上の月下美人が開きかけている。
「見て。月下美人が開きかけてるわ」
彼女が声を上げると、思い思いにお茶を飲んだり菓子を取ったり隣の者と話したりしていた他の者たちが、いっせいにそちらをふり返る。
「夜に開くって言うのは、本当だったんだな……」
低く呟いたのは草間だ。
「たしか、咲いたらすぐにしぼんでしまうんですよね?」
汐耶が思い出したように言う。
「正確には、夜に咲いて一夜限りで朝にしぼんでしまう――だったと思います。それと、花が咲くのは新月だと聞いた覚えがありますけれど」
それへうなずいて言ったのはセレスティだ。
「花屋で売ってたものだからな。たぶん、野生のものと違って、手入れがいいと月齢に関係なく咲くんじゃないか?」
草間が小さく肩をすくめて返す。それへ意外なことを言い出したのは、静流だった。
「それは俗説で、実際には関係なかったと思います。もっとも、現在の月齢は五.六ですから、まだ充分細いですけれども」
「え……でも……」
言われて思わずというように上空をふり仰いだのは、汐耶だ。シュラインもその視線を追った。四阿から臨める月は、盆のように丸い。来た時にも思ったとおり、彼女たちの住む世界の月とは別物のようだ。
「ここは、みなさんの住む世界とは違う法則でできていますからね」
薄い笑いを口元に浮かべて、三月うさぎがまさにシュラインが思ったようなことを口にする。そして続けた。
「きっとその花は、今夜ここで咲きたかったのですよ。……ほら、もうすぐ完全に開きますよ」
言われて全員が視線を花に戻す。たしかにそれは、もうほとんど開いてしまっていた。同時にあたりに強い芳香が漂う。それはなんともいえないほど甘い、魅惑的な香りだった。
その香りにシュラインは、散策に行く前、草間が花屋から聞いた月下美人に関する薀蓄を話していたのを思い出す。月下美人は、コウモリに蜜を吸わせることで受粉するのだという。また、その花言葉は「はかない美、はかない恋、繊細、快楽、艶やかな美人」だそうだが、夜の闇に白く浮かび上がるその姿といい、この香りといい、そのような言葉を想起させずにはおかない、どこか艶めいた淫靡さがあるとシュラインは感じる。もっともそれは、人間側の勝手な思いであって、花そのものにはなんの作為もないことなのかもしれないが。
ともあれ、その美しさと芳香に、しばらくは誰もが声もなくそれを見つめた。
ようやく低く吐息をついて口を開いたのは、セレスティだ。
「しばし我を忘れていました。……すばらしいです」
「本当に、まさかこんな素敵な差し入れを持って来ていただけるとは、思っていませんでしたよ」
続いて言ったのは、三月うさぎだった。
「草間さん、ありがとうございます」
「いや……」
草間はストレートに礼を言われて、照れたように頭を掻く。
シュラインはそれをほほえましい気持ちで見やっていたが、ふと思いついて口を開いた。
「三月うさぎさん、この花と一緒に、記念写真を撮ってはだめかしら。その……ここもとても素敵だったし、せっかくだからカメラに収めておきたいと思うんだけど」
「かまいませんよ」
三月うさぎは言って、小さく口元をゆがめて彼女を見やる。
「私も、ちゃんと写真に写りますから」
言われて彼女は、まるで心を見透かされたようだと少しだけドキリとする。記念写真をと考えた時から、三月うさぎは写らないかもしれないと思ったりしていたのだ。
「え、ええ」
とりあえずそこのところは笑ってごまかし、彼女は持って来たデジカメを取り出す。と、三月うさぎが命じたので、翡翠色の髪の女が一人歩み寄って来て、カメラをよこすように身振りで促した。カメラにはタイマーもついてはいるが、撮ってくれるというなら、その方がいい。
シュラインはカメラを女に渡すと、席を立った。他の者たちも立ち上がる。
三月うさぎを真ん中に、静流と車椅子のセレスティは席に着いたままで並び、セレスティの隣に零が立つ。シュラインは、草間や汐耶、あやこらと共にその後ろに並んだ。もちろん、三月うさぎの前には月下美人の鉢がある。
全員が並び終わると、翡翠色の髪の女がシャッターを切った。
カメラを受け取りシュラインは、一応ちゃんと撮れているかをたしかめた後、草間たちがそれぞれ自分の席に戻ったところを、もう一枚撮る。更に月下美人だけを一枚収めて、ようやくカメラをしまった。
席に戻ると、零が笑顔をこちらに向けて来る。
「記念写真、ちゃんと撮れてましたか?」
「ええ、大丈夫そうよ。戻ったらプリントアウトして、零ちゃんにもあげるわね」
うなずいて言うと、零はうれしそうに笑った。
「はい。楽しみにしています」
それを見やってシュライン自身は、ホッと溜息をつく。そしてようやく、小皿に取ったおはぎを口にした。
(美味しい)
青海苔の香ばしい風味が口一杯に広がって、彼女はもう一度満足の吐息をついたのだった。
【エンディング】
シュラインたちが時空庭園での月見をたっぷり堪能して草間興信所へ戻った時、すでに深夜を回っていた。相変わらず、あちらでは時間の流れがないようだ。
いや、こちらから持ち込んだ花が開くということは、時間の流れそのものはあるのかもしれないが、あきらかにこちらとは違っているということだろう。なんにせよ、戻った時には少しだけ「浦島太郎」の気分を味わうことになる。
その日は遅い時間だったこともあって、シュラインと汐耶はセレスティを迎えに来た車でそれぞれ自宅まで送ってもらった。セレスティはあやこにもどうかと声をかけたが、こちらもセレブな女経営者だけはあり、彼同様に迎えの車を呼びつけていたので、その必要はないと断り自分の車で帰って行った。
数日後。シュラインは、庭園で撮った写真をプリントアウトして、草間や零はもちろん、セレスティたち三人と静流にも配った。
そうして残った一組を彼女は、静流の祖父・大に送るため封筒に入れた。もちろん、三月うさぎと共に撮った記念写真は含めなかったが、萩や月下美人、四阿を少し離れて撮ったものなどは入れた。住所はちょっと調べればわかったし、相手もそれは承知しているだろうが、失礼にならないよう、中に短い手紙を同封するのも忘れない。
その封書をポストに投函しようとして、ふとシュラインは手を止めた。
(私のしようとしていることは、本当に余計なことじゃないのかしら。……おじいさんの辛い気持ちを逆なでするだけじゃないのかしら)
それは、この数日の間にも何度か考えたことだった。けれども結局、彼女は封書を投函する。
大の言葉は、三月うさぎや庭園に心を残していればこそだろう。草間が答えてくれたとおり、きっと懐かしい思いで写真を見てくれると信じたい。
(時空庭園での月見のおすそわけ――そう思って、受け取ってもらえたらいいわね)
シュラインは胸に呟くと、踵を返して歩き出す。暮れ始めた空には本物の月が、まだ細いその姿を薄く晒して、そんな彼女の背を見送っていた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/ シュライン・エマ/ 女性/ 26歳/ 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1883/ セレスティ・カーニンガム/ 男性/ 725歳/ 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1449/ 綾和泉汐耶(あやいずみ・せきや)/ 女性/ 23歳/ 都立図書館司書】
【7061/ 藤田あやこ(ふじた・あやこ)/ 女性/ 24歳/ 女子高生セレブ】
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■ ライター通信 ■
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●シュライン・エマ様
ライターの織人文です。いつも参加いただき、ありがとうございます。
さて、久しぶりの時空図書館でのお茶会はこんな感じになりましたが、
いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いいたします。
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