コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


【老婦人の白い犬】

 辺りは真っ白で、ほんの数メートル先すら白で塗りつぶされていた。
 髪がどこかしんなりとして、毛先で小さな水滴が真珠の様に連なる。どうやら、深い深い霧の中に紛れ込んでいる様であった…。

 海原みなもは、確かに学校の帰り道を歩いているはずであった。
 通いなれた道ならば、どこかで道を間違えるはずなどないのだが。しかし、ここはいつもの道とはまるで違う、みなものまったく知らない場所。踏みしめる足下も、堅いアスファルトのはずなのに、柔らかくぬかるんだ土だった。
(…ここ…何処…?)
 まさか夢でも見ているのだろうか。
 突然真っ白な世界へと迷い出てしまい、みなもは不安を抱いた。夢ならばそれでいい、でも夢で無いならそれは恐ろしい事の始まりかもしれない。
 不安を抱えた青い瞳で辺りを探る様に見回すが、何処を見てもただ白、白、白。それ以外が視界に入る事はなく、やがてみなもは諦めた様に見回すのをやめていた。
(とりあえず…、ここが何処か確かめなくちゃ。大丈夫よ、もしかしたら何か地域のイベントで、通行人を驚かしちゃおう、なんって言うビックリ企画かもしれないじゃない)
 そんな考えは中学生らしい少女の考えと、不安から如何にか自分を逸らそうと言う気持から来ているものだった。
 うん。と自分に言い聞かせるように一度頷いたみなもは、両手を身体の横でぎゅっと軽く握り白く幕を張った霧を掻き混ぜるようにゆっくりと歩き出した。



 どれ程歩いただろうか。
 もう何時間も歩いたかもしれないし、まだ五分と歩いていないのかもしれない。
 昼も夜もわからない、ただ白いだけの世界では時間の感覚がまるでない。時間の感覚が無いくせに、どうしてか時間に追いかけられる恐怖がみなもを侵食し始めていた。
(どうしよう…っ、このまま…ここから出られなかったら、あたし…どうなっちゃうの…?)
 誰にも知られずに、ただぽつんと一人で寂しさや孤独に苦しみながら息耐えてしまうのだろうか。
(そんなの、そんなの嫌っ。誰かと話しがしたい、誰でもいいから…あたしを――助けて!)
 何から、助けられたいと言うのか。
 この白い濃霧の中から抜け出したいのか、追いかけてくる恐怖から解放されたいのか。
 心の中で叫んだみなもは、刻々と迫ってきていたその恐怖から逃げるように走りだした。数歩先の見えない霧の中を、足場の悪い泥土を跳ね上げて綺麗な脚を汚して時折転びそうになりながら、必死になって走った。
 先の見えない不安よりも、脚が汚れてしまう事よりも。
 この場所でたった一人取り残されてしまうと言う恐怖からみなもは逃げ出したかった。
 走って走って、息が切れる程にみなもは走った。白い霧は晴れることは無く、霧の様にみなもに纏わりつくたった一人と言う不安も未だ少女の背を追いかけていた。
「――っ!!」
 わけも解らず兎に角走り、ついにみなもは足を縺れさせて大きく転んだ。
 両手が泥に埋まって、きっと脚もスカートも酷い有様だろう。転んで地面に叩きつけた手足もジンジンと痛んだ。しかし、もうそんな事なんて如何でもいい。
 ただ怖くて、不安で。
 転んだまま地面に座り込んだみなもは、汚れた手で目元を覆って泣き出していた。
「帰りたいっ、よ…ぅ――、家に、戻…りたい…よ…っ」
 小さく声を漏らしてみなもが泣いても白い世界はそのままで、声までもを白く飲み込んでゆく様だったが、少女が泣き出してすぐ、その霧が薄っすらと引いていった。
「っ…ぅ、ぐすっ…――…?」
 泣いたら誰かが助けてくれるかもしれない。なんて、そんな事を思ったつもりは無かった。
 無かったのに、塞いだ顔を持ち上げるとそこはただ白い世界ではなく、薄霧の中の広い庭だった。視線を少しだけそらせば、その奥には静かに佇む閑静な別荘屋敷があった。

(……人の、お家…?)
 霧の中に浮かび上がったのは、確かに人が住むべくして作られた建物だった。
 誰かが居るかもしれない。
 みなもは、涙で濡れた目元をゴシゴシと擦って鼻をすする。これで、家に帰れるかもしれない。
 そんな期待と喜びを覚え、みなもが立ち上がろうとしたその時。ふと、真横に人の気配を覚えた。先ほどまで、あれだけ人はおろか、生き物と呼べるものの気配が無かったと言うのに。
 何か、背中を嫌な冷たさが走った気がしたが、人が居たと言う事の方が大事でそのまま横の気配を見上げた。
「おやおや…そんなに可哀相な声で鳴いて。私は、ここにいますよ」
 みなもが見上げた先には賓の良い老婦人が優しく微笑んでいた。
「ずっとずっと…待っていたのよ、私の大事な大事なワンちゃん。いったい、今まで何処に行っていたの?」
 老婦人はそう言い視線を細め目尻に穏やかな皺を刻んで、そっとみなもの頭を撫でる。
 何度も何度も、まるで懐かしい何かに触れるかの様に優しく頭や頬に触れてくる。
「…? あたし、ワンちゃんじゃないですよ…?」
 だってほら、ちゃんと人の手も足もあるし。言葉だってこうやって喋れる。
 老婦人を見上げてみなもは首をかしげる。真っ白な何も無い空間でようやく出会えた“人”にほっと安堵したのに、また別の不安が過ぎり始めた。
「ああ…白い毛をこんなに汚してしまって。一生懸命此処まで走ってきたのね…ずっと一人で寂しかったでしょう。私もアナタと離れてしまって…本当に本当に、寂しかったのよ」
 泥で汚れたみなもの手足に老婦人は触れそう言った。
 それがくすぐったくて。同時にこのヒトは自分を見ていない、海原みなもを見ていない以上に人間として自分と接していない事を悟り、みなもは怖くて身を強張らせた。
 確かに、確かにこの白い場所にたった一人で取り残されてしまうのかと怖くて寂しくて、それから逃げたくて必死で走ったけれど。戻りたい場所は此処ではなくて、家族や友達の待つ場所だ。
「あのっ、あたしは人です犬じゃないです。お婆さんとも初対面だし、今さっき此処に迷い込んでしまったばっかりで…。帰り道を探してるんです!」
 みなもは必死に訴えた。寂しい思いをしている老婦人には申し訳なかったが、此処からどうしても出たかったし、白い毛並の犬として扱われているこの状況がたまらなく恐ろしい。
「そんなに不安にならなくても大丈夫よ、アナタが帰って来る場所は此処で間違ってないわ」
 怯えたみなもに老婦人は穏やかにそう聞かせた。話しが噛みあっている様に聞こえたのに、みなもと老婦人との間ではやはり会話など成立していない。微笑む老婦人には、まるでみなもの声が聞こえていないかの様であった。
 やがて老婦人は、頭から背中にかけてゆったりと撫でてくる。怖いと思っているのに、それがたまらなく心地良い。撫ぜられた背中がじんわりと暖かくなって、その気持ちよさにみなもは一瞬不安や恐怖を忘れていた。
「それじゃあ、泥を落しましょうか。汚れたままだと気持が悪いでしょうからね」
 気持ちよさに気が抜け考える事を忘れていたみなもに、再びそう声が掛かった。
 こっちにいらっしゃい。と老婦人は歩き出すが、はっと我に返るみなもはそれに従わない。
 汚れは落したいけれど、このまま彼女の言う様にしてはいけないと何かがそう知らせていたのだ。
「すみません、お婆さん。あたし、もう一度帰り道を探っ……あれ…立ち、上がれない…?」
 ずっと座り込んでいたみなもは、老婦人に謝りながら立ち上がろうとした。こうなったら一人で再び帰り道を探すしかない…と思ったのだが、いくら立とうと試みてもバランスが崩れて倒れてしまう。
(…どうしちゃったの、あたしの身体…。なんで、――なんで立てないのっ?)
「どうしたの? 早くいらっしゃいな」
 二本の足で立ち上がれないみなもは恐怖で固まった。
 そしてそのまま、如何する事も出来なくなってしまったみなもは四つん這いのまま声をかけてくる老婦人を見詰め、結局彼女に従うように動き出す。
 立ち上がれないのは何か一時的な事かもしれない。自分が人間の少女で、帰り道を探しているのだと言う事をもっとしっかり話せばまだ解ってもらえるかもしれない。
 そんな事を思いながら。みなもはまるで犬の様に地面に手足をつけたまま老婦人の後に続いていた。



 向かった先は静かに佇む屋敷の中であった。
 もう何年も、何十年も人の手が入って居ないのではないかと思われる程にその屋敷は朽ち果てていて、みなもはその中へと入る事を一度ためらったほどだった。
 本当にこんな場所にこのお婆さんは住んでいるのだろうか、と疑ってしまうが老婦人は屋敷の中を知り尽くし、振舞う仕草はそこに未だ人の生活の場としての屋敷が存在しているかの様に思わせる。
 長い廊下を進んで辿りつくのはバスルーム的な場所だった。
「さあ、綺麗にしましょうね」
 こんな廃墟に水が生きているのかと思ったが、バスルームの扉が開けられるとその先は薄っすらと霧掛りその中は綺麗なバスルーム。浴槽にはお湯が溜められている。
 みなもは老婦人に呼ばれるまま、四足を使ってバスルームへと入っていた。
「暖かくしてあるけれど、冷たかったら御免なさいね」
「え…っ?」
 制服はまだ着たままだったのできっと手足や顔を拭われるのだろう、と思っていたが老婦人のそんな声の後、行き成り背中を中心に水をかけられ、みなもは驚き暴れようとした。
「駄目よ、すぐに終わるから大人しくしていてちょうだいね」
 しかし、老婦人にがっちりと腕を捕らわれたみなもは動き出すことが出来ず、そのまま老婦人のするまま身体を洗われてゆく。
「いたっ…、引っかかないでっ」
 制服の上からだと言うのに、まるでそこに衣服は無いと言う様に老婦人は泡立てた石鹸でゴシゴシと洗う。
 最初は強い力に肌が痛いとすら思っていたのに、それが次第に心地よさへと変わる。
(……なんだろう…、すごい…不思議な感じ……)
 老婦人が触れてゆく場所からじわじわと暖かさが広がって、なんだか頭がぼぅっとしてきていた。
「さあ、これで綺麗になったわよ」
 みなもの全身を洗い終わった老婦人はそう言って、みなもに再びお湯をかけた。
 お湯の掛かるザバッと言う音がやけに大きく聞こえた気がしたが、それよりみなもは泡の中から出てきた自分の腕に目を見張った。
(なに、これ…? 手が、腕が白い…)
 白い泡が取れたのに、みなもの手は真っ白に覆われていた。おかしい…。
 慌てて反対の手を見たが、その手もまた白い。
 指の先からびっしりと、白いものが張り付いていた。その張り付いているものが何なのか、確かめようと摘もうとしたが指が曲がらない。
 曲がらない、と言うよりも…これは、獣の手…。
 それを知ったみなもは、混乱する気持を抑えてすぐ側に備え付けられていた小さな鏡を恐る恐る覗いた。
「っ!! いやっ…!」
 曇った鏡の中には、青い髪の少女がいた。いつも見慣れた“あたし”だ。
 それなのに青い髪からは白い獣の耳が付き出て、首から下は水で濡れた毛皮を纏った白い犬だった。
 そんな姿を見て、すんなりとこの真実を受け入れるなど。たとえ、十三歳の少女でなかったとしても不可能だろう。
 混乱したみなもはその場を逃げ出そうとしたが、バスルームの入口にはまるで逃げ場を塞ぐように老婦人が微笑んで佇んでいた。
「此処から出してっ、お婆さん! あたし、犬になっちゃうっ!」
 このままでは、本当に老婦人の言う“白い犬”になってしまう。
 みなもは必死にそう訴えたが、老婦人はたた微笑んでいるだけであった。
「そんなに嬉しそうにしてどうしたの? 今、乾かしてあげますからね」
「違うの! そうじゃないの! なんで、わかってくれないの?!」
 いくら訴えても老婦人には伝わらなかった。
 やがて老婦人は大きなタオルでみなもの犬の身体を包み込んだ。そして抱き締める様にして身体を拭いてゆく。
「本当に…、夢の様だわ。もう、アナタとは逢えないかと思っていたんだもの。よく、戻ってきてくれたわね…。嬉しいわ」
 そうして老婦人が優しく優しくみなもを拭き撫でれば、またあの不思議な感じが湧き上がる。頭の中がぼぅっと、白く霧がかり今まで考えていた事が全部塗りつぶされて行く。
 そして老婦人が嬉しいと言えば、自分も嬉しいとそう感じてしまう。
(……あたし、も…嬉しい…)
 此処から逃げないと、もとの自分の居場所に戻らないと。そう思っているのに、撫でられると此処で老婦人の犬として過ごしてもいいかもしれないと、みなもはそんな思考に捕らわれた。
 やがて全身を拭かれ、最後に婦人が頭を撫でてくれる。みなもの青い髪や可愛らしいその顔が、撫ぜられるに連れて犬のそれへと変貌してゆく。
 口が大きく裂けて牙が並んでゆく。白い毛がびっしりと表情を覆えば、そこにはもう人の姿をしたものなど無い。白い毛並の犬が、老婦人の声に答えてゆったりと尾を揺らしているだけだった。
「さあ、行きましょうか」
(はい、…お婆さん…)
 白犬の全身を拭き終わった老婦人は、再びそう微笑んで歩き出す。
 その後ろを大人しい白犬が付いて歩き出していた。



 暖炉のある広い部屋に老婦人と白い犬は居た。
 犬の瞳に写る屋敷は荒れ果てては居ない。人が住むため、綺麗に手入れの施された屋敷の広い一室が犬の青い瞳の中には広がっていた。
「私はもう二度とアナタを置いていかないから、アナタも私を置いて何処かに行ってしまう様な事はしないでちょうだいね」
 ロックチェアに腰掛けた老婦人が、優しく笑いながら白い犬を撫でながら語り掛ける。
 白い犬は瞳を老婦人へ向けて嬉しそうに尻尾を振る。
(お婆さん、あたしはずっとお婆さんの側から離れません。だって…此処が、お婆さんの隣が、あたしの居場所。帰ってきたかった場所…あたしは、お婆さんの白い犬。大事な…ワンちゃんだから)
 嬉しそうに尾を振る犬は、老婦人の足下へ鼻先を擦り付けて甘える様な仕草を取る。
 それは優しい主人と愛されて育てられてきた愛犬の様子そのものだ。
 そんな様子を、じっと静かに見詰めるものがある。暖炉の上に飾られた大きな肖像画。微笑む老婦人と、白い毛並の犬の肖像画。
 その二つの視線は荒れ果てた暖炉の部屋の中、古びたドレスを纏った骸骨が真っ白い犬の頭を撫でている様子を静かに見詰めているのだろう。
「これからは、ずっと一緒に暮しましょうね。――私の大事な大事なワンちゃん」
 そんな声に答えたのは、嬉しいと揺れる尾が床を叩く小さな小さな音だけであった…。

 end...