コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<Trick and Treat!・PCゲームノベル>


Trick Candy Game



 柔らかそうなオレンジ色の髪に、時折鋭く光るグリーンの瞳。見た目では性別の判断はつかないが、年齢は12歳くらいだろうか。
 リデルと名乗った彼女、ないし彼は華奢な足を必要以上に大きく上下させながら、左手に持ったお菓子のつまった箱を振り回して歩いていた。
 高い壁に、むせ返るような土の匂い。どこへ続くとも知れぬ道は、複雑に枝分かれしている。リデルと歩き始めてからすでに数十分、自分が今どの辺りを歩いているのか分からない。もっと言ってしまえば、自分がどのように歩いてここまで来たのかすらも思い出せない。
「もうすぐで着くからね」
 のんびりとした声に顔を上げれば、リデルの頬がほんの少し、ピンク色に染まっている。普通の状態では病弱なまでに白い肌をしているリデルは、少々興奮した方が肌に色がさし健康的に見える。
 じっと横顔を見つめていた視線に気づいたのか、リデルが戸惑ったように顔を上げると首を傾げた。
 なんでもないと言う意味を込めて首を振り、視線を前に戻す。細い道は数m先で壁に突き当たっており、道が途切れている。
「こっちだよ」
 数歩前を歩くリデルが興奮したように声を上げ、分かれ道を右に行く。瞬間姿が見えなくなち、心細さが胸を圧迫して慌てて追いかけた先、突然道が開けていた。
 広い空間を暫し無言で眺め回し、中央に聳える豪華な建物に注目する。
 レンガ造りの外壁、中央には高く聳える時計塔、ずらりと並んだ窓にはレースのカーテンがかかっており、建物からは良い香りが漂ってきている。
「これからキミに、ここであるゲームをしてもらいます」
 えへんと咳払いをしてから、急に改まった口調で喋りだすリデルに、こちらも知らずに背筋が伸びる。
「まずはこれに目を通して、必要事項を埋めてください。嘘はついたらダメだからね」
 どこから取り出したのか、数項目の質問が書かれた紙と凝った模様が彫られた万年筆を差し出される。ここで書いてねと指をさされた先には切り株で出来た小さな椅子と、椅子に合う高さの木で出来た机が置かれていた。
 椅子に座り、紙に視線を落とす。

1:貴方の年齢・性別・名前を教えてください

「これはね、今の外見年齢を書いて欲しいんだ」
 簡単に書き進め、次の質問に移る。

2:貴方の性格は簡単に言うと?

「大人しいとか、何があっても動じないとか、計算高いとか、そう言う感じだね。そんなに難しく悩まなくて良いから、素直に書いて」
 少し悩んだものの、嘘はついたらダメと言うリデルの言葉を思い出し、素直に自分を分析して書き記した。
「このゲームでは、キミの性格が重要になるからね」
 いまさらそんな事を言われても、万年筆は消せない。少々恨みがましい視線で攻撃すると、リデルが困ったように唇をすぼめた。
「重要にはなるけど、嘘はついたらダメだから‥‥」
 結果は同じだろうと、そう言うことなのだろう。少し肩を竦めただけで気持ちを切り替えると、万年筆と紙をリデルに返した。質問はその2つだけだった。
「ゲームの説明の前に、まずこの建物なんだけど‥‥ここは学校。って言っても、年齢制限はないから、幅広い年代の人が集まってる。ここで教えているのは、悪戯学とお菓子作り」
 お菓子作りは良いとして、悪戯学なんて聞いた事がない。
「どっちも必修なんだよ」
 こちらの言いたい事を悟り、リデルが悪戯っぽい笑顔でそう囁くと緑色の瞳を細めた。
「ゲームは凄く簡単。制限時間内でどれだけの人に悪戯できるか、それを競うんだ」
 左手に持った箱からキャンディーを3つ取り出すと、こちらに差し出した。
「ルールは3つ。1つ、キミが誰かに悪戯されて、それが成功したら1つキャンディーをあげること。つまり、キミが誰かに悪戯して、それが成功したらその子からキャンディーをもらえるんだ」
 人差し指が天井に向けられ、すぐに中指がそれに続く。
「2つ、人を傷付けるような悪戯はダメ。心も、身体もね。3つ、手持ちのキャンディーがなくなったら、調理室まで来ること。そこでお菓子を作って、ゲームが終わったら皆で食べるんだよ」
 リデルの薬指が天井へと向き、親指と小指だけが合わさった状態になる。
「誰かと組んで悪戯しても良いけど、相手からもらえるキャンディーは1つだよ。制限時間は1時間、一番多くキャンディーを手に入れた人が勝ち」
 楽しんできてね‥‥
 その言葉を最後に、リデルの姿がふわりと消えた。
 音もなく開かれる学校の扉を前に、にぃっと口の端を上げるとキャンディーをポケットの中に滑り込ませた。



* * * Sweet Trick * * *



 黒いブレザーは本来校章があるべき胸元のポケットの部分に髑髏のマークが入れられ、ズボンにはベルトがこれでもかと言うほど巻きついている。はだけた胸元は大きく開けられ、ダラリとネクタイがぶら下がっている。
 重く揺れるシルバーネックレスもゴシックで、指にもゴツメのリングが幾つか、自分では見えないが耳元にも何かがついているらしい。
 思い切りゴシックな制服に、桐生 暁は広間を一通り眺め、溜息をついた。
 こういう服も悪くないけど、この部屋と全然あってないよね―――
 広間には高価そうなアンティークの家具が並び、木のテーブルには小花があしらわれたポットが1つとカップが人数分置かれている。足元は毛足の長い赤絨毯、天井を見上げれば七色に光るシャンデリアが重そうにぶら下がっている。
「凄い服装だな‥‥」
「冬弥ちゃんだって人のこと言える?」
 隣で佇む梶原 冬弥は外見年齢30代前半ほど―――本人に聞いたところ、32歳だと言っていた―――茶色と言うよりは赤に近い髪を後ろに撫でつけ、パリっとした黒のスーツを着ている。
 目を細め、ピントをずらして見ればキチンとした身なりの男性に見えるが、彼のスーツもゴシック系のものだった。胸ポケットには蜘蛛の巣、ネクタイは暁と同じもので、耳には重そうなシルバーの髑髏がしがみ付いている。
「2人とも、お茶飲む?」
 子供特有の細く甲高い声が聞こえ、暁と冬弥は声の出所を探して視線を左右に振った。
 暁と同じ歳―――つまり16歳―――くらいの容姿をした草間 武彦と目が合い、次に柔らかそうなソファーに身を沈めている18歳くらいの少年と目が合う。
 2人とも暁と同じ型のブレザーを着ているが、若干色合いが違っている。暁は黒を基調とし、赤をところどころに配したデザインだが、武彦のものはその反対で赤を基調とし、黒をアクセントに入れている。緑色の瞳をした少年は白を基調とし、黒をアクセントに入れたもので、3人の中で一番おとなしい色合いだった。
「うむ、美味いぞ!お前たちもこっちに来て食べないか!」
 白いブレザーを着た少年、ラン ファーが手招きをして2人を呼ぶ。今は少年だが、彼は立派な彼女であり、普段ならばその中性的な整った外見はもう少し女性側に傾いているはずなのだ。
「紅茶も美味しいわよ。ほんのり甘くって」
 再び聞こえた子供の声に暁と冬弥は顔を見合わせた。幻聴と言うわけではなさそうな声は、どこかで聞いたような音の響きを含んでおり、2人の戸惑いに気づいたのか椅子の陰からピョコリと小さな頭が覗いた時、2人は「あっ!」と叫ばずにはいられなかった。
 さらりと靡く黒い髪、知的な光を放つ青い瞳はその色とは対照的に温かく、外見年齢5歳程度の彼女は幼く無邪気な顔の造りとは裏腹にクールな雰囲気を発している。
「シュラインさん!?うわ、可愛い‥‥!」
「有難う‥‥と、お礼を言っても良いのか悩むけれど」
 白と黒のゴシックロリータ風ワンピースを着たシュライン エマは、困ったように微笑むとカップを2つ暁に差し出した。袖口から覗く手首はか細く、いつもの姉御肌的な雰囲気はどこにもない。
 1つを冬弥に渡し、良い香りを放つ紅茶に口をつける。果物系の甘さと軽い酸味、お菓子がほしくなる紅茶だ。
「桐生と梶原、どれが食べたいんだ?菓子の一番近くにいるのは私だからな、特別に取ってやろう」
「じゃぁ、俺はその手前のマフィンで。冬弥ちゃんは?」
「ランに任せる」
「ふむ。桐生はこれ‥‥で、梶原は私に任せると―――おい、待て。いつ私が呼び捨てにして良いと言った!?私を呼ぶ時は必ず“様”をつけろ!敬え!神の如く敬え!」
「敬えっつったって‥‥‥。まぁ、様付けで呼んでも良いけど‥‥」
 無事にランからマフィンを受け取った暁が、2人の言い争いを上目遣いで見守る。
 身長180cm以上の冬弥と170cm以上のランを見る場合、160cmない暁は顔を上げない限り上目遣いになってしまう。今はもそもそとマフィンを食べているため、顔を上げるわけには行かない―――よって自然に上目遣いになってしまうのだが。
「よし、なら呼んでみろ!ラン様と、尊敬と羨望の念を込める事を忘れるな!」
「ランちゃま」
 ふっと、鼻で笑いながら呼ぶ冬弥。
 その声には諦めと含み笑い、我が侭な子供に付き合っている時の大人のような手抜き加減も見受けられる。
 突然の展開にシュラインが紅茶にむせ、武彦がぷっと吹き出すとそれを誤魔化そうと咳払いをする。
 暁も冬弥の切り返しに面食らったが、丁度マフィンを飲み込んだ後だったので事無きを得た。
 生地にイチゴを練りこんだ手間のかかった美味しいマフィンを吹いてしまったとあっては申し訳なさすぎる。
「かーじーわーらー!?」
 緑色の透き通った瞳がギラリと光る。冬弥がさっと暁を盾にし、ランがすっくとソファーから立ち上がった時、重厚な木の扉が微かな軋みと共に開き、中から40代後半くらいの紳士が現れた。
「お話が盛り上がっているようですね」
 口元と目じりに細かい皺を作りながら微笑む紳士は、若い頃の美貌をそのままに歳を取ったようで、スカイブルーの瞳は未だに輝きを失ってはいない。燕尾服を颯爽と着こなした紳士は穏やかな瞳を全員に向けると、丁寧に頭を下げた。
「お待たせいたしました。私は今回のゲームの責任者でリードと申します。普段はこの学校の料理長を任されております」
「料理長‥‥と言うことは、このマフィンやクッキーもお前が作ったのか?」
「えぇ」
「そうか。なかなか美味いぞ!私はこれが一番好きだ」
 ランが指し示した、頭の部分にオレンジの薄切りが乗っているマフィンは生地にもマーマレードが練りこんであり、一口齧れば爽やかな酸味と柔らかい甘みが優しく絡み合いながら口いっぱいに広がる、初夏を思わせる一品だった。
「紅茶も凄く美味しいです」
「有難う御座います。新作のブレンドでしたので少々不安だったのですが‥‥」
「この紅茶、リードさんがブレンドしたんですか?」
「えぇ」
 リードの青い瞳がシュラインに注がれる。外見年齢5歳程度の少女を見て誰しもが浮かべる柔らかい表情で微笑む。
「ねね、冬弥ちゃん、リードさんってすっごいカッコ良いねー!」
「‥‥年上好みか?」
「いや、違くって‥‥って、よく考えれば冬弥ちゃんも年上だね」
「よく考えなくても分かっていて欲しいんだが。常日頃からお前は俺に対しての尊敬の念が‥‥」
 ブツブツと文句を連ねる冬弥をそのままに、暁はリードへと視線を向けた。
 美しい紳士は自分が今しがた入って来た扉をそっと開けると、胸元に下がっている銀色の懐中時計を手に取った。
 天井からぶら下がる豪華なシャンデリアの光を鋭く跳ね返す懐中時計は蓋の部分に複雑な文様が彫られており、一目で価値のある物だということが分かる。
「コチラから先が会場となっております。今から1時間、どうぞお楽しみ下さい」



* * *



 暁はリデルから質問が書かれた紙を受け取った時、性格の欄で一瞬動きを止めた。端正な横顔はほんの少し寂しそうに目が伏せられただけで、大した表情の変化は見られなかった。リデルが何かおかしいと思う前に表情は元に戻り、普段通りの掴み所のない柔らか笑顔で何事もなかったかのように記入した。
 “人をからかうのが好きで軽薄なお調子者”
 本当にこれで良いの?と首を傾げるリデルに、嘘は書いたらいけないんだろと悪戯っぽい瞳で返した。
 本当ならば―――真実を細かく書かなくてはならないならば―――その後にも続く言葉はあるのを知って、暁はペンを置いた。
 これも嘘をついたうちに入るのかなと、奇妙な罪悪感が胸を圧迫したのはほんの刹那。すぐに欄がさほど大きくなかった事を思い出す。リデルが例としてあげたのも、一言ですむようなものだった。複雑な性格の、取り分け目立つ部分を書けば良い。
 だから、俺の場合はこれで良いんだ。暁は自身をそう納得させた。
 もしもあの後に言葉を入れるならば、どう続けるべきだろうか。
 人をからかうのが好きで軽薄なお調子者‥‥な子供のようで、何処か人生なんてこんなものと諦めているかのような、達観した大人の感もある。
 暁は自分が子供だと言う事を十分理解していた。そして、子供だと言う事実を受け入れ、それを有効的に使おうとしている――― 子供でいられる時間は長くない事を知っている、ひねた大人の部分も持ち合わせていた。
 ‥‥相反するモノを含んだ、複雑な人格。それはなんて‥‥汚いんだろう。
 ふっと、口元に嘲笑を浮かべる。無意識に手が目を押さえたのは、何故だろう。鏡さえ見なければ、瞳の色なんて分からないのに。
「目にゴミでも入ったのか?」
 心配そうな冬弥の顔に、暁は首を振った。
 暗い思考に耽っていた暁は、いつの間にか教室の中に入っていた事を知らなかった。
 等間隔に並んだ机は綺麗に整列されており、黒板も新品のようだ。閉まった窓からは色とりどりの花が咲き乱れる中庭が見え、両端で窮屈そうに折りたたまれているカーテンは目に痛いほどの純白だった。
「で、どんな悪戯をするつもりなんだ?」
 冬弥が手近な机の上に腰を下ろす。今の彼の外見年齢といい、オールバックにした髪形といい、学校の先生にそっくりだった。
 お茶目な失敗―――例えばテストが赤点だったり、例えば友達とすこーし悪ふざけし過ぎてボールで窓ガラスを割ってしまったり―――をした時、暁達を椅子に座らせ、自身は机の上に腰掛け、細い眉を思い切り顰めながら延々お説教を聞かせるのだ。
 もっとも、その先生はこれほど端正な顔の造りではないし、体つきだってこんなに綺麗ではない。お腹の辺りに肉がついてきた事を気にしている‥‥と、誰かが噂していたのを聞いたことがある。
「え、俺が考えるの?」
「俺に考えろって言うのか?」
「‥‥確かに冬弥ちゃんには向いてない作業かもね‥‥」
 椅子を引いて座ると学校の先生を思い出すし、何よりわざわざ椅子を引くのが面倒臭い。暁は冬弥に倣って机の上に腰掛けると、すらりとした細い足を組んだ。
「冬弥ちゃんが悪戯をするって言う時点で既にビックリだけど‥‥シュラインさんと草間さんはともかく、ランさんは驚いてくれないよね」
「初対面なんだ。俺の性格なんて知ってるはずないだろ」
 まぁ、ランが特殊な職業だって言うんなら話は違うけどな。いや、待てよ、草間の知り合いって事は特殊な職業に就いてる確率のが高いんじゃないのか!?
 そんな冬弥の独り言は暁の耳には届かなかった。
「そうだなぁ‥‥」
 ふっと目を閉じ、自分が一番得意な事を思い出す。
 得意なことは―――運動系‥‥って、それでどんな悪戯をすれば良いんだ?もっと違うことで、悪戯に出来そうな―――
 1つだけ、ある。得意なことで、悪戯に出来そうなコト。
 暁はトンと机から降りると、冬弥の胸に飛び込んだ。ガタリと机が揺れ、冬弥が足と手を突っ張って何とか持ちこたえる。
 冬弥がよくつけている香水が暁の鼻腔をくすぐり、反対に冬弥には暁のシャンプーの甘い匂いが官能的にまとわりつく。
「―――お前、なにやって‥‥!!」
 にっこりと微笑み、顔を上げる。冬弥を動揺させようとしてやったことだが、意外にも顔が近くにあって暁自身も微かに動揺した。けれどその小さな心臓の高鳴りを表情に出さないだけの演技力は十分に持ち合わせていた。
「‥‥ビックリした?」
「ビックリって言うか‥‥またかって言うか‥‥」
「えー、何そのやる気のない答え」
「やる気のある答えがどんなんだか分かんねぇよ。てか、もしかしてお前、今のを悪戯に使おうとしてるのか?」
「んー、ほら、俺って見た目は綺麗系っしょ?」
「自分で言うな」
「‥‥そんなツッコミは必要としてないってば!見た目綺麗系なのに、無駄に笑顔振りまいて抱きついたりとか、ギャップに驚くかもじゃん?」
「ランがか?」
「そう言われると、自信ないな‥‥」
「つーかお前、いつまでくっついてんだよ!」
 狭い机の上に乗った冬弥と、両足の間に挟まるようにして膝立ちになり、腰に手を回している暁。はたから見たら怪しい光景である。
「あ、なんかさ、これって‥‥禁断の教室?」
「はぁ!?」
「放課後の学校‥‥」
「放課後じゃねぇ!バリバリ昼!真昼間!」
「2人以外は誰もいない密室‥‥」
「密室って、ドア普通に開いてるからな。鍵なんてかかってねぇから!」
「そこで繰り広げられる、生徒と教師の禁断の―――」
 ゴスリと、頭に拳骨が落ちてくる。大して痛くはない拳だったが、暁は大げさにその場にしゃがみ込むと両手で頭頂部を押さえた。
「また暴力〜!?いや、体罰か!体罰はいけないんだよ!」
「いつ俺がお前の先生になったんだ!」
「んもー、これからが良いところだったのにー!冬弥先生が俺に特別し‥‥」
「今度は思い切り行って良いか?」
 爽やかな笑顔で拳を握り締める冬弥。心なしか目が据わっている気がして、暁は慌てて首を振った。
「冗談だって!冬弥ちゃんが俺のガッコの先生にチョビーっと似てたから、色々‥‥ね?」
「‥‥お前は学校の先生を見てそんなふしだらな事を考えてるのか?真面目に勉強しろ!」
「真面目に‥‥かどうかはわかんないけど、ちゃんと勉強してるって!なにその目!俺普段からそんなこと考えてるような子じゃないんだってばー!そもそも、あのセンセーは趣味じゃないし」
「じゃぁどの先生がお前の趣味なんだ?」
 うっと、言葉に詰まる。どんなに言い返しても泥沼にはまり込んでいくだけなことは目に見えている。
 何とかこの状況を逆転する術はないか。暁の脳が光速で回転し始め、素早く計算式をはじき出す。
「そうだなぁ、どの先生か‥‥あえて言うならやっぱ‥‥冬弥先生かな?」
 両手を伸ばし、冬弥の足に縋る。潤んだ瞳に薄っすらと開いた唇、口の端を僅かに上げ、艶やかな、それでいて挑戦的な視線を冬弥に向ける。
「―――馬鹿言ってんな!‥‥俺はちょっと、外行って来るからな!」
「え、どうして?」
 暁の手を乱暴に払いのけ、机から下りると背を向ける冬弥。その横顔は怒っているようで、やり過ぎたかと反省の念が浮かび上がる。
「煙草!草間なら持ってるだろ?」
「でも、冬弥ちゃん未成年‥‥」
「今は成人してんだっつの!」
 ガラリと扉を開け、暁を教室に残したまま行ってしまう冬弥。
 チラリと見えた横顔はやはり怒っているような顰め面で、それでも耳が赤く染まっている事に気づいてほっとする。
 床に膝をついたままの中途半端な体勢で固まっていた事に気づき、立ち上がるとズボンについた埃を払う。勿論、目に見える埃がついていたわけではなく、ただ単に反射的にそうしてしまっただけに過ぎない。
 ―――この学校、綺麗だな。教室も、まるで誰も使ってないみたいだ。
 染み1つない壁、落書き一つない机。暁が通う神聖都学園ではこうはいかない。時代を感じる校舎は壁に染みの1つくらいついているし、落書きがある机だっていくつもある。そもそも、机も椅子もこれだけ整然と並べられることはまずない。掃除の時間に並べるにしても列はいつだってガタガタで、もし掃除班に几帳面な人がいたとして、綺麗に並べられたとしても、数分後には生徒達によってガタガタにされてしまう。
 窓からさんさんと差し込む光に、無人の教室。耳を済ませても音は聞こえてこない―――不思議な静寂だった。
 学校は音にあふれている場所のはずなのに‥‥。
 孤独の2文字が暁の心に重くのしかかる。表情からは感情が失われ、心が空っぽになって行く。
 箱庭のようなこの場所の雰囲気に呑まれてはいけない。心と感情を手放してしまえば、きっと冬弥がおかしく思うだろう。ほんの些細な変化に敏感な冬弥に、気づかれたくはない。
 暁はすっと深呼吸をすると、無理に微笑んだ。
「さてと、そろそろ冬弥ちゃんの所に行ってもOKかな?」
 わざと明るい声を出す。
 ―――ここはお菓子作りと悪戯学を教える学校。楽しいことの詰まった学校。だから‥‥‥‥‥



* * *



 綺麗に磨かれたタイルは、蛍光灯のはめ込まれた天井を虚しく映し出す。変化のない天井の映像は暁が通るたびに影に侵食され、歪に揺れる。
 右手には教室、左手には窓が並ぶ廊下は長く、外に出られる扉は廊下の端まで行かないとないらしい。
 きゅっきゅと靴底のゴムが可愛らしい声で鳴き、静まり返る廊下にささやかな旋律を巻き起こす。
 無音よりは、たとえ単調な音であろうとも聞こえていた方が落ち着く。そう思っていた時、不意に右手の教室内で何かが動く音がした。薄く開いた扉の奥は、先ほどまで暁と冬弥がいた教室となんら変わりなく、机と椅子が優等生のようにきちんと並んでいる。
 気のせいだったのか?首を傾げながらも通り過ぎようとした時、切羽詰った声が響いた。
「待って暁君!助けて!」
 やや高い声は中性的で、子供らしい細い声は少し前に聞いたことのあるもので、暁の脳裏にリデルの顔が浮かんだ。
「リデル!?いったいどうし‥‥‥‥」
 ガラリと勢い良く扉を引き開けた瞬間、ポスリと何かが頭の上に落ちてきた。暁の頭に軽い衝撃を与えた物体はポンと低く飛び跳ねると、そのまま足下に落下して来た。
 視線を落とさなくても分かるその感触は、以前同じような悪戯をされたことがあったからだ。ただ、その時は真っ白な煙が上がり、目の前は白く染まるし制服や髪は台無しになるし、酷い目に遭わされた。けれど今回は白い煙、チョークの粉は含まれていなかったようだ。
 使い古しの黒板消しでなくて良かったと思いつつ、ベタな悪戯に引っかかってしまった事に苦笑する。
「シュラインさん―――でしょ?」
「正解。よく分かったわね」
 机の陰で黒いリボンが揺れる。頭の高い位置で2つに結ばれた髪は毛先が肩に触れるか触れないか程度で、シュラインが動くごとに頼りなげに揺れる。
「こんなことできるの、シュラインさんくらいでしょ?」
 ポケットにねじ込んであったキャンディーを1つつまみ出す。青い色のキャンディーはシュラインの瞳の色と似ており、暁はゆっくりとそれを投げた。綺麗な放物線を描いてシュラインの小さな掌に乗ったキャンディーは、彼女の現在の外見に良く似合っていた。
「やっぱりキャンディーは子供のものだよね‥‥」
「‥‥暁君、それは嫌味?」
「いや‥‥自分でもまさか声に出すとは思ってなくてビックリ」
「ってことはつまり、言葉に出さなくとも内心は思ってるってことね」
「えっと、違くって‥‥俺も子供に戻りたいなぁ〜って。ほら、この格好だとあんまり似合わないっしょ?」
 ポケットを探り、残りのキャンディーを手に取る。赤と黄色のキャンディーは、先ほどシュラインに渡した青を入れれば丁度信号と同じ色で、そんな些細な発見にもかかわらず、暁はふっと口元を緩めた。
「んー、暁君は今でも似合ってると思うけどね、キャンディー」
「そう言われると、嬉しいんだか悲しいんだか微妙だね‥‥」
 クスンとわざとらしく人差し指の背で目元を拭う。シュラインがふっと子供らしからぬ微笑を浮かべ、キャンディーをポケットに入れた。
「暁君、もしかしてこれから冬弥君の所に行くの?」
「そのつもりだけど‥‥そう言えば草間さんは?」
「冬弥君と一緒に一服中よ。もし良ければ一緒に行かない?どうせ目的地は同じなんだし」
「OK。でも、向こうにつくまでの間は悪戯禁止ね」
「了解」
 子供らしい無邪気な笑顔で頷くシュラインに、思わず片手を差し出す。その手の意味を図りかねたシュラインが首を傾げる。暁は慌てて手を引っ込めると、行こうかと声をかけて歩き出した。
 子供はよく転ぶし、よく迷子になる。手を繋いでいた方が安全だと言うことを知っていたからこそ、暁は右手を差し出した。見かけは子供だが中身は大人なシュラインは、どこかもなと似たようなところがあった。もっとも彼女の場合は見た目も中身も子供で、年齢だけが高校生―――大人と子供の中間にいるのだが。
 長い廊下はどこかの窓が開いているのか、ひんやりとした空気で満たされている。どこの窓が開いているのかしらと首を捻るシュラインだったが、廊下の端まで来て寒さの出所を知ると溜息をついた。
「武彦さんか冬弥君が閉め忘れたのかしら‥‥」
 銀色の扉は薄く手前に開いており、そこから冷たい風が微かな音をたてながら入ってくる。
 カタカタと細かく揺れる扉に妙な不自然さを感じながら、暁は扉を手前に引いた。弱い抵抗をドアノブから感じ、不自然さが一気に加速し始めた時、開いた扉の向こうから何かが飛んで来るのが見えた。
 紺色の柔らかそうな布の部分に、茶色の硬そうな上部。そこには緑色のベルトがついており―――
 またか!反射的に心中でツッコミをいれる。
 飛んできた1つを叩き落し、次から次に飛んでくる黒板消しに敗北を悟るとシュラインの腕を引き、体の陰に隠した。はたから見れば抱きついているように見えるが、暁の手はシュラインに触れていない。
 背中と頭に黒板消しを受けること数十秒、やっと黒板消しの攻撃が止まったと思った瞬間、ドアの向こうに誰かが立った。
「ふはは、引っかかったな2人とも!さぁ、キャンディーをよこせ!」
 差し出された右手に妙な脱力感を覚える。
「これ、ランさんの悪戯だったんだ?‥‥何でこんなにいっぱい黒板消しを‥‥」
「地味なのは私の趣味じゃないからな。‥‥お祭りみたいだったろ?」
 お祭りなんて平和的な良いものじゃない。例えるならば雪合戦、例えるならば枕投げ―――どちらも戦いだ。
 苦笑しながらキャンディーを手渡す。シュラインも背伸びをしてランにキャンディーを差し出し、反対の手でクイクイと暁のブレザーの裾を引っ張った。
「さっき、助けてくれて有難う」
「怪我はなかった?」
「大丈夫よ。それより、暁君の頭が心配」
「この間の中間テスト、赤点ギリギリな教科があったんだよねー。次のテストで赤点になっちゃったらどうしよう‥‥」
「安心しろ桐生!最後には色仕掛けが残ってる!」
「やっぱ俺ってそっち路線で未来を開拓していくしかないのかなぁ‥‥」
「暁君、真に受けちゃダメよ!」
 シュラインがペシリと暁の背中を叩き、未来は明るいわよと慰めの言葉をかける。
 普段の彼女ならいざ知らず、小学校入学前の幼女からの慰めに微妙な気持ちになる。嬉しいんだか悲しいんだか―――ランがお腹を抱えてクスクスと笑っているのも、怒るべきか悲しむべきか―――。
 冷たい風が暁の柔らかな金色の髪を撫ぜ、シュラインの細い髪を大きく靡かせる。息を吸い込めば冷たさに肺がチリリと痛み、嗅ぎ慣れた煙草の匂いが微かに香った。



* * *



 細い紫煙が頼りなげに揺れ、吹いた風に掻き乱される。霧散した煙は独特の匂いを周囲に撒き散らし、やがて溶けて消える。
 暁はそろそろと2人の“大人”に近付くと、手前にいた冬弥の背後にスルリと立った。
「だ〜れだっ!」
 突然の目隠しに一瞬動作を止めた冬弥が、溜息と紫煙を一緒に吐きながら暁の手を解く。
「声でバレバレだろ」
「俺のこと愛しちゃってるから、声も絶対に間違えないぜって告白の言葉?」
「‥‥言ったままの意味で受け取れ。アホな深読みすんな」
 クテンと背中にしな垂れかかり、両腕を冬弥の首に巻きつける。冬弥が鬱陶しそうに手を払い、短くなった煙草を一口吸い、携帯灰皿に押し付けるとゆっくりと紫煙を吐き出す。
「冬弥ちゃん、冷たい!」
「普段と同じデス」
 素っ気無い態度に、プゥっと頬を膨らませる。不貞腐れてますと言う意思表示だが、冬弥はフグみたいだと一言言っただけで、相手にしてくれそうにない。
「もー、じゃぁ良いよ!今日から草間さんに乗り換えてやるんだからーっ!」
 どうぞご勝手にと言う表情が尚更憎らしい。
 暁は武彦の背中に抱きつくと、紅の瞳を細め、耳元に口を寄せた。
「草間さんの方が優しいし、フグとか言わないし、アホとか言わないもんねー?」
「‥‥まぁ、お前にそんな言葉をかけたことはない‥‥な、確か」
「草間さん、俺の事嫌い?」
 眉を顰め、寂しげに目を伏せる。吐息に言葉を絡めたような淡い囁きは、直に腰に来るものだった。低い身長、華奢な体つきに透けるような白い肌。金色の細い髪は子猫の毛並みのように柔らかく、長い睫は薄っすらと頬に影を落としている。薄いピンク色の頬と、それよりもやや濃い唇の色、大きな二重の瞳は魅力的な輝きを発し、近付けば女の子のような甘い匂いが仄かに漂ってくる。
 これで男だと言う事実さえなければ‥‥‥世の男性陣はそう思い、溜息をつくだろう。
「嫌いではないが‥‥」
 16歳と言う年齢の割りに尋常ではない色香を纏った暁に、傾きそうになる武彦。
 コイツは男なんだ、こう見えてカポエラでどんどん敵を倒してしまうような強い男の子なんだと、必死に自分に言い聞かせる。
「そっか。良かった‥‥嬉しい」
 にっこり―――武彦があからさまに視線を外し、どこか遠くを見つめる。心なしかその目が泳いでいる気がする。こんなに肌寒いにもかかわらず、武彦の額には冷や汗が玉となって浮かんでいる。
「‥‥‥か、梶原‥‥‥桐生をどうにかしてくれ」
「どうにかっつわれても、別に俺、そいつの保護者じゃねぇし」
 完璧に楽しんでいるらしい冬弥は、武彦を助ける気はサラサラないらしい。足元に置いてあった缶を掴み、口元に持って行くとゴクリと喉を鳴らして飲む。
「‥‥あれ?冬弥ちゃん、もしかしてソレお酒?」
「あぁ、リードが持ってきてくれたんだ。どうやら俺は酔わない体質らしいな‥‥」
「ふーん。ねぇ、俺にも一口チョーダイ?」
 “カーイラシク”小首を傾げ、おねだりをする。これで男と言う事実がなければ、もしくはその事実を知らなければ、抱き締めたいと思う男性もいるだろう。そのくらい魅力的な表情だったが、冬弥は苦々しい顔をすると「ダメだ」と素っ気無く返した。
 冬弥の脳裏に、以前暁がお酒を飲んだ時の記憶がまざまざと蘇り、警告を発していた。絶対に飲ませてはならないと‥‥。
「ケチー!」
「ケチとかそう言う問題じゃねぇ!」
 怒鳴る冬弥に、反抗心がメキメキと音を立てて育つ。素っ気無い冬弥の態度も不満だった暁は、さっと横から手を伸ばすとビールの入った缶を取り上げて一気に煽った。
「あっ、馬鹿!!」
 ゴクゴクと喉を通る炭酸の感覚が気持ち良い。食道を通って胃まで落ちるうちに、冷たい液体は熱を持つようになり、ぽっと体が中から温かくなって行く。視界に霞がかかり、頭がぼやける。気分が高揚し、何となく楽しい気持ちになってくる。
 暁は飲み干した缶を足元に置くと、熱い溜息をついた。
「オイシー!でも、暑くなってくるよね、お酒飲むと」
「いや、待て!今は十分寒いから!惑わされるな暁!服を脱いだら負けだぞ!?」
「んーっと、俺が負けたら‥‥俺が冬弥ちゃんのものになる‥‥ん、だっけ?」
「今はそんな話をしてる場合じゃねぇ!てか、その賭けいつまで引っ張んだお前は!」
 冬弥の怒鳴り声が直接頭に響く。ジンジンと痛む頭を押さえながら、暁は武彦にしな垂れかかった。
「‥‥‥梶原、桐生が酔うとどれだけヤバイんだ?」
「そうだなぁ、この寒空の下、無料ストリップ劇場を開演しそうなくらいかな‥‥」
 遠い目の冬弥に、武彦の顔色が悪くなる。パタパタと手で顔に風を送っていた暁が、ふぅと気だるげに溜息をつくと立ち上がり、おもむろにブレザーを脱ぐとネクタイを緩めた。
 止めようとする冬弥の手をすり抜け、上機嫌でボタンを1つ、また1つと外していく暁。
「武彦さんに冬弥君、暁君、リードさんからジュースを貰って来たんだけ‥‥ど‥‥」
 ランと一緒にリードに黒板消しを届けに行っていたシュラインが、スカートの裾を翻しながらやって来る。切れ長の青い目が突然の光景に見開かれ、凍りつく。少女の後ろからやって来たランが、半脱ぎ状態になりつつある暁と、それを必死に止めようと四苦八苦する武彦と冬弥の姿を見て、シュラインの目の前にさっと手を翳す。
「目の毒だ」
 少々酷いランの言葉に苦笑すると、暁は手を止めた。女性陣が来ている中で脱ぎ続けることはやはり宜しくない。脱がなくてはならないほど暑いわけではないし―――そもそも、あのくらいの量では酔えない。
 全部嘘だよ。そう言おうと口を開いた時、グラリと視界が揺れた。あれだけの量では酔わないだろうと思っていたが、それは“現在の暁の場合”だ。“1年前の暁の場合”はどの程度で酔ってしまうのか、記憶は曖昧だ。
 体が重力に従って落ち、地面にへたり込む。必死に体勢を立て直そうとする暁の脳裏に、様々な光景が浮かんでは消えていく。
 舞い落ちる雪、赤い水、口の中に広がる血の味、紅の瞳―――
 夢幻館の長い回廊、絡みつく不思議な雰囲気、季節に関係なく狂い咲く花―――
 無人の教室、冷たい風、白いカーテン、箱庭、無音の世界、孤独感―――
「暁君、大丈夫!?」
 甲高い声に引き戻される。焦点の合っていない世界はぼやけており、暁は一度強く目を閉じると開いた。心配そうなシュラインの顔の向こう、同じような顔をした冬弥と武彦、ランの姿があった。
「ちょっと気分が‥‥‥」
「未成年なのに酒なんか飲むからだ!‥‥‥‥‥具合が悪いならば、リードを呼んでくるか?」
「大丈夫だよ。だって‥‥‥これ、悪戯だから☆」
 お茶目な笑顔で起き上がると、暁は服についた砂を払った。
「俺ね、劇団員なの。顔青くするのも得意だし―――泣く事だって出来るよ。お望みとあらば、演じましょうか?」
 紳士的に頭を下げ、淑女のように艶かしい笑顔を浮かべる。唖然としていた面々がやがて事態を飲み込み、やられたと言うように深く溜息をつくとキャンディーを取り出した。
 カラフルなキャンディーを受け取りながら、暁は必死にこれで良いんだと自分に言い聞かせていた。
 この和やかな雰囲気を壊さないためなら、いくらでも嘘をついてみせる。いくらでも微笑んでいられる―――
 古めかしいチャイムの音が、静かな学校に響き渡る。ひび割れた音は物悲しく、それでいて何処か懐かしかった。



* * *



 よく沈むソファーに腰掛けると、暁は目を閉じた。未だに気持ちの悪さが残ってはいるが、大分落ち着いてきたようだ。
 耳を澄ませば厨房からお菓子を作る音が漏れ聞こえている。ランとシュライン、武彦とリードが頑張っているのだろう。
 煙草を吸いに行くと言って冬弥が席を立ってから数分、カチャリとドアノブが回る音がし、振り向いてみれば重厚な木の扉の向こうに小ぶりのポットとティーカップの乗ったトレーを危なっかしい手つきで持っているシュラインの姿があった。華奢な彼女の腕には重いのか、小刻みに震えている。
 暁は立ち上がると、シュラインの手からトレーを受け取った。
「有難う、暁お兄ちゃん」
「別に良いって、シュラインさんには重い―――って、お兄ちゃん!?」
 キラキラと無垢な瞳を輝かせるシュラインに、暁は1歩後退った。にこにこと近付いてくるシュラインは普段の彼女とはまったくの別人のようで、恐ろしい。
「シュラインさんどうしたの、頭でも打ったの!?」
 それ以外には考えられない。おそらく、シュラインと言う人格を形作っていた優秀な脳細胞がいくつも死滅するほどの大打撃を受けたに違いない。生きていたのが奇跡と言っても良い。
 すぐに武彦かリードに知らせなくてはならない。シュラインをこのままここに置いておくのも不安なので、手を握る。重厚な木の扉に近付き、金色のドアノブを掴もうと手を伸ばした時、扉は唐突に内側に開いた。
「わっ!なんだ、ランさんか‥‥」
「何だとはなんだ。折角クッキーを持って来てやったのに」
「あ、有難う‥‥‥じゃなくって、シュラインさんが変なんだ!」
 誘うような甘い香りに意識が向かいそうになるが、それを何とか引き止めるとシュラインのおかしさを詳細に説明する。頭をぶつけたのではないかと言う推測まで語った時、ランが呆れたと言うように盛大な溜息をつくとクッキーの乗った皿をテーブルの上に置いた。ついでに暁が棚の上に無造作に置いたトレーもキチンとテーブルの上に置き、カップに紅茶を注ぐ。
「それのどこが変なんだ?エマにしてみれば、お前は“お兄ちゃん”だろ?」
「今はそうだけど、現実は俺のが年下だし‥‥‥」
「そんなことより、クッキーを食べろ。美味いぞ」
 ダメだ―――暁はそう思うと、クッキーをぱくつくランをそのままに厨房へ向かおうとした‥‥‥のだが、またしてもこちらがドアを開ける前に反対側から開けられてしまった。一瞬、向こうで入ってくるタイミングを計っているのではないかと疑ってしまうが、まさかと思い直す。
 暁よりも頭1つ分以上高い武彦は、マフィンの乗ったカゴを持って入って来た。まさか暁がそんなところに立っているとは思わなかったのか、完全に彼の視界外にいた暁はドンと思い切り正面衝突してしまった。ブレザーからは洗剤と煙草が混じり合った匂いがし、不良少年と言う4文字が脳裏にちらつく。
「おっ、悪い‥‥怪我はないか?」
「俺は大丈夫だけど、シュラインさんが大変なんだ!何か、頭をぶつけたらしくって‥‥」
 先ほどランにしたのと同じ説明を繰り返す。ふんふんと真面目に聞いていた武彦はランの時と同様、呆れたと言うように盛大な溜息をついた後で全く同じ言葉を向けてきた。呆然とする暁の顔をマジマジと見つめた後で、マフィンを1つ掴むと差し出す。
「そんなことより、マフィンを食べろ。美味いぞ」
 クッキーがマフィンに変わっただけのセリフに、暁は頭が痛くなってきた。むぎゅりと口元に押し付けられたマフィンを仕方なしに食べ、その光景を見ていたランがすっくと立ち上がるとクッキーを1枚摘まんで暁の前に立った。
「クッキーも食べろ!草間のマフィンだけ食べるなど、許さん!」
「何の対抗いし―――むぐっ‥‥」
「クッキーよりマフィンを食べろ」
 クッキーがまだ飲み込めていないうちから武彦がマフィンを口元に押し付け、危うく窒息しそうになる。
 シュラインだけが変だと思っていたが、ランも武彦も何かおかしい。マフィンとクッキーで口の中の水分が奪われ、パサパサになる。
「むぐっ、んぐんぐ‥‥むーっ!!(訳:ちょっと2人とも落ち着いてー!)」
 そんな悲痛な叫びは2人には届かない。‥‥マフィンとクッキーのコラボで窒息死なんて嫌すぎる。何とか危機を脱しようとバタバタと暴れているうちに、天の助けとばかりに再び扉が開き、中からリードと冬弥が顔を覗かせた。
「いったい何の騒ぎですか?」
 チョコレートの乗ったトレーを手にしたリードが、不審そうに眉根を寄せる。
「んぐぐ、むぐっ、んーっ!(訳:みんながおかしいんだよーっ!)」
「あぁ、チョコレートが食べたいんですか?」
 紳士笑顔のリードがチョコレートを1つ摘まむと、クッキーとマフィンで渇ききった口の中に放り込む。ドロリと溶け出す甘い液体は口中に広がり、ねっとりと官能的な重みを持って食道に流れ込む。
 チョコレートは決して嫌いではない暁だったが、こんな時に呑気に食べようとは思えない。まして口の中が渇いている時に食べるチョコレートはなかなか溶けずにいつまでも口内に残って存在感を発し続けている。
「‥‥リードさんまで変になってるーっ!!」
 この3人はお菓子の国が派遣した大使なのだろうか?どのお菓子が一番桐生暁の心を射止めるかと言う、凄く小さな争いでもしているのだろうか?
 もしくは、厨房で何かあったのだろうか?調味料同士がおかしな化学反応を起こしてしまい、世にも奇妙な謎の物体が出来上がってしまったのだろうか?それを食べた4人が何者かによって操られているのだろうか?
「冬弥ちゃん、どうしよう。厨房で国家機密級の“何か”が出来上がっちゃったみたいだよ!」
「よし、どっかの国に売りつけるか」
「どうしてそんな結論になるの!」
 反射的にツッコミを返す。いつもとは違う立場に何となく落ち着かない。普段ならばボケが暁でツッコミが冬弥のはずなのだが‥‥
 もしかして冬弥も謎の物体を食してしまい、脳の回路が変な風に捻じ曲がってしまったのだろうか?そうだとすれば、この状況は非常にまずい。この広間にいる人間は6人、その内の5人がおかしいとなれば、残るは1人だ。
 5人がおかしくなった理由を突き止めて治してみせると意気込むべきか、そんな国家機密級の“何か”に太刀打ちできる術はないと逃げるべきか。
 うんうんと唸りながら必死に脳味噌を動かしていた時、不意に冬弥の大きな手が暁の顎をグイっと掴んだ。
「頬にクッキーとマフィンのクズがついてるぞ」
「あぁ、ランさんと草間さんに―――」
 クズを取ろうと頬に伸ばした手を捕まれる。ふっと冬弥の顔が近くなり、熱い唇が頬に触れた。湿った舌が暁の頬を撫ぜ、何が起きているのか理解しようとする前に、冬弥の顔が離れた。
「うん、甘いな」
「――――なっ‥‥‥何を‥‥‥え‥‥‥えぇぇぇっ!!?」
 凄まじい速さで飛び退けば、ソファーの角に躓き、そのまま後ろにひっくり返る。ソファーでまったりと紅茶を飲んでいたシュラインが驚いて立ち上がり、背後でぷっと吹き出す音が聞こえる。
「ここまで良いリアクションを返してくれるとは思わなかったな」
 ランが低く笑い、リードが穏やかに微笑む。俯いている武彦の肩は震えており、ポンと冬弥の肩に手を乗せると親指を立てる。
「エマ様と梶原様の演技力の賜物ですね」
「私は大したことしてないわ。冬弥君の迫真の演技があったからこそよ」
 頭は打ってない?と労わりの言葉をかけてくれるシュラインだったが、その表情はやや引き攣っている。笑いを必死に堪えているのだろう―――その優しさは流石だ。
「桐生様、Trick and Treat!です」
 自分の身におきた一連の悪戯にどう対処したら良いのか、脳が必死に計算をしていたところ、リードがそう言って深い皺の刻まれた手を暁に差し出した。



* * * その後 * * *



 ちょっとこちらへとリードに案内されて着いた先は、広く綺麗なキッチンだった。大きなテーブルの上にはパンやケーキの乗ったお皿が並べられており、まだ賑わっている広間に届けられる時を静かに待っている。
「桐生様は、梶原様と仲が宜しいようですね」
 悪戯っぽい瞳に、曖昧な笑顔を返す。リードが暁の頭から爪先までを眺めると、ふっと柔らかく微笑み、キッチンの上部にある扉を開き、中からガラスのビンを取り出すと暁の手に乗せた。
 両手に乗ったビンの中には色とりどりの飴が入っており、表面についたざらめが蛍光灯の光を受けてキラリと輝く。
「2人がもっと仲良くなれる‥‥‥ほんのおまじないです」
 リードがビンの蓋を開け、ピンク色の飴を取り出すと暁の口の中にそっと入れる。舌の上で溶ける飴は甘く、イチゴの味がした。
「梶原様にも、ゼヒ」
 コクリと頷き、ビンを胸に抱くと広間に戻る。相変わらず賑やかなそこで、冬弥の姿を見つけた瞬間、ビンに気づいたランが立ち上がると滑るようにコチラに近付いてきた。
「うむ、美味そうな飴だな!」
「えっと、これは‥‥‥」
 暁の手からビンを取り、白い掌に水色の飴を乗せる。口の中に放り込んだランが満足げに頷き、黄色とオレンジの飴を摘み上げるとシュラインと武彦の方へと走っていく。
「リードから貰って来たのか?」
「うん。何かね、俺と冬弥ちゃんがもっと仲良くなれるほんのおまじないだって‥‥‥」
 いつの間にか隣に立っていた冬弥にそう説明すると、途端に嫌そうな顔に変わった。
 妙なクスリでも入っているのではないかと警戒する冬弥だったが、食べた4人に特別な変化は見られない。
 何にも起こってないし、美味しいし、大丈夫だよと声をかけ、白い飴を取ると冬弥の手の上に乗せる。未だに警戒心が解けていないらしい彼は不審気に飴を眺め回すと、意を決して口の中に放り込んだ。
「‥‥‥ね?何にも起こらな―――――」
「桐生様、すみませんっ!!手違いで違うビンを渡してしまいました!」
 木の扉が乱暴に開き、取り乱したリードが入ってくると広間を見渡し、あぁと悲痛な溜息を漏らした。
「皆さん食べてしまわれたんですね‥‥‥」
「あの、リードさん‥‥あの飴に何かあったんですか?」
 シュラインが恐る恐ると言った様子で問いかける。皆の視線が彼女に集まった瞬間、この飴の効果を理解し、ある者は天を仰ぎ、ある者はなんでもないという風に鼻で笑ってみせた。
 先ほどまでは長く艶やかな黒髪をツインテールにしていたシュラインだったが、今では髪は短くなり、着ている物もワンピースから悪魔の羽のついたTシャツと髑髏や十字架がところどころにプリントされた黒のズボンに変わっている。
 5歳の少女から5歳の少年への華麗なる変身―――この飴は、食べた者の性別を変える効果があるらしい。
「私は元の姿に戻っただけだな」
 黒いセーラー服の短いスカートを気にしながら、ランが漆黒の髪の毛を背に払う。
「私も特に恥ずかしいって事はないけれど‥‥武彦さんに暁君、冬弥君はご愁傷様ね」
 シュラインの言葉に、ランと同じ黒のセーラー服を着た武彦がオロオロと隠れられそうな場所を探す。
 肩口まで伸びた髪に、やや高い身長、締まった細い腰にふっくらとした胸―――かなり良い体つきをしている。
「俺は別に‥‥慣れたって言うか、なんて言うか‥‥」
 腰まで伸びた金色の柔らかな髪を弄る。スカートの裾から伸びる細い太ももは艶かしいまでに白く、袖から覗く手首は儚いくらいに細い。きゅっと締まった腰とは相反するように胸は大きく、暁は自身の姿を鏡に映すと苦笑した。
 全体的に丸みを帯びた体つきは16歳と言う年齢不相応の色香を多分に漂わせており、ラメの入ったグロスで彩られた唇の赤と、紅の瞳がよく似合っていた。右耳の上に光るピンは天使の羽を模しており、銀色のソレは金色の髪をよく引き立てていた。
「暁君は男の子でも女の子でも色っぽいのね」
 シュラインの褒め言葉にお礼を返すべきなのか、悩む暁の視界の端に黒のシックなワンピースを纏った女性の姿が映った。
 茶色と言うよりは赤に近い髪を1本に束ね、緩やかに肩に流している。はっと息を呑むほどの美貌はまだまだ健在で、どう贔屓目に見ても30代には見えないほどに若々しい。
「冬香さんはやっぱり美人さんなのね」
「五月蝿いぞエマ!」
 落ち着いた声は女性的な高さで、言った言葉に似合わず上品な響きだった。
「ふむ、梶原‥‥どうせなら女性の方が人生楽かもしれないぞ?」
「それを言うなっ!!」
「‥‥その前に、言葉遣いをどうにかしないとダメだな」
 武彦がポツリと呟き、それまで暁と冬弥に集まっていた注目が彼に流れる。ランが武彦の姿を見て吹き出し、シュラインが「武彦さんもとっても綺麗よ」と、言われたところで嬉しいんだか嬉しくないんだか―――武彦としては99%以上の確率で嬉しくないと思うが―――微妙な慰めの言葉をかける。
「どうせだから、写真でも撮っておきたいわね」
「どんなどうせ!?何がどうせ!?撮ってどうすんだよエマ!」
「それでしたら丁度ここにカメラが―――」
「どんな丁度だよ!」
 冬弥の光速ツッコミもなんのその、リードがポケットからカメラを取り出すと「皆さん並んでください」と穏やかな笑顔で告げる。嫌がる武彦をランとシュラインが両脇から挟み、同じく嫌がる冬弥を暁が無理矢理隣に立たせる。
 悲痛な2人の叫びなど知るものかとフラッシュが瞬き、女子高生3人と上品な女性、可愛らしい男の子の写真が出来上がった。
「直ぐに現像しますので、お帰りの際にはお菓子と一緒にお持ち帰り下さい」
 丁寧なお辞儀と共に広間を後にしようとするリードを引き止めると、暁は目一杯背伸びをして彼の耳元に口を寄せた。
「もし間違ってないビンを渡してたら何が入ってたの?」
「媚薬ですよ」
 あっさりととんでもない事を言い出したリードに、流石の暁も唖然とする。もしも媚薬入りの飴を広間中にばら撒いてしまったとしたならば、それこそ地獄絵図以外の何物でもない気がする。
「効果はあと30分ほどで切れると思いますので」
 よく響くリードの低音が広間に広がり、武彦と冬弥が時計の針が早く進むようにと念をかける。無駄なことはよせとランが叱咤し、シュラインが健気に冬弥と武彦を元気付ける。
 そんな賑やかな光景を背後に、暁は鏡の前に立つと鮮やかな赤の瞳を真正面から見つめ、微笑んだ。
 ―――舞い落ちる白は、舞い踊る夏の白波に。赤い水は空に流し、綺麗な夕焼けに。口の中に広がるのは甘いお菓子の味に。紅の瞳は‥‥
 紅の瞳は、幸せな時を一秒でも長く映せるように―――



━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


 4782 / 桐生・暁 / 男性 / 17歳 / 学生アルバイト・トランスメンバー・劇団員


 6224 / ラン・ファー / 女性 / 18歳 / 斡旋業

 0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員


 NPC / 梶原・冬弥
 NPC / 草間・武彦


ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛

 長らくお待たせいたしました!そして、かなりの長文になってしまいました‥‥すみません‥‥
 暁君の魅力を最大限に活かしたい!と、やけに描写が細かくなってます。
 暁君の艶かしくも可愛らしい小悪魔的な雰囲気が上手く出ていればなと思います。
 色々サプライズが詰まっていますが、楽しんでいただければ嬉しいです!
 シュラインさんとのツインはほのぼのとした雰囲気で、ランちゃんとのツインは楽しく明るい雰囲気になってます。
 今回、暁君の裏の部分を入れるかどうか非常に悩みました。明るく楽しい小悪魔暁君のみでも良かったのですが‥‥
 性格の欄を見て、やはり裏も入れてみようと決めた結果このようになりました。
 全体的に明るく、それでいて悲しく、不思議な雰囲気が出せていればなと思います。
 ご参加いただきまして、まことに有難う御座いました!