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時空図書館〜月見の会〜
【オープニング】
「あら、お兄さん。留守の間に、誰か来たみたいですよ？」
鍵を開けて事務所の電気をつけた途端に、零が軽く目をしばたたいて、応接セットのテーブルの上を指差した。そこには、一本のススキと共に、四角い飾り気のない封筒が一枚、置かれている。
本日の草間は、零の買い物につきあって二人で出かけていたのだった。もちろん、玄関も窓もしっかり施錠していた。さして盗られるものもないように思える草間の事務所だが、パソコン内と棚のファイルに収められた事件の記録や顧客データなどは、貴重なものだ。
草間は眉をひそめて室内を見回す。だが、他人が出入りした気配はなく、異変はテーブルの上のススキと封筒だけである。
「人ならざるものからの仕事の依頼か、はたまたどこかへの招待状と言ったところかな」
小さく肩をすくめて呟き、草間はそちらへ歩み寄った。封筒を取り上げ、口を開ける。封はされておらず、中にはカードが一枚入っているきりだ。それを出して広げてみると。
『ご無沙汰しています。月の美しい季節柄、月見を兼ねて明後日の夜八時より、お茶会を開きたいと思います。よろしければ、ご友人ともども、ご出席下さい。もちろん、菓子や飲み物などの差し入れも歓迎いたします』
流麗な文字の最後にある署名は「三月うさぎ」。このしばらく音沙汰なかった、時空図書館の管理人からのものである。
ふり返ってそれを伝えると、零はたちまち破顔した。
「管理人さんからの、招待状だったんですね。もちろん、出席しますよね？ 他の方たちも誘って」
「そうだな。久しぶりだしな」
草間は零のはしゃぎぶりに苦笑しながら、うなずく。そして、誰と誰に声をかけようかと頭の中でアドレス帳をめくるのだった。
【月下の庭園】
エレベーターが止まる時のような一瞬の浮遊感の後、目の前に広がった光景に、藤田あやこは思わず息を飲んだ。
あたりは一面、銀色の海である。いや、そう思ったのは目の錯覚で、実際にはそこは、皓々と降り注ぐ月光に照らされたすすきの原だった。
（ここが……時空図書館の庭園……？）
彼女は目をしばたたきながら、ようやく胸に呟く。
草間からここのことを教えられ、お茶会に一緒に行かないかと誘われたのは、昨日のことだ。
たまたま興信所へ立ち寄ったら、中に入った途端に目のあたりが痒くなった。てっきり、アイメイクがかぶれたのかと思ったら、草間のデスクの上にすすきが一本、コップにさして飾ってあって、それが原因と知れた。イネ科アレルギーだ。
だが草間はそれを本気にしていない様子で、彼女にお茶会の招待状を見せて一緒に行かないかと告げた。他にも参加者がいて、交友範囲を広げるチャンスだからと。小学生じゃあるまいし、他人にお膳立てしてもらってまで、友人を作る必要もないと思ってはみたが、その庭園とやらに興味があって、結局参加することにした。
招待主の名前が「三月うさぎ」だと聞いて、とりあえずバニーガールの格好をして差し入れは月見バーガーと洒落てみたが――当日、興信所で会った他の参加者からは激しく浮いていて、どうやらまた失敗したようだと彼女は内心に肩をすくめたものだ。
ちなみに、その同行者たちというのは。
草間と零の他は、シュライン・エマ、セレスティ・カーニンガム、綾和泉汐耶の三人だった。
シュラインは、長い黒髪と青い目の長身の女性だ。あやこより二つ年上の二十六歳だという。本業は翻訳家だが、普段は草間興信所の事務員をしている。ワインレッドのパンツスーツを身にまとい、胸元にはメガネを下げ、肩からはトートバッグを提げていた。
またセレスティは、長い銀髪と青い目の美貌の青年である。一見すると二十代半ばにしか見えないが、実際には七百年以上生きている。アイルランドに本拠地を持つリンスター財閥の総帥で、その本性は人魚なのだ。ただそのせいで視力と足が弱く、今も彼は車椅子に乗っていた。
一方、汐耶は短い黒髪と青い目、銀縁眼鏡のスレンダーな体型の女性で、あやこより一つ年下の二十三歳だった。都立図書館の司書で、本の虫といってもいい読書好きである。そのスレンダーな体型によく似合う、濃紺のパンツスーツに身を包み、肩からはシュラインと同じく大きめのトートバックを下げていた。
「……ここ、本当に時空図書館の中……よね？」
小さくかぶりをふって、最初に口を開いたのは、汐耶だ。
「ああ。そのはずだが……」
どこか呆然と呟くように、それへ草間が答える。
その時、銀色のすすきの海の中に、ゆったりした中国風の白い衣服に身を包んだ青年が現れた。肩のあたりまでの薄紅色の髪と、薄紅色の目、途中から小さな羽根に変じた耳を持つ二十代半ばぐらいに見える青年だ。
「ようこそ、みなさん。今宵は時空図書館の庭園へ」
青年は、ゆっくりとあやこたちの前に歩み寄って来ると、全員に微笑みかけて言った。
「三月うさぎ……。てことは、やっぱりここは、時空庭園の一端だってことなんだな？」
草間がその青年を見やって、半信半疑の体で尋ねる。
どうやらこの青年が、あやこたちを招待した三月うさぎらしい。しかし。
（何よ。全然うさぎじゃないじゃない）
あやこは軽く眉をひそめて胸に呟く。その名前から、彼女はてっきり人語を話すうさぎだとか、頭がうさぎで首から下は人間だとかいうようなものを想像していたのだ。
そんな彼女の思いなど知るはずもなく、三月うさぎは草間の問いに穏やかに答える。
「もちろんですよ、草間さん。招待状にも書いたとおり、今夜は月見ですからね。それにふさわしい場所を用意したまでですよ」
そして彼は半身をひるがえすと、自分の後方を示した。
「あちらの四阿（あずまや）で、お茶の用意をしていますので、どうぞいらして下さい」
見れば、彼の指し示す方向には小高い丘があって、そこに白い四阿が建っている。そして、彼女たちがいる場所からそこまでは、すすきの間を縫うようにして道が続いていた。
あやこたちは、三月うさぎに案内されるままにその道を歩き出す。見上げれば、空には銀色に輝く巨大な満月があった。ただし、あやこがそれを眺めていられたのは、ほんのしばらくの間のことだ。ここに来てからなんとなくむず痒かった目が、猛烈に痒くなり始めていたのだ。
（うう……。痒い！ この周り中のすすきのせいだわ！ なんでこんなにすすきだらけなのよ……！）
内心に悪態をつきながら、彼女は必死に目をこする。せっかく入念に化粧して来たのに、それもこんなにこすってしまっては台無しだ。
（こんなことなら、来るんじゃなかった……）
まだ肝心のお茶会が始まらないうちに、彼女は激しく後悔しながら、それでもしかたなく歩を進める。
他の者たちは、月や周囲の風景を楽しんでいるのか、あまり言葉を交わすこともなくただ歩き続けていた。
【四阿にて】
丘の上の四阿は白い大理石で造られており、どこか巨大な鳥籠のようにも見えた。
あやこたちがたどり着いてみると、そこには先客がいた。短い黒髪と黒い目をした長身の青年である。草間と零だけではなく、シュラインやセレスティ、汐耶も顔見知りなのか、それぞれ笑顔で挨拶を交わしている。青年は、妹尾静流というらしい。
草間が何か言いたげにあやこをふり返った。もしかしたら紹介してくれるつもりだったのかもしれないが、彼女はわざと近づいて行こうとしなかった。それでなくともバニーガールなどと浮いた格好をしているのに、その上アレルギーのせいで赤くなった目を見られて、初対面の男性に悪印象を持たれたくなかったのだ。
かわりに彼女は、四阿の真ん中に据えられた白い丸テーブルを見やった。
その上には、すでにいくつかの菓子類が並べられている。白磁の大皿に、彩りよく盛り付けられているのは、三色おはぎだった。一般的な粒餡のものと黄粉のものの他に、青海苔をまぶしたものがある。その隣には一口大の長方形をした最中が盛られた皿があり、更にその隣にはスィートポテトらしきものの乗ったアイスクリームを盛り付けたガラスの器を並べた皿がある。それから、小さな栗を模した菓子を盛った皿もあった。
「これはお菓子ですか？」
挨拶を終えて、同じようにテーブルの上を眺めていたらしい零が、声を上げた。
「それはユルランという、韓国のお菓子ですよ。ゆでた栗の実を裏ごしして味付けし、栗の形にまとめたものです。まぶしてあるのは松の実ですよ」
三月うさぎの説明に、零が目を見張っている。と、傍でシュラインが苦笑して言った。
「やっぱり誰しも今の季節、栗のお菓子や料理を思い浮かべるのね」
そして彼女は、トートバックからいくつかのタッパーを取り出す。
「これ、今夜の差し入れよ。栗の渋皮煮と生姜の蜂蜜漬け、それと出汁寒天なんだけど。生姜の蜂蜜漬けは、シロップを炭酸や水で割って飲んでも美味しいかと思って」
「そうですね。それじゃあ、後で炭酸水を用意させましょう」
うなずいて、三月うさぎが礼を言う。
「あ……。私も差し入れを持って来ました」
「私も」
セレスティと汐耶も口々に言って、テーブルの上に自分の持って来たものを出す。零も同じようにしたので、あやこもしかたなく手にしていたハンバーガーの袋をテーブルの上に置いた。
ちなみに、セレスティは栗羊羹と緑茶の葉を、汐耶は紅茶に入れるためのブランデーと、クラッカーやチーズ、ハム、サーモン、サワークリームに果物と、カナッペの材料一式、そして零は月見団子と、栗とヨーグルトのティラミスだった。
テーブルの上に並んだそれらを見やり、あやこは内心に溜息をつく。それらはどれも、彼女にとってはさして目新しいものではない。買うにしろ手作りするにしろ、簡単でもある。それなのに、そういうものにまったく思い至らなかった自分が恨めしい。
（まったく。私って、どうしてこう空気が読めないんだろう……）
痒みから来る苛立ちもあって、どっぷりと自己嫌悪に陥る。
そんな中、草間が手にしていた大きな白いビニール袋をテーブルの上に置き、その口を開けた。
中から出て来たのは、両手で抱えられる程度の大きさの鉢に植わった花である。白い大きな蕾をつけていた。
「これは……」
一同が、思わず目を見張って小さく声を上げるのを、あやこは黙って見やる。
「月下美人ですね。……こんなものを、どうしたんですか？」
全員を代表するように言って尋ねたのは、静流だった。
「昨日、知り合いの花屋で見かけて、買って来たんだ。安くしてくれるって言うし……なんでも夜花が咲いて、それがえらくきれいだって教えられて、たまにはこういうのもいいかと思ってな」
草間は、少しだけ照れたように返す。自分が花など、柄じゃないとでも思っているのだろう。
ちなみに、あやこはこの花のことを知っていた。彼女が昨日事務所を訪ねた時、ちょうど草間はこれを買って戻ったところだったのだ。その時にも彼は照れくさいらしく、誰にも花のことは内緒にしておいてくれと、彼女は口止めされたものだ。もっともその後、花屋に教えてもらったという薀蓄をひとしきり聞かされたけれど。
（花言葉がどうだとか、コウモリの餌だとかなんとか言ってたわね。あれを、ここでも披露するつもりかしら）
胸に呟き、苦笑する。
「……なかなか、悪くない趣向じゃないですか？」
花が気に入ったのか、三月うさぎが楽しげに言って笑った。そして、改めて全員に椅子を勧める。
しかし。このころにはあやこの目の痒みは、我慢できないものになっていた。
「悪いけど、私、帰るわ」
ああ、またドン引きされる――と思いながらも、彼女は声を上げた。その場の全員が驚いたように彼女を見やる。その視線に晒されて彼女は、きっと目は充血して赤くなって、まぶたもその周辺も赤くはれぼったくなって、自分はひどい顔をしているに違いないとげんなりしながら、続ける。
「私、イネ科のアレルギーなのよ。……さっきからずっと我慢してたけど、こんな所にもう一分だっていられないわ」
そのまま身を翻すと、彼女は四阿を走り出た。
「お、おい……！ ちょっと待てよ！」
背後で草間の慌てたような声が聞こえたが、ふり返らなかった。言ったとおり、とにかく少しでもこのすすきだらけの場所から遠ざかりたかったのだ。
だが、彼女は理解していなかった。ここがどういう場所なのかを。
【バラの園】
走っても走っても、出口は見つからなかった。丘を登って来たのだから、下りればいいと単純に考えていたのに、どこでどう道を間違えたのか。それでも、息が切れてあやこが足を止めるころには、周囲の風景は変わり始めていた。空に満月が出ていることは変わらないが、すすきの原が途切れ始めたのだ。
やがて息を整えつつとぼとぼ歩いていると、すすきは完全になくなり、彼女は石畳の広い道に出た。それを更に歩くと、つるバラのアーチのある場所に出た。アーチをくぐって歩くうちに、そこがどうやらバラ園らしいことに気づく。
月光の下で咲くバラは、白や黄色、淡いクリーム色にベージュに近いピンクと、優しい色合いのものが多かった。空気の中にもバラの香りが充満し、あやこは小さく溜息をつく。
イネ科だけではなく、こうした植物のアレルギー、いわゆる花粉症には青汁やヨーグルトなどの他に、バラが良いといわれていた。といっても、日本ではバラを使った食料品は一般的ではないので、常用するならばそれを原料としたサプリメントなどを服用するしかないだろうが。
あやこも、普段はそうしたサプリメントと青汁で予防をしている。が、まさかあんなすすきだらけの場所に出るとは思ってもいなかったので、今夜は何も持って来ていなかった。それだけに、バラ園に足を踏み入れて、彼女は急速におちつきを取り戻していた。実際、目のかゆみもかなり引いた気がする。
ちなみに、バラには秋に咲く種類もあるので、彼女は一面のバラを見ても少しも奇異には感じなかった。
少し歩くと、小さな噴水の傍に、四阿が現れた。草間たちと一緒にいたのとは違い、四本の円柱の上に四角い屋根が乗ったもので、その下に背もたれのない木のベンチが置かれてあるだけの、簡素なものだ。
その傍では、翡翠色の髪と衣服の女たちが何人か、それぞれが手にした小さな籠の中身を、石畳の上に置いた大きな籠に移しているところだった。
「こんにちわ。何をしているんですか？」
バニーガールの格好が不審がられるだろうかとも思ったが、女たちが何をしているのかにも興味があったので、あやこはそう声をかけた。女たちは顔を上げ、軽く籠を傾けて中身を彼女に見せる。籠の中身は、色とりどりの花びらだった。おそらく、バラだろう。
「すごい量ね。……このバラ園で集めたものですか？」
あやこは更に興味を惹かれて目を丸くしながら、尋ねる。女たちがうなずいた。
「でも……なんに使うんですか？」
みたび尋ねるあやこに、女たちは顔を見合わせる。やがて中の一人が、腰につけたベルトに下げた袋をはずし、中身を開けて見せてくれた。
「乾燥したバラの花びら……？」
それを見やって、あやこは呟き、目をしばたたく。いい香りがするところを見ると、それはポプリのようだ。それではこの女たちは、ポプリの材料を集めていたのだろうか。
彼女が首をかしげると、女たちはまた顔を見合わせた。ややあって、中の何人かがあやこにここで待っているようにと身振りで示すと、どこかに立ち去って行った。どうやら女たちは、口が利けないらしい。
さほど待つことなく女たちは戻って来たが、彼女たちが手にしていたのは、四角い小さな缶に納められた茶葉に瓶入りのジャム、ポットと茶器といったものだった。
女たちは、身振りであやこに四阿のベンチに座るよう示すと、その場でお茶を入れてくれた。立ち上る香りに、あやこは初めてそれが、バラのお茶だと気づく。
「ありがとう、いただきます」
礼を言って、カップに口をつけた。ほんのり甘く、やわらかな香りのするそれは、乾いた喉を潤してくれると共に、彼女のささくれ立った心をも癒してくれた。
（考えてみれば私、けっこう喉が乾いてたのね。……ずっと、走ってたし）
改めて小さく吐息をついて、彼女は胸に呟く。
カップの中身を飲み干すころには、気分まですっきりしていた。
「ありがとう。美味しかったわ」
彼女はカップをベンチに置いて、女たちに改めて礼を言う。
それへ、女たちの一人が噴水を指し示す。
「何？」
尋ねる彼女に、女は顔を洗う仕草をした。それで初めて彼女は、自分がきっとひどい顔をしているのだろうと気づく。痒みは引いたとはいえ、目の周りをかなり掻いたから、きっとはれぼったくなっているに違いない。
彼女は立ち上がると、慌てて噴水に駆け寄った。愛らしい子供の天使の掲げた壺から吹き出す水は、丸い水盤に受け止められ、月光をはじいて輝いている。あやこは、その水盤に自分の顔を映してみた。思ったとおり、目の周りが泣いた後のように赤くはれぼったくなっている。化粧も直した方がいいかもしれない。
彼女は、ともかく顔を洗おうと、水盤の水を手ですくった。そして改めて気づく。この水からもバラの香りがするのだ。
（この水って、バラの花のエキスだったりして？）
もしそうなら、なおさらイネ科アレルギーの身にはありがたい。目を中心にその周囲を入念に洗ってさっぱりすると、肩から斜めにかけた小さなポシェットから道具を取り出し、化粧を直した。
それを終えると、彼女は改めて女たちの方をふり返った。
「いろいろ、ありがとう。……あの、ここの管理人の三月うさぎさんがいる四阿に戻る道を知らないかしら。よかったら、教えてほしいんだけど」
礼を言ってから、尋ねる。
草間の事務所に戻る方法を尋ねてもよかったのだが、痒みが引いてみると、自分が草間たちにずいぶんと無作法なことをしてしまったのだと思えて来たのだ。それに、実はお腹も空いている。あの時テーブルに並べられていたお菓子類のことを思い出すと、あれを食べずに戻るのは、もったいない気もした。
彼女の言葉に、女たちの一人が、彼女が来たのとは反対の、四阿の向こうを指差す。別の一人が、彼女に手にしていたジャムの瓶を差し出した。
「え？ くれるの？」
思わず尋ねると、女はうなずいた。あやこは少しだけためらったものの、バラのジャムを食べてみたいのも本当だったし、これがあればあのすすきの原の中の四阿に戻っても、痒みを抑えることができるかもしれないとも思い、結局受け取った。そして、女たちにもう一度礼を言うと、教えられた方へと歩き出した。
【月下美人】
教えられたとおりに歩いて行くと、やがてほどなくバラ園は終わりを告げ、わずかに紅葉した木々の並ぶ坂道に出た。それを登ると、気づけば最初に案内された鳥籠のような四阿へとたどり着いていた。
「おかえりなさい、藤田あやこさん。必要なものは、手に入りましたか？」
三月うさぎが、彼女の姿に微笑みながら尋ねて来る。
「ええ、まあね」
その言い方に少しムッとしてそっけなく返したものの、すぐに彼女は勝手に飛び出したのは自分の方なのだと思い直した。
「その……ごめんなさい。勝手に飛び出して」
「かまいませんよ。それより、紅茶はいかがですか？」
「ええ。いただくわ」
笑顔でかぶりをふって尋ねる三月うさぎに答え、彼女は改めて四阿の中を見回した。テーブルの上には、彼女たちの差し入れも並べられていたが、草間たちの姿はない。
「武彦たちは？」
「それぞれ散策に行きました。でも、もうそろそろ戻って来ると思いますよ」
言って、三月うさぎは彼女に椅子の一つを勧める。あやこは、それに腰を下ろした。
そこへ、翡翠色の髪の女が、ティーカップを運んで来て紅茶を注いでくれた。彼女はそれを一口飲んで、軽く目を見張る。それはびっくりするほど美味だった。
（美味しい。……こんな紅茶、初めて飲んだわ）
胸に驚嘆の呟きを落としつつ、彼女はもう一口それを飲んで溜息をついた。それから、思い出してもらったバラのジャムを少しそれに落とす。三月うさぎが、好きなものを取り分けてもらうといいと言ってくれたので、彼女はとりあえず腹にたまりそうな、おはぎと栗の渋皮煮、出汁寒天とカナッペをいくつか小皿に取ってもらう。紅茶とはイマイチ合いそうにないが、とにかく空腹なのだ。他の菓子類や、自分の持って来たハンバーガーも食べたかったが、腹にたまりそうにない菓子類は後回しだった。それに、さすがにこれだけ美味しい紅茶でハンバーガーを食べる気にはならない。
おはぎも栗の渋皮煮もカナッペもどれも美味しかったが、彼女が特に気に入ったのは出汁寒天だった。中に溶き卵や色つきの素麺などが入っていて、見た目も美しい上に味もなかなかなのだ。それに、ラップで小さな巾着状にしてあるため、食べやすくもある。
「これ美味しい。いくつでも食べられそうだわ」
「それはたしか、シュラインさんが作って持って来たものですよ」
彼女の言葉に、三月うさぎが答えた。
そこに、当のシュラインが草間と共に散策を終えて戻って来た。
「あやこさん、戻って来たの？」
シュラインに声をかけられ、あやこはふり返ると少しだけバツの悪い顔で笑う。
「ええ。……途中で道に迷っちゃって。でも、おかげでアレルギーの症状も少しは楽になったから、戻って来たのよ。ごめんなさい。嫌な思いをさせて」
言って謝った後、続ける。
「ところでこれ、あなたが作ったものですって？ とっても美味しいわ」
「ありがとう。……よかったわ。戻って来て。だって、せっかく一緒に来たのに、辛い思いだけして帰るなんて、もったいないもの」
笑って言うとシュラインは、空いた椅子の一つに腰を下ろした。
そこへ、残りのセレスティ、汐耶、零、静流の三人も戻って来る。セレスティからも声をかけられたので、あやこは同じように戻って来た理由を告げて、謝った。
全員が戻ったのを見計らってか、翡翠色の髪の女たちが新しいお茶を運んで来た。セレスティが持参した緑茶だ。一緒に炭酸水も運ばれて来たのは、シュラインの持って来た生姜の蜂蜜漬けのシロップを割るためだろう。こちらは、リクエストに応じて女たちが取り分ける趣向だろうか。
あやこは緑茶を断り、蜂蜜漬けのシロップを炭酸水で割ってもらった。少し考え、自分の持って来たハンバーガーを取る。実はまだ少し空腹だったのだ。彼女がそれを食べようとした時だ。シュラインが声を上げた。
「見て。月下美人が開きかけてるわ」
あやこは思わず手を止め、そちらをふり返る。思い思いにお茶を飲んだり菓子を取ったり隣の者と話したりしていた他の者たちも、いっせいにそちらを見やった。
「夜に開くって言うのは、本当だったんだな……」
低く呟いたのは草間だ。
「たしか、咲いたらすぐにしぼんでしまうんですよね？」
汐耶が思い出したように言う。
「正確には、夜に咲いて一夜限りで朝にしぼんでしまう――だったと思います。それと、花が咲くのは新月だと聞いた覚えがありますけれど」
うなずいて告げたのは、セレスティだ。
「花屋で売ってたものだからな。たぶん、野生のものと違って、手入れがいいと月齢に関係なく咲くんじゃないか？」
草間が小さく肩をすくめて返す。それへ意外なことを言い出したのは、静流だった。
「それは俗説で、実際には関係なかったと思います。もっとも、現在の月齢は五．六ですから、まだ充分細いですけれども」
「え……でも……」
言われて思わずというように上空をふり仰いだのは、汐耶だ。つられてあやこも、そちらを見やる。四阿から臨める月は、盆のように丸い。だが思い返してみれば、草間興信所に向かう途中に見た月は、まだずいぶんと細かったような気もする。
「ここは、みなさんの住む世界とは違う法則でできていますからね」
薄い笑いを口元に浮かべて、三月うさぎが言った。
「きっとその花は、今夜ここで咲きたかったのですよ。……ほら、もうすぐ完全に開きますよ」
言われて全員が視線を花に戻す。たしかにそれは、もうほとんど開いてしまっていた。同時にあたりに強い芳香が漂う。それはなんともいえないほど甘い、魅惑的な香りだった。
その香りにあやこは、興信所で草間が、花屋から聞いた月下美人に関する薀蓄を話していたのをまた思い出す。月下美人は、コウモリに蜜を吸わせることで受粉するのだという。また、その花言葉は「はかない美、はかない恋、繊細、快楽、艶やかな美人」だそうだ。たしかに濃厚な香りには、艶めいたものを想像させる力があり、夜闇に白く浮かぶ姿も美しい。しかしそれは人間の勝手な妄想でしかなく、花自身はただ子孫を残して行くためにコウモリたちを引きつける努力をしているにすぎないのだろう。あやこは、そんなふうに思った。
しかしながら、他の者たちは花の美しさに酔い痴れているのか、誰も声を立てる者はいない。さすがのあやこも、これ以上無粋な真似はしたくなかったので、同じように黙っていた。
ややあって沈黙を破ったのは、セレスティだ。
「しばし我を忘れていました。……すばらしいです」
吐息と共に言った。
「本当に、まさかこんな素敵な差し入れを持って来ていただけるとは、思っていませんでしたよ」
続いて言ったのは、三月うさぎだった。
「草間さん、ありがとうございます」
「いや……」
草間はストレートに礼を言われて、照れたように頭を掻く。
その時シュラインが、思いついたように言った。
「三月うさぎさん、この花と一緒に、記念写真を撮ってはだめかしら。その……ここもとても素敵だったし、せっかくだからカメラに収めておきたいと思うんだけど」
「かまいませんよ」
三月うさぎはうなずいて、小さく口元をゆがめて意味ありげに彼女を見やる。
「私も、ちゃんと写真に写りますから」
「え、ええ」
対してシュラインは、幾分引きつった顔で笑ってうなずいている。
なんとなく意味ありげなやりとりだったが、あやこにはどんな意味があるのか理解できず、小さく首をかしげた。それからふと、自分がこのバニーガールの姿で写真に収まるのだと気づいて、顔をしかめた。とはいえ、着替えなど持ち合わせていないのだから、しかたがない。
シュラインが取り出したデジカメを、三月うさぎに命じられた翡翠色の髪の女の一人が受け取った。それを見やって、皆が立ち上がる。あやこもしかたなく席を立った。
やがて三月うさぎを真ん中に、車椅子のセレスティと静流の三人が座したまま並び、セレスティの隣に零が立った。あやこはその後ろに、草間やシュライン、汐耶と共に立ったまま並ぶ。もちろん、三月うさぎの前には月下美人の鉢がある。
全員が並び終わると、翡翠色の髪の女がシャッターを切った。
その後、カメラを受け取ったシュラインが、それぞれの席に戻ったあやこたちをもう一枚撮る。最後に月下美人だけを一枚収めて、彼女はようやくカメラをしまった。
「記念写真、ちゃんと撮れてましたか？」
席に戻った彼女に、零が尋ねているのが聞こえる。
「ええ、大丈夫そうよ。戻ったらプリントアウトして、零ちゃんにもあげるわね」
「はい。楽しみにしています」
シュラインと零のそんなやり取りを聞きながら、あやこは少しやるせない気分になった。バニーガールの格好をした自分の姿が、この先も残されるのかと思うと、憂鬱になったのだ。彼女はまるでそれを吹き飛ばそうとするかのように、ハンバーガーにかじりつく。生姜の蜂蜜漬けのシロップの炭酸割りを口に含むと、わずかに喉が焼けたが、彼女はかまわず飲み下す。後にはただ、ほのかな生姜の香りと炭酸のさわやかさが残った。
【エンディング】
あやこたちが時空庭園での月見をたっぷり堪能して草間興信所へ戻った時、すでに深夜を回っていた。
庭園では、月の位置はずっと変わらず、どれだけ時間が過ぎたのかほとんどわからない状態だったのだが、もしかしたら時間の流れがないのだろうかとあやこは思い、いやそうではないと胸にかぶりをふる。こちらから持ち込んだ月下美人が咲いたのだ。つまり、こちらとの時間の流れが違っているということだろう。ともあれ、奇妙な気分だった。
遅い時間だったので、あやこは家から迎えの車を呼んだ。
同じように自宅から車を呼んだセレスティが、一緒にどうかと誘ってくれたが、そんな理由で断る。ちなみにシュラインと汐耶は彼に送ってもらったようだ。
数日後。
草間の事務所を訪ねると、「おまえの分だ」と草間が封筒に入った写真の束をくれた。例のシュラインが四阿で撮ったもののようだ。彼女の姿はなかったから、草間に預けて行ったのだろう。
あやこは、少しだけ顔をしかめて写真を眺める。草間たちと写っている自分は、一人だけバニーガールでなんだか変だ。きっと関係ない者がこれを見たら、怪訝に思うに違いない。
（うう……。やっぱり、写真に加わるのは断ればよかったわ）
胸の中でうめきつつ、写真をめくる。
その束の中には、四阿の中以外のものもあった。萩の花の写真だ。
（ふうん。こんな所もあったのね。萩ならまだ、あんなひどいことにはならなかったのに……）
少しだけ残念に思いつつも、自分が迷い込んだバラ園のことを思い出して、まあいいかと肩をすくめた。結局、あそこに足を踏み入れたのは、彼女だけだったようだし、あのお茶と水のおかげでずいぶんと楽になったのだ。それに、あそこでもらったバラのジャムはまだ残っていて、紅茶を飲む時には楽しませてもらっている。
「ありがとう。じゃ、これもらって行くわ。シュラインさんにも礼を言っておいてね」
言って写真を封筒に戻すと、彼女は小さく手をふって事務所を後にした。
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【7061／ 藤田あやこ（ふじた・あやこ）／ 女性／ ２４歳／ 女子高生セレブ】
【0086／ シュライン・エマ／ 女性／ ２６歳／ 翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員】
【1883／ セレスティ・カーニンガム／ 男性／ ７２５歳／ 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1449／ 綾和泉汐耶（あやいずみ・せきや）／ 女性／ ２３歳／ 都立図書館司書】
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■ ライター通信 ■
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●藤田あやこ様
はじめまして。ライターの織人文です。
参加いただき、ありがとうございます。
イネ科アレルギーだというのに、場所がすすきだらけという展開で、申し訳ありません。
が、一人だけ別の場所を楽しまれたということで、了承いただければ、幸いです。
また、月下美人やバニーガール、ハンバーガーなど楽しい小道具をありがとうございました。
藤田様にも、楽しんでいただければ、うれしいです。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いいたします。
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