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<東京怪談・PCゲームノベル>


青の鈴 〜時のかたみ〜

 瞼を閉じても開いても、白が消えない。
 焼き付いた残像の如く世界を一色に覆い尽くす白は、芳賀百合子の双眸を乱暴なほどに領じていた。
 一面の雪、限りなくそして無為に広がる白。ふと己の両手を見れば、掌も手首も纏った小振袖も世界と同じ色をしている。血が通う分辛うじて温かみのある白だけれど、また腹にきゅっと締めた帯だけが墨の様に黒いけれど、こうして凝っと見つめていると、嗚呼、身体が世界に溶けてしまう錯覚。
「どうした、嬢」
 声に、頤を上げる。其処にまた、黒。
 白の中で、征史朗の黒髪と藍染の着流しは殊更浮き上がって見えた。明確な色彩を見つけて瞳が安堵し、その心持ちのまま息を吐けば、“ほう”────それもまた白と濁る。
「……雪は、あまり好きじゃないの」
 我知らず呟きが零れ落ちた。彼は、おやと片眉を上げる。
「そうか、寒いものな」
 さくり、さくり。歩み寄ってくる征史朗をただ眺めていたら、視界にはらはら真綿の様なものが映る。見上げたのは鈍色の曇天、舞い落ちてくるのは儚き六華。
 彼が再び傘をさす。風の花が散り掛かり、ひおう、自分と彼の黒髪を揺らす。
「いいえ。寒いのは平気だけど……違うの、雪を見ていると、」
 さくり、さくり。目の前で立ち止まった彼が自分に傘をさし掛けて、袖の袂をふわりと翳した。頬のすぐ傍でそれが小さく旗めくのを見て取って、これはもしかして凍てつく寒風から庇ってくれているのだろうかと思い至る。
「あ、有難うございます」
 軽く頭を下げた自分に、征史朗は薄く微笑む。
「躾の行き届いた嬢だな。気にすることはねぇよ、頼みごとをしているのはこっちなんだ。まあ、聞き入れて貰えるっていう前提があってこそ、だがな」
 に、と彼が唇を横に引く。一尺ほど上にある彼の顔、こうして近くに立たれると、背丈の余り無い自分は自然顎を上向けなければならない格好だ。
 そう、先刻からずっと上ばかり見ている気がする。
 もう一人。気になっているあの少年も、自分より高い位置にいるのだから。

 凍った滝に沿って視線を上げていく。
 苦しげな表情を引き結んだ唇で耐える様。青い鈴を持つ少年がそこにいた。

「どうして、そんなに辛そうなの?」
 地上から声を投げ掛ける自分に、中空の少年は一寸だけ首を巡らせた。深い深い淵の様に波立たぬ瞳が、しかし苦しげに眉を寄せたまま自分を見遣る。
 白を纏う彼は、自ら色彩を捨て白い世界の中へと埋没したがっているかの様。こちらへ顔を向けたまま微動だにしない手足に、頬に蒼褪めた唇。その背後に見える、凍りついた大きな流れ──時を止めた、滝の姿。
 静かに見上げる自分の視界に、段々と小雪が増していく。深々と降り続けるそれが、彼の白い肩へと、そして鈴を包んだ手の上へと落ちては、消えていく。
「どうして?」
 重ねて問う自分に、彼はそっと、逡巡する様にして瞼を閉じた。
『……知りたいか?』
「え?」
 突然問われた言葉に、咄嗟、驚き。
 少年はすうっと双眸を開き、自分を真っ直ぐに見つめながら重ねる。
『娘、知りたい故の問いか。我の、理由を』
 こくん、と首肯するのに然程時間は有しなかった。知りたい、白く霞む息でそう告げると、彼は一歩、爪先を前へと踏み出した。
 空には何も見えないが、足取りは確かに階を下ってくる。一歩また一歩とゆっくりと踏みしめて、やがて彼は自分の目の前へと降り立った。
 向かい合ってみると彼のほうが少し背が低い。面立ちも、自分より幾分か幼く感じる。男として未分化の幼子、童の顔だ。
 自分は唇をきゅっと噤み、心持ち顎を引いて彼を凝視める。どうして、どうしてこの小さな子はこんな大人の様な表情をしているのだろう。どこか痛いの? それとも哀しい出来事があったのかしら。案じる言葉が無意識に浮かんでは消え、そこにまた吹き込む雪混じりの冷たい風。
 身震いする、それを察した征史朗がまた少し肌を寄せ覗き込んでくる。寒いか?
「……大丈夫、です」
 会釈で答えながら、けれども気にしているのは目の前の少年ばかり。
 自分には護ってくれる温かな天蓋が有るけれど、この子にはそれが──何も、無い。
『……知りたいと欲するならば、来るといい』
 差し伸べられた右手。戸惑いながらも取ろうと、して、傍らの征史朗を見上げる。
 貴方は? と視線で問いかけると、彼は微笑みながら一歩退き、トンと大きな掌で背中を押した。
「俺は傍観しておこう。だが、俺の頼みを忘れてくれるなよ? 巡り会った縁だ、頼むぜ」
「あ、はい」
「ハハッ、愛らしい返事だ。任せたぜ、嬢」
 自分は少年に向き直り、待ってくれていた白く冷たい手をぎゅと握った。





 知りたい、と思うこと。
 そのぼんやりとした、しかし自覚的な欲求は、常日頃自分の胸に在り続けている。
 喩えるならばそれは極々小さな花の棘だ。ちりりと肌に刺さったまま抜けず、また落ちず。身を煩わすほどの痛みは無いのでその侭にしておいてしまえる、微細な疼き。
 その痛みは恐らく、自分の幼馴染に源を発するのだと思う。
 口数が少なく表情も余り豊かではない幼馴染は、時折何かを耐えている様な表情を見せる。鈴の少年と同じ様に、言葉も辛さも全て独りきりで呑み込んで、嚥下も消化も出来ないのに無理矢理喉の奥に押し込めている──そうとしか出来ないという様な唇の引き結び方をしているから。
 自分はそれを見る度に切なく思う。────知りたい、あなたは何を苦しんでいるの?
 少年に声をかけたのも、ともすると幼馴染が脳裏に過ぎったからかもしれない。
 だから自分はこうして彼の手を取り、透明な階を上り、時を止めた滝の前にまでやって来たのだ。





 立っているという確かな感覚は有るものの、足の下に只の空間しか見得ないという状況はやはり恐怖心を誘う。風が吹き抜けるたびに、ひおう、寒さとは違う意味でも身が震える。
 そのせいか彼の手を握る力が強まった。ぎゅっとしがみつくかの掴み方に、慌て、痛くはなかったかと少年を伺う。けれども彼は滝を凝視めているばかりで、こちらに全く注意を払っていない。
『触れるといい』
 不意に彼が言う。
 視線で示すのは、彼の鈴と同じ蒼白い凍れる流れ。滝に触れろと促す彼に、自分は素直に従った。
 彼と繋がるのとは逆の掌をそっと表面に押し当ててみれば、伝わってくるのは輝石の如き固さ、そして痺れるような冷たさ。この場所が白に埋没する前には、轟音を振り撒く勇壮な滝であったことだろう。凍った今ですら斯くも荘厳であるのだから往時は尚更。
 そう偲ばれるだけに今の姿は哀しかった。自然の摂理であるこの凍りが、自分には悲痛なものに感じられた。
『……その悟りは、世界と溶け易い境界の為せる業か』
「さとり?」
 耳に留めた自分に、しかし彼は答えず続ける。
『娘、耳を』
 彼が動く。何をするのかと見ていたら、片耳を滝に押し当て、そして目を閉じた。
『斯くの様に、聴け』
 何を、とは瞳を見せてくれない人には問えなかった。
 少しだけ、逡巡。しかしすぐに決意。
 恐る恐る、耳朶を滝に押し当てる。痛いほどの冷たさを感じながら、彼と同じく瞼を下ろした。

 目を閉じても開いても、やはり、白が消えない。
 世界全てを覆い尽くし、何ものの存在をもその胎内に呑み込んでしまう白。雪という羊水に山河草木人をも浸し、沈めて眠らせ囁くのだ。────さあ、私の中に溶けなさい。
 それを、怖い、と百合子は思う。
 雪の中にいるのは好きではないのだ。左右と天地の感覚が、奪われてしまうから。
 まっすぐ立てているのか解らない不安は、やがて焦燥を呼び起こす。足元の覚束なさは、つまり自分の居場所の不安定さに繋がって。

 まるで、世界に溶けてしまう錯覚。
 自分という存在が、霧散していく、恐れ。

『何か、聴こえるか?』
 声に、うっすら瞼を押し上げ、素直に首を横にうち振る。
「これは氷だもの。何も、聴こえないわ」
『……そう。時間を止めたモノから、音など聴こえるはずもない』
 少年が滝から体を離す。自分もそれに倣う。
『娘よ、これが我の理由だ』
「これ?」
『辛いのかとおまえは問うた。我の苦しみは時を止めた歪み故……流れを堰き止めた痛みが身を蝕む故、おまえの言葉に落とせばそれは、“つらい”とも言おう』
「え……えっと、時を止めているから、辛いの?」
『そう、流れるべきものを押し留めるのは自然に逆らうことだ。ことわりに逆らえば歪みが生まれる、それはまた……痛みとして身に突き刺さる』
「流れるべきもの……って、この、滝のこと?」
『滝も、草木も、全て。此処にあるありとあらゆる総ての命……の、ことだ』
 小首を傾いで、考える。
 少年が辛いのは、流れを止めているからだという。流れ、それは時間ということだろうか。
 時間は本来進むべきもの、流れるべきもので、その自然の摂理に反したことを為そうとしているから、少年は痛みを感じている……────。
「え、じゃあ、どうして?」
 百合子は眉を寄せた。
「貴方は、どうして自分が痛いとわかっていることを、しているの? それは、止められないの?」
「ハハ、それは正論だ」
 返答は、少年からではなく足の下から返ってきた。地上で傘をさし待っている征史朗が、こちらを仰ぎ見ていた。
「嬢、その通りだよな。自分が苦しむことなんて止めちまえば善い、放り出してしまえば良いんだ。何も自分から茨の道に足を踏み入れることはない、ああ、それは坊だって俺だって承知のことさ。
 ……だがな嬢、優しいおまえには悪いが、自分の首を絞めるとわかっていても為したいってことが人の欲の中にはあるんだ。傷と引き換えに手に入れたいと、どうしてもって思うことが……なあ坊、そうなんだろう?」
『……よく喋る男だ』
 征史朗に一瞥も呉れぬまま、少年は掌中の鈴を握り締める。ぎりり、と力を籠めて。
 見れば、冷えた黒髪に、降りかかる雪がうすら積もりだしている。百合子は自分の頭上に手を遣った……冷たい。ぱさぱさと粉雪を手で払い除け、凍りそうな指先をせめてもと頬に押し当てた。
 しかしどちらも冷え切ってかじかんで、乾いた冷たさしか感じられない。百合子は目を伏せ顔を曇らせる。このままでは感覚が麻痺してしまいそうだ、痛みも苦しさもわからなくなって──総て、凍り付いてしまう。
「あの……」
 確か、少年は言った。
 鈴は、此処を止め置くための力。
 そして征史朗は言った。
 少年の望みは、この世界を凍らせて止めること。
「あの、どうして、痛いのを我慢して止めなくちゃいけないの? 貴方が苦しんでいる理由はわかったけれど、貴方が苦しまなくちゃいけない理由は、教えてもらって、ない、から」
 言葉が尻すぼみになったのは、少年の眼差しがきつくなったように感じられたからだ。
 何かいけないことを言ったのだろうか。戸惑う自分に、彼は暫し口を閉ざし。
 と、不意に何事か。自分に向かってその身を寄せた。
「あ、……」
 近づかれれば、白い息がかかるほどの間近さ。
 はっと驚き、半歩退ろうとした自分を、少年は繋いだ両手の環の中に閉じ込める。そして爪先立ちで背を伸ばすと、額に額を押し当ててきた。
『……娘、おまえは、容易に、』
 輪郭がぼやけるほどすぐ鼻先にある、少年の伏した瞳。
 こくり、と緊張に喉を動かす。
『容易に、触れようとするのか。……溶け易い身を知ってか、知らずか』

 ────“霖”。
 頭の後ろで鈴が鳴った。
 それは深閑たる蒼白い世界に木霊して。

 ────瞠る眼前に、映る景色とは別の情景が広がった。





 青々と繁る草木があった。
 何処か山間の谷、人が滅多に足を踏み入れぬ生まれたままの姿で、大小の樹と色取り取りの花が、羽ばたく鳥に蝶、つがいで睦みあう獣たちが、それぞれがそれぞれに思う様生命を謳歌している場所だ。
 その中心に、青く大きな滝が見えた。
 遠く山の頂からの雪解け水だろうか、豊かな水量が岩と岩の間から身をくねらせ躍り出て、轟音と飛沫を撒き散らしながら滝壺に向かって一直線、地を裂かんばかりの勢いで落下する。淵より跳ね上がった雫は陽光を受けて輝石が如く煌き、萌え出づる下草や生す苔の緑を濡らしている。
 滝の音は谷を渡る風に乗り、山々に響き渡っていた。
 水の流れは時の流れ。それを正しく動かす命の音が、その風景の中には溢れていた。

( これは……なに? )

 と、その情景に変化が訪れる。
 滝の音が、僅かだが弱まったような気がした。
 木の芽を食んでいた獣が、ふと異変に気付いて顔を上げる。視線の先には滝の源、いつもならばあそこに虹が掛かっているのに──どうしてだろう、何か、予感。
 違和感は、やがて目に見得るものとなって情景の中に滲み出す。
 滝の水が、徐々に、細くなっていく。
 流れ落ちる水が、少なくなっているのだ。

( いけない……! )

 思わず手を伸ばす。しかしその情景の中に自分は入ることが出来ない。
 滝はみるみる力を失っていく。どうしたのだろう、源が枯れてしまったのだろうか、それとも流れの途中で障りがあったのだろうか。判らないまま、しかし変化は押し留まらずに進んでいく。
 草木に生き物たちは不安げに滝を見上げているが、滝を蘇らせる手立てをもつものは誰ひとりとしていない。

 滝が、失われていく。
 流れが、消えてしまう。

( 待って、だめ……! )

 その時。
 滝の目の前、中空に、白い影がじわりと滲み出た。
 影は白い水干を纏う少年の姿として結実し、その少年は組んだ両手の中に淡く光る青い鈴を閉じ込めていた。

『……留めよう。我の生まれた、それが、理由』

 少年が両手を天に捧げる、それはまるで祈りの形。
 鈴が一際高く、“霖”と鳴る。
 すると滝壺から水が逆流し、細っていた流れを呑み込み覆い尽くす。一瞬それは元の勇壮たる滝の姿に戻ったかに見え、そして────。

 滝は、そのまま凍りつき、時を止められた。





 ぱちり、と瞬きをすると、少年が腕を解き身を離していくところだった。
 今のは幻。いや、少年が見せた過去と理解するべきか。
 百合子は滝を、そしてかつて緑溢れていた眼下の景色を眺め遣る。しかし目に入ってくるのは白、白、残像まで白い一面の雪景色。
 落ちてくる雪の白が先程よりも増えたような気がする。少しずつ勢いを増していく雪の散華、ひとひらが頬に落ちて、あ、と感じた痛みは一瞬。麻痺しつつある感覚に、冷たさは呑み込まれる。
 雪は、少年の肩にもうっすら積もりだしていた。白い衣に白い華、相変わらずの苦悶と厳しさに彩られた表情のまま、少年はおもむろに口を開いた。

『木々を育み花を咲かせ、虫や獣の営みを見守り続けていた母なるものは、老い衰え痩せ細り、無へと掻き消えていたことだろう。強く温かかったものが、弱り冷たくなっていく様を目の当たりにするのは……人でなくとも、耐え難い。
 我は、此処に根を張り此処で生まれた命の、総意。言うなれば、在りし日の滝の──最も満ち足りていた過去の景色を、いつまでもと求めた心……執着。
 ────娘、おまえには解らずとも良い。歪み故の痛みが何ほどか。ただ黙って失ってしまう悲しみに比ぶれば、凍てつく痛みなど、何ほどのものか、など』

 百合子は、何も言えなかった。
 言葉を見つけられず逡巡して、そしてもう一度、滝の冷たさに耳を押し当ててみた。
 やはり何も、聞こえない。
 雪に包まれた世界は静かだ。何も動かず、何も変わらない。
 このまま凍っていれば、この滝は衰えることも無くなることも、消えてしまうこともないのだろう。時が移り、変化が起きるからこそ、人は老い、モノは毀れ、命の灯は無常の風に吹き消されていく。
 だから、このまま時の流れを留めていれば滝はこのままでいられる。雪に閉ざされた世界もこのまま、永遠に変わらずにいられる。

 消えないで、いられる。


 消える、とはどういうことだろう。怖い、ということだろうか。
 雪景色の中に立つ自分が感じた心許なさ。それは、そう、確かに恐れではある。
 自分が消えていくことに、その流れに抗えぬことを。
 この凍りついたものは恐れたのだろうか、悲しんだのだろうか、願ったのだろうか。

 このまま。────このままで、いたい。


 ゆっくりと瞼を押し上げていく。
 白の中から浮かび上がるように少年が見えた。深々と降り頻る雪をただ黙って受け続ける少年は、鈴を握り締め、目を細め、滝を見上げている。
 凍りにひたとつけていた頬が痺れる様に痛い。冷たさは痛み、降る雪は視界を領じて存在を奪う。
 雪と凍りしかないこの世界に少年はたった一人きり。滝が呼吸をしていた頃、辺りを満たしていた命は何ひとつ見当たらない。滝が枯れるのを留めるため、滝の姿を消してしまわないために世界を白で塗り潰してしまったという少年の、負った理由を分け合う同胞は誰もいない。
 だから痛みも恐れも、彼はたった独りで引き受けている。
 彼は、ひとりで。

「つらくても、平気?」
 不意に、口をついて出た。
 少年はこちらに一瞥も呉れず、わざと外すように視線を彼方へ放り投げる。
『……それが、我の生まれた理由ゆえに』
 鈴がまた“霖”と鳴る。その音が痛みを生むのか彼は耐える様に顔を歪め、そのくせに何でもないとすぐに隠す。鈴を欲しいと言った征史朗を拒み、手を携えてくれた自分の理解さえ必要無いと視線を外す。

(きっと、平気じゃないのに)
 言わないということは、無いということではないのに。
(きっと、苦しんでいるのに)
 自分には教えてくれない、手を伸ばしてもその心の中にまでは届かない。
(私は、知りたいのに)
 彼の──貴方の痛みを、その耐えている胸の内を。
(それが出来ないならせめて、和らげてあげたい)
 癒してあげられたなら、この人を。────貴方を。


 か み さ ま 、 ど う か 。

 か れ に 、 や す ら ぎ を 。


 ふわり、と雪が舞った。
 風が下から渦を巻いて吹き上げ、落下に身を任せていた白い華々を百合子と少年を包む様にして踊らせた。
 異変、感じて少年が視線を戻す。前に立つ百合子は両手を軽く広げ、僅かに上向けた顔、その瞳はどこか虚ろ。ふわり、雪と共に逆巻く風に百合子の髪が煽られ、扇の形に広がる。
 ぱたぱたと旗めく雪の重ねの振袖。漆黒の帯で着した小振袖に雪が紛い、ふと、百合子がこちらを見た。
 そして、微笑んだ。
 春の様に、温かに。

『 ありがとう 』

 突然の言葉に、少年は目を瞠った。百合子の唇から発せられた音は、しかし百合子の声ではなかった。

『 護ってくれて ありがとう 』

 少年は一声も上げられない。何故ならば、百合子から空気を震わし伝わってくる音を、知っていたから。
 雪が降り積もり、世界を覆い、自分以外の存在を姿を消して、白一色となるまでずっと独りきりでここにいた。──その長きの記憶で知っていたのではなく、自分が生まれた根源の、存在そのものがあの音を知っていた。

『 もう 充分 もう 苦しまなくて いいの 』

 百合子が──百合子に降りたものが、広げた手を少年へと伸ばす。一歩進み出て、少年を両腕で包み込む。
 そっと抱き締める温かさは、この凍りついた世界にはないものだ。二人の胸の内で青い鈴がくぐもって音を漏らす。“霖”、その音色が時を止め滝を留めていた。だから誰にも鈴を渡せなかった、自分の、生まれた理由為すべき使命だったから。

『 でも もう いいから 痛みを我慢しなくても いいから 』

 少年は百合子に抱き締められながら滝を見上げた。
 と、永遠に凍りついたはずのその表面に亀裂が走る。ぴしぴしぴし、罅は拡大し縦横無尽に広がり。
 ────ぱりん。

『…………』

 いともあっさり、砕けた。


「…………」
 意識が、徐々に浮上していく。
 背中に感触、はっと気付けば、自分は少年と抱き合っていた。自分の腕が彼を包み、彼の腕が自分の背に縋っている形。
 自分の肩に顎を載せ、少年は呟く。────娘、これがおまえの力か。
「え?」
 その時、どう、と一際大きな音がした。反射的に目を遣れば、あの凍りついた滝に無数の割れ目が広がっている。
 今にも崩れ落ちそうなそれを見て、百合子は驚きに目を瞠る。
 そして続けざま、足元にあった感覚が突然消え失せるのを感じた。
(落ちる……!)
 奈落が口を開けたような、全身を一気に押そう重力と恐怖心。しかし少年が捕まえていた身体は大地に叩きつけられることなく中空で一度止まり、それからゆっくりと地上に降り立った。
 足が間違いなく雪の上につくと、少年は自ら肩を押して身体を離す。そこへ、────耳を劈く、轟音。
 ふりさけ見れば、滝の凍りが粉々に砕け散り、内側から水が激しい勢いで噴出して、そのまま落下、滝壺の氷を一気に食い破る。百合子は一瞬見惚れる、これが、この滝の本当の姿。何て圧巻、何て力強い。
 だが、その滝の勢いも一瞬のこと。見る見るうちに水は細っていき、やがて流れは、完全に姿を消してしまった。

 時間の流れのまま、滝は命を終え。
 気付けば、天からの白い華も、降り積もることを止めていた。


『娘、手を』
 少年の言葉に、百合子は視線を彼へと戻す。彼は胸元の鈴に手を遣ると、その紐を掛けていた首から抜き取る。
 一度、鈴を掌に握り締める。そしておもむろに自分へと差し出されたのは、青い、二つの鈴。
「あれ? え、どうして、二つ?」
『此れは我の生まれた理由、であった。……もうひとつは、たった今生まれた。滝が在ったという証、と思ってくれればいい』
「滝の?」
 百合子は続きを問おうとした、が、少年は手を突き出して急かす。娘よ、疾くこれを受け取れ。
『滝と共にこの地の時間は流れ出した。やがて雪は溶け緑が芽吹き、新しい時間が来るのだろう。……故に、最早この鈴は、不要。我もまた、無用』
 少年が百合子の手を掴む。掌を上向かせ、そこへ鈴を押し付ける。
 冷たい、青く硬質な、美しい輝き。一瞬目を奪われた百合子が再び顔を上げると、そこにはもう少年の姿は無かった。
 先ほどより幾分か寒さ和らいだ風が、百合子の髪をふわり、揺らした。


「礼を言うぜ、嬢。まずはひとつ目、手に入った」
 後ろから近づいてきた足音に振り返れば、傘を畳んだ征史朗がさくりさくりと雪の上を歩み寄り。と、その姿が段々と明るく見えてくる。
  天を仰げば、道理。分厚い鈍色の雲に切れ目が生まれ、隙間から黄金色した陽光が地に降り注ぎ始めていた。
 温かい。百合子は、目を細める。
「……でも、せっかく痛くなくなったんだから、あの子も消えなければ良かったのに」
「嬢は優しいことだ。だがな、これで本望って俺は思うぜ。自分の理由を全うできたんだ、その生き様、喜んでやれよ」
「そう……なのかな」
 彼は、安らぎを得られた──のかどうかは自分には解らない。征史朗が言う通りかもしれないし、未練を残して消えていったのかもしれない。
 知りたかった、と百合子は思う。知りたい、彼のことも、そして幼馴染のことも。いつか、今ではなくも、いつかは。
 征史朗は横に立つと、自分の手から鈴をひとつ取り上げる。元々そう頼まれていたから抗議はしない、それに、ひとつは自分の手元に残ったから。今は、それで良いのだと思う。
 掌で鈴を転がしてみる。光を受けて、それは透き通る様に輝く。
 綺麗、と我知らず頬が綻んだ。
「そういえば、あの、嵯峨野さん」
「ん、なんだ?」
「嵯峨野さんは、どうして鈴を欲しがるの? 何のために使うもの?」
「……そうだな。手を貸してもらう手前だ、質問くらいは答えようか」
 征史朗は袂に鈴をしまう。それからすう、と息を吸い込んで、迷い無く淀みなく、一息でこう言った。
「他の何かを犠牲にしてでも叶えたい願いが俺にはある。そしてその大願を果たすためには、どうしてもこの鈴……全部で四つあってな、それら総てが必要なんだ。
 あの坊は、自分の理由のために鈴を手放そうとしなかった。俺は、自分の願いのために鈴を集めようとしている。それ以上でもそれ以下でもない。……どうだ、これでは不足か?」
「あ、ううん、よくわかりました」
 礼にとぺこり、頭を下げる自分に、彼はまたハハッと笑う。
「本当に可愛い嬢だな、おまえは。次もまた会えること、楽しみにしているぜ」


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「……戻ったか」
 気が付くと、自分は再びあの夜の岸辺にいた。
 声をかけてきたのはこの闇の中の唯一の白。別れた時そのままの位置そのままの姿で、名無花はそこに佇んでいた。
「礼を献じよう、まろうど。よくぞ、あれを助けてくれた」
「そんな、別にたいしたことは……でもあの、やっぱり、雪景色は怖かったけど」
 百合子はふと握り締めていた掌を開いてみた。青い鈴は確かにあって、それに少し安堵する。この夜の世界もあの雪の世界も、夢だという自覚があるから、何だか、消えてしまいそうで。
「夢、か。なればまろうどが癒しを与えた童もまた夢の子。潰える流れを愛しく思い、どうかこのままと留めた想いの生んだ子を、まろうどは救った……のかもしれぬ」
「え、それじゃあこの鈴も、夢が終わったら消えてしまうの?」
 自分の口をついた質問に自分で驚く。これではまるで鈴を惜しんでいる様だ、と思って逆に納得の苦笑を漏らす。そうか自分は、この鈴に愛着を持ち始めているらしい。
 名無花は相変わらず遠くを眺める半眼のまま。こちらを見ているのではなくこちらを向いているだけの茫洋とした表情で、それでも一瞬、僅かに幽かに、微笑んだ様な気がした。
「……まろうどが消えぬようにと願えば、消えぬ。夢は夢、しかし夢を生きる心は……夢ではない」
 どういうこと? 問い返す視界が急に狭まる。眩暈に似た暗闇が意識を遠退かせ、ふらり、よろめく体が宙に浮いた気がした。
 最後に聴こえたのは手の内の鈴の音。“霖”と透き通った蒼白い音が、霞む脳裏に響いていた。

 ────そんな、夢を見た。


 了


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【5976 / 芳賀・百合子 (ほうが・ゆりこ) / 女性 / 15歳 / 中学生兼神事の巫女】

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■         ライター通信          ■
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芳賀百合子様
こんにちは、初めまして。ライターの辻内弥里です。
この度は当ゲームノベル「名無花の世界 〜青の鈴〜」にご参加くださいまして誠に有難うございました。少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
実は私、お預かりしたPCさんのイラストを見るのが大好きなのですが(笑)、百合子さんのイラストはどれも神性を感じさせる、それでいて愛らしいお嬢さんであることが感じられるものばかりで、何とかその雰囲気を私の話の中でも出せればいいな…そして少年を案じてくださった優しさを描ければいいな…と思いながら書かせていただきました。
いかがでしたでしょうか。イメージに合っていればいいのですが…むむむ。
それでは、今回はどうも、有難うございました。宜しければまた、征史朗に会いにきてやってくださいませ。