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リフレイン −深紅の手袋−
色の白い、少女の面影を残した女性であった。
二十歳過ぎであろうか。だが、年齢の割にはずいぶんと大人びた表情をしている。何より目を引いたのは服装であった。白いスカートに白いコート、白いマフラー、白いブーツ。コートの下はやはり白いニットのセーター。手にしたトートバッグも白である。バッグの口からちらりとのぞいた携帯電話も白であった。
それなのに、手袋だけが赤なのである。妙に鮮やかで、そう、まるで――鮮血の色のような。
(今年も来たか)
シケた煙草を口の端で揺らしながら、草間は疑念を隠さない。(毎年同じ格好してるな。真っ白な服装と、真っ赤な手袋と)
細川ゆかりという名のこの女性が初めて草間興信所にやって来たのはおととしの十二月。クリスマスの気配が濃くなった時期である。依頼内容は簡単。立川康介(たちかわこうすけ)という男の身辺を、家族構成から一日の行動パターンまで詳しく調べてくれというものであった。
怪奇とは関連のなさそうなまっとうな依頼に気をよくした草間は、短期間で徹底的にその男のことを調べ上げた。ゆかりも調査結果に満足し、きっちり料金を払って草間の元を辞した。ただ、立川康介のことを調べてどうするのか、ゆかりと立川の間にどういう関係があるのか、そういった問いには絶対に答えてくれなかった。
他人に言えないことくらい誰にだってある。興信所に素行調査を依頼するくらいなのだから何かわけありなのだろう。草間もプロの探偵だ、仕事上支障がない限り依頼人のプライバシーに立ち入るような真似はしない――が。
その翌年の十二月も、そして今年の十二月も、ゆかりは再び草間興信所を訪れたのだ。立川康介の身辺を調査してほしいと言って。
もちろん草間は言った。立川のことは去年も調べて、きっちり結果を渡していると。調べてほしいと言うならきちんと調査を行うが、同じ人物のことを二度も調べてどうするつもりなのかと。
するとゆかりは心底戸惑ったような、怪訝そうな顔を草間に向けて言ったのだった。
「意味が分かりません。立川の調査をお願いするのは初めてです。それ以前に、ここにお邪魔すること自体初めてなんですけど」
嘘を言っているようにも見えず、草間は「ほう」と言って目を細めた。
ゆかりは今年もやって来て、立川の調査を依頼した。草間は何も言わずに立川の身辺調査を行い、その結果を今、ゆかりに渡したところである。ゆかりは短く礼を言ってファイルを受け取り、大事そうにバッグにしまい込んだ。それと入れ代わりに調査料金の入った茶封筒を取り出して草間に渡す。草間は曖昧に礼を言って受け取った。
「なあ」
白いコートを着込んで真っ赤な手袋をはめ、興信所を出ようとするゆかりに草間は声をかけた。「その手袋、どうしたんだ?」
ゆかりは整えられた眉を軽く中央に寄せ、なぜそんなことを聞くのかとでも言いたげな表情で草間を振り返る。草間は「いや、何ね」と小さく肩を揺すって続けた。
「全身白できれいにコーディネートしてるのに、手袋だけ真っ赤だ。ちょっと統一感がないんじゃないかと思ったもんでな」
余計な御世話かも知れないが、と付け加えて短くなった煙草を灰皿に押し付ける。去年もおととしもゆかりは似たような格好をしていた。白で揃えた服装に、真っ赤な手袋。持ち物まで白で統一するくらいなら、手袋だって白いものを着けるのが自然であろう。
ゆかりはにこりと笑ってみせた。疲れたような、悲しそうな笑みだった。
「この手袋、お母さんの手作りなんです。この白いマフラーも。あたし、白が好きだから」
手袋と、首に巻いたマフラーを示して呟くように言う。店頭で売っている品とさほど変わらない見栄えに草間は思わず感嘆の声を漏らした。
「手作りか。見事なもんだな」
「でしょ」
ゆかりは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は思いがけずあどけなくて、初めて年齢相応の顔になる。「お母さんは編み物が上手でしたから」
「上手でした、とは?」
過去形の語尾を訝しんだ草間は目を上げて問う。
ゆかりは小さく首を傾け、唇の両端をきゅっと持ち上げた。無理に笑顔を作ろうとでもするかのように。
「死にました」
「何だって?」
「死にました」
感情のない声で、もう一度ゆかりは繰り返した。「三年前のクリスマスイブに、交通事故で。この手袋はお母さんの最期のプレゼントです。車にはねられた時に、しっかり握っていたそうで」
草間の眉が厳しい音とともに吊り上がる。三年前のクリスマスイブ。草間が調べた立川康介のデータの中に、それに深く関連する事項があったはずだ。
「それ以来、毎年クリスマスの記憶だけが抜け落ちるようになりました」
ゆかりは真っ赤な手袋をいとおしそうにさすりながら抑揚のない声で続けた。「去年もおととしも……お母さんが死んだ年も、クリスマスイブの記憶がありません」
草間は何も言わずに、目だけで相槌を打った。去年もおととしもこの興信所を訪れて同じ依頼をし、しかもそれを覚えてないという不可解な事象もそのせいなのだろうか。
「お母さんが死んだことだって、家族から聞いて知っているだけって感じで。あたしはよく覚えてないんです」
母の死が自分の記憶として残っているわけではないのだと言い、ゆかりは頭を下げて草間の元を辞した。
「兄さん、何やってるんですか!」
ただでさえ汚い事務机の上をひっかき回す草間に零が悲鳴を上げる。しかし草間は零の制止を無視し、机の上のどこかにあるはずのファイルを探し続ける。やがて掘り出したのは一枚のクリアファイルだった。中に挟んであるのは黄ばんだ新聞のスクラップ。社会面の片隅に載るような、ありふれた小さな記事である。
「やっぱりな。見ろ、零」
そして零の目の前にその記事を差し出す。何か言いたそうに口をむずむずさせた零だったが、記事に目を通すなりその瞳を幾度か瞬かせた。日付は三年前のものであった。
“車にはねられ女性死亡”
十二月二十四日夜、東京都××区の会社員立川康介容疑者(33)の運転する車が、道路に飛び出して来た会社員安達京子さん(42)をはねた。安達さんは近くの病院に搬送されたが、全身を強く打っており、間もなく死亡が確認された。関係者によれば、立川容疑者と安達さんは交際していたのではないかという。安達さんには離婚歴があり、立川容疑者は事故前に別の女性と見合いをしていた。
記事の内容は大体こんなところであった。
「もしかしたら、この安達京子ってのが細川ゆかりの母親なのかも知れない。苗字が違うから考えもしなかったな」
草間は舌打ちして頭をかきむしる。もしゆかりの両親が離婚しているのであれば母子で姓が違っていることも説明がつく。
「立川は業務上過失致死で懲役三年の執行猶予付き判決を受けてる。男女関係のもつれで事故に見せかけて安達さんを殺したんじゃないかという疑いもあったが、安達さんが車に飛び込むように道路に飛び出していったっていう目撃証言が複数あってな。結局安達さんの自殺ってことになって、立川の運転に特段の不注意があったわけじゃなかったし、だいぶ刑が軽くなったそうだ。で、現在は工場に勤めながら都内で一人暮らしだ」
「ゆかりさんは立川さんのことを調べてどうするつもりなんでしょう」
ある暗い想像が頭をよぎり、零はそう呟いて目を伏せる。「まさか……お母さんの復讐?」
「さあな」
草間は息をついて事務机の上に腰掛け、足を組む。「立川のことを細かく調べさせたってことは、少なくとも立川に接触するつもりなんだろう。その後はどうするつもりなのか――」
それにしても、と草間は呟いて薄汚れた窓の外に目をやる。冬の空は低く、暗い。押しつぶされそうな重い雲の下で建物も人々もひっそりと息をひそめている。
「クリスマスってのは楽しく過ごすもんなんじゃないのかねえ。あの子が何を考えてるか知らないが、少なくとも明るいことじゃなさそうだ」
その後で、草間はあなたのほうを振り返って言った。「どうだ。いつもの仕事とはちょっと雰囲気が違うが、手伝っちゃくれないか?」
(手袋か)
草間の話に肯きつつシュラインは内心で呟く。(ちょっと複雑ね)
興信所の片隅、草間の目につかない場所に隠してある小さな包みのことを案じると思わず小さな溜息が出る。草間が怪訝そうに「どうした?」と問うが、シュラインはすぐに表情を戻して「いいえ、別に」と応じた。
「調査を手伝うのは構わないけど……悲しすぎるよな」
興信所の窓枠に背中を預け、学ランのポケットに手を突っ込んで呟くのは梧北斗である。「クリスマスだけ記憶がなくなるなんて、辛すぎるよ」
俺も絶対明るいクリスマスのほうがいいって思うし、と北斗は強い口調で言い切った。少年らしいまっすぐな感想に草間とシュラインは思わず顔を見合せて微笑む。
「赤い手袋……どうしてゆかりさんへのプレゼントだって分かったんでしょう?」
シュラインの向かいに座った樋口真帆は緩やかに首を左右に傾けている。「色も赤だし。事故の時にお母さんが手袋を“しっかり握ってた”って言ってましたよね? 贈り物として包装されてたんじゃない感じがします」
「そうね。包装されていたのかどうか、確認する必要がある。包装がなかったのなら安達さんへの贈り物の可能性だってあるし」
それに、とシュラインはボールペンのノック部分を顎に当てながら思案顔になる。「真帆ちゃんの言う通り、色が赤っていうのもひっかかるわ。もしかして――」
シュラインが続きを口にする前に、「もしかしたら」と北斗が呟いた。
「血じゃねえのかな。事故に遭った母親の血で、白い手袋が真っ赤に染まったとか」
どうやら北斗もシュラインと同じことを考えていたらしい。だが、「もし血液なら」と草間が軽く片手を上げて北斗を制する。
「あんな鮮やかな色はしていないと思う。三年も経ってるんだぞ? もっと黒ずんでいるはずだ」
もっともな指摘である。そうね、とシュラインは素直に肯いた。
「最初から赤だったのかも」
やや遅れて真帆がおずおずと口を開いた。「赤い毛糸を運命の赤い糸に見立てて……例えば、“恋愛がうまくいきますように”っていう意味が込められてたとか」
北斗が幾度か目を瞬かせた。その説は頭になかったらしい。真帆は夕焼け色の瞳を伏せ、ややためらいがちに続ける。
「あの、違うとは思うんですけど、立川さんのお見合いの相手がゆかりさんだったってことはないですよね? お見合いがうまくいくようにって、赤い毛糸で手袋を編んだとか」
「なるほど。見合いの相手なら立川さんの調査資料を見れば確認できるわよね?」
と言ってシュラインは草間を見上げる。草間は「分かってるよ」と言ってゆかりに渡した資料のコピーを三部差し出し、三人に配った。今年・去年・おととしと、三年分の調査内容が揃えられている。
まず真帆が「ああ、違いました」と声を漏らす。立川の見合い相手は全く別の女性であった。その女性は例の事故直後に立川との縁談を断ったことまで明記されている。しかも、見合い相手は以後一度も立川に接触していないらしい。そもそもこの見合いは立川の親が強引に進めた話とのことであった。田舎で暮らしている両親は老いており、父親は体を壊して入院しているという。「元気なうちに孫の顔が見たい」とでも息子に懇願したのであろうか。
現在の立川は工場作業員として働いている。仕事ぶりは真面目そのもので、寡黙で人付き合いが皆無に近いことを除けば職場での評判は悪くはない。事故を起こす前は安達京子と同じ会社で働いていたそうだ。安達京子と交際していたという噂もほぼ真実と見ていいらしい。週に一度、夜遅くに車で酒を買いに行くのが立川の習慣で、事故を起こした日もそのために車を運転していたのだという。事故後の立川には女の噂は一切なく、毎年12月24日、つまり安達京子の命日には、深夜に欠かさず彼女の墓を訪れている――。資料の内容で手がかりになりそうな部分はこんなところであった。三年分の調査資料はどれもほぼ同じ内容で、この三年で変化したというべき部分は見受けられない。
だがシュラインはある可能性に気付いて目を上げる。調査は今年で三年目。そろそろ執行猶予が解ける頃だ。
(執行猶予が解けて安心したところを狙っているとしたら)
そしてかすかに柳眉を寄せて考え込む。(当時の再現計画とか……まだ分からないけれど)
とにかく情報を集めなければ。業務上過失致死として立件された交通事故ならば警察に当時の記録が残っているはずだ。幸い警察関係者には伝手がある。事故当日に立川の見合い相手が何をしていたか、安達京子の事故前の行動や当日の服装、細川ゆかりと本当に親子なのかどうか等々。安達京子の近所や勤め先の同僚などにも聞き込みを行うべきか。事故当日のゆかりの行動も確認しておく必要がある。そして、手袋の元々の色も。次々に頭に浮かぶ調査方針を素早くまとめながらシュラインは手帳にペンを走らせた。
「ゆかりさんは何をするつもりなんでしょう」
小さな両手を膝の上で揃え、真帆は目を伏せたまま半ば独り言のように言う。「まだ分からないけど、あまり良くないことを考えてる気がする」
「復讐したいの、かな。母親を殺されたらそう思っちまうのも仕方ないけど。それに」
北斗がやや暗い目で呟いた。「彼女の記憶が無いのは、もしかして目の前で事故を見たからじゃないか?」
「その可能性はあるわね。彼女自身が罪の意識を抱いてしまうような何かがあったとか」
たまたま見かけた娘の姿を追って、手袋を握って道路に飛び出して事故に遭った――という可能性も気懸かりである。シュラインは手帳を閉じて素早くバッグの中にしまった。
「とにかく情報を集めなきゃ。とりあえず知り合いの刑事さんに事故の詳細を聞いてみる。安達さんのご近所や同僚への聞き込みも」
「私、事故当日のゆかりさんの行動を調べてみてもいいですか? もしかして事故の現場にいたんじゃないかって、気になって」
「そうね。もちろんそれも調べなきゃいけないし、お願いできる?」
真帆は「はい」と微笑んでぴょこんとソファから降りた。その拍子に柔らかいスカートがふわりと持ち上がり、慌てて膝の上から裾を押さえる。その愛らしい動作と、慌てて真帆から顔を背ける北斗を見比べてシュラインは思わずくすりと笑った。
草間の調査資料によると、安達京子の勤め先は都内の某インテリア会社であった。大学を卒業した後に就職し、産休と育休を経て三年前に事故で亡くなるまで正社員として勤務していたらしい。
「働き者でしたよ。子供がいて大変だったでしょうに、そんなこと一言も言わないで。え、結婚していた時の安達さんの姓ですか? “細川”ですけど」
「仕事熱心な人だったよ。それが祟ったのかねぇ、家庭のほうはあんまり……離婚したんだよ。亡くなる二、三年くらい前に」
「娘さんが一人いたんじゃなかったかしら? 旦那さんがどうしても譲らなかったから泣く泣く親権は渡したらしいけど、離婚後も娘さんとは仲が良かったみたい。定期的に会って食事したり買い物したりしてたみたいよ」
「立川か……。安達さんと同じ部署だったから、色々と目をかけてもらってたっけな。ほら、あいつちょっと頼りないところがあるから。しっかり者の安達さんからしたらほっとけないって感じで、可愛かったのかもな」
「付き合ってるっていうのは本当だったと思うよ。それが原因で離婚したんじゃないかって話もあるけど」
勤め先で得られた証言はこんなところであった。次は安達京子の近所への聞き込みである。もちろん、移動の合間に知り合いの警察官に電話をかけ、事件の資料を見せてもらうように頼んでおくことも忘れない。真帆のほうは草間に伴われて三年前の事故当日のゆかりの行動を調べに出向いている。
「娘と仲良しだったんだな」
シュラインの半歩後ろを歩く北斗がぽつりと呟いた。「手編みのマフラーをプレゼントしてたくらいだし。そんな母親が殺されたら、そりゃ、な」
北斗が吐く溜息は白い水蒸気となり、曇天の空に緩慢に吸い込まれていく。
「殺されたわけじゃないと思うわ。安達さんが自分から車に飛び込んで行ったっていう証言もあるし」
「見合いしてたっていうじゃねぇか、立川は。見合い相手との話がまとまりそうになったから安達京子が邪魔になって……っていう気持ちもあったかも知れねえぜ」
「立川さんは毎年欠かさず安達さんの墓前に立ってるっていうじゃない。疎ましく思っていた相手のためにそんなことするかしら?」
地下鉄を乗り継ぎ、市街地から少し離れたこぎれいなマンションへと到着する。安達京子がここの503号室に住んでいたことは事故の記事と草間の資料から調査済み。エレベーターで五階に上がり、京子の部屋の隣の502号室の呼び鈴を押した。
中から顔を出したのは中年の女性を見てシュラインは期待を抱いた。昼間のこの時間に家にいるということは専業主婦か何かなのであろう。家にいる時間が長いのなら隣室の物音などにも気付いているかも知れないし、安達京子の様子や暮らしぶりを聞けるかも知れない。
「お忙しいところ、すみません。ちょっとお伺いしたいことが」
「何?」
怪訝そうにシュラインを見た女性の目が、学ラン姿の北斗を見て不審の色に変わる。身分を明かさないほうがいいと察したシュラインの頭に咄嗟に嘘の言い訳が閃いた。
「私たち、安達京子さんの親類の者です」
「おい――いっ!」
ヒールで爪先をふんずけられ、北斗の顔がくしゃくしゃに歪む。だがシュラインは涼しい顔だ。
「三年前に安達さんが亡くなった事故のことが気になって、会社の方やご近所の方たちにお話を聞いて回っているところなんですが」
意図が通じたのか、シュラインが話す間も北斗は決して悲鳴を上げなかった。シュラインの言葉にうんうんと懸命に肯いている。彼の目尻に小さく浮いた涙に気付き、シュラインは心の中で小さく「ごめんね」と言い添えた。
「ああ、あのバツイチキャリアウーマンね。男がいたんでしょ? ここにも出入りしてるの見たことあるもの」
女性はひどく世俗的な言い方で安達京子を評し、玄関ドアを大きく開いて訳知り顔を作った。「愛人の車にはねられたんだってねぇ? あんな可愛い娘もいたのに」
「娘さんとは仲が良かったそうですね?」
「ええ、よくここにも遊びに来てたわよ。確かゆかりちゃんって言ったと思うけど。でもねぇ」
そう前置きして女性が語った事実はシュラインにとって意外なものであった。「事故の少し前は、あんまり仲が良くなかったみたいね。娘が来る度に喧嘩する声が聞こえたもの。娘のほうが派出に怒鳴ってたわ」
「喧嘩とは、どのような?」
「どうも愛人のことだったみたいよ。娘にとっちゃ年下の男にイレ込んでる母親が許せなかったんだろうねぇ。娘より男を選んだんでしょ、なんて聞こえたこともあったし」
にわかには信じ難い話であった。草間から聞いたゆかりの様子にはまるで符合しない。
次に逆隣の501号室の住人へコンタクトを試みる。住人の男性は502号室の女性とほぼ同じようなことを証言した。さらにその後何人かに聞き込みを行ったものの目新しい情報は得られず、二人はマンションを後にした。
「わかんねぇなぁ」
北斗は頭の後ろで両手を組んで舌打ちする。「本当なのか? 彼女が母親のことをそんな風に思ってたなんて」
「あの女性、警察にも事情を聞かれたって言ってたわ。警察の資料にも証言内容が書いてあるはず。警察で資料を受け取って、事務所に帰って検討しましょう」
吹き付ける寒風などものともせず、シュラインは凛と背筋を伸ばして歩き出した。
沢木警部補が務めている宮本署に立ち寄り、耀がまとめた事故の資料を受け取って興信所に戻ると零が出迎えた。草間と真帆はまだ戻っていないという。草間の携帯に電話をして事務所に帰った旨を連絡し、零が淹れてくれたコーヒーのカップを片手にシュラインは素早く資料をめくる。最初に声を上げたのは資料に添付されていた写真を見ていた北斗であった。
「これ、あの手袋だよな?」
北斗が示したのは車にはねられた安達京子が握っていたという手袋の写真であった。写真の下に記された注意書きを見てシュラインは眉を動かす。
写真の手袋は真っ赤であった。だが鑑識で調べた結果、赤い色は血液によって染まったものであり、元々の色は白であったことが明記されている。安達京子の部屋に残っていた毛糸は白だけで、赤い毛糸は見つからなかったそうだ。
「どういうこと」
顎に置いたシュラインの指がかすかに震えた。血液だというのなら、あの鮮やかな赤色はどう説明すれば良い?
資料をめくる白い手と紙の上を走る青い瞳が速度を増す。事故当夜、見合い相手は立川をデートに誘ったが断られ、複数の女友達と過ごしていたこと。手袋は包装されておらず、裸のまま安達京子の手に握られていたこと。彼女はその日一人で都内のレストランに入り、その後少し離れた公園に立ち寄った後で立川の車にはねられたこと。一方、立川は京子との関係を認めており、見合いの話は元々断ろうとしていたことも明かしたこと。事故があった日は通常通り勤め先に出社し、仕事を終えてほぼいつも通りの時間に退社していたこと。彼女をはねた時、立川は自宅から少し離れた酒屋に行く途中で、一人で車に乗っていたこと。その夜、立川は安達京子と会う約束はしていなかったこと。そして安達京子には一度の離婚歴があり、別れた夫との間に細川ゆかりという娘がいること。娘の親権は元夫が持っており、娘は元夫の家で暮らしていること。事故の半年ほど前から、娘との仲があまり良くなかったこと――。資料には概ねそんなことが書いてあった。
「レストランの後で公園に? 何しに行ったんだろう」
北斗はテーブルに片手をついて唸る。公園に行ったこともそうだが、シュラインが気になっているのはその直前のことであった。なぜクリスマスにわざわざ一人でレストランに行ったのだろう。捜査資料によれば、事故に遭った時の安達京子の服装はノースリーブのワンピースにハイヒール、ファーつきのロングコート。誰かに会うための服装だったと考えるほうが自然だ。ところが相手は現れず、その上、相手は立川ではないという。
(もしかして――)
ある可能性がシュラインの頭に浮かんだ時、億劫そうに軋んだ音を立てながら玄関が開いた。草間と、マフラーに手袋、耳当てで完全防備した真帆が戻って来たところであった。
「寒かった」
淡いピンク色の手袋をはめた両手をこすり合わせ、真帆はきゅっと顔をしかめる。「あったかいお茶が飲みたい。皆さんもどうですか?」
「それもいいけど、その前にこれ見てくれる? 警察の人にお願いして見せてもらった事故の記録なんだけど」
シュラインが差し出した資料を真帆は「はあい」と言って受け取った。のんびりとした手つきでめくりながら、大粒の瞳をくりくりと動かしている。シュラインはやや急かすように「ねえ」と口を開いた。
「詳しいこと、分かった? 事故当日のゆかりさんの行動」
「立川さんは本当に安達さんとお付き合いしてたんですね。単なる噂じゃなかったんだ」
真帆は資料に目を落としながら呟く。「答えになってねえじゃねえか」と言いかけた北斗を制し、シュラインは笑顔を作って話を合わせた。
「ええ。近所の人が安達さんの部屋に出入りする立川さんを見ているし」
得た情報を簡潔に語って聞かせる。真帆は半テンポほど遅れて肯きながら聞いていたが、途中でふと顔を上げた。
「ゆかりさん本人は何も覚えてないかも知れないから、ゆかりさんのお父さんに聞いてみたんですけど。ゆかりさんはすごいお母さんっ子だったんですって。自分がお父さんに引き取られたのを不満に思ってるくらい」
そして唐突に自分の調査結果を話し始める。「ゆかりさん、イブの夜に安達さんから食事に誘われていたそうです。でもゆかりさんがすっぽかしたらしくて。それで安達さんがゆかりさんに電話して、ゆかりさんのおうちの近くの公園で会うことになったって聞きました」
シュラインは青い瞳をかすかに見開いた。先程北斗が指摘した公園の件も、シュラインが不審に思った安達京子の服装の件もこれで説明がつく。
「でも、その後が」
真帆はつらい記憶でも思い出すようにかすかに顔を歪める。「少し経って、ゆかりさんはすごく怒った顔で帰って来たそうです。それで、お父さんにこんなことを話して――」
シュンシュンシュン、と蒸気が沸き出す音が事務所に流れた。ボロストーブの上に置かれたやかんの湯が沸騰したらしい。しかしシュラインも北斗もやかんなど気にかけることはなく、ただ黙って真帆の言葉に耳を傾けている。零が黙ってやって来てストーブの上からやかんを持ち上げ、台所に入って行った。
「……マジかよ。ひでぇよ」
北斗は壁に激しく拳を叩きつけた。シュラインも思わず溜め息をつく。――まさか、そんなやり取りがあったなんて。
「公園から帰って来た後、ゆかりさんはずっと家にいたそうです。もちろん安達さんがはねられた時も家にいました。だから、ゆかりさんが事故現場にいたっていうことはないと思います。事故直後、ゆかりさんは三年前のイブのことを全部……手袋のことも忘れてしまったから、警察から戻ってきた遺品を“お母さんの最期のプレゼントだ”って言ってお父さんが渡してあげたそうです」
真帆は静かな口調で話を結んだ。
「くそっ」
北斗は激しく舌打ちし、その場をせわしなく行き来する。「細川ゆかりは一体何をしようとしてるんだ? やっぱり立川を――」
「心中、でしょうか。憎しみより悲しみに疲れた様子が気になって」
ぽつりと呟いた真帆の言葉にシュラインは思わず息を呑む。北斗も顔をこわばらせて真帆を振り返った。可能性がゼロではないと悟ってはいたが、最悪のケースとして最後まで除外しておきたい選択肢であった。真帆は二人の顔をおずおずと見上げ、その後でまた目を伏せて言った。
「ゆかりさんのお父さんから、少し気になることを聞きました」
シュラインは無言で真帆を急かす。真帆は小さな唇をきゅっと巻き込み、少し間を置いてから口を開いた。
「去年も、おととしも……イブの夜にお母さんのお墓参りに行って、過呼吸で倒れて病院に運ばれているそうです」
「何ですって?」
「PTSDの一種じゃないかってお医者さんに言われたって聞きました。救急車で運ばれて、病院で意識が戻るとイブの記憶を全部なくしてるって」
PTSD――心的外傷後ストレス障害。心にひどい傷を負った時に起こる心身の不調の総称。フラッシュバック、体の過度な緊張などがその代表的なものだ。犯罪や事故の被害者、その目撃者、あるいは大災害の被災者などのケースがよく知られている。
そうか、とシュラインは内心で舌打ちした。母の死とイブの記憶がないのもそのせいなのかも知れない。自分にとってあまりにつらい事実を頭から消し去るために、クリスマスイブの記憶ごとふたをしてしまったのだろう。それに――イブの夜に墓参りに行くのなら母の墓前で立川と対面している可能性がある。母のことについて立川から何かを聞いたとしたら?
「立川が墓参りに行くのはイブの深夜。彼女が立川に何かをしようとしてるならその時を狙ってる可能性が高い。張り込んでみるのが一番確実なんじゃないか」
シュラインたちが考えていることを見抜いたのか、草間が煙草に火をつけながら言う。シュラインは小さく肯いて唇を引き結んだ。ゆかり自身を含め、彼女が誰かの命を脅かすつもりなら止めると最初から決めている。
「私は本人に任せます」
真帆は短く言った。その後で「ゆかりさんを信じているから」と付け加える。対照的に、「俺は」とやや声を荒げて断言するのは北斗であった。
「――止める。絶対に止めてみせる」
北斗は唇をかすかに震わせ、ポケットの中できつく拳を握り締めた。「復讐は悲しみしか生み出さない。それに、クリスマスくらい幸せでいてほしいから」
「そうね。その通りよ」
シュラインは北斗の肩を軽く叩き、窓の外に目線を投げた。
外は相変わらずの暗い曇天である。天気予報ではイブは雪になるかも知れないという。12月の東京にしては珍しいことだ。だが、どうやらロマンチックなホワイトクリスマスというわけにはいかないようである。
ちらちらと、雪が降り出していた。
高速道路沿いにひっそりと建てられた墓地。門も扉もないその場所は24時間365日好きに出入りができる。不用心だと思わないでもないが、立川にはそのほうが都合が良い。家族の目につかずに、たった一人でこの場所を訪れることができるのだから。
愛しい人が眠る場所へは目をつぶっていても行ける。この場所を訪れられない間、何度この地を瞼の裏に思い描いただろう。本当は月命日ごとに訪れて、墓をきれいにしてやりたかった。だが立川にはそれすら許されないし、する資格もない。年に一度の命日の最後、日付が変わりかけるほど夜が更けたこの時間だけが、立川が得られる安息の刻であった。
墓の前には線香を燃やした跡があった。墓石の前に活けられた花弁や葉の色はあまりにも鮮やかで、瑞々しい。用意してきた小さな小さな花束を遠慮がちに差し込み、こうべを垂れて手を合わせたその瞬間だった。
背後で足音と、人の気配がした。
こんな時間に墓参りをする人間が他にいるとは思えない。
振り返ると、闇の中に白いコートと白いマフラーがかすかに浮かび上がって見えた。
「今年も来たんですね」
自分より年下のゆかりに立川は敬語を使って話しかける。ゆかりは不快そうに唇を歪めた。
「あんたと会うのは初めてよ。二度と見たくない顔だけど」
ゆかりの顔は真っ白だった。元々色が白いほうなのだろうが、不自然なほど蒼白である。
「よく平気でお母さんのお墓になんか来られたものね? お母さんを殺しておいて」
「そう、ですね」
立川はくたびれたように微笑んだ。その頬はげっそりとこけ、夜の闇よりも暗い陰影が落ち込んでいた。
「僕がいなければ京子さんは死なずに済んだんだから」
「気安くお母さんの名前を呼ばないで!」
ヒステリックなゆかりの叫び声は雪が舞う静寂に響き、湿った残響を伴って、消える。
「そうですね」
もう一度言い、立川はゆかりに向ってその場でだらんと両腕を広げた。「ね……もう終わりにしましょう。今年こそ、外さないでください。今年は何も言いませんから」
「わけの分からないこと言わないでよ」
コートのポケットに差し込まれたゆかりの手がぐっとこわばる。――しばし、沈黙が静寂を支配した。
「人妻だって知ってたくせに、お母さんに手を出して」
ややあって、ゆかりが口を開いた。咳込むような性急な口調だった。
「そのくせ若い女との見合い話に簡単に乗って。お母さんが邪魔になったんでしょ? 自殺してくれてラッキーだって、本心では思ってるんじゃないの?」
立川は答えない。涙を溜め、真っ赤に充血した目にありったけの憎悪を乗せてゆかりは立川を睨みつける。しかし、立川の口から出たのは意外な言葉であった。
「その通りです。それですべて丸く収まるのなら」
「……何、言ってるの」
ゆかりの顔がかすかに歪む。かすかに、しかしはっきりと乱れ始める呼吸。それに気付いた立川はゆかりに歩み寄った。ゆかりはかすかに体を震わせて目を上げた。
「あたしは」
色を失った唇から蚊の鳴くような細い声が漏れる。「毎年、クリスマスイブの記憶がないの。お母さんが死んで以来、ずっと。こんなのもう嫌! 終わりにしたいの、だから――」
「忘れたままでいい。思い出す前に、早く。でも、あなたは生きてください」
急かすような立川の口調。ゆかりは小さく目を揺らす。立川はコートのポケットに突っ込まれたままのゆかりの腕を性急に掴み、やや強引に持ち上げた。
真っ赤な手袋をはめたゆかりの手には、鋭く光るアーミーナイフがしっかりと握られていた。
「さあ、早く。死ぬのは僕一人でいい」
立川はゆかりの手首を掴み、ナイフの切っ先を自分の左胸にぴたりと向けた。
研ぎ澄まされた刃にひらひらと雪のかけらが舞い落ちた。冷たい刃の上で、脆弱な結晶は溶けることなくその姿を保ち続ける。まるでこのナイフの上でだけ、時間が止まっているかのように。
だが、その静寂は不意に破られた。
「ゆかりさん、よしなさい!」
シュラインの鋭い声。その声よりも一瞬早く、墓石の影から北斗が飛び出していた。
ゆかりも立川もぎょっとしてその場に立ちすくむ。北斗はその隙を逃さなかった。思いっきり踏み込み、全身のバネを腕に乗せ、握り締めた石を二人の手目がけて投じる。予め手頃な石をみつくろってポケットに入れておいたのが幸いした。矢のように放たれた大粒の石がナイフを持ったゆかりの手の甲に命中する。ゆかりの顔が歪むのとナイフが地面に落ちるのとは同時であった。その間に全力で駆けたシュラインはゆかりを抱きすくめ、立川から引き離すようにしてその場に倒れ込んだ。膝にちりっとした痛みと熱が走る。北斗は茫然とその場に立ち尽くした立川を突き飛ばしてナイフに足を飛ばした。蹴り飛ばされたナイフは湿った金属音を立ててコンクリートの上を転がっていった。
「大丈夫?」
珍しくやや息が乱れている。シュラインはともに倒れ込んだゆかりを抱き起こし、白いコートについた土を丹念に払ってやりながら尋ねた。赤い手袋を外してやると北斗の石が当たった手の甲が赤く腫れ上がっているのが闇の中でも見てとれる。シュラインの膝にもわずかに血がにじんでいた。倒れる寸前に腕をついたため、ストッキングが破れて膝小僧が擦りむいた程度で済んだらしい。
「どうして……」
ゆかりの目がシュラインと北斗、そして墓石の影からゆっくりと現れた真帆の顔の上を落ち着かなく行き来する。
「全部調べました。あなたのことがとても気になったから」
真帆はスカートが汚れるのも構わずに湿った土の上に膝をついた。ゆかりの右手を取り、レースのついたハンカチを傷の上に丁寧に巻いてやる。
「立川さん」
シュラインは着衣についた汚れを払い落とし、ゆっくりと立ち上がった。「あなた、本心から望んでお見合いをしたんですか?」
立川の目がどうしようもなく揺らめくのがはっきりと分かった。
「……お袋に、いい加減身を固めてくれって泣きつかれて」
やがて、立川はうつむいてその言葉を低く押し出した。しかし握り締めた拳はわなわなと震えている。
「僕は京子さんと一緒にいられればそれで良かった。でも、親父の体調が良くなくて、親父が生きてるうちにどうしてもとお袋に言われました。だから一度見合いをすれば親も納得するだろうと思った、もちろんそれは京子さんに話しました。なのに京子さんは“私と一緒にいたんじゃあなたは幸せになれない”と――」
「あんたのために身を引こうとした、ってか?」
北斗の言葉に立川は力なく肯いた。
「嘘よ!」
狼狽を目に浮かべ、ヒステリックに叫んだのはゆかりだった。「お母さん、あんた、とは別れる、って――」
シュラインは眉を吊り上げた。ゆかりの顔面は蒼白で、息の吸い方も明らかにおかしい。それに気付くと同時に、救急車を呼ぶようにと北斗に素早く指示を出す。北斗は慌てて携帯を取り出して119番を押した。
「ゆかりさん、落ち着いて」
クリスマスイブの記憶が戻り始めているのかも知れない。その場に膝をついたゆかりの肩を抱き、懸命にさする。真帆がポケットに入れておいたビニール袋を取り出してゆかりの口にあてがった。ゆかりが過呼吸を起こした場合に備えて持って準備していた物だ。救急車が来るまでの間、これで少しでももたせられればよいのだが。
「おかあ、さんは……」
「いいから、喋らないで」
お願いだから、とシュラインは懸命にその言葉を繰り返す。「教えてくれなくても大丈夫。全部、分かってるから」
シュラインの脳裏に、ゆかりの父が語ったという事実がまざまざと再生された。
離婚したのはゆかりが十六の時でした。当時、ゆかりは立川康介のことをまったく知らなかったんです。事故の半年くらい前になって、たまたま何かのきっかけで京子に男がいたことを知りました。
働くお母さんはかっこいい、大好きだといつもゆかりは言っていました。離婚して私に引き取られた時のショックの受けようと言ったら……。「お母さんはあたしより男を選んだんだ」って、そんなことばかり言っていました。浮気した女なんかに娘を渡してたまるかと私が強引に親権をとったんです、もちろんゆかりには経緯は話していません。立川のことを知ってからは京子と会う度に喧嘩して帰ってくるようになって。あのクリスマスイブだってゆかりは京子と二人でレストランに行く予定でした。ずっと前に予約を入れてあんなに楽しみにしていたのに、ゆかりは結局約束をすっぽかしてしまって。
その夜遅くに京子からゆかりに連絡がありました。プレゼントだけでも渡したいからと。ゆかりは行きたがらなかったのですが、行くようにと私が勧めました。公園で待ち合わせて、立川が見合いをしたこと、立川とは別れるつもりであることを告げて、京子はゆかりに手袋を渡したそうです。手編みの真っ白い手袋を。
でもゆかりは受け取らなかった。包装を開けて中身を見て、手袋を京子に投げつけたそうです。
「男が駄目なら次は娘ってわけ? 馬鹿にしないでよ。こんな手袋で機嫌とろうとしたって無駄だからね、あんたなんか大嫌い!」と。
……その後、京子は立川の車にはねられました。警察からは自殺と聞いています。車に飛び込むように道路に飛び出したと。
それが、ゆかりの父が真帆に語ったすべてだった。
少しずつ雪が強くなっていた。
「最愛の娘さんに拒絶されて、自暴自棄になったのかも知れない。安達さんは、立川さんが週に一度お酒を買いに出かけることを多分知っていたんでしょうね。それが三年前はたまたまイブの曜日と重なった。だから立川さんの車が通るのを待って……」
事故後にことのあらましを聞いたゆかりは深く傷つき、自分を責め、京子の事故に関する記憶を全て大脳から追いやってしまった。そして人づてや当時の新聞記事からでも立川康介のことを知り、草間に調査を依頼した。調査結果から、見合いをした立川が京子を疎んじて自殺に追いやったというストーリーを作り上げることで自分を納得させ、真実を覆い隠していた……。それが、今回の真相なのだろう。
「ゆかりさんは去年もおととしもここにやって来て、僕を殺して自分も死ぬと言いました」
立川はその場に膝をついて、声を震わせていた。「どうせ死ぬならと、ゆかりさんにはお見合いのことをきちんと話しました。それが引き金になってしまったんでしょう、嫌なことを全部思い出して混乱して……次の年もゆかりさんは同じことを言って、同じようにここに来ました。前の年のことは全部忘れているみたいで話が通じなかった。仕方なくもう一度話したら、また同じように」
シュラインの唇がかすかに、しかしはっきりと歪む。
クリスマスイブの度に身を切られるような記憶に苛まれる。それがあまりにつらいから、次の日には立川や母の事故のことは全部なかったことにして記憶から消してしまう。記憶にないから、次の年も同じことを繰り返す。そしてまた記憶の刃に容赦なく切り刻まれ、その痛みから逃れるために記憶を消して。
ゆかりは、その繰り返しだったのだ。
不意に甲高い声が雪の隙間を切り裂いた。ゆかりだった。それは声ではなかった。ただの、高周波の音でしかなかった。過呼吸の状態でどうしてこれほどと思うほどの大音響であった。
「しっかりしろよ!」
北斗がゆかりの肩を強く掴む。ゆかりは喉をひゅーひゅーと鳴らしながら、それでも目線だけは北斗に向けた。
「ちゃんと向き合うんだ。つらいけど受け止めなきゃ。悲しいクリスマスはもうこれで終わり、来年からは楽しいクリスマスを過ごせるように。な?」
ゆかりは首を横に振り、叫ぶだけだった。嫌々をして泣き叫ぶ子供のように。
「おかあ、さん、は」
そして、口に当てたビニール袋越しに途切れ途切れに言った。「あたし、より、たちか、わ、を……」
「違うと思いますよ」
真帆がゆっくりと首をかしげ、言った。ゆかりの目が苦しげに動き、真帆の顔の上で揺れながら止まる。
「警察の人から聞きませんでした? 立川さん、クリスマスイブは安達さんと約束してなかったんですよ。そうでしたよね?」
同意を求めるように立川を振り返ると、立川は小さく肯いて「イブは大事な予定があると言われてましたから」と付け加えた。
「ほらね。どうしてか分かりますか?」
という真帆の問いにゆかりはかすかに首を横に振るしかない。真帆はにこりと笑い、ゆかりの両手をそっと握り締めた。
「だって、クリスマスは一番大事な人と過ごすものだから」
真帆の言葉に、ゆかりの目が大きく見開かれた。
「だから立川さんじゃなくて、ゆかりさんと約束したんですよ」
ね? と真帆は両頬にえくぼを浮かべて微笑んだ。
ゆかりの目の縁に涙が盛り上がり、静かに堰を切って、流れる。雪にかすむ闇の奥に救急車の赤いランプが見えた。シュラインは手袋をはめたゆかりの手を取り、ハンカチを巻いた右手を温めるように重ね、更に右手から外した赤い手袋をその上にそっと重ねた。
だが――次の瞬間、シュラインの瞳がはっと見開かれた。
真っ赤だった手袋がまだら模様になっているのだ。雪が落ちて溶けた跡が、そこだけ絞って染めたかのように白くなっている。北斗と真帆も気付いて目を丸くした。
赤い色が、抜けていく。
雪が舞い降りるごとに、深紅の手袋が少しずつ白くなっていく。
すべてを洗い流すかのように。
すべてから解放されるかのように。
優しく降り注ぐ雪が、ゆっくりと、音もなく、手袋を白へと戻していく。
救急車が到着したらしい。駆けつける救急隊の足音、ストレッチャーが走る音。隊員らは素早くゆかりをストレッチャーに乗せる。ゆかりの呼吸は多少落ち着いており、意識もあるようだ。しかし念のため病院にということで搬送の手筈が整えられる。
ゆかりの目がシュラインたちの顔を順々に見つめる。その口が「ありがとう」と動いたような気がした時には、救急車のハッチが閉まっていた。
(血が……安達さんの思いが、手袋に残っていたのね)
肩にうっすらと積もった雪を払うことも忘れ、シュラインは考える。(血が鮮やかな色を保っていたのもそのせいかしら。安達さんの時間は、三年前の事故の時で止まっていたんだから。ずっとずっとゆかりさんに気持ちを伝えたくて……)
来年からは穏やかなクリスマスを過ごせればいい。サイレンを鳴らして走り去る救急車の背中を見ながら、シュラインは心からそう祈っていた。
事務所に戻った頃には日付が変わってしまっていた。明かりはまだついていたが、草間はデスクの上で突っ伏していびきをかいている。シュラインの帰りを待っている間に眠ってしまったのだろう。シュラインは足音を立てないようにデスクの前を横切り、事務所の奥へと入って行った。
(手袋か)
隠しておいた小さな包みを取り出し、渡す相手の顔を思い浮かべながら軽く胸に抱く。(悪くないわよね)
相手の目につかないようにしまっておいたクリスマスプレゼント。――中身は、革の手袋だ。
今回の事件と繋がってしまいそうで、渡しても喜んでもらえるかどうか不安だった。だが今は大丈夫だと思える。悲しいすれ違いがあったにしろ、ゆかりの手袋には母の気持ちがこめられていたのだから。
「帰ってたのかー? ご苦労さん」
間の抜けた草間の声と足音。頭に寝癖をつけて現れた草間は、シュラインが反射的に包みを腰の後ろに隠したことに気付いて寝ぼけ眼を軽く開く。
「何だ? 何隠した?」
答える代わりに、シュラインはプレゼントを体の前に差し出して微笑んだ。
「メリークリスマス、武彦さん」 (了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
5698/梧・北斗(あおぎり・ほくと)/男性/17歳/退魔師兼高校生
6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生・見習い魔女
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマ様
ほぼ一年ぶりの挨拶となります。たいへんご無沙汰しておりました、宮本ぽちです。
今回もご注文&緻密なプレイングをありがとうございました。
プレゼントの件…偶然の一致とはいえ、驚きました。
バッドエンドにする予定は最初からなかったのですが、いかがでしたでしょうか?
どうか安心してプレゼントを渡せましたように。。
それでは、今回のご注文重ねてありがとうございました。
良いクリスマスを過ごされますよう…。
宮本ぽち 拝
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