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【さよならのうたを歌おう】
目が覚めたら虫になっていた、なんてベタな話だけれども。
あたしがある日、目を覚ましたら、あたしは闇になっていた。
目を覚ましたのは何時だろう。
あたしの目の前は闇で満たされていて、何時の間にかあたしは意識だけでそこにいた。
だから、もしかしたらこれは夢の続きかもしれない。
水の中にいるようだと思ったのは、海の底の静けさに似ていたからかもしれない。
二本の足で歩いている時は、決して手に入れられない静寂。
それは耳が痛いほどの、孤独の世界。けれど、あたしの心を眠りに誘う優しい空白。
何時ものそれと違うと気づいたのは、体温と同じ温度の水に浸したかの様、肌がなんの感覚も感じないから。
泳ぐつもりで水を掻こうとして、腕がないことに気づく。
起き上がろうとして、足も何もないことを知った。
誰かを呼ぼうとした。声にはならない。
闇を見極めようとして、持ち上げるべき瞼すらないことを知るに至って、ああ、とあたしは気づいたのだ。
あたしはどこにもいない。
ここにいるけれど、ここには何もない。
* * *
あたしは横になっているのか、立っているのかさえよく分からなくて、宙に浮いているのかと、ない首を傾げた。
どこかに指を伸ばそうとするけれど、身体の感覚を思い出そうとする頭は、意識する場所が存在しないと察するなり、ばらばらと残された僅かな感覚すら手放す。
あたしを生きている世界にとどめる紐が、ひとつづつ解けていくように。
それはしゅるしゅると、指の隙間を解けて、目の前の闇に解け消えていく。
あたしは、死んだのだろうか、と思い至った。
昨日までの自分を思い出そうとしたけれど、薄い靄にじゃまされて出来ない。
あたしは何かの拍子で死んで、それでこんな世界にいるのかな、って。
死んだら天国とか地獄とか、楽園とか煉獄とか、そんな色々な名前のつくところに行くのかって思ってたけど、誰もそんなこと保障してくれていない。
死んでも、あたしたちを迎えてくれる世界なんて何処にもなくて、身体も魂もなくなるとしたら、きっとこんな場所なんじゃないかって。
あたしの耳は、あたしの心音を聞き取ってはくれない。
穏やかだからじゃない、あたしの心臓が見当たらないからだ。
音が聞こえないから、死んでいるのかもしれない。
けど、ないのだから確認しようがない。
その矛盾に、温くなった頭で、それでも笑う。
笑い声はあふれず、けれどゆらりと闇が波打った。
* * *
長いことそうしていた。
何もしていないのだから、していた、という表現は違うのかもしれない、とどうでもいいことを考えた。
一時間かもしれないし、一週間かもしれない、一年かもしれない。
あるいは、長く長く引き伸ばされてしまった一秒か、刹那だったかもしれない。
唯、あたしはそこにいて、一人きりなのに少しも寂しくない。
死んだとしたら、昨日まで一緒にいた友だちにも家族にも会えなくて、死んでいないとしても、ここから元に戻る方法なんて知らなくて、じゃあどうして寂しくないんだろう。
ゆら、とあたしがゆらめいた。
あたしはずっと闇だと思っていたけれど、もしかして光が溢れていて、目が見えないだけなのかもしれない。
だってあたしの目の前に広がる闇は今や意味はなくて、だってそれはあたしだった。
海を泳ぐとき、あたしは海の一部になっている感覚を知ることがあったけれ、そんなもんじゃない。
確かにあたしはすべてだった。この場所にある全部。
あたしは何になってしまったんだろう。
誰にも会えなくて、手の一つも動かせなくて、けれ、それは怖くないのに、あたしはあたしが大きく変わってしまったことが恐ろしかった。
もう一度ゆらめいた。
それが、あたしの中にある唯一の感覚。
あたしの心が波打つ度、あたしの身体も応えを返す。
波、は、ほんの少し音楽に似ていた。
音が耳に聞こえる訳じゃないけれど、そのゆらめきが。
何時の日かの学校、夕焼けの音楽室で聞いた音楽。
それが肌をなでる感触と、あたしの波は似ていた。
ああ、なんて曲だっただろう、とあたしは考え込んだ。
とぷん、と揺らめく。
呼んでいる、呼んでいる――。
無言のうた、あたしを呼ぶ声、……。
海の底で珊瑚の華が吐き出す泡沫は、その曲に似ていた。
ぽつりぽつりと吐き出される海のうた。
海に帰る人たちが、無事死ねるように歌われるうた。
あたしは闇になったのだと思った。
闇になった身体から、心音の変わりに聞こえるのは、波のうねり。
泡沫のうた。口のないあたしが歌っているのは、死に行くものが最後に聞くうた。
ああ、死んだのじゃない、あたしは、死になったのだと――気づいた。
とぷん、と何かが落ちる音がした。
あたしの身体に、命が解け落ちて――あたしは黒い腕を広げた。
死に逝く誰かが、あたしの中に帰ってきた音。
あたしは自分の役目を思い出して、波をうたった。
おやすみなさい。
さようなら。
――よい夢を。
了
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