|
『堕ちた翼』
ただ、私はあの人のようにしてみたかったの。
あの人の真似をしたかったの。
それだけだった。
それだけだったの。
くすくすくす。
そうね。
あなたはそれだけだったのよね。
それだけ。
でもね、人は、違うのよ?
人、それぞれね。
あたしは十六夜。
うつろぎの花。
そのうつろぎの想いにあたしはあなたたちを悪夢に誘う。
『堕ちた翼』Open→
さしてその命に対して興味があった訳ではない。
この手で救える命ならば救ってやりたいなどとおこがましい事を想った訳でもない。
ただ、気まぐれだった。
気まぐれで救った命。
木の枝に作られた巣から落ちた鳥の雛。
それを俺は、巣に返した。
木の根元で巣から落ちて震えているそれが視界に入って、ふいに俺はそれを巣に戻してやろうと想ったんだ。
それを見てしまえば(巣から落ちた雛)、
それを聞いてしまえば(巣から落ちた事を、迫る死を、哀しむ雛の鳴き声(泣き声))、
巣から落ちたその事が、その命の運命で、決まった命の運びを変えるべきではないその運命の道理はわかっていても、それでもそれを放っておく事が、気まぐれにも、俺にはできなかった。
視界に映るそれが、
耳に届くそれが、
あまりにも儚げで、弱々しすぎたからかもしれない。
弱い物は、何時だってずるいものだ、俺は、そんな感傷に浸った。この手の平に残るかすかな温もりと感触を、払い落としながら。
そう。
俺にとっては、それは地獄の血の池に蜘蛛の糸を垂らした同類と同じ様に、単なる気まぐれだったのだ。
「そう。そうよね。あなたにとっては、それはただの気まぐれだった。身勝手で、自己満足な、あなたの中だけで完結していた想い。だけど、」
彼女は、そう花の様に微笑みながら口にし、
指差した。
ひとりの少女を―――
その少女は黒い影に追われていた。
黒い影は凄まじいまでの怨念に塗れていた。それは人間にはどうしようもできないほどの強力な妖。
彼女は、
紫陽花の君と呼ばれる、
十六夜。
妖。
俺は彼女を見据えた。
彼女の真意がわからないから。
俺にこの少女の事を教えながら、彼女自身はこの少女の事を救うつもりは無いから。
そして、
「この妖に追われている少女が、俺と関係あるのか?」
どうにも至極面倒臭いが、そうらしい。
紫陽花の君はにたり、とおかしそうに笑った。
「あなたは、優しいよね」
「ちぃ」
俺は舌打ちして、十六夜から目を逸らした。
「おまえが勝手に俺を判断するな」
「あら、判るわよ? あなたが無慈悲なはずの神様の割には優しい、って」
思わず逸らしていた目を彼女に向けると、彼女はけたけたと笑った。
そして、俺の心を揺らすだけ揺らして、彼女は消えた。
俺は小さくため息を吐き、そして、
「動かねばならない、か」
動く事にした。
車が好きだった。
正確には車のエンジン音。
とても綺麗なエンジンのメロディーを奏でる女性が居た。
私はその彼女の追っかけをして、
そしてあの人に出会った。
その女性ドライバーのマネージャーだった、その人は。
最初はとても怖そうな人に思えたけれど、
でも私はその人が鳥の巣から落ちてしまった雛をその巣に戻している姿を見て、とても優しい人だと気付いた。
それからは、前までは憧れの女性ドライバーばかりを追いかけていた私だったのに、気付くとその彼を追いかけていた。
目は彼を追いかけてばかりいた。
ただ見ているだけだけど、それでも、それだけで私は幸せだった。だって、目で追いかける彼は、ずっと私が思っていた彼とは違っていて、本当は優しい、ってわかったから。だから、それだけで、目で追いかけているだけで、私は幸せだった。
気付くと私は彼の真似をよくしていた。
彼の歩き方、
ため息の吐き方、
彼の物の見方、
そういうの、真似ていた。
それだけで私は彼に近づけたような気がしたし、
彼の真似をしている私は、ちゃんと彼に恋をしている娘に思えて、それが嬉しかった。
そういうのが嬉しかった。
だから、私は彼の真似をしていた。
そして、
「あ、鳥の雛が…」
それを見つけた。
鳥の巣からその小さな雛は落ちていて、私はその子を掬いあげて、そして、
「私も、蒼王さんのように」
その雛を、巣に返した………。
「そうだ。おまえが、おまえが余計な真似をするから」
それは深い怨念と悲しみに満ちた声だった。
けれども、
「おまえは、この彼女に感謝もしているな。感謝の気持ちと、暗く澱んだどす黒い感情とでおまえは、揺れているんだ」
「蒼王、さん………」
少女を追いかけていた妖の前に俺は立ちはだかった。
真っ黒い影にしか見えない妖は、俺の言った言葉に反論する様にこれまで以上の凄まじい怨念を叩きつけてきたが、
しかし、俺はその妖の他の感情にも確かに気付いている。
「おまえは彼女に感謝しているんだ。だからそんなに苦しい」
後ろで彼女が息を呑む気配がした。
俺の意識に、おそらくは彼女の意識にも、その妖の記憶が、想いが流れ込んでくる。
寒い。
寒い。
寒い。
ここは寒い。
怨念の感情に塗れたここは寒い。
けれども、魂が完全に凍えてしまわないのは、温もりを知っているから。
巣から落ちた自分を掬い上げてくれた、救い上げてくれた、その手は温かかった。
その温かな手の匂いが、人間の臭いが、自分の身体に移って、親鳥たちは、巣を見捨ててしまったのだけど、
それでも、
その事を、
人間を憎むけど、
でも、
その手はとても温かかったから………。
彼女は俺の後ろで泣いていた。
そして彼女はぽつりと「ごめんなさい」、と言い、
妖は、
泣きそうな、
それでいて、
優しく微笑んでいるような、
そういう表情を浮かべた小さな女の子となって、
小さな翼あるモノへと変わって、
空へと、
天国へと、
逝った。
「大丈夫か?」
俺はそう訊ねる。
彼女は顔を両手で覆いながら何度も頷いた。
自分のしてしまった事に、
あの鳥の雛に、
彼女は心の奥底から後悔し、同情している。
そういう感情を持つほどに、彼女はきっと弱いのだ。
俺はあらためて思う。本当に弱い物はずるいと。
俺は、彼女の頭を撫でた。
END
|
|
|