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<東京怪談ノベル(シングル)>


空、ふわり。



 吐く息の白さに、冬の到来を知る。
 時の巡る速さに束の間驚き、やがてそれは、もうすぐ一年が終わるのだという実感へと変わってゆく。
 子供の頃は一日一日がとても長く感じられたが、歳を重ねるにつれて次第にそれは加速し、瞬く間に一年が過ぎ去って行くようになった。
 尤も、自分が教師という仕事に日々奔走しているというだけのことで、実際のところ時間の流れは今も昔もかわらない。変わっていくのは、自分と、自分を取り巻く周囲の環境。
「ま、変わらん奴等もいるがな。神とか……座敷童はどうなんだ?」
 はて? と首を傾げながら、嘉神真輝は、通いなれた知人宅へと足を向けていた。


 勝手知ったる知人の家。玄関の呼び鈴を押す気などさらさらなく、真輝は玄関を左に折れると細い小道を歩いた。
 周囲に植えられた木々は、既にその葉を落としている。目に映る景色が日増しに寂しくなってゆくのを感じて、真輝は無意識に空を見上げた。
 所々雲の切れ間から青空が覗いているものの、太陽は薄い雲に隠れて、鈍色の光を弱弱しく周囲に放っているだけだった。
「今日は半曇だなー……折角の休みに天気が良くないっつーのは悲しいもんだな」
 そんなことを呟いて、空を見上げたまま真輝が中庭へと続く木戸を開いた時。
 ふと、上空から何か黒いものが落ちてくる事に気がついて、真輝は顔をしかめた。
「なんだありゃ。鳥?……じゃねーよな」
 どうやらそれは物凄い勢いで落下しているらしく、黒い点にしか見えなかったものは、見る間に巨大な円盤へとその輪郭を変えてゆく。だが、それが何なのかは依然よくわからない。
「……っつーかあれ、俺めがけて落ちてきてねーか!?」
 口をあんぐりとあけたまま、落下するそれを見つめていた真輝だったが、身の危険を察知すると、咄嗟にその場から数歩身を引いた。

 一瞬の間を置いて、それまで真輝が佇んでいた場所へ円盤が落ちてきた。
 猛烈な速度で地面に打ちつけられたそれは、「ドゴン! ガラガラ!」というけたたましい音を立てながら、円を描くようにまわっている。
 真輝は半ば呆然としながらそれを凝視する。
「…………タライ?」
 誰が何と言おうと、それは見紛うことなく巨大なタライだった。
 この家の周囲に高い建物など無い。何故、何ゆえ、こんなものが自分めがけて空から落ちてきたのか。
 訳がわからず、真輝が空とタライとを交互に見遣っていると、やがて中庭の方から可愛らしい子供の声が聞こえてきた。
「あー! マサキだ!!」
 名前を呼ばれ、真輝が視線をそちらへ向ける。
 中庭の中央に佇んで満面の笑みを浮かべていたのは、この家に住み着いている座敷童――雪だった。


*


 過去にも色々な事があった。
 玄関開けたらタイムスリップ。中庭へ入った途端に猛吹雪。挙句今回は空からタライときた。ここの住人にまともな奴は居ないと熟知しているつもりだが、何故足を運ぶ度に身の危険を感じなければならんのか。
 良い意味で「この家へ来た時の楽しみの一つ」でもあるが、こうも頻繁に続くと「いい加減にしろ」と文句を言いたくなってくる。
 真輝は自分の方へ走り寄ってくる雪を見据えると、一言。
「……コレはお前がやったんか? 雪」
 ビシリと地面に落ちている銀のタライを指差しながら、雪へと質問を投げかけた。
 雪は悪びれもせず、きゃっきゃと真輝の周りを飛び跳ねながら肯定する。
「うん! おるすばんしてるときに、あやしいひとが来たらやっつけろって言われた!」
「俺は怪しい人間なんか!!?」
「マサキはごはんくれるからいい人!」
 でも誰が来るか解らないから、とりあえずタライ落としてみた、と雪は笑う。

 確かに、去年の今頃はこの家でクリスマス料理を作っていたし、鍋を作った記憶もある。ついでに、人様の家にお邪魔するのだからと、ここへ来る時は必ず手土産も持参した。その結果、「マサキはご飯をくれる人」という固定観念が雪の中に根付いたらしい。なんとも子供らしい安直な思考だ。
 そんな子供相手に説教をするのも気が引けて、真輝は一度深く溜息をつくと、雪の頭を軽く撫でた。
「……今日は雪以外だれも居らんのか?」
「うん。お仕事だって。だから今日は雪が一人でおるすばん!!」
「そーいや、あいつ画家だったよな」
 絵を描いている姿を殆ど見ない所為もあり、ここの住人が幽霊画家だということをすっかり忘れていた。自分とは畑がまるで違う仕事だから詳細は不明だが、画家も年の瀬は忙しいのだろうか。
 来る前に一度連絡を入れておくべきだったなと、真輝が微かに後悔をした時だった。
「マサキ?」
 ふと雪に声をかけられて、真輝は視線を落とした。雪は大きな瞳をまんまるにしながら、じっと真輝を見つめている。
 まるで餌を待っている子犬のような雪の様子に、真輝は思わず苦笑しならがしゃがみ込んだ。
「どーしたよ。遊んで欲しいんか?」
 座敷童とはいえ、外見は幼い子供だ。やはり一人で留守番というのは寂しいのだろうかと、そんなことを真輝が考えた時。雪から思いもよらない言葉が返ってきた。
「マサキ、髪のびてる!」
「……は!?」
「あと鳥さんの羽みたいなのが背中からでてる!!」
 おもしろいおもしろい! と真輝の周りをぐるぐる走っている雪を他所に、真輝は慌てて自分の髪の毛に手をやった。
 雪が言ったとおり、いつもは短い自分の髪が、いつの間にやら膝上ほどの長さにまで伸びている。
「げっ、暫く御無沙汰で安心してたのに、久々に来やがったかっ!?」
 内心の驚きに反応したのか、背中に出現した半透明の四枚の翼が、ばさりと音を立てた。
 雪は真輝の突然の変化に驚く事も無く、むしろ楽しそうにはしゃぎまわりながら満面の笑みを浮かべた。
「マサキ、雪女!!」
「違う!!」
「じゃー鳥女!!」
「なんじゃそら!! つーか女じゃねぇし!」
 これまでにも何度か、変化した自分の姿を見たことはある。だが、百歩譲っても雪女には見えなかった。ましてや鳥女など聞いた事が無い。どちらかといえば西洋の天使に似ていると思うのだが、日本の座敷童に「天使」という言葉が通用するとは思えない。
 それ以前に、自分は女ではなく男である。
 真輝は頭をかきながら、今日二度目の溜息を零すと、諦め半分に呟いた。
「……原因も何も分からねぇから困るんだよな。髪は長くて邪魔だし……結んどくか」
 時折自分の意志とは関係なく変化するこの体は、特異体質としか言いようが無い。
 真輝は長い髪を手ぐしで纏め、こんな時の為に常備している髪ゴムで軽く一本に結い上げた。途端に雪が残念そうな声を出す。
「むすんじゃうの? 雪女みたいできれいなのに……」
「…………」
 正直、嬉しくも何ともない言葉である。
 むしろ変化した場所が人ごみの中でなくて良かったと、真輝は心底安堵した。
 幸いにも、人の弱味を握ったが最後、間違いなくそれをネタに自分をからかうであろう家の主も今日は不在。自分のこの姿を見たのは雪だけだ。
「ま、暫くすりゃ戻るだろーが、折角だから空の散歩でも行ってみるか?」
 言って、真輝は笑顔で雪へと手を差し伸べる。すると、雪はきょとんとしながら首を傾げてきた。
「おそら? とべるの?」
「飛べなきゃ、空の散歩なんぞ出来んだろ」
 一人で留守番というのも退屈だろう。ここの主人が言うところの「怪しい人」が侵入してきたところで、タライの悲劇が待っているだけだ。少しの間不在にしたところで何ら支障はないはずである。
「行くか?」と真輝が再び雪へ問いかける。雪は瞳を輝かせながら頷くと、真輝へ飛びついてきたのだった。


*


「誰かに見られねぇよう注意しながら……っと」
 真輝は翼を羽ばたかせてゆっくり地面から足を離すと、雪を抱えたまま緩やかな速度で空へと舞い上がった。
 冬の空は流石に寒くて、薄着の雪が寒くはないかと真輝は視線を落とす。けれど雪は、真輝の首に両手を回したまま、頬を紅潮させて「すごいすごい!」とはしゃいでいた。
 どうやら無用な心配だったようだ。
 雪の嬉々とした様子に、思わずこちらも笑みがこぼれてくる。

 普段は高層ビルやマンションの狭間から微かに見えるだけの空。だから自然と視界も狭くなって、人混みにばかり注意を注いでしまう。
 それが、空を散歩しているときだけ、視点が変わる。
 邪魔なもの一切が排除され、目に映るのは広大なパノラマの世界。
 世界はこんなにも広く、果てしないものなのだと思う瞬間でもあり、自分の心が開放される瞬間でもある。
「快晴だったら良かったんだけどな」
「でも、おそら気持ちいいよ! 雪もじぶんでとべるようになりたいなぁ……」
 どうやら座敷童は空を飛べないらしい。残念そうに呟いている雪を見ながら苦笑を零すと、真輝は眼下に広がる光景を眺めた。

 都心から離れているとはいえ、やはり圧倒的に民家が多い。既に紅葉も終わっているのか、随所に点在する木々も、大半は葉を落とし、ぼんやりと霞んだ色合いを成していた。
「そろそろ冬色の景色に変わってきたな。墨絵のような落ち着いた色彩って感じもするし……なんか冬司る奴思い出す」
 眼光鋭く無口な所為で一見怖そうに見えるが、実はかなり大雑把で天然な神の顔が、真輝の脳裏を過ぎって行く。
 緑の消えた世界を寂しく思いはするが、秋を経て冬が訪れるのは、四季が存在する日本ならではの事。艶やかな紅葉の後に来る落ち着きと静寂は、そのまま冬の性質を現しているようだった。
「もう来てんのかね、雪?」
 何気なく問いかけると、雪はとても嬉しそうな顔をして頷いた。
「来てる! こないだ抱っこしてもらった!」
「今年も元気だとイイけどな」
「元気だよ! またゆきだるま作ってくれるって約束したもん」
 その言葉に、瞬時に思い起こされるのは、かつて自分の身に降り注いだ災厄。
「……頼むから、俺が遊びに行った瞬間に猛吹雪は勘弁な」
 真輝がぼそりと呟くと、「うん。気をつける!」という元気な言葉が返ってきた。本当に反省しているのかはかなり謎だが、雪の無邪気な笑顔を見ていると、流石の真輝も怒る気が失せてくる。
 とりあえず、あの家に行く時はそれなりの心構えをしてから出向いた方が懸命だと考えながら、真輝は再び翼を羽ばたかせて、さらに上空へと舞い上がった。


*


 雪にせがまれ、ご近所一周どころか関東の僻地まで往復し、漸く真輝が中庭へ戻れたのは、日暮れに差し掛かった頃だった。
 地に足をつけた途端、タイミングよく髪の長さが元に戻り、半透明の四枚翼もその姿を消した。
 真輝は抱えていた雪を下ろすと、片手で己の肩を軽く叩きながら安堵の溜息を零す。
「どうにか元に戻ったし、普通に帰れそうだ」
 雪は真輝から離れた途端、中庭の入り口へと走って行き、不審者が誰も来なかったか確認している。
 あれだけ空を飛び回っても――飛んでいたのは真輝だが――疲れた様子一つ見せない雪に、真輝は思わず感心してしまう。
「で、空の散歩はご満足頂けましたでしょうか、お嬢様?」
 異常が無い事を一通り確認して戻ってきた雪に、真輝がそう問いかける。すると雪は大きな目をぱちくりさせ、きょとんとした表情を見せた。
「おじょうさまってなぁに? 雪はざしきわらしだよ?」
 みんなそう言うもん、と不思議そうにしている雪を見て、真輝は思わず苦笑を零す。
「まぁいいか。この事は俺と雪、二人だけの秘密な? 指きり♪」
 いって、真輝が小指を雪の前に差し出す。雪は己の小指を絡ませると、笑顔で手を上下にぶんぶんと振りながらこう言った。
「うん! マサキが雪女だってことはだれにもいわない!!」
「雪女じゃねーし!!」
「じゃー、雪男!!」
「…………」
 ないしょないしょ! と言いながら、相変わらず楽しそうにきゃっきゃと飛び跳ねている雪を見て、真輝は沈黙する。
 近い将来、間違いなくここの住人に「真輝は雪男」だと知れ渡るだろう。そして自分はそれをネタにからかわれるのだろう。
 真輝は、これから自分の身に起こる(かもしれない)不幸を想像し、思わず遠い目をしたのだった。



<了>