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ドールハウス(全三話) 第三話
■序
あなたのために、全てを捧げたいと思うのは。
愛?
それとも、わがまま?
命の重みは、等しいのかな?
ずっと貴方と一緒に、いられたら。
■作戦会議
あやこ、アリス、薫、勉の四人の話し合いは、まだ続いていた。
広い部屋の中心で、車座になって絨毯に座り込む。
人数はそれなりに揃ったが、炬のこともあり、時間の猶予はそれほどにはない。
次にアヤが起きてくるまでに作戦を決めて、行動を起こす必要がある。
そしてやはり、焦点はアヤのことになる。
「これまでの状況から考えるに……やっぱり、『アヤ』って――二人、いますよね?」
同意を求めるように、他の三人を見回しながらアリスが言う。
あやこと勉が、まるで合わせたかのように小さく頷く。
「二人、というと……?」
薫が疑問を口にした。
「アヤの心の二面性が分離したのか、それとも片方はアヤの姿を借りた別の存在なのか。それは分かりませんが、彼女が二人いる、とすればこれまでの不可思議な点が説明できます」
確かにそう考えなければ、アリスが相手をしている間にあやこたちの前に現われたことなどが説明できない。二人のアヤ。そう思ったほうが自然だ。
「ただ、そうは言っても。兎も角、アヤをどうにしかしないと。背後に糸を引いてる何かがいたとしても、ね。遊びを終わらせましょう。調査結果からすれば、過去の持ち主でいた『アヤ』はもう亡くなってる。なら、成仏させる他に救済策はありません」
強い調子で、あやこが続けた。
そこで一旦間を置いて、さらに口を開く。
「わ、笑わないでくださいね」
そう言うと、長い髪を掴む。他の三人がその行動に疑問を抱くよりも早く。
掴んだその手が引かれる。
何の抵抗も無く、腕は振り下ろされた。
あやこ以外の全員が、呆気に取られる。
そこに現われたのは、見事までの禿頭だった。
「私は、エルフにして僧侶でもあるんです。山寺で修行した成果がどこまで通用するか分かりませんが」
厳かな口調は、それなりに僧侶らしくはあった。さらに、と携帯を取り出す。これにはよく使う経典がダウンロードされてるのです、と付け加えた。
「私がこのまま母親役をして一方の相手をします。あわよくば成仏も狙います」
手にしていたかつらを被り、そう話す。
「そうですか……うーん、私がアヤの相手をするんでその間に、台所に行ってもらおうかと思ったんですが」
アリスも打ち明ける。どうやら、似たようなことを考えていたらしい。
勉が手をあげ、じゃあ自分が台所へ行くと言う。以前から気になっていたわけだし、と。
だが、もう一人のアヤはかなり危険な存在だ。勉は一般人、薫が一緒に行ったところで、無謀なことには代わりがない。
「なら、こうしましょう。台所のことを言い出したのは私ですし、私と勉さんとで台所へ行きます。薫さんとあやこさんは、アヤの相手をお願いします」
その提案に異論を挟む者はいなかった。
アヤが首尾よく成仏してくれても、それで脱出できるとは限らない。台所の調査も必要だ。いざとなったら戦える二人が、もう一人を守る。今のところ、それが無難だろうと思われた。
そして、数時間後。
万全の状態で、とアヤが起きてくるまで仮眠を取った四人は、派手にドアが開く音で目が覚めた。
アヤだった。陽気な笑みで、遊ぼう、と元気に言い放つ。
あやこが返事をしながら、落ち着いた微笑を返した。
それは、行動開始の合図でもあった。
■中心へいたる道
「不気味なくらい、何も起きないですね」
落ち着かなさげに後ろを振り向いて辺りを確認しながら、勉がつぶやく。
確かに、とアリスは同意する。
アヤがあやこと薫に夢中になっている間に、頃合を見て、こっそり部屋を出た。二階の部屋から廊下に出て、階段を降りる。目指す台所は食堂のさらに向こうらしい。食堂は一度行ったことがあるから、場所は覚えている。
絨毯の敷かれた石造りの廊下は、踏みしめてもほとんど音はしない。等間隔に並んだ燭台が足元を頼りなく照らし、そこかしこにある陰から何かが飛び出してくるのでは、という不安感に駆られる。
もう一人のアヤに見つかるものと覚悟はしていたのだが、全くそんな気配はない。目指す食堂の大きな扉に、もう手が触れる。
勉は一度同じことをしていて、目も付けられている。気づいていない訳はないのに。
ならば、ここに――。その可能性は高い。
それでも、なるべく音を立てないように、扉をゆっくりと、押し開ける。
「あなたたち、なんでこんなところにいるの?」
待っていたのは、予想通りの声。でも、予想以上に鋭い声だった。警告の響きを孕んだそれは、少女のものでありながら、同時に得も知れぬ凄みを備えていた。突き刺すように、あるいは押し潰さんとするかのように、深く強く、腹の底に響く声。
「この先は、立ち入り禁止よ」
吹きつけるように、言葉が放たれる。その圧力に挫けそうになる。
でも、ここが正念場だ。そう思いなおして、胸を張る。
「食事の準備でも手伝えたらと思って。炬さんとは友達なんです。一人にさせておくのも悪いし」
アリスは平然を装って答えた。
「お食事のことは気にしなくていいの! アヤと遊ぶの!」
アヤの口調に苛立ちが混じる。言うことを効かない相手への癇癪。それは子供らしいとは言える。だけれど、この目の前のアヤは、恐らく本来のアヤじゃない。
「あなたは、本当にアヤなの? それとも、他の……何か?」
疑問が、口をついて出る。
「アヤ、だよ。私もアヤよ!」
決定的な一言だった。
「も、……? も、ってことは、あなたは、二階で今あやこさんが相手をしている『アヤ』とは、違うのね」
やはり、アヤは二人いたのだ。
「そうよ! 私とアヤとで、ずっと一緒にここで暮らすの! 邪魔なんかさせない! あなたたちは言うことを聞いてればいいの!」
身を切るような声が、食堂の中に響き渡る。悲鳴にも似た、絶叫にも似た、そんな声が。狂気の重みを孕んだ、叩きつけるような言葉。
いや、言葉だけではない。
風が、吹き始める。アヤの立つ、その場所から吹き付ける。心に感じる圧力だけでなく、実際に身体を押さえつけようとする、確かな力。
――出来る限り、手荒い真似はしたくなかったけど。
隣に立つ勉にすら聞こえないほどに、小さく呟く。
そして。
口ずさみ始める。
喉を、震わせる。
普通の歌とは違う、アリスだけの武器。物理的な力さえ生む――謳(うた)。それは、謳術という。カンツォーネに似た美しい旋律の謳により、様々な力を操ることができる力。
呼び起こされる力が、呪縛を解き、逆にアヤを押さえつけようと迫る。
アヤの顔が歪む。
でもそれは苦痛ではない。怒り。あどけない少女の顔が、人ならざる憤怒に歪む。
圧力が高まる。謳術の力が圧し戻され、拮抗する。
否。
少しずつ、圧されはじめる。
――強い。思ったよりも、さらに。
しかし、その均衡は、あっさりと崩れた。
「……アヤ!? ……召使い! ここを守りなさいっ! 絶対に、通しちゃだめ!」
突如、アヤが叫ぶ。アリスに向かってではなく。もちろん、勉に向かってでもなく。
――はい。
微かに聞こえた、抑揚の無い声。
予感はしていたけれど、そうなって欲しくはなかった。
アヤの背後、闇の中から現われたのは、炬だった。食堂への扉の前に、行く手を塞ぐように立ちはだかる。
目線が炬を追う。集中力が一瞬だけ削がれ、謳の力が弱まる。
しかし、それと同時に。
アヤの放つ力は消える。いや、その姿さえも、まるで最初からそこにいなかったかのように、かき消える。
逃げた?
――もう一人のアヤのところか。
後ろを振り向く。二階へ戻らないと。咄嗟に、そう思う。
「二階はあやこさんがいます! 食堂に行くには、今がチャンスです!」
今まで押し黙っていた勉が、そう言いながらアリスの腕を取る。
逡巡する。確かに、彼の言うとおりだ。理屈では分かる。
それでも、二階が心配だ。それに――炬と戦いたくない。
だけど――その炬を助けるためでもある。
――だったら、自分にできるやり方があるはず。
「炬さん! 覚えてない? 私です、アリスです! アリス・ルシファール」
ぴくりとだけ、その眉が動く。表情が揺れる。
――聴こえてる。
なら。
「覚えて、いるでしょう? この歌を」
大きく息を吸い込む。
ゆっくりと、語りかけるように。歌い始める。
謳術ではなく、本来のカンツォーネの響き。炬と、久々津館の皆と一緒に行ったお花見。そこで謳った歌。正月に、同じ場所で謳った歌。
謳いながら、ゆっくりと近づく、一歩一歩。
いつの間にか、炬も近づいてくる。一歩、一歩。
差し伸べた手が、指が触れんばかりの距離になって。
「アリス、さん。ワタシは……ココは、いったい」
手に手が触れる。そして、しっかりと握りしめる。
座り込む。
「良かった」
思わず漏れた言葉に。炬が不思議そうな顔をする。もう大丈夫そうだ。
「台所に行きましょう。中を調べて、早く戻らないと、あやこさんが」
そういいながら、勉が、扉へ向かって歩いていく。しかし、一人では危険だ。何があるか分からない。
炬が助け起こしてくれる。俯いていた顔をあげ、慌てて勉の背を追う。
扉を開ける。
そこには――。
■子守唄
時間は少しだけ遡る。
館の二階。いくつも並んだ部屋の一つ。
あやこと薫は、もう一人のアヤと一緒にいた。
やはり基本は、ごっこ遊びだ。家族を――アヤの母親を演じる。薫は叔母さん役だ。父親役の勉を探そうとしたが、風邪気味だから隣で寝ているというと、あっさりと納得した。元々は自分が病弱だったから、病の辛さが分かる、といったところなのだろうか。
「ねえ、ほんとのお母さんはどうしたの?」
お母さんと呼ばれて、ふとあやこは聞いてみた。
「お母さんは……アヤのこと、おいてっちゃったの。アヤが弱い子だから」
アヤの顔が表情を失う。それは寂しさを通りこして、歳にそぐわない諦観しか読み取れない人形のような顔だった。瞳の焦点は合わず、そこには何も映っていない。
それ以上刺激しないように、一緒に遊んであげながら少しずつ話を引き出す。
少しずつだが、おぼろげに事情が見えてきた。
アヤは裕福な家庭に育ったようではあったが、調べた記録にも病死とあった通り、ずいぶん身体が弱かったらしい。親はそれでも最初はアヤのことを心配し、つきっきりでいてくれたようだが。
「でもね、健ちゃんが産まれてから、アヤ、一人になっちゃったの」
健ちゃんというのは弟のようだった。要は――弟ができて、両親はアヤの世話を見なくなったということらしい。
ただ食事を与えられ、病の治療をされ。それでは心まで病になるだろう。
――ある意味、ネグレクトみたいなものか。
アヤの頭を撫でてあげる。とても一般人とはいえない人生を歩んできた――そもそも人ではない――あやこでも、そうしてあげることが、子供にとってどれだけ大事なことだったか。それくらいは分かる。
唯一買い与えられたドールハウス。
一緒についていた、自分と同じアヤという名前のお人形。
それだけが、遊び相手だった。
そしてある日のこと。人形のアヤに誘われて。館へやってきて。
それ以来、ずっとここにいるということだった。
――ならば、黒幕はもう一人の、人形のアヤか。だとしても。
どちらにしても、アヤはこのままにはしておけない。かわいそうだが、彼女に戻る身体は既に無いのだから、成仏させる他に救済する術はない。
薫と目が合う。始める、という意味を込めて頷く。薫は目を伏せた。あやこが何を始めるか、それを察して。
膝の上でうとうととするアヤの頭を撫でながら、もう片方の手で携帯を取り出す。その画面には、漢字が並ぶ。それは日常会話ではないが、意味を持った、そして力を備えた言葉の羅列。
流れる速度にあわせて、言葉を紡ぐ。
――せめて、安らかに。
それは調伏の経ではなく、鎮魂の経。苦しまずに旅立って欲しいという思い。たっぷり遊んであげて、満足して、そして、穏やかに眠って欲しい。
語りかけるように、ゆっくりと。
そのリズムに合わせるように、やがて、アヤはより深い眠りに落ちていく。
順調だった。まだ時間はかかるが、このままうまくいけば。
しかし。
こんなに簡単に事が進むとは、あやこも思っていない。
突如、気配が膨れ上がる。殺気にも近い、剣呑な気配。
こういったことには素人であるはずの薫でさえ何かを感じたのか。扉を振り返る。
音もせず扉が開け放たれて、風が吹き込んでくる。身体を跳ね飛ばさんほどの、意思を持った力が二人を襲う。
経に集中していた分、対応が遅れる。自分の身体を支えるので手一杯になってしまう。
薫が、弾き飛ばされる。倒れこむ。
同時にもう一人のアヤが、身体ごと突っ込んできた。巻き起こした風の勢いに乗ってか、一瞬で、間合いを詰められる。
受身は取ったものの、避けきれず、吹っ飛ばされる。眠り続けるアヤと、離されてしまう。
アヤがアヤを拾いあげた。同じ小さい身の丈なのに、軽々と抱き上げる。
「待ちなさいっ!」
体勢を立て直し、追いかけようとしたところで。
か細い呻き声が、あやこの耳に流れ込んでくる。
薫だった。
走り去るアヤと、背後の薫と。迷いはなかった。振り向き、薫の下へと走り寄り、助け起こす。
意識はあるようだ。目立った外傷はないが、どこをぶつけたかは分からない。館の中には魂だけが来ているのではと思うが、ここで負った傷が現実の身体に影響がないとは限らない。むしろ、ある程度の影響があると考えたほうがいいだろう。
「だ、大丈夫です……一瞬、息が詰まっただけ。二人を、追って……」
薫がそう言って、扉を指差す。
「兄さんや、アリスさんも心配です。私は、大丈夫ですから」
視線がぶつかる。
一つだけ頷いて。
「ここで、待ってて。必ず、ちゃんと終わらせてくるから」
そう言い残すと同時に、あやこは駆け出した。
■台所に眠るもの
アリスの目の前には、台所にそぐわない光景が広がっていた。
思わず、息を呑む。
洋館に相応しい広さ。古いながらも取り揃えられた設備。
だが、そんなところは気にもならない。
正面の壁に埋め込まれるようにして、光るもの。
妖しく、淡く緑に輝く石。アリスくらいなら、すっぽりと入れてしまうほどに巨大な結晶。
部屋全体が、緑色に包まれる中。
倒れ付す、幾人もの姿。見たことの無い者たち。老若男女、衣服も人種も、何ら共通点の無い人々。
見える範囲だけでも、数名。
最も近い者に、近づく。
床にうつ伏せに倒れ付す、長い髪の女性。
軽く声をかけながら、顔を上に向ける。
現われたのは。
――死んでる!?
無表情を越えて。その顔には、生気というものが全く感じられなかった。
しかし、身体は暖かい。鼓動を感じる。
「あれは……?」
勉が、そう呟くのが聞こえてきた。
顔を上げると、勉の背中が見えた。吸い寄せられるように、ふらふらと、頼りない足つきで緑の石に近づいていく。
どんな危険があるか、分からないのに。
声を掛け、止めようとする。
「『それ』から、離れなさい!!」
別のところから、怒りの声が上がった。それは、アリスの声ではない。それよりも後ろ。入り口の方から。
振り向くと。
そこには、アヤがいた。もう一人、同じ顔をした、アヤを抱きかかえて。
一人は、焦燥と憤怒とが綯い交ぜになった顔をして仁王立ちし。もう一人は、そのアヤに抱えられ、ぐったりしていた。
「あなたが、ここの人たちを……?」
アリスの問いは、否定されない。
「仕方ないじゃない! みんな、帰りたいなんて言うし! ずっとアヤと一緒にいてくれればいいのに。だから、眠ってもらったの。アヤに命を分けてもらうために」
言いながら、歩を進める。足止めをしようと謳術で圧し返そうとするが、逆にじわじわと圧しこまれていく。
「あの石が、私に力を、アヤに生命をくれた。ここで、ずっと二人で暮らすの。ずっと」
抑えきれない。
限界が近づいていた。
そのときだった。
「アヤ! 目を覚ましなさい!」
空気を引き裂くような、清冽な声。アリスの謳術をも越えて、それが届く。
あやこだった。
人形のアヤの腕で眠る、もう一人のアヤに向けての言葉だった。
「いいの? その子は、あなたのために、皆の命を吸い取っているのよ。もう、分かるでしょう? あなたはもう旅立たないといけない。いつまでも、こんな歪んだことを、その子にさせちゃだめ!」
強く、だが同時に、やさしく。労わるように、励ますように。あやこは語った。
その語りかけに。
アヤは、ゆっくりと目を開いた。
「もういいよ、アヤ」
それはまるで、母親のようで。子供に語りかけるような、柔らかく慈愛に満ちた声だった。
立ち上がり、向かい合わせになる。そうしていると、鏡に映った姿のよう。ただ、表情だけが違っている。片方は歪み、もう片方は、穏やかに。
「ごめんね、あたしのために、ごめんね」
アヤが、アヤを抱きしめる。
「嫌だよ、いや……」
そんな言葉をも、包み込むような抱擁。
ほんの数秒。そして、ゆっくりと、回したその腕を離すと。
ゆっくりと、あやこの前に進み出る。
操り人形の糸が切れるように、抱かれた方のアヤは、力を失い、へたり込んだ。
その顔は、放心しきっていた。
「あたし、もう遊びあきちゃった。おねえちゃんたちも、いっぱい遊んでくれたし。もう、十分。ね、さっきの、もう一回聴かせて。あれ聴くと、なんか、落ち着くの」
そういって浮かべた、はにかんだ微笑みは、とてもとても、可愛かった。全て理解して、それでも浮かべた笑みだった。
「いいのね」
あやこの問いに、ただ無言で頷く。
携帯を取り出し、経典とともに、唱え始める。
やがて、それに合わせるように、アリスも謳い始めた。鎮魂の謳。到底合いそうもない二つの音は、なぜか不協和音にならず、交じり合い、不思議な旋律となる。
だんだんと、アヤの身体が淡く光り始めて。
いくつもの光の泡となって、消えていった。
蛍のように舞い上がって、消えていった。
■永遠
そうして、アヤが消えて。静寂が、しばしその場の全員を包む。
「さて、後は……ここから出してもらわないと、だけど」
あやこがつぶやく。その目線の先には、いまだ座り込んだままのアヤ。もう一人の、人形のアヤ。この館の主がいる。
もうそこからは、敵意のこもった圧力は感じられない。
後は、さほどの苦労はないだろう。そう思ったところだった。
微かな、鈍い音が響いた。
柔らかいものに、何かが刺さる音だった。
「アヤ!」
アリスが走り寄る。崩れ落ちるアヤを支える。
その胸に。
ナイフが刺さっていた。大振りのアーミーナイフ。胸から柄が生えるように、深く。
そして。
アリスの腕の中で。
見る間に、アヤの姿が変わっていく。人としての姿を失っていく。古めかしいドレスを着た、アンティーク・ドール。それが、彼女の本当の姿だったのだろう。突き立ったナイフだけそのままに、ぴくりとも、動かなくなる。
「やっぱり、人形だったんだ」
声が響いた。
顔を上げる。
緑の石に、片手をかけて、寄り添うように、人影。
先ほどまで一緒にいた男。
勉だった。
「ここまで連れてきてくれて、ありがとう」
満面の笑み。けれど、歪んだ笑み。大きく微笑んだその顔には、何故だろう、寒気を感じる。
気づく。その、眼差しに。目が笑っていない。冷たい、何も映していない、絶望の瞳。
「こいつを探していたんだ。生命の木の欠片。ただのドールハウスがこんな風になってしまった、そしてここの奴らが木偶になっている理由。その全ての根源」
その感触を確かめるように、手の平で緑色に輝く結晶を――彼曰く、生命の木の欠片を、撫でるように触れる。
「どうする気、なんですか」
アリスのその問いに、勉は嗤った。
「何を今さら」
口の端だけを曲げる。ただそれだけなのに、顔そのものの全てのバランスが崩れる。
「もう、飽き飽きしてね。泥臭い現実の世界も、いずれ死んで消えてなくなる自分の限界にも。だから、解放されたいんだ。現実からも、死からも。それで色々と調べてね。こいつに辿り着いた。ね、君たちも、そうは思わないかい?」
幼子に言い聞かせるように、それがさも当然の結論であるように、彼は続ける。
「誰だって、貴方だって、死にたくないだろう。だけど、ここで魂だけの存在になって、身体が滅んでも他人の生命力を糧にしていけば、永遠に生きられる。素晴らしいとは思わないか。それに、ここには人間関係の煩わしさもない」
しかし。
同意する者はいなかった。
「それは、ただの逃げじゃないの?」
あやこが、きっぱりと、断罪するかのように告げる。
「ただ無為に過ごすだけの永遠なんて、欲しいとも思いません」
アリスも、決然と否定する。
「……同意は得られないようだね。それじゃあ、そこらの人たちと同じようになってもらおうか。新たなる契約者である僕の前に、ひれ伏すがいい」
触れた手から、石の緑の光が伝わっていく。勉自身も淡い光に包まれる。
勉とあやこの視線が、合う。蛇のような、怪しげな瞳。何も映さない狂気の瞳が、あやこを貫く。緑の光が視界に広がる。
「な、何を……」
あやこの言葉はそこから続かなかった。力が抜ける。吸い取られていくようだ。立っていられない。膝をつく。
「あやこさん!」
アリスが叫び、そのまま、謳を繰り出す。迫ってくる緑の光をその力で抑える。
謳に、全身全霊を集中させる。
アヤのときと同じように再び力が拮抗し、対峙する二人の意識が、互いの力に集中する。
その間隙を縫ってのことだった。
その意識の外から。
甲高く、短い、金属質の音がした。先ほどの、アヤに刺さったナイフの音とは対象的なその音。
勉が、手元を見る。
大きな、緑の結晶。その中心に、ナイフが刺さっていた。その見た目よりも柔らかいのか、それは、先ほどのアヤに刺さっていたときのように、根元まで刺さり。
「か、薫ぅっ!」
勉が、怨嗟の声を上げる。
アヤで会った人形を抱えて、薫が立っていた。
「兄さん……ダメだよ。現実から逃げちゃ、ダメ。皆で、帰ろう、ちゃんと」
石に、亀裂が走った。
淡い光が、強さを増して。激しい光となり、視界を覆い尽くす。
全員を包む。その意識ごと、包んで、弾けた。
■目覚め
「ありがとうございました。そして、ご迷惑をおかけしました」
翌日。
あやことアリス。そして炬と、レティシア。
居並ぶ全員を前に、薫は深くと頭を下げる。
その隣には、無言のままの勉。その顔は沈痛に沈んでいる。
「もう、兄を甘やかすのは止めにします。これから、家に戻って、徹底的に鍛えなおしてあげます」
にっこりと笑う。最初にあやこが会ったときとは違う、快活な笑み。大人しく、おどおどしていたあのときの彼女のイメージは、微塵も感じられない。
片方の手で兄を引きずるようにして、去っていく。
もう一方の手には、胸のところを繕われた、見覚えのある人形があった。ぜひ、これだけは持ち帰りたい、と薫が言ったのだった。
「開き直ったら、女の子は強いわね」
苦笑いしながら、あやこが言う。
「そうですね、アヤちゃんもそうでした。あたしも、そうなりたいです」
アリスが同意する。
ドールハウスは念のため、あやこのつてでIO2へ送られることとなった。
全てが、片がついた。ほんの数日の出来事が、とても長く感じた。
あの日、目が覚めて。
日常に、現実に、戻ってきて。
皆、寂しかっただけなのだ。人形のアヤも、旅立っていったアヤも。勉も。
それで、永遠を求めた。
けれどそれは、空虚な永遠。
現実は、永遠でないからこそ輝いている。永遠でない、この世界を、一分一秒を、大事にしたい。
そう思って、生きていくことが大事なのだと、感じさせられた。
――終。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【6047/アリス・ルシファール/女性/13歳/時空管理維持局特殊執務官/魔操の奏者】
【7061/藤田・あやこ/女性/24歳/IO2オカルティックサイエンティスト】
【NPC/レティシア・リュプリケ/女性/24歳/アンティークドールショップ経営】
【NPC/炬(カガリ)/女性/23歳/人形博物館管理人】
【NPC/相原・薫/女性/20歳/大学生】
【NPC/相原・勉/男性/25歳/無職】
【NPC/アヤ/女性/???/館の中に住む少女・人形】
【NPC/アヤ/女性/???/館の中に住む少女・幽霊】
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■ ライター通信 ■
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伊吹護です。
ドールハウス全三回、これで終了となります。だいぶ長い期間となってしまいましたが、お付き合いありがとうございました。
これを機に、もしくは、引き続き今後とも、よろしくお願いします。
少し最後を詰め込みすぎた感になってしまいましたが、これからも精進し、より良いものを書いていこうと努力させていただきます。
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