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<東京怪談ノベル(シングル)>


   「犬として扱われる少女」

 ふわふわと、温かく柔らかいものがみなもを包み込んでいた。
 懐かしい感覚に、頬ずりするように頭を動かす。
「あ、動いた」
 すぐ傍で声が聞こえ、まどろんでいたみなもは、パッと目を開ける。
 じっと覗き込む8歳の少年の顔が視界いっぱいに飛び込んできた。
「起きたぁ! おばあちゃん、わんこ起きたよ」
 少年は立ち上がり、後ろを振り返る。
 目をやると、その奥には穏和そうな老婦人が腰をかけていた。
 ――あたしは、一体どうしたんだろう。
 かけられていた毛布を手に、ゆっくりと身体を起こす。
 いきなり、周り中から犬だと言われて追いやられて……あげく、野良犬として保健所に連れて行かれた。
 そこで、全ては終わったはずだったのに。
「まぁまぁ、目を開けるとずぅっと愛らしいわんちゃんだこと。怪我はないようだけど具合はいかが? お腹はすいてないかしら」
 ゆっくりとした歩調でみなもの元にやってきて、そっと頭に触れる。
 その扱いは人間に対するものに似ていたけれど、少年もこのおばあさんも確かにみなもを『犬』と呼んでいる。
 ――悪夢が、続いているんだろうか。
 みなもがそう思い、うつむいたときだった。
「可哀想に。つらかったのね。だけどもう大丈夫だから。怖がらなくてもいいのよ……」
 ぎゅっと、優しく抱きしめられる。
 恐怖も不安も、全てを拭い去ろうとするように。
「おばあちゃん。わんこのご飯持ってきたよ」
 少年が、固いドッグフードに缶詰のドッグフードを混ぜ合わせたものと、水を手にして戻ってきた。
 みなもはそれをじっと見つめ、ためらうように2人の姿を見比べた。
 混ぜ物がされているなどと疑ったわけではない。犬の食事に若干の抵抗があったのだ。
 それでも、銀色の器は清潔そうに見えたので、とりあえず水をいただくことにした。
 大きな器を手に持てばこぼれるだろうと思い、両手で水をすくって少しずつ口に運んでいく。
「ドッグフードは食べないね。嫌いなのかな」
「今はお腹がすいてないのかもしれないわね。しばらく食べないようだったら、他のものを用意しましょう。明日、わんちゃんの体調がいいようだったらお風呂に入れてあげましょうね」
「お風呂ですか。入りたいです」
 みなもはその言葉に、パッと顔をあげて反応する。
「あら。嬉しそうね。お風呂が好きなのかしら。体調もそれほど悪くなさそうだし、入れてあげてくれる?」
「うん、わかった。おばあちゃんは先に休んでていいよ」
「いいえ、待ってるわ。わんちゃんがキレイになったところを見せてもらわないとね」
 少年は「わかったよ」と言って、みなもを連れて部屋を出て行く。
 暖かな居間を出ると、広い廊下があった。
 古い木造作りで、歩く度にギシギシと軋む。
「大きな家だろ。ここね、おばあちゃんの家なんだ。僕はね、『オトナノジジョウ』でパパやママと暮らせなくなって、ここで一緒に住んでるの。お前も、これから一緒に暮らすんだよ。僕たち、家族になるんだ」
 広い家に、年老いた老婦人と幼い少年。何故だか、自分がそこに迎えられることになったらしい。
「どうして、あたしなの?」
「……僕ね、お前が捕まえられるところを見たよ。何もしてないのに、いじめられて、連れていかれて……。保健所とは違うけど、僕も施設に入ってたことがある。両親がいても、何もしてなくても、入れられたんだ。そのときのことを思い出した」
「それで、助けてくれたの?」
「他にもたくさんの犬たちがいて、同じように殺される。それは、僕にだってわかってたんだよ。でもね、たくさんいる施設の子どもたちの中で、僕にはおばあちゃんの助けがあった。お父さんの義理のお母さんらしくて、血はつながってないんだけどね。――僕も、何かしたかったんだと思う。せめて、お前だけでも助けてやりたいって」
 ぎゅうっと、しがみつくように少年が抱きついてくる。
 血のつながりがない家族。きっと、誰もが一人ぼっちで、寂しくて。
 家族という言葉が、とても現実的に思えた。
 彼らは、ペットを言葉の上だけで家族と呼んでいるわけじゃない。
 本当に家族の一員として迎え入れようとしてくれているんだ。
「……ありがとう」
「そうだ、早くお風呂に入れてあげないとね。おばあちゃんが待ってるんだった」
 少年は微かに滲んだ涙をぬぐい、みなもの頭を撫でてから風呂場へと案内した。
 ズボンの裾を腕の部分をまくりあげ、大きなタオルを用意する。
「暴れるなよ、怖くないからな」
 浴室のドアを閉め、シャワーの温度を確認しながら少年は言った。
 そうか、お風呂といっても、一人で入らせてくれるわけはないんだ。
 改めてその事実に気がつき、みなもは少し戸惑いを覚えた。
 温かなお湯が、服の上からかけられる。
 背を向けた長いみなもの髪に、シャンプーがつけられ、優しく洗ってくれる。気持ちいい、と思った。
 身体まで同じように洗われるのは、さすがにくすぐったかったけれど。
 ざぁっと全体を洗い流され、大きなバスタオルで包み込まれる。
 他人に洗ってもらって、タオルで拭いてもらうなんて。
 何だか、懐かしかった。幼い子供だった頃のことが甦る。
 それをしてくれるのが子供だというのが、若干おかしなところではあるけれど。
「おばあちゃん、洗い終わったよ。こいつ、すごいおとなしかったんだ」
「あらまぁ、キレイになったわねぇ。こっちにおいで。ブラッシングをしてあげるから」
 老婦人の座るロッキングチェアの前にはストーブがあり、横にタオルが広げられている。
 みなもは、おとなしくそこに座った。
「まるで、言ってることがわかるみたいね」
「わかるんだよ。頭がいいんだ」
 みなもの髪の毛に櫛がかけられる。ゆっくりと、流れにそって優しく。
 気持ちがよくて、みなもはおばあさんの膝に頭を乗せる。
 お香のような優しい匂いがした。
 少年は向き合うように横になり、その光景を見守っていた。
「じゃあ、そろそろ寝ましょうか」
 しばらくそんな時間を過ごしてから、ふっとおばあちゃんが言った。
 髪の毛はすっかり乾いていて、少年がふかふかだ、と抱きついてきた。
「一緒に寝よう。いいよね、おばあちゃん」
「そうね、そうしましょう。でもわんちゃんが外でも寝られるようにベッドは別に用意しておかなくちゃね」
 2つの布団が並んだ寝室で、2人は一緒に寝ているらしかった。
 畳が敷かれた和室の隅に、大きなマットレスと毛布が用意されている。
 布団の中が気に食わなければ、そっちで寝ても構わない、ということだ。
 新しく用意された水と餌もある。
 器の中にパンとサラミソーセージがあるのを見て、みなもは思わず手にとってしまった。
「昔飼われてたのかしら、人間の食べ物の方が好きみたいね。でも、そればかりじゃよくないから少しずつでもドッグフードも食べてちょうだいね」
 言われて、こくりとうなずいて見せる。
 子供の頃、犬を飼っている友人がドッグフードを食べてみたりもしていた。一種のビスケットだと思えば普通に食べられるかもしれない。
 犬として扱われていることには変わりはないのに、どことなく反発する気はなくなってきていた。
 決して諦めではなく、自分を想ってくれているのがわかるから。
 同情でもからかいでもないその愛情に、応えてあげたいと思えたからだ。
 犬に見えるというだけで迫害を受け、殺されそうになった。
 首輪をつけたままの犬たちが哀しい声をあげ、苦しみながら死を迎えていく様を目にして、人間というものを強く憎んだ。
 ――だけど……。
 ひどい人たちばかりじゃない。
 簡単に動物を捨て、殺してしまえるような人もいれば……動物をペットではなくコンパニオンアニマルとして。生涯の伴侶として受け入れる人もいるのだ。
 少年に抱きしめられながら、みなもは穏やかな気持ちで眠りについた。


「おばあちゃん、コイツすごいんだよ! 犬用のトイレじゃなくて人間のが使えるんだ。ちゃんと流すし、その上鍵だってかけちゃうんだから!」
 興奮した様子で少年が叫ぶ。
 みなもは恥ずかしそうに顔を赤らめ、うつむいた。
 人間の自分としては当然……むしろ、犬用のトイレを使う方が難しいところだったのだが、確かに普通の犬としてはすごいことなのだろう。
「まぁ。本当に頭のいいコなのねぇ。しっかり躾けてあるみたいだし……盲導犬や介助犬にもなれるかもしれないわ。グレートピレニーズっていう犬種はね、元々牧羊犬だったんだけど、寒さに強いから雪山での救助にも向いているらしいから」
「そうなんだ……すごいんだね。でも、だからってどこかにやっちゃったりしないよね? お仕事するのは確かにえらいと思うけど……コイツは僕らの家族なんだもん。他の人のとこに行っちゃったりしないでしょ?」
「そうね。だけど、せっかく頭がいいんだし、そういうことを教えてあげるのもいいかもしれないわ。私だって、いつ介助が必要になるかもわからないし……そういうとき、このコが助けてくれると心強いからね」
「うん! そうだね、おばあちゃんだったらいいよ。ね、おばあちゃんのために頑張ろうね」
 それから、介助犬の指導の仕方をおばあさんが調べて、少年がみなもに教えていくことになった。
 落ちたものを拾う、電気をつける、ドアを開ける、果ては冷蔵庫からボトルを取ってくる、ということまで。
 そのどれもが、人間であるみなもにとっては簡単で。しかし犬の場合はしっかり学ばなければ難しいものばかりだった。
「このコはすごいわね。こんなに優秀なわんちゃん、他にいないわ。言葉で指示しなくても理解しているみたいなんだもの。本当に頭がいいんだわ」
 何度も、そうした絶賛を受けた。
 吠えたりもせず、おとなしい気質なので尚更、散歩のときも周囲からいい犬だと褒められた。
 首輪にはやはり慣れないけれど、伸縮のできるリードを用いられ、無理に引っ張られることもないので苦痛はほとんどない。
 散歩では決して用を足さず、家に帰ってトイレに行くみなもに、少年もおばあさんも「自分を人間だと思ってるのかも」と笑っていた。
 時々、ドッグランにも連れていってもらった。
 広い場所で思いきり駆け回り、他の犬たちと遊べる場所。
「本来運動量の多い犬だから、散歩だけじゃ足りないでしょう」
 とおばあさんはいうのだが、みなもはさほど運動不足を感じているわけでもなかった。
 それでも、他の犬たちと一緒に遊ぶのは楽しかった。
 少年とフリスビーで遊んだりもした。
 みなもは手を使って受け取り、投げ返すのだが「犬が投げ返してる!」と驚かれたこともあった。普通、犬は取ってくるものなのだから変わっているのかもしれない。
 毎日のお風呂。飽きないようにと栄養を考えられた毎日の食事。
 一緒に遊んで、一緒に寝て。訓練だって、すごく楽しかった。
「こんな風に過ごせるんだったら、犬の生活も悪くないな……」
「ん? 何、どうかしたの?」
 みなものつぶやきに、少年が振り返る。
「幸せだって、そう言ったのよ」
 伝わるはずのない言葉を、それでもみなもは口にする。 
「何だよ、嬉しそうな顔しちゃって」
 少年は微笑み、みなもに抱きついて後頭部を撫でる。
「お前は頭がいいから、きっと僕の言葉はわかってるんだろうなぁ。僕にも、お前の言葉がわかるといいのに」
 そして、しみじみとそうつぶやく。
 「助けて」と、声が枯れても尚、叫び続けた。悪夢のような3日間が嘘のように。
 今、言葉が通じないのは少し寂しいけど、哀しくはない。気持ちはちゃんと伝わっているとわかっているから。
 犬に見えるということも、言葉が通じないということも、あのときと変わらないのに。
 出逢う人が違うだけで、こうも変わるものなのか。
 こんな状況にあっても幸せだと思える。そう感じられるようになったことを、みなもは感謝していた。


 そんなある日。
 おばあさんは階段を踏み外し、足を骨折してしまった。
 少年とみなもが散歩に出ているときのことだ。
 骨がもろく治りも遅くなると予想され、入院を勧められたものの、断わったらしい。
 家族たちが待っているから、と。
 正式な介助犬として登録されていないみなもは、病院の外で待っていた。
 車椅子のおばあさんを少年が押している。その光景を目にして、泣きたくなってしまった。
「こんなに早く、あなたの力を借りるときが来るとはねぇ……」
 みなもは、おばあさんのために懸命に頑張ることにした。
 車椅子を持ち上げるのを手伝ったり、階段での補助もする。少年が学校に行っている間、一緒にいられるのは自分だけだったから。
「ありがとう。助かるわ」
 その度、おばあさんは優しく微笑んだ。
 それでも……。もしこのまま、足の治りが遅ければ、最悪寝たきりになってしまうこともあるかもしれない。
 そうなれば、みなもにできることは少ない。
「お前がいてくれて、よかった……。僕が学校に行ってる間も、一人にならなくてすむもんね。それに本格的に介助をしてくれてすごく助かるって言ってた」
 少年は、お風呂場で、そっとみなもに語りかけた。
 どこよりも2人っきりになれる、その場所で。
「だけど、もし……おばあちゃんに何かあったら、どうしよう。どうしたらいんだろう、僕も、お前も……」
 血のつながらない家族で構成された不思議な関係は、こんなにも細い一本の糸でつながっていたのだと思い知る。
 この幼い少年に、一人で暮らすことなんてできるはずもなく。きっと、施設に戻されることになるだろう。
 そうなれば、みなももまた……一人ぼっちだ。
 みなもは、初めて自分から少年肩に手を回した。
 しがみつくと共に、涙が溢れた。
「大丈夫だよ。大丈夫……。ただの骨折だもの。まだちゃんと、歩けるんだもの。すぐに治るわ。きっと、大丈夫……」
 もしも離れ離れになるとしても、それは遠い先のこと。
 そう信じて、みなもは少年を励ました。
「――慰めてくれるんだね。ありがとう」
 少年は、涙を拭い、もう一度「ありがとう」とつぶやいた。
 おばあさんはその後、懸命なリハビリにより早い回復を見せた。
 大事な家族に心配ばかりはさせられない、と笑って、全快祝いに皆でパーティーをした。
「ありがとうね。あなたがいてくれたおかげで、助かったわ。このコとも、離れ離れにならずにすんだ……」
 ――そうだ。もしも介助するものがいなければ、おばあさんは入院するしかなかったのかもしれない。
 少年が学校を休んでつきっきりで看病するわけにはいかなかっただろうから。
「本当だよ。僕ら、いい家族だよね。お互い助け合ってるんだもん」
「そうね。いい家族ね」
「――うん。あたしも、そう思うよ」
 みなもも声をあげ、3人で輪になるように抱き合った。
 どうか、ずっとこの幸せが続きますように。
 いつしか、犬として認識される苦痛や不安は全て消え去っていて。
 心の底から、そう願うことができたのだった。