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<東京怪談ノベル(シングル)>


濁り、混じる


 青と蒼の間を縫うように潜っていく。
 柔らかく漂っていた泡たちも見えなくなって、後に広がるのは空よりも濁った青だけ――。

 ここにくると、ああ、あたしは別世界に来たんだと思う。小さい頃のあたしが見ていた陸の世界は、布を剥いだように消えてしまった。
 代わりに、当時は夢や絵本でしか触れたことのなかった“人魚”という生き物が姿を現す。
(あの頃のままだったら、あたしは普通の人間として生きていられたのにね……)
 身体は大きくなるし、背負っていたランドセルはいつの間にか手提げのカバンになった。
 時は勝手に過ぎていくし、周りの人も変わっていく。あたしだってそう。
(なのに、何でなのかな)
 人魚として覚醒したあの瞬間に、止まってしまったことがあるような気がする。
 心の中の小さな自分は今も呆然と立ち尽くしていた。居場所を半分失ってしまった喪失感を握り締めたまま。
 ――ここへくると、そんな震えている感情を思い出す。

 海の底なんて、陸から比べれば小さなものだった。面積は広いのに、そこに住む人魚さんたちの心や生活は、生まれたときからガンジガラメになっているように見えた。
(だけど、その中にすらあたしは入れない)
 深くまで来ていた。天を見上げてみても、糸のように絡みついてくる青や蒼があるばかりで、広い世界なんて何処にも見えなかった。

 深海を掃除するように頼まれたのは、突然のことだった。
 ……命令された、と言った方が正しいのかもしれない。高圧的な態度ではなかったけれど、まるでモノに話しかけているみたいに冷たい喋り方だった。
「ですが、その日は予定があるんです……」
「キャンセルしたら? ゴミは人間が出したものなんだから、同じ種族でもある貴方がやらなきゃ。みなさん人間のことで迷惑しているんですよ。“人間側代表の人魚”としての義務を……」
 この言葉を耳にしたとき、全身から力が抜けていくのを感じた。
(ああ、そうかあ……)
 あたし、この人魚さんには、認められていないんだ。
 純血の人魚さんたちとは線が引かれているんだろう。私たちはこちら、お前はあちら、って。
(今更だよね)
 判っていたくせに、機会があれば期待してしまう。
 仲間だと受け入れられること。あたしの存在が認められること……。
 そしてその都度傷ついていく。伸ばした手を払われるどころか、ないものとされている事実に。

 ……掃除をしなきゃ。
 認めてもらえなくても、あたしは海を掃除できる“人魚”なんだし、同時に海を汚した“人間”でもあるんだから。

 海の色とは合わない色――ドラム缶がたくさん転がっている。
「ひどい……ここは鯨さんのお墓なのに」
 役目を終えた命が無数に眠る場所に、冷たい核廃棄物が散らばっているのだ。
 無力化させてしまえば、放射線だって怖くない。あたしだけでなく、他の人魚さんたちにだって出来ることだ。魚さんたちはそもそもここへは来ない。
 だけど廃棄物を無視して生きていく訳にはいかなかった。
 廃棄物というものが存在しているだけで、少しずつ、この閉ざされた世界は壊れていく。絵本を閉じれば夢が消えてしまうように、人魚の世界はたとえば針の上でグラグラと左右に揺れながら成り立っているのと同じ、繊細なものなのだから。

 一缶片付けるのに一時間もかかる。
 残っているドラム缶を数える気にもならない。そんなことをしたら気持ちが萎えてしまうのが目に見えていた。何時間かかるんだろう、と考えることも出来ない。
(でも、もっと嫌な目にだって遭ったんだから)
 過去、自分が他の人魚さんたちから闇討ちされたことを思い出した。
 あのとき、もしあたしが死んでしまっていたら、この鯨さんたちと一緒に海を眺めていたんだろうか。そしてこの廃棄物を見て、長い溜め息でもついていたんだろうか。

 海底から上へと目を凝らしてみる。
 ――やっぱり少し濁った青しか見えなくて。
 あたしは絡みつくその色を振り切るように、親指の先でドラム缶を強く擦った。


 終。