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『月読』
玄関に黒塗りの矢が突き立てられていたという。
生粋の都会育ちで、数年ぶりに田舎へと遊びに来ていた妙には、祖母がどうして血相を変えているのかが分からなかった。
聞けば、この辺りでは昔から荒神を祀っていて、黒塗りの矢はその『通達』だと言われているらしい。
「あたしのおばあちゃんの娘時分以来なんだよ、こんな事……」
祖母は震える手で、矢に結ばれた紙を解く。
「へえ。それじゃ百年くらい前の話?」
妙がわざと茶化しても、祖母は硬い表情を崩さない。ようよう開いて矢文を読み、青を通り越して白くなっていく祖母の顔色を見て、妙まで血相を変える破目になった。
「ちょっとおばあちゃん、 大丈夫!?」
「あたしの事なんかどうでもいいよ。妙、妙ちゃんあんた、えらい事になった」
開いた文を見せられ、妙はきょとんとする。行書で崩し字、しかも毛筆である。読みにくいことこの上なかったが、そこにはこう書かれているらしかった。
『ミカミ タエ。
汝ヲ斎王トシテ迎フルモノナリ』
斎王というのは、この地域では荒神の妻という意味だと祖母に言われ、妙はそれを鼻で笑い飛ばす。
「何それ。どうせ誰かの悪戯だって」
だが、近所の人から聞いた話だと、数十年前にも同じ黒塗りの矢が立てられた家があり、名指しされた娘が忽然と姿を消すという事件が本当にあったらしい。
気味が悪くはあったが、この時世に神隠しなど本当にある訳はない。都会っ子の妙はそう楽観して数日を田舎で過ごし、心配顔の祖母を置いて自宅へと戻った。
そうして自分の家の玄関に突き立てられた黒い矢文を見て、愕然となった。
『満月ノ夜ニ婚姻ノ儀を執リ行フ』
仰ぎ見た月は、くっきりと半円の形に闇を切り取っていた。
妙の実家周辺の調査は草間に任せ、シュラインは彼女の祖母が住む村へと向かっていた。
満月の夜が来るまで十日足らず。妙の身柄は信頼できる人物に預けてある。お陰でシュラインは、この村に伝わる荒神伝説や矢文の送り主について心置きなく調べる事ができる。
村に辿り着いたシュラインは、まず妙の祖母に会う事にした。
挨拶もそこそこに荒神伝説について訊ねると、老女は表情を曇らせ、「自分も伝聞の形でしか知らんけれど」と前置きしてから口を開いた。
「荒神さんは水の神様で、村を鉄砲水から守って下さるっちゅう話です。今でこそダムが出来て恩恵は薄れたかもしれんけど、昔はそれは大切に祀られとったと聞いとります」
シュラインは地図で見たこの村の地形を思い出していた。四方を山に囲まれた村を二分するように、中央に大きな川が流れているのだ。大雨が続き、その川が氾濫を起こせば、治水の進んでいなかった昔なら大打撃を受ける事になる。水神への信仰心が深くなって当たり前の土地と言えた。
「ただ、怒ると怖い神様で、お怒りに触れたらタダじゃ済まんと、あたしらも子供の頃からよう聞かされました。荒神さんを祀ってる祠に用もないのに近づいちゃいかん。供え物を切らせちゃならんと」
「他には?」
「名前を呼ぶのも不遜だという事で、誰も荒神さんのお名前を口にせんです。あとは、満月の夜は荒神さんが散歩をなさるんで、出歩いちゃならんとも言います。お姿を見るのも失礼に当たる、ちゅう話です」
「荒神様の本当の名前、おばあちゃんはご存知ですか?」
訊ねると、老女は困ったように視線を彷徨わせる。知っているけれど口に出すのが憚られるのだと察し、シュラインはやわらかく笑って見せた。
「きっと郷土資料に載っていると思います。こちらで詳しく調べてみます」
シュラインが言うのに、老女はあからさまに安堵の表情を浮かべた。それを見ただけでも、この村の荒神信仰が相当根深いものだと分かる。あの矢文が本当に荒神からの通達ならば、孫の身を案じる彼女としては生きた心地がしないだろう。
「妙さんは、然るべき筋の方にお預けしています。無事に満月が過ぎるまでご心痛でしょうが、どうか気をしっかり持って下さい。妙さんが何者かに連れて行かれたりしないよう、私達が全力を尽くしますから」
元気付けようと思って口にした言葉は、却って老女の表情を硬くさせてしまった。彼女は膝の上に置いた指を忙しなく動かしながら、ぼそぼそと言う。
「でも、もしもあれが本当に荒神さんの通達じゃったら、妙を差し出さん事には鎮まりなさらん……。もし荒神さんがお怒りになって、村に災厄が降りかかったら、あたしはもう生きては居られん」
項垂れる老女の肩を、シュラインは優しく叩いた。
「何か方法があるはずです。まだ諦めないで。第一、まだ本当に荒神様の通達と決まった訳じゃ……」
老女は首を横に振る。怪訝に思って覗き込むと、その顔色は蒼白を通り越して土気色になっていた。
「可哀想で妙には言えんかったけども、荒神さんの通達じゃなくとも、これではお怒りをかったも同然じゃ。今から50年ほど前に、荒神さんの名を騙って娘を拐かそうとした不心得者が居ったんじゃけれども……」
ごくりと喉を鳴らして、老女はシュラインの袖を掴んだ。
「その男も、その男の家族も皆、姿を消した。それだけじゃ済まんで、偽の矢文で名指しされた娘も連れて行かれた」
シュラインはギョッとして老女の顔を見つめた。ぶるぶると震える唇が痛々しい。
「荒神さんのお怒りは、どこへどう飛び火するか判らんで怖い。あたし一人の身で贖えるんなら、こんな老いぼれ、いつ命を捨てても惜しくないのに、どうしてまだ13歳の妙が……」
老女はとうとう嗚咽の声を上げて、その場に伏してしまった。シュラインは為す術なく、丸まった背をただ撫でた。
妙の祖母は精神的に追い詰められている。シュラインは彼女を、暫く隣町の病院に入院させる事にした。どのみち村に居ても『荒神に目を付けられた家』として周りから忌避されるばかりのようだったし、何か累が及ぶとしても、開けた町に置いておく方が守りやすい。
隣町には小さな図書館があり、村の郷土史や歴史資料が保管されていると聞いたシュラインは、早速そこを訪れた。少しでも村に関する事が書かれている書物があれば棚から引っ張り出し、その全てに目を通し、要点を抜書して纏める作業は、草書も古文もお手の物のシュラインにも骨が折れる。図書館の開館時間が短いせいもあり、何とか概要を掴み、一通りの情報を揃えるのには四日を要した。
その合間、妙の祖母を見舞い、東京の草間に連絡を取る。何せ、老人が大半を占める村の事だ。携帯電話の電波は届かないし、交通は不便だし、その上、村人達はシュラインの聞き込みに協力的でない。妙の祖母が話してくれたような事柄なら何とか語ってくれるのだが、それ以上の事となると途端に口を噤んでしまうのだから困ったものだ。
「思ってたより難事だわ……」
そう呟きながら、シュラインは五日目に図書館を離れ、村の外れにある神社に向かった。件の荒神を祀っている神社だ。調べによると、そこの宮司は村を開いた人物の子孫であるらしい。
何か有益な話が聞ければいいけど、と心の中で祈りながら、シュラインは神社に続く寂れた道をひたすら進む。やがて黒塗りの鳥居が視界に入り、それが目当ての神社なのだと分かった。
こぢんまりとした神社だ。鳥居と手水、拝殿の他にはこれといったものがなく、来歴を記す物もなさそうだ。拝殿の奥に山道が続いているので、ひょっとしたら奥に本殿や社務所があるのかもしれない。
シュラインは手水を使い、町で買い込んだ神饌を供え、拝殿に手を合わせる。顔を上げた時、視界の端に人影があるのに気付き、反射的に身構えてしまった。
「村人の親戚の方ですか? この神社に参られるとは珍しい」
歳若い人物だった。長めの前髪から覗く目に温和な色を浮かべ、小首を傾げている。声は高くもなく低くもなくやわらかい。全てが中性的な印象で、シュラインにはこの人物が男性なのか女性なのか、咄嗟に判断する事が出来なかった。
「驚かせてしまったのなら申し訳ない。僕はこの神社の宮司でミギワと申します」
言いながら、ミギワは宙に『汀』という字を記した。僕、と言うからにはおそらく男性なのだろう。シュラインは彼に頭を下げる。
「シュライン・エマと申します。お若い宮司さんでいらっしゃるんですね」
汀はちょっと困ったような笑みを浮かべて答える。
「早くに両親が亡くなったもので、若輩者ながら宮司を務めさせて頂いているんです。お名前を伺うに、エマさんはこの村の縁者というわけではなさそうですね」
相手が荒神の一番の関係者であるだけに、迂闊な事は言えない。シュラインはにこやかにしながら内心で構えた。
「私は探偵所の者です。ミカミさんのお孫さんが、こちらの荒神様の名を騙る悪戯を受けたそうで、詳しく調査して欲しいと頼まれて、この村にお邪魔した次第です」
「ああ、あの件ですか……」
言いながら、汀は目を伏せた。
「ミカミさんもさぞかし気を揉んでいらっしゃる事でしょう。誰の仕業か分かりませんが、この村で荒神様の名を騙るなど、悪戯にも程があります」
その言葉に、シュラインは窺うように顔を上げる。
「汀さんは、例の件が悪戯だとご存知なんですか?」
「もしも本当に荒神様の通達なら、矢を立てに行くのは僕の仕事ですから」
苦笑気味に汀は答えた。成程、彼の立場ならそう判断するのが筋だ。
「実はこちらも悪戯の線で調査を行ってるんです。もともと妙さんには、怪しい人物の影があったもので」
シュラインも苦笑で答えた。だが、口にした言葉は半分嘘だ。
「なのに、こんな所までわざわざ?」
汀は驚いたように目を丸くした。シュラインははにかみながら答える。
「一応、この村の状況も掴んでおきたかった……っていうのは半分口実ですね。私、荒神伝説に興味があって、仕事を名目に知識欲を発揮してる、っていうのが本当の所なんです」
言って、シュラインは肩を竦めて見せた。
「溜まった有休は消化できそうにないし、せめて何か役得がないと、って所長を説き伏せて来ました」
「成程。それならいい物をお目にかけましょう。せっかくこんな辺鄙な所まで来て頂いたのですから」
柔和に笑んで、汀はシュラインを拝殿の後ろに続く山道へと誘った。少し上った所に本殿と社務所があり、彼はシュラインを本殿の方へと先導する。
「こちらの荒神様の像は変わっているんです。きっと驚かれると思いますよ」
汀が本殿の扉に手を掛けて引くと、古い建物に独特の匂いがシュラインの鼻先に漂った。
「どうぞ中へ」
奥にぽつねんと安置されている像を見て、シュラインはぽかんとする。半ば引き寄せられるように荒神像に歩み寄り、呆然とそれに見入った。
古い木像だ。一糸纏わぬ姿で端然と立って、荒神とは思えぬ穏やかな表情で目を閉じている。
その上半身は女性、下半身は男性だ。両性具有の神は珍しくないが、裸像は日本で始めて見る。驚きを隠せないまま汀を振り返ると、彼は小さく笑った。
「珍しいでしょう?」
「はい。両性具有の神の伝承はよく聞きますけど、裸像は今まで見た事がありません。……これ、私みたいな部外者が見せて頂いても良かったんでしょうか?」
「ええ。歴史研究家とか学者さんとか、そういった方々からの閲覧希望は出来るだけ退けるようにと先代から言われているんですけど、個人的に興味がおありの方なら別に構いません」
シュラインはきょとんとする。
「その道の研究者からすれば、これは稀少な像だと思うんですけど……」
「多分、そうなんでしょうね。ですから他言はしないで頂けると助かります。……荒神様は騒々しさを嫌っておられるので」
ひやりとした。汀の口調は穏やかだったが、受け取り方によっては脅しにも聞こえる。深く頷いて見せ、シュラインは再び荒神像に視線を戻した。
「荒神様とは思えないくらい、穏やかな表情でいらっしゃるんですね」
「でしょう? けど、横からご覧になって下さい」
言われて横から覗き込むと、僅かに広げられた腕の後ろ、肩の部分から二本の腕が生えていた。それは後ろ手に鉈を隠し持っている。
また驚いて汀を振り返ると、彼は後ろ手を組んでにこにこしていた。その手に鉈が握られている様子を想像したのを悟られないよう、シュラインは感動しきりの口調で言う。
「すごいわ。本当に珍しい……。こんな貴重な物を見せて貰えて感激です」
「喜んで頂けて良かった」
言って、汀は後ろに回していた手を社務所に向けた。そこには勿論、何の武器も握られてはいない。
「宜しければお茶でも如何ですか? 興味がおありなら、うちの荒神様についてお話しさせてもらいます」
『渡りに船』というよりは『毒を食らわば皿まで』の気分で、シュラインは笑顔で答えた。
「ご迷惑でなければ、是非」
汀と話し込んでしまい、隣町の宿屋に辿り着いた頃にはすっかり遅くなってしまった。
慣れない山道を歩いたのと、緊張のせいで疲労困憊している。夕食も摂らずに眠ってしまいたかったが、今日は草間に定期報告をしなければならない日だ。図書館で纏めた資料と携帯電話を取り出す。
耳に馴染んだ草間の声が聞こえてきた瞬間、何だか異様にホッとしてしまった。
『まずはいい知らせからだ。妙さん宅に矢を立てた犯人を突き止めた』
開口一番、草間はそう告げる。
『例の村出身の若い男だ。田舎帰りの妙さんを駅から尾行してやった、とは認めたが、理由は黙秘。ちなみに矢は、祖母の家に立てられた物と同一だと判明してる』
やはり、という気持ちでシュラインは眉間を押さえた。
『そっちはどうだ?』
訊ねられ、シュラインは調査状況を説明した。図書館の利用記録を調べた所、例の村の郷土資料を借りた者の名があるにはあったが昔の話で、どうやら今回の件とは関係なさそうだという事。そして、村を起こした人物の子孫が荒神を祀っているという話。
「そもそも、ちゃんと宮司がいるのに斎王を迎えるなんて変な話だと思って調べてみたんだけど、妻っていうのは名目で、本当の所は生贄だったみたい」
『水害を防ぐ為にか?』
「それが、何だかおかしな感じなの」
シュラインは無意識に声をひそめる。
「あの村の荒神は所謂『荒魂』的な存在じゃなくて、どうも憑き物筋に近いみたいに思えるわ」
汀から聞いた話によると、宮司は村から嫁取りをしてはならない、という掟があるらしい。それは逆に言えば、村人は宮司との婚姻を避けている──つまり宮司一族は、憑き物筋と同じ扱いを受けているという事になる。
「姿を見ては駄目だとか、名前を呼んではいけないとか、村の人達の荒神に対する態度は畏敬と言うより怯えに見えるのよね……」
他にも気になる事が幾つかある。例えば、妙の祖母が口走った『高祖母が娘時分の事件』。郷土史によると、とある家に黒羽の矢が立てられ、娘を差し出すように告げられた家人は、一人娘の身代わりに下働きの娘を荒神に差し出したという。荒神はそれに怒り、村は鉄砲水に襲われ、当の家人や下働きの娘のみならず、多くの村人が亡くなったと記されていた。
だがシュラインが苦労して調べ上げた当時の事件記録によると、確かに彼らの原因は水死なのだが、その体には無数の切り傷があったという。人為的関与を思わせる死だ。『荒神様の怒り』で片付けられるものではない。
「明日からは、荒神の正体を重点的に調べてみようと思ってるの」
草間の返答はない。
「武彦さん、聞いてる?」
『聞いてる。……おまえの口振りだと、どうもその宮司一族が犯人なんじゃないかという気がするんだが?』
「そうは言ってないわ。宮司一族が憑き物筋として扱われてるんじゃないかと思ってるだけよ」
同じ事だ、と草間は嫌そうな口調で呟いた。
『ならどうして、単身で宮司の元に行くなんて危険な真似をした?』
「順序が逆よ。汀さんと会って話をしてから、そういう感触を得たんだもの。妙さんの実家に矢を立てた男の人は、きっと汀さんに命令されたんだと思うわ」
頑に口を閉ざしているのがその証拠だ。それに、とシュラインは続けた。
「以前の事件についても調べられるだけ調べたけど、計算すると、全て満月の夜に起こった事件みたいなの。今日は満月じゃないから大丈夫よ」
電話の向こうで草間が溜息をついた。
『……明日の夕方にはそっちへ行く』
「分かったわ。待ってる」
ちょうどそろそろ武彦さんが恋しくなってたの、と心の中で呟いて、シュラインは携帯電話を閉じた。
二人が合流した後の主な作業は、件の荒神の素性を探る事だった。
伝を辿ってあちこちの荒神伝承を調べ、ようやく正体を突き止めた頃には満月が目前に迫っていた。妙の身代わりを買って出たシュラインは、草間と打ち合わせを行い、満月の夜に白い打掛を纏って神社へ赴いた。
そこで待ち受けていたのは、やはり汀だった。その可能性を念頭に置いていたとはいえ、こうして目の当たりにすると動揺する。何故なら彼は、あの荒神像と全く同じ、一糸纏わぬ姿で佇んでいたから。
そしてその手には、月光を浴びて赤く光る鉈。血に血を重ねたかのような。
「……中性的な人だと思ってたけど、本当に両性具有だったのね」
打掛の下でぽつりと呟くと、彼は肩眉を吊り上げる。
「ミカミの孫娘はどうした」
汀は、シュラインが初めて耳にする、低く呪わしげな声を吐いた。
頭から被っていた白い打掛をするりと落とし、シュラインは凛とした声で答える。
「妙さんは、ここには来ないわ」
ぎり、と汀が歯噛みした。
「我の託宣を疎かにするか。最早、信仰も地に落ちたという事か」
そうではない、と言ってあげたかった。事実、村人達はどれだけ問うても、かの神の名を口にしてはくれなかった。それが、荒神に対する畏れの表れでなければ何だと言うのだろう。
本当は、名を呼ばせないのには別の理由があったというのに。
「……ならば」
シュラインは、鉈を振り上げる汀の姿を見上げる。
そうして呼んだ。村を開いた時、汀の祖先によってこの地に縛り付けられた者の名を。
血筋に憑き、恩恵を齎し、手厚く祀らねば祟る。水を操る事しか出来ず、満月の夜だけ血肉を受けるあやかしの名を。
──その名を知り、口にした者に対して、けして逆らう事の許されぬ哀れな者の。
「『濤平』、武器を捨てて」
汀の顔が驚きに歪む。同時に、その手から鉈が落ちた。
「そなた、我の名を……」
「ええ。調べさせて貰ったの。随分と手を焼かされたわ」
言いながら、シュラインは手にしていた打掛を汀の体に掛ける。
「わざわざ中国から連れて来られたんですってね。それを調べ当てるまでがまた大変だったけど、お陰でやっとあんたの名前が分かったの」
「……何が望みだ」
忌々しそうに、汀でない者──濤平は問う。シュラインはそれに笑って答えた。
「あんたを故郷に帰すのが私の望みよ」
濤平の目が訝しげに細められる。何故だ、という問い。
「私に話しかけてきたり、荒神像をお披露目してくれたり、長話までしてくれたでしょ? ずっとここに縛り付けられて、すっかり退屈してる、っていう風に見えたの。だからよ」
シュラインの答えに、濤平はクッと笑う。
「汀がか? それとも我がか」
「両方よ。もう飽き飽きしてるんだと思ったの。違う?」
「……その通りだ。そろそろ故国が懐かしくなっていた」
濤平の背後から、下生えを掻き分けて草間が姿を現した。その手には水晶球が握られている。
「汀さんの体を離れて、あの水晶球に移って、濤平。私達があんたを元の居場所へ帰すと約束するわ」
目を閉じ、濤平は俯く。その声は笑い含みに囁いた。
「信じよう。……感謝する、エマ」
黒い霧のようなものが汀から立ち昇り、すうっと水晶球の中に吸い込まれていった。同時に汀の体がぐらりと傾ぎ、シュラインの胸に倒れ込む。
「もっと手を焼くかと思ったが、案外すんなり説得できたな」
言いながら、草間は水晶球を革の袋に仕舞い込んだ。
「名前を掴んでたからよ。それまでに何百冊の資料を漁ったと思ってるの? 苦労はあれで充分」
シュラインは軽く草間をねめつける。語学が大好きで、活字と見れば読まずにはいられない性分のシュラインですら、今回の資料の山にはさすがに軽く嫌気がさしたというのに。
草間は苦笑する。
「依頼人を救っただけじゃなく、荒神も、村人達も解放されたわけだから、今回はおまえの大手柄だな」
「ありがと。さあ、汀さんを社務所に運んであげないと……」
汀の体を横たえ、打掛を掻き合わせるシュラインの手が止まる。草間がその横にしゃがみこんだ。
「俺が運ぼう」
「だ、駄目っ!」
シュラインは思わず草間を突き飛ばしていた。
「今、こっち見ないでね武彦さん」
大慌てで汀の袂を整えてやり、裾が割れないようにしっかりと固定する。一体何なんだ、とボヤく草間に、シュラインは半ば独り言のように呟いた。
「汀さん、本当は女の人だったのね……」
彼女もまた、荒神から解放された一人なのだ、そう思った。
荒神は去り、もう何の心配も要らないのだと村人達に諭すのには少々骨を折った。
妙が無事に満月を越えたのと、村に何の被害も及ばなかった事、そして汀の口添えがあって、ようやく彼らを荒神の呪縛から解き放つ事が出来た。
次の満月、村では今まで守ってくれた荒神に対する感謝の祭りを開くのだという。
妙の祖母は体調を崩した事もあって、そのまま息子夫婦の家に移る事になった。おばあちゃんがいると家が賑やかでいいと妙は笑う。
汀はというと、村に残って宮司を続けるらしい。もう憑き物筋ではないのだから、村を離れてどこへだって行けるのにとシュラインが言うと、彼女は前と同じ柔和な笑みを浮かべて答えた。
「けれど私の祖先──濤平家の者達は、荒神様の託宣に従い、村人を手にかけた犯罪者です。その血を継ぐ私はせめて、犠牲になった方々の魂を鎮めて生きていきたい」
自分でそう決めたのなら、他人が口を挟む余地はない。それでも彼女の在り様が切ない気がしてシュラインは言った。
「犠牲になったのは、汀さんも同じよ?」
「いいえ。私はもう救って頂きました」
胸に手を当て、汀は答える。
「エマさん達が来て下さらなかったら、私は祖先と同じように、この手を血に染めていたでしょう。罪を犯さずにいられる幸せを噛みしめながら、最後までこの村の人達の為に生きていきます」
そう言う汀はどこか誇らしげだ。それでようやく、シュラインは彼女に笑って言う事が出来た。
「そう。頑張って」
活き活きとした笑顔が返ってきた。
二週間ぶりに戻った事務所は荒れ放題で、懐かしむ暇すらなかった。帰って早々、シュラインは溜息をつきながら片付けをする破目になってしまった。
「もう。どれだけ不精したらこれだけ散らかせるのかしら」
零が他の依頼で不在なのも重なったのだろうが、足の踏み場も怪しい酷い有様だ。怒りのオーラを放ちながらゴミの山と格闘するシュラインの後ろで、草間はこそこそと灰皿を片付けている。そこには煙草の吸殻がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
「事務所はこんなだし、婚期は遅れるし、嫌になっちゃう」
呟きながら洗い物に取り掛かろうとすると、草間が僅かに怯んだように訊ねてくる。
「婚期? どういう意味だ?」
「妙さんの身代わりで、白打掛を被っちゃったもの。結婚前に花嫁衣裳を着ると婚期が延びるって言うでしょ?」
「被ったくらいで着た事にはならんだろう」
「なるの!」
泡でぶくぶくになったスポンジを握りしめながら答えると、草間はやれやれと言わんばかりに溜息をついた。
「うちの荒ぶる女神は相当に御立腹らしいな……。片付けは後回しにして、先に飯でも食いに行かないか?」
「ごはんくらいで懐柔されたりしないわよ」
「夜景の見えるホテルの三ツ星レストランでもか?」
思わずぴくりと反応してしまった。どこにそんなお金が、と振り向くと、草間は何やら封筒を手にしている。
「招待されたんだが、期限が今日までなんだ。ギリギリ間に合うんだがどうだ?」
他の人と行けば良かったのに、という言葉をシュラインは飲み込んだ。自惚れてもいいのなら、草間は自分を待ってくれていたのだと思いたい。
「行くわ」
満面の笑顔でそう答えた。
久し振りに戻った自分の居場所。話したい事がいつもよりも沢山あるような気がした。
■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■
【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【注釈】
作中に登場する荒神像は、膾炙されているものを参考にライターが作成した架空のものです。
妙の祖母の話し言葉もまた、特定の地域の方言ではありません。
荒神・宮司の名に使用した『濤平』や『汀』という名前の方が日本・中国に実在したとしても、それはいわゆる『憑き物筋』とは無縁である事を明記致します。
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