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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『月読』



 玄関に黒塗りの矢が突き立てられていたという。

 生粋の都会育ちで、数年ぶりに田舎へと遊びに来ていた妙には、祖母がどうして血相を変えているのかが分からなかった。
 聞けば、この辺りでは昔から荒神を祀っていて、黒塗りの矢はその『通達』だと言われているらしい。
「あたしのおばあちゃんの娘時分以来なんだよ、こんな事……」
 祖母は震える手で、矢に結ばれた紙を解く。
「へえ。それじゃ百年くらい前の話?」
 妙がわざと茶化しても、祖母は硬い表情を崩さない。ようよう開いて矢文を読み、青を通り越して白くなっていく祖母の顔色を見て、妙まで血相を変える破目になった。
「ちょっとおばあちゃん、 大丈夫!?」
「あたしの事なんかどうでもいいよ。妙、妙ちゃんあんた、えらい事になった」
 開いた文を見せられ、妙はきょとんとする。行書で崩し字、しかも毛筆である。読みにくいことこの上なかったが、そこにはこう書かれているらしかった。

『ミカミ タエ。
 汝ヲ斎王トシテ迎フルモノナリ』

 斎王というのは、この地域では荒神の妻という意味だと祖母に言われ、妙はそれを鼻で笑い飛ばす。
「何それ。どうせ誰かの悪戯だって」
 だが、近所の人から聞いた話だと、数十年前にも同じ黒塗りの矢が立てられた家があり、名指しされた娘が忽然と姿を消すという事件が本当にあったらしい。
 気味が悪くはあったが、この時世に神隠しなど本当にある訳はない。都会っ子の妙はそう楽観して数日を田舎で過ごし、心配顔の祖母を置いて自宅へと戻った。

 そうして自分の家の玄関に突き立てられた黒い矢文を見て、愕然となった。

『満月ノ夜ニ婚姻ノ儀を執リ行フ』

 仰ぎ見た月は、くっきりと半円の形に闇を切り取っていた。



 御神妙という少女は、最初はずっと泣き通しだった。
 ロルフィーネ・ヒルデブラントには、どうして妙がそんなに悲嘆に暮れるのかが分からない。
 妙は荒神の妻に選ばれたのだ。今は彼の庇護下におり、これより先、飢える事も老いる事もない。ただの人間からの大出世だと思う。なのに、妙はそれを嬉しく思わなかったようだ。家に帰りたい、家族や友達に会いたいと言っては涙を零した。
 荒神が姿を現した時などは、特にひどく泣き叫ぶ。全身で彼を拒絶し、斎王など御免だと喚いて、手当たり次第に物を投げ散らかしたりする。そんな事しても無駄なのに、とロルフィーネは呆れた面持ちで彼女を眺めていた。
 荒神の力は絶大で、生半の存在では彼を打ち破れない。もしもロルフィーネの知る中に彼を凌駕する者がいるとすれば、自分の夫しか思い浮かばない。だからこそ、ロルフィーネは荒神に捕えられてしまったのだ。
「あーあ。おいしそうな子だから、横取りしちゃおうと思ったのになー」
 ロルフィーネはつまらなさそうに唇を尖らせる。泣き疲れて眠る妙の白い首筋やなめらかな腕は、吸血鬼であるロルフィーネの食欲を大いにそそった。なのに欲を満たそうと思わないのは、今のロルフィーネが荒神の支配下にあるからだ。彼に庇護されている間だけは、ロルフィーネは血を啜らなくとも生きていける。だから、わざわざお気に入りの服を血で汚してまで、妙の肌に牙を立てようとは思わない。
 それに、とロルフィーネは闇の中でうっすら笑う。こうして自分が他者の支配下に置かれてしまえば、ひょっとしたら夫が心配して助けに来てくれるかもしれない。
 ロルフィーネはそれを待ち望んでいた。有体に言えば、夫にほったらかされて退屈していたのである。
「遠い所にいるから難しいかもしれないけど、ボクが危ない目に遭ったら、きっと助けに来てくれるよね」
 ウサギのぬいぐるみを抱きしめ、ロルフィーネは目を閉じる。
 荒神は美しい青年の姿をしていて、人妻であるロルフィーネも見惚れる程だったが、夫と比べるとどうしても見劣りがする。それでも、軽い浮気相手として選択肢に入れるのなら悪くない。
 ロルフィーネと妙は、森の奥深くの社に押し込められていた。黴臭いのが欠点だったが、頑丈な造りのお陰で、ロルフィーネの嫌う陽光を一切通さないという点では最高だった。
 暗闇に怯え、身を縮こまらせて眠る妙の傍を離れ、ロルフィーネは社の扉を控え目にノックする。
「水主サマ、ねえ、ボク、ちょっとお外に出てもいいかなあ?」
 水主というのが荒神の通称であるらしい。こうして呼ぶと、彼がそこそこの頻度で顔を出してくれるという事を、ロルフィーネはこの数ヶ月で学んでいた。
「何処に行く」
 扉越しに低い声が問う。ロルフィーネは妙を振り返って答えた。
「もうタエの泣き顔見るのも、泣き声聞くのも飽きたんだ。村に下りてみてもいいでしょ? ねえ、お願い」
「下りてどうする?」
「タエが喜びそうなものを探してくるよ。水主サマだって、顔を出す度にタエに癇癪起こされるの、飽き飽きしてるでしょ?」
 抑えた笑い声が漏れ、微かに扉の軋む音がした。妙の様子を窺うが、起き出す気配はない。彼女を起こしてしまわないように静かに社を抜け出し、ロルフィーネは荒神の元に向かう。彼は月の光の下で、白い着物を纏ってぽつんと佇んでいた。
「斎王というものは、最初はほとんどがあれと同じだ。ただ、あそこまで激しく拒絶する娘は初めてだがな」
 愉快そうに荒神は言う。ロルフィーネは訳知り顔で頷いて見せた。
「タエはね、斎王に選ばれる名誉がちっとも分かってないんだよ。だから水主サマ、落ち込んじゃダメなんだからね」
 彼はただ笑んで、ロルフィーネの頭に手を置いた。大きな手の感触は、彼女に夫の事を思い起こさせる。
「行くがいい。ただ、夜明けまでには戻れ。小さな吸血の姫」
「はーい!」
 元気に答え、ロルフィーネは駆け出した。妙は何が好きだろうと考えながら。


 田舎の村の事だから、漁ってもロクな物は手に入らないだろうと思っていた。それでもロルフィーネは、妙に似合いそうな綺麗な着物と、饅頭と呼ばれる菓子を手に入れてきた。それを目覚めた妙に向かって差し出すと、彼女は驚いたように目を丸くする。
「……どうしたの、それ」
「村からとって来たんだよ。タエ、こういうの好き?」
 ロルフィーネは着物を頭から被り、くるくると回って見せる。妙は呆然とそれを見つめた。
「……外に出られたの? どうしてあんただけ……」
「タエは水主サマに逆らってばっかりいるから出してもらえないんだよ。その点、ボクはとってもいい子だもん。逆らわないし、泣き叫ばないし、逃げ出したりもしないもんねー」
 手にした饅頭は甘い香りがする。半分に割って差し出すと、彼女はおずおずと受け取った。並んで座って齧ってみたが、ロルフィーネはそれをあまりおいしいとは思わなかった。
「不思議な味がするね」
 言いながら妙を見遣ると、彼女はまたぽろぽろと涙を零していた。ロルフィーネは目をぱちくりさせる。
「どうして泣くの? 折角、ボクがタエの為にとってきたのに」
「これ、おばあちゃんの好きなお饅頭……」
 また里心に駆られたらしい。逆効果だったかとガッカリしながら、ロルフィーネは溜息をついた。
「どうしてそんなに人の世界にしがみつくの? 水主サマと一緒に居る方が、ずっと幸せになれるのに」
「訊きたいのはこっちよ。あんた、どうして帰りたいって思わないの?」
 涙を拭いながら妙は問う。ロルフィーネは平然と答えた。
「だってボクは元々、人間じゃないもん」
 そうして、妙に語って聞かせた。自分の生い立ちを。こことは違う場所でハーフエルフとして生まれ、疎まれ、隔離されて育ち、強大な吸血鬼の手によってようやく自由を得たというロルフィーネの話に、妙はただただ目を丸くする。
「それって……作り話よね?」
「何でボクが作り話をしなきゃいけない訳? 疑うなら、今すぐタエの血を貰っちゃってもいいんだからね」
 牙がよく見えるよう笑って見せると、妙は怯えたように社の隅に逃げた。失礼な反応にロルフィーネは肩を竦める。
「とにかく、タエは選ばれた存在だし、それはすっごく幸運な事なんだからね。それをちゃんと自覚しないと幸せになれないよ」
 舌を出して、妙に背を向けて横になる。選ばれたくなんかなかった、と彼女が涙声で呟くのを耳にしながら、ロルフィーネは眠りに落ちた。


 妙の好きそうな物を何度か村から調達しているうち、ジャムパンという食べ物が彼女の好物だという事が判明した。
 これはロルフィーネの口にも合った。何よりも、柔らかなパンをちぎると、中からとろりと赤いジャムが出てくる所がいい。
「人間のお腹みたい」
 そう呟いたら、妙に怪訝そうな顔をされてしまった。
「でもタエってば変なの。水主サマの庇護下にいるんだからお腹空かないのに、食べ物を持ってくると喜ぶよね」
 昨日は飴、一昨日はクッキー。綺麗な服や飾り物には見向きもしない妙が手にしたのがそれだった。指摘すると、彼女は唇を尖らせる。
「だって、食べないのに平気なのが平気になったら、本当に人間じゃなくなるみたいで嫌なんだもの」
 妙の言う事は、ロルフィーネにはあまり理解できない。小首を傾げていると、妙は言い返してきた。
「そう言うあんただって食べてるじゃないの」
「ボクはタエに付き合ってあげてるだけだもん。そんな事言うと、もう何も持って帰ってきてあげないんだから」
 言うと、妙は押し黙った。
 夜になって、ロルフィーネは妙が寝ている間にまたぞろ社を抜け出し、荒神に報告する。
「水主サマ、タエはね、ジャムパンっていう食べ物が好きなんだって。おいしいって言って、ちょっとだけ笑ったよ」
 言うと、荒神は「そうか」と呟いてロルフィーネの頭を撫でてくれた。荒神と妙の二人が喜んでいるらしいのが、ロルフィーネにとっても何故だか嬉しかった。
「ボク、また村に下りてタエの好きそうな物を見つけてくるよ。タエは食いしん坊だから、可愛い小物とかお洋服より食べ物によく反応するんだ。あれじゃ、まだまだレディとは呼べないよね〜」
 スカートの裾をひらめかせ、優雅にくるりと回りながらロルフィーネは言う。かく言う自分も食事の仕方で姉達にたしなめられたりするのだが、それは秘密にしておく。
「何でもいい。あれが喜ぶのなら」
 ぽつりと荒神は言う。ロルフィーネは小首を傾げた。
「水主サマったら、やっぱりタエに嫌われてる事、気にしてる?」
「いや。言ったであろう。最初はあんなものだと。私の妻になるのが嫌で自害した者もいたほどだ。慣れている」
 慣れている、という割には、彼は妙の事を気にかけて、あえて距離を置いているように見える。ロルフィーネが好き勝手に村へ下りる事を許すのも、ほとんどが妙の為なのだろうと思った。
「私は荒ぶる神。祀らねば祟るゆえ、人間は私を崇める。本心からではなく、報復を恐れての崇拝だ。時々、そのようにしか在る事のできない己を忌々しく思う事がある。だから、妙のように歯に衣着せぬ娘は嫌いではない」
 荒神の言う事は難しくてよく理解できなかったが、彼はとても寂しそうに見えた。その気持ちは、幼少の頃に隔離されて育ったロルフィーネにも理解できる。
 妙が荒神の事を好きになれば万事解決だ、とロルフィーネは気付いた。そうすれば荒神は寂しくなくなるし、妙は自分の幸運を理解するだろう。
 それが一番いい事に思えた。


 村に下りては妙の為に色んな物を持ち帰るロルフィーネに、妙は不思議そうに訊ねる。
「ねえ、どうしていつもあたしにお土産持ってきてくれるの?」
「タエが泣いてばっかりいるからだよーだ」
 からかうように言うと、妙は顔を赤くしてロルフィーネを捕まえようとした。その手をかわしてロルフィーネは笑う。
「それに水主サマも、タエが喜ぶと嬉しそうだしね」
 妙は非常に複雑な表情を浮かべた。どうして、と呟く妙に、ロルフィーネは答える。
「だって水主サマは、ここに閉じ込められてるんだもん」
「意味分かんない。閉じ込められてるのはあたし達の方じゃない」
 似たようなものだよ、とロルフィーネは肩を竦めてその場にしゃがみ込む。
「人間を守る為にここに縛りつけられてるのに、当の人間からは怖がられて嫌われて、一緒にいてくれるのは斎王だけなんだよ。なのにタエがあからさまに水主サマを嫌うから、ボクは水主サマに同情しちゃうの」
 妙は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに黙り込んだ。ロルフィーネはそれを見て、ここぞとばかりに言う。
「タエが水主サマを拒んだら、水主サマは独りぼっちだね。あーあ、可哀想〜」
「……あんたがいるじゃない」
「ボクはお兄ちゃん……旦那様のものだもん」
 ロルフィーネは胸に掌を押し当てる。
 この命と吸血鬼の力、そして自由は夫が与えてくれたもの。だから、ロルフィーネの身も心も夫以外の者に所有されてはいけないのだ。夫とてそう思っているはずだから、こうして囚われていればきっと助けに来てくれる。
 もし来てくれなかったらどうしよう、という不安を、ロルフィーネはぷるぷると首を振って意識の外に追いやった。

 その数日後、久し振りに荒神が二人の所にやって来たが、妙は以前のように癇癪を起こさなかった。
 荒神の顔も見ず、話もしなかったが、少しは進歩したな、とロルフィーネは満足気に一人で頷いていた。


 逃げないから自分も村に行かせてほしい、と妙が言い出した。
 ロルフィーネが同行し、妙が逃げ出さないように見張るという約束付きで、彼女はここに来て初めての外出を許された。
「ボクったら、水主サマに信用されてるう。タエ一人じゃこうはいかないんだから。感謝してよね」
 胸を張りながらロルフィーネが言うのに、妙は苦笑混じりに「はいはい」と答える。
「で、どこまで行くの?」
「おばあちゃんのとこ。……少しでいいから、会って話がしたいの」
 寝静まった村の中、妙はおっかなびっくりの歩調で祖母の家を目指して歩く。あまりにもその足取りが覚束ないのを見かねて、ロルフィーネは妙の手を引いてやる事にした。
「ありがと」
 妙の手は、ひんやり冷たいロルフィーネの手とは違って温かい。白い皮膚の下を流れる血潮そのままの温度なのだと思うと、胸が騒いだ。彼女が完全に荒神のものになるまでに、一口くらい味見させて貰おうとロルフィーネは企む。
 祖母の家の前に立ち、妙はドアをそっと叩く。何回かのノックのあと、ようやく妙の祖母らしき老女が顔を出した。
「おばあちゃん!」
 妙が嬉しそうに笑うのに対し、老女はヒッと喉の奥を鳴らして腰を抜かした。まるで幽鬼にでも出会ったかのような表情に、妙が凍りついたのが分かる。
「妙ちゃん……。すまん、すまんかったなあ」
 老女は悲痛に叫んで泣き伏した。
「助けてやれんですまなんだ。成仏しとくれ。成仏しとくれ」
 妙は強くロルフィーネの手を握り、その場に立ち尽くす。妙が今にも泣き出しそうなのを見て取って、ロルフィーネは彼女の手を引いて、その場を立ち去った。
 帰り道、妙はぽつりと呟く。
「あたし、もう死んだ事になってるのね……」
 涙声だったので、ロルフィーネは振り返らず、返事もしなかった。妙の泣き顔は見たくなかった。
「もう……帰れない……」
 その呟きが胸に刺さった。帰れないのは今のロルフィーネも同じ。
 月明かりに照らされた青い影が二つ、森の奥の社に向かって悄然と進むのを迎えた者があった。荒神が、沈鬱な表情を浮かべて立っていた。
 彼は妙に、すまぬと詫びた。その声音は、今まで聞いた彼の言葉の中で一番優しく、哀しみに満ちていた。
 妙の事だから、てっきり荒神を罵倒するかと思いきや、彼女は声を殺してただ泣いている。慰撫するように伸ばされた荒神の腕に抗う事なく、彼の胸に頭を預けて泣き続けた。
 それを見守るロルフィーネの胸の奥で、何かがざわりと騒いだ。
 ──吸血衝動以外の何かが。


 妙は一晩中泣き続けていた。
 ロルフィーネが心底うんざりしかけていた頃にようやく泣き止んだかと思うと、今度は何かを決意したように、じっと一点を見つめている。
 どうしたの? と問うと、妙は凛とした表情でただ首を横に振った。
 彼女は腕を伸ばし、ロルフィーネを抱きしめる。きょとんとするロルフィーネに、妙は囁くように言った。
「あたし、一人じゃなくて良かった。あんたがいてくれて良かった。でないと、きっと頭がおかしくなってたと思う……」
 何故、自分が妙に感謝されているのかがロルフィーネには分からなかった。ただ、妙が少し変わったという事だけははっきりと分かった。
 彼女は運命を受け入れつつある。
 歓迎すべき事のはずなのに、何故だかロルフィーネはそれをつまらないと感じていた。 


 ある日、妙が急に、以前ロルフィーネが持ち帰ってきた着物に着替えると言い出した。
「ボクが持って帰ってきた時は見向きもしなかったクセに」
 ロルフィーネが言うと、妙はぼそぼそと答える。
「だって、ずっと同じ服なんて不潔だし……」
 斎王としてここに招かれた時点で、妙は既に人でなくなっている。生理現象とも無縁なはずだ。着替えたい、という欲求は、別の感情から生まれたのだろうとロルフィーネは思う。
「じゃ、ボクが着せてあげるよ。髪飾りも綺麗なのが幾つかあったよね」
 試行錯誤しながら妙に着物を着せた。本来の着方とは違う出来になったが、妙は風変わりな日本人形のように可愛らしい姿になった。羨ましかったのでロルフィーネも同じように着物を着てみると、妙は手を叩いて喜んだ。
「可愛い! ねえ、折角だから髪を結ってあげるわ」
 招かれるまま妙の膝に座り、髪を結って貰う。何だかちょっとくすぐったかった。かんざしという髪飾りが頭の上でしゃらしゃらと揺れるのが面白く、ロルフィーネはご機嫌になる。
 この姿を荒神にも見せるべきだと主張したが、妙は恥ずかしがって社の隅に隠れてしまった。
「タエってば、ヘンなの」
 仕方がないので、一人で荒神の所に行って着物姿を披露した。荒神は褒めてくれたが、どうせなら妙と一緒に褒められたかったとロルフィーネは思った。


 妙は綺麗になったと思う。
 そう口にしたら、妙は「あんたにはかなわないわよ」と言って笑うが、彼女はここに来てから確実に変わった。
 成長したのではない。けれど妙の纏う雰囲気は、既に『少女』とは呼べないものに変化しつつある。
 彼女はもう『女』なのだとロルフィーネは悟った。それが何故なのかは明白だ。妙は斎王である自分を認め、荒神に惹かれつつある。それが彼女を『女性』へと変えたのだ。
 ロルフィーネにはそれが妬ましかった。妙の事は好きだし、荒神の事も気に入っている。二人が一緒にいるのはロルフィーネにとって悪い事ではない。──けれど。

 (ボクも、お兄ちゃんに会いたい)

 異世界の夫を想い、ロルフィーネは焦げ付きそうな胸を押さえる。
 こうして長く囚われているのに、彼は一向に姿を見せない。ロルフィーネがどうなってもいいのだろうか。そんなはずはない。自分は正式な彼の妻。どんなに遠く隔たれたとしても絆は不変だ。
 なのに、どうして夫は来てくれないのだろう?
 胸には苛立ちの色が濃くなりつつあった。


 焦れるロルフィーネをよそに、次の満月の夜、妙を正式に斎王とする儀式が行われる事が決まった。
「いいの? 儀式を受けたら本当に帰れなくなっちゃうんだよ」
 問いに、妙は笑う。その微笑は人の世界との別離を受け入れ、諦め切ったように寂しそうでもあり、新たな世界に足を踏み入れる喜びに満ちてもいた。不思議な微笑みに、ロルフィーネの胸は締め付けられる。
「いいのよ。だってロルフィーネには、本当の旦那様がいるんでしょ? だったら、あたしがここに残るほかないじゃない」
「タエが絶対に嫌だって言い張れば、水主サマはきっと帰してくれるよ。何だかんだ言ってタエには甘いもん」
「そんな事したら、あのひとが独りぼっちになっちゃうもの」
 でも、とロルフィーネは心の中で呟く。妙が正式な斎王となれば、自分の存在は宙ぶらりんになる。荒神と妙は正しい絆で長きに渡って結ばれる事が約束されるが、ロルフィーネはその中に入れない。異世界に、正式な夫を持っているから。
 なのに、夫がロルフィーネを迎えに来る気配はない。それは畢竟、ロルフィーネだけが独りぼっちになる、という事だ。
 ずるいと思った。妬ましいと感じた。それが、妙を荒神にとられてしまうからか、それとも妙だけが愛する人と固く結ばれるからなのかは分からなかった。
 妙は今や、ロルフィーネにとって初めてできた人間の友達だ。そして荒神は夫の代理品。最初は二人が睦まじくなる事を望んでいたロルフィーネだったが、今は自分がそう望んでいない事に気がついた。
「ありがとね、ロルフィーネ」
 そんなロルフィーネの心中も知らずに、妙は笑う。
「あんたがいてくれたから、あたしは決心できたの。一緒にいてくれて、ほんとにありがと」
 言って、彼女はロルフィーネを胸に抱き寄せた。僅かなふくらみの向こうから、とくんとくんと心音が聞こえる。まるでロルフィーネの、吸血鬼としての本性を誘うように。
 自分の正体を知りながら、何の躊躇もなく懐に招き入れる妙が無性に苛立たしく、ロルフィーネは半ば衝動的に、その白い肌に牙を立てた。


 荒神は、血にまみれたロルフィーネの姿を見ても眉一つ動かさなかった。
 ロルフィーネを赤く染め上げているのは妙の血だ。喉元を喰い破られた少女は既に息絶えていたが、その身も、そこから流れる血もまだ温かい。
「……二人共、悪いんだからね」
 悪びれもせずにロルフィーネは言い放つ。掌を伝って手首へと流れ落ちた血を舐め取りながら。
「ボクを仲間外れにしようとするんだもん。これはお返しなんだから」
 お行儀が悪いとは知りつつも、ロルフィーネはだらりと伸ばされた妙の手を取り、柔らかな二の腕に齧りつく。
 食事は頚動脈を狙い、残す牙の跡は二つだけ。それがマナーと知りつつも、何回挑戦してもうまく食べられたためしがない。
「タエはもうボクのだよ。水主サマにはあげないんだから」
 ロルフィーネが自慢げに笑うのに対し、荒神は意を決したように一歩を踏み出した。荒々しくロルフィーネの腕を取り、社の外へと引っ張り出す。
「ボクにお仕置きする気? 言ったでしょ、水主サマだって悪いんだから!」
 荒神は振り返らずに答えた。
「……お前は私を利用しようとしていた。だが知らなかったろう。私もまた、お前を利用しようとしていた事など」
 ロルフィーネはきょとんとする。そして、力任せに連れ出された空の下、稜線の縁の闇が淡いのを見てとって驚愕した。
 夜が明ける。太陽が昇れば、ロルフィーネは無傷ではいられない。最悪、陽の光に焼き殺される事も有り得た。本能的な恐怖に身を竦ませ、その場に留まろうと荒神の腕に逆らう。だが力では敵う筈もなく、容赦なく森の中から引きずり出された。
「やめてよ! ボクをどうする気!?」
 叫んだが、荒神は無表情にロルフィーネを縛めようとした。そうして言い争っている間にも払暁はやって来る。無慈悲な陽光を連れて。
「本気じゃないよね? ボクを殺したりしないよね!?」
 荒神は答えない。力尽くでロルフィーネを木の幹に縛り付けようとするのに、心の底から恐怖を感じた。助けて、と誰に向けてか叫んだ言葉は声にならない。
 ロルフィーネを捕まえていた荒神の手の力が唐突に緩んだ。それが、闇を割って唐突に現れた『何か』のせいだという事に気付いた時には、荒神の半身はえぐり取られていた。彼の身を襲った、何者のものとも知れぬ不気味な大きな手は、役目を終えたとばかりに闇の中に消えていく。
 突然の事に呆然とするロルフィーネの前に、荒神が崩れ落ちる。体の左側を失ったにも関らず、彼はまだ生きていた。残った右目でロルフィーネを見上げ、皮肉げに笑う。
「……これで分かったろう。お前の夫は常にお前を守っているのだと」
「知ってて……ボクを殺そうとしたの?」
 彼は頷いた。そこに至ってようやく、ロルフィーネは荒神の真意を悟る。
「水主サマ、死にたかったんだね」
 だったらそう言ってくれればよかったのに、と呟くのに、荒神は笑う。その笑みは、斎王になると決意した時の妙の笑顔に少し似ていた。
「とどめを刺せ、吸血の徒よ。今の私が相手ならば、お前にも可能な筈だ」
 ロルフィーネは頷き、その場にしゃがみこんだ。早く食事を済ませてしまわなければ夜明けが来る。
「妙には悪い事をした。だが、これで最後だ。私の孤独を慰める為に、人の娘が犠牲になるのは……」
 人間に同情するなんて変な水主サマ、と心の中で呟いて、ロルフィーネは荒神の傷に爪と牙を立てた。神と呼ばれるものはどんな味がするのかと思いきや、それは人のものと全く変わりなかった。
 曙光が差すまで、ロルフィーネは荒神の血の味を堪能した。その頃には既に、彼は息絶えていた。眠るような死に顔に満足気に微笑みかけ、赤い舌で唇をぺろりと舐めて、少女は囁く。
「折角のお願いだからきいてあげたよ。これで、タエも水主サマもずーっとボクのものなんだから」
 初めての人間の友達の血と、初めて口にした神の血。どちらも甘くおいしくて、ロルフィーネは満足していた。夫が自分の身を案じ、守護してくれる事も分かったし、今はそれで充分だ。
 だが、もう妙や荒神がロルフィーネに構ってくれる事は二度とない。
 それをほんの少しだけ、つまらなく感じた。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【4936/ロルフィーネ・ヒルデブラント(ろるふぃーね・ひるでぶらんと) /女性/183歳/吸血魔導士・ヒルデブラント第十二夫人】