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<Trick and Treat!・PCゲームノベル>


Trick Candy Game



 柔らかそうなオレンジ色の髪に、時折鋭く光るグリーンの瞳。見た目では性別の判断はつかないが、年齢は12歳くらいだろうか。
 リデルと名乗った彼女、ないし彼は華奢な足を必要以上に大きく上下させながら、左手に持ったお菓子のつまった箱を振り回して歩いていた。
 高い壁に、むせ返るような土の匂い。どこへ続くとも知れぬ道は、複雑に枝分かれしている。リデルと歩き始めてからすでに数十分、自分が今どの辺りを歩いているのか分からない。もっと言ってしまえば、自分がどのように歩いてここまで来たのかすらも思い出せない。
「もうすぐで着くからね」
 のんびりとした声に顔を上げれば、リデルの頬がほんの少し、ピンク色に染まっている。普通の状態では病弱なまでに白い肌をしているリデルは、少々興奮した方が肌に色がさし健康的に見える。
 じっと横顔を見つめていた視線に気づいたのか、リデルが戸惑ったように顔を上げると首を傾げた。
 なんでもないと言う意味を込めて首を振り、視線を前に戻す。細い道は数m先で壁に突き当たっており、道が途切れている。
「こっちだよ」
 数歩前を歩くリデルが興奮したように声を上げ、分かれ道を右に行く。瞬間姿が見えなくなち、心細さが胸を圧迫して慌てて追いかけた先、突然道が開けていた。
 広い空間を暫し無言で眺め回し、中央に聳える豪華な建物に注目する。
 レンガ造りの外壁、中央には高く聳える時計塔、ずらりと並んだ窓にはレースのカーテンがかかっており、建物からは良い香りが漂ってきている。
「これからキミに、ここであるゲームをしてもらいます」
 えへんと咳払いをしてから、急に改まった口調で喋りだすリデルに、こちらも知らずに背筋が伸びる。
「まずはこれに目を通して、必要事項を埋めてください。嘘はついたらダメだからね」
 どこから取り出したのか、数項目の質問が書かれた紙と凝った模様が彫られた万年筆を差し出される。ここで書いてねと指をさされた先には切り株で出来た小さな椅子と、椅子に合う高さの木で出来た机が置かれていた。
 椅子に座り、紙に視線を落とす。

1:貴方の年齢・性別・名前を教えてください

「これはね、今の外見年齢を書いて欲しいんだ」
 簡単に書き進め、次の質問に移る。

2:貴方の性格は簡単に言うと?

「大人しいとか、何があっても動じないとか、計算高いとか、そう言う感じだね。そんなに難しく悩まなくて良いから、素直に書いて」
 少し悩んだものの、嘘はついたらダメと言うリデルの言葉を思い出し、素直に自分を分析して書き記した。
「このゲームでは、キミの性格が重要になるからね」
 いまさらそんな事を言われても、万年筆は消せない。少々恨みがましい視線で攻撃すると、リデルが困ったように唇をすぼめた。
「重要にはなるけど、嘘はついたらダメだから‥‥」
 結果は同じだろうと、そう言うことなのだろう。少し肩を竦めただけで気持ちを切り替えると、万年筆と紙をリデルに返した。質問はその2つだけだった。
「ゲームの説明の前に、まずこの建物なんだけど‥‥ここは学校。って言っても、年齢制限はないから、幅広い年代の人が集まってる。ここで教えているのは、悪戯学とお菓子作り」
 お菓子作りは良いとして、悪戯学なんて聞いた事がない。
「どっちも必修なんだよ」
 こちらの言いたい事を悟り、リデルが悪戯っぽい笑顔でそう囁くと緑色の瞳を細めた。
「ゲームは凄く簡単。制限時間内でどれだけの人に悪戯できるか、それを競うんだ」
 左手に持った箱からキャンディーを3つ取り出すと、こちらに差し出した。
「ルールは3つ。1つ、キミが誰かに悪戯されて、それが成功したら1つキャンディーをあげること。つまり、キミが誰かに悪戯して、それが成功したらその子からキャンディーをもらえるんだ」
 人差し指が天井に向けられ、すぐに中指がそれに続く。
「2つ、人を傷付けるような悪戯はダメ。心も、身体もね。3つ、手持ちのキャンディーがなくなったら、調理室まで来ること。そこでお菓子を作って、ゲームが終わったら皆で食べるんだよ」
 リデルの薬指が天井へと向き、親指と小指だけが合わさった状態になる。
「誰かと組んで悪戯しても良いけど、相手からもらえるキャンディーは1つだよ。制限時間は1時間、一番多くキャンディーを手に入れた人が勝ち」
 楽しんできてね‥‥
 その言葉を最後に、リデルの姿がふわりと消えた。
 音もなく開かれる学校の扉を前に、にぃっと口の端を上げるとキャンディーをポケットの中に滑り込ませた。



* * * Innocent Trick * * *



 膝丈のスカートをふわりと揺らしながら、シュライン エマは周囲の様子をまじまじと見詰めた。重厚な木の扉にチョコンとついたドアノブはシュラインの顔の位置にあり、七色に光る重たそうなシャンデリアは首が痛くなるほど見上げなければ見えない。天井がやけに高い分、足元に広がる毛足の長い絨毯は随分近くにあるように感じる。
「珍しいものでもあったのか?」
 やや高い少年の声に顔を上げれば、白の学ランを来た14歳くらいの男の子の深い漆黒の瞳と目が合う。
「こうも視線の高さが違うと、全てが真新しく見えるわ」
 落ち着いたしっとりとした普段の声はどこへやら、今のシュラインの声は細く高い。
「確かにそうかもな」
「武彦さんだってそうでしょう?」
 少年―――草間 武彦は肩を竦めると、目にかかる前髪を手でかきあげた。
 今のシュラインは5歳くらい、この時の身長は平均よりも低かったため、尚更天井が遠く、地面が近く思える。華奢な腕はか弱く、細い髪の毛は背中の真ん中辺りまである。今は耳の上辺りから少量取った髪を後頭部で結んでおり、淡いピンク色の大きなリボンで留めてある。
 普段のシックな装いではなく、今はこの年齢の女の子らしい格好―――ピンク色の小花が散りばめられた白のワンピースは裾にレースがあしらわれており、足元はピンク色の低いヒールのついた革靴、白のソックスは膝下まであり、細かいレースがついている―――をしており、何となく気恥ずかしい。
「それにしても、豪華な部屋ね」
 中世ヨーロッパ風の豪華な広間には、手を触れるのすら恐ろしいアンティークの品々が所狭しと並べられており、レースのクロスがかかったテーブルの上にはこの場にいる人数分のカップと大きなティーポット、クッキーが並べられたお皿とマフィンの入ったカゴが乗せられている。
「シュラインさんに草間さん、紅茶飲まない?」
 ふわりと耳に心地良い少年の声に顔を上げれば、ニコニコと愛想の良い笑顔を浮かべて手招きをする16歳くらいの少年と目が合う。整った顔立ちは少女のようでもあり、長いウィッグでもつければ完璧に女子高生として通じるだろう。160cmない身長や華奢な体つきもまた、繊細な少女のそれとよく似ていた。
「草間のところでは到底出せなさそうな紅茶だぞ」
 腰に来る低音の声は、金髪の少年―――桐生 暁―――の隣から発せられていた。
 茶色と言うよりは赤に近い髪をオールバックにし、白のスーツを着こなした彼は、暁の隣に立っていてもなんら違和感のない美形だった。
「冬弥君‥‥よね?」
「あぁ。分かってもらえて嬉しいよ」
 梶原 冬弥は本来ならば19歳の、子供と大人の中間にあるような不安定な年頃のはずだが、今の冬弥は外見年齢30代後半から40代前半ほど、しっとりと落ち着いた紳士へと変貌している。
 目じりに刻まれた皺は優しく、やや薄くなっている感じのする茶色の瞳は慈悲深い。これで紳士的な立ち振る舞いが出来れば高級ホテルのフロントマンか、もしくは大富豪の執事かと言うところだが、残念ながら中身は普段の冬弥のままだ。
「梶原は大人になったらそうなるのか‥‥。もし冬香だったらどんな女性になるんだろうなー」
 ニヤリと意地の悪い笑顔の武彦に、冬弥が苦々しい表情で唇を噛む。
 絶世の美少女・神矢 冬香は冬弥の女性版で、あまりの美少女っぷりに思わず写真に収めずにはいられなかったほどだ。
 シュラインは未だにあの写真を大事にしている―――と言うよりは、机の中に入れっ放しになっている。興信所の武彦のデスクの中にも冬香の写真は入っており、時折何かの為に使っているようだったが、何のために使っているのかはあえて問いただしていないシュラインだった。
「きっと冬香さんでも綺麗な淑女になっているでしょうね」
 邪気のない笑顔でシュラインがそう言い、暁からカップを受け取ると口に運ぶ。薫り高い紅茶は甘く、ほんのりと酸味がきいていて美味しかった。
「うむ、マフィンもクッキーも絶品だ!」
 暁と冬弥から椅子1つ分離れたところに座っていた黒髪の少年が、頬にクズをつけながら幸せそうにもしゃもしゃと口を動かしている。
 白のブレザーは暁と同じところのもので、胸元には金色の校章が光っている。
「皆も食べないか!コレは食べないと損だぞ!」
 手招きをしている彼は、ラン ファー。もっとも、本来ならば彼ではなく彼女なのだが、元から中性的な美形のランは性別が変ろうともさほど周囲に違和感を与えていない。
「特にシュラインは沢山食べろ!でないと大きくなれないぞ!」
「‥‥本来なら大きいはずなんだけどね」
 苦笑しながら、ランが差し出したマフィンを受け取る。スライスしたアーモンドの乗ったマフィンは生地にチョコレートが練りこまれているらしく、独特の甘い味が舌全体に広がる。ほんのりと大人っぽい味がするのは、ラム酒が入っているためだろう。
「これ凄く美味しいわ‥‥」
「だろう!?」
 まるで自分が作ったもののように、ランが誇らしげに胸を張る。
「そう言ってもらえるととっても嬉しいわ」
 芯の通った真っ直ぐに響く声と共に重厚な木の扉が開く。長い茶色の髪を後頭部の高い位置でキュっと縛った女性が広間に入ってくる。美人と言う部類に入れても良い容姿をしている彼女は、真っ白なエプロンの下にはシックな色合いのワンピースを着ており、それが如実に彼女の仕事を語っていたが、気が強そうな凛とした表情はメイドと言うおっとりとした仕事とは相反するもののようだった。
「あたしが作ったのよ、それ」
 年の頃は20代前半程度、シュラインより4歳か5歳程若そうな彼女は腰に手を当てるとにっこりと微笑んだ。
「ふむ、お前が作ったのか!なかなか良い仕事をしているな!」
「有難う。これでもあたし、この学校の料理長の娘だから」
「紅茶もとても美味しいわ」
 ドンと胸を叩き、誇らしげな彼女にそっと伝える。深い緑色の瞳が暫し宙を揺らめいた後にシュラインの上に注がれ、パチリと大きな二重の目が瞬く。
 あぁ、彼女は私の実年齢を知らないんだわ―――そう思い当たったシュラインが助け舟を出そうとする前に、美人な彼女は大人が子供に見せる特有の優しく慈悲深い笑顔を浮かべた。
「有難う、気に入ってくれて嬉しいわ。その紅茶は、あたしのお父様‥‥料理長が好きな紅茶なのよ」
「コレ、蜂蜜か何か入ってるの?」
「そうよ、よく気づいたわね」
 暁の問いに、彼女は満面の笑顔で手を叩いた。茶葉もお父様が自分で栽培し、蜂蜜も自家製なのだと言ってにっこりと無邪気に微笑む。
 どうやら彼女は心の底から父親の事を尊敬しているらしい。
「とても素敵なお父様なのね」
「えぇ、あたしの憧れの人だわ。お母様も、とても優しくてお茶目な方なのよ。自慢の両親だわ」
 思わず温かい気持ちになる。彼女の純粋な心は優しく、どんなに素敵な家族なのだろうかと、想像せずにはいられない。
 両親の事を話すたびに輝く彼女の瞳は、とても綺麗だった。
「‥‥あら、やだ!あたしったら、またお父様とお母様の自慢ばかり‥‥!」
「良いじゃないか。こんなに素直に家族の自慢をされたのは久しぶりだ」
 武彦の口調は柔らかい。見上げれば、微かに上がった口角と優しい視線。あまり見せない武彦のその表情に、思わずシュラインも表情が緩んでしまう。伝染する優しい気持ちと柔らかな表情は、恋する乙女の特権だ。
「お父様とお母様の自慢ならいくらでも言っていられるけど、今はゲームをする事が先」
 パンと胸の前で手を打ち、気持ちを切り替えたというように深呼吸をするとキリリと表情を引き締める。
「自己紹介が遅れたけれど、あたしの名前はマリー。今回のゲームの責任者よ」
 茶色の髪が揺れ、それを結ぶ赤いリボンが同じく波打つ。
 マリーと名乗った女性は自分が入って来た扉を示すと、胸元に下がった銅色の懐中時計の蓋を開けた。蓋の部分には複雑な文様が掘られており、一目で高価なものだと言う事が分かる。
「こっから先が会場になっているわ。今から1時間、楽しんできてね」



* * *



 性格を一言で括るのは難しいが、シュラインは欄に動じず応用を考えると書いた。
 草間興信所で事務員をし、必要な時には調査員としても駆り出される事の多い彼女は、何が起きても―――超常現象の類だろうが、それに限らずとも突拍子もない厄介ごとだろうが―――動じずに最善の行動を選択しなくてはならない。
 特に人の命が関わっている時は、慎重になりながらも迅速に決断をしなくてはならない。
 幸か不幸か、興信所で働いてからその能力に磨きがかかっている気がする。
「シュライン、黒板消し」
 考えに耽っていたシュラインの頭上から声がかかり、はっと顔を上げる。
 教室から持ってきた椅子に立った武彦に黒板消しを渡すために、背伸びになる。武彦が気づいてしゃがみ、四角いそれを受け取ると扉の上部に挟みこみ、手を離しても落ちない事を確認すると椅子から下りる。
「あと黒板消しはいくつあるんだ?」
「今ので最後よ」
 武彦が思案顔で目を伏せ、ゆるゆると視線を左右に振る。やや長い前髪が蛍光灯の光をキラキラと反射し、ふっと唐突に顔を上げた武彦の動きに合わせるように、細い髪がさらりと靡く。
「あと2つは欲しいよな」
「あら、どうして?」
 そもそも、シュラインは1つだけ仕掛けるつもりだったのだが、武彦がどうせなら幾つか仕掛けた方が効率が良いと言い張り、1−Aと書かれたプレートの入った教室から順番に黒板消しをセットして行ったのだ。
「あと2つあれば、全部の教室に仕掛けた事になるだろう?」
「そんなコンプリートを目指さなくても良いと思うけれど‥‥」
「いや、でも、あと2つなんだし‥‥」
 変なところで細かいのねと、声には出さないながらも内心で思いながら、シュラインは理知的な切れ長の目を細めた。
「教室には置いてないと思うから、マリーさんに頼まなくちゃ‥‥」
 教室には黒板消しはおろか、チョークすらも置いていないこの学校は、小物は全て魔法で創り出しているらしい。マリーに言わせれば、大きなもの以外は魔法で創り出した方が簡単だしお得なのだと言う。
 確かに一理あるわねと、シュラインは環境に優しいこの学校に心の中で拍手を送った。
「すまないが、シュライン1人で行ってくれるか?」
「良いけれど‥‥」
 武彦さんはその間どうするの?言葉に出さなくても伝わる問いに、武彦が胸元をチョンチョンと指差した。
 白の学ランの胸元、金色のラインが1本引いてあるポケットの中には四角い何かが入っている。
 煙草が吸いたいのね―――
 シュラインはどうぞ行ってきてくださいと身振りで示すと、スカートを広げながら踵を返した。
 普段ならばさほど長いとは感じないだろう廊下は果てしなく長く、狭い歩幅は何時も以上に足を動かさなければなかなか前に進まない。やっと廊下の端にある厨房にたどり着き、そっと扉を開ければマリーがボウルを片手に必死に泡だて器を回しているところだった。
 真剣な横顔に声をかけるのが躊躇われ、シュラインは半分ドアを開けて片足を中に突っ込むという中途半端な体勢のまま固まった。中に入って声をかけるべきか、それともまた後で来るべきか。悩んでいた時、ふっとマリーの顔が上がり、深い緑色の瞳と目が合った。
「ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんだけれど‥‥」
「全然邪魔なんかじゃないわ。お菓子を作ってる時はつい真剣になっちゃって、眉間に皺が寄っちゃうの」
 泡だて器の入ったボウルをテーブルの上に置き、マリーが人差し指で眉間を揉む。
「お父様とお母様にもよく言われるのよ、マリーはお菓子を作ってる時は怖いって。心では楽しくて嬉しくて笑ってるつもりなんだけどね、どうも表情との連係プレーが上手く行かないみたい」
 肩を竦め、茶目っ気たっぷりの微笑みを浮かべると、マリーがシュラインと視線を合わせるように膝を折った。
「それで、どうしたの?」
「黒板消しをあと2つほどお願いできないかと思って‥‥」
 パチリ、大きく瞬きをしたマリーは唇を窄めると一瞬シュラインから視線を外し、ゆっくりと戻した。
「もしかして、全部の教室に仕掛けようとしてる?」
「武彦さんが‥‥」
「あぁ、あの子か‥‥意外と細かいんだね」
 シュラインの年齢も武彦の年齢も見た目のままだと勘違いをしているマリー。どうやらリデルに書いて渡した紙は彼女には届いていないらしい。
 一言言い添えても良いのだが、今のところ特に困った事は起きていないので、あえてそのままにしている。
 それに、子ども扱いされるのも久しぶりだしね―――
「待ってて、今用意してあげるから」
 マリーが背筋を正し、細い両腕を頭上に掲げると胸元に下ろす。両手が合わさり、チューリップの蕾のように手を丸め、開花させる。細かい七色の光が走り、清潔な厨房が刹那だけお菓子箱のように賑やかな色彩に染まる。
 キラキラと散らばっていた光が再びマリーの掌に戻り、ゆっくりと2つの黒板消しへ姿を変える。
「綺麗ね‥‥」
「魔法だもん。夢がないとね」
 シュラインの小さな手にそっと黒板消しを乗せると、マリーが悪戯っぽい微笑を浮かべた。優しい手がシュラインの頭を撫ぜ、くすぐったいような甘い気持ちが心の奥で芽生える。
 こうやって頭を撫ぜてもらう事なんて、普段のシュラインにはほとんどない。幼い頃に忘れてしまった感覚が戻り、シュラインは心からの微笑を浮かべるとマリーの目を見つめた。
「ありがとう」
「素敵な悪戯を」
 ヒラリと手を振り、シュラインは厨房を後にした。
 廊下には武彦の姿はなく、まだ煙草を吸っているのだろうと見当をつけたシュラインは、どこか外へ出る扉はないかと周囲を見渡した。
 くの字型に折れ曲がった廊下を曲がり―――つるり、足元が不安定になった。あっと思う間もなく軽い身体は後ろにひっくり返り、転ぶと思った瞬間に背中が温かい何かによって支えられる。
「ふむ、まさかエマがひっかかるとはな」
「ランさん!?」
「いかにも。私はラン・ファー様だ」
 振り返ればランの透き通った緑色の瞳と目が合う。ランがシュラインの腰に手を当て、ひょいと持ち上げると足や腕を観察し、大きく頷くと床に戻す。
「怪我はないようで良かった。本来ならば草間が引っかかる予定だったんだが‥‥」
 甘い匂いは嗅いだ事のあるもので、足元を見なくともソレがバナナの皮だということは分かっていた。
 古典的な悪戯に引っかかった事に苦笑しつつ、やけに強いバナナの匂いに眉を顰める。チラリと後ろを向けば、磨き上げられたタイルの上には膨大な数のバナナの皮が撒き散らかされており、シュラインは思わず言葉を失った。
「‥‥‥‥‥あの、ランさん‥‥このバナナの皮の量はいったい‥‥?」
「どうせならば豪華な方が良いだろう?」
「豪華って言うか‥‥」
 シュラインは言葉を濁すと、ポケットの中からキャンディーを1つ取り出してランに差し出した。
 ランが次こそは武彦が引っかかりますようにと、呪文のようにブツブツ言っているのが聞こえ、思わず苦笑する。
 バナナの皮の海を渡った先には外へ出る扉が見え、シュラインは苦労しながらそこまでたどり着くと全身に絡みついたバナナ臭を振り切るかのように、勢いよく扉を開けた。



* * *



 ふわりと冷たい風を頬に感じながら、そこに含まれた煙草の匂いにほっと安堵する。
 よく目を凝らせば紫煙が白く細く漂っており、シュラインはそっと気配を消すと煙草の煙に近付いた。
「‥‥‥って言うか梶原、お前は未成年じゃなかったか?」
「今は成人してる。草間こそ、未成年じゃないか」
「‥‥本来なら成人してるはずなんだ」
 2人が息を吐くたびに白い煙が舞い踊る。楽しそうな会話は盛り上がり、シュラインは完全に出るタイミングを失ってしまった。
 暫く校内を見回ってから帰ってこようかしら―――変な遠慮が頭をもたげ、2人に背を向ける。
 校内に戻るには再びあのバナナの皮を飛び越えて行かなければならない。それはそれで大変だ‥‥。あの海を往復することは、考えただけでも疲れる。
 少し寒いけれど、建物の周りをグルリと一周するのも良いかも知れない。そう考え、抜き足差し足とは行かないまでも、足音を立てないように気をつけながら歩いていた時、不意に視界が塞がれた。
「だーれだっ♪」
 少年っぽいやや高い声は聞きなれたもので―――そもそも、こういうことをしそうな人はこの学校に1人しかいない。
「暁君でしょ?」
 シュラインは間髪いれずに言うと、首を捻って上を向いた。
「ざーんねん☆冬弥ちゃんでしたー!」
 後ろに立った人物に、シュラインは開いた口が塞がらなかった。
 赤い髪を後ろに撫で付けた紳士が、渋い顔で頭を掻いている。その後ろからは悪戯っぽい表情を浮かべた暁が見え、武彦が苦笑しながら成り行きを見守っている。
「冬弥君だったの‥‥?」
「んな目を丸くするほど意外だったか?」
「‥‥意外は意外なんだけれど‥‥もしかして、私がいたのにも気づいていた?」
「気づいてたよ。だって、スカートの裾が見えてたからな」
 外には弱いながらも、スカートや髪を揺らす風が拭いている。普段はあまり広がらないスカートを履いているだけに、よく広がるこのスカートは盲点だった。
「今の悪戯は暁君の案でしょ?」
「そうだよ。俺が冬弥ちゃんにゴーサイン出したんだ」
「あの時の梶原の嫌そうな顔が可笑しかったな‥‥」
 くっくと低く笑う武彦に、冬弥が鬼の形相を向けるが、温和そうな紳士の顔は多少歪んだとしてもさして恐ろしくはならない。
「古典的な悪戯に引っかかり続けてちょっと悔しいけど、冬弥君に目隠しされるなんて今後一切体験出来なさそうだから、良い経験と思えばちょっと得した気分ね」
「良い経験の意味が分からないんですケド」
「あー、シュラインさんズルーイ!冬弥ちゃん、俺にもして?め・か・く・し♪」
「‥‥お前ら、俺をからかってそんなに楽しいか!?」
 そうやって素直に反応を返すから面白いのだと思いつつ、教えてはあげない。
 もし教えてあげたとしたら、素直な性格だからこそ、冬弥は無理に反応を押し込めようとするだろう。その無理に反応を抑えているいっぱいいっぱいなところが、おそらく新たな笑いを誘い、からかいの対象になるのだろう―――結局は、一緒なのだ。
「そう言えば、引っかかり続けてって言ってたけど‥‥ランさんの悪戯に引っかかったの?」
 そうなの‥‥と頷きかけて、シュラインは口を閉ざした。
 せっかく仕掛けた悪戯をバラして良いはずはない。たとえそれが、普通に見たならば絶対に引っかからないような類のものであろうとも、シュラインが引っかかったように突然目の前に出現すれば思わずと言う事もある。
「とりあえず、中に戻らない?ここはちょっと肌寒いわ」
 上手くとはとても言えないが、何とか話を逸らすと扉の前へ誘導する。冬弥が扉を開け、暁が足を踏み入れ―――ようとしてピキリと固まると目を瞬かせた。
「な‥‥‥何コレ。バナナの皮で海でも作ろうとしたの?」
「‥‥コレに引っかかったのか?」
 武彦が信じられないものを見る目つきでシュラインを見下ろす。
 ―――そんな目をしないで欲しい。こっちだって、何で引っかかってしまったのか不思議なのだから‥‥‥
「豪快な悪戯だな‥‥それより、これはどうやって抜ければ良いんだ?」
「私はケンケンパで来たけれど‥‥」
 バナナの皮のないところを見つけ、ジャンプして片足を着地。再び皮のないところを見つけて―――と、延々繰り返して渡って来たのだ。
「この歳でケンケンパなんてやる事になるとは‥‥」
「大丈夫だって、草間さんはまだ14歳くらいっしょ!?そのくらいの時なら、俺普通に友達とやってたから!」
 苦悩する武彦を鼓舞するように暁がポンと背中を叩いた。何とか違う道はないかと必死に考えているらしい武彦だったが、残念ながら他の手段はないと言わざるを得ない。グルリと建物の外を回れば中に入る入り口がどこかにあるはずだが、変なところから校内に入っても迷ってしまいそうだ。それほどまでにこの学校は大きい。
 シュラインも武彦を励ますべく声をかけようとした時、視界の端に悩める紳士の姿が映った。
「俺なんか、未来への汚点だ‥‥。40代でケンケンパ‥‥」
 その歳になっても軽快な動きが出来るんだって誇りに思ったら良いじゃないと慰めようか逡巡したシュラインだったが、ここは何も言わないでおく方が冬弥の為になるだろうと口を閉ざした。
 どんなに慰めようとも、どんなに勇気付けようとも、バナナの皮の海をケンケンパと言う未来は消えないのだから‥‥



* * *



 よく広がるスカートの裾に注意しつつ、シュラインは廊下の柱に隠れながらコソコソと暁と冬弥の後を追っていた。
 普通の状態で見たならば若干怪しい光景だったが、今は悪戯勝負と言う名の戦場だ。敵に背中を見せる方が悪い。
「なかなか引っかからないわね。やっぱり全部の教室に仕掛けたのがマズかったのかしら‥‥」
 薄く開いた扉はいかにも何かありますよと言っているようなもので、暁も冬弥も入ろうともしない。
「と言うか、教室に入る特別な理由がないからじゃないのか?」
 シュラインの後ろで武彦が声を落としながら疑問に答える。
 何か良い考えはないか?と目で訴えられ、シュラインは喉元に手を当てると眉根を寄せた。子供っぽい高い声は普段と同じように出来るかは分からないが―――やれない事もないだろう。
 暁と冬弥が立ち止まり、前方からランが歩いてくると一言二言何か言葉を交わしている。
 おそらく、あのバナナの皮のことだろうが―――チラリと見える冬弥の横顔から、シュラインは会話の内容を想像した。
 暫く3人の様子を見守り、そろそろ良いかと言うところですっと息を吸い込む。喉に気持ちを集中させ、声を限りに叫んだ。
「大変大変!悪戯勝負どころの騒ぎじゃなくなっちゃったよ!」
 優れた音の記憶は、少し話した程度のリデルの声をきちんと記憶しており、忠実な声帯模写によって発せられた。
 ガランとした廊下に立っていた3人が声の出所を求めてキョロキョロと視線を彷徨わせ、顔を見合わせる。
「どうしよう、一大事だよ!」
「どうしたんだ?」
「っていうか、どこにいるんだろう‥‥」
 冬弥と暁が心配そうに視線を巡らせ、ランが腕を組んで仁王立ちになりながら首を左右に振る。
「こっちだよ!この部屋だよ!」
「ここじゃないか?」
 ランがすぐ近くの扉を指差し、冬弥と暁が駆け寄る。
「どうしたんだリデル‥‥‥」
 ガラリと扉が開いた瞬間、挟まっていただけの黒板消しが冬弥の頭目掛けて落下した。それは冬弥の頭でポンと跳ねると、隣に立っていた暁の頭に着地した。
「‥‥‥これもお前の仕業か?」
「私はそんな地味な事はしない」
 冬弥の疑わしげな視線をかわしつつ、ランが教室内に入る。暁が渋い顔をしながら黒板消しを頭からどかし、小声で「使い古しの黒板消しじゃなくて良かった」と純粋な感想を述べる。
 思うに暁は使い古された黒板消しを直撃した事のある人なのだろう。そうでなければ、あれほど心の篭ったコメントは出来ないだろう。
 暁君も大変なのねと、彼の高校生活に思いを馳せようとした時、武彦がシュラインの肩をチョンとつつき、3人が入っていた教室の隣の教室を指差すと進んで行ってしまう。
 何か考えがあるのかしら‥‥?
 シュラインは飛びかけていた思考を繋ぎとめると、そっとその背中に従った。ソロリと開けられた扉からは黒板消しが自由落下し、武彦が頭に当たる前にうまくキャッチする。シュラインが教室内に入った事を確認し、先ほどと同じ程度隙間を開けて扉を閉めるとグイと顔を近づけた。
 突然間近に迫った武彦の顔にワタワタしているうちに、甘いシャンプーの香りを引き連れてふいと顔が逸れ、耳元に温かい息がかかる。
「さっきのリデルの声で、こっちの部屋に誘導してくれないか?」
「良いけれど‥‥」
「で、怪獣か幽霊か、何でも良い―――奇妙な声を出してくれ」
 コクリと頷く。武彦が机の間を器用に縫って窓際まで行き、カーテンを手早く外すとそれを頭から被った。シュラインが机の陰に隠れ、そっと耳をすませる。
 先ほどの武彦のドアップ顔が瞼の裏に焼きつき、シャンプーの香りが未だに鼻腔をくすぐっている。跳ね上がった心臓は狂ったように全身に血液を送り続けており、シュラインは顔が赤くなっていないかと、頬に手を当てた。
 微かに火照っている頬は、数度の深呼吸で元に戻った。心臓も次第に普通の速度に戻り、シュラインは気を引き締めると耳を澄ませた。
 隣の部屋からはゴソゴソと物音がしており、困惑したような戸惑いの声が漏れ聞こえている。
「こっちだよ!隣の教室だよ!変なのがいて‥‥‥うわっ!!」
 シュラインの迫真の演技は鬼気迫るものがあり、隣の教室からドタドタと荒々しい足音が聞こえ、ガラリと扉が開かれる。先ほど黒板消しが落下して来たのを警戒してか、冬弥が中に入るのを一瞬躊躇する。何も落ちてこないのを確認して教室に足を踏み入れ―――カーテンを羽織った武彦がユラリと教室の隅で蠢く。
 暁とランが冬弥の後に続き、全員が入って来たのを確認してから音を出す。それは言葉にすれば「がお」と「ぎゃぁ」の中間のような音で、低く篭った声はそれでも力強さを持っていた。
 うなるような声に合わせ、白い物体がゆらゆらと揺れる。
「何だコレ‥‥‥」
「それより、リデルはどこにいるんだ?」
「‥‥‥いないみたいだね。‥‥もしかして、この変なのに―――」
 顔を見合わせる。沈黙はほんのコンマ単位だった。冬弥が素早い動きで背広のポケットに手を滑り込ませ、はっとした顔になる。同じように暁もズボンのポケットに手を入れ、顰め面になる。普段ならばそこから何かしらの武器が出てくるのだろうが、あいにく彼らの服装はいつもとは違う。
「ちなみに私は戦闘要員じゃないからな」
「そんなん分かってるっつの」
 ランのあっさりとした告白をあっさりと受け流し、冬弥が高く跳躍すると机を飛び越える。あっという間に間合いを狭められ、武彦が慌ててカーテンを脱ぎ捨てると手を上げた。
「待て梶原!俺だ!俺!」
「‥‥草間!?」
 今にも殴りかかりそうに振り上げられていた手が途中で止まり、ポカンとした顔が武彦の頭から爪先までをジロジロと見つめる。
「草間さん、リデルをどうしたの‥‥?」
 暁が綺麗な紅の瞳を不審気に細め、ランも何かを言いたげに眉根を寄せている。
「全部ね、私の声なの」
 机の陰からさっと出てきたシュラインが、サラリと長い黒髪を靡かせる。淡いリボンが髪に絡みつき、波打つ。
「もしかして、黒板消しも2人の仕業か?」
 ランの質問に頷いた時、懐かしいチャイムの音が鳴り響いた。少し割れている音は低く、1音1音を大切に発するかのようなゆっくりとした音は、シュラインの記憶を微かに揺さぶった。
 小さな教室に詰め込まれた同じ年齢の人達。同じ時を過ごし、一緒に笑い、一緒に泣いた学生時代―――
「時間終了、だな」
 武彦がカーテンを元に戻しにかかり、冬弥がそれを手伝う。
「シュラインさんの声がなければ驚かなかったんだけどなー」
 暁がそう言って、シュラインの掌にキャンディーを乗せる。冬弥とランもそれに続き、シュラインの小さな掌はカラフルなキャンディーでいっぱいになった。



* * *



 フリフリの淡いピンクのエプロンを身に着けたシュラインが、焼きあがったクッキーにチョコで顔を描いていく。ジャック・オ・ランタンのクッキーは1つ1つ顔が違い、普通の顔のものもあれば微笑んでいるものもある。最初は慎重に描いていたシュラインだったが、途中から楽しくなってきて、はっと気づいた時にはチョコがなくなりかけていた。
 冷まし途中のクッキーはまだあり、シュラインは一旦作業を中断すると冷蔵庫から板チョコを取り出した。
 湯煎の準備をし、包丁とまな板を探す。まな板はすぐに見つかったのだが、包丁がなかなか見つからない。普通ならば低い位置においてある包丁だが、シュラインはここが学校である事を思い出し、高い位置に備え付けられている棚を仰ぎ見た。
 小さな子供が間違って手を触れないような場所に置いてあるだろうという予想は間違っていないと思うのだが、なにしろ今はシュラインが“小さな子供”になっているのだ。彼女が届くような場所においてあるはずがない。
 仕方がないわ、椅子を持ってきてその上に乗って取るしか―――
 けれどそれでも届くのだろうかと言う疑問は残る。背伸びをしても良いが、手が滑って包丁を落としてしまう可能性もある。床や椅子を傷付けても大変だが、それよりも万が一シュラインの足の上に落ちたら一大事だ。
 冬弥君かマリーさんがいてくれたら良いんだけど‥‥‥
 カチャリと扉が開く音に振り向けば、藍色のエプロンをした武彦が焼きあがったばかりのマフィンを持って入って来た。
「あっ、丁度良いところに‥‥」
「何か困ったことでもあったのか?」
「包丁を取って欲しいの。多分、あの棚の上にあると思うから」
 武彦がマフィンの乗ったトレーをテーブルに置き、椅子を持ってくるとその上に立つ。棚の扉を開けるとズラリと下がる包丁の中から、小ぶりなものを選ぶと渋い顔をする。
「高いところに置いておくなんてあぶないな」
「小さい子がいるから、低いところよりも安全なのよ」
 柄のほうを手前にして渡された包丁を、お礼を言って受け取る。椅子から下りた武彦がもとあった場所に返すのを横目に見ながら、板チョコを軽快に刻み、湯煎にかける。
「そうだわ‥‥クッキーをマリーさんに見せに行かなくちゃと思っていたの」
「これは俺が見てようか?」
 出来上がったクッキーを1つつまみ、口に放り入れた武彦がシュラインと場所を代わる。
「武彦さん、悪いんだけど適当な大きさのお皿を取ってくれない?」
 やや高い位置にある食器棚の中には高価そうなお皿がズラリと並べられている。シュラインが背伸びをすれば届かない事もないのだが、手が滑って割ってしまってはと思うと、武彦に頼んだ方がまだ安全だ。
 武彦が快くそのお願いを受け、縁に四葉のクローバーが描かれたお皿を取るとシュラインに手渡す。簡単にお礼を言って受け取ると、ジャック・オ・ランタン風の顔が描かれたクッキーを美しく並べる。綺麗に出来たものを選んだのはご愛嬌だ。
「それじゃぁ、宜しくね」
 ヒラリと手を振って隣の厨房へと行く。薄い扉1枚で仕切られた中からは、賑やかな声が漏れ聞こえている。
「うん、良い出来だわ!やっぱり、この色が良いのよ!」
「‥‥これで本当にケーキが出来るわけ?なんか泡が浮かんでるよ?」
「桐生君は心配性だなぁ、あたしはここの料理長の娘よ?大丈夫!」
「おい、もしかしてコレ、食べたら最後、永遠の国へご招待‥‥とかって悪いジョークではないよな?」
「大丈夫!食べたら死ぬようなものは入ってない‥‥‥と、思うから」
「何だよ今の間は!!ってか、と思うって何だよ!思うだけじゃダメだろうが!」
「もー、梶原君五月蝿いよー。小姑みたいだなぁ」
 溜息まじりで吐かれたマリーの言葉に、冬弥がうっと胸を押さえて傷ついた顔を浮かべる。
 どうやら冬弥には、小姑と言う単語は言ってはならないものらしい。
「随分楽しそうね。どんなケーキを作っているの?」
「あ、エマさん!クッキーが出来上がったの?‥‥わぁ、可愛いクッキー!」
 走って来たマリーがシュラインの手の中を覗き込み、はしゃいだ声を上げる。
「本当にジャック・オ・ランタン風にしてくれたのね、ありがとう!」
「味の方も美味く出来ていれば良いんだけど‥‥」
「食べてみても良いかな?」
「もちろん、そのために持ってきたんだから」
 細長い指がクッキーを1枚挟み、サクっと言う小気味良い音と共に口の中に吸い込まれる。
「うん、ほんのり甘くて美味しい‥‥上出来!」
「そう言ってもらえて良かったわ」
 可愛らしいマリーの笑顔に、こちらも可愛らしい笑顔を返したシュライン。そんな2人の様子を見ていた冬弥と暁が、わざとらしく視線を逸らすとコソコソと怪しい動きで背後に何かを隠した。
「シュラインさん、向こう草間さん1人っしょ?早いところ行った方が良いんじゃないかなー?」
「そうそう、草間1人に任せてたら心配だ!」
「湯煎でチョコを溶かしてもらってるだけだから大丈夫よ。それより、どんなケーキを作っているの?」
「あ、あのさ、シュラインさん。なんて言うか、ほら‥‥これって優勝者へのプレゼントケーキじゃん?だからさ、どうせならバーンと出してわーっと喜んで欲しいから、出来上がるまで見ないほうが‥‥」
「そ、そうそう。な、暁?」
「ね、冬弥ちゃん?」
 薄っぺらな笑顔で必死にアイコンタクトを交わす2人の背後、銀色のボウルがちょこんと乗せられているのが見える。
 あれが生地の入ったボウルかしら?そう思った時、七色のシャボン玉がボウルの中から現れた。
 綺麗な色のシャボン玉は頼りなげにフワフワと宙を漂うと、天井に当たってパチンと弾け飛んだ。
「‥‥ちょっと、どんなもの作ったの?」
 さっと顔色の変わったシュラインを見て、冬弥と暁が恐る恐る後ろを振り返る。ボウルから生まれるシャボン玉は数を増し、よく耳を澄ませばブクブクと言う音まで聞こえてきている。
 慌てる2人の横をすり抜けて、背伸びをするとボウルを掴む。ぶくぶくとあわ立つボウルの中、紫色の粘り気のある物体が増殖している。
「なっ―――なにこれっ!!!」
「わーっ!!わーっ!!シュラインさん、早くボウルを放した方が‥‥!!」
 暁がシュラインの手からボウルを奪い取った次の瞬間、紫色の物体がボウルから垂れ、うねうねと動き始めた。
「うわっ!!なにコレ!動くなんて聞いてないよ!!」
「マリーさん、これはいったい何なの!?」
「ケーキの生地デス☆」
「ちょ―――目が!!目があるよコレ!!」
「暁、ボウルを放せ!」
「放せったって、離れないんだよ!」
 紫色のうねうねは暁の腕に絡みつき、徐々に徐々に彼の華奢な身体を侵食しようとしている。
「これはどうすれば消えるの、マリーさん!」
「これぞ正にTrick and Treat!だね。お菓子で悪戯と言うか‥‥」
「そんなことは良いから、どうすれば消えるのかを教えて!」
「わー!!腕が‥‥腕がっ!!」
「もう少し持ちこたえろ暁!」
「無理ーーーっ!!」
「‥‥あ、そっか‥‥ちゃんと茹でてなかったからこんな事になっちゃったのかな?」
 うんうんと唸りながら考え込むマリーに、冬弥とシュラインが鬼気迫る顔で近付く。
「「いいから消す方法は!!?」」
 突然怒鳴られて目をぱちくりさせるマリーの横で、暁が紫色のうねうねに両腕を飲み込まれ、必死に助けを求めていた―――


* * * その後 * * *



「本当、どうしようかと思ったわ」
 隣の厨房で起きた事件の一部始終を聞き、武彦はクスクスと低く笑うとシュラインから渡されたお皿を真っ白な布巾で拭いていく。
 あの後暁の悲壮な叫び声と、冬弥とシュラインの剣幕に押されたマリーが棚から取り出したビンをボウルの中に入れて悪夢は終わったのだが、あの粘り気のある気持ちの悪い物体は何だったのかとの問いに、料理中の不運な事故と答えにならない答えを返していたのには頭痛がする思いだった。
「でも、普通に食べられるものだっただろ?」
「普通かどうかは分からないけれどね」
 人の食べるものじゃない、いいえ人の食べるものです!と、冬弥とマリーが言い争い、マリーが勝利、紫色の奇妙なケーキを作ったのは良いのだが、シュライン以下あの場にいた人は食べる気がしなかった。
 特に紫色のうねうねに食べられかけた暁は、俺無理と言ったきり視線を逸らしていた。
 紫色のケーキを前に沈黙する一同。そんな膠着状態の中、そう言えば広間にランがいる、ランに毒見ならぬ味見をさせてみてはどうかと誰かが言い出したのだ。今となっては誰が言い出したのかは記憶の彼方だが―――いや、実際にはしっかりと覚えてはいるのだが、彼の名誉の為に記憶の闇へと葬り去る事にする。結局は何もなかったのだから、終わり良ければ全て良しだ。
 ランにケーキを持って行くと言う損な役回りを買って出たのはシュラインだった。マリーが食べられると胸を張って言っている以上は何事もないだろうが、一応食べる前に注意をしておきたい。事前知識がないまま食べては可哀想すぎる。
 広間の豪華なソファーに座り、優雅に紅茶を飲んでいたランの前に紫色のケーキを差し出す。普通ならばその毒々しい色に怯むところだが、ランは目を輝かせると初めて見る食べ物だと言って、すかさず手を伸ばした。
 シュラインが止める間もなくパクリと食べ―――美味しいと、無邪気な笑顔で叫んだ。
「新しい味だったな、あれは」
「見た目は不気味だったけれど、確かに美味しかったわ。ほんのり甘くて、しっとりしてて。マリーさんに聞いてみたら、野菜のケーキだって言ってたけれど‥‥」
「紫いもとか、色が似てないか?」
「うーん、紫いもよりはもっと毒々しい紫色じゃなかったかしら?それに、おいもの味じゃなかったわ」
 最後のお皿をすすぎ終わり、水を止める。武彦が拭いて重ねておいたお皿を手に取り、食器棚へと戻していく。低い位置にあるお皿は片し、高い所にあるお皿は武彦に頼もうとテーブルの上に置く。最後のお皿を拭き終わった武彦がシュラインを手伝おうと隣に立ち―――指先がちょんと触れる。
 一瞬だけ高く跳ねた心臓に苦笑する。
 学生じゃないんだから、指先が触れたくらいで動揺するなんて‥‥。
「悪い」
「こっちこそ。武彦さん、高いところのお皿お願いできるかしら?」
 あぁと低い声で頷き、シュラインの手からお皿を受け取ると棚に並べていく。長い睫に淡い色の唇、少年っぽいすべらかな桃色の頬をそっと見つめていると、不意にどこからかすすり泣きのような声が聞こえてきた。
 反射的に霊の類を思い浮かべるが、まさかここにその手の者がいるだろうか?
「武彦さん、声、聞こえない?」
 戸棚をパタンと閉めた武彦が眉を顰め、耳を澄ます。暫く目を伏せて聴覚に意識を集中させていた武彦だったが、軽く首を振ると目だけで「聞こえるのか?」と聞いてきた。ゆっくりと頷き、どこから声が聞こえているのかを確かめる。
 中央にある大きなテーブルを回った先、アンティークの可愛らしい食器棚としっかりとした木の食器棚の間に、鉄の扉がひっそりと佇んでいた。冷たい扉に耳をつければ、微かにだが声が聞こえてくる。
「ここだわ」
 武彦がシュラインを下がらせ、ドアノブに手をかける。
 鍵がかかっているかもしれないとの予想は裏切られ、ノブは呆気なく回ると薄く開いた。
 武彦の肩越しに覗き込む。
 緑の草原が広がるそこには―――色とりどりの野菜が一喜一憂しながらおのおの好きな事をしていた―――
 茶色の白菜は両脇に生えた手のようなものをパタパタさせながら「私は飛べる、飛んでここから脱出するんだ」とブツブツ言っており、その隣の青色のトマトは下から生えた足のようなものを折りたたみ、三角座りをしながら「私は今日にも食べられるんだ、食べられちゃうんだ」と呟いて草地にのの字を書いている。
 蛍光ピンクのとうもろこしが「皆平等に食べられる時は来る、その時まで歌い踊ろうぜ!」と言いながらはしゃぎまわり、その隣では毒々しい紫色の人参がしくしくと泣きながら「ダーリンがケーキにされちゃった。ダーリンはもういない、もういない」と言って涙を流している。
 ―――――武彦はそっと扉を閉めると、青い顔をしてシュラインを振り返った。
「あのケーキはあの子のダー‥‥」
「頼むからそれ以上は言ってくれるな」
 武彦がすかさずシュラインの口を塞ぎ、ガクリとその場に崩れ落ちる。
「アレを食べたってことか、俺達は‥‥」
「何だか暫く夢に見そうだわ」
 シュラインと武彦の手が触れる。2人は無意識のうちに硬く手を繋ぐと、今見た地獄絵図を忘れようと必死になって楽しかった過去を思い出そうとした。
 2人で解決した難事件に、何も起こらない平穏な昼下がりの興信所内。薄めに入れた緑茶に、お茶請けのお煎餅。大したことは話していないはずなのに、いつの間にか弾む会話。
 なんでもない日だからこそ幸せなんだと思える、静かな時間。次から次に思い出される優しい日々に、シュラインは繋いだ手に視線を落とした。
「武彦さん、何時も有難う‥‥」
「何だよ急に‥‥」
 自然に零れ落ちた感謝の言葉に、シュラインはそっと武彦に寄りかかった。耳を澄ませば、扉の向こうから聞こえてくる賑やかで切ない野菜達の声。シュラインはゆっくり目を閉じると、繋いだ手に力を込めた。
 武彦がもぞもぞと動き、繋いだ方とは反対の手を動かしてシュラインの頭を撫ぜると、耳元に口を寄せた。
 そして―――――紡がれる、甘い言葉。
 恥ずかしそうに背けられた赤い顔を見上げ、シュラインはにっこりと微笑むと、武彦の手を両手で包み込んだ―――



━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


 0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員


 6224 / ラン・ファー / 女性 / 18歳 / 斡旋業

 4782 / 桐生・暁 / 男性 / 17歳 / 学生アルバイト・トランスメンバー・劇団員


 NPC / 草間・武彦
 NPC / 梶原・冬弥


ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 長らくお待たせいたしました!そして、かなりの長文になってしまいました‥‥すみません‥‥
 今回、プレイングを拝読した時からぜひぜひ入れたいシーンがありました!
 ズバリ、武彦さんと手を繋ぐシーン、です!
 どうやって手を繋いでもらおうか、切欠はどうしよう?と、色々考えた結果あのようになりました。
 武彦さんの年齢はお任せと言うことで、中学生くらいにさせていただきました。
 ランちゃんとのツインも暁君とのツインも、ほのぼのとした楽しさが出ていればなと思います。
 最後に武彦さんが囁いた甘い言葉ですが‥‥あえてどんな事を言ったのかは書きませんでした。
 宝石のようなキラキラとした言葉はシュラインさんだけの物です!
 全体的にほのぼのとした、それでいて明るく楽しい雰囲気が出せていればなと思います。
 ご参加いただきまして、まことに有難う御座いました!