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<東京怪談・PCゲームノベル>


もう一つの片割れ





 ポチが不意に顔を上げた。三角形の耳がぴくぴくと動き、後ろに倒れる。第六感というやつなのだろうか、何かを探るように金色の瞳でじっと慎霰を見つめる。
 「動物は人を見るからなぁ」
 一輝が腰を折り、ポチの頭を撫でる。ポチは逆三角形の小さな鼻をつんと天井に向け、一輝の手の下で気持ちよさそうに目を閉じた。ゴロゴロと鳴る喉の音が慎霰の所まで聞こえてきそうだ。
 「ちょっと警戒してるが、おまえに興味があるみたいだ」
 一輝は汚い床の上に膝をつき、ポチを抱き上げて薄く笑った。慎霰は軽く舌打ちして一輝を斜めに見下ろす。
 「そんなきたねぇ猫に好かれたって嬉しかねぇ。それよりさっさと連れてけよ、その“夢の世界”とやらに」
 一輝は「ほう」と目を細めて立ち上がった。その膝の上からポチが億劫そうにのっそりと降りる。
 こつん、こつんという靴音をさせながら一輝は慎霰に歩み寄った。着崩したスタイルではあるが、よくよく見ればスーツそのものは決して安物ではないし、黒光りする革靴も高級品であることは慎霰の目にも明らかであった。
 「ずいぶん度胸がいい。無事に帰って来られるだなんて一言も言ってねえんだぜ? 夢世界に持ち込めるのはおまえの意識だけ。体はこっちの世界に残していかなきゃならない。当然、長い間戻って来なければ体のほうが死んじまう。ま、あっちでは意識の力で体みたいなもんが作られるから生身の時と同じように行動はできるがな。それに――俺が開閉できるのは、こっちからあっちへの扉だけだ」
 自然と、長身の一輝が小柄な慎霰を見下ろすような形になる。慎霰の目線は一輝の胸の高さにも届かない。その身長差と、一輝がかすかに発するにおい――襟足にわずかに染み出る汗や整髪料、スーツのにおいが混じり合った“年長の男のにおい”に、慎霰はわずかに、しかし本能的な不快感と敵意を覚えた。
 「憂さ晴らしにちょうどいいと思っただけだ」
 抗うように胸を張り、慎霰はややつっけんどんに言った。「その代わり、夢がつまんなかったら何か飯おごれよ」
 「憂さ晴らしか。なるほど」
 くくく、と一輝は喉の奥で笑った。背中を曲げて、さも愉快そうに。
 「分かった。何でも好きな物をおごってやる。ただし、夢がつまらなかったらの話だ」
 持ち上げた一輝の左手には、先程ちらりと見えた真鍮の鍵が握られていた。
 部屋の壁一面にはいくつもの扉が埋められている。ざっと見渡しただけでも十はあるだろうか。重厚な材質に施された彫刻は意外にシンプルだ。高さは2メートルもなく、取り立てて変わった点はない。向こう側へと開くタイプの一枚扉で、ドアノブにあたる部分には錆びた金属製のリングが取り付けられている。元々は茶色だったのであろうが、全体に浮いた黒ずみがこの扉が経た年月の長さを物語っていた。
 立ち並ぶ扉はどれも同じデザインで、すべてが同じように見える。だが一輝は迷う様子も見せずに、部屋の入口のほぼ正面の部分の壁にある扉へと歩み寄る。その後を緩慢について行った慎霰だったが、途中でふと足を止めた。
 少し離れた場所に、ひとつだけ、違う扉がある。部屋の角にひっそりと身を寄せるように、他の扉たちから隔離されるようにして取りつけられた黒塗りの観音扉。高さも幅も他の扉より一回り以上小さい。これでは子供くらいしかくぐれないのではないだろうか。取っ手やノブもなく、扉というよりはただの板といった風情だ。それでもそれが扉だと分かったのは、本来ならばドアノブがあるべき場所に鍵穴らしき小さな穴が開いていたからだった。
 あの扉は何だ、と問う前に、慎霰の意識は一輝のほうに引き戻されていた。
 妙な空気が慎霰の頬を撫でたのだ。温かいのか冷たいのかも分からない、かすかな空気の流れ。あるいはそれは風と言い換えてもいいのかもし知れない。しかし、風と呼ぶにはあまりにも得体の知れない感触であった。あの扉の向こうから流れ出てきた空気だと直感した。
 一輝が手にした鍵は音もなく扉に吸い込まれていた。吸い込まれた、という形容がまさに適切だった。空気の中にでもすうっと入り込むのかのような静けさで鍵は扉に埋まり、そして回すこともなく引き抜かれる。鍵を引き抜く瞬間、一輝の手の中で淡い光が発せられた。
 扉は細く開いていた。かすかにのぞく隙間から、先ほど感じた嫌な空気が細く流れ出て来ている。扉の向こうが暗いのか明るいのかすらも判然としない。慎霰はぎゅっと目を細めて向こう側の世界を凝視した。妖や魔の類が潜んでいる気配はない。だからこそ、どこか薄気味悪かった。そこに住む者によってではなく、その世界そのものが作り出す得体の知れない気配というものが確かにそこにあった。
 だが、そのくらいのほうが憂さ晴らしにはちょうど良い。慎霰はわずかに笑みを浮かべ、ちろりと唇を舐めた。
 「あっちに行ってもらう前にいくつか説明しとくことがある」
 一輝が鷹揚に説明を始める。「扉に触ると急に眠くなるが、儀式みたいなもんだから心配しなくていい。気がついた時には夢世界に立ってる。向こうの世界は大きなひとつの塔みたいなもんだ」
 「塔?」
 「ああ。気が付くと塔の最上階のフロアに立ってるはずだ。目の前に下りの階段があるから、そこを降りていけ」
 「一階じゃなくて最上階から入るのか」
 首をひねりつつも慎霰は慎重に質問を重ねる。「ひとつ聞いときてェんだけどよ。夢の世界では俺の望むことが起こるって言ったな」
 「ああ。おまえの思うがままだ」
 「……俺が見てる夢の内容はおまえにも見えるのか?」
 それによって慎霰が望む夢の内容が変わる。だから、これだけは事前に確かめておかなければならなかった。
 彫りの深い一輝の眼がすっと細まった。こちらのことをすべて見透かしているのに、そんなそぶりをわざと見せないようにしているかのような、いけ好かない表情であった。
 「俺はゲートキーパー。ただの門番だ。向こう側で何が起こってるかなんて知ったこっちゃねえさ」
 一輝はひょいと肩をすくめ、ポケットに手を突っ込んだ。答えになっているようないないような返事だが、言葉通りに解釈するならば、一輝は夢世界での出来事を知ることはできないということになるのだろう。従って、慎霰が見た夢の内容など一輝は知り得ないということになる――が。
 一輝はまた喉の奥で低く笑い、言った。
 「気をつけろよ。望みってのは気持ちのいいもんばかりとは限らねぇ」
 「……あ?」
 慎霰はぴくりと眉を吊り上げた。同時に胸の辺りでうずくわずかなむかつき。ひどく不快なその感触の正体は慎霰自身にも分からない。だが知らず知らずのうちにその心情が表情に出てしまっていたのであろう、一輝はポケットから手を出して“お手上げ”のポーズをとってみせた。
 「そんな怖い顔しなさんな。単なる一般論さ」
 乾いた一輝の笑い。慎霰の胸の辺りでむかつきが大きくなる。だが、原因が分からないのだからどうしようもない。慎霰は無意識のうちに拳でとんとんと胸を叩き、小さく息を吸った。
 そして――ためらう様子も見せず前に出た。むんずと扉の取っ手のリングを掴む。硬く、ひやりとした感触があった。
 同時に、ぐらりと視界が揺れた。
 不意に激しい睡魔に襲われ、慎霰の足がふらつく。意志とは関係なく瞼が重くなっていく。懸命に目を開こうとするが、どうやら無駄な抵抗であるらしい。これが一輝の言っていた“儀式のようなもの”なのか。リングを掴んだ手に力を込めたわけでもないのに扉は静かに向こう側へと開いていく。軋む音すら立てずに、滑るように。まるで、扉に手をかけた者を吸いこもうとでもするかのように。
 「――Have a good dream.」
 かすかに皮肉っぽい笑みを含んだ一輝の声が聞こえる。貴人に礼をするように右腕を胸の下で折った一輝の姿をわずかに視界の端にとらえ、慎霰は糸の切れたマリオネットのようにその場に昏倒していた。



 目を開けていることすら分からないような、薄暗い場所であった。
 不可思議な感覚だった。足の下が温かいのか冷たいのか、固いのか柔らかいのかすらも分からない。虚ろな薄闇の中に慎霰はぽつねんと立っていた。ただ、体を包む空気はぬるま湯のような温度で、何だか心地よかった。
 記憶は意外にはっきりしている。あの「扉」に手をかけた途端に急激に眠くなり、気が付くとここに立っていた。ここはすでに夢世界なのだろうか? 一輝も、ポチもいない。少なくとも、先程まで立っていたオフィス北浦の室内ではないことは確かだった。
 背後を振り返ってみる。ただ、薄い闇が広がっているだけだ。扉を開けてここに来たはずなのに、扉など影も形もない。
 (なんでぇ)
 目の前で手を開閉し、さらに自分の着衣がオフィス北浦にいた時と全く変わっていないことを確認して慎霰は多少拍子抜けした。
 (現実世界にいた時と何も変わんねえじゃねぇか)
 右手で左腕をつねってみる。指に感じる皮膚の感触も、腕に感じる痛みも現実世界のそれと全く同じだ。その場で二、三度軽くジャンプしてみた。体の動きも変わらない。手を背中に回してみると、折りたたんだ翼の感触が確かにある。
 「さて、と。鍵を探せって言ってたな」
 と声に出して呟いた頃にはすっかり闇に目が慣れていた。天狗の慎霰ですら目が慣れるのに時間がかかるということは、やや特殊な闇であるのだろうか。真っ暗なわけではないのに、ごく薄いベールが幾重にもかかっているかのように視界が悪い。
 慎霰が立っているのは建物の中であるようだ。伸ばした手に壁のような物が触れる。煉瓦のような規則的な模様が見てとれた。一輝が言っていた通り、ここがすでに“塔”の中なのだろう。ぐるりと視線をめぐらしてみると、どうやらこの場所がだだっ広い円形の空間であるらしいことが認識できた。
 そして、正面には下りの階段が伸びている。
 他の場所に繋がっていそうなものは階段以外には何もない。一輝の言葉に従ってこの階段を降りるしかなさそうだ。一段目に足を下ろすとやはり得体の知れない妙な感覚があったし、足音もしなかったが、それだけだった。地に足がついているという感触だけは確かにある。思ったより普通だな、と慎霰はまた拍子抜けした。
 とん、とんと何気ない足取りで階段を下りながら辺りを見回す。両側には相変わらず煉瓦造りのような壁が続いている。階段の先には踊り場や扉のようなものは見当たらない。下へ下へと階段が螺旋を巻いているだけだ。ずいぶん殺風景な世界である。夢の世界だというのなら、もっと明るい、おとぎ話のようなパステルカラーの世界でもよさそうなものだが。
 慎霰はふと足を止めた。かすかに音が聞こえてくる。何だろう。物音や人の声とは違う。楽器の類だ。首をかしげて耳を澄ませる。これは――オルゴール?
 途切れ途切れに聞こえてくる音色はひどく緩慢だ。たとえるならば、ネジが切れる寸前のオルゴールのような。曲名は分らないが、そのゆっくりとしたテンポと素朴な単音はひどく心地よい。この空間を満たす人肌程度の室温と相まって、慎霰の鼻の奥が急にツンとした。
 まだ人間だった頃、ごくごく幼い頃に感じたもの。人間ならば誰でも、一度は感じたことのある安楽さ。
 まるで――ベビーベッドの中のような心地良さだった。
 自分を囲むたくさんのおもちゃと、そしてあたたかい家族。体に感じる人肌の空気はまるで母親の腕に抱かれているかのようで、心地よい眠気を誘う。これが自分の望みなのか、それとも望みとは関係ない、この世界独特の雰囲気なのか?
 ざわ、と胸の奥で何かがまたうずいた。同時に、慎霰の唇がかすかに、しかしはっきりと歪む。
 (関係ねぇよ。きっと誰が来てもこんな感じなんだ、この世界自体がこんな感じなんだ)
 そして湧き上がる何かを飲み下すようにごくりと喉を動かし、わざと荒々しい足取りで階段を下る。(俺はそんなこと望んじゃいねぇんだから。俺の望みは――)
 薄闇の奥に人影が揺らめくのが見えた。この塔の住人だろうか。慎霰の姿に気付くと、人影はすぐに背を向けて逃げるように立ち去ってしまう。
 「おい。待てよ」
 慎霰は小走りに階段を降り、その人物の肩を掴んだ。この塔の住人ならば「鍵」の手がかりを知っているかもしれない。
 「ちょっと聞きてぇことが――」
 「許してください!」
 相手の口から発せられたのは思わぬ言葉であった。慎霰は目をぱちくりさせて相手の顔を覗き込む。相手は初老の女性だった。慎霰に掴まれた肩をかすかに震わせながら、女性は明らかに怯えの色を浮かべて慎霰の顔色をうかがっていた。
 「何でもいたしますから」
 そして、女性はいきなり慎霰の前に膝をついた。「天狗様、どうかどうか命だけは……」
 慎霰の鼻の穴がぷくりと膨らんだ。それが怒りの表情だと思ったのであろう、女性はいっそう震え上がってその場に額をこすりつけてしまう。慎霰は女性の前にしゃがみ込み、わざと威圧的な口調で尋ねた。
 「おまえ、今なんつった? もういっぺん言ってみろ。言わねぇと痛い目に遭わせるぞ」
 「は、はい。“何でもいたしますから、天狗様、どうか命だけは”と……」
 ぷくぷく、と慎霰の鼻の穴がさらにふくらんだ。
 ……テングサマ。
 天狗様。
 天狗様、だって?
 「……くくっ」
 懸命に噛み殺したつもりであったが、低い声が喉から漏れてしまう。女性は恐る恐る目を上げて慎霰の顔を見た。
 「ぎゃはははははははは!」
 喉がのけぞるほど顔を上向け、慎霰は高らかに笑った。女性はぽかんとして慎霰を見上げている。慎霰は立ち上がり、目一杯胸を反らせて、横柄に腕を組んで女性を見下ろした。
 「そう。俺は天狗様だ」
 なんとか天狗の威厳を保とうとするが、笑いをこらえるのに懸命だった。唇が笑いの形に持ち上がってしまいそうなのを無理にこらえているためさぞかし不機嫌そうな表情に見えたのだろう、女性はまた懸命にその場に額をこすりつける。
 「おい。何でもするっつったな?」
 「は、はい。もちろんです」
 「俺は腹が減ってる。何かうまいもん持って来い。逃げたら承知しねぇぞ?」
 「はい、すぐに」
 女性は立ち上がり、一目散に駆けて行ってしまう。慎霰はわざと睨みつけるような表情でその背中を見送っていたが、女性の背中が見えなくなるとその場で笑い転げた。
 「くくっ。こりゃいいや、最高じゃねぇか!」
 慎霰の望み。それは、天狗として人間に畏れられ、人間を支配し、贅沢三昧をすること。
 ひとしきり笑った後で慎霰はさらに階段を降りる。ぽつり、ぽつりと人影が現れては消える。慎霰の姿を見るなり、皆すぐに背中を向けて逃げていくのだ。おののきと恐怖の声を残して。適当な人物を捕まえれば相手は決まって命乞い。「天狗様、どうか命だけはお助けください」と。
 「命だけは助けてほしいか?」
 そんな相手に対して、慎霰は意地悪な笑みを浮かべる。「いいぜ。命だけは助けてやる」
 「本当ですか?」
 相手は目にいっぱい涙を溜め、ただただ哀願の目を慎霰に向ける。振り上げられた飼い主の拳の下で怯える子犬のような目が、これでもかこれでもかと慎霰の性格をくすぐり、刺激する。
 「じゃ、代わりにこうだ」
 にやぁ、と笑ったかと思うと、相手の胴体が不意に膨らんだ。あっという間にはちきれんばかりまで膨張し、風船のようなまん丸の大きな球体になってしまう。
 「安心しな。命だけは助けてやるよォ!」
 高らかに笑って、慎霰は何かをはじくように指先をぴんと動かした。そのしぐさに連動するかのように相手の体はぽーんと空中に舞い上がり、そのまま風船のように飛んで行ってしまう。まん丸な体に短い手足と頭がついているさまは何とも滑稽で、慎霰はまた大笑いした。
 「天狗様……」
 「天狗様……」
 「天狗様……」
 さわさわと湧き上がるざわめき。それは明らかに畏怖の声であった。慎霰は勢いよく黒い翼を広げ、高々と舞い上がる。おお、という驚きのどよめきが起こる。先程までそこにあった階段や煉瓦造りの壁はいつの間にか消えうせ、天井すらもなくなっているようだったが、そんなことなどどうでもいいと思えるほど慎霰の心は浮き立っていた。
 デモンストレーション代わりのフライトをしばらく続けた後、空中に仁王立ちになって足元を見下ろす。どこから湧いて出たのであろうか、いつの間にか下には大勢の人間が集まって慎霰を見上げている。一様に恐怖と驚きの目をもって慎霰を見上げ、慎霰を指差し、口々に何か囁き合っている。
 ぞくぞく、と慎霰の全身を寒気が走り抜けた。それはある種の快感であった。ずっとずっと夢見ていた、ひどく心地よい感覚。足の下に集まっている連中の頭は豆粒のように小さい。簡単に踏みつぶせてしまいそうなほどに。
 「天狗様、お食事のご用意が整いました!」
 はるか眼下で女性が叫ぶ。最初に出会った初老の女性であった。見れば数人の人間が大きな食器や絨毯、円形のテーブルを運び込んでいる。慎霰は鷹揚に頷いて下に降り立った。同時に、道を開けるように人垣が両脇にきれいに割れる。慎霰はその真ん中を胸を張って進む。その先には深紅の絨毯が敷かれ、大きな円卓が設えられていた。その上に並ぶのは色とりどりの料理。大ぶりの肉に新鮮な魚にカラフルな野菜、見たこともないような細工が施されたフルーツ。慎霰がテーブルに歩み寄ると、背もたれの部分に細密な彫刻が施された重厚な椅子がすっと引かれた。小柄な慎霰には不似合いなほど背の高い椅子である。ここに座れということなのだろう。慎霰がふんぞり返って着席すると、すぐに空の食器が並べられる。給仕係たちは皆白いシャツに黒いベスト、黒い蝶ネクタイを身につけ、さしずめ高級ホテルのディナールームといった趣であった。
 「さあ天狗様、まずは一杯」
 ビール瓶を持って酌に現れたのは胸元の開いたワンピース姿の若い女性であった。結い上げられた艶やかな髪の毛とむき出しになったうなじ、鼻腔をくすぐる程良い香水のにおいに慎霰は唇をへの字に曲げる。ここまでは望んでいない、はずなのだが。まあいい、誰が注ごうと酒は酒である。もらえるものはもらっておこう。顔を赤らめてぶっきらぼうに突き出されたグラスにビールがなみなみと満たされる。慎霰は一気にグラスを空けた。その飲みっぷりに一斉に歓声が上がる。それはいかにもわざとらしいリアクションだったが――例えば、酒の席でホステスが客の言葉にいちいち大袈裟に笑ったり相槌を打ったりするような――、ともかく慎霰は満足げに鼻から息を吐き出してグラスを置いた。
 次から次へと運ばれる大皿。取り分けられる料理。次々と満たされ、空くことのないグラス。慎霰が自らの武勇伝を披露すれば、人々は皆驚き、感嘆し、畏敬の眼差しを向ける。慎霰が新たな料理や酒を所望すれば給仕たちがすぐに運んでくる。慎霰の機嫌を損ねまいと必死に低頭し、愛想笑いをたたえながら。この場にいる人間全員が慎霰に従い、慎霰を畏れ、慎霰の歓心を買うためにへつらっている。実に爽快だ。実に気分が良い。一輝に頼まれた「鍵」のことが気にかからないでもないが、もう少しこの時間を楽しんでから探しても良いだろうと慎霰は己を納得させた。
 程良く酒が入っているせいもあって気が大きくなっているらしい。慎霰はゆらりと立ち上がり、やや潤んだ目でその場を見渡した。テーブルを囲む人垣の中に、自分より二回りは年長であろう男性二人組を見つけてフンと鼻を鳴らす。
 「そこのおまえと、おまえ。出て来い」
 慎霰に指差された二人は身を震わせて一歩前に進み出た。何が始まるのかと衆目の視線がその場に注がれる。慎霰はやや剣呑な目で交互に二人の顔を見比べた。年長の男。それだけで何となくいけ好かない。
 「よぉし」
 半ばろれつが回らなくなっているが、お構いなしに慎霰は腰に手を当てて宣言した。「いいかぁ、俺様は天狗様だ。特別にてめぇらに俺様の力を見せてやるよ」
 一人称が“俺様”になっていることに首をかしげる者もいたが、それはともかくとして。慎霰は席を立って二人の男の前にずかずかと歩み寄った。下から見上げるように、まるで品定めでもするかのように二人の全身をじろじろと眺め回した後でにやりと笑う。それはやや敵意を含んだ、意地の悪い笑みであった。
 「それっ」
 オーケストラの前に立った指揮者のように両手を持ち上げ、振る。ぴーんと一本硬い針金でも通ったかのように男二人の体がまっすぐに硬直した。慎霰はそのままタクトを振る要領で両手を動かし、男二人の体を操る。二人はなす術もなく、慎霰に操られるままに抱き合い、手を握り合って、その場でタンゴを踊り始めた。どっと笑い声が起こる。恥ずかしいからどうにかしてほしい、でも自分の意志ではどうにもできないし、慎霰に逆らうのも怖い。そんな心情が羞恥に耐える二人の顔からはっきりと読み取れて、ざまあみろと慎霰は腹を抱えた。
 「てめぇらは一生そうしてな。おい、酒が足りねぇぞ! 食い物もだ!」
 二人を放置しておいて慎霰はテーブルに向って叫ぶ。「はい、ただいま」という言葉とともにローストチキンの大皿をささげ持って現れた給仕はこれまた年長の男性である。慎霰はにたりと笑い、皿をじっと見つめた。男の腕の上で皿がカタカタと震え出す。次の瞬間にはがしゃーんという音とともに皿がひっくり返り、チキンやつけ合わせの野菜が給仕の顔面にど派手にぶちまけられていた。
 「いい気味だ、ざまあみやがれ!」
 高らかに笑う慎霰。給仕の男は恨み事を言うでもなく慌てるでもなく、シャツの袖で汚れた顔を拭っている。そして膝をついたまま、悲しそうに呟いた。
 「ひどいじゃないか」
 思いがけない言葉であった。慎霰の顔から笑いが消える。先程から時々うずいていた胸のざわめきが一気に増幅して全身を貫いた。
 ずっとずっと昔、まだ人間だった頃に聞いた声。憎んで、恨んで、忘れようとして、記憶の彼方に追いやっていた、ある男の声――
 「忘れてしまったのか?」
 すうっと持ち上げられた男の顔は、慎霰の父親に瓜二つであった。



 オフィスの床に倒れた慎霰の頭の下には安物のクッションが入れられている。一輝はコーヒーのカップに口をつけながらデスクの上のクロックをちらりと見た。慎霰が向こうの世界に行ってからまだ半日も経っていない。
 「ニャア」
 慎霰の頭の脇に座っていたポチが一声鳴いた。お行儀よくお座りの姿勢をしたまま慎霰の顔を覗き込み、前肢で慎霰の頭をつついている。ポチの隣にしゃがみ込んだ一輝は軽く眉を持ち上げた。
 慎霰の顔がかすかに歪んでいる。眉を中央にきつく寄せて、まるで――悪い夢でも見ているかのように。
 「望みってのは気持ちのいいもんばかりとは限らねえからな」
 先程口にした台詞をもう一度繰り返し、一輝はポチの頭に手を置いた。「なぁポチ?」
 ポチは答えずに、金色の瞳でじっと慎霰の寝顔を見つめているだけだった。


 その瞬間、すべてが霞のようにすっと消えうせた。テーブルも、そこに並ぶ料理も、それを囲む人々も。ただ、慎霰とその男のみが残された。
 二人の周囲を覆うのは乳白色の濃密な靄。ひどく視界が悪い。夢でも見ているのではないかと懸命に目をこするが、元々夢の世界に来ているのだから覚めるはずもない。いっぺんに酔いが吹っ飛んだ慎霰は、ただ茫然として父親似の男と対峙していた。
 「済まなかった」
 男はいきなり慎霰を両腕に抱き締めた。強く、強く。とっくに忘れていた、忘れたと思っていたにおいと体温が慎霰を包み込む。己の意志とは関係なく、慎霰の全身から自然と力が抜けていく。
 「よかった。無事でいてくれたんだな。こんなに大きくなって……」
 慎霰を抱き締めたまま男はぼろぼろと涙をこぼす。口から次々と紡がれるのは謝罪の言葉。その声は明らかに震えていて、時折嗚咽のようなものさえ混じっている。慎霰はただぼんやりとしてその言葉を聞くしかない。
 「帰ろう。みんなが待ってる」
 その言葉に呼応するかのように、靄の向こうに人影が現れる。母によく似た女性の姿、そして、家族に似た者たちの姿。大きく見開かれた慎霰の瞳が激しく揺れる。しかし次の瞬間、慎霰は渾身の力を込めて男の胸を突き飛ばしていた。
 「何をするんだ」
 しりもちをついて慎霰を見上げる男の目。父親そっくりの彼の双眸には戸惑いと悲しみの色が浮かんでいる。慎霰はぎりっと歯を鳴らし、ぶるぶると拳を震わせながら叫んだ。
 「どういうつもりだ! こんなの、なんで――」
 言葉が続かない。ひどく動揺しているのが自分でも分かる。しかしそれが情けなくて、悔しくて――何より、狼狽しているという事実を認めたくなくて、慎霰は現実世界にいる一輝に怒鳴るかのように喚き立てた。
 「なんなんだよこいつは! 俺の望むことだけが起こるって言ってたじゃねえか! 俺は……俺は、こんなこと望んじゃいねえのに!」
 望んでいないはずだった。それなのに、心のどこかで渇望していたとでもいうのか。望んでいることを否定したくて、そこから目を背けたかっただけだとでもいうのか? 失った人間の時の家族を欲し続けて、でもそれを己に認識させることはひどく不快で苦痛だから、気付かないふりをしていただけだとでもいいたいのか――?
 すでに忘れてしまっていた記憶。覚えていることすら、否定したい傷。
 かつて慎霰は人間であり、天狗に攫われたことによって天狗となった。天狗の腕に抱えられ、助けを求めて泣き叫ぶ慎霰を、父親は守ってはくれなかった。
 父は慎霰を見捨てたのだ。
 そんな家族など、誰が望もう。
 それなのに。
 ……それなのに。
 父の顔をした男に“帰ろう”と言われて、“みんなが待ってる”と言われて、懸命に涙をこらえている自分は何なのか?
 「畜生! こんなの嘘だ、全部嘘っぱちだ!」
 慎霰はただ叫んだ。頭を抱えて、子供が嫌々をするように激しく首を左右に往復させながら。甲高い叫び声は濃密な靄に緩慢に反響し、長い残響を伴って消えていく。と、不意に男の両手が慎霰の肩をそっと包み込んだ。泣きじゃくる我が子を落ち着かせようとするかのように。思いがけないほど温かく大きな手の感触に、慎霰の体が高圧電流にでも触れたかのようにびくっと震えた。
 「許してほしいだなんて言わない。おまえを守ってやれなかったことは、どう謝っても償われることじゃないんだから」
 優しい、父親そっくりの声が頭の上から降ってくる。慎霰はのろのろと顔を上げた。相手の顔は濃い靄のせいではっきりとは見えなかったが、唇が笑みの形を作っていることだけは見てとれた。
 「でも、これからみんなでずっと一緒の時間を過ごすことはできる」
 慎霰の唇が決定的に歪む。父の顔をした男は涙を流し、再び慎霰をきつく抱き締めた。
 「ずっと一緒に暮らそう。今まで離れていた分の時間を取り返させてほしい。お願いだ……」
 ぶらんと下ろされたままになっている慎霰の腕がぴくりと震えた。おずおずと持ち上がったためらいがちに両手が相手の背中に回されようとした、その瞬間。
 男が、言った。
 「ずっと一緒に、この世界にいよう。おまえもここにいたいだろう?」
 男のの胸の中で、慎霰の眉がかすかに動いた。
 半分だけ持ち上がった腕がその場で動きを止め、一瞬だけ間を置いた後で、元のようにすとんと下ろされる。
 ――確か一輝が言っていた。「夢の世界で楽しんだ後にある質問をされるから、それにイエスかノーのどっちかで答えろ」と。
 すっかり忘れかけていた。
 この場所はあくまで夢であって、現実ではない。
 自分は一輝に頼まれて鍵を探しに来ただけ。
 それだけだ。
 慎霰は下ろした両手を相手の胸に突っ張り、先程と同じように突き放した。
 「ノー、だ」
 そして正面から男を見つめ、はっきりとそう言った。その答えを導き出すために要した時間はほんのわずかであった。
 「いたいことはいたいけど。さっきみてぇな楽しいことも起こるんだろうし」
 「それならずっといればいい。ずっと一緒にいて、楽しい思いをすれば――」
 「ずっといたいとは思わねえ。三日くらいで飽きそうだしよ」
 慎霰は父によく似た声に言葉をかぶせた。「鍵を探して現実世界に持って帰らなきゃいけねぇし。何より、ここは他の奴らがいねぇから不満だ」
 相手は無言で慎霰を見つめている。それに、と慎霰は小さく息を吸って続けた。
 「――たとえ夢でだって、俺はこんなことなんか願ってねえんだから」
 かすかに目を揺らしながらも、きっぱりと言った。宣言するように。父によく似た目の前の男に、そして自分に言い聞かせようとするかのように。
 しばし、静寂が二人の間を支配した。
 「そうか」
 やがて、男はたった一言そう言った。「分かった」
 その姿が慎霰の目の前からすっと遠のく。おい、と声をかけた時には父の姿は濃い靄に隠れ、おぼろげなシルエットしか見えなくなっていた。
 <ありがとう>
 そして、全く別の声が遠くから響いてくるように聞こえてきた。耳朶を打つその声は中年には成人男性のものであったが、どこかで聞いたことがあるような気がする。いや、正確には“以前どこかで聞いた誰かの声に似ている”と言ったほうが適切か。しかし、どこの誰かに似ているのかは思い出せない。
 <よくおっしゃってくれました。あなたが帰るべき場所は現実世界。この世界じゃありません>
 「あ? 誰だてめぇ?」
 いるともいないとも分からぬ声の主に向かって慎霰は言う。相手の姿が見えないのはこの靄のせいとばかりは思えない。だが、相手がかすかに笑う気配が感じられた。
 <あなたに僕の願いを託します。これは僕の賭け……あちらの世界に、伝えてください>
 何わけのわかんねぇこと言ってんだ、と言いかけた時であった。
 足元に靄が這い寄り始めた。一層濃く、重い靄であった。靄は音もなく這い上がり、慎霰の脚を、腰を、腕を、あっという間に埋めていく。振り払っても振り払っても靄は晴れない。危険なものではなさそうだが、靄に包まれていくにつれてひどく眠くなるのはどういうわけか。意志に反して瞼がどんどん重くなり、全身から力が抜けていく。
 「ちょっと……待てってば」
 既にろれつが回っていない。懸命に目をこすりながら慎霰は抗うように低く呻く。
 「鍵……鍵を探さなきゃいけねぇんだ。北浦って奴に……こっちからあっちに戻るための……」
 <大丈夫です。鍵は既にあなたの中にある>
 声の主である男はそっと微笑んだらしかった。その言葉の意味を問うことも声の主を確かめることもできず、慎霰は崩れるようにその場に倒れ込んだ。




 何かが頭をつつく感触で徐々に意識が戻っていく。背中の下には固く冷たい感触があった。次に、頬の辺りを往復するざらざらとした感触。紙やすりでも当てられているかのようだ。だが紙やすりにしては変に生温かい。ゆっくりと目を開くと、ポチの顔が目の前にあった。
 「うわっ」
 思わず飛び起き、後ずさる。ポチはのそのそと後ろに下がって一輝の足元にまとわりつき、心配してやったのにその態度は何だとでも言いたげなふてくされた顔で慎霰を振り返る。ポチが自分の頭をつつき、頬を舐めていたのだと慎霰はようやく気付いた。
 「よぉ」
 ポチを抱き上げて、一輝が慎霰の前にしゃがみ込む。「いい夢見られたかい?」
 にやり、とした笑い方。何もかも見透かされているような気がして慎霰はじっと一輝を睨みつけ、毒づいた。
 「最初はな。でも最後に気に食わねぇもんが出てきた」
 そして勢い良く立ち上がった。デスクの上に置いてある日付表示付きのクロックを見やると、このオフィスを訪れてから半日ほどしか経っていないことが分かった。軽く腕を振り、体を動かしてみる。体のどこにも異常はない――と思ったのだが。
 「何だぁ?」
 胸の辺りがぼんやりと光っていることに気付いて素っ頓狂な声を上げる。服の下に手を入れてみるが、自分の胸板の感触があるだけだ。痛くもかゆくも、熱くも冷たくもない。もちろん傷などもついていない。ただ光っているだけのようだ。
 「でかした」
 一輝はかすかに唇の端を持ち上げ、慎霰の胸の前に左手をかざした。
 光が強くなったようだ。暖色系の、白熱電球の明かりのような色の光。輝きを増した光は静かに慎霰の胸の上を離れ、掌に乗るほどの小さな球体を形作り、やがて――その中に、持ち手が三つ葉のクローバーの形をした鍵が現れた。
 ポチの瞳孔が大きく見開かれる。光が消えると一輝の手の中に音もなく鍵が落ちた。一輝が所持している「表の鍵」と同じデザインのものである。「表の鍵」は茶色に近い錆びた金色をしているが、こちらはくすんだ銀色であった。慎霰は幾度も目を瞬かせながら一輝の手の中を見つめるしかない。
 「裏の鍵、だ」
 銀色の鍵を慎霰の鼻先に差し出し、一輝はにやりと笑ってみせる。「さて、ここからが本番」
 チェーンから「表の鍵」を外して、「裏の鍵」と一緒に手の上に並べてみせる。タネもしかけもないことをアピールするマジシャンのように手を開いて慎霰の前に示した。
 一輝の手がぎゅっと握られる。閉じた指の間から細い光の筋が漏れた。そして開いた手の中からは、持ち手が四つ葉のクローバーの形をした金色に光り輝く一本の鍵が現れた。慎霰はぽかんとして一輝の顔と鍵を交互に見比べた。
 「これが“鍵”の本当の姿さ」
 一輝は金色の鍵をスラックスにつけたチェーンに取り付け、言った。「表の鍵と裏の鍵は二本でひとつ……一体のものなんだ。助かったぜ、感謝してる」
 「ちょっと待てよ。俺ァ鍵なんか持って帰って来てねぇぜ? 急に眠くなって、それで気が付いたらここに戻って来てて――」
 「質問に何て答えた?」
 「あ?」
 「聞かれただろ? このままずっと夢世界にいたいか、みたいなこと」
 「ああ、あれか。いたいことはいたいけど、すぐ飽きそうだからずっとはいたくないって答えたよ」
 「正解。よくできました」
 一輝は軽い拍手とともに半分おどけて言った。幼稚園児をほめる優しい先生のような言い方で。小馬鹿にされたような気がしてむっとした慎霰だったが、文句を言う前に一輝が口を開いていた。
 「それが夢から現実へ戻ってくるための“裏の鍵”だ」
 一輝は拳の背で慎霰の胸をとんと叩く。「俺が持ってる鍵はゲートキーパーが扱いやすいように具現化されたただの器。本当の鍵はおまえのここにある」
 言わんとすることが分からずに、慎霰は眉根を寄せて一輝を見上げる。頭を使うのはあまり得意ではない。一輝は「だから」と笑って続けた。
 「夢はあくまで夢。帰るべき場所は現実。人の“現実世界に帰ろう”っていう意志こそが、こっちへ戻ってくるための鍵ってことさ」
 慎霰は「あ」と声を上げた。こちらの世界に戻ってくる直前に聞こえたあの男の声が脳裏に蘇る。“鍵は既にあなたの中にある”。あの言葉の意味が、やっと分かった。
 「……っつーかよ」
 あることに気付いて慎霰は斜めに一輝を睨む。門番である一輝自身は夢の中に入ることができない、だから代わりに慎霰を行かせた。それはよしとしよう。だが、“鍵”となる答えが分かっているのなら、なぜ最初にそれを教えてくれないのか?
 慎霰が考えていることを察したのか、一輝はひょいと肩をすくめてみせた。
 「俺が答えを教えたんじゃつまんねえだろ? 憂さ晴らしなんだからそのくらいのほうが面白いじゃねえか」
 さらりとした表情でうそぶく一輝に、慎霰は頭にかっと血を昇らせた。
 つまらないとか面白いとか、そういう問題か? 単純な二者択一とはいえ、もし答えを間違っていたら永遠に夢の世界から帰って来られなくなったかもしれないというのに?
 「この野郎! 最初から――」
 「おっと。冗談だよ、ムキになるな」
 怒りまかせに突き出された慎霰の拳をいなし、一輝は声を上げて笑った。「あの質問の答えは、おまえが自分で考えて出した結論じゃなきゃ意味がねえのさ。それより」
 慎霰の拳に手をかぶせ、押し戻しながら一輝は話題を転換する。「約束はどうする?」
 「約束?」
 「おまえが言い出したんだろうが。“夢がつまんなかったら飯おごれよ”って」
 ああ、と慎霰は生返事をして拳をおさめた。
 夢はつまらなかったわけではない。楽しい思いを存分に味わうこともできた。しかし――釈然としない何かが、胸の裡でまだわずかにうずいている。
 「おごれ。つまんなかった」
 だが考え込んだのも一瞬で、すぐに慎霰は胸を反らせてそう言った。夢の内容など一輝には分からないのだからどうにでもなる。それに、夢の内容が不満だったことも確かだ。本当にそれを望んでいないから不満なのか、目を背けたい本心を衝かれたから不満なのかは別としても。
 「大した食欲だな。夢の中で飲み食いしたってのに」
 「そうだけどよ。やっぱ夢は夢だな、そんなに腹は膨れ――」
 何気なく答えた後で慎霰ははっとする。――なぜ夢の中で大量に飲食したことを一輝が知っているのだろう?
 「見たのか? おまえも? 俺の夢はおまえには見えねえって言ってたじゃねえか」
 激しく目を瞬かせ、咳込むように尋ねる。一輝はふふっと笑って両の掌を天井に向けてみせた。
 「夢の内容自体は俺には見えない。だが、夢世界に行ってる間もおまえの肉体はこっちに残ってるからな。寝顔やしぐさなんかを見れば大まかな夢の内容は想像がついちまうんだよ」
 「てめ……話が違うじゃねぇか!」
 「ほう。人に見られたくないような夢でも見てたのか?」
 底意地の悪い台詞に慎霰は口をつぐむ。一輝はひとつ笑い、「安心しろ」と慎霰の頭に軽く手を置いた。
 「何をしたかとか誰が出て来たかとか、そこまでは俺には分からねえ。誰にも知られねえほうが楽しめることだってあるからな」
 わずかな汗と整髪料、スーツのにおいが入り混じった“年長の男のにおい”。そして、大きくて温かい手。
 歳の離れた男はやはりいけ好かない。反発や不快感のようなものさえ覚えてしまう。
 しかし――唇をへの字に曲げた慎霰は、頭に置かれた一輝の手を振り払うことはしなかった。(了)





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 1928/天波・慎霰(あまは・しんざん)/男性/15歳/天狗・高校生





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■         ライター通信          ■
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天波慎霰さま



たいへんご無沙汰しております、宮本ぽちです。
ご注文まことにありがとうございました。
個別受注ページにてお知らせしておきながら、修正のため納品が遅れまして大変失礼いたしました…。

「夢現の塔」第一話はこれでゲームクリアです。(今後はオフィス北浦の扉から夢世界と現実世界を自由に行き来できます)
また一輝にお力をお貸しくださる日が来ることを願っております。
今回のご注文、重ねてありがとうございました。
ちなみに、一輝は寝顔やしぐさから夢の大まかな内容を推測しただけで、具体的な中身までは彼には見えていないのでご安心くださいね。


宮本ぽち 拝