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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>
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アリス・ドール
◆◇ Adelaide ◇◆
アリス洋館――
かつて一人の人形作家が洋館を購入、改築し、自らの工房で創り上げた人形達をその館へ住まわせたという。
精巧な造りの人形達は、表情豊かではあるが、どこか陰りを含んでいるようにも見える。
それは人形作家が、己の内面深くに潜むもろもろの感情を前面に押し出したが故だと、他の人形作家達は言う。
あまりに完成されすぎた人形を見たものは、その世界観にある種の畏怖を覚え、やがて時代の流れとともに、洋館は誰も訪れない忘却の地となった。
尤も、人が足を運ばなくなった原因は、他にもあるのだが――……
*
碧摩蓮からの依頼を受けて、八唄和多、榊遠夜、藤田あやこの三人は、アリス洋館から少し離れた場所にある管理人夫妻の家を訪ねていた。
月は無く、外はねっとりとまとわり付くような闇に支配されている。
時折、強い風が周囲の木々を揺らしてゆき、夫人の案内で通された客間のガラス窓が、軋んだ音を立てていた。
既に碧摩が話をつけてくれているのだろう。夫人は客間のテーブルに座った三人へ紅茶を振舞いながら、神妙な面持ちで話し始める。
「洋館の内部は一つの話に即した人形達で構成されています。『不思議の国のアリス』のお話はご存知でしょう?」
三人の顔を見渡している夫人と目が合うと、和多は無表情のまま静かに頷く。
「……姉さんから物語は聞いてる。うん」
「僕も知っている。碧摩さんから、洋館のアリスが消えた事と、人形作家が狂っていたという事も」
そう言ったのは遠夜。足元に擦り寄ってくる黒猫――使い魔――響の頭を撫でながら、和多同様の無表情で夫人に答える。
そんな二人とは対照的に、露出度の高い服を着たあやこは、当たり前といわんばかりに自分の隣に置いた等身大の人形を叩きながら言葉を放った。
「知らなきゃアリス人形なんて自作して来ないわ。そんな事より人形作家の来歴を知りたいんだけど」
何故あやこがアリス人形を自作して来たのか、その場に居合わせた誰もが疑問に思った。けれどそれを口に出すものは一人もおらず、あやこは独断的な口調で呟く。
「人形作家はアリスを主人公に見立てて遊びの物語を想定していた筈だわ。アリスの配置について手掛かりがあるかも」
夫人はあやこの様子にやや当惑気味な表情を浮かべた。
「確かに不思議の国のアリスの話は、アリスが主人公です。ですが来歴と仰られても、エイディンは日本生まれの日本育ちですから……」
知らない名前が出た事に疑問を抱いた和多が、ティーカップへ伸ばしかけた手を止めて夫人を見つめた。
「エイディン?」
ティーカップから、紅茶の仄かな甘い香が漂う。
夫人は一度言葉を置いた後で、和多へ返した。
「エイディン・オファリー。アリス洋館を創った人形作家です」
和多に続いて、碧摩から言われた事を思い出した遠夜が、質問を投げかける。
「人形作家には子供が居たって聞いたけど、その子の名前は何て言うんですか?」
「アデレード・オファリーです。奥様は純粋な英国人だったようですが、日本の気質に馴染めず、アデレードが生まれてすぐ、一人自国へ戻られてしまわれたとか」
夫人は紅茶を入れ終えると、静かに席について話を続けた。
「奥様が帰国されてすぐに、エイディンは人形制作に取り掛かったそうです。何かに没頭する事で、奥様が自分から離れてしまったという事実を、忘れたかったのかもしれません」
アリス洋館にある全ての人形を作り上げるまでに、およそ十年の歳月を要したらしいと夫人は言う。
「どうしてモチーフにしたのが不思議の国のアリスだったんだろう?」
たしかアリス原作者は英国人だから、英国人と日本人のハーフだというエイディンが話を知っていたとしても不思議ではないし、風変わりなストーリーは幼い子供にとって面白いものだろう。だが、その分登場人物は途方もない数になる。
遠夜の疑問に、夫人は伏し目がちに答えた。
「『アデレード』という名前の異形の一つに『アリス』があります。物語を知ったエイディンが、それになぞらえたのかもしれません」
十年もの時間をかけてまで子供の為に人形を創り続けたエイディンは、最期には気が触れたという。そんな父親の姿を見て育ったアデレードはどんな子供だったのか。
夫人と遠夜のやり取りを聞きながら、和多は客間の窓から見えるアリス洋館へ視線を向けた。
洋館の外壁には明かりが灯されており、管理人夫妻の家からでも、その全貌を捉える事が出来る。
夜の闇に紛れた洋館は、酷く不気味に見えた。だが、元来霊的な資質を持たず、異形のものを見てもさして動揺しない和多にとって、それは恐怖の対象にはなりえない。
和多は視線を戻すと、口元で両手を組みながら全員を見渡した。
「娘の為につくったなら、アリスドール=娘では無いと思う……これは姉さんからの受け売りだけど。だから、娘の立ち位置が、凄く気になる。その世界の読者なのか、それとも他キャラクターなのか。亡くなったその娘さんっていう読者や他キャラクターを、アリスが探しに行ったとも考えられないか?」
和多の疑問に、夫人は視線を落としただけで何も答えなかった。
アリスドールを見付け出すための、ヒントや確実性のある事が知りたい。
遠夜はそう思い至ると、夫人へと視線を向けた。
「このお屋敷について不思議な話題があったら聞きたいかな」
「…………」
だが、夫人は遠夜の言葉に口を閉ざした。視線を不安げに彷徨わせる様子に、遠夜は夫人が何かを隠している事を直感で感じ取ると、
「どうかした?」
とさりげなく促す。
夫人はややあってから己の肩をさすり、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「碧摩さんから……エイディンと、この洋館に関する詳細を聞いてはいませんか?」
その言葉に、遠夜と和多とあやこの三人は一度顔を見合わせると、首を横へ振る。
「……エイディンはあの洋館内で自殺しています」
「自殺?」
あやこが反芻すると、夫人は無言で頷いた。
「アリス・ドールを作り上げた直後に……拳銃自殺だったと、聞いてはいますが……」
「ふぅん。で、娘はその後どうしたの?」
「アデレードは……エイディンが自殺をする少し前から行方が知れなかったと言います。自殺の原因も、恐らくアデレードの失踪からくるものではないかと」
なにぶん100年近く前の事ですから、真実を知りようもなく……と、夫人は続けた後で再び口を閉ざす。
暫くの間、4人の間に気まずい沈黙が流れた。
洋館内で自殺をした人形作家。失踪したという娘。そして、100年後に動き出した人形達――。
「とりあえず、洋館に行ってみないことには、始まらなそうだね」
沈黙を破るように遠夜が言うと、まず和多が立ち上がった。
「人形の配置図とか、ありませんか……それだけ世界観を持ってたなら、きちんと並べてあると思う。でも、勝手に動いてるかな」
和多が独り言とも言える言葉を夫人に投げかける。夫人は困惑したように和多へ返してきた。
「私達が管理を任されて以降、何度かアリス・ドールを見た事があります。ですが、見るたびにアリスドールの配置が変わっていました……」
「…………」
「アリス・ドールが消える前は、アリス一体だけが動いていたようで、他の人形達の配置が変わるという事はありませんでした。ですが消えてしまってからは、他の人形達が動き回っているようですので……恐らく配置図を持っていかれても意味はないかもしれません」
あやこは夫人の話が終わるや否や、自作した人形を抱えながら立ち上がり、自信たっぷりにこう言い放った。
「多分チェシャ猫がアリスを連れて行ったんだと思うわ。私、時間を操る懐中時計を持っているから、時の流れが狂うように念じると人形が出てくるかもしれない」
何故チェシャがアリスを連れて行ったと思うのか。疑問に思いはすれど、誰もあやこを言及する事は無かった。
「何度か人形の事件を体験してるけど。そういう時、僕の特殊能力が役に立つ事があった。でもこれは……どうかな」
「俺は霊感とかは無いから、地道に探す。等身大なら、場所はある程度限られてくると思う」
「……行こう。真実は、人形達が知っているはずだから」
最後にそう呟いて遠夜が立ち上がる。
三人は心配そうに見つめる夫人を残して、アリス洋館へと向った。
*
和多、遠夜、あやこの三人が管理人夫妻の家へ赴いている間、ラクス・コスミオンは一足先にアリス洋館へと足を運んでいた。
「大家さんのお使いで来ていたのですが、動き回る人形というのは興味深いかもしれません。ラクスが造るホムンクルスや魂練成に役立つかもしれませんし、人形のギミックはアーティファクトに通じます」
顔と胸は女性、体はライオン、鷲の翼を持つスフィンクスであるラクスは、殊に人型以外の構造に興味を抱いていた。
「『不思議の国のアリス』の話は、以前原書を図書館で読んだことがあります。数学者らしい言葉遊びの数々は非常に勉強になりました。この洋館内にある人形は原書の世界観を持ち合わせていると聞きましたが、人形は原作者とは別の人間によって造られていますから、人形達のギミックは原作とは全く別物かもしれません」
冷静に呟きながら、ラクスはアリス洋館を見上げた。
入り口には蝋燭の明かりが灯されており、その灯りで洋館全容が浮き彫りにされている。作られたのが100年近く前ということを考えれば、その当時としてはかなり大きな建造物だったはずだ。だが、ラクスが見てきた三大図書館の面積と比べれば、大した大きさではない。
ラクスは一度大きく翼を羽ばたかせると、そのまま上空へと舞い上がった。
自分では人間関係や歴史などは調べようがない。屋敷の外部から調査系魔術を用いて内部構造、地下室、天井裏、壁内部などの隠し部屋を探索しておくのが賢明と考えたのだ。
「お嬢さんがアリスに感じていた感情が正か負かが問題ですね。アリス失踪に関してはお嬢さんが関わっているかもしれません。アリスの居場所はお嬢さんが知っていて、ご主人がご存じなかった場所でしょうか」
だが、それはあくまで推測の域を得ない。
ラクスは緑の瞳を細めると、かつて読んだ魔術書の一説を唱えた。途端に、建物の内部構造がラクスの脳裏に鮮明に映し出される。
「部屋数は11……いえ、12でしょうか。二階建てとはいえ、通常の構造とは異なっています。入り口を入ってすぐに円形ホール……それに沢山の扉が見えます。屋敷自体にギミックは無いようですが……何か、変ですね」
ラクスは脳裏にある屋敷構造に、ある疑問点を見つけ出して顔をしかめた。
「確かにギミックはないと思うのですが……部屋が、動いているように見えます」
先ほどまで一階にあったはずの部屋が、次の瞬間には二階へ。右から左へと移動している。その部屋の中では、人形達が嬉しそうに動き回っているのが、ラクスには見えた。
どちらの動きも、人間が作り上げたからくりのようには思えず「魔術の一種でしょうか」と、ラクスは首を傾げながら呟いた。
その時。
管理人夫妻の屋敷からアリス洋館へと向ってくる三人の人間に気付いて、ラクスは視線を下へ向けた。
「……男の方が二人もいるのですね。ですが女性が一人いるようです。助かりました」
男性恐怖症のラクスは、女性が一人でもいることに安堵の溜息を零す。
魔術を使用して周囲の認識を操っているから、スフィンクスである自分の存在に疑問を抱く人間は誰一人としていないはずだ。
ラクスは再び翼を羽ばたかせると、旋回するように地上へと舞い降りた。
◆◇ A Silver Key ◇◆
アリス洋館の前に四人が揃うと、あやこの後ろに隠れるようにして佇むラクスが、やや萎縮しながらも調査内容を全員に報告した。
「部屋数は12です……聞いた通り、人形達は館内部を徘徊しているようですが、それと同様に屋敷にある部屋にも動きがみられます」
それを聞いた遠夜が、ラクスへと疑問を投げかける。
「動きって?」
男性に話しかけられた事で、一瞬びくんと肩を震わせたラクスは、さらにあやこの背後に隠れるようにして言葉を返す。
「部屋自体が……意志をもって場所を移動しています。人間が作り上げたギミックには、見えません……何か別の意志が働いているようにも思えます」
遠夜は碧摩から預かった洋館内部の地図を見ながら頭をひねった。
人形だけでなく部屋までもが移動しているとなると、下手をすればこの洋館から出られなくなる可能性もある。辿った道程を地図に残したとしても、それは無意味な事のように思えた。
あやこは洋館を見上げると、自分の左目に寄生している妖怪で霊視を始めた。
洋館の建物自体に霊が憑いているかどうかを確認したかったのだ。エイディンがこの洋館の内部で自殺をはかったのであれば、彼の霊が洋館に憑いている可能性もある。エイディンでなくとも、別の霊と対話して解決の糸口が掴めないだろうか――。
だが、洋館自体に霊が憑いている様子はなく、あやこの左目に投影されるものは何もなかった。かわりに、洋館全体から感じとれたのは、もっと別の、人間や霊などとはある種を殊にした気配。
そんなあやこの傍らで、和多が洋館の扉を開くべく、鍵穴に鍵を差し込んだ。だが。
「…………?」
のんびりとしている和多の様子に痺れを切らしたあやこが、半ば苛立たしげに言い放つ。
「どうしたっていうの?」
「……鍵が合わない。碧摩さんから借りた鍵……」
「は? 碧摩さんが間違った鍵を渡したっていうの?」
和多はあやこの疑問に答えることなく、ゆっくりとドアノブをまわした。
「……開いてる」
初めから鍵が閉められていなかったのだろうか。扉は軋んだ音を立てながら、何の抵抗もなく開かれた。
あやこは腕を組むと、軽く溜息を零しながら言い放つ。
「さっきのおばさんが開けておいてくれたんじゃないの?」
「…………」
玄関脇に掲げられた灯火に照らされて、四人の影が暗い室内へと長く伸びている。和多はそれを見つめながら、本当にそうだろうか? と考え込んだ。
仮にも大昔の人形が置かれている洋館だ。物好きが肝試しと称して訪れたり、人形を盗みに入る可能性は十分にありうる。第一碧摩が渡した鍵が合わないというのはどういうことだろうか。
沈黙する三人を前に、あやこは組んでいた腕を解くと、和多の横をすり抜けて洋館内部へと足を進めた。
屋敷内には独特のかび臭さが漂っている。その匂いにあやこが無意識に手を鼻へあてた、その瞬間。壁に掛けられているランプに、次々と炎が灯され始めた。
あやこの背後に居たラクスが、明るくなった内部を見渡しながら呟く。
「面白いギミックですね。人が足を踏み入れると、炎が灯される仕組みなのでしょうか」
ラクスが魔術を使って見た通り、扉の向こうには大きなホールと、無数の扉があった。床は白と黒の大理石を交互に組み合わせて敷かれており、ホールの中央にテーブルが一つ。その上にガラスの小瓶と金色の鍵が置かれている。
「穴に落ちたアリスが、一番最初に辿り着いた場所と近い造りだね……あれは何だろう」
響を抱きかかえながら、ぐるりと周囲を見渡していた遠夜が、あるものに気付いて壁へと歩み寄った。
入り口を入った正面、扉と扉の間に、銅製のプレートが掛けられていた。この洋館が出来たのと同じ頃に掛けられたものだろうか。
『我が最愛の娘 アデレードにこの世界を捧ぐ』
古くさび付いたプレートには、そう記されている。
恐らくエイディンが娘に宛てて彫った文字だろう。だが、その文字の真下に書かれた文章を見ると、遠夜は思わず首を傾げた。
―― 鍵を持っている人は歓迎 ――
銅版に彫られた文字とは異なり、その一文だけが赤黒いペンキのようなもので綴られている。筆跡も随分と乱れており、まるで子供が書いたもののようだ。
「鍵を持っている人? 僕達のことかな」
ここにあるのは、碧摩から借りた銀製の鍵と、テーブルの上に置かれた金の鍵だけだ。
『持っている』というのだから、元々洋館内にあった金の鍵はこれに当てはまらないだろう。とすれば、自分達が持つ銀製の鍵を指しているのは明白だ。
考え込んでいる遠夜の傍らに歩み寄った和多は、無表情のままプレートに書かれた文字を見つめた。
銅版に彫られた文字には埃がたまり、随所に錆が見られるのに対し、赤黒い文字だけは、ほんの数刻前に書き記されたばかりのように鮮明だった。
「大昔に、書いたものには見えない。人形の中の誰かが……書いたのか?」
だとすれば、どの人形が、何の目的で書いたものなのか。
だが、霊的な事を感知する事が出来ない和多には、その文字から何かを感じ取る事は出来なかった。
「おいで、僕らのアリス。不思議の国の扉は開かれてる」
遠夜が広いホールに向ってそう言葉を放つ。
けれどその声は僅かに反響しただけで、遠夜の目の前にアリスが現れる事はない。
「なんだろう、この僕にそぐわない台詞……とは言え、アリスは呼び声に引き寄せられて不思議の国に落ちたしね……戻ってくれると良いけれど」
周囲を見渡しながら遠夜が呟くと、胸に抱かれていた響が小さく鳴き声を上げた。遠夜は視線を響へ向けると、響を床へ下ろした。
「響、お前も彼女を探しておいで」
遠夜が言うと、響は一度鳴き声を上げたあとで、空気に溶け込むようにしてその場から姿を消した。
そんな中。あやこは持参していた懐中時計を手に取ると、気持ちを静めた。動き回る人形に部屋。チェシャ猫がこの場所に来た事があるのならば、その時まで時間を歪ませれば、現れるかもしれない。
それが功を奏したのか、円形ホールの空気にひずみが生じ、上空から、四人のものとは違う異質な声が聞こえてきた。
『……呼んダかい?』
全員が上空を見上げると、そこには不敵な笑みを浮かべた巨大な猫の頭部が、姿を現していた。
◆◇ The Cheshire Cat ◇◆
「チェシャ・猫!」
あやこは上空に現れた猫を確認すると、思わずそう叫んだ。
チェシャだと一瞬でわかったのは、耳から耳まで大きく裂けた口元と、不気味なニヤニヤ笑いの所為だ。不思議の国のアリスの世界で登場する唯一の猫。チェシャは小馬鹿にするような目線で、四人を見下ろしている。
そんなチェシャを見上げながら、ラクスは呟く。
「頭部だけしかありませんね……それに人形が宙に浮いているというのは非常に興味深いです」
浮遊する猫の頭部。それだけでもかなりの大きさだった。もし全体が現れたら一体どれほどの巨大な姿なのだろう。
人形なのだから毛など生えているはずもない。だが毛並みの描画は妙にリアルで、耳や鼻、不敵な笑みを浮かべる口元も含め、猫の骨格を熟知している者でなければ到底作りえないものだとラクスは思った。
チェシャの持つ、金にも近いガラスの瞳が、部屋に灯された明かりを受けてぎらぎらと光っている。その瞳を一度大きく見開くと、チェシャは興味深そうに四人へと話しかけてきた。
『厄介なモのを持ッてイる奴らが来たもンだ』
「厄介なもの?」
チェシャの言葉を、和多が反芻する。
チェシャはかわらずニヤニヤと笑いながら、目だけで和多の持っていた銀色の鍵を示してきた。
『そレの事さ』
「……この鍵、何かあるのか?」
呟きながら、和多は己の手に握っていた銀の鍵を見つめた。
銅製プレートに書かれた文字といい、このチェシャといい、何故ここの住人達は碧摩から借りた銀の鍵に過剰反応を示すのか。和多は思いながらチェシャを見上げた。だが、チェシャは笑うだけでそれに答えようとしない。
そのまま沈黙した和多を他所に、再びあやこがチェシャへと話し始める。
「チェシャ猫! あなたがアリス・ドールを連れて行ったんでしょう!? 一体何処に隠したのよ」
自信たっぷりに言うあやこに、チェシャは一度ぎらりと金の瞳を光らせると、言葉を返してきた。
『根拠はアるのカい?』
「ないわ!」
即座に、あやこがふんぞり返りながら答える。
チェシャは相変わらずニヤニヤと笑いながらあやこを眺めていた。だが、あやこが手にしている人形に気付くと、途端に声の調子を抑えてこう言い放った。
『あンたが持ッてる人形、アリスに遭う前ニ捨てタ方が良イね』
見たくないものを見てしまったというように、チェシャはふいと視線をそらす。あやこはそんなチェシャの態度に憤慨した。
「冗談じゃないわ、せっかく作ってきたのに。どうしてこれを捨てなきゃならないのよ」
ミリタリーブランドの社長やら、ブティック、ジャズカフェバー、蛾妖怪の芸能プロダクションなどを経営しているあやこが、多忙の合間を縫って作り上げた人形だ。人形作家と違ってそれ一つに没頭できる時間など、あやこにはない。
どれだけの労力を費やしてアリス人形を自作してきたと思っているんだと、あやこは思わずチェシャをにらみつけた。
だが、チェシャはそ知らぬ風だ。
『理由ヲ知りタけりゃ、アリスを探しにイきな』
「だからあんたがアリスを連れて行ったんでしょう!」
『根拠はアるのカい?』
苛々しているあやこを見下すように、チェシャが同じ言葉を繰り返す。これではいつまで経っても堂々巡りだ。
そんな二人のやり取りを見ていた遠夜が、思わず仲裁に入った。
「待って!」
遠夜の声に、あやことチェシャが会話を止めた。何事だと、二人が遠夜の方へ視線を向けてくる。
遠夜は一度軽く溜息をつくと、一歩前へ出ながらチェシャへと問いかける。
「君は本当にアリスの居場所を知らないのか?」
チェシャは、遠夜の質問には答えず、ただ瞳を細めながら笑うだけだった。
知っているのか、知らないのか。知っていても教えたくないのか――。
ただわかるのは、チェシャが自分たちに、アリス・ドールの事に関する助言を与えるつもりはないということ。
遠夜はチェシャを見上げながら、言い方を変えて探りを入れてみる。
「それなら、どこかにアリスの居場所を知っている人形は居ないかな。居たら教えて欲しい」
『さテね。歩き続けレば、そノうち見つカるんじャないカい?』
「歩き続ける……」
チェシャの言葉を受けて、遠夜はぐるりと周囲へ視線を巡らせた。
玄関の先に十以上を越える扉。屋敷にある人形をはじめ、部屋自体が動いているのであれば、チェシャの言葉を真に受けて闇雲に歩くのは流石に躊躇われる。
一体どうしたらよいのだろうかと、遠夜は再び軽い溜息を零した。
一方、ラクスはチェシャとの会話に混ざることなく、周囲の状況を観察していた。
洋館内部に灯された明かりは蝋燭のみ。蛍光灯と比べると、やはりどうしても明るさが足りなかった。
そんな薄暗い中で玄関ホール全体を見渡しただけでは、部屋にあるギミックに気づく事など出来るわけがない。
ラクスはそう思い至ると、扉の一つ一つを念入りに調べ始めた。
「ゴシック調の装飾が施された扉は全部で12。先ほど外周から見た部屋数と同じです。とすると、ここから全ての部屋に辿り着く事ができるのでしょうか……」
そんなことを呟きながらラクスが一つの扉の前に立った時だった。何か妙な違和感を覚えて、ラクスは思わず首を傾げた。
「全く同じ造りの扉のように見えますが、どこか変ですね」
ラクスは再び12の扉を一つづつ調べると、中央の扉の前に立って思案しながら呟いた。
「ドアノブに鍵穴がある扉と、そうでない扉があります」
鍵穴の無い扉のドアノブを回しても、ピクリとも動かない。では鍵穴のある扉はどうか。
ラクスは鍵穴のついたドアノブに手を伸ばすと、静かにその扉を引いた。
鍵がかかっているのか、やはり扉が開く事はなかった。けれど鍵穴の無い扉と違い、それはガタガタと軋んだ音を立てて揺れ動いた。
「もしかしたら……」
ドアノブに鍵穴のあるものだけが先へ進む事の出来る扉で、それ以外は全て目くらましの為に作られた扉なのではないだろうか。
ラクスは思い至ると、ホール中央にあるテーブルから金の鍵を取り、それを鍵穴へと差し込んだ。
案の定、鍵は簡単に外れ、先へと通じる通路が姿を現した。
「騙し扉です。このホールにある扉の殆どは、壁に飾られた絵と同じ。本当に先へと続いている扉は四つだけです」
ラクスが全員に向って声をかけると、遠夜と和多、あやこが開かれた扉へと走り寄ってくる。ラクスは男性が自分に近づいてくるのを見た途端、あやこの背後にすかさず隠れた。
扉の向こうには、薄暗い廊下が続いていた。
床には赤い絨毯が敷かれており、壁には火の灯された蝋燭と何かの絵が掛けられている。
和多はそれを確認すると、視線は前方へ向けたままで、独り言のように呟いた。
「4つ……どれを選ぶかによって、この先にある人形が違うのか」
和多の言葉に、遠夜が頷く。
「そうだね。でも部屋自体が動いているのだから、扉を選択することには、あまり意味がないと思う」
『1ツは涙ノ泉。1ツは青虫のジジイ。1ツは胡椒。あトは帽子屋と三月ウサギがイる部屋サ』
空中に漂っていたチェシャが、背後から全員に向ってそんな言葉を投げかけてくる。四人が振り返ると、チェシャは耳から耳まである口を、ニイと奇妙に歪ませて、至極愉快そうに呟いた。
『ココにイるのは、どいつモこいつも気ちガいさ。アリスを筆頭ニな』
行くのなら、せいぜい注意するんだね。と、そういい残すと、チェシャは空気に溶け込むようにしてその場から姿を消した。
◆◇ A Mad Tea Party ◇◆
チェシャが消えると、四人は暫く考えた後で、ラクスが開けた扉の奥へ進む事にした。
廊下の壁に掛けられていたのは、よく見ると大きく引き伸ばされたセピア色の写真だった。一枚一枚丁寧に額縁へ入れられた写真の下には、撮影年月を刻印した小さな銅製のプレートまで付けられている。それはまるで一人の少女の成長記録のようで、赤ん坊の姿に始まり、幼少期、10才程に成長したへ姿と、廊下を進むに従って少しづつ少女の姿が大人びてくる。
「……お嬢さんでしょうか」
ラクスが、写真に映し出された少女を見ながら呟く。
遠夜は碧摩から借りた写真と、壁に掛けられた写真とを見比べてみた。
腰辺りまである柔らかなウェーブの髪を持った女の子――。
「アデレードだ……でもどうしてだろう。成長するにつれて、笑顔が消えていくみたいだ」
五歳、六歳あたりを境にして、アデレードの表情から笑顔が全くといって良いほど失われていた。どこか遠くを見つめるような、気だるげな表情を湛えたアデレードの姿からは、言い知れぬほどの負の感情が伝わってくる。
この当時、母親はすでに居らず、娘の為とはいえエイディンは工房にこもって人形制作に没頭していたはずだ。自分の為に人形を造り続けた父親の姿を、アデレードはどう捉え、何を思っていたのだろう。
そんな事を考えていた時。ふと一枚の写真に気付いて、遠夜は思わず足を止めた。
古ぼけた写真の中で、全く同じ背格好の少女が二人、長椅子に座っている。
「……アデレードが、二人?」
髪型から服装に至るまで、寸部違わぬ姿はまるで双子のようで、遠夜は無意識にその写真へと手を伸ばした。
額に付着した埃を払いのけ、二人の少女を交互に見比べてみる。
「違う……これ、一つは人形だ」
よく見ると、一方の少女の膝や手の甲に球体が仕込まれているのが解った。
虚ろな表情で長椅子に腰掛けるアデレードに対し、寄り添うようにして座っている人形は、とても幸福そうな笑顔を浮かべている。
写真の入れられた額縁へ視線を向けると、そこには『Adelaide And Alise』と彫られていた。
「アデレードと、アリス……アリス・ドール?」
原作の絵の印象が強い所為で今まで考えもしなかったが、自分達はアリス・ドールがどんな姿形をしているのか知らないし、聞いていなかった。
もしかしたらこの写真の中の人形が、アリス・ドールなのではないだろうか。
それに気付いた遠夜が全員に向けて言葉を放とうとした時。
先を歩いていた和多が、微かに眉間に皺を寄せながら立ち止まった。
「……おかしくないか」
遠夜は自分の中に根付いた疑問を飲み込んで、和多に答える。
「和多さん?」
「廊下、少しづつ……傾いてきていないか?」
「……そういえば」
先ほどまで一直線に続いていた廊下が、次第に坂道のように傾斜し始めている。廊下の向こうには漆黒の闇が広がっており、奥に何があるのか判然としない。
ラクスが室内構造を明確にするべく魔術を用いようとした次の瞬間、何の前触れもなくガクンと大きな音を立てて、廊下が急激に傾いた。
「なっ!?」
「……っ!」
それはまるで巨大な滑り台のようで、不意をつかれた四人はなす術もなく、一気に底なしの闇の中へ落ちていった。
*
闇の中、洋館へ足を踏み入れた時と同じように、一つ、また一つと蝋燭の明かりが灯される。
やがて室内が薄ぼんやりと照らし出された時、真っ先に言葉を発したのはあやこだった。
「いったたた……何なのよ、一体」
床に叩きつけられた痛みはあるが、何処も怪我をしていない事を確認すると、あやこは長い髪を掻き上げながら周囲を見渡した。
滑り台の先にあったのは、巨大な木――恐らくレプリカだろうが――。その下にはこれまた大きなテーブルと、無数に並べられたティーカップが置かれていた。
そのテーブルの端に、三体の人形が一列に座っているのを見つけると、遠夜は立ち上がってその傍らへと歩み寄った。
「……マッド・ハッターと三月ウサギだ」
大きな黒いシルクハットに黒い洋装は、間違いなく『不思議の国のアリス』に出てくる帽子屋だ。
マッド・ハッターは、隣に座っている眠りねずみに肩肘を預け、ぎょろりとしたガラスの眼を二つ先に座る三月ウサギの方へと向けていた。三月ウサギは、ティーカップに手をつけながら、これまた眠りねずみに体を預けて帽子屋の方を眺めている。
顔の皺、今にも話し出しそうな楽しげな口元。お茶を飲みながら他愛もない世間話に花を咲かせているようなその様は本当にリアルで、一瞬人形である事を忘れてしまいそうになる。
「この本の中で海がめ同様好きなキャラなんだよね……何でも無い日、お茶を飲もう、祝おうと言う彼が」
そう呟くと、遠夜は無表情を微かに崩して笑顔を浮かべた。
翼を持っていたおかげで落下を免れたラクスは、静かに床へ足を下ろすと、遠夜とは少し距離を保って三体の人形を見つめた。
「ビスクドールですね。それぞれのパーツを針金と紐で繋いで作られているようです。大昔に造られたものなのに、全く朽ちている様子がありません……何か特別な魔術でもかけられているのでしょうか」
父親が娘の為に造ったという人形達が動く理由は何なのか。単に長い年月を経て人形に魂が宿ったのか、それとも何か他に原因があるのか。
ラクスは思いながら三月ウサギへと近づいた。と、その時。
突然三月ウサギの大きな黒目が動き、ラクスを見つめた。
ガラス製のドールアイは、蝋燭の明かりを反射して不気味な程に輝いている。やがて、カクンと音を立てて三月ウサギの顔がラクスの方へ向けられると、ラクスは思わず面食らって後ずさりをした。
そんなラクスを見つめながら、三月ウサギが言葉を発する。
『私の顔に何かついているかな?』
次いで、それまで微動だにしなかった帽子屋の腕が動き出す。帽子屋はティーポットを手にとると、三月ウサギの前にあるカップへ何かを注ぎ始めた。不思議な事に、ティーポットからは湯気が立ち上り、暖かな紅茶が溢れ出ている。
『お茶会に四人も人間が来るなんてこりゃ驚きだ。さて最後に人間が来たのはいつだ?』
帽子屋の問いに、今度は二体の真ん中に挟まって座っていた眠りねずみが口を挟んだ。
『忘れたよ。最初のアリスが来た事は覚えているけどね。君を見て奇妙な顔をしていたじゃないか』
眠りねずみはそういいながら三月ウサギの方を眺める。すると三月ウサギは、ドンとテーブルを叩いて憤慨の色をあらわにした。
『忘れるものかね。百年近く前の話さ! 最初のアリスはワタシの体を突き飛ばして壁に叩きつけたのだから!』
三月ウサギがテーブルを叩いた振動でカップが傾き、注がれたばかりの紅茶が眠りねずみの頭にぶちまけられる。その横では、二体の様子など気にもせず、帽子屋が『もう百年も経ったのか。いかん時計が狂っとる』と呟きながら、自分の手にしていた懐中時計の針を直していた。
突然動き出したかと思えば、怒涛の勢いで喋り始めた三体の人形を前にして、一番冷静で居られたのは和多だった。
和多は三体のやり取りを聞きながら、無表情のまま人形の言葉を反芻する。
「……最初のアリス?」
帽子屋が『最後に来た人間』 と言ったのに対し、眠りねずみが『最初のアリス』と返したのはどういう意味か。
わからない事を一人で考え込んでも埒が明かない。和多は顔を上げると、依然どうでもいい事をわめき散らしている三体へ問いかけた。
「アリス・ドール、知ってるか?」
アリスを探しているんだと和多が告げるや否や、三体は一斉に和多へ向き直ると、
『知っているとも!!』
と大声を張り上げながら矢継ぎ早にこういった。
『最初のアリスは我々人形を嫌っていたのさ』
『そうだ。最初のアリスはアリスを嫌っていたのさ』
『だから最初のアリスがアリスの首をちょん切ったのさ』
『それで怒ったキングが最初のアリスの首をちょん切ったのさ』
『最後にアリスがキングの首をちょん切って、漸く全てが落ち着いたというわけさ』
『尤も、我々にとっては落ち着いた話でもないがね。全くとんでもない気ちがいを創ったもんだ』
「……意味が、さっぱり解らない」
人形達の言葉にはまるで脈絡がなく、そこにアリス・ドールに関わるヒントが隠されているとは到底思えなかった。
製作者であるエイディンが、狂って自殺をはかったというのであれば、やはり彼が作ったものにも歪みが生じているのかもしれない。
もう少しまともな答えを期待していたのだけれどと、和多が小さく溜息を零した時。和多同様、人形達の言葉を聞いていた遠夜が口を開いた。
「管理人の奥さん、確か、アデレードって名前の異形にアリスがあるって言っていた」
「……ああ」
それがどうかしたのか? と言いたげな視線を、和多が遠夜へ向ける。遠夜は三体の人形に視線を向けたまま話を続けた。
「『最後に来た人間』が『最初のアリス』っていう言葉の意味を考えていたんだけど……もしかしたら『最初のアリス』というのは、アデレードの事を指しているんじゃないかな」
「アデレード?」
和多の問いに、遠夜が頷く。
「さっき廊下に写真が飾られていたのを見たよね。その中の一枚に、アデレードと全く同じ顔をした人形が写っていたんだ。プレートには『Adelaide And Alise』と刻印されていた」
「…………」
「『不思議の国のアリス』の主人公はアリス。……和多さんはアリス・ドール=娘ではないって言っていたけれど、エイディンが娘の為にこの世界を作ったのだとしたら、この洋館内の主人公は、アデレードだったんじゃないかって、思う」
アデレードの為の世界を作っていたエイディン。彼が物語の主人公であるアリス・ドールを製作する際、そのモデルとして自分の娘を起用するのは当然なのではないだろうか。
だとすれば、ここへ来た『最後の人間』、即ち『最初のアリス』というのは、アリスのモデルとなったアデレードを意味するような気がする。
「アデレードは人形を嫌っていた。だからアリス・ドールの事も嫌っていた……『最初のアリス』という言葉をアデレードに置き換えたら、少しだけ、マッド・ハッター達の言葉の辻褄が合う」
『最初のアリス』が『アリス』の首を切った――即ち『アデレード』が『アリス・ドール』を壊した。
そして、その事に怒った『キング』が『アデレード』を殺した――。
アデレードはエイディンが狂う直前に失踪したという。だが人形達の言葉を素直に解釈すれば、実際はどこかで誰かに殺害されたのではないか。
「ですが……それだと疑問が残ります」
遠夜の言葉を聞いたラクスが、恐る恐る口を挟んだ。
「お嬢さんがアリス・ドールを壊したのなら、壊されたはずのアリス・ドールがキングを殺すというのは不可能です。第一キングというのは誰のことでしょうか」
「…………」
「……順当に考えれば、ハートのキングの事になるかもしれないけど……」
何かがわかりそうでわからない。そのもどかしさが、遠夜と和多に再び沈黙をもたらした。
そんな三人の会話を聞いていたのか居ないのか。あやこは突然数学の教科書を取り出すと、それを掲げてふんぞり返った。
「そんなまだるっこしい事をしなくても、不思議の国のアリスの作者は数学者だから、数学の教科書を餌にすればアリスを誘き出せるかもしれないわ!」
その言葉に、傍らで沈黙していた三人が思わずぽかんとした表情であやこを見つめた。
あやこはそんなことなどお構いなしに、数学の教科書を片手でひらひらと揺らしながら「アリス・ドール出てらっしゃ〜い」と、何もない空間に向って声をかけている。
誰もがあやこに何と声をかけてよいか解らず度惑っていた時。テーブルに座っていた三体の人形が笑い声を上げた。
『出てくるわけがないさ』
『そんなことをしたって無駄だね』
『無駄無駄。全く持って時間の無駄』
きっぱりと言い放たれて、あやこは憮然とした表情で三体をねめつける。
「腹が立つわね。何故無駄だっていい切れるのよ」
『女王がアリスを閉じ込めたからさ』
三体が口を揃えてそう呟く。
「……女王がアリスを閉じ込めた?」
数学の教科書を掲げた手を下ろし、あやこが怪訝そうな顔で人形達を凝視すると、三体は再び怒涛の勢いで話し始めた。
『鍵が開かなけりゃ永遠にアリスは出られない。即ちアンタがアリスを誘きだす事は出来ないというわけだ』
『100年かけてやっとこさ。ところがどうだい。女王が肝心な銀の鍵を無くしちまった』
『尤も、部屋が開かなけりゃアリスが出てくる事もない。ワタシ等が怯える必要はもうないということさ』
「鍵……」
再び『鍵』という言葉が人形達の口から出た事に、和多は顔をしかめた。
チェシャ猫といいマッド・ハッター達といい、彼らが銀の鍵に固執するのは、恐らくそれがアリス・ドールを閉じ込めた部屋の鍵だからなのだろう。だが何故、何の為にアリス・ドールを閉じ込める必要があったのか。
アデレードがアリス・ドールを壊したと解釈するなら、洋館内から消えたというアリス・ドールはその当時の人形とは別物なのか。
次から次へと疑問が溢れ出てくる中、和多は己の手の内にある銀の鍵を握り締めると、
「……女王を探そう」
そう呟いて前を見据えた。
◆◇ The Queen of Hearts ◇◆
部屋が自在に移動するこの場所で、具体的に何処をどう探せば良いのか。
ただ闇雲に動くだけでは、いつまで経ってもアリス・ドールはおろか女王のもとにさえ辿り着く事は出来ない。
和多はラクスの方へ向き直ると、無表情なままで言葉を放った。
「ラクスさん。洋館内部の動き……解るなら、教えてもらえないかな」
「……えっ」
突然呼びかけられて、ラクスがびくんと肩を振るわせる。
目鼻立ちの整った綺麗な顔をしてはいるが、和多は極端に表情や感情の変化に乏しい。穏やかな笑顔の一つでも見せれば、少しは男性恐怖症のラクスも少しは落ち着かせられるのだろうが、和多にとってそんな表情を作ることは不可能に近かった。むしろ真剣になればなるほど、さらにその顔立ちに凄みが増す。
「女王様。物語の中で、一番偉いんだろう? どこか、洋館の中で、女王様の居そうなところ……例えば一番広い部屋とか」
わからないか? と問いかけながら近づいてくる和多に対し、ラクスは脱兎の如くあやこの背後に逃げ込むと、びくびくしながら言葉を返した。
「この部屋を抜けた先に……あの、螺旋階段があります。その真上に一番広い部屋があるようですが……部屋自体が動き回りますから、間に合うかどうか……」
ラクスの行動に和多は気を害する事もなく、静かに頷く。
「……走ろう」
間に合うかどうかは解らないが、体力には自信がある。和多は全員を促しながら先陣を切って走り出した。
*
長い、長い螺旋階段を駆け上った先に、その部屋は在った。
重厚な扉を両手で押し開くと、これまでに嗅いだ事のないような悪臭が鼻腔を擽り、和多は咄嗟に鼻元を手で覆った。
長年開けられることのなかった密室に生えたかび臭さ。何かが腐食しているような臭いに、頭痛と吐き気を覚える。
だが、なにより和多を驚かせたのは、眼前に広がる凄惨な部屋の光景だった。
「……なん、だ?……これ……」
和多は視界に映し出されたものを思わず凝視する。
入り口付近に大きな薔薇の木が植えられている。同一の木から赤と白の薔薇の花が交互に生えており、その根元には、原型を留めないほど無残に壊された三体の人形が転がっていた。
「……酷い」
あやこの背後から部屋を覗き込んだラクスが、思わず顔をしかめる。遠夜は整った顔を歪めながらも、壊れた人形へと近づいた。
体に四角いカードを背負っているから、恐らく人形はトランプの兵隊だったもの。
「薔薇の木に、五番と七番と……二番の兵隊……ここ、クロッケーの庭だ」
『不思議の国のアリス』に、女王が客人を集めてクロッケーを行った話がある。アリスが不思議の国に紛れ込んだ際、小さな部扉の向こうに見つけた庭。話の中で、その庭は色とりどりの花を咲かせ、噴水から溢れ出る水は太陽の日差しを受けて燦然と輝く、そんな美しい場所として描かれていたはずだ。
だが、今四人の目の前に見えるのは、庭を模した広大な広場に、壊れた人形達の山が転がっているだけの、そんな場所だった。
和多は広場に足を踏み入れながら、改めて周囲を見渡してみる。
「クロッケーの話で、確か、女王様は次々に兵隊や客人の首を刎ねろと言っていた……」
エイディンはそれを忠実に創り上げたのだろうか。
だが、首を刎ねろといいはしたが、その後で全員を釈放したはずだから、誰一人首を刎ねられた者は居ないはずだ。
造花や作り物の木が、茂らせた葉で最奥を遮っている。手入れをされずに放置された芝は、長い歳月を経てその存在すら消えうせ、変わりに黄緑色の苔が床一面にびっしりと生えていた。かびの臭いは、この苔の所為だ。
木槌のフラミンゴにボールのハリネズミ。おそらく公爵夫人として造られたのだろう豪華な衣装を着た人形。それに数え切れないほどのトランプの兵隊。
あるものは手足が砕け、あるものはドールアイをくりぬかれ、そこにある全ての人形が、何処かしらに傷を負っている。
「……誰がこんな事……女王が、やったのか?」
そうであるなら、女王の人形は今何処に居るのか。
木々に遮られて広場の全貌を知る事が出来ず、和多はそれらを掻き分けながら先へと歩き出した。
一方遠夜も、人形の残骸を踏まないよう、半ば誘い込まれるようにして広場の中央まで進むと、うわ言のように言葉を紡いだ。
「消えた人形、消えた人形を探す僕ら。人間のように動く人形……」
そして破壊された人形。
この屋敷の中で過去に一体何が起こったのか。今何が起きているのか。
「ねえ、誰か一人で良い、僕に、僕に触れさせてくれる人形は居るかな……?」
遠夜の言葉に答えるように、僅かに原型をとどめた人形がピクリと動く。だが、喉をつぶされているのか、その人形が言葉を発する事はなかった。
遠夜は一度その人形へ辛そうな視線を投げかけた後で、再び言葉を続ける。
「居るのなら、僕の目を見て、そして教えて。真の望みを――」
アデレードとアリス・ドール。
自分と全く同じ姿の人形を父親に創られて、アデレードは何を感じたのだろう。
喜びか、嫌悪か。それとも――
遠夜がそう思った時だった。不意に自分の足元に何かが擦り寄ってきたのを感じて、遠夜は咄嗟に視線を下へ落とした。そこには、先ほど自分がアリスを探してくるよう命じた響の姿があった。
遠夜は腰を落とすと、響の頭を撫でながら問いかける。
「……響。何か見つけた?」
その言葉に、響はついて来いと促すように一度泣き声を上げて、広場の奥へと向って走っていく。遠夜は振り返ると、その場に居る三人へと声をかけた。
「和多さん、ラクスさん、藤田さん。奥に何かあるみたいだ」
「……奥?」
「木ばっかりで何も見えないわ。何があるっていうのよ」
あやこの溜息交じりの言葉を聞いて、ラクスが緑の瞳を細めながら魔術を行使する。
「奥に、小さな扉があります。扉の前に恐らく人形が一体……扉の奥には……多くのものが蠢いているような気配がありますが……何故でしょうか。詳細が見えません」
魔術を持ってしても、扉の奥の光景だけは見ることが出来ない。だが、そこに得体の知れない禍々しい気配を感じて、ラクスは思わず顔をしかめた。
「行こう。先へいけば、わかるはずだ」
和多の一言で、四人は意を決すると、響の進んだ方向へと歩き出した。
*
腐臭が酷くなる。
芝が朽ちた臭いとはまた別の、何か。それは歩く度に強さを増し、目眩を覚えるほどだった。
その悪臭を堪えながら歩き続けると、ほどなくしてラクスの言ったとおり、小さな木の扉と一体の人形が置かれている場所に辿り着いた。
壁一面に蔦が絡まり、まるで扉を覆い隠すようにして造木が植えられている。扉ノブには太い鎖と錠前が掛けられており、鎖はそのまま、扉に背を預けるように座り込んでいる人形の右手に絡みついていた。
「……人形。女王様?……これが?」
多くの宝石を散りばめた王冠を頭に飾り、前面に金刺繍を施した真紅のベロアドレスを身に纏った人形は、他の人形と異なり虚ろな瞳で和多達を見つめていた。
ドレスの裾から見える片足は、くるぶしから先が失われており、鎖に繋がれていない片手も砕かれている。身に着飾ったドレスがなければ、恐らくそれがハートの女王だとは誰も思わなかっただろう。
女王を見たラクスは、何かを感じ取ったのか、驚愕に満ちた顔で人形を凝視する。
「……人形、なのでしょうか。これは……」
「ラクスさん?」
和多が、どうしたのかとラクスへ問いかける。だが、ラクスはそれに答える事をせず、愕然としながら人形を眺め続けた。
「肌はビスクですが、金の髪……これは人間のものです。瞳も……ドール・アイではありません。恐らく、人間の目を蝋で固めて……それをはめ込んでいます」
「人間の……目だって?」
和多は眉間に皺を寄せながら、再び女王の人形へと視線を向けた。
この人形を作り上げたのは間違いなくエイディンのはずだ。けれど何故、その髪に、瞳に、人間のそれを埋め込む必要があったのか。
この人形から、何か少しでも垣間見えるものはないだろうか。そう思いながら、ラクスはさらに人形の形態を調べるべく、口元で呪文を唱えた。
やがて、ラクスが呪文を唱え終えると、その脳裏に鮮明に映し出された姿があった。
広い洋館の庭先に、鮮やかな金髪の巻き毛を持った一人の女性が佇んでいる。吸い込まれてしまいそうなほど綺麗な青い瞳を持った女性は、腕に赤ん坊を抱えていた。
優しい歌声がラクスの脳裏に響き渡る。女性は子守唄を歌いながら、腕の中で眠る赤ん坊を愛しげに見つめている。
「まさか……」
場面は変わり、辺りは闇と静寂に包まれている。深夜だろうか。ラクスの脳裏に響いていた優しい歌声が、突如悲鳴に変わった。金髪の女性が赤ん坊を連れて屋敷から逃げ出そうとしているのが見える。
女性を追いかけ、引きずり倒している一人の男性。あれは――……
「エイディン!?」
「ラクスさん!」
和多に両肩をゆすぶられて、咄嗟にラクスは我に返った。
人形が抱く過去はあまりにも凄惨なもので、ラクスは震えのとまらない両腕を自らで抱きしめる。
「人形の中に居るのは……アデレードの母親……」
そう。母親だ。腕に抱いていたのは赤ん坊の頃のアデレード。
「……でも、アデレードの母親は、自国に帰った……そう、管理人の奥さんが……」
「自国に帰ろうとした母親を、エイディンが引きとめようとしているのが見えました。ですが……」
アデレードの母親を引き止めようとして、引き止められず、エイディンが殺した。
そして、彼女の死体から必要な部分だけを取り出し、エイディンが人形を作り上げた。ハートの女王は、この洋館内で一番最初に造られた人形。
「見なければ、良かったです……」
こんな惨い過去だと知っていたら、決して覗かなかったのにと、ラクスは酷く後悔しながらその場に崩れ込んだ。
遠夜は女王の傍らに肩膝をつくと、両手で女王を支えながら問いかけた。
「教えて欲しい。ここでかつて何があった? 僕の目を見て、そして答えて」
過去に起きた事件の真相。人形達が切望している真の願い。知らなければ叶えられるはずも無い、解らなければ動きようもない。憂鬱な顔の子が何を思っていたかも――。
遠夜の瞳が、人形の虚ろな瞳を捉える。遠夜の黒い瞳に宿る力が、人形の抱く願いを引きずり出そうとしているのか。やがて女王は微かにその口元を動かし始めた。
『アデ……レイ……ド……』
擦れるほどに小さい声が、人形から零れ落ちる。それは人形が、最期の力を振り絞って訴えかける悲痛の叫びにも感じられて、遠夜は思わず人形の頬に片手を当てた。
「教えて。何が望み? 僕達はどうすれば良い。どうして欲しい?」
『ワタ……シ……ノ……ムスメ……コロシタ……エイデ……ィン……ガ』
キングが最初のアリスを殺したという、マッド・ハッター達の言葉が遠夜の脳裏を過ぎっていく。
最初のアリスはアデレードだ。ハートの女王はアデレードの母親。だとしたら、キングと称された人間はエイディンの事を示しているのか。
『コワ……シ……テ……』
「……な、に?」
『アリ……ス……コワ……シテ……』
「アリスを壊す?」
『エ……イ、ディン……ノ……タマシイヲ……コワシテ……』
人形はそれだけを遠夜に訴えかけると、ふと視線を逸らして二度と動く事はなかった。
遠夜の説明に、和多が無言で扉ノブに幾重にも巻かれていた鎖を解き始める。
不快な金属音が周囲を轟かせた。ここに眠るのは優しい夢物語や童話ではない。酷く残忍で、決して抜け出す事の出来ない悪夢だけだ。
「ちょっと、あんた何してるのよ!」
あやこが和多の様子を見て焦ったような声を出す。
「開けるんだ。扉を」
「は? 何いってるの?」
「視認できるものなら、壊せる」
碧摩が鍵を入手し、自分達がこの場に赴いた。人形の願いが、エイディンという魂の鎖から解き放たれる事だというなら、それを叶えるのが自分達に出来る最大限の事。
「壊すって、本気で言ってる? 相手は狂った人形なのよ!?」
「今壊さないと、多分、永遠に人形達は、アリスドールに苦しめられる……」
鎖をひもとくごとに、ハートの女王は操り人形のようにぐらぐらと揺れる。
複雑に絡まっている姿が、なぜか開けてはいけない扉の番人の如く、人形自らが望んで鎖を自身に巻きつけたように見えるのだ。
この扉の先には恐らく重要な秘密が隠されているのだろう。
最後に巻きついていた鎖が、床に落ちた。同時に、軋んだ音がしてハートの女王が崩れ落ちる。音に反応して視線を走らせた和多と、女王の目が合った。
ハートの女王の――本物の瞳は語っている。
さあ、そこに鍵を差し込んで。
息を呑み、和多は銀の鍵を入れる。その意志を汲み取らなければ、殺されたアデレードの母親は報われない。
和多の手に、鈍い感触が伝わってきた。
「開いた」
呟き、ゆっくりと扉を押し開ける。聞いたことのない声が耳に響いてきた。
『鍵を持ってる人は歓迎。いらっしゃい……』
アデレードと同じ顔をした人形は、そう四人へ告げると不気味なまでに楽しそうな笑顔を浮かべた。
◆◇ The Alice Doll ◇◆
扉の向こうには、十畳ほどの広さの部屋があった。
その部屋の中央に置かれた長椅子へ、アリス・ドールは腰掛けて無邪気な笑顔を向けていた。
『ねぇ、遅かった。鍵を持ってる人は歓迎だから、部屋を動かして誘導してあげたのに。待ちくたびれたよ』
椅子に深く腰掛け、両足をぶらぶらと前後に揺らしながら、アリス・ドールは首を傾げる。
ウェーブがかった黒髪に青い瞳。水色のワンピースを身にまとったアリス・ドールは、原作に描かれている絵とは似ても似つかない姿だった。
だが体の造りや動き、口調に至るまで、これまでみたどの人形よりもアリス・ドールは人間らしかった。滑らかな肌は、遠目から見た限り、人間の子供と何らかわりがない。
部屋を動かしていたのがアリス・ドール自身だったと知ると、和多は先陣を切って室内へ入り込んだ。
女王が身を呈して閉じ込めた人形は、アデレードと同じ姿をしていても、本当のアデレードの性質とは異なるはずだ。恐らくは製作者であるエイディンの残虐性を色濃く受け継いでいる。
和多はここへ辿り着くまでに出会った、壊れた人形達の事を思い出しながら、無表情のままアリス・ドールへと質問を投げかけた。
「……外の人形、壊したのは、君か?」
アリス・ドールは、和多の問いに意味ありげな笑みを浮かべる。
『そうよ。だってこのわたしを閉じ込めようとするし、生意気なんだもの』
「……生意気?」
『ここはキングが最初のアリスのために造った世界だもの。最初のアリスが居ない今、この世界はわたしのものだわ』
何をどうしようとわたしの勝手と、アリス・ドールは笑いながら言い放った。
他の人形を壊しても、罪悪感の欠片も持たないアリス・ドールの素振りに、遠夜は微かな憤りのようなものを覚えた。
子供の持ち得る無邪気さも、度を越えればただの殺戮に過ぎない。
だが、相手はエイディンの造った人形であり、百年もの間野放しにされ続けた特異な存在だ。今更道理が通じる相手とも思えない。
アリス・ドールに何かを訴えたくて、喉元まで出掛かった遠夜の言葉が、音になる事はなかった。
遠夜は深く溜息をついて心を鎮めると、かわりに別の言葉をアリス・ドールへと呟いた。
「アデレードとエイディンは……どうなったのか、教えて欲しい」
母親を殺し、その体の一部を人形に与えるなど、常軌を逸している。女王の人形を作り上げた時点で、エイディンは既に狂っていたのではないだろうか。その狂気の全てを人形制作に向け、創り上げられた人形達はその意志を継いだ。その最たるものがアリス・ドールのように思えてならなかった。
アリス・ドールは遠夜の言葉を聞くと、首を傾げて不思議そうに呟いた。
『さっきから、そこに居るのに。あなたたちには、あれが見えないの?』
「そこって……え?」
返された言葉に、遠夜が訝しげに顔をしかめる。アリス・ドールは、楽しそうに己の座っている左足元を指差した。
床には赤い絨毯が敷かれ、その所々に黒い染みがこびりついている。その染みが一際大きな箇所――アリス・ドールが指差したその場所に、白骨化した二つの遺体が転がっていた。
遠夜はそれを見た瞬間、血の気が引くのを感じて壁へと体を預けた。
この場所は一体何なのか。どうしてこんな所にこんなものがあるのか。
そんな遠夜の思いを感じ取ったのか、アリス・ドールがゆっくりと長椅子から立ち上がり、四人へと笑顔を向けた。
『ここはキングがアリスを造っていた場所。ねぇ、マッド・ハッター達の言葉を聞いたでしょう? それ、私にも聞こえてた。最初のアリスはアリス・ドールの首を刎ねたの。その残骸がこれ』
言いながら、アリス・ドールは長椅子の後ろに在った、無残に破壊された数体の人形を指差した。
『最初のアリスはアリスを嫌ってた。五歳の誕生日の日、キングにクイーンを見せられて、それが自分のママだって気づいたから。この洋館の人形も、キングの事も、全部嫌ってた。だから最初のアリスはアリス・ドールを壊したの。そうして怒ったキングが最初のアリスを殺した。それがこれ』
指差すのは、アリス・ドールの足元に放置されている白骨死体の一つ。つまりアデレードは、父親エィンデンが母親を殺したことに気がつき、エィンデンの作ったアリスを壊した。そしてアデレードは殺された。
『死んじゃった最初のアリスの横で、キングは再びアリス・ドールを作り続けた。でもどうしても上手く造れなくて、三番目のアリスも四番目のアリスも全部壊して、わたしが出来上がった時、喜んで勝手に死んだ。それがこれ』
歌うかのように呟いて、アリス・ドールはエイディンの死体の前にしゃがみ込むと、
『だからわたしは、この洋館に居る『最後のアリス』なの』
そう言って四人の方へと笑顔を向けた。
この洋館内の全てが狂っていると、その場に居た全員が思った。
母親を女王に見立てて人形を作り上げた後、エイディンは十年の歳月をかけて全ての人形を完成させた。
だが、残されたものは一体何なのだろう。
自分の手で娘さえも殺し、最後には自ら命を絶った。自分から離れていこうとするアデレードやその母親を人形に変えることで、永遠に自分の傍に居てくれる者達を造りたかったのだろうか。
だとしたら、それは酷く傲慢で、自己満足なだけの世界だ。
普段温和な和多でさえ憤りを覚え、思わず己の両手をきつく握り締める。
「……壊せば、終わるのか?」
「僕も、協力する……」
和多の言葉に、遠夜が頷く。
女王の人形の願いは、アリス・ドールを破壊する事だった。全ての元凶がこのアリス・ドールなのだとしたら、これを破壊するのが最善策のように思える。
だが――。
しゃがみ込み、それまで笑顔を絶やす事のなかったアリス・ドールの顔が、突如豹変した。その瞳は真っ直ぐにあやこを捉え、にらみつける。
『ねぇ。それはなに?』
「は? それって何?」
突然アリス・ドールに声をかけられたあやこは、一瞬何の事か解からずに目を瞬かせる。持参した数学の教科書の事かとも思ったが、それは違った。
『その人形、なに?』
アリス・ドールは物凄い形相で、あやこがもう一方の手で抱え持っている人形を見つめていた。あやこはそれに気付くと、両手で持ち直しながら自作した人形を前方に掲げる。
「私が自作して持ってきたアリス・ドールよ。原作に沿わせたから、アデレードとは似てないけど、よく出来てるでしょ?」
得意げにあやこが告げた瞬間、パチンと音を立てて自作人形の首が落ちた。
「ちょっと、なにすんのよ! 人が折角作った……」
アリス・ドールの凄まじい気配を感じて、あやこは黙る。
アリス・ドールの体から青い燐光が放たれていた。あやこの自作人形は、どうやらアリス・ドールの逆鱗に触れたようだ。
『……この世界の『最後のアリス』はわたしよ。他のアリスなんか要らないの。鍵を持っている人たちだから歓迎したのに……』
アリス・ドールのその言葉に、初めに出会ったチェシャ猫の忠告が、全員の脳裏を過ぎった。
――あンたが持ッてる人形、アリスに遭う前ニ捨てタ方が良イね――
百年もの間、この洋館を支配していたアリス・ドールが、少しでも己にとって替わる可能性を持つ人形を軽視するはずがない。
「藤田さん、それ捨てて!」
遠夜が咄嗟にあやこへ向けてそう叫んだが、時既に遅く。アリス・ドールは青い燐光を体から放ったまま、顔だけはもとの満面の笑みに戻り、あやこの自作人形の首を踏みにじった。
『ねぇ。わたしをからかいにきたの?』
首をかしげ、可愛らしく言うものの、全身から怒りが迸っているのがわかる。
和多と遠夜が、壊す一心でアリス・ドールに歩み寄った。しかしアリス・ドールは二人の様子にその目的を察したのか、指一本使わず、遠夜と和多の体を弾いた。
二人はうめき声を上げ、床に倒れこんだ。目に見えない強烈な圧迫感が喉もとに押し寄せてくる。
『わたしを傷つける者は許さない。キングの世界を壊す者は許さない』
わたしを壊すつもりなら、その前にあなたたちを殺してあげるわよ。アリス・ドールは笑ったままあやこから残りの人形を奪い取り、壁に投げつけた。人形は粉々に砕け散り、アリス・ドールの燐光は殺戮のオーラへと変わる。ラクスは目を見開いた。
――アリスを傷つける者は許さない。この世界を壊す者は許さない――
アリス・ドールの背後に、気の触れたエイディンの強大な怒りと力を感じる。アリスとエイディンは一心同体となってこの館に生き続けている。この四人が集まったところで、とても太刀打ちできる類の力ではない。
「これは……皆さん、逃げたほうが賢明です!」
危機を感じ、ラクスは叫んだ。アリスの放つ燐光は強烈な輝きを帯び、周囲の空間に歪を生じさせる。アリスの勝ち誇った笑い声が聞こえてきた。
『逃げたいのなら、その人形の代わりに許してあげる。さっさと出て行って!』
アリス・ドールがそう叫んだ瞬間、突然足元が崩れ去り、四人は深い闇へと引きずりこまれる。
『この世界はわたしのものだもの。キングがくれたものだもの。絶対に壊させない! 永遠にわたしのものよ。あははははははははは!』
劈く嬌声。それが、四人の聞いたアリス・ドールの最後の声だった。
*
気づいた時、四人は洋館の外に居た。
「どうなったの!?」
あやこはわけがわからずに洋館を遠目から眺め、叫んだ。
「……多分、放り出されたんだ。アリス・ドールに」
遠夜はアリスに押さえつけられた喉元に手を当て、長い溜息を漏らす。
「洋館内部が動いている様子はありませんが……恐らく私達が洋館の中へ入っても、アリス・ドールに遭う事は出来ないと思います。もし会えたとしても、次は無事に戻れるかどうか……」
エイディンの執念は半端ではない。人形が魂を持ってしまうほど完璧で、完成された世界に入り込める余地も、手を出せる術もなかった。
「他の人形達はどうなるんだろう……」
「解らない。助けたい、けど……」
アリスは再び封印から解き放たれた。洋館の中を自由に移動できるようになってしまったことを思うと、背筋が凍る思いがした。
「碧摩さんに事の詳細を伝えて、後は任せるより他ないのかな。碧摩さんなら、もしかしたら何か手立てを持っているかもしれない」
四人は洋館を見つめる。ひとつの悲劇を見たような気がした。犠牲になったアデレードの想いと母親の意志も、あの中で彷徨い続けているのだろう。誰一人としてアリスを壊せる者はいない。逆に世界に取り込まれ、こちらがアリスに壊される。
その場を立ち去り碧摩のところへ向かおうとしたとき、不意にアリスの笑い声が、夜風の中に聞こえた気がした。
<了>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【0642/榊・遠夜 (さかき・とおや)/男性/16歳/高校生/陰陽師】
【1963/ラクス・コスミオン (らくす・こすみおん)/女性/240歳/スフィンクス】
【7061/藤田・あやこ (ふじた・あやこ)/女性/24歳/IO2オカルティックサイエンティスト】
【7267/八唄・和多 (やうた・わた)/男性/17歳/高校生】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、綾塚です。この度は『アリス・ドール』にご発注くださいまして、まことに有難うございました。
今回は当方でNGワードを設けさせて頂いていたのですが、それに引っかかってしまいまして、長い分何とか良い方向へ持って行こうと努めたものの、やはりどうしてもバッドエンドとなってしまいました……申し訳ございません。
もう少しOPの段階で情報開示をしておけば良かったかなと後悔しておりますが、碧摩さんが後日何とかしてくれていると願って、締めくくりとさせて頂きました。
それでは、また何処かでお会いできる事を願っております。何かご不明な点等ございましたら、遠慮なくお申し出下さいませ。
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