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<東京怪談ノベル(シングル)>


  「犬にしか見えない少女」

 いつもと同じ、朝のはずだった。
 自宅で目覚ましの鳴る少し前に起きて、眠たい目をこすりながら顔を洗いに洗面所へ向かう。
 妙なところなんてないはず。
 だけど鏡の中にいたのは……いつもの青く長い髪をした少女の姿ではなかった。
 ――大型犬!?
 ふさふさした白い毛並みのピレネー犬が、洗面所に前足をかけている。
 あけた口には牙が並び、赤い舌がでろりと垂れる。
 みなもは、恐る恐る、自分の顔に手を当てた。
 その感触はいつも通り。手足を見ても、すらりとした人間のものだ。
 だが、目の前の犬も顔でもあらうかのように前足を顔に当てる。
 まるで目の前にいる彼女の所作を真似ているかのように。
「お父さん! お父さん、こっち来て!」
 みなもは逃げるように洗面所から転がり出ると、必死になって叫んだ。
 廊下を駆け回っていると、父親の姿が見えたのでみなもは勢いよくすがりつく。
「鏡が変なの。あたしの姿の代わりに、大きな犬が映るのよ」
 洗面所の方を指さし、そう訴える。
「……なんだ、どうしたんだお前。どこから入った?」
 ――え?
 信頼する父の口から、耳を疑うような言葉が吐き出された。
「勝手に家の中に入っちゃいけないよ。悪いけど出ていってもらわないと。娘が飼いたいなんて言い出しても困るからね」
 そっと頭を撫で、温厚な笑みと口調で、実の娘を追い出そうとする父。
「何言ってるの? お父さん。冗談はやめて。あたしよ、みなもよ!」
 何度叫んでも、効果はなかった。家の外に追いやられ、ばん、とドアを閉ざされる。
「お父さん!」
 ガチャガチャとノブを回すが、鍵も閉められているようだった。
 まだ、服も着替えていないのに……。
 恥ずかしく思って身を縮めるが、通りすがる人たちは少しも気にした様子はなかった。
「あ、わんちゃん」
 幼い少年がみなもに手を伸ばし、母親に止められる。
 犬? あたしが? どうして……。
 鏡の中に映った白い犬の姿が頭に浮かぶ。
 だけど何度見直しても、自分の手は確かに肌色で五本の指がある人間のもの。
 髪の毛だってちゃんと青く長いものがあるし、服だって……。
 靴もなく、裸足のままで歩くアスファルトはゴツゴツしていて痛い。
 みなもは涙を拭いながら、途方に暮れていた。
 そうだ、学校に行こう。
 通りすがった公園の時計を目にして、みなもは思った。
 パジャマで行くのは気が引けるけど、仕方がない。
 学校まで行けば、先生や友達がいる。
 きっと何とかなるはずだと、期待を胸に通学路を駆けて行った。


 校門をくぐったところで、ちょうど制服姿の友人が前を通り過ぎる。
「おはよう」
 声をかけると、キャッと声をあげられ、慌てて逃げ出される。
「やだぁ、私犬って苦手なのよ〜」
 他の友達に駆け寄り、こちらを振り返りながら眉をひそめる友人。
「わ、でっけー犬」
「野良犬かなぁアレ。飼い主見当たらないけど……」
 立ち止まるみなもの横を通る学生たちが、てんでに声をあげる。
 集団イジメにでも遭っているようだった。皆で口裏を合わせているとしか思えない。
 でも、それじゃお父さんも? 通りすがりの小さな子供も?
 あの鏡は何。そう映るように細工をしていたとでも?
 みなもは靴箱に行くよりも先に、中庭に回って池の中を覗き込む。
 鏡に細工はできても、水面ならば紛れもない事実が映るはずだから。
「……そんな」
 だけど、そこに映ったのはやはり、鏡に映ったのと同じ大きな白い犬の姿だった。
 池を覗き込んでいたみなもの肩を、ガッと誰かがつかんだ。
「いた……っ」
「どこから入ったの! 早く出て行きなさい!」
 生活指導の先生が叫び、襟首をつかんで引きずるように強く引っ張る。
 厳しい人ではあるが、優等生のみなもは今まで怒鳴られたことなど一度もなかった。
 ましてや、こんな風に乱暴に扱われるなんて。
「ま、待ってください先生、苦し……っ」
 首が絞まり、倒れこんで膝をすりむく。
 それでも尚、手を緩められることはなく必死になって声をあげた。
「先生、可哀想ですよ。迷い込んだだけで、悪さをしたわけじゃないんですから」
 女性教師を引き止めるように、男性教師が声をかける。
「なぁ」
 座り込んで倒れたみなもに視線を合わせると、その頭を優しく撫でる。
「よしよし。うん、いい毛並みだ。首輪はしていないけど、きっとどこかの家の飼い犬ですよ」
 それでも、やはり彼の目にも自分は犬に映っているようだった。
「こんな大きな犬を野放しにするなんて困った飼い主だわ。子供たちに襲いかかったらどうするつもりかしら」
「まぁまぁ、大きな犬ほど性質はおとなしいものですよ。でも怖がらせるのは確かでしょうから、早いとこ連れ出しましょうか」
 またしても、みなもは追いやられ、学校の外へと押し出される。
 パジャマ姿のみなもは、泣きながら校門の柵にすがった。
「先生! あたしです、海原 みなもです。わかってください。あたしは、犬なんかじゃありません!」
「そんな哀しそうに鳴くなよ。残念ながら餌は持ってないんだ」
 自分は確かに人間の言葉を発しているはずなのに、届かない。
 全てのものから、人間である自分を否定されているようだった。知り合いや通りすがりの人だけじゃない。
 鏡や、慣れ親しんだはずの水さえも。
 自分の耳に入る言葉も目に映る姿も、明らかに人間のものなのに。
 ドアノブや柵をつかんだり、今だってちゃんと二本の足で歩いているのに。
 一体どうして、犬に見えたりするんだろう。
 大体、パジャマを脱いだらどうなるっていうの? まさか毛皮を脱ぐわけじゃないだろうけど。
 そう思うけど、試してみる気はさすがになかった。
 

 とぼとぼ道を歩くうち、空腹を覚えた。
 いつもならとっくに朝ごはんを食べている時間なのに、何も食べずに歩き回っているからだ。
 仕方なく、みなもは近くの公園に入って水を飲む。
 ついでにすりむいた膝や汚れた足も洗い流した。
 足の裏は、たった一日でひどく擦り切れ、血が滲んでいた。
 裸足で歩きまわるなんて初めてのことなのだから当然だろう。
 ――これでも、犬だっていうの? どうして、犬になんて見えるの?
 わけもわからず、涙だけが頬を伝った。
 誰も気づいてくれない。家族も友人も、誰一人。
 言葉が通じない。家にも、学校にも居場所はない。
「どけ!」
 ベンチに座って沈んでいたみなもは、中年男に思い切り蹴りつけられる。
「クソ犬が! 人間様の椅子に座ってんじゃねぇよ!」
 地面に倒れこむみなもに向かって、罵詈雑言と共に唾が吐き捨てられる。
 みなもは砂を払って立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
 ゴミを漁っていた浮浪者がこちらに目を向け、同情を示したのか、ぼとりと目の前にパンを投げてくる。
 ――確かに、お腹はすいていた。だけど……。
 土まみれになった食べかけのパンなんて、口にはできない。
 小さく首を振ると「犬のくせに、気取ったヤツだ」と舌打ちされ、勿体ないとばかりにそれを拾って土を払い、息を吹きかけている。
 ボロボロの汚れた服と、何日にもお風呂に入っていないような臭い、ぼさぼさの髪。
 ――このまま家に帰れなかったら、あたしもこうなるのかな。
 もう、自信がなくなってきた。人間としての記憶が、自分の目に見えている人間の姿の方がおかしいのだろうか。
 だってそうじゃないと、会う人みんなの目に……鏡や水にまで、犬の姿で映るはずがない。


 ガッ。
「いたっ」
 道を歩いていると、突然石を投げつけられた。
 それは頭に当たり、こめかみから血が流れる。
「こっち向いたぞ。きったねー犬!」
「よぉし、この俺が成敗してくれる!」
 彷徨い歩いているうちに、日が暮れたようだった。下校中の少年たちが威勢よく立ちはだかる。
 リコーダーを手に、ばしばしと殴りつけてくる。
「痛い、やめて。何するの!」
 笑いながら、何度も何度も。
 頭をかばう腕は、すぐに青あざができた。
 小学生の力とはいえ、リコーダーで思い切り殴られれば相当痛い。
 耳をつかまれ、背にずしりと体重をかけられる。
「助けて。誰か、やめさせて!」
 声を振り絞って懇願するが、止めてくれる声はなかった。
 「可哀想に」とつぶやくものがいても、眉をひそめるだけで遠ざかっていく。
 みなもを……いや、哀れな白犬のことを、救おうとしてくれる人はいなかった。
「やめてってば!」
 温厚なみなもも、さすがに耐えかね、リコーダーを振り上げる少年を押しのけた。
 どんっ。
 少年は大げさにも尻餅をつき、その目に涙を滲ませる。
 わあぁぁん。大きな泣き声と共にもう一人の少年が声をあげる。
「助けて、犬が襲ってきた!」
 襲われていたのは自分で、ただ押し返しただけなのに。
 先ほどまで見てみぬフリを決め込んでいた人たちがいっせいに集まってきて、子供をかばう。
「保健所はまだ来ないのか!?」
 保健所! その言葉に、みなもは怯え、逃げ出そうとする。
 だがその足元を、物干し竿のような長い棒が塞ぎ、地面に転がり込む。
 膝とついた手をすりむき、血が流れる。
 土と砂と血に塗れ、髪も服もボロボロだった。
 それでも、逃げないと……。
 保健所の人たちにだけ都合よく人間の姿で見えるかもしれない、なんて。そんな希望を持つことはできない。
 ふらふらと立ち上がるみなもに、ランドセルが投げつけられる。泣いた少年の相棒だ。
「やめなさい、危ないわよ。後は保健所に任せて」
「大丈夫? 怪我はない?」
 かすり傷一つ負っていない少年は、大人たちに護られ、心配される。
 傷だらけのみなもは、逃げないように棒などで威嚇されているというのに。
 やがて、逃げ惑うみなもの顔に棒の先についた網のようなものがかぶせられる。
 前が見えなくなってもがくうちに、数人でよってたかって狭いケージの中に押し込まれる。
「待って。違うの、話を聞いて」
 柵にすがって叫ぶけど、ケージごと車の中に詰め込まれ、バンッと扉が閉められる。
「違うの……お願い、誰か。話を……」
 暗闇の中、みなものすすり泣く声だけが響きわたった。


 やがて車がとまり、追い立てられてもっと大きな檻の中に入れられる。
 そこにはすでに、何匹かの犬たちが押し込まれていた。
 首輪がついたままの柴犬っぽい雑種やコリーなどの中型犬。
 別の檻にはチワワやダックスフントなどの小型犬の姿もある。
 キャンキャン、ワンワンと鳴く声が聞こえる。
 自分の叫び声も、他の人たちにはこんな風に聞こえているのだろうか。
 だからといって、犬たちの言葉がみなもに理解できるわけでもないのに。
 この不安や恐怖を相談する相手など、どこにもいないのだ。
「可哀想になぁ、コイツらも……生後2、3ヶ月くらいまでならまだ貰い手もあっただろうに」
「まだわからないだろ。3日間は猶予があるんだ。首輪をつけた犬も多いし、飼い主さえ現れてくれれば……」
 ぼそぼそとつぶやく声が耳に入る。
 3日以内……それまでに、飼い主が現れなければ?
 確か、鏡や池に映った自分は首輪なんてしていなかった。
 そもそも、犬の自分を飼っていた人物などいるはずもない。
 ずっと人間として……女子中学生として生活してきたのだから。
「待って、お父さんに……お父さんに連絡をとらせて! もう一度、お父さんに会わせて。お願い!」
 どれだけ叫んでも、届かないことはもうわかっていた。それでも、叫ばずにはいられない。
 保健所に連れてこられた犬たちの運命は、決まっている。飼い主の引き取りがなければ、処分されるしかないのだ。
「あたしは人間なの。犬じゃない。犬なんかじゃ……」
 どうしたら、わかってもらえるんだろう。一体、これ以上何をすればいいのか……。
 檻の中に閉じ込められたまま、餌も与えられずに1日を過ごす。


 2日目。檻の位置が移動して、入り口付近には新たな犬たちが連れてこられる。大きく声をあげて騒ぎ立てる。
 一方、付近の檻は時折切なげな鳴き声があがるものの随分と静かだ。
 みなもも、騒ぐことに疲れて半ば諦め気味になっていた。
 ぐるぐると、幸せだった日々が頭の中を駆け巡る。
 昨日の朝まで、平和で当たり前のようにあった世界が、なんの理由も前触れもなく、突如として壊れてしまった。
 ――お腹がすいた。喉も渇いた。あたしはこのまま、死んでしまうんだろうか。
 抵抗する気力もなく、うなだれて床にへたり込む。
 動き回らないようにするためか、猫たちが麻袋につめられていく様を見た。
 常連の飼い主がまた新しい子犬を持ってきた、と話している声を聞いた。
 飼い主に……そして世の中に見捨てられた動物たちが集まる場所。ここでは動物虐待も何もない。殺すためにある施設なのだから。
 そんな現実を、こうして目にするまで知らずにいた。
 赤い首輪をつけた犬が、慰めるようにみなもの頬をぺろりとなめた。
 みなもはぎゅっと、その犬にしがみつく。
 言葉はわからないけれど、自分は犬ではないけれど……同じ境遇に追いやられた、仲間。
 連絡のとれない家族よりも、言葉の通じない人間たちよりも。今だけは身近で、信頼できる存在に思えた。


 やがて、3日めがやってきた。張りつめた空気を、同じ檻の犬たちも感じているらしい。
 檻がのせられたベルトコンベアーが動き出し、皆が悲鳴にも似た声をあげる。
「助けて、誰か。お願い!」
 みなもは必死に手を伸ばすが、やがてガラスでおおわれた部屋の中に追い込まれる。
 ふっと、周囲の鳴き声が止んだ。
 悟ったのだ。もう、どうにもならない。叫んでも無駄だと……。
 ゆっくりと、微かな音と共にガスが入ってくる。
 みなもは最初、ガスというのは一瞬で昏倒するようなものだと思っていた。
 だけど、そうではなかった。
 臭いも色もなく、いきなり喉をやられるようなものでもない。
 だけどすぐに状況は変わった。どことなく、息苦しい。
 ガスが入れられるというより、酸素がなくなっていくようだった。
 みなもは座り込み、口元をおさえる。
 犬たちは酸素を探しているのか、ケージの中をぐるぐると回り出しで上を見上げる。
 苦しみは、すぐには終わらなかった。
 じわり、じわりと。呼吸ができなくなっていく恐怖。
 ――安楽死なんかじゃない。窒息させるつもりなんだ。
 その事実は、死を受け入れようとしていたみなもを震え上がらせる。
 どさっ。
 歩き回っていた仲間が、ぐらりと床に倒れ込む。
 必死に酸素を求めるように、だらりと舌をたらし、痙攣している。
 それに重なるように、また別の仲間が倒れていく。
 呼吸ができない。吸い込もうとしても、酸素が入ってこない。
 皆が倒れこんでからも、みなもだけは隅の方でうずくまっていた。
 無意識に呼吸を浅くしていたことと、大型犬で体力があったため残ってしまったのだろう。
 ひどい頭痛とめまいの中、次第に意識が朦朧としていく。
 ついには身体を支えきれず、床に倒れこんだ。
 
 何も悪いことなんてしてないのに、人間じゃなくなった……いや、『人として認識されなくなった』だけで、こんなにも世の中は変わるものなのか。

 悪夢の3日間を呪い、人間そのものを憎みながら、白い犬は目を閉じるのだった……。