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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


リフレイン −深紅の手袋−





 色の白い、少女の面影を残した女性であった。
 二十歳過ぎであろうか。だが、年齢の割にはずいぶんと大人びた表情をしている。何より目を引いたのは服装であった。白いスカートに白いコート、白いマフラー、白いブーツ。コートの下はやはり白いニットのセーター。手にしたトートバッグも白である。バッグの口からちらりとのぞいた携帯電話も白であった。
 それなのに、手袋だけが赤なのである。妙に鮮やかで、そう、まるで――鮮血の色のような。
 (今年も来たか)
 シケた煙草を口の端で揺らしながら、草間は疑念を隠さない。(毎年同じ格好してるな。真っ白な服装と、真っ赤な手袋と)
 細川ゆかりという名のこの女性が初めて草間興信所にやって来たのはおととしの十二月。クリスマスの気配が濃くなった時期である。依頼内容は簡単。立川康介(たちかわこうすけ)という男の身辺を、家族構成から一日の行動パターンまで詳しく調べてくれというものであった。
 怪奇とは関連のなさそうなまっとうな依頼に気をよくした草間は、短期間で徹底的にその男のことを調べ上げた。ゆかりも調査結果に満足し、きっちり料金を払って草間の元を辞した。ただ、立川康介のことを調べてどうするのか、ゆかりと立川の間にどういう関係があるのか、そういった問いには絶対に答えてくれなかった。
 他人に言えないことくらい誰にだってある。興信所に素行調査を依頼するくらいなのだから何かわけありなのだろう。草間もプロの探偵だ、仕事上支障がない限り依頼人のプライバシーに立ち入るような真似はしない――が。
 その翌年の十二月も、そして今年の十二月も、ゆかりは再び草間興信所を訪れたのだ。立川康介の身辺を調査してほしいと言って。
 もちろん草間は言った。立川のことは去年も調べて、きっちり結果を渡していると。調べてほしいと言うならきちんと調査を行うが、同じ人物のことを二度も調べてどうするつもりなのかと。
 するとゆかりは心底戸惑ったような、怪訝そうな顔を草間に向けて言ったのだった。
 「意味が分かりません。立川の調査をお願いするのは初めてです。それ以前に、ここにお邪魔すること自体初めてなんですけど」
 嘘を言っているようにも見えず、草間は「ほう」と言って目を細めた。
 ゆかりは今年もやって来て、立川の調査を依頼した。草間は何も言わずに立川の身辺調査を行い、その結果を今、ゆかりに渡したところである。ゆかりは短く礼を言ってファイルを受け取り、大事そうにバッグにしまい込んだ。それと入れ代わりに調査料金の入った茶封筒を取り出して草間に渡す。草間は曖昧に礼を言って受け取った。
 「なあ」
 白いコートを着込んで真っ赤な手袋をはめ、興信所を出ようとするゆかりに草間は声をかけた。「その手袋、どうしたんだ?」
 ゆかりは整えられた眉を軽く中央に寄せ、なぜそんなことを聞くのかとでも言いたげな表情で草間を振り返る。草間は「いや、何ね」と小さく肩を揺すって続けた。
 「全身白できれいにコーディネートしてるのに、手袋だけ真っ赤だ。ちょっと統一感がないんじゃないかと思ったもんでな」
 余計な御世話かも知れないが、と付け加えて短くなった煙草を灰皿に押し付ける。去年もおととしもゆかりは似たような格好をしていた。白で揃えた服装に、真っ赤な手袋。持ち物まで白で統一するくらいなら、手袋だって白いものを着けるのが自然であろう。
 ゆかりはにこりと笑ってみせた。疲れたような、悲しそうな笑みだった。
 「この手袋、お母さんの手作りなんです。この白いマフラーも。あたし、白が好きだから」
 手袋と、首に巻いたマフラーを示して呟くように言う。店頭で売っている品とさほど変わらない見栄えに草間は思わず感嘆の声を漏らした。
 「手作りか。見事なもんだな」
 「でしょ」
 ゆかりは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は思いがけずあどけなくて、初めて年齢相応の顔になる。「お母さんは編み物が上手でしたから」
 「上手でした、とは?」
 過去形の語尾を訝しんだ草間は目を上げて問う。
 ゆかりは小さく首を傾け、唇の両端をきゅっと持ち上げた。無理に笑顔を作ろうとでもするかのように。
 「死にました」
 「何だって?」
 「死にました」
 感情のない声で、もう一度ゆかりは繰り返した。「三年前のクリスマスイブに、交通事故で。この手袋はお母さんの最期のプレゼントです。車にはねられた時に、しっかり握っていたそうで」
 草間の眉が厳しい音とともに吊り上がる。三年前のクリスマスイブ。草間が調べた立川康介のデータの中に、それに深く関連する事項があったはずだ。
 「それ以来、毎年クリスマスの記憶だけが抜け落ちるようになりました」
 ゆかりは真っ赤な手袋をいとおしそうにさすりながら抑揚のない声で続けた。「去年もおととしも……お母さんが死んだ年も、クリスマスイブの記憶がありません」
 草間は何も言わずに、目だけで相槌を打った。去年もおととしもこの興信所を訪れて同じ依頼をし、しかもそれを覚えてないという不可解な事象もそのせいなのだろうか。
 「お母さんが死んだことだって、家族から聞いて知っているだけって感じで。あたしはよく覚えてないんです」
 母の死が自分の記憶として残っているわけではないのだと言い、ゆかりは頭を下げて草間の元を辞した。



 「兄さん、何やってるんですか!」
 ただでさえ汚い事務机の上をひっかき回す草間に零が悲鳴を上げる。しかし草間は零の制止を無視し、机の上のどこかにあるはずのファイルを探し続ける。やがて掘り出したのは一枚のクリアファイルだった。中に挟んであるのは黄ばんだ新聞のスクラップ。社会面の片隅に載るような、ありふれた小さな記事である。
 「やっぱりな。見ろ、零」
 そして零の目の前にその記事を差し出す。何か言いたそうに口をむずむずさせた零だったが、記事に目を通すなりその瞳を幾度か瞬かせた。日付は三年前のものであった。

 “車にはねられ女性死亡”
 十二月二十四日夜、東京都××区の会社員立川康介容疑者(33)の運転する車が、道路に飛び出して来た会社員安達京子さん(42)をはねた。安達さんは近くの病院に搬送されたが、全身を強く打っており、間もなく死亡が確認された。関係者によれば、立川容疑者と安達さんは交際していたのではないかという。安達さんには離婚歴があり、立川容疑者は事故前に別の女性と見合いをしていた。

 記事の内容は大体こんなところであった。
 「もしかしたら、この安達京子ってのが細川ゆかりの母親なのかも知れない。苗字が違うから考えもしなかったな」
 草間は舌打ちして頭をかきむしる。もしゆかりの両親が離婚しているのであれば母子で姓が違っていることも説明がつく。
 「立川は業務上過失致死で懲役三年の執行猶予付き判決を受けてる。男女関係のもつれで事故に見せかけて安達さんを殺したんじゃないかという疑いもあったが、安達さんが車に飛び込むように道路に飛び出していったっていう目撃証言が複数あってな。結局安達さんの自殺ってことになって、立川の運転に特段の不注意があったわけじゃなかったし、だいぶ刑が軽くなったそうだ。で、現在は工場に勤めながら都内で一人暮らしだ」
 「ゆかりさんは立川さんのことを調べてどうするつもりなんでしょう」
 ある暗い想像が頭をよぎり、零はそう呟いて目を伏せる。「まさか……お母さんの復讐?」
 「さあな」
 草間は息をついて事務机の上に腰掛け、足を組む。「立川のことを細かく調べさせたってことは、少なくとも立川に接触するつもりなんだろう。その後はどうするつもりなのか――」
 それにしても、と草間は呟いて薄汚れた窓の外に目をやる。冬の空は低く、暗い。押しつぶされそうな重い雲の下で建物も人々もひっそりと息をひそめている。
 「クリスマスってのは楽しく過ごすもんなんじゃないのかねえ。あの子が何を考えてるか知らないが、少なくとも明るいことじゃなさそうだ」
 その後で、草間はあなたのほうを振り返って言った。「どうだ。いつもの仕事とはちょっと雰囲気が違うが、手伝っちゃくれないか?」



 零が淹れてくれたお茶のカップを小さな両手で抱え込み、ゆっくりと指先を温めた後でこくりと飲んだ。口の中に程良く広がった香りが優しく鼻から抜けていく。
 (ん。おいしい)
 さらにもう一口。その脇で、興信所の窓枠に背を預けた梧北斗が呟く。
 「調査を手伝うのは構わないけど……悲しすぎるよな。クリスマスだけ記憶がなくなるなんて、辛すぎるよ」
 俺も絶対明るいクリスマスのほうがいいって思うし、と北斗は強い口調で言い切った。まっすぐな感想に真帆は軽く目を細め、かちゃりとカップを置く。
 「赤い手袋……どうしてゆかりさんへのプレゼントだって分かったんでしょう?」
 そして緩やかに首を左右に傾けながら口を開いた。「色も赤だし。事故の時にお母さんが手袋を“しっかり握ってた”って言ってましたよね? 贈り物として包装されてたんじゃない感じがします」
 「そうね。包装されていたのかどうか、確認する必要がある。包装がなかったのなら安達さんへの贈り物の可能性だってあるし」
 それに、とシュライン・エマはボールペンのノック部分を顎に当てながら思案顔になる。「真帆ちゃんの言う通り、色が赤っていうのもひっかかるわ。もしかして――」
 シュラインが続きを口にする前に、「もしかしたら」と北斗が呟いた。
 「血じゃねえのかな。事故に遭った母親の血で、白い手袋が真っ赤に染まったとか」
 「もし血液なら」
 と草間が軽く片手を上げて北斗を制する。「あんな鮮やかな色はしていないと思う。三年も経ってるんだぞ? もっと黒ずんでいるはずだ」
 もっともな指摘である。シュラインも同じことを考えていたらしく、「そうね」と素直に肯いた。
 やり取りが終わったことを確認して真帆はおずおずと口を開いた。
 「最初から赤だったのかも。「赤い毛糸を運命の赤い糸に見立てて……例えば、“恋愛がうまくいきますように”っていう意味が込められてたとか」
 北斗が幾度か目を瞬かせた。その説は頭になかったらしい。真帆は瞳を伏せ、ややためらいがちに続ける。
 「あの、違うとは思うんですけど、立川さんのお見合いの相手がゆかりさんだったってことはないですよね? お見合いがうまくいくようにって、赤い毛糸で手袋を編んだとか」
 「なるほど。見合いの相手なら立川さんの調査資料を見れば確認できるわよね?」
 と言ってシュラインは草間を見上げる。草間は「分かってるよ」と言ってゆかりに渡した資料のコピーを三部差し出し、三人に配った。今年・去年・おととしと、三年分の調査内容が揃えられている。
 真帆は思わず「ああ、違いました」と声を漏らした。立川の見合い相手は全く別の女性であった。その女性は例の事故直後に立川との縁談を断ったことまで明記されている。しかも、見合い相手は以後一度も立川に接触していないらしい。そもそもこの見合いは立川の親が強引に進めた話とのことであった。田舎で暮らしている両親は老いており、父親は体を壊して入院しているという。「元気なうちに孫の顔が見たい」とでも息子に懇願したのであろうか。
 現在の立川は工場作業員として働いている。仕事ぶりは真面目そのもので、寡黙で人付き合いが皆無に近いことを除けば職場での評判は悪くはない。事故を起こす前は安達京子と同じ会社で働いていたそうだ。安達京子と交際していたという噂もほぼ真実と見ていいらしい。週に一度、夜遅くに車で酒を買いに行くのが立川の習慣で、事故を起こした日もそのために車を運転していたのだという。事故後の立川には女の噂は一切なく、毎年12月24日、つまり安達京子の命日には、深夜に欠かさず彼女の墓を訪れている――。資料の内容で手がかりになりそうな部分はこんなところであった。三年分の調査資料はどれもほぼ同じ内容で、この三年で変化したというべき部分は見受けられない。
 「ゆかりさんは何をするつもりなんでしょう」
 真帆は小さな両手を膝の上で揃え、目を伏せたまま半ば独り言のように言う。「まだ分からないけど、あまり良くないことを考えてる気がする」
 真帆の頭の中には既にある可能性が浮かんでいたが、それはまだ口にしなかった。それはあまりにも悲しい選択肢であるのだから。手がかりが揃っていない今の段階であえて提示する必要はない。
 それに――ゆかりが何を考えているにしろ、基本的には本人に任せるつもりであった。ゆかりを信じているから、止めるよりは彼女の行動を見届ける側に回りたい。
 「復讐したいの、かな。母親を殺されたらそう思っちまうのも仕方ないけど」
 それに、と北斗はやや暗い目で呟いた。「彼女の記憶が無いのは、もしかして目の前で事故を見たからじゃないか?」
 「その可能性はあるわね。彼女自身が罪の意識を抱いてしまうような何かがあったとか」
 シュラインは手帳を閉じて素早くバッグの中にしまった。「とにかく情報を集めなきゃ。とりあえず知り合いの刑事さんに事故の詳細を聞いてみる、業過致死として立件されたなら警察に当時の記録が残っているはずだし。安達さんのご近所や同僚への聞き込みも」
 「私、事故当日のゆかりさんの行動を調べてみてもいいですか? もしかして事故の現場にいたんじゃないかって、気になって」
 「そうね。もちろんそれも調べなきゃいけないし、お願いできる?」
 真帆は「はい」と微笑んでぴょこんとソファから降りた。その拍子に柔らかいスカートがふわりと持ち上がり、慌てて膝の上から裾を押さえる。その動作に微笑んだシュラインと、慌てて顔を背けた北斗に気付いて真帆は小さく頬を赤らめた。



 草間の調査資料によると、安達京子の勤め先は都内の某インテリア会社であった。大学を卒業した後に就職し、産休と育休を経て三年前に事故で亡くなるまで正社員として勤務していたらしい。そちらの聞き込みにはシュラインと北斗が出かけている。手袋にマフラー、耳当てで完全防備した真帆は草間に伴われて別の場所へと出向いた。
 安達京子がはねられた現場である。特に遮蔽物のない、片側一車線の見通しの良い直線道路であった。歩道も人がすれ違えるくらいの幅はある。通常人がなすべき注意さえ怠らなければ事故など起こりそうにもない場所だ。歩道と車道を区切る縁石の内側には花束や供物が供えられていた。真帆はそっとしゃがみ込み、持参した小さな花束を供えて手を合わせる。
 (安達さん。あなたの想いを教えてください)
 閉じた目をゆっくりと開き、安達京子に語りかけるように白く曇った空を仰いだ。(きっとゆかりさんに伝えるから)
 手編みの手袋。それだけでも充分に気持ちがこもった品だ。だが、その先にはまだ何かが秘められている気がしてならない。
 「誰かが定期的に来てるんだな、こりゃあ」
 並べられた花束や供物の数を数えながら草間がひとりごちる。数個並んだ花束はどれもまだ比較的新しい。それに、供物も花束も朽ちた物はひとつもなかった。誰かが頻繁にここを訪れ、古い物を回収し、新しい物を置いて行っているのであろう。
 「ゆかりさんでしょうか?」
 「だろうな。うちに来た時もあの様子だったし」
 「今でもお母さんが大好きなんですね。事故のこと、ショックだったんだろうな」
 真帆は淡いピンク色の手袋をはめた手を腰の後ろで組んで歩き出した。「ゆかりさんって、今はお父さんと暮らしてるんでしたっけ?」
 「ああ。うちで調査申込書に書いた住所の家は父親名義だし、細川は父方の姓だからな」
 「じゃあお父さんに連絡を入れてみることはできませんか? もし事故の時も一緒に暮らしてたなら、事故当日にゆかりさんが何をしていたか知ってるかも。ゆかりさん本人は覚えてないかも知れないし」
 真帆の提案に草間は肯き、二人はゆかりが調査申込書に書いた住所を頼りに彼女の自宅に向かった。細川家の呼び鈴を押す代わりに近所の家を訪ね、何軒目かでゆかりの父・細川敬一の勤め先を聞き出すことができた。都内の建設会社だという。
 会社に電話を入れる。これは成人の草間のほうが良い。適当に理由をつけて細川敬一の居場所を聞き出すと、現場監督としてマンションの建設現場に出向いているとのことで、二人はそこへと出向いた。
 現場は都心から少し離れた場所であった。タイミング良く、休憩時間だったらしい。真帆と草間が身分を明かすと、会社の名前が入ったつなぎを着た敬一は怪訝そうな顔をしながらもヘルメットを取って挨拶した。
 「そうですか。ゆかりが立川のことを」
 草間から簡単に事情を聞いた敬一はやや複雑な表情で目を伏せた。「何を考えているのか……危ないことをしなければいいんですが」
 「危ないことをする心当たりがあるんですか?」
 という真帆の問いに敬一は一瞬目を上げる。軍手を握った両手が二、三度落ち着かなく動き、その後で敬一は言った。
 「去年も、おととしも……ゆかりは、クリスマスイブの夜に京子の墓参りに行くと言って出掛けたのですが。その後、過呼吸を起こして病院に運ばれているんです」
 真帆は軽く首を傾け、瞳を幾度か瞬かせた。
 「病院で意識が戻った後、何があったのかと本人に尋ねても覚えていないと言うだけで……医者にはPTSDの一種ではないかと言われました。イブは京子の命日ですから。京子の事故のことで心に深い傷を負い、イブの記憶が消えたのではないかと」
 PTSD――心的外傷後ストレス障害。心にひどい傷を負った時に起こる心身の不調の総称。フラッシュバック、体の過度な緊張などがその代表的なものだ。犯罪や事故の被害者、その目撃者、あるいは大災害の被災者などのケースがよく知られている。
 (そっか。そんなにつらい思いをしたんだね)
 母の死とイブの記憶がないのもそのせいなのかも知れない。自分にとってあまりにつらい事実を頭から消し去るために、クリスマスイブの記憶ごとふたをしてしまったのだろう。それに――イブの夜に墓参りに行くのなら母の墓前で立川と対面している可能性がある。母のことについて立川から何かを聞いたとしたら?
 「あの夜……安達さんが亡くなった事故の夜、ゆかりさんはどこで何をしていたんですか?」
 真帆はゆっくりと口を開いた。「ただの自殺ならゆかりさんはそんなふうにはならないですよね?」
 「ゆかりはお母さんっ子でしたから。大好きな母親が死んで、ひどいショックを受けたんでしょう」
 「それだけですか?」
 大粒の瞳が探るように敬一を見上げる。違うでしょう、もっと他にあるでしょうとでも訴えかけるかのように。敬一の目がかすかに揺れる。
 「離婚したのはゆかりが十六の時でした」
 やがて、敬一は呟くように語り始めた。「当時、ゆかりは立川康介のことをまったく知らなかったんです。事故の半年くらい前になって、たまたま何かのきっかけで京子に男がいたことを知りました。働くお母さんはかっこいい、大好きだといつもゆかりは言っていました。離婚して私に引き取られた時のショックの受けようと言ったら……。お母さんはあたしより男を選んだんだって、そんなことばかり言っていました」
 「どうしてお母さんはゆかりさんを引き取らなかったんですか?」
 という真帆の問いに敬一は悲しそうに微笑んだ。
 「浮気した女なんかに娘を渡してたまるかと私が強引に親権をとったんです、もちろんゆかりには経緯は話していません。離婚してからもゆかりと京子は頻繁に行き来をしていましたが、立川のことを知ってから、ゆかりは京子と会う度に喧嘩して帰ってくるようになって。あのクリスマスイブだってゆかりは京子と二人でレストランに行く予定でした。ずっと前に予約を入れてあんなに楽しみにしていたのに、ゆかりは結局約束をすっぽかしてしまって」
 「どうしてですか?」
 「自分ではなく立川と過ごせばいい、と。その夜遅くに京子からゆかりに連絡がありました。プレゼントだけでも渡したいからと。ゆかりは行きたがらなかったのですが、行くようにと私が勧めました。公園で待ち合わせて……でも、少ししたら怒った顔で帰って来たんです。そして怒りにまかせて私に話してくれました。京子は立川が見合いをしたこと、立川とは別れるつもりであることを告げて、ゆかりに手編みの白い手袋を渡したと。でもゆかりは――」
 敬一はいったん言葉を切り、軽く息を吸った。その後で殊更にゆっくりと話し始める。――草間は小さく唸り、真帆は長い睫毛をかすかに震わせて視線を落とした。
 「その後、京子は立川の車にはねられました。警察からは自殺と聞いています」
 軍手を握り締める手がわずかに震えている。「公園から帰った後、事故の知らせを受けるまでゆかりはずっと家にいました。その直後、ゆかりはその年のイブのことを全部……手袋のことも忘れてしまったので、警察から帰ってきた遺品を京子の最期のプレゼントだと言って私が渡しました」
 私が知っているのはこれが全てだと、敬一はややかすれた声で話を結んだ。
 「あの……ゆかりさんが大事にしてるあの赤い手袋は、元々は白だったんですね?」
 「はい。ゆかりが言っていました、白い手袋を渡されたと。京子の血で赤く染まったのだと警察の人が」
 真帆は「そうですか」と顎に指を当てる。ゆかりの手袋が鮮やかな赤い色をしていたと草間は言っていた。鮮血のような色だったと。血液ならばなぜ三年経った今でも黒ずまずに赤い色を保っているのだろう?
 マナーモードにしておいた草間の携帯が震え始める。草間は二人に一言断ってから電話に出る。短く応対して、すぐに電話を切った。シュラインと北斗が警察から事故の資料を借りて事務所に戻ってきたそうだ。真帆は肯き、敬一に礼を言ってその場を後にした。
 


 興信所の玄関を開け、真帆は「寒かった」ときゅっと目を閉じる。温かいお茶が飲みたい。皆で一息入れることを提案すると、シュラインが「それもいいけど」と遮って手元の資料を差し出した。
 「その前にこれ見てくれる? 警察の人にお願いして見せてもらった事故の記録なんだけど」
 「はあい」
 大粒の瞳をくりくりとさせて細かい文面を追う。鑑識の結果、手袋の色が元々は白であったことは資料にも明記されていた。事故当夜、見合い相手は立川をデートに誘ったが断られ、複数の女友達と過ごしていたこと。手袋は包装されておらず、裸のまま安達京子の手に握られていたこと。彼女はその日一人で都内のレストランで食事をし、その後少し離れた公園に立ち寄った後で立川の車にはねられたこと。一方、立川は京子との関係を認めており、見合いの話は元々断ろうとしていたことも明かしたこと。事故があった日は通常通り勤め先に出社し、仕事を終えてほぼいつも通りの時間に退社していたこと。彼女をはねた時、立川は自宅から少し離れた酒屋に行く途中で、一人で車に乗っていたこと。その夜、立川は安達京子と会う約束はしていなかったこと。そして安達京子には一度の離婚歴があり、別れた夫との間に細川ゆかりという娘がいること。事故の半年ほど前から、娘との仲があまり良くなかったこと――。資料には概ねそんなことが書いてあった。
 (立川さん、イブの夜は安達さんと約束してなかったんだ)
 交際していたのならイブの夜にデートくらいしそうなものだ。京子にはゆかりとの約束があったとはいえ、その前か後なら構わないはずである。資料を手にしたまま真帆が考え込んでいると、シュラインがやや急かすように「ねえ」と口を開いた。
 「詳しいこと、分かった? 事故当日のゆかりさんの行動」
 「立川さんは本当に安達さんとお付き合いしてたんですね。単なる噂じゃなかったんだ」
 真帆は資料に目を落としたまま呟く。「答えになってねえじゃねえか」と言いかけた北斗を制し、シュラインは笑顔を作って話を合わせた。
 「ええ。近所の人が安達さんの部屋に出入りする立川さんを見ているし」
 そして聞き込みで得た情報を簡潔に話して聞かせる。安達京子は仕事熱心だったこと。立川とは同じ会社の同じ部署で、しっかり者の京子がやや頼りない立川を可愛がっていたこと。離婚後、都内のマンションで一人暮らしをしていた京子の元をゆかりが頻繁に訪れていたこと。事故の半年ほど前からは、近所の住人がゆかりが京子に向って喚き立てる声を聞いていたこと、等々。真帆は半テンポほど遅れて肯きながら聞いていたが、途中で顔を上げた。
 「ゆかりさん本人は何も覚えてないかも知れないから、ゆかりさんのお父さんに聞いてみたんですけど――」
 そしてぽつりぽつりと敬一から聞いた話の内容を語って聞かせる。ゆっくりと、だがつぶさに、余すところなく。つらい記憶でも辿るかのように、かすかに顔を歪めながら。
 シュンシュンシュン、と蒸気が沸き出す音が事務所に流れた。ボロストーブの上に置かれたやかんの湯が沸騰したらしい。しかしシュラインも北斗もやかんなど気にかけることはなく、ただ黙って真帆の言葉に耳を傾けている。零が黙ってやって来てストーブの上からやかんを持ち上げ、台所に入って行った。
 「……マジかよ。ひでぇよ」
 北斗は壁に激しく拳を叩きつけた。シュラインも溜め息をつく。事故当時ゆかりは家の中にいたこと、ゆかりは事故直後にその年のイブの記憶を失ってしまったこと、警察から戻って来た遺品の手袋を父親が“お母さんの最期のプレゼントだ”と言ってゆかりに渡したことを付け加え、真帆は静かに話を結んだ。
 「くそっ」
 北斗は激しく舌打ちし、その場をせわしなく行き来する。「細川ゆかりは一体何をしようとしてるんだ? やっぱり立川を――」
 「心中、でしょうか。憎しみより悲しみに疲れた様子が気になって」
 ぽつりと呟いた真帆の言葉にシュラインが思わず息を呑む。北斗も顔をこわばらせて真帆を振り返った。二人とも、その選択肢を可能性のひとつとして考慮していたらしい。真帆は二人の顔をおずおずと見上げ、その後でまた目を伏せた。
 「ゆかりさんのお父さんから、少し気になることを聞きました」
 真帆は小さな唇をきゅっと巻き込み、少し間を置いてから続きを話した。去年もおととしも、イブの夜に母親の墓参りに行ったゆかりが過呼吸で倒れて病院に運ばれていること。救急車で運ばれて、病院で意識が戻るとイブの記憶を全部なくしていること。医者にはPTSDの一種ではないかと言われたこと――。何かを悟ったようにシュラインの瞳が大きく開かれる。真帆と同じことに思い至ったのであろう。
 「立川が墓参りに行くのはイブの深夜。彼女が立川に何かをしようとしてるならその時を狙ってる可能性が高い。張り込んでみるのが一番確実なんじゃないか」
 三人が考えていることを見抜いたのか、草間が煙草に火をつけながら言う。シュラインは小さく肯いて唇を引き結んだ。ゆかり自身を含め、彼女が誰かの命を脅かすつもりなら止めると最初から決めていたらしい。
 「私は本人に任せます」
 真帆は短く言った。その後で「ゆかりさんを信じているから」と付け加える。対照的に、「俺は」とやや声を荒げて断言するのは北斗であった。
 「――止める。絶対に止めてみせる」
 北斗は唇をかすかに震わせ、ポケットの中できつく拳を握り締めた。「復讐は悲しみしか生み出さない。それに、クリスマスくらい幸せでいてほしいから」
 真帆はぴょんとソファから降り、結露に濡れた窓を手で拭いて外の景色を覗き込んだ。
 (ゆかりさん。多分、あなたは大きな勘違いをしてると思う)
 拭った窓は吐息ですぐに曇ってしまう。窓の向こうを透かし見るかのように真帆はガラスに額を寄せる。
 (安達さんは、イブに立川さんじゃなくてあなたと会おうとしていたの。だって、クリスマスイブってそういう日だから。そうでしょ?)
 外は相変わらずの暗い曇天である。天気予報ではイブは雪になるかも知れないという。12月の東京にしては珍しいことだ。だが、どうやらロマンチックなホワイトクリスマスというわけにはいかないようである。
 


 ちらちらと、雪が降り出していた。
 高速道路沿いにひっそりと建てられた墓地。門も扉もないその場所は24時間365日好きに出入りができる。不用心だと思わないでもないが、立川にはそのほうが都合が良い。家族の目につかずに、たった一人でこの場所を訪れることができるのだから。
 愛しい人が眠る場所へは目をつぶっていても行ける。この場所を訪れられない間、何度この地を瞼の裏に思い描いただろう。本当は月命日ごとに訪れて、墓をきれいにしてやりたかった。だが立川にはそれすら許されないし、する資格もない。年に一度の命日の最後、日付が変わりかけるほど夜が更けたこの時間だけが、立川が得られる安息の刻であった。
 墓の前には線香を燃やした跡があった。墓石の前に活けられた花弁や葉の色はあまりにも鮮やかで、瑞々しい。用意してきた小さな小さな花束を遠慮がちに差し込み、こうべを垂れて手を合わせたその瞬間だった。
 背後で足音と、人の気配がした。
 こんな時間に墓参りをする人間が他にいるとは思えない。
 振り返ると、闇の中に白いコートと白いマフラーがかすかに浮かび上がって見えた。
 「今年も来たんですね」
 自分より年下のゆかりに立川は敬語を使って話しかける。ゆかりは不快そうに唇を歪めた。
 「あんたと会うのは初めてよ。二度と見たくない顔だけど」
 ゆかりの顔は真っ白だった。元々色が白いほうなのだろうが、不自然なほど蒼白である。
 「よく平気でお母さんのお墓になんか来られたものね? お母さんを死なせておいて」
 「そう、ですね」
 立川はくたびれたように微笑んだ。その頬はげっそりとこけ、夜の闇よりも暗い陰影が落ち込んでいた。
 「僕がいなければ京子さんは死なずに済んだんだから」
 「気安くお母さんの名前を呼ばないで!」
 ヒステリックなゆかりの叫び声は雪が舞う静寂に響き、湿った残響を伴って、消える。
 「そうですね」
 もう一度言い、立川はゆかりに向ってその場でだらんと両腕を広げた。「ね……もう終わりにしましょう。今年こそ、外さないでください。今年は何も言いませんから」
 「わけの分からないこと言わないでよ」
 コートのポケットに差し込まれたゆかりの手がぐっとこわばる。――しばし、沈黙が静寂を支配した。
 「人妻だって知ってたくせに、お母さんに手を出して」
 ややあって、ゆかりが口を開いた。咳込むような性急な口調だった。
「そのくせ若い女との見合い話に簡単に乗って。お母さんが邪魔になったんでしょ? 自殺してくれてラッキーだって、本心では思ってるんじゃないの?」
 立川は答えない。涙を溜め、真っ赤に充血した目にありったけの憎悪を乗せてゆかりは立川を睨みつける。しかし、立川の口から出たのは意外な言葉であった。
 「その通りです。それですべて丸く収まるのなら」
 「……何、言ってるの」
 ゆかりの顔がかすかに歪む。かすかに、しかしはっきりと乱れ始める呼吸。それに気付いた立川はゆかりに歩み寄った。ゆかりはかすかに体を震わせて目を上げた。
 「あたしは」
 色を失った唇から蚊の鳴くような細い声が漏れる。「毎年、クリスマスイブの記憶がないの。お母さんが死んで以来、ずっと。こんなのもう嫌! 終わりにしたいの、だから――」
 「忘れたままでいい。思い出す前に、早く。でも、あなたは生きてください」
 急かすような立川の口調。ゆかりは小さく目を揺らす。立川はコートのポケットに突っ込まれたままのゆかりの腕を性急に掴み、やや強引に持ち上げた。
 真っ赤な手袋をはめたゆかりの手には、鋭く光るアーミーナイフがしっかりと握られていた。
 「さあ、早く。死ぬのは僕一人でいい」
 立川はゆかりの手首を掴み、切っ先を自分の左胸にぴたりと向けた。
 研ぎ澄まされた刃にひらひらと雪のかけらが舞い落ちた。冷たい刃の上で、脆弱な結晶は溶けることなくその姿を保ち続ける。まるでこのナイフの上でだけ、時間が止まっているかのように。
 だが、その静寂は不意に破られた。



 「ゆかりさん、よしなさい!」
 シュラインの鋭い声。その声よりも一瞬早く、墓石の影から北斗が飛び出していた。
 ゆかりも立川もぎょっとしてその場に立ちすくむ。北斗はその隙を逃さなかった。思いっきり踏み込み、全身のバネを腕に乗せ、握り締めた石を二人の手目がけて投じる。予め手頃な石をみつくろってポケットに入れておいたのが幸いした。矢のように放たれた大粒の石がナイフを持ったゆかりの手の甲に命中する。ゆかりの顔が歪むのとナイフが地面に落ちるのとは同時であった。その間に全力で駆けたシュラインはゆかりを抱きすくめ、立川から引き離すようにしてその場に倒れ込んだ。膝にちりっとした痛みと熱が走る。北斗は茫然とその場に立ち尽くした立川を突き飛ばしてナイフに足を飛ばした。蹴り飛ばされたナイフは湿った金属音を立ててコンクリートの上を転がっていった。
 「大丈夫?」
 シュラインはともに倒れ込んだゆかりを抱き起こし、白いコートについた土を丹念に払ってやりながら尋ねた。赤い手袋を外してやると北斗の石が当たった手の甲が赤く腫れ上がっているのが闇の中でも見てとれる。
 「どうして……」
 ゆかりの目がシュラインと北斗、そして墓石の影からゆっくりと現れた真帆の顔の上を落ち着かなく行き来する。
 「全部調べました。あなたのことがとても気になったから」
 真帆はスカートが汚れるのも構わずに湿った土の上に膝をついた。ゆかりの右手を取り、レースのついたハンカチを傷の上に丁寧に巻いてやる。
 「立川さん」
 シュラインは着衣についた汚れを払い落とし、ゆっくりと立ち上がった。「あなた、本心から望んでお見合いをしたんですか?」
 立川の目がどうしようもなく揺らめくのがはっきりと分かった。
 「……お袋に、いい加減身を固めてくれって泣きつかれて」
 やがて、立川はうつむいてその言葉を低く押し出した。しかし握り締めた拳はわなわなと震えている。
 「僕は京子さんと一緒にいられればそれで良かった。でも、親父の体調が良くなくて、親父が生きてるうちにどうしてもとお袋に言われました。だから一度見合いをすれば親も納得するだろうと思った、もちろんそれは京子さんに話しました。なのに京子さんは“私と一緒にいたんじゃあなたは幸せになれない”と――」
 「あんたのために身を引こうとした、ってか?」
 北斗の言葉に立川は力なく肯いた。
 「嘘よ!」
 狼狽を目に浮かべ、ヒステリックに叫んだのはゆかりだった。「お母さん、あんた、とは別れる、って――」
 シュラインは眉を吊り上げた。ゆかりの顔面は蒼白で、息の吸い方も明らかにおかしい。それに気付くと同時に、救急車を呼ぶようにと北斗に素早く指示を出す。北斗は慌てて携帯を取り出して119番を押した。
 「ゆかりさん、落ち着いて」
 クリスマスイブの記憶が戻り始めているのかも知れない。シュラインはその場に膝をついたゆかりの肩を抱き、懸命にさする。真帆がポケットに入れておいたビニール袋を取り出してゆかりの口にあてがった。ゆかりが過呼吸を起こした場合に備えて持って準備していた物だ。救急車が来るまでの間、これで少しでももたせられればよいのだが。
 ゆかりのそばに膝をついたまま、真帆は細川敬一の言葉を思い出していた。



 離婚したのはゆかりが十六の時でした。当時、ゆかりは立川康介のことをまったく知らなかったんです。事故の半年くらい前になって、たまたま何かのきっかけで京子に男がいたことを知りました。
 働くお母さんはかっこいい、大好きだといつもゆかりは言っていました。離婚して私に引き取られた時のショックの受けようと言ったら……。「お母さんはあたしより男を選んだんだ」って、そんなことばかり言っていました。浮気した女なんかに娘を渡してたまるかと私が強引に親権をとったんです、もちろんゆかりには経緯は話していません。立川のことを知ってからは京子と会う度に喧嘩して帰ってくるようになって。あのクリスマスイブだってゆかりは京子と二人でレストランに行く予定でした。ずっと前に予約を入れてあんなに楽しみにしていたのに、ゆかりは結局約束をすっぽかしてしまって。
 その夜遅くに京子からゆかりに連絡がありました。プレゼントだけでも渡したいからと。ゆかりは行きたがらなかったのですが、行くようにと私が勧めました。公園で待ち合わせて、立川が見合いをしたこと、立川とは別れるつもりであることを告げて、京子はゆかりに手袋を渡したそうです。手編みの真っ白い手袋を。
 でもゆかりは受け取らなかった。包装を開けて中身を見て、手袋を京子に投げつけたそうです。
 「男が駄目なら次は娘ってわけ? 馬鹿にしないでよ。こんな手袋で機嫌とろうとしたって無駄だからね、あんたなんか大嫌い!」と。
 ……その後、京子は立川の車にはねられました。警察からは自殺と聞いています。車に飛び込むように道路に飛び出したと。



 少しずつ雪が強くなっていた。
 「最愛の娘さんに拒絶されて、自暴自棄になったのかも知れない。安達さんは、立川さんが週に一度お酒を買いに出かけることを多分知っていたんでしょうね。それが三年前はたまたまイブの曜日と重なった。だから立川さんの車が通るのを待って……」
 事故後にことのあらましを聞いたゆかりは深く傷つき、自分を責め、京子の事故に関する記憶を全て大脳から追いやってしまった。そして人づてや当時の新聞記事からでも立川康介のことを知り、草間に調査を依頼した。調査結果から、見合いをした立川が京子を疎んじて自殺に追いやったというストーリーを作り上げることで自分を納得させ、真実を覆い隠していた……。それが、今回の真相なのだろう。
 「ゆかりさんは去年もおととしもここにやって来て、僕を殺して自分も死ぬと言いました」
 立川はその場に膝をついて、声を震わせていた。「どうせ死ぬならと、ゆかりさんにはお見合いのことをきちんと話しました。それが引き金になってしまったんでしょう、嫌なことを全部思い出して混乱して……次の年もゆかりさんは同じことを言って、同じようにここに来ました。前の年のことは全部忘れているみたいで話が通じなかった。仕方なくもう一度話したら、また同じように」
 真帆の瞳がかすかに、しかしはっきりと揺れる。
 クリスマスイブの度に身を切られるような記憶に苛まれる。それがあまりにつらいから、次の日には立川や母の事故のことは全部なかったことにして記憶から消してしまう。記憶にないから、次の年も同じことを繰り返す。そしてまた記憶の刃に容赦なく切り刻まれ、その痛みから逃れるために記憶を消して。
 ゆかりは、その繰り返しだったのだ。
 不意に甲高い声が雪の隙間を切り裂いた。ゆかりだった。それは声ではなかった。ただの、高周波の音でしかなかった。過呼吸の状態でどうしてこれほどと思うほどの大音響であった。
 「しっかりしろよ!」
 北斗がゆかりの肩を強く掴む。ゆかりは喉をひゅーひゅーと鳴らしながら、それでも目線だけは北斗に向けた。
 「ちゃんと向き合うんだ。つらいけど受け止めなきゃ。悲しいクリスマスはもうこれで終わり、来年からは楽しいクリスマスを過ごせるように。な?」
 ゆかりは首を横に振り、叫ぶだけだった。嫌々をして泣き叫ぶ子供のように。
 「おかあ、さん、は」
 そして、口に当てたビニール袋越しに途切れ途切れに言った。「あたし、より、たちか、わ、を……」
 「違うと思いますよ」
 真帆がゆっくりと首をかしげ、言った。ゆかりの目が苦しげに動き、真帆の顔の上で揺れながら止まる。
 「警察の人から聞きませんでした? 立川さん、クリスマスイブは安達さんと約束してなかったんですよ。そうでしたよね?」
 同意を求めるように立川を振り返ると、立川は小さく肯いて「イブは大事な予定があると言われてましたから」と付け加えた。
 「ほらね。どうしてか分かりますか?」
 という真帆の問いにゆかりはかすかに首を横に振るしかない。真帆はにこりと笑い、ゆかりの両手をそっと握り締めた。
 「だって、クリスマスは一番大事な人と過ごすものだから」
 真帆の言葉に、ゆかりの目が大きく見開かれた。
 「だから立川さんじゃなくて、ゆかりさんと約束したんですよ」
 ね? と真帆は両頬にえくぼを浮かべて微笑んだ。
 ゆかりの目の縁に涙が盛り上がり、静かに堰を切って、流れる。雪にかすむ闇の奥に救急車の赤いランプが見えた。シュラインは手袋をはめたゆかりの手を取り、ハンカチを巻いた右手を温めるように重ね、更に右手から外した赤い手袋をその上にそっと重ねた。
 だが――次の瞬間、それを見守っていた真帆は小さく息を呑んだ。
 真っ赤だった手袋がまだら模様になっているのだ。雪が落ちて溶けた跡が、そこだけ絞って染めたかのように白くなっている。シュラインと北斗も気付いて目を丸くした。
 赤い色が、抜けていく。
 雪が舞い降りるごとに、深紅の手袋が少しずつ白くなっていく。
 すべてを洗い流すかのように。
 すべてから解放されるかのように。
 優しく降り注ぐ雪が、ゆっくりと、音もなく、手袋を白へと戻していく。
 救急車が到着したらしい。駆けつける救急隊の足音、ストレッチャーが走る音。隊員らは素早くゆかりをストレッチャーに乗せる。ゆかりの呼吸は多少落ち着いており、意識もあるようだ。しかし念のため病院にということで搬送の手筈が整えられる。
 ゆかりの目が真帆たちの顔を順々に見つめる。その口が「ありがとう」と動いたような気がした時には、救急車のハッチが閉まっていた。
 (血が……安達さんの思いが、手袋に残ってたんだ)
 肩にうっすらと積もった雪を払うことも忘れ、真帆は考える。(血が鮮やかな色を保ってたのもそのせいかな。安達さんの時間は、三年前の事故の時で止まっていたんだから。ずっとずっとゆかりさんに気持ちを伝えたくて……)
 来年からは穏やかなクリスマスを過ごせればいい。サイレンを鳴らして走り去る救急車の背中を見ながら、真帆はそっと胸の前で両の手を組み合わせた。



 ゆかりはふっと目を開いた。
 目に映るのは病院の天井。ベッドに寝かされ、腕に点滴を入れられている感覚がある。意識はまだ少し白濁しているが、体を起こすことはできた。救急車で運ばれて、疲労で眠り込んでしまったことは覚えている。が、その前が思い出せない。
 ふわりとした温かい香気が鼻腔をくすぐる。心地よい香りであった。のろのろと目を動かすと、ベッド脇のサイドボードにティーポットとティーカップ、角砂糖にミルクが並べられているのが見えた。小さなバスケットも添えられている。
 “目が覚めたら召し上がってください。メリークリスマス”
 バスケットの持ち手に白と黒のウサギが描かれたメッセージカードが挟み込まれていた。差出人の名前は見当たらない。怪訝そうにもう一度ポットやカップを見やると、ポットの脇に真っ白い手袋がそっと置かれているのが目に入った。
 点滴が抜けないようにそろそろと手を伸ばす。柔らかで、温かい感触。この白い手袋が何なのか分からないが、ひどく懐かしい手触りに鼻の奥がつんとする。次にゆかりはポットのふたを取って中を覗き込んだ。紅茶らしい。バスケットの中には手作りとおぼしきカップケーキが入っていた。
 ポットを手に取り、温められたカップに綺麗な紅色を満たす。何も入れずにまずは一口。口の中に広がる香り、全身の隅々にまでしみわたる温かさ。そのまま喉に流し込むと、なぜか涙が込み上げた。
 「おいしい」
 思わず声が漏れる。それは心の底からの感想だった。ゆかりは手袋を胸に抱き、カップを握り締めてさらに一口紅茶を飲んだ。「おいしい……」
 次から次へと涙が溢れる。頬を伝う涙がカップの中に落ち、ゆらゆらと揺らめいて、消えていく。ただ涙をこぼしながら、ゆかりは一口ずつ紅茶を飲んだ。
 ふと、窓の外を何かが横切ったような気がしてゆかりは顔を上げる。
 背中まで届くココア色の髪、愛くるしい夕焼け色の瞳、とんがり帽子に裾の長いローブ。
 ホウキに乗った可憐な魔女が雪の中を飛んで行ったように見えたのは、まだ頭がぼんやりしていたせいだったのだろうか。 (了)





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生・見習い魔女
 0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
 5698/梧・北斗(あおぎり・ほくと)/男性/17歳/退魔師兼高校生



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■         ライター通信          ■
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樋口真帆さま



一年ぶり&二度目の挨拶となります、宮本ぽちです。
ご注文、まことにありがとうございました。

受注画面でお名前を見た瞬間にラストシーンが固まりました。
「ゆかりに母の想いを伝える」というプレイング、とてもありがたかったです。
その役目を誰かにして頂けると大変助かるな、と思っておりましたので。

またいつかどこかでお会いできれば幸いです。
今回のご注文、重ねてありがとうございました。
良いクリスマスを過ごされますよう…。


宮本ぽち 拝