|
◇◆ Sweet × Bitter ◆◇
時計の針の音が、やけに大きく聴こえる。
短い針は真下。長針は真上を指し示す瞬間の、硬く冷たく響く音。
ふかふかのソファの上、膝を抱え身体を丸めて、高式透花は彼の帰りを待っていた。
広い部屋。自分で整えたものであっても、埃ひとつない空間はよそよそしく、透花の身体を竦ませる。それはこの場所でなくともどこでも同じ。この世界のどこにあっても、透花は小さな身体を更に縮めて、存在しないふりをして生きてきた。
――彼と、出会うまでは。
また、かちりと、針が動く。
「遅い、のでしょうか……」
透花を傍に置く彼――志木凍夜は、危険な生業を持っている。
この部屋に出て行き、この部屋に帰る。そんなルーティンの狭間にこびり付く血の残滓。なにも聞かずとも、透花にはわかる。透花にもまた、馴染みのある臭いだから。
否――馴染みのあった臭い。
凍夜が透花に家を与えてくれたから、過去形になった。
――それなのに、凍夜が帰って来ない。
帰って来ないはずはない。わかっている。ただ、少々遅れただけ。外はまだ薄明るい。『遅れた』とも呼べないほどの時間だ。
ほんの少しでも凍夜の帰宅が遅れると、透花は過剰なほど不安になる。失うことに慣れすぎて、喪失が当たり前になってしまっている。しあわせな日常に不要な感情。
「遅くなんてありません。帰って来ます」
必死で首を振る。しあわせな時間を重ねてきたのに、しあわせに慣れない。血の臭いに慣れないのと、同じ。
時計の針はいつのまにか、七時を示していた。
「こんなに待たせるなんて、ひどい……です」
ぎゅっと、透花は細い両足を抱き締める。膝の上に顔を埋め、唇を噛んだ。
「……これだけ心配しているのだから、少しぐらいの意趣返し、赦されますよね?」
勢い好く顔を上げて、透花は立ち上がりキッチンに足を向けた。
扉を開ける前に、頬に触れる。ぴりりと走る痛みに、志木凍夜は眉を顰めた。
「しくじったか」
僅かに擦れたような傷は、凍夜の油断が招いたもの。
今日の依頼は、小物を数匹片付けるだけだった。そんな小事で凍夜が傷を得たと知れば、さぞ姉は不手際を哂うだろう。
「そしてあいつは、泣く……か」
泣く顔も悪くはないと思うのは、凍夜の困った習性だ。
最愛の少女の顔を思い浮かべ、凍夜は乱暴に指先で血を拭った。
痕跡を消してから、ドアノブに手を伸ばす。
玄関の扉を開けて、まず目に飛び込んでくるのは透花の柔らかな、少しばかり寂しげな笑顔だ。
「おかえりなさい」
ほっとしたような顔で迎えられる。
「ただいま」
凍夜は短く応え、温かなひかりが灯るリビングに足を踏み入れた。
――と、そこで凍り付く。
「透花?」
我ながら、少々引き攣った声。どこか居心地悪げに身を竦ませている少女を見遣る。
カセットコンロに、据えられた土鍋。鍋の中には好い具合に煮えた野菜と魚。そこまでは好い。
問題は、そのひどくどぎつい色だった。
鍋のなかはただひたすらに――赤。朱色まじりの真っ赤だった。
「滋養強壮に、唐辛子が好い、のだそうです……。夏場に、最適だと思って……」
尻切れた言葉のまま、透花は俯く。自分でも云い訳がましいと思っているのだろう。
――好い度胸だ。
弱々しい反撃に、凍夜はにやりと哂った。
「ふうん?」
凍夜の応えに、びくん、と透花は肩を震わせる。怯えた仔兎の風情だった。
リビングの中央に据えられたテーブルの上。
煮立つ鍋の中ではキムチらしき白菜の漬物がぷかぷかと浮かび、小さく刻まれた赤い欠片が更に辛味を添える。唐辛子でどぎつく色付いた煮え立つ鍋を半眼で見遣って、凍夜は椅子を引いた。
凍夜は、自他共に認める甘党だ。翻せば――骨の髄まで、アンチ辛党。好き好んで舌を無駄に刺激する味覚を求める奴は愚か者だと、芯底莫迦にしている。
そのことを、怯えがちな顔で凍夜の顔色を窺う透花も知っているはずだ。
だが、本日用意されたのはこの、激辛の晩餐。
どうやら、透花はなにやら凍夜に不満があるらしい。だが、攻撃に移ってもまだなお怯んでいるところが甘い。甘ったるすぎる。そこが可愛らしい、が。
――さて、どうやって苛めてやろうか。
「透花自慢の料理だ。早速いただこうか?」
凍夜の笑みに、透花の方が死刑宣告を受けたような青褪めた顔で、向かいの椅子の背に触れる。相対するのが怖いと云わんばかり。ふるふると震えていたと思うと、ぱっと、身を翻した。
「他のおかずも取って来ます! ごはんも!」
驚くほど素早い動きでキッチンに逃げ込む。
残されたのは凍夜と鍋。そして取り分け用の器。
にやりと、凍夜は笑みを浮かべた。
テーブルのうえに無防備に置かれていた『それ』を手に取って、透花の前の器に投入。上から鍋の中身を注ぎ入れる。ぐるりとかき混ぜて完了。
ふわっと漂った匂いからして激辛で、凍夜は頭がくらりと来るのを堪えた。
「お待たせしました」
両手に大皿を抱えた透花は、なぜか息を切らしてテーブルへ。自分の前に置かれた器に、きょとんとして凍夜を見遣った。
「取り分けておいてやった」
「……ありがとうございます」
なんの疑いもなくはにかんで、透花は器に手を伸ばした。
箸で白菜の破片を摘み、口に入れる。
――余白は、咀嚼の数瞬。
効果は――激烈。
「はぐう……ッ!」
悲鳴じみた声を上げて、透花はそのまま後ろへひっくり返った。
なんだか、微妙に不安定な格好をしているような気がする。
すとん、と落ち込んだ意識の薄闇から浮上しながら、透花は緩く瞼を開けた。
見慣れた天井。投げ出した指先に、ソファの感触。
「……どうしたのでしょうか、私……」
「いきなり倒れたんだよ、おまえは」
ひどく近くから、凍夜の声がする。
「……ッ」
ぼんやりとしたまま視線を動かして、透花は絶句した。
ソファに横たわった透花の頭が枕にしているのは、凍夜の膝。つまりは、膝枕状態。
慌てて飛び起きようとした身体を、やんわりと凍夜におさえられる。
「もう少し寝ておけ」
どくどくと波打つ心臓を宥めながら、非常に落ち着かない枕のうえに頭を戻す。
「どうして、私はこんな状態に……」
確か、自分はさっきまで鍋を囲んでいたはずだ。
問い掛けるように見上げると、ややバツが悪そうな凍夜の顔。それで、思い出した。
凍夜が取り分けてくれた鍋を箸をつけて、口に入れた瞬間――。
「……甘いです……」
思い出すだけで涙が出るような、その甘さ。
激辛だったはずの鍋は、劇薬のごとき甘さに変わっていたのだ。
「少々辛すぎたから、砂糖を加えてみた」
しれっと、凍夜は応えてみせる。
「まあ、倒れるまで来るとは思わなかったけどな」
さらさらと透花の流れる髪を指で梳いて、凍夜は肩を竦めた。
「ひどいです……」
舌に残る甘さを反芻して、透花は涙目だ。
「なにを云ってるんだか」
鼻先でせせら笑われて、透花は身を縮める。確かに、初めに凍夜の苦手な激辛鍋を用意したのは透花の方。凍夜の性格を考えれば、反撃はありえるものだったやも知れない。
なにも云えずに口を噤み、ただ恨めしげに凍夜の顔を見返す。
――と、透花は、凍夜の頬に手を伸ばした。
「傷、ですね……」
滑らかな肌に、僅かに薄紅色が滲んでいる。
繊細な造作の顔立ちにそぐわない、擦れたような傷。誰かが、このひとに害意を込めて刃を繰り出した痕だ。
ひんやりと、背筋が冷えた。
――どうしたのか。どうして、こんな傷をつくったのか。
問えば、更に不安になる。口に出し、言葉を返されれば不安は増す。いまの、平穏な生活が崩れる予感はかたちないままでも恐怖で、透花は顔を曇らせることしかできない。
ただ指先で触れて、傷が早く癒えるように祈るだけだ。
「危ないことを……しないでくださいね」
ここまでが、精一杯。
泣きそうな気持ちで、凍夜を見つめるだけ。
傷を気遣う透花の指を確かめるように触れて、凍夜は溜め息を吐いた。
「大丈夫だ。この僕が、そこらへんの雑魚にやられるはずがないだろう。僕を莫迦にしているのか?」
「いいえ!」
ふるふると首を振る。
「いいえ……」
それでも、待つのは辛い。どこかで凍夜が傷ついているかと思うと、胸が痛む。
凍夜は、透花が知る誰よりも強い。わかっていても、不安は募る。いつか、透花が持つ全てのしあわせは砕け散る。そんな風に思えて仕方がない。
凍夜が信用できないわけではない。
ただこれは――透花が、しあわせな透花を信じられないだけ。
「仕方のない女だな」
透花のこころを読み取ったのか、呆れたように凍夜が笑う。
「ごめん……なさい……」
両手で顔を被って、透花は呟く。ぐるぐると昏い波が、透花のこころの奥で渦巻く。いまは、それを透花だけでは抑え切れない。
ふっと、手の甲に温かな感触。
さらりと、肌を撫でた髪と、手のひらに削られた視界を横切った、青色。
透花の手に唇を落として、凍夜が微笑む。
強く。弱い透花のなによりも、強く笑う。
「いまは赦してやる。だから僕を、いつかは信じろ」
ぽすん、と膝枕から、ソファのうえに頭が落とされる。
「なにか飲むだろう? 僕が特別につくってやる」
「え……好いです! 自分で」
「好いから。寝ていろ」
指差し命ぜられて、透花はソファに逆戻り。
どくどくと、先ほどとは違う早さで、心臓が波打っている。
――信じても、好いのだろうか。
透花自身ではなく――凍夜の与える、しあわせの強さを。
信じられたら、それは本当の、しあわせ。
ゆるゆると、鼓動は指先まであたたかく、広がっていく。
「ほら」
冷たい、琥珀色の液体で満たされたグラスが差し出される。
身を起こして、透花ははにかむように微笑んだ。
「ありがとう、ございます」
「いいや?」
どこか企むような顔で、凍夜が笑う。
両手でグラスを包み込み、ゆっくりと飲み込む。
――衝撃は、すぐに来た。
「……あ……甘いですう……」
ぶわっと、制御不能な涙が銀色の眸に浮かぶ。
「そうか? ハニーオレンジティ、甘さ控え目だったはずだけどな。だけどまさか、僕がつくったものを不味いなんて云わないだろう?」
にんまりと、凍夜が云った。
「残すなんてことも、云わないだろう?」
駄目押しに、もう一言。
手の中には、かなり大き目のグラスにたっぷり、魔の液体。
崖っぷちぎりぎりまで追い詰められた気分で、しくしくと泣きながら透花が応えるべき台詞は、ひとつしかない。
「おいしいですう……」
|
|
|