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逃れる者の鬼ごっこ
ナメクジにうなじを這われるような感触がする。背筋から這い登るように躯をずるりと舐めて、染み込むように消える。産毛が逆立つような嫌悪と、疼くような期待を同時に塗りこむように。躯の芯、胸の奥、鳩尾の裏側に巣食った、『モノ』。それが繭の中の芋虫のように胎動し、心臓を柔らかく締め付ける。
求めて、喘ぐ。渇いて、鳴く。餓えて、戦慄く。湿った声で。
欲しい、欲しい、欲しい、もっと、もっとだ、もっと、血が――
「……っ!」
神代・晶(かみしろ・あきら)は、服を握りつぶすように胸を押さえて、頭を振った。心に張り巡らされた靄は一時的に振り払われ、潮が引くように熱が収まっていく。その姿勢のまま、大きく深呼吸をして、晶は顔をあげた。
路地裏にいた。繁華街にあるラーメン屋の裏。塩甘い良い匂いと、濁ったどぶ臭さが香る。路地の向こうには、無数の灯と、意味の無い都会の喧騒。車の上げる低い鳴き声。人々の喋る、言葉の水音。機械の奏でる唸り。
いつの間に、こんなところに。部活の帰り、頭が痺れるような疼きを感じて、ふらふらと夜の街に出てきたところは覚えている。始めはただ、ストレスでも溜まって苛付いているのだろうと思っていた。気分転換に散歩を始め、自然と人の多く集まるところへ足を運び、そこで気が遠くなるような疼きを覚えて……逃げるようにここへ潜り込んだのだ。
晶はもう一度冴えた空気を胸に含ませて、冷たい壁にもたれた。
私は、また求めてしまったのだ。血を。死を。破壊と苦痛を。これで何度目だろう。以前、化け物に殺されかけた時以降……いや、もとい。化け物をこの手で殺して以来、この疼きは日に日に酷くなっている。
躯の中に封じられた、鬼の力。否、鬼そのもの。それがまるで、自分の意志に干渉してくるかのように、胸の深い部分に囁くのだ。破壊を求める声を。
「私は……人を傷つけることも、殺すことも、望んでなんかいない」
微かに吐き気がする。だが、晶は苦しい反面、それが少し嬉しかった。それは人間の証。唾棄すべき欲望に対する拒絶の証だから。
そう。本当は、私は望んでいる。欲している。血を、朽ちる躯を、殺戮を、破壊を求め――
「嫌だ。違う……!」
しかし、ならばなぜ、繁華街などへ来たのか? 夜に女子高生一人でうろつく場所ではない。昼ならばまだしも。遊ぶというにも、金も無いのに。
……人が、つまり獲物が、多いから?
目を閉じて、晶は余計な考えを振り払った。私は、人間だ。人間なんだ。それを信じなければ。自分に言い聞かせながら踵を返し、晶は歩き出した。甘美な疼きに逆らうように、晶は人のいない方へと歩を進める。
空では、どんよりとした動きの黒雲が、舐めるように月の姿を埋めた。
その気配。あの殺気。『奴ら』の存在感が背筋を走ったのは、晶が人気の無い工事現場を通り過ぎようとした時のことだった。一瞬の硬直の間に、晶は自分の無防備さを後悔した。疼きを振り払うことに気をとられて『奴ら』の活動時刻であることに、気付いてもいなかった。
殺気は肩に圧し掛かるように重い。『奴ら』の一匹が、この周囲に潜んでいる。襲われれば、逃れようも無い。助けを求めるあてもない。あの時のように。
すぐさま晶は右腕の封印を解き、周囲に目を走らせた。路地の先、背後、上空……なにもいない。
焦りがつのる。頼れるのは自分だけだ。以前、殺されかけた経験を思い出す。気配から感じる圧力が敵の実力ならば、以前ほどではないにせよ油断の出来ぬ相手であることは理解できた。
長大な鬼手に変化した右手を伸ばし、工事現場を囲う塀を乗り越える。内側にあるのは作りかけのビル。まだ壁面だけで、窓も無い。そして敵もいない。
どこにいるのか?
その疑問が頭をよぎるのに十分な間、敵は襲ってこなかった。だが、殺気が消えたわけではない。むしろそれは貪欲さを増し、さらに禍々しく強大になっていく。まるで、もうすでに獲物を捕らえ、今まさにその顎に掛けようとする瞬間のような高揚さえ感じさせる。
一体、なに? ……まさか。
当たり前だが、自分は何もされていない。戦ってもいなければ、敵の姿を見てもいない。
狙われているのは私じゃ……ない?
その仮説が確信に変わるのに、時間は必要なかった。二十メートルほど先の工事現場の片隅、未完成のビルの裏手。炎のような橙色の灯りに、二つの影が妖しく蠢くのが見えた。微かに、雄叫びと、悲鳴が聞こえた。
物陰から覗き込むと、一人の女と異形が争っていた。
相手の異形は人間(元は、若い男の姿らしかった)が元になっているが、細かい箇所に変質があった。猛禽のように厳しく変形した手足と爪。逆に曲がった膝の関節。裂けた口、突き出た顎。灰色に硬質化した皮膚。趣味の悪い画家に恐竜と人間の合いの子を描いてもらったような姿だ。
晶にとっては、ある種見慣れた怪物の一匹。だが異形よりも晶の目を引いたのは、女の姿だった。
――あの女の人……退魔師だ。
おどろに乱れた髪はだらりと下がり、巫女が着るような装束はところどころ裂け、白絹がどす黒く変色している。ボロボロの容姿からでは年齢は察しにくいが、三十路には達していまい。蒼白な顔色と細められた目が、悲愴な絶望を映し出していた。助けが必要なのは明らかだった。
助けなくちゃ。でも、戦えば、あの声が……
激しい闘いの跡か、辺りにはゴムが焼けたような臭いが充満し、ちろちろと燃える炎が周囲を照らし出している。それに合わせるように、心の奥で甘く妖しい誘惑が、頭をもたげ始めていた。
「逃げないのか?」
異形がいう。人間の声を、可聴域ぎりぎりまで低くしたような声。相手の女は一瞬、泣きそうな表情を見せたが、しかし何も言わないまま、よろめく構えを取る。
「解せんなァ、人間とは。なぜ、そう勝ち目の無い勝負を挑もうとする? 逃げてもいいのだぞ?」
奴は女を逃がす気など毛頭ない。ふと晶は、自分が人間ではなくなるような恐怖と、人間として自分が為すべきことの狭間に、置かれているのを知った。運命は、とことん残忍を好む。
「つまらんなァ、わしは逃げる獲物を背中から引き裂くのが趣味なのだがなァ……まあ、仕方があるまい。望みどおりとはいかぬが、そろそろお愉しみの時間だ。お前の魂、もらうとしよう」
駄目だ……行くしか、ない!
異形が、立つこともままならぬ女に向けて走り出した瞬間、反射的に晶は飛び出していた。
「やめろ!」
突然の闖入者に、舞台の上の二人が息を合わせたように振り向く。同時に、晶は解放したままの右腕を薙ぎ払った。むっ、という、驚愕の吐息を漏らし、異形が跳び退る。鈍く、重い手応え。異形の右腕の肘から先が弾け跳び、女の足元に転がり落ちた。
――血。
声も出ないまま女が身を引く。すぐさま、『あ』の音が濁ったような低い響きが大気を揺らし、憎悪の滾った瞳が晶を睨み付けた。致命傷ではない。
「貴……様、何者だ! その気配、同族か? いや、そんなことは構わぬ! よくもわしの、わしの腕を!」
女に語りかける余裕はなかった。飛び掛ってきた異形の攻撃を右手で受け止める。鬼の力で弾き飛ばし、未完成の建物に叩きつける。セメントが弾け、異形は微かに紅いものを吐いた。
――血だ。
誘惑ははっきりと意識を揺らす響きと化し、甘い囁きのように胸の内を掻く。
晶は歯を食いしばり、異形に飛び掛った。鬼腕が、建物を抉る。異形はかろうじてそれを避け、すぐさま反転すると、鍵爪でわき腹を薙いだ。身を捻ったとは言え、微かに抉られた肉から、血が滴る。
――もっと血を。
「同族から獲物を奪おうとは、この恥知らずが!」
人間のものではありえないばねを利かせて、異形は飛び上がった。晶はすぐさまその足首を掴み、彼を床に引き戻した。叩き付けて、だが。
「私は、あんたの同族なんかじゃない!」
――血をよこせ。
「違う! 違う!」
頭が熱くなり、気持ちが上気する。怒りか、嫌悪か、それとも興奮からなのか。
喚きながら、晶はどうにか起き上がった異形に向けて拳を叩き付けた。異形は攻撃を受け止めた姿勢のまま床の上を滑り、壁に叩きつけられた。晶の右手と分厚い壁に挟み込まれ、彼は苦しげなうめきを漏らした。
「殺してやる……お前なんか」
「き、貴様のような若造に、獲物を奪われて……たま――」
「黙れ!」
晶は右腕に力を込めた。壁を背に、必死に耐えていた異形の手が逆に曲がり、関節から血が噴き出す。だが苦悶の声が上がるよりも先に、晶の手が腕を突き破り、その顔面を捉えていた。そのまま押す。壁に押し付けられた異形の頭が、卵のように潰れて、四方に飛び散った。
――そうだ。もっと、血を。
「嫌だ! 私は、人間だもの……! これ以上は嫌!」
激しい怒りや生存本能に突き動かされていると、加速度的に自我が薄くなる。不意を打てたのは、幸運としかいいようがないが、精神的にはほぼ限界だった。
甘い誘惑が、血の匂いに誘われて躯中に入り込もうとしている。晶は必死に頭を振った。しかし、胸のざわつきは鎮まらない。血の匂いが濃い。ここには、いない方がいい。だが、まるで匂いに誘われているかのように、足が動かない。
……そ、そうだ、あの女の人。女の人を診なきゃ……
それを思い出して、ようやく足が動いた。振り返る。それまでへたり込んで硬直していた女が、ひっと声を上げた。
「あ、待って。私は……」
「く、来るな!」
呪符のようなものが、女の手から放たれた。それは真っ直ぐに飛来すると、炎を撒き散らしながら四散した。思わず防いだ右腕の一部が焦灼され、肉の焦げる匂いと、熱い痛みが広がる。
「……っ、何を!」
「あ、あっちへ行け。この、人殺しの化け物め」
いきなりの一言が、晶の胸を裂いた。
化け物。奴らの同族。
「ば、けもの……って。私、助けたのに……あなたのこと。ただ私、必死だっただけで――」
「笑わせるな……お前のその姿はなんだ。禍々しい力、激烈な殺戮。人間であるものか!」
ふと気付けば、いつの間にか自分の服は黒々と血に染まり、炎に照らされて緋色に揺らいでいる。その姿は、先ほどの異形などよりも、ずっと生々しく、怪物染みていた。
「仲間割れくらい、卑しいお前らならばよくやることだろう! 現に、そいつもお前が同種であることを認めたじゃないか」
「そんな……」
錯乱し、満身創痍の女が投げた呪符は、火傷をさせる程度の力しか持っていない。だがそれに籠められた拒絶が、晶の胸を焼いた。
私は、あなたのことを助けたのに。
放たれる罵声と呪符。右腕がそれを払うと、再び肉が焦げた。
それなのに、どうして? 私はただ、人間でいようと……私は……わ、たし――
――血を、よこせ。
不意に、晶は走った。人間業とは思えぬ速度で迫る呪符を薙ぎ払い、女の眼前に立つ。驚愕からか、女の動きがぴたりと止まった。
「助けたのに」
事態に気付いたのか、女が呪符を出そうとする。特に気に掛けない動きで、晶はその頭を掴んだ。
女が、息を呑んだ。
「どうしてそんなひどいことするの?」
痺れるように頭が熱い。胸が焼け付く。殺意が、心を満たす。血を注ぎ込まれるように、怒りで視界が緋色に染まり始め、瞳孔はきゅっとしぼみ、肉食獣のそれを呈する。瞳が、輝く。
女は喚きながら腕を外そうともがいたが、圧倒的に力強い鬼の腕には、意味がなかった。力を込めれば、簡単に持ち上がった。首に全体重がかかり、女が苦しそうな声を漏らす。
晶の唇が、笑みの形につり上がった。
「そんなに酷い奴には、お仕置きしてあげる」
頭の潰れた異形は、自分たちの少し後ろに倒れている。女の目が、錯乱から絶望的な恐怖へと、色を変えた。
「や、やめ、ぇ……!」
搾り出すような声。それが、みしっという骨の軋む音に潰される。瞬間、激痛の悲鳴が上がった。
「あんたが悪いんだよ。私のこと、あんな風に言うから」
頭蓋骨に掛かる負荷は加速度的に上がる。反比例して女の抵抗は、弱々しくなっていった。もがく獲物が、手の内で息絶えようとしている感覚が、残忍な悦びを晶の心にもたらした。
「あんな風に言うから……」
そう。こいつが悪いのだ。私のことを、人殺しの化け物とか言うから。人殺しの。
女の抵抗はほぼなくなり、手はだらりと下がって、躯中から力が抜けていくのが感じられた。微かな痙攣と、喉から搾り出すような苦悶だけが、晶の興奮を煽る。
「……あれ?」
ふと、ある言葉が、晶の心に引っかかった。
『人殺し』の化け物……?
鈍い音がして、女が、恐らく最後の悲鳴を漏らした。甲高くも、鈍く濁った声。死を象徴するような、えげつない断末魔。それで、ハッと晶は我に返った。
「ち、違う! 私は、人殺しじゃない!」
手から力が抜け、解放されていた鬼の力が、しゅるりと元に戻った。女の躯が人形のように地面に落ちる。女が、むせ込んだ。まだ、生きている。しかし、その額にはどす黒い痣が、くっきりと浮かんでいた。
「あ、私……私、こんなつもりじゃ」
――何故やめる? 血をよこせ。
囁くような声がした。思わず躯から力が抜け、晶は膝を付いた。耳を押さえる。
「い、いや……」
――これは全てお前がやったことだ。
「違う、これは」
――お前はこれを望んでいた。なぜ、自身に従うことを良しとしない?
「あんた、が、やらせたんだ。こ、れは、私じゃ」
――わかっているはずだ。従ったのはお前、それを望んだのもお前、実行したのも、お前だ。お前は……
「だ、まれ。いやだ、聞きたくない! いや!」
――お前は人殺しだ。
ぴきり、と、音がした。凍てつくような、氷にひびが入るような音。
そうだ。私は、殺そうとしたんだ。この人を。怒りに任せて。私は人殺しだ。人殺し。人殺しだ。
気付けば、晶は走り出していた。どこをどう走っているのかもわからないまま、とにかく人のいない方へ、暗闇の方へと走り逃げた。何処まで逃げても、重苦しい冷気は背筋にへばりついて消えることはなかった。
この鬼ごっこに、逃げられる場所はないのだ。鬼は自分の中にいる。必ず、追いついてくる。ならば、どうすればいい? ならば……ならば。おぞましい考えが、脳裏を掠めたような気もする。幸か不幸か、それを認識するだけの冷静さは、今の晶には無かったが。
路地を闇へ闇へと曲がり、晶は姿を消した。気を失った女の倒れている建設現場でも、揺らめいていた炎が消え、闇の帳が降り立った。希望が、潰えるように――
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【6596/神代・晶(かみしろ・あきら)/女性/17歳/高校生】
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■ ライター通信 ■
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晶様、二度目のノミネートありがとうございます。そして、納品を遅刻してしまい、すいません。構成に関して少し悩み、手直ししたのですが、その際に時間が掛かってしまいました。申し訳ありませんでした。
晶様の心理に説得力を持たせるべく、前回よりも会話を多めに盛り込みました。心情内の会話は、『鬼の声』とも『晶様本人の自分への疑心』とも取れるように、工夫してみました。アクションシーンでは、前回と一転して、押しに押す晶様を描くことが出来て、こちらとしても愉しめました。
ただ、ご希望のストーリー上、仕方のないことではあったのですが、PC様お一人のシチュエーションノベルとしては登場人物や場面が多くなるため、少々、冗長に成ってしまった感があるのが心残りです。以後、精進してまいります。
気に入っていただけましたら幸いです。それでは、また別の依頼で会えますことを、心よりお待ち申し上げております。
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