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<東京怪談ノベル(シングル)>


其ノ全テガ 「日常」トシテ


 薄い雲に覆われた冬空に、ゆっくりとしたテンポでチャイムの音が響き渡る。
 そして、校門から飛び出してきたのは子供達の姿。
「バイバーイ」
「また明日ねーっ」
 明るい声を弾ませながら、小さな手を互いに振り合い、背負った鞄を揺らし家路を目指す――何処にでもある、ありふれた下校風景――そんな光景の中に、その少年の姿があった。
「御崎クン、またねっ」
「ああ、またな」
 級友の挨拶に対し、ぶっきらぼうに一度だけ手を振ると、その少年――御崎・月斗は子供らしからぬ鋭さを宿した目を、左右に伸びた通りの右側に向け、そしてそちらへと歩き出す。
「あれ? お前ん家そっちだっけ?」
 背後から、また別の級友の不思議そうな問いが飛んできた。
 月斗は振り返りもしない。
「今日はこっちでいいんだよ」
 不機嫌とも取れそうな程に抑揚の無い声でぼそりと云い放ち、後は構わず早足で、彼にとっては「日常」の一分類に過ぎない学び舎を後にする。
 真直ぐ前を睨み据えた瞳、
 一文字に引き結ばれた口元、
 人を寄せ付けぬ程に張詰めた空気を小さな全身に纏わせ、
 月斗の足は迷う事無く、ある場所を目差し進み行く。
 その場所には、先ほどまでの「小学生」としてではない、もうひとつ別の立場での「日常」が、彼の到着を待ち受けていた。


□■□


 そのビルは、かつて幽霊が出るとマスコミに騒がれた事があったのだそうだ。
 騒がれる以上は勿論多少の由来があったのだろうが、興味本位の報道と、それを真に受けた多数の野次馬と――そんな者達の目の前で、彼らの期待するような変事は何も起こらず、やがてそのビルの存在は、人々の記憶から薄れ消えていった。
「結局、あーいう連中の『心霊スポット認定』は、雰囲気とか状況証拠だけだからな」
 何も無い場所に、こじつけだけでありもしない霊の姿を作り上げ、勝手に騒ぐのはよくある事だ。珍しくも無いと、月斗は鼻の先で笑い飛ばす。
 だがしかし……
「そんなに見たけりゃ、今が絶好のチャンスなのにな――まぁ、『仕事』の邪魔になるだけだから、俺は歓迎しないけどよ」
 そんな騒動から一年近くが経過した今、月斗が足を踏み入れたその廃ビルには、異質なものの気配が渦巻いていた。
 薄ら寒さ、そして息苦しさを感じさせるそれは、人の放つ気配ではない。「かつて人であったもの」の念である。怒り、或いは怨み――そうした負の感情に死して後も支配され、未だ現世に留まり続けているものの念……一般に、「悪霊」と呼ばれているものの気配だ。
 そして、その気配が月斗の気のせいなどではなく、確かにこの場に存在している事は、眼前の光景が証明していた。
 埃の積もったリノリウムの床。
 クロスの剥げた汚れた壁。
 煤けたステンレスのサッシ。
 踏み入ったビル内の随所に飛び散って見えるのは、赤茶けたしみである。
 ――血の跡だ。
「この三ヶ月で五人……だったっけか?」
 ここで見付かった変死者の数を、月斗はふと思い出す。無論警察の捜査は入ったし、現場検証を終えた後に血痕は拭われたであろう筈なのだが、それでもこうして拭いきれない痕跡が無数に残っているという事は、被害者達の流したは血は相当な量だったのだろう。
 そして、警察の捜査にも関わらず、事件の真相は未だ解明されていない。
「まぁ、警察の手に負えるのは、生身の人間が起こした事件だけだからな」
 これは生者の起こした事件ではない。
 故に彼らに解決など不可能。
 これは俺の仕事だ。
 ――月斗の呟きは、言外にそう告げている。
「さて……残りカスにかまけてるヒマは無いな」
 内懐に忍ばせていた符の一枚をゆっくりと抜き出すと、月斗は足元の血痕から視線を外した。元より、彼にとってそんなものは、最初から興味も意味も無かったのだ。単に状況の確認のために視界に入れただけ。このビルの何処かに何かが潜み、それが善からぬ念に支配されている事は、陰陽師としての本能が、とうに感じ取っているのだから。
 彼が「仕事」に取り掛かるための情報としては、それで充分。
 たとえどれ程の血がこの場に残されていようとも、そんなものはつまらない絵画と同じだ。
「さっさと片付けるか」
 惨劇の証拠にはもはや一瞥もくれず、抜き出した符をいつでも放てるようにと構えながら、がらんとした廃ビルの中を、月斗は更に奥へと進んでいった。ビル全体に澱み漂う異質の気配の、その源を探して……
 そして――暫しの探索の後、彼が足を止めたのは、一枚の扉の前だった。

『管理人室』

 横にカウンター式の小窓を備えたその扉には、そう書かれたプレートが取り付けられたままになっている。
 壁際に張り付くように身を隠しながら、そっと小窓から中の様子を覗いてみるが、人の姿や先ほど目にした赤茶けた絵画のようなものは、ここには一切見当たらない。
 だがしかし、この場所から放たれる瘴気は他とは比較にならない程で、ここが全ての根源となっている事は、もはや疑いようが無かった。
(借金のカタにこのビルを手放す事になって、それで絶望してここで首を吊ったんだったな……)
 今回の依頼人であるこのビルのオーナーから聞かされた話が、脳裏をよぎる。
 前のオーナーの末路だ。
(ふん……そういう事か)
 何かを納得したように、月斗は軽く鼻を鳴らした。しかし、すいと細められたその目には、感情らしきものはさして浮かんでいない。辛うじて読み取れるものがあるとすれば、それは「呆れ」ぐらいであろうか。
(手放す事で絶望するぐらい愛着のある場所だったんなら、何でそこを血で汚すような真似をするんだか……)
 吐き捨てるような胸中の呟きと共に、軽く肩がすくめられる。
 右手に符を構えたまま、月斗の左手が静かにノブを掴みしめた。
 ゆっくりと、回してみる――どうやら鍵はかかっていないらしい。
「……」
 目を閉じ深く一呼吸すると、そのまま彼は扉を開けた。


□■□


 事件と呼ばれるものが起こる時、そこには因子となる出来事や、或いは動機が存在するものである。たとえそれが、死者の霊が起こしたものであっても同様だ。死してなお現世に影響を与えようとするのは、なにがしかの執着が現世に対して残っているからに他ならない。
 しかしそうした因子や動機は、月斗にとってどうでもいい事だった。
 依頼を請けた以上、彼にとって霊とはあくまで浄化の対象。その対象の事情をいちいち考慮する事は、仕事の妨げにしかならぬであろう。
 故に、彼としてはここで訊ねるつもりも語らうつもりも無かったのだが、相手の事情を考慮に入れないという点については、「向こう」もまた同じらしかった。
『あいつの……全ては、あいつのせいなんだ……』
 青白い炎を周囲に纏い、ゆらりと眼前に浮かび上がった顔――自殺したこのビルのかつてのオーナーの霊――は、未だ残る現世への怨念を、月斗に向けて語りだす。
『家だけじゃない、パート先にまで取り立てに来られて、女房も耐えられなくなってた――息子だってそうだ。学校帰りを待ち伏せて、“親父さんの借金はいつ返してもらえるんだ”なんて……友達も居る前で云うような事じゃないだろう?』
 絞り出すようなその声は、生前に受けた仕打ちへの怒りに震えている。
 だが、それに対する月斗のいらえは、ひどく無感情なものだった。
「そうは云っても、そんな取り立てされるまで借金を返さなかったのは、あんただろ?」
 にべも無く、云い放つ。
『ああ……それは確かにそうさ。だけど、あと半月あれば、充分返済できるだけの金が手に入る筈だったんだ。だからもう半月待ってくれと、俺はあいつに何度も頼んだ。それなのに――』
「待てない、今すぐ返せ……ってワケか」
『そうだ。俺の頼みを突っぱねた上で、あいつは“返せないならこのビルを寄越せ”と――』
 声音に含まれた怒りが更に明らかなものになるのと合わせ、取り巻く炎が激しくなる。
『最初から、それがあいつの狙いだったんだ! 五年後の新駅完成に合わせ、このあたりの地価は上がり始めてる。上がりきる前にここを手に入れ、美味い汁を吸おうとしたんだ。あの男は!!』
 己を追い詰め、あまつさえ死に追いやってこのビルを手に入れた人物に向けての憎悪で、霊の顔が醜く歪む。その人物とはつまり、現在のこのビルの持ち主――即ち月斗の依頼人だ。
「つまり、あんたがここで何人もの人間を殺したのは、それに対する復讐――ってわけか」
 しかし、そんな事実を聞かされてもなお、月斗の顔に格別の感情が浮かぶ事は無かった。自分の依頼人がどんな人物であったのか、どのような所業の末にこのビルを手に入れたのか――それすらも、彼とすれば考慮の必要の無い「因子」に過ぎないのである。
『ここで騒ぎが続けば、このビルの価値が下がるだろう? ここは俺が二十年も働いてようやく手に入れた場所だったんだ。あいつの思い通りになどさせてたまるか!』
「……そういう事かい」
 語り続けるにつれ霊の興奮が高まってゆくのと対照的に、月斗の言葉は更に醒めてゆく。
 そして――

「――それが、どうした」

 ことさらに冷淡な一言が、ここまでのやり取りの一切を、ばっさりと切り捨てた。
「俺は別に、あんたのごたくを聞くために来てるわけじゃ無ぇんだよ」
 これ以上話をする気は無い――宣言すると共に、ずっと構えたままで居た符を、素早い動きで宙へと放つ。
 月斗の手を離れた符が、瞬間強い光に包まれた。そしてその光が薄らいだ時、そこに在ったのは符ではなく、紅蓮の炎を背負いし十二人の神将の姿――
『お……お前はあんな奴の肩を持つのか!?』
 彼が何をしようとしているのか、流石にそれは察しがついたらしい。眦が張り裂けんばかりに血走った目を見開きながら、対峙する霊が声を振り絞る。
「俺は誰の肩も持たねぇよ――勿論、あんたの肩もな」
 激しい詰問の言葉に対し、月斗が向けた眼差しは静かなものだった。しかしその静けさの奥には、確固たる意志に支えられた、射るような鋭さが潜んでいる。
「依頼を請けたから遂行する、それだけの事だ」
 仕事として関わる以上、そこにどのような因子や動機があろうとも、誰に対しても肩入れは無用――たとえ冷徹と取られようとも、それが月斗の信念だった。
「あんたひとりに十二神将まで引っ張り出すのは大袈裟かも知れねぇが……こっちも急いでるんでな。手早く片付けさせてもらうぜ」
 憎悪の視線に怯む事無く、むしろ正面から受け止めながらの言葉。
 そして、彼は右手を振りかざした。


□■□


 さいぜんまでこの場に満ちていた瘴気が、一瞬のうちに薄らいでゆく。
 怒りも、怨みも、そしてそれらを抱えたままここに留まり続けていたものの姿も、今はもう何処にも無い。
 請負った仕事が果たされた事を確認すると、月斗は大きく一息吐き出した。果たしてそれは安堵の吐息か、それとも別の意味を持つものか――表情から窺い知る事はできなかったが、直後に口をついた呟きには、しんみりと、わずかな感情が滲んでいた。
「口惜しかったんだろうな、あのオッサン……口惜しくて、歪んじまったんだな」
 そしてまた、一息。
 対象の事情は考慮せぬ、誰に対しても肩入れはせぬ、それを信念としていても、やはり、何も感じないというわけではないらしい。
 しかし、胸の内に浮かんだ感情を、月斗がはっきりと表にあらわす事は無かった。陰陽師である以上、こんな事は日常的である。何を見ようと何を聞こうと、それに揺れてなどいられない。己の御し方ならわかっている。
「さて、仕上げといくか」
 何かを振り払うように軽く幾度か頭を揺らすと、ポケットから黒い携帯電話を取り出しナンバーを押す。相手が電話口に出る頃には、月斗の声音はすっかり元通り、無感情なまでに醒めたものへと戻っていた。
「――ああ、全部終わったぜ。『今回の』仕事は完了だ」
 今回の――そこに微妙なアクセントを置いた彼の報告に、依頼人は上機嫌な笑い声を返してくる。
『そうかそうか――いや、ご苦労だったな。不動産屋とも既に話をつけてたんで、ここで解決してくれなかったらえらい事だった。ああ、本当にご苦労さん。謝礼の方は明日振り込んでおくんで、これでお互いめでたしめでたしだな』
 一方的なまくし立て。
 そしてプツリと通話が終了する。
「――呑気なもんだぜ」
 刹那、月斗の口元に浮かんだのは、呆れを交えた小さな苦笑だった。
「あの様子だと……」
 恐らく、こちらが告げた言葉の中にあった「含み」など、全く気付いていない事だろう。
 このビルを手に入れるため、あれほど強引な手段を用いたような依頼人だ。きっとここ以外でも、方々で似たような事を行っているに違いあるまい。その数は定かではないが、相当の恨みを買っているであろう。
 今回ここで生じた恨みは、月斗によって浄化されたが、いつまた別の恨みが頭をもたげるかはわからない。笑っていられるのも今のうち――そんな可能性もある事に、間違いなく依頼人は気付いていない。これを呑気と云わずして何と云おう。
 だが……
「ま、俺が忠告してやる事でもないよな」
 与えられた責務は既に果たし終えている以上、あえてこちらから世話を焼いてやらねばならない理由は何処にも無い。再び依頼があれば話は別だが――とりあえず今はまだ、月斗が関与する必要の無い事である。
「さて……と」
 顔を上げると、汚れた窓ガラスの向こうには、すっかり陽の落ちた街の景色が広がっていた。
「早く帰って、晩飯の支度しねぇと……ちょっとでも遅れると、あいつらうるさいからなぁ」
 家のドアを開けるなり、笑顔と共に「腹減った」の大合唱で自分を出迎えるであろう顔が、脳裏に浮かぶ。
 そして、月斗は駆け出した。
 静寂に包まれた無人のビルを後に、
 陰陽師でもない、
 小学生でもない、
 兄として、家族を守り支えるものとしての日常が待つ場所を目差して――