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Phantoms memory
睨み合う少年達の口許から零れる息は闇夜に白く、遠目にも寒々しく見えた。
誰かがバイクのエンジンをふかすと、排気が彼らの吐息よりも更に白く立ち昇る。静寂を嘲るようなエンジン音と、目を射るヘッドライトの強い光。それに照らされ、負けん気の強い氷室浩介の瞳が光った。
氷室の目の前には、とある暴走族の一団。
どうやら彼らは、暴走行為をするにはするが、堅気連中相手に暴力をふるわず、特攻服に身を包んではいるが、いわゆる『暴走族』とは一線を画している氷室達が気に食わないらしい。「中途半端に族の真似事などするな」と、日頃から何かにつけて絡んできていた。
氷室にも、仲間達にも、彼らの言い分に従う気などさらさらなかった。次に出会えば、本気で片を付ける事になるだろうと思っていた。その『次』が、この夜ようやくやってきたのだ。
世間はクリスマスで浮かれていた。華やかな喧騒から離れた、寂れた港の倉庫街で、不良少年達が雌雄を決しようとしている事など誰も気にも留めない、そんな夜だった。
氷室は相手グループのリーダーを睨みつけたまま微動だにしない。相手もまた、氷室の視線を押し返すようにこちらを見据えている。
「……いいぜ。受けて立ってやるよ」
沈黙を破り、氷室は言い放った。
彼らは、自分達のリーダーと、氷室との一騎打ちを提案してきた。方法は簡単。チキンレースをしようと言うのだ。それなら互いに余計な血を流さず、どちらの肝が据わり具合が上なのかを明確に決する事ができる。氷室としても否やはなかった。ただ、いつも血に飢えた獣のような目をしている彼らにしては穏当な勝負を仕掛けてきたのが、意外と言えば意外な気がする。
おそらく彼らは氷室を見くびっているのだ。そう思うと、意地でも負けられなかった。命知らずと揶揄される分には気にならないが、臆病者のそしりを受けるのは我慢ならない。なめられてたまるかとばかりに、氷室は不敵に笑って見せる。
車が二台、冬の埠頭に並んだ。海まではおよそ100m程度。コンクリートの波止は黙然と切り立ち、その先には暗い海が広がっている。それはどこか、コールタールのように粘って見える。
愛車のハンドルを握り、スタートを待つ間、氷室の心には一片の恐怖もなかった。
あったのはただ、絶対に相手より先にブレーキを踏むものかという意気込みと、自分の勝利を信じて疑わない気持ち。そして、命を張ったゲームに対する、奇妙なほどの昂揚感だけだった。
スタートの合図を聞くや、アクセルを強く踏み込んで走り出す。矢のようなスピードで波止場を駆け抜け、死の縁へと加速する二つの影。その一つが、ゴールラインの遥か手前で急停止した。
氷室は即座にそれを訝った。勝負を投げているのでもない限り、いくらなんでもブレーキをかけるには早すぎる。異常を察知し、自分もすぐさま、力いっぱいブレーキを踏む。
だが、その時には既に手遅れだった。ハンドルが利かない。タイヤの横滑りを制御する術はない。ちょうど、冬の凍てついた道路でブレーキをかけた時と同じに。
はめられた、と思った瞬間、前輪が地を離れ、車は宙を飛ぶ。氷室は咄嗟にドアを蹴って車外へと脱出した。だが、それが精一杯。緩やかな放物線を描く車もろとも、彼の体は海に呑み込まれた。
氷室が最初に感じたのは、体中を刻むような痛みだった。それが厳冬の海の冷たさからくるものだと分かるのには、数秒を費やした。
その冷たさは瞬く間に、氷室の体から容赦なく熱度を奪う。水を掻こうにも、指先は既にかじかんで、凍ったように動かない。それでも氷室はもがき、水面に浮かび上がろうと試みた。だが、水を吸った特攻服が重く体に纏わりつき、腕も脚もまるで思い通りに動かない。
酸素を求めて開けた口は虚しく海水を飲む。意志とは反して、体が沈んでいくのを感じる。そこに至ってようやく、氷室は己の死を直裁に感じた。
まさか、と思った。自分はまだ十七歳だ。死を身近に感じる年齢ではない。これは何かの間違いだと。
絶望的に酸素が足りず、冷たい水に圧迫された頭は殴られたように痛む。足掻いても足掻いても、その身は海の底深くへと沈んでいく。氷室を捕えて離さぬ海はただ黒く、深く、救いをもたらす光の片鱗すら落ちてはいない。
苦しさに耐え切れずに開いた口から、必死に詰めていた息が零れた。最後の吐息は泡になり、ゴボリと音を立てながら、氷室を置き去りにして水面へと浮かんでいく。
それを見送る事しかできない氷室の気が、徐々に遠くなっていった。
意識を手放す瞬間、氷室の脳裏に浮かんだのは家族の顔だった。
高校卒業を控えても未だやんちゃばかりして、暴走族の真似事をして遊ぶ息子を叱り付けるでもなく、ただ呆れたように小言を言いながら、それでも苦笑まじりに温かく見守ってくれていた両親。氷室を慕って、うるさいくらいに纏わりついてきていた弟妹。もうこれきり会えなくなるなんて、全く信じられなかった。なのに自分は呑み込まれていく。暗い海に満ちた死に。
面目などというちっぽけなものの為に、己がどれだけ大切なものを賭けてしまったのかに今更気付いた。なんて愚かな事をしたのだろうと悔いた。けれども、もう何もかもが遅いのだ。
──ごめん……、俺……。
氷室は悔いて、心底詫びた。自分の死を悼んでくれるであろう家族と仲間達に向けて。
その切なる思いは彼の涙とともに、海の闇に混じって溶けて消えていってしまった。
少年達の愚行を、たったひとつ眺める目があった。
彼の名は辰海蒼磨。海を統べ、守る若き竜神のひとり。
辰海は旅をしていた。気ままな旅だ。数年の時をかけて、辰海はひとり、あちこちの海を巡っていた。
たまたま足が向き、ふらりと立ち寄ったのは東京湾だった。ここがまだ『江戸湾』と呼ばれていた頃に、まだ生まれたばかりの辰海は来た事がある。その変わりように驚きながら、何をするでもなく海の上に佇んでいた。
彼が幼かった頃に比べて、海は随分と濁った。それが陸に住む『人間』という生き物のせいである事を、辰海はこの旅で嫌というほど学んでいた。
総じて人間は愚かしい存在だと思う。海を守る竜神からすれば、彼らは言わば汚染源だ。
そう認識しているのに、不思議と疎ましいとは思わないし、憎くもない。人間というのは誠に不思議な生き物だと、辰海はしみじみ思う。今も、彼らは辰海の目の前で、不道徳な遊びを繰り広げている。愚にもつかないと思いながらも興味をそそられ、半ば見世物のように、彼はそれを眺めていた。
竜神として生まれ落ちた瞬間から、辰海は海を守る責務を負った。そして海は、陸を抱いて広がっている。なのに辰海は、単身で陸に上がる事ができない。
彼は時折、陸に住む者達の事を知りたいと無性に思う時がある。何故なら辰海には、自分達が一体、何をこの身に抱いて守っているのかが分からなくなる事があるからだ。
仲間達は当たり前の顔をして言う。「我々は海の守護者であり、けして人間などという下賤な生き物を守ってやっているわけではない」と。
だが、人間が海を汚し、我が物顔で船を浮かべて横切るのを止める手立てなど竜神達にはなかった。ただ、緩やかなスピードで海が自己を浄化するのに力を貸し、海魔が陸を脅かさないように目を光らせているだけ。時には驕った人間を戒める事もあるにはあったが、逆に困っている人間達の為、川の氾濫や津波を抑えてやりもする。それはつまり、海を守る事を通じて、自分があの小さく愚かな存在を守っているのと、ほぼ同義のような気がするのだ。
辰海がそう口にすると、仲間は笑う。馬鹿にしないでいてくれたのは長老達だけだった。
彼らは悩む辰海に、旅に出るよう勧めてくれた。世界を知れば、自ずと己がどういう存在なのかが分かるだろう、と言って。
血気盛んな少年の一人が海に落ちるのを、辰海はただ眺めていた。この寒さだ、普通ならば助かるまい。助けてやる義理など辰海にはない。自業自得だ、と思いながらも、辰海は海底に沈んでいく少年の近くに寄ってみる。
だが、先程までこの世に怖い物など何もないという顔をしていた少年が、己の死を直視して涙を流す姿を見ると、さすがにこのまま見捨てるのも気が引けた。
「後悔先に立たず、を地で行くような男だのう……」
辰海はひどく呆れていたが、同時に少年に対する興味が湧いてくるのを抑えられなかった。元々、人間と話をする機会を得る事が稀だからだろう。そう思った時、辰海の脳裏に妙案が浮かんだ。
この少年の体を借りて陸に上がってみればいいのだ。そうすれば、辰海は陸で生きる者達の生態をつぶさに観察できる。
「世界を知れ」と長老達は言った。ならば、辰海が陸へ上がっても誰も文句は言うまい。
どうせ人間の命など儚い。暫しの間、人間の少年と共に過ごすのも悪くはないと思った。
氷室は、自分の体が水底に消えていくのを見送っていた。
自分は死んだのだ、と理解した。魂は肉体と切り離され、為す術もなく海の中をたゆたっている。
馬鹿な遊びの代償はあまりにも大きすぎた。
氷室はぼんやりと光る自分の手を握りしめる。何の感触もしないのが恐ろしく、悲しく、そして悔しい。この手では、自分を陥れた相手を殴りつける事はおろか、自分が手にするはずだった未来を掴む事も叶わない。
「畜生……っ!」
思わずそう漏らした時、青い光がゆらりと水底に灯るのが見えた。それは眩いばかりに光り、瞬く間に氷室の体を包み込む。
「少しは己の莫迦さ加減を悔いたか、小僧」
若い、けれど威厳を感じさせる声が響く。
声の主が『竜』というものである事に思い至るのに、氷室は暫しの時間を要した。まんがやゲームの中でした見た事のない、現実とはかけ離れた幻想の存在。
青く輝く鱗を纏った竜は、呆然としている氷室に向かって問いかけた。
「おぬしの名は?」
「ひ、氷室、浩介……」
竜の存在感に圧倒されながら、氷室は答える。
「浩介よ。こんなくだらぬ事で命を落として惜しくはないか?」
「悔しいに決まってんだろ!」
反射的に即答したものの、氷室の頭の中には疑問が渦巻いていた。こいつは一体何なのだろう。氷室が死に至るまでの一部始終を見ていたのだろうか。だとしたら、何の為に?
「再び生を得たくはないか?」
竜が問うのに、氷室は勢い込んで答える。
「ひょっとして、生き返らせてくれるのか!?」
だが、そんな都合のいい話がある訳はない。氷室はすぐに我に返って首を振る。
「……まさかな。いくら何でもそんな……」
「おぬしが望むのならば、蘇生させてやってもよい」
竜の言葉に、氷室は掴みかからんばかりに身を乗り出した。
「マジ!? そんな事できるのか!?」
「できる。おぬしがわしを受け入れると言うのならば」
言って、竜は前脚に握った珠を氷室の眼前に差し出した。
「これは竜玉という。いわばわしの半身と言ったところだ。これを砕かれれば、わしは無事ではおられぬ」
真珠のようなとろりとした艶を持つ、それでいて透き通った、ごく淡い水色の珠だ。肉体があったなら、圧倒されて喉を鳴らしていたであろうほど、それは美しかった。
「わしの竜玉をおぬしの体内に置き、体を離れた魂魄との結合に用いる。そうすればおぬしは蘇生できる。……浩介とやら、さて……」
どうする、と問われるよりも前に氷室は頷いていた。竜の前脚から珠を奪いかねない勢いで。
「頼む! 早いとこ俺を生き返らせてくれ!」
「……もう少し真剣に悩め。蘇生できるとは言っても、今後おぬしは、わしと一心同体になるのだぞ? それでも……」
「いいからいいから!」
氷室は竜玉に向かって手を伸ばす。それをひょいとかわして竜は言う。
「まことか? 後悔せぬと誓えるのであろうな?」
「しない、しないって!」
氷室は忙しなく手足をばたつかせた。
「うむ、ならば良かろう。それからおぬし、今後は……」
この手の『威厳のある』タイプの話──特に『説教』は長いと相場は決まっている。小学生の頃からずっと、校長や教師達の話が長いのにウンザリしていた氷室は、口早にそれを遮った。
「説教は後で聞くって!! はーやーくー!!」
地団駄を踏みながらせっつくと、竜は顔をしかめたが、それでも竜玉を氷室に向けてかざしてくれた。
淡い光が氷室の魂を溶かす。その瞬間、彼の意識はふつりと途切れた。
そして、三年の月日が流れる。
「……あの時から思っておったのだがな」
辰海の前で、氷室は正座させられていた。
竜神は延々、小一時間ほど話し続けている。痺れた脚を崩したいのはやまやまだが、それをすると「年始の挨拶くらいきちんと出来ぬのか」と辰海に叱られるので我慢していた。だが、そろそろ限界が近い。
「おぬしはとかく軽挙妄動が多い。わしが折角救った命を無駄にするような真似は、今年こそ慎んで貰わねば困る」
「なあ蒼磨、悪いんだけどよ……」
ちりちり痛む脚から辛うじて意識を逸らしながら、氷室は訊ねた。
「ケーキョモードーって何だ? まずはそっから説明してくんねえかな」
辰海はこれみよがしに溜息を落とす。何もそんなに嫌味ったらしく溜息つくことねえだろ、と心の中で呟きながら、氷室はそっと正座を崩そうとする。だが、すぐに辰海に見咎められ、慌てて姿勢を正した。
「思慮浅く、軽はずみに行動する事をいうのだ。このたわけ」
「何だよその言い草。俺は俺なりにちゃんと考えてるっての。何しろ本気で死にかけた訳だから、これでもちっとは反省し……」
「そうは見えぬから言うておるのだ!」
丸めた半紙でポカンと額を打たれて、氷室は唇をへの字に曲げる。
無事に大掃除を終えて、何とか年越し蕎麦にありついたまでは良かった。だが、辰海が「正月という節目を迎えるに当たって、きちんと挨拶をしよう」だの、「年始らしく書き初めをしよう」だの言い出した時から嫌な予感がしていた。そしてその予感は、嫌になるほど的中していた。
辰海は『多謀善断』『深謀遠慮』と書かれた半紙を氷室に突きつける。『軽挙妄動』の意味が分からない氷室に、その四文字熟語の意味するところが分かる筈もなかった。だが、辰海は氷室に「これをおぬしの今年の目標にするが良い」と言う。
へえへえ、と生返事を返すと硯が飛んできた。それを何とかかわし、氷室は口答えする。
「人を無謀扱いすんなよな。そんなに俺が信用できねえのかよ」
「できぬ」
きっぱりと辰海は答え、文鎮でピシャリと氷室の膝を打つ。痺れの切れた脚に強い刺激を受け、氷室は堪え切れずによろよろと崩れ落ちた。
脚がじんじんと痺れるのに呻き声を上げ、もんどりうつ氷室をよそに、辰海は腕組みしながら言う。
「そもそも、わしと契約を交わした事も忘れて三年も過ごした時点で信用ならぬ」
痛いところを衝かれて氷室は返答に詰まる。辰海はここぞとばかりに畳み掛けた。
「それにおぬし、わしと一心同体になるという意味が、本当に分かっておったのか?」
「分かってるって。俺が無茶して、俺の体ん中にある竜玉に何かあったら、おまえが困るんだろ?」
のたうち回り、痛みをごまかすために床をばしばし叩きながら氷室は答えた。それに、辰海はまたも深々と溜息をつく。
「それだけではない。……おぬしが熱血漢であり、情篤いのはよく知っておるし、それを悪いとは思わぬ。だが、おぬしは怒りに我を忘れる傾向が過ぎるであろう。そのあたりをもう少しばかり何とかするよう言っておるのだ」
氷室は唇を尖らせた。自分はもう十代の子供ではない。昔に比べて多少は感情の制御もできるようになったと思っているのに、その言われ方は心外である。
「何でだよ? アレをキリに、もう不良じみたガキくさい真似なんかしてねえだろ」
昔の自分の子供っぽさを直視するのが嫌で、氷室はわざとあの時のチキンレースの事を『アレ』と呼んだ。辰海は無言で、意味ありげな視線を返す。氷室はそれに圧されて軽く顎を引いた。
「……な、何だよ、その目は」
「正確に言うなら、キリになったのはアレの直後だ。どうやらおぬしの記憶は、竜玉の力を解放させたのち失われてしまうようであるから仕方ないとはいえ、やはり耳には入れておかねばのう。」
何をだよ、と問うと、辰海は呆れ果てたと言わんばかりの特大の溜息をついた。
「あのあと、おぬしはいきなり力を暴走させて、岸に飛び上がるや不良どもを薙ぎ倒してな」
軽く睨まれ、氷室は怪訝そうに眉根を寄せる。辰海はやれやれ、というように首をゆっくりと横に振った。
「駆けつけた友人が、相手を殺しかねぬ勢いのおぬしを後ろから殴り飛ばして止めてくれたゆえ、何とか事無きを得たのだぞ」
そういわれれば、と氷室は思い返す。あのレースのあと、氷室は急に例の暴走族達から絡まれなくなった。それだけではなく、仲間だった者達からもどこか遠巻きにされるようになった。見舞いに来てくれた友人達は、レースの結果について語ろうとはせず、二度と氷室を危険な遊びへと誘わなくなった。思い当たる節がありすぎて、氷室は冷や汗を浮かべる。
「マジ? ……全っ然憶えてねえ……」
掌で顔を撫でて冷や汗を拭い、氷室は呟いた。辰海は深くゆっくり頷いて言い放つ。
「そうであろう。何せ大暴れしたあと、その時の記憶ばかりでなく、助けてやったわしの事まで一緒に忘れてしまうような有様であったのだからのう……」
嫌味たっぷりの辰海の言葉が、まるでちくちくと刺さるようである。嫌そうに顔をしかめながら氷室は頭を掻いた。
「だから、それは悪かったって。……でも何も新年からそんな、説教モードに入んなくてもよ……」
「何をぬかすか。新年だからこそ言うておるのだ。であるから、これを今年のおぬしの目標にせよと……」
言いながら、辰海は先程の半紙を突き付けてくる。氷室は、流麗な筆跡で『多謀善断』と書かれた紙を辰海の手からひったくり、不承不承眺めた。
「タボウ……ゼンダン? どういう意味だよ、こりゃ」
「読んで字の如しだ。分からぬのか?」
氷室は暫く半紙と睨めっこしていたが、やがて分かったというように顔を上げた。
「そっか。忙しくても、いい誘いは断んなって意味だな?」
「違う、『多忙』ではなく『多謀』だ! 良く考えを巡らせ、事を上手に処理せよと言うておるに!」
首を絞める勢いで掴みかかろうとする辰海の手から逃げ、氷室はもう一枚の半紙を手に取る。『深謀遠慮』の文字を読み、彼は言った。
「分かった、分かった。辛抱して遠慮しろってんだろ?」
「だから、字が違うと言うておろう! 先の事を見据えて、熟慮を重ねて物事を決めよと言っておるのだ、この薄ら阿呆!」
「いや、今のはボケだって! 相方なんだから、察してツッコミ入れろよ!」
「わしはおぬしと漫才こんびを組んだ覚えはない!」
辰海から返ってきたのは、間髪入れぬ殴りツッコミだった。拳骨で叩かれたこめかみを押さえ、氷室は愚痴を垂れる。
「いってえ……。なんだよ、正月から……」
「言っておくがの、忠告してくれる者がいるうちが花と思えよ、浩介」
ぴしゃりと言って、辰海は居住まいを正す。目線で指示され、氷室はようやく痺れの治まった脚をさすりながら、再び渋々と正座する。
堅苦しいのは苦手だ。そろそろ解放してくれないかと思いながらウンザリしていたら、何を思ったか辰海がスッと両手をつき、深々と頭を下げる。
「と、まあ、まだまだ至らぬ所の多いおぬしだが、こうして縁あって共に過ごす事になった身だ。……本年も何とぞ宜しくお願い申し上げる」
軽く面食らいながらも、氷室は急いで同じように頭を下げた。堅苦しいのは苦手だが、こうして改まって挨拶する事も、時には必要なのかもしれないと思った。特に、これからも生死を共にする相手ならば尚更の事。
「至らなくて悪かったな。……ま、何はともあれ、助けてくれた事には感謝してるぜ。愛想尽かされねえ程度に頑張るからよ、今年もよろしくな」
頭を上げた瞬間に視線が合い、何となく面映くて、二人は同時に照れたような苦笑をこぼした。
その瞬間、氷室の携帯電話が鳴り出した。新年早々に誰だろうと思いながら画面を開くと、そこには氷室のお得意様の名前が表示されている。
「……何だよ。元旦から仕事の依頼かあ?」
せめて今日一日くらいはのんびり過ごしたかった。だが、命の恩人の食い扶持を稼ごうと思ったら、文句は言っていられない。一応の遠慮をしてくれているとはいえ、辰海が大食漢なのには違いないのだから。
氷室は電話を受けながら、上着を掴んで袖を通す。
辰海が問うような視線を向けるのに片手を上げて答え、氷室は電話を切り、慌しく扉に向かう。
「喜べ蒼磨。報酬が即日払いの、いい仕事が入ったぞ。帰りに鍋の材料と酒買ってくるからよ、留守番頼んだぜ」
竜神は喜色満面に頷いた。
「年初めから幸先がいいのう。うむ、留守居は任せておけ。それと、外は雪が降って道が凍っているようだから、充分に気をつけるのだぞ」
「わーかってるって。子供じゃあるまいし」
言いながら、ひらひらと手を振って氷室は出かけて行く。それを溜息混じりに見送って辰海は呟いた。
「あの時も、凍った地面にまんまと引っかかりおったから言ってやっておるのに……」
かんかん、と鉄製の階段を下りていく氷室の足音。その直後、彼の悲鳴と共に大きな物音が聞こえた。続いて、何か重いものが落ちる音が。
「……やはり転んだか。大方、凍った階段を滑り落ち、腰でも打って、その上に雪の塊が落ちてきたという所であろうな。……言わん事ではない」
若き竜神は、今日何回目か数えるのも疲れるほどの深い溜息を落とした。
結局の所、今年も彼らは相変わらず、という事なのかもしれなかった。
■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■
【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【6725/氷室・浩介(ひむろ・こうすけ)/男性/20歳/何でも屋】
【6897/辰海・蒼磨(たつみ・そうま) /男性/256歳/何でも屋手伝い&竜神】
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