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昇華
夜を包む闇から舞い降りた漆黒の鳥は、ゆるやかに辺りを睥睨した。
月の光すらも届かない、深い深い夜闇の中で、彼が目にしたのは、鈍くぬめるような光を持った暗赤色の館だ。
ヒトが消え、ヒトに夢を見せ、ヒトに永遠を囁き、そしてヒトが死へと堕ちる、〈館〉。
闇色の森の奥に佇み、いかなる者もけして無事には戻ってこられないという、不吉にして甘美な噂をまとった〈館〉。
――曰くつき。
そう呼ばれるモノの、実に魅惑的な存在価値が、レイリー・クロウにえもいわれぬ愉悦をもたらす。
「素晴らしい。実に、素晴らしいですねぇ」
艶やかな唇に満足げな笑みを形づくり、彼は、かたわらに佇む少女人形へとその手を差し伸べる。
「エフェメラ、おいで。いいモノを見せてあげましょう」
襟に袖に裾に胸元にフリルとレースとリボンを存分にあしらい、美しく飾り立てたドレスをまとう彼女は、熱を持たない表情に不可思議な色を浮かべる。
「……いいもの……?」
「そう、いいものですよ。この場所を構築するものから美しい【景色】をひとつ手に入れましょう」
細めた瞳に閃くのは、好奇、そしてごく微量の冷淡な光。
彼女はじっとその瞳を見つめ、まるでダンスパーティにでも誘うように少女の手をすくいあげた彼にエスコートされ、小さな一歩を踏み出す。
*
重厚にして荘厳な意匠を凝らした扉が開かれた。
シャンデリアと、闇と、中央階段まで続く赤黒い絨毯でふたりを迎える。
訪問者を知り。
息をひそめていた影が、ぞろりと這い上がった。
――〈館〉の〈曰く〉が目を醒ます。
*
しゃらん。
ガラス質の透明な、音。
けれど、それは一瞬だけだ。かすかな予兆、あるいは予告。これから起こるべき、かの有名な【オペラ座の惨劇】を模した衝撃への。
ぐわん。
大きく揺れたシャンデリアが、漆黒の訪問者の頭上経た振り子時計を模して襲い掛かる。
割れる。
盛大に、方々に、砕け、散る。
鴉が一羽、シャンデリアを支えていた吊り具に足をかけ、ゆらりと揺れながらその惨状を見下ろしている。
眼下に広がるのはクリスタルガラスの破片、そして先人がつけていったのだろう、べったりとした絨毯の赤黒い染み。
かつてそこで何が起きたのか、想像するのはたやすい。
「ああ、歓迎という意味ではいささか派手な演出ではありますが、ありきたりと言えばありきたりでしょうかねぇ」
批評家の視線は厳しい。
鳥は嘲笑めいた色を瞳に浮かべ、ふわりと飛び立つと、中央階段をなぞり、二階を通り越し、三階へと舞い上がった。
いくつもの扉が左右にずらりと並び、ぐるりと回廊を作り上げている。
さらにその奥へと廊下は幾方向にも折れ曲がりながら続き、暗闇に沈んだ迷宮といった様相を呈していた。
気配はするのだ、それこそ無数の気配が。
だが、正常なる生はヒトカケも混じってはいなかった。
同行した少女人形の姿もない。
視覚として捉えられる範囲のどこにも、もちろん、シャンデリアの砕け散ったカケラの下にも。
攫われたか、捕らわれたか、呑まれたか、自ら消えたのか、時折思いがけない行動を選択する彼女の現状がどれに当てはまるのかは分からないけれど。
「仕方ありません、あの子なら大丈夫でしょう」
さして心配する素振りも見せず、レイリーはひとり、迷宮を歩く。
それに合わせて、ぞろりざわりと影が蠢く。
機会を窺っている。
ヒソヒソと交わされる【言葉】にどんな意味があるのか、分かっていながら、笑みを深める。
天井から、窓から、壁から、床から、這い出てきた混沌を軽くいなし、時に取り込みながら、悠然と歩を進めていく。
そして。
「こちらですね……」
一際おぞましい気を放つ木製の扉に手を掛けた。
「失礼」
開かれた扉の向こうがわ、そこで繰り広げられている光景は、コールタールのごとき闇が滴る捕食者の宴だった。
傍にいてここにいてあなたはあたしのものアタシのものになってアナタはずっとここにいてここに、ずっと一緒、ずっとずっといっしょだずっと傍にいて、ねえ、傍にいてあたしのそばに――
闇が闇のカタマリをくらい、喰らわれ、のたうっている。奪い、奪われ、競うように食んでは、ヒトであった者たちは己の原型を失っていく。
「なるほど、興味深いですね。一度入れば戻れないとは聞きましたが」
ぞろり。
侵入者に気づき、鎌首をもたげて【こちら】に【視線】を向けてきた。
取りこまれ、取り込み、有象無象の思念の一部と成り果てたものが、どろりとした結束を固めていく。狙うべき次の獲物を捕えたとでも言いたげに。
「喰ってしまえば、そして喰われてしまえば、確かにもう【戻る】ことはできないでしょうねぇ」
ばしゃり。
粘度の強い液体と化したおぞましい闇が、うねり、跳ね、津波となって飛びかかる。
だが。
レイリーはそんな反応すらも涼やかな表情を崩すことなく。
視線で捕らえたモノを、ひるがえした黒のマントで鮮やかに受け止めた。
無音のうちに為された捕食。
対象を飲み込むべき腐食した【闇】が、更なる深淵に呑み込まれた、そんな一瞬の出来事を鑑賞するものは残念ながらここにはいない。
「こういったモノが至る所にいるのでしょうね……あなたの声に引き摺られながら……」
目を細め、チラリと壁に嵌め込まれた姿見を窺う。
レイリー自身は映らない、部屋の内部だけを映した鏡の内に宿る秘密を既に見抜いていた。
耳を澄ませば、そこから洩れ聞こえるかすかな旋律を拾うことができた。
舞台芸術を模して、悲劇のプリマドンナを気取る声が館を覆い尽くしていくのを肌で感じる。
「美味しいですか? 他者の思いを喰らうのは。ご自身へ向けられた感情でなくとも美味と感じるのでしょうか?」
ふわりと微笑み問いかける、それが届いたのか、鏡面が応えるようにじわりと波打った。
扉が開いたのだ、次なる扉が。
誘うように揺らめくそれを前に、くつりと小さく笑みをこぼす。
「エフェメラ」
口にするのは、今はここにいない少女の名だ。目の前にいない、どこにいるのか視認できないその相手へと、彼は言葉を残す。
「美しいモノを見せてあげると約束したでしょう? 邪魔なものは排除すればいいのですから、さあ」
レイリーの声は闇に広がっていく。
そこにはいないモノへの、命令。
その口を塞ぐように、あるいは求めるように、手が伸ばされる、無数の手が、血の通わぬ、とっくに熱など無くなってしまった朽ちた無数の腕が、伸びてくる。
*
愛して。ここに来て。ここに居て。傍にいて、ひとつになって、ずっとずっと、ほらずっと、誰かの名前を呼ばないで、誰かを見ないで、その子を見ないで、こっちだけをみて、ねえずっとずっとずっとずっと一緒にいっしょいっしょにねえ、いっしょ――
*
エフェメラの知らない言葉に知らない感情を乗せて、歪んだ憎悪が生ける屍達をけしかけてくる。
美しく完成された【少女のカタチ】をとるものへの、激しい嫉妬がそこにある。
シャンデリアが落ちてきたあの瞬間、一切の物理法則を無視してエフェメラが引きずり込まれたのは、黴と腐敗がはびこった暗い地下の食糧貯蔵庫だった。
ただし、そこに蓄えられているのは食料には到底なりえない、無数の女たちの骸だったのだが。
そしてソレがいま、少女のゆく手を遮る壁となっている。
レイリー・クロウの、自分の名を呼ぶ声は聞こえている。
けれど、いまだそこへは辿り着けずにいた。
「……邪魔……邪魔なモノは、排除していい……あの人に呼ばれているの、邪魔しないで」
腕は確かに朽ちていた、けれど恐ろしいほどの情念にコーティングされ、掴んだモノの肉を抉り奪うだけのチカラを持っていた。
隙あらば捻り、壊し、その身を喰らって血肉の糧にしようと狙いながら、憎悪を叫ぶ。
エフェメラの知らないまっ黒な感情が、彼のもとへ行こうとする足や手に絡みつき、引止め、その場に押し留めようとする。
けれど。
「……邪魔しないで」
ぱきり。
ばきん。
幼い少女の美しい白皙の手が、縋り押し倒そうと襲う亡者たちを砕き、壊し、まるで繊細なガラス彫刻を陳列棚から残らず全て払い落とすような勢いで、排除していく。
「みだりにモノを口に入れてはいけないとも言われたわ……だから、食べない……あなたたちはいらない」
悲鳴すらも掻き消えるほど無造作に、繰り広げられるのは容赦のない破壊行為だ。
動く屍は、物言わぬ残骸と成り果てる。
憎しみを叫びながら。
呪詛を吐きながら。
美しいものに名を呼ばれる【少女】という存在に、かつては自分もそうであったのだということを重ね見、羨み妬みながら、襲い掛かっては薙ぎ倒されていく。
エフェメラの瞳には一片の憐れみも悲哀も愉悦も憎しみも怒りもなく、ただ、その姿に【つくられしモノ】の優美さと酷薄さとをまとって進む。
*
どうしてあの子の名前を呼ぶの。どうしてわたしだけを見てくれないの。どうしてアタシだけのものでいてくれないの、ねえ、わたしじゃダメなの、一緒にいてちょうだい、ねえずっと一緒にずっとずっと永遠に一緒にここで永遠に――
*
闇が、水面のように揺らいでいる。
誘いの言葉すら持たず、ゆらゆらと、惑うように足元で波紋を作りながら揺れている。
歌うように願う。
祈るように歌う。
捧げられたのは果たして愛なのか否か。
「かつては献身的ですらあった深い情愛も、これほど深く堕ちこんでいくものなのですねぇ」
レイリーは覗きこむ。
鏡の奥にしつらえられた、ひとりの女の寝室の、天蓋つきのベッドにそっと視線を落とす。
レースとフリルをふんだんに使った、かつては純白だっただろう豪奢なベッドは、太陽のニオイとやさしいぬくもりとで彼女のか弱い体を抱き止めてくれていたのだろう。
けれどいまは。
どす黒く、変色し、硬く、冷たく、石のようになっている。
すべては、そう、胸にナイフを突き刺したままミイラ化した【女】とともに。
傍にいて、ここにいて、ずっとずっと、嘘をつかないで目を逸らさないで顔を背けないで傍にいて逃げないでずっとずっとずっとずっとずっと――逃がさないっ!
彼女は嘆く。彼女は祈る。彼女は願う。彼女は呪う。逃げて行くものに、裏切ったものに、想いを残して永遠を望みながら胸を刺し貫くナイフから溢れた血を礎にして、この〈館〉に〈闇〉を生み出した。
「……嫌い」
差し込まれるのは、短く、平坦な拒絶。感情のこもらない、インプットした言葉のひとつがたまたま発せられただけとすら思える声音ではあるのだが。
感慨深げに骸が語る過去を眺めていたレイリーの視線が、背後へと映る。
「おや、エフェメラ」
めずらしいモノを見るように、彼は目を細めて笑いながら、問う。
「あなたのお気には召しませんでしたか?」
「そのヒト、いっぱい私の邪魔をしたわ……だから、嫌い。嫌なものは殺していいのね?」
ことりと小さく首を傾げて、人形は主を見上げる。
「ええ、確かにそうですね。そうお教えしました。でも、彼女はすでに死んでいます。そして、殺す以外の方法もあるということを示してあげましょう」
とっておきの秘密を打ち明けるように、そっと唇を耳もとに寄せて、笑う。
彼の背後では、女の情念が悲鳴をあげている。
その子を見ないで、わたしを見て、ここにいて、傍に来てと嘆き、哀しんでいるけれど、ふたりの会話が遮られることはない。
「あなたは私にいいモノを見せてくれるって言ったわ。うつくしいもの、だったかしら?」
「ええ、言いました。いま、それを見せてあげます」
約束は守りますよ、とにこやかに告げる。
「自己愛で肥大した闇がはじける瞬間を、お見せしましょう」
レイリーは両手を広げる。
大きく、まるで不吉な鳥が獲物を捕える際に羽ばたくように。
怜悧にして鋭利な光が、一瞬、辺りを埋め尽くす。
きらり。
きら。
砕き、壊れ、それはまるで氷点下の世界で閃くダイヤモンドダストのように儚い閃きを振り撒き注ぐ。
精製された高純度の闇を彩る、幾つもの魂のカケラ。
そして。
そうして。
白手袋に包まれた漆黒の商人の手には――
「いかがです、エフェメラ? ごらんなさい。とても美しいでしょう?」
「……うつくしい……?」
少女に見えるようにそっとかがみ、差し出した手の平で、黒曜石よりなお黒く透明な中に星屑のような輝きを散りばめた石が輝いていた。
エフェメラは、しばし、ソレを見つめる。
美しいものだと差し出された石を、まじまじと見つめて、それからようやくこくりと小さく頷いた。
「きれい」
「永遠を望むモノは、永遠に呑まれ、捕らわれ、こうして美しい結晶を内に作り上げるのです」
最近顔見知りとなったアンティークショップの店主のように、レイリー自身は【永遠】というキーワードにさほど固執するつもりはない。
けれど、永遠を望むモノの心は、いつでもたやすく堕ちるのだ。
そうして生まれ育まれた闇は、甘美だ。
足掻き、もがき、苦しみ、絶望の果てに狂い、壊れてしまうのが人間だから、それはとても美味なるモノへと変わる。
この手中に収めるに足る存在へと。
「純然たる狂気、その結晶は無垢で美しい」
曰くつき。
ソレが持つ、魅惑的な付加価値がこの手の中にある。労を費やすに足るものであり、深い満足を与えてくれるもの。
うっとりとした視線は、微熱を孕んですらいる。
「では、帰りましょうか」
ふわり。
漆黒の鳥は、羽根のようなマントを広げて漆黒の人形を腕(かいな)に抱き込み、囁いた。
闇が。
闇に舞い上がり。
溶けて、鮮やかに消える。
そして。
内に〈曰く〉として抱え込んでいた一切を奪い去られた〈館〉は、本来の姿を取り戻すことなく、ただひっそりと死を待つだけの廃墟と化す。
END
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