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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『月読』



 玄関に黒塗りの矢が突き立てられていたという。

 生粋の都会育ちで、数年ぶりに田舎へと遊びに来ていた妙には、祖母がどうして血相を変えているのかが分からなかった。
 聞けば、この辺りでは昔から荒神を祀っていて、黒塗りの矢はその『通達』だと言われているらしい。
「あたしのおばあちゃんの娘時分以来なんだよ、こんな事……」
 祖母は震える手で、矢に結ばれた紙を解く。
「へえ。それじゃ百年くらい前の話?」
 妙がわざと茶化しても、祖母は硬い表情を崩さない。ようよう開いて矢文を読み、青を通り越して白くなっていく祖母の顔色を見て、妙まで血相を変える破目になった。
「ちょっとおばあちゃん、 大丈夫!?」
「あたしの事なんかどうでもいいよ。妙、妙ちゃんあんた、えらい事になった」
 開いた文を見せられ、妙はきょとんとする。行書で崩し字、しかも毛筆である。読みにくいことこの上なかったが、そこにはこう書かれているらしかった。

『ミカミ タエ。
 汝ヲ斎王トシテ迎フルモノナリ』

 斎王というのは、この地域では荒神の妻という意味だと祖母に言われ、妙はそれを鼻で笑い飛ばす。
「何それ。どうせ誰かの悪戯だって」
 だが、近所の人から聞いた話だと、数十年前にも同じ黒塗りの矢が立てられた家があり、名指しされた娘が忽然と姿を消すという事件が本当にあったらしい。
 気味が悪くはあったが、この時世に神隠しなど本当にある訳はない。都会っ子の妙はそう楽観して数日を田舎で過ごし、心配顔の祖母を置いて自宅へと戻った。

 そうして自分の家の玄関に突き立てられた黒い矢文を見て、愕然となった。

『満月ノ夜ニ婚姻ノ儀を執リ行フ』

 仰ぎ見た月は、くっきりと半円の形に闇を切り取っていた。



 珍しく自主的に調査に加わると言い出した陸玖翠は、件の黒羽の矢を一瞥しただけで偽物と看破した。訊けば、矢羽の裏表が逆になっているからだと答える。草間武彦は、謎の多いこの友人に思わず訊ねた。
「そこまで詳しい所を見ると、おまえはこの荒神と知り合いか?」
 冗談半分だったのだが、翠は真顔で頷いた。自分の煙草にむせて、草間は咳き込む。
「偽物を見過ごしてくれるとは、えらく懐の広い荒神だな」
 いっそ荒神自身が偽物に罰を与えてくれればいいのに、という望みを言外に込めて言うと、翠は神妙な表情で矢を眺める。
「まだ子供だからだ。神としての分別がつくまで下界に来るべきではなかったのに、村人の強い祈りに引かれて勝手に下りて行ってしまったらしい」
 生半の関係者よりも余程事情に詳しいじゃないか、という言葉を飲み込んで、草間はまた冗談を返す。
「いっそ一人前になるまで、おまえがお守りをしてやればよかったんじゃないか?」
 面倒だ、という返事がくると思っていたのに、翠は矢を無造作に放り投げて答えた。
「そうだな。せめて、もう少し頻繁に顔を見に行くべきだったのかもしれない」
 草間は思わず表情を消し、鉄面皮と呼ばれる翠の顔を眺める。そこには彼女と親しい者にしか分からない、微かな憂いが浮かんでいた。
「……嫌な予感でも?」
「曲がりなりにもアレは神だ。自分の名を騙る者くらい己で罰せる筈。それが一度ならず二度までも偽物の所業を許したというなら、おそらくもうあの村には居るまい」
 何者かに場所を追われたか、それとも神の座を奪われたのか。最悪、弑されているとも考えられる。
 翠は立ち上がり、事務所を出ようとする。草間がその後に続くのを彼女は制した。
「一人で行く。武彦は残れ」
「そうもいかん。これはうちの事務所に来た依頼だ」
 言うと、緑色の小さな物が目の前に飛んできた。草間は反射的にそれを掴む。
 翡翠の指輪。以前に一度、護身用にと翠が貸してくれた物だ。
「使い方は憶えているな?」
 草間が頷くのに、翠は目線で頷き返して背を翻した。それを握りしめ、草間は思い返す。
 あの時、草間は翠が人ならざる者である事を思い知らされたのだ。今回もまた同じ光景を見る事になるのかもしれない。冷たい指輪を強く握りしめた時、翠が草間を振り返って小さく笑った。
「……怖気づいたなら残ってもいいのだぞ」
 凄みのある笑みだった。気圧されながらも草間は返す。
「馬鹿を言え。俺を誰だと思ってる」
 翠の表情から硬さが消え、揶揄するような笑みだけが残る。
「流石だな、怪奇探偵」
「怪奇は余計だ!」
 言い合いながら、二人は事務所を後にした。



 翠が始めて『彼』と出会ったのは百年ほど前の事。
 街が西洋文化の波に押されて急速に変化を遂げていく中、山奥のあの村には未だ古いしきたりが残っていた。自然に対する畏敬も、神仏に対する信仰も。
 特に目的のない旅だった。米作りを活計とするかの村に、小さいながらもいい造り酒屋があると聞いてふらりと足を運んだ。
 だが村は、荒神から贄を差し出せとの託宣を受け、上を下への大騒ぎだった。到底、酒を売って貰えるような雰囲気ではない。仕方なしに翠は助っ人を買って出たのだった。
 満月の夜、贄に選ばれた娘の代わりに祠へ赴くと、少年が森の中で翠を待ち受けていた。
 神が子供の姿である事は珍しくない。けれど、中身までもが幼い神というのは非常に珍しい。彼は翠の姿を見るなり、にんまりと笑って言い放った。
「来たな、新しいの! 我は常葉という。心して仕えよ」
「……私は贄の娘ではありませんよ」
 見て分からないのか、という口調で言ったのだが、常葉と名乗った童子神はふんぞり返って答えた。
「若くて美しくて、物知りなおなごならばそれで良いのじゃ。そちの名は?」
「……翠」
 思いがけない展開に、翠が軽く呆気に取られたのに気付いた風もなく、常葉はうんうんと頷く。
「そうか。麗しい名じゃな。留が動かなくなってしもうてつまらなかったのじゃ。さ、我を退屈させぬよう、何ぞ楽しい話でも聞かせてたも」
 そうして小さな子供のように、嬉しそうに翠の袖を引く。
「トメ?」
「前の斎王の名じゃ。最初はめんこいおなごじゃったのに、すぐにしわしわになってしもうてのう」
 言いながら、常葉は翠を森奥の祠へと引っ張っていった。祠の中には老女の遺体と、無数の人骨。
「何故に人間という生き物は、すぐにしわしわになって、ぐずぐずになって、からからになって、骨だけになってしまうのじゃろう。しわしわになると、同じ話を何度も繰り返すし、ぐずぐずになってしまうと、もう話もしてはくれぬ。我はつまらぬ」
 常葉は小さな手で、翠の手をぎゅっと握った。
「翠もすぐにしわしわになるのじゃろうか」
「……なりませんよ」
 屈み込み、常葉と目の高さを合わせ、翠は自分の正体を告げた。常葉は大きな目を丸くして驚く。
「なんと。そのような生まれの者も下界には居るのじゃな!」
 感心しきりの口調で言って、しげしげと翠の姿を眺め、それからふと気付いたように襟を正す。
「では、我は失礼をしたのではなかろうか。翠殿、とお呼びするべきじゃな」
「構いませんよ」
 答えると、常葉は安心したように笑う。その笑顔は本当に幼く、見ているこちらが逆に不安になってしまう。
「翠殿のような方が人間達にどう呼ばれるのか、我は留に教えて貰って存じておるぞよ。は、はあ、はふ……とか何とか。とても珍しいのじゃろう? まみえる事ができて嬉しいぞよ」
 鉄面皮の翠もこれには苦笑を零しそうになった。神格を持つ者の中には翠の存在を許せず、排除しようと躍起になる者もいるのに、常葉は幼いあまり、何の敵愾心も抱かずにいる。それどころか礼をとろうとしてくれるのが微笑ましかった。
 それから二人で暫く話をした。常葉は自分がこの村にやって来た経緯を話し、しょんぼりと項垂れる。
「我は豊穣の神じゃ。我が居ればこの村は日照りとも旱魃とも無縁で、実りに恵まれるじゃろう。じゃが、ここには父神様も母神様も居られぬ。お姿を見る事はおろか、お声を聞く事すら叶わぬ。……我は独りぼっちじゃ。寂しゅうて寂しゅうて仕方ない」
 だから常葉は村人達に贄を求めたのだ。孤独を紛らわす、暫しの遊び相手として。
 だが人は、神のように長きを生きられない。斎王に選ばれた娘達が老い、天寿を全うする度、逆に常葉の孤独は降り積もっていくような気がした。どんなに自分より小さな生き物でも、先立たれれば心痛い。代わりを求めても、それは前のものとけして同じでは在り得ない。
 何よりも、常葉が贄を求める度、村人は敬う心よりも怖れる心で彼を信仰するようになってしまう。現に村人達は、常葉が立てた黒羽の矢を見て嘆き悲しんでいた。神格というものは、信仰する者達の敬虔さと信仰心の強さ、深さに左右されると言ってもいい。そして、恐怖で以て信仰を得た神は、どうしても神格が低くなる。それでは常葉がどれだけ村を富ませても神格は上がらず、神格が上がらない限り、常葉は天上へは戻れないのだ。
 翠はそれを諄々と諭して聞かせた。常葉は困ったように翠の着物の裾を掴む。
「では、我はずっと独りでここに居らねばならぬのか?」
「そうしなければ、常葉殿は二度と父神様にも母神様にもお会いできないのですよ」
 常葉は嫌じゃ嫌じゃと駄々を捏ねた。早くに親神から離れ、長く斎王達に甘やかされ続けたであろう彼は、ほとんど成長していないと言っても過言ではなかった。豊穣神としての力だけは立派なものだが、これでは先が思いやられる。
 だが、翠には目的があった。この村で造られる酒がそれだ。酒は米から作るものだし、米の実り具合は常葉の存在に左右される。それにこの幼い神は、翠の正体を聞いても忌み嫌ったりはしなかった。それは幼さゆえのもので、いずれは袂を分かつ事になるのかもしれなかったけれど、折角こうして出会ったのだから、誼を結んでおくのも悪くはない。
「では常葉殿、私が貴方の友となりましょう」
 翠が言うと、常葉はきょとんとする。
「今から五十年後、私はまたここに参ります。その五十年後も、その次も」
 常葉はたちまち顔を輝かせた。
「本当か? 本当に我に会いに来てくれるのじゃな?」
「ええ。ですが二度と、村人に対して生贄を求めてはなりませんよ」
「翠殿が会いに来てくれるのならば、約束するのも吝かでないぞよ」
 常葉の表情は尾を振る犬そのものだ。翠は苦笑を零す。
「では常葉、約束だ。二度と黒羽の矢を立てないと誓え」
 常葉は暫し翠の顔を眺めたあと、こっくりと頷いた。
「約束する。翠は五十年ののち、必ず我に会いに来るのじゃぞ」
 小指を差し出され、指切りを求められたのだと気付く。嘘ついたら針千本、と歌い、常葉はにっこりした。
「ところで翠、五十年というのはどの位の長さなのじゃ?」
 翠は白い指で月を指さす。
「あの月が欠け始め、また満ちたら一月。一月が十二回で一年だ」
「そうか。それならすぐじゃの。ところで翠」
「何だ?」
「そなたは笑った方が愛らしい。もっとにこやかにするが良いぞ」
 意外な事を言われて、翠は吹きだした。
 常葉も笑った。その時の彼の笑顔は、今も翠の記憶にある。



 村は惨憺たる有様だった。
 今の季節なら、稲穂は豊かに実って頭を垂れている筈なのに、黒く立ち枯れた稲の残骸が水田の澱んだ水に沈んでいる。
 それだけではない。山もまばらに黒く、秋草までもが奇病に冒されたかのように点々と黒かった。
 隣に立つ翠は硬い表情でそれを見据えている。草間は短く訊ねた。
「満月まで待つか?」
「いや。事は急を要すようだ」
 翠の足元に座った七夜は、村の北西方向を見たまま動かない。その視線の先には、緑がいやに濃く黒々とした森。
「七夜、祠周辺の偵察を頼む」
 一声鳴いて、七夜は森の方角へ走り去る。
「武彦はここで待て」
「邪魔者扱いする気か?」
「見たくもないものを見る破目になっても関知しないぞ」
 どこか突き放すような口調だった。草間は怯む事なく返す。
「生憎、物見高い性格なんでな」
 翠は溜息をついたが、追い返すつもりはなさそうだった。先に立って歩き出す彼女の背中を眺めながら草間は言う。
「だがもし、おまえが来るなと言うなら待機している」
 歩みを止め、翠は振り返った。
「誰もそうは言っていない。……私なりに気を遣ってみたのだがな」
「そりゃどうも。明日は雨かな」
 軽口を叩いて見せるのに、翠はようやく僅かに笑った。物好きめ、という小さな呟きに、呆れ以外の何かが含まれていたような気がする。
 やがて二人は森の中へと分け入った。どちらも黙々と歩を進める。日の暮れかけた森は鬱蒼として、鳥の鳴く声はおろか、風が木の葉を揺らす音すら聞こえない。
 不気味な静寂を破り、唐突に何かがガサリと下生えを揺らした。草間は咄嗟に身構える。そこからひょこっと顔を出したのは七夜で、思わず胸を撫で下ろす。
 七夜は翠の足元に駆けてゆき、頭に置かれた主の手に、気持ち良さそうに目を閉じた。傍で見ていると、ただの可愛がられている猫とその飼い主のようだが、どうやら何か情報をやり取りしているらしい。
「……最悪の事態のようだな」
 そう呟き、翠はスッと手を下げた。それを合図に、七夜は翠の影の中に溶けて消える。
「武彦、今からでも遅くない。戻ると言うなら村まで送ってやる」
「くどい」
 草間は先に立って歩き出す。何故か今は、絶対に翠から目を逸らしてはいけないような気がした。



 辿り着いた頃には、既に日が落ちていた。
 祠の前には、誰が灯したのかも分からない二本の松明。それも、何とか辺りの様子を掴めるほどの明るさしかない。見上げた月はまだ満ちてはおらず、その光も頼りない。
 草間は無意識に、右手の中指の指輪を撫でていた。
 ふわりと祠が光り、そこから少年が姿を現す。草間は怪訝に思いながらそれを眺めた。これが矢文の送り主だろうか、それとも荒神だろうか。
「翠!」
 少年は満面の笑みを浮かべて、まっすぐに駆けてくる。
「まだ次の約束には早いのに、会いに来てくれたのじゃな!」
 小さな手が、翠に伸ばされた。
「さあ、また面白い話を聞かせてたも」
 翠はそれをぞんざいに払い除けた。懐から取り出した符を振り上げ、斜めに空を切る。
「小物の分際で神の姿を模倣するとは不遜な。常葉を真似て私を呼ぶ事は許しませんよ、下郎」
 ぱきん、と何かが割れるような音がした。それと同時に、少年の姿がぐにゃりと歪む。
「……なァンだ」
 少年の声がひび割れ、その姿は瞬く間に変貌し、膨れ上がる。
 身の丈3mはあるだろうか。頭があり、胴体があり、手足がある。そして、そのいずれもが数え切れない程の顔で埋め尽くされていた。どれも苦しげな表情で目を閉じているが、腹の部分にひとつだけ、目を開いた醜い顔がある。
「もうバレてタかァ。常葉ニ化けテ近づいテ、油断しタとこヲ食ッてやろウと思ッてタのにヨゥ」
 醜悪な顔は、唇の端を引き上げてケケッと笑う。
「オイラは阿僧祗ってンだ。よろしくナァ、陰陽師サンヨォ」
 アソウギというのは、確か数の単位だ。数えられない、という意味だった筈。草間は化け物の体にある無数の顔を凝視しながら、翠の言った「最悪の事態」という言葉を思い返していた。
 奴は翠の事を知っているかのような口振りだ。そして、翠がトキワと呼んだ少年──おそらく荒神の名なのだろう──の事も。草間は無意識に、阿僧祗の体の中に、先程見た少年の顔を探していた。
「名など知る必要はありません。どうせすぐに消えるのですから」
 翠の体から、静かな怒りが立ち昇っているように感じる。草間は妙にひやりとした気持ちでそれを見た。
「オヤァ、オイラを殺ス気かい? そンな事しタら、オイラノ中ニいル常葉も死ンじまうンだぜェ」
 言って、阿僧祗は掌をかざして翠に見せた。そこには幼い少年の顔が張り付いている。
 それはゆっくりと目を開いた。唇が動き、翠、と呼ぶ。
「オイラは、食ッタ相手ノ全てヲ自分ノモノニしちまえルンだなァ。常葉ノ記憶も、力もだァ」
 草間の背を悪寒が走る。この化け物がどういった存在なのかは分からないが、神を喰らうとは只者ではない。
 やはりついてくるべきではなかった。おそらく自分は足手纏いにしかならない。せめて己の身くらいは守れるよう、草間は右手をそっと上げた。
「オマエが何者なノかも知ッテルぜェ。上物だなァ。どんな味がすルノか楽しみだァ」
 げらげら笑う阿僧祗の掌の中の少年は、翠、と切なげに呼んで涙を零した。
「お願いじゃ。この者と一緒に、我を殺さないでたも。翠、翠は我の友じゃろう?」
 翠は何の反応も示さない。だが、いくら翠が強い女性だとはいえ、誼を結んだ相手が泣きながら懇願するのに心を乱されないでいられるのだろうか。草間は息を詰めてその光景を見つめていた。
「阿僧祗とやら。常葉を喰らうのはいとも容易かったのでしょうね」
 翠の問う声はいつもの冷静さを保ちながら、刃のように冷たい。
「あア、簡単だッタトも。何せ常葉は寂しがリだかラなァ」
 けたけたと笑う阿僧祗を、黙れと怒鳴りつけてやりたかった。それ以上、翠の逆鱗に触れるなと。
「遊んでやルと声をかけタら、疑いもせズニ寄っテきタさァ。さすがのオイラも、神なンテご馳走ニありつけルたァ、夢ニも思わなかッタ」
 阿僧祗は、祠の傍らにある木を指さした。そこには無数の傷が刻まれている。十一の小さな傷と、十二番目の大きな傷で一年分。五十年を数えた所で×印がひとつ、殊更大きくつけてあった。
 おそらくこれは、常葉が翠を待ちわびながら刻んだもの。
「……常葉の孤独に、つけこんだな?」
 翠の声が一際低く響く。
 ざわ、と翠の周りの空気が揺れた気がした。それは彼女の姿を歪め、赤く融かす。
 草間は息を飲んだ。
 ひとつに束ねられていた彼女の髪が、髪留めを弾き飛ばす。それは瞬く間に、今にも血が滴り落ちそうな緋に変わっていた。そうして、まるで意志を持った生き物のようにうねり広がって、阿僧祗の足元へと走る。
 松明が、そして月光が照らす翠の影に、ツノのようなものが一瞬だけ映ったような気がした。
 緋色の蛇を思わせる髪が、瞬時に阿僧祗の体を捕えて引き裂く。悲鳴は二つ。阿僧祗のものと、常葉のもの。
「痛い! 痛い! これ以上の無体は堪忍してたも、翠!」
 幼い声が悲痛な叫びを上げるのに、翠は眉ひとつ動かさない。
 かざした手には、長く紅い爪。それは容赦なく阿僧祗の顔を切り裂いた。
「おノレ……! この、オ」
 翠の爪は、阿僧祗の憎々しげな叫びをも簡単に握り潰す。だがすぐに、他の場所に阿僧祗の顔が現れ、愉快そうに嘲笑した。耳に障るその声。
「そウだヨなァ! オマエは殺スノさァ! 情を移しタ筈ノ常葉ノ事だッテなァ!」
 カッと開かれた阿僧祗の口から、弾丸のように何かが放たれ、草間めがけてまっすぐに飛んでくる。
「急々如律令!」
 草間が反射的に叫ぶのに呼応し、翡翠の指輪から式が現れて阿僧祗の攻撃を防いでくれた。ヒッヒッと化け物は笑う。
「常葉ハ殺スノニ、そノ男ハ守ルノかァ? 只ノヒトなノニヨォ!」
 翠は答えず、ただ緋色の髪が阿僧祗の体を裂いていく。四つに、八つに。
「どウせスぐ死ンジまウノニヨォ!」
 千千に裂いても、阿僧祗の声は途切れない。翠の体は今や、その返り血を浴びて深紅に染まっていた。
 濃厚な血臭に息が詰まる。それでも草間は目を逸らさなかった。まるで鬼神のような翠の姿を、ただ見ていた。
 だから気が付く事ができた。彼女の背後に迫る影に。それは阿僧祗の影からそっと抜け出し、翠を襲おうと鎌首をもたげる。
「翠! 後ろだ! 影が本体だ!」
 振り返った翠の瞳は、左眼だけが緑に変じていた。それが僅かに眇められたかと思うと、視線に射られて阿僧祗の影が炎を上げる。
 化け物の断末魔が闇夜に響き渡った。



 何と声をかけていいものか分からず、草間は沈黙を守っていた。
 阿僧祗と名乗った化け物は滅ぼされた。今までの濃い闇は途端に薄らぎ、松明は心強い明るさで辺りを照らす。月も煌々と明るい。
「アレはどうやら妙殿だけではなく、村人全てを喰うつもりでいたらしいな」
 黒く枯れた稲穂も、山の濃い緑も、阿僧祗の影に取り憑かれていたせいだろうと翠は言う。
 彼女はいつもの姿に戻っていたが、どこか近寄りがたい空気に包まれている。
 木の幹に刻まれた印を眺める翠の姿は、ひどくもの悲しく見えた。旧知の友の血にまみれた彼女を、友人としてどう慰めればいいのだろうと悩んでいたら、翠はその思考を透かし読んだかのように言った。
「言っておくが、阿僧祗の掌にいたのは本物の常葉ではないぞ」
「え?」
「喰らった相手の姿を模し、声を真似るのがアレの特技らしいが、本物の常葉はもっと……」
『愛らしい、そう言いたいのじゃろ?』
 どこからともなく子供の声がした。翠は印が刻まれた木の梢を見上げる。
「……常葉」
『我の仇を討ってくれて感謝するぞよ、翠』
 草間もつられて見上げる。そこには何の姿も見えない。
『翠との約束があるから、この木を依代に、何とか魂魄だけで留まっておったのじゃ。驚いたか?』
 だが、それも長くはもつまい。翠はどこか寂しそうに微笑んだ。
『聞いておくれ。翠の言いつけを守っておったら、我は少しばかり神格が上がったのじゃぞ。成長した我の姿、翠にも見せてやりたかったのう……。無念じゃ』
「……そうだな」
 翠は印を指でなぞる。こほん、と常葉の声が咳払いをした。
『ところで翠、ものは相談なのじゃが、我を式として迎えるつもりはないかえ?』
 沈黙したまま、翠は答えない。
『中途半端に命を落としてしまったゆえ、我はもう天上には戻れぬ。ここに居っても、村人達に恵みを与えてやる事も出来ぬ。ならばいっそ、翠の力になろうと思うのじゃが』
「……友になると言いはしたが、主になると約束した覚えはない」
『仕方なかろう。他に、そちと一緒に居られる方法を思いつかぬ』
 木に手を当てたまま、翠は目を閉じる。草間は口を挟まずに、ただ二人のやりとりを聞いていた。
『翠とて、我がずっと一緒なれば、寂しゅうなかろう?』
 翠は、諦めたように深い溜息を落とす。
「豊穣の神、常葉。……我が式に下れ」
『……御意』
 ひら、と一枚の木の葉が翠の上に落ちてきた。秋だというのに深い緑色をしたその葉を、翠は他の呪符と同じように、懐にしまい込む。
 翠と誼を交わした常葉は、式となって彼女の傍に在り続ける。このまま消え去ってしまうよりは余程いいのだと思いたかった。
 たとえ、もう二度と言葉を交わし、笑いあう事すら出来ないのだとしても。
「……そろそろ戻ろう、翠」
 草間が言うのに、彼女は首を横に振った。
「私はこの有様だ。一緒に村に戻る所を村人に見られたら、おまえまでもが奇妙な目で見られてしまう。先に戻っていてくれ」
 血で肌を赤く染めた彼女は、いつもの神秘的な雰囲気を禍々しいものへと変えている。それでも草間は躊躇なく言った。
「慣れてるさ。俺を誰だと思ってる」
 怪奇探偵、と言われてしまう前に、素早く言い放つ。
「伊達におまえの友人なんかやっちゃいない」
 翠は一瞬、その言葉に目を瞬かせ、それからゆるゆると苦笑を浮かべた。
「なんか、とは随分な言い草だな」
「怪奇探偵と呼んだお返しだ」
 わざと憎たらしげに言い返すと、翠はいつもの鉄面皮を取り戻して言う。
「そうか。この村には、わざわざ足を運ぶ甲斐のある旨い酒があるのだが、武彦は飲みたくないのだな」
「何だと? それを早く言え!」
「一人酒とは侘しい限りだが、まあ仕方あるまい」
「いや、今回の依頼もおまえのお陰で無事解決、翠様さまだな!」
 大袈裟な口調で言って翠の肩を叩くと、彼女は意地悪く笑んで答える。
「まあ、酌くらいならさせてやる」
「痩せ我慢するな翠。酒は一人で飲んでも旨くないだろう?」
 言い合いながら、二人は祠をあとにする。先程の出来事が嘘のように、いつもの平和で呑気な会話を繰り広げながら。
 何があっても、一度結んだ誼はそう容易く潰えはしないのだと、互いに確かめ合うように。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【6118/陸玖・翠(リク・ミドリ)/女性/23歳/面倒くさがり屋の陰陽師】