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幼くも大きな愛で
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正午を回ったばかりの商店街に、人はまばら。
子供は学校、大人は職場や自宅で昼食を取っているのだろう時間帯に仕事を終えての帰宅途中だった一条里子は、両側に並び立つ店先から中を覗きつつ、今日の夕飯は何にしようかと考えていた。
カレーやハンバーグが好きな夫に対し、七歳の娘はホッケやサバの煮物が好き。
主婦としては、家族の見せてくれる笑顔が最高の調味料になるわけだから二人の好きなものを用意したいのだが、対照的な好みのおかげでいつも悩まされる。
(好みがもう少し似通ってくれればいいんだけれど…、あぁでもコレステロールとか騒がれているし…)
もちろん現段階で夫の体型に問題など全くないのだが、こういう事は若い頃からの食習慣が将来に影響するものだ。
(お魚、おひたし、…ポテトサラダをつけたらあの人も喜んでくれるかな)
北海道ではもう新じゃがの季節だが、東京の商店街で売っているだろうかと思いつつ差し掛かった交差点。
信号は赤。
立ち止まった里子の横を、――走り抜ける影。
「!」
子供だ。
幼い少年が車の横行する道路に飛び出す。
「ちょっと! 危ない!!」
持ち前の反射神経で伸ばした手が少年の手を取った、直後。
――……ぁ…
違った。
(これは早まったかも…っ?)
里子と少年、お互いの驚いた視線が重なった。
かくして彼女の懸念はあたる。
取った手は、既にこの世を離れているべき霊体のものだったのだ。
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子供の霊がいつまでもこの世に留まり続ける理由の代表的なものは親への未練だ。
今回もそうだろうかと問い掛ければ、少年は大きく頷いた。
言葉を話せない少年は身振り手振りで必死に何かを伝えて来ようとし、最初は説得して離れてもらうつもりだった里子だが、彼女も一児の母親であれば子供の悲しそうな顔には弱い。
結局、まずは本人の案内のもと、彼の両親に会いに行く事になった。
昨日の交差点を過ぎた先の商店街の端。
小さな駄菓子屋を指差す。
「あのお店が、あなたのお家?」
少年は笑顔で頷き、その中へ駆けて行った。
里子も後を追い、店先に入ると同時。
「いらっしゃいませー」
同年代と思われる女性の声が迎えた。
「あら、子供以外のお客さんは久々だわ」
店の奥から二階が自宅なのだろう。
顔を覗かせた彼女は笑顔で里子に話し掛けて来る。
この女性が少年の母親なのだろう。
とはいえ、唐突に貴女のお子さんが隣に居て…などと切り出せるはずもなく、しばらく様子を見る事にした。
「こんにちは。最近、越してきたばかりなんですけれど、こんなに懐かしいお菓子がいっぱいのお店、まだあるんですね」
「ええ。私の母の代から続いている店で、品揃えもその頃から変わっていないんですよ」
「そうなんですか…あ、これなんてとても懐かしいです、私も昔はよく食べていました」
「本当に? 私も大好きで、お店の品に手を出してよく叱られたわ」
味が濃くて色も濃い。
駄菓子屋に並ぶ菓子は、健康志向の現代では子供に食べさせるのを敬遠しがちだが、その一方で親の世代には懐かしいものばかり。
恐らくは、こうして次の世代にも伝わっていくのだろう。
そんな会話が弾んだ。
――彼女は、ずっと笑顔だった。
彼女のエプロンを握ろうとしている少年の様子を見ても、二人が母子であることは間違いない。
けれど彼女は明るくて。
そんな母親に、少年は悲しげで。
(なにか違和感が…)
胸中に呟くうち、里子の疑問を感じ取ったのか、少年は動いた。
合わせた両手を頬に置いて傾ける。
言葉は発さずに、ただ何度も傾ける。
それは、子守唄で見る動作のように。
「…眠って…?」
「え?」
思わず声に出してしまうと、彼女は驚いた顔を見せ、少年は頷く。
(お母さんに眠って欲しいの…?)
よく判らないながらも、彼女に向き直る。
「あの…最近、よく眠られています?」
彼女の目が見開かれる。
「え…っと、それは…?」
「少しお疲れのように見えたので」
初対面の相手に「亡くなられたお子さんが貴女に眠って欲しいと言っています」と告げるわけにもいかず、里子は微笑を浮かべて誤魔化す。
ここは出直した方が良さそうだ。
「余計なことを言ってごめんなさい。――これとこれで、お幾らですか?」
「ぁ…はい…、ありがとうございます」
どこか戸惑った様子の彼女が、強張った笑みを見せたことには気付かないフリをした。
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帰宅してからも、夕食を終えた後片付けの最中にも、里子は遣り切れない思いから漏れ出る吐息を抑える事が出来なかった。
自覚のないまま歪む表情。
あの後、少しでも母子の情報を得られればと駄菓子屋周辺に住む人々から話しを聞いて来たのだが、そこで教えられたのは、店を営む彼女と、会社員の夫、そして二人の間には一人息子が居たこと。
この子が去年の丁度今頃、公園で行方不明となり数日後に河川敷で遺体となって発見されたこと。
そして、その子は生まれつき声が出ないという障害を抱えており、自ら公園を離れるとは考え難い事から、警察は事件として捜査を開始。すぐに犯人を逮捕したと言うが…。
まったく、遣り切れない。
自分に助力を求めた子供の気持ちもさることながら、大事な子供を奪われた母親の気持ちを考えると、湧き起こる感情は言葉に出来るものではなかった。
(それが一年前となれば…思い出して、眠れなくなるのね…)
癒える事のない悲しみは、同じ季節が巡って来るたびに彼女の心の傷を疼かせるだろう。
(だからあの子は、お母さんにちゃんと休んで欲しくて…)
眠って、と。
里子に言伝を頼んだのだろうか…?
何をどう伝えようか悩んでいると、不意に背後の空気が変わった。
怪訝に思いつつ振り返ると同時、怯えた顔をしている少年に腕を引かれて驚く。
「どうしたの」
里子が協力すると約束したことで、家族の傍に留まっていたはずの少年が必死の形相で彼女に何かを訴えていた。
おそらくは、一緒に来て欲しいということなのだろうが――。
「お母さん?」
居間にいた娘が顔を覗かせる。
「いま声がしたけど、何かあった?」
「いいえ、何でも…」
大事な娘。
……家族を失った魂。
「――…」
見ないフリは出来ない。
「明日のお弁当のおかず、買って来るのを忘れていたの、ちょっと行って来るわ」
「今から? もう十時だよ」
「スーパーは二十四時間だから大丈夫」
「でも…」
「ちゃんと戸締りしておいてね」
言うが早いか部屋を飛び出した里子には、迷っている余裕など無かった。
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何度も振り返りながら、子供の足とは思えない速さで自分を先導する少年を追いかける。
どこまで行くのかと思い始めた頃に眼前に広がったのは河川敷。
「ここって…」
少年の遺体が見つかった場所だ。
「――」
それに気付くと同時、探し人だろうか、女性の名を連呼しながら辺りを見回している男の姿が目に入り、その人物に少年は駆け寄って腰に抱きつく動作を見せる。
(あの子の父親…?)
きっとそうなのだろう、そして連呼している名は妻の。
少年の母親の名前。
(まさか…)
嫌な予感を抱きつつも、初対面である相手に不審がられない言葉を探して声を掛けた。
「どうかなさったんですか? どなたかお探しでしたらお手伝いします」
「あ…ありがとうございます…実は妻が…」
「奥様ですか」
応えて、少年を見る。
彼は一方を指差して手招きする。
「あちらを探してみましょう」
「ぇ…あ、はい」
強く誘導して先を行く少年を追った。
そのうち、夜闇に吹く風に乗って聞こえて来るのは女性の泣き声だ。
目を凝らすと、川辺に座り込んでいる影が見える。
「…ぁっ…ああ…っ…」
泣いていた。
声を荒げて。
「…っ」
夫が名を呼んで駆け寄り、その肩を抱く。
「奥さん…!」
里子も続いた。
「ああぁっ…あぁっ……!」
どうして此処に居るのか、だとか。
何故、だとか。
聞くまでもない。
例えばきっかけが里子に寝不足を指摘されたことだとしても、彼女がここで泣き叫ぶ理由など余りある。
それこそ、今はもう姿を見せられない子供が、必死に里子へ助けを求めるほどに。
「怖い…っ…」
自分の命よりも大切で愛しい子供の死。
「ぁぁっ…怖いの……!」
夫に縋りつきながら訴える、その言葉の意味を思いながら少年を見遣れば、彼は母親のお腹に手を置いた。
「え…」
そこから、両手を合わせて顔の横に。
眠って、と。
動作で訴える、母親のお腹――。
「…奥さん…もしかしてお子さんが…?」
新しい命が宿っているのかと、そう問えば彼女の泣き声は大きくなった。
「あの子のようにこの子まで…っ…あの子を守れなかったのに……守れなかったのに……!」
どれだけ自分を責めただろう。
どれだけ、自分を責めていくのだろう。
…どんなに責めても足りない。
奪われた命は戻らない。
自責の念は、新たな命を抱き締めることへの恐怖を肥大させるばかりで。
(だからなのね…)
里子はようやく理解した。
この少年が救いを求めた理由。
“眠って”ではない。
そうじゃない。
少年は“お兄ちゃん”になるのだ。
(お願い龍神様……!)
幸いにもここは水場。
傍には深い愛情を持った子供の魂。
だから生命を司る水に属するものたちへ祈る。
心から、祈った。
「ぁ……!」
川から立ち昇る水柱が次第に象る姿が、夫婦には見えるだろうか。
子供の笑顔が、見えるだろか。
「…お兄ちゃんは、妹さんの守護霊になってくれますよ」
「ぁ…あっ…」
「お父さんと、お母さんと、新しい家族を、ずっと守ってくれます」
「ああ…っ…」
「だから怖がらないで下さい」
もう怯えなくていい。
ただ一つ。
新しい命の誕生を、心から願って欲しかった。
子供の笑顔に会えた奇跡を、信じて。
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商店街の端に佇む駄菓子屋に、たくさんの笑顔が集まって。
大人も、子供も。
大勢が集まって。
新しい命に皆が願う。
どうか。
どうか、幸せに。
「そういえば一条さん…、どうして生まれてくれる子が女の子だって判ったんですか?」
お祝いに駆けつけた里子に、新しい命を抱き締めた夫婦が尋ねて彼女を慌てさせるのは、もう少し先の話。
その傍らには、家族を見守る少年が満面の笑顔で佇んでいるだろう――……。
―了―
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【登場人物】
・7142 / 一条里子様 / 女性 / 34歳 / 霊感主婦 /
【ライター通信】
ご依頼ありがとうございました、里子さんのお話を書かせて頂けてとても嬉しく思います。
子供の幽霊と遭遇するシチュエーションということで色々と考え、今回の物語をお届けすることになりましたが、如何でしたでしょうか。
子供との再会は親子の絆が生んだ奇跡と夫婦は信じていますので、ラストシーンも里子さんなら巧く切り抜けてくれるでしょう。<^^;
お気に召して頂ける事を願っています。
ご意見等ありましたら何なりとお聞かせ下さい。
またお会い出来ることを祈って――。
月原みなみ拝
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