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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


Idiosyncrasy credit



 おいしい仕事というのは、今回の事をいうのだとシュライン・エマは思う。
 依頼を解決するのは容易かった。ただ、草間興信所の所長は、騙し討ちに遭わされる形で依頼を受ける破目になった事を快く思っていない風だった。彼は、今も楽しそうな表情を浮かべてはおらず、実に複雑な顔をしている。
「武彦さんたら。折角の差し入れなんだから、おいしく頂きましょうよ」
 言って、シュラインはボトルを傾け、草間武彦のグラスにワインを注ぐ。着慣れないスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた彼は、物言いたげに手の中のグラスを弄んでいる。シュラインは殊更明るく、とりなすように言った。
「依頼の仕方が気に入らなかったのは分かるけど、依頼人さん達はこうして誠意を尽くしてくれてるじゃないの。それで良しとしましょ、ね?」
 依頼報酬として用意されたのは、高級ホテルの三ツ星レストランでの豪華なディナーと、シングルの部屋が二つと、心尽くしの酒肴。これで文句を言ってはバチが当たるというものだ。
「……別に、それを引きずってるわけじゃないさ」
 言いながらも、草間の口調には何やら含みがある。
「じゃあ一体どうしたっていうの? さっきからずっと不機嫌そうな顔して」
 シュラインが問うのに答えず、草間は一気にワインをあおった。何とも勿体ない飲み方をするものだと呆れていたら、草間は意を決したように口を開く。
「この際だから訊かせてもらう。……おまえ、俺を一体何だと思ってるんだ?」
 シュラインはきょとんとした。草間が何を言いたいのかは分からなかったが、彼が不機嫌なのだけははっきりと分かる。
「何を怒ってるの?」
「別に怒ってない」
 言いながらも、草間は拗ねたようにそっぽを向いてしまう。内心で、やれやれと肩を竦めてシュラインは言った。
「じゃあ、何が気に入らないの? こんなに素敵な夜なのに」
「あのな」
 草間は苛立たしそうにボトルを手に取り、中身を勢いよくグラスに注ぎ込む。
「おまえにとって、どうやら俺は男に分類されてないようだな。普通、こういうシチュエーションで、異性を部屋に招き入れて、呑気にはしゃぎながら酒が飲めるものなのか?」
 シュラインは瞬きした。草間は随分と不思議な事を言うものだと思う。
「私の部屋で一緒に飲もうって誘った時、武彦さんは素直に頷いてくれたじゃないの。なのに、来ておいて怒るってどういう事なの?」
「……いや、それは、その」
 途端、草間はしどろもどろになったが、すぐに不機嫌そうな表情を作って言い放った。
「じゃなくてだな。だからそもそも、こんな時間に俺を部屋に呼び寄せる事自体が無用心だと言ってるんだ」
「変な事言うのね。夜遅くに武彦さんと二人きりになるなんて、日常茶飯事じゃないの」
 事務所での残業、深夜の車内張り込みに、徹夜の隠密作業。まともな食生活を送っていない草間をシュラインが自宅に招いて、夕食を振る舞った事さえある。なのに何故、今頃になって草間が怒り出すのか、シュラインには理解できなかった。
「要するに武彦さんは、私の誘いが不愉快だったのかしら? だからお説教しに来たの?」
 わざと悪意的な答えを返してみると、草間は苦虫を噛み潰したような表情になった。 
「何でそうなる」
「じゃあ、逆?」
 にっこり笑って、シュラインはベッドに腰かけ、すらりとした脚を組む。
「ホテルの一室、酔った男女。……何も起こらないのがつまらない、って、そう言いたいの?」
「おまえな……」
 草間は大きく息を吐き、シュラインから視線を逸らす。その反応が気に食わなくて、シュラインは立ち上がり、腰に手を当てて問い返した。
「さっきの質問、そのままそっくり武彦さんに返すわ。そっちこそ一体、私を何だと思ってるの?」
 女性からの深夜の誘いに乗っておいて説教を始めるなんて、よくよく考えたら非常に失礼な話なのではないだろうか。そう思うと少しばかり腹が立ってきた。それを鎮めるように、草間が軽く片手を上げてシュラインを制す。
「やめよう。別に喧嘩したい訳じゃない。俺が言いたかったのはだな、女性が深夜に異性とホテルの部屋なんかで過ごすのは、相手が誰であれ感心しないって事だ。おまえは俺を信用してくれてるのかもしれんが、こっちは……」
 草間が言い終えないうちに、シュラインはつかつかと彼に歩み寄った。訝るような草間の視線を避けるように身を沈めたかと思うと、彼の片脚を掴んで勢いよく持ち上げる。
 草間は見事に転んだ。だが、毛足の長い絨毯のお陰で、痛い思いはしていない筈だ。何が起こったのかを理解できず、ぽかんと天井を眺めている彼に、シュラインは覆い被さった。悪戯っぽく朱唇の両端を引き上げながら。
「武彦さんの言いたい事は分かるわ。顔見知りによる密室での暴行事件が増えつつある、っていう統計もあるらしいものね。でも、今回に限っては余計なお世話よ。それよりも武彦さん、自分の事を心配したらどうなの?」
 言いながら、シュラインは彼のネクタイに手をかけ、するりと解いた。草間が面食らったように問う。
「おい、何の真似だ? 悪趣味な冗談は……」
「残念ながら冗談じゃないわ。……あんまり間の抜けた事ばっかり言ってると、本気で襲うわよ? まあ、武彦さんが真剣に抵抗したら、私の力じゃ敵わないから」
 ネクタイを両手に握り、ぴんと張り詰めさせてシュラインは微笑む。
「ハンデが欲しい所よね。……手首を縛るくらいなら構わないかしら?」
「待て! 待て待て待て! 分かった、俺が悪かった」
 草間は慌てて起き上がろうとする。その肩に全体重をかけて押さえながら、シュラインは彼の耳元に低く囁きかけた。
「分かってないわ」
 ぱちんと草間の額を叩き、さっさと立ち上がる。
「言っておくけど、部屋に招いたからって、武彦さんになら何をされてもいいと思ってる訳でもないわよ」
 冷たく言って、放り投げるようにしてネクタイを返した。草間は眉間にしわを寄せながら、うっそりと起き上がる。
 シュラインはグラスを手に取り、先程の草間と同じく、一気に中身を飲み干した。
 この数年間、シュラインは草間の迷惑にならない程度に、彼に好意を示し続けてきたつもりだ。ロクに給料も出ない職場で、恨み言のひとつも言わずに働いているのは、ひとえに草間の為であり、ひいては自分の為でもあった。
 淡白を装っていても義理人情に篤く、困っている依頼人を見捨てておけないお人好しの草間の力になりたかった。草間興信所で働けば、彼の一番近くにいられるし、働きぶりを眺める事もできる。共に働き、疲れた彼を労い、甲斐甲斐しく世話を焼いているうち、自分が草間にとって不可欠な存在に近づいていく事が何より嬉しかった。
 そんなシュラインに、言うに事欠いて「自分を何だと思ってる」はないだろう、と思う。
 確かに、シュラインは自分の気持ちをはっきりと口にして草間に伝えた事はない。だが控え目に、時には冗談ぽく、彼に対する想いを匂わせ続けてきた。草間の方だって、それを理解しているらしい節を見せた事があったではないか。
 そんな二人がこうして仕事を離れ、互いに装いを改めて、またとない絶好のシチュエーションの中にいる。にも関らず、艶っぽい出来事のひとつも起こらないなんて、あまりにも虚しすぎる。
 シュラインは、へたり込むようにベッドに腰を下ろし、深い溜息をそっと零した。
 正直に言うと、『男と女』ではなく、『所長と事務員』の関係でいた時間があまりにも長すぎて、このまま何の変化も起こらないのではないかという諦観が拭えない時がある。今みたいに草間が朴念仁発言を繰り出してきた時などは、ひょっとしたら彼はシュラインの気持ちに気付いていながら、わざと遠ざけようとしているのではないかと勘繰りたくもなるというものだ。
 そんな風に考え込んでいたから、シュラインはいつの間にか草間が自分の前に立っている事に気がつかなかった。顔を上げると、彼は遠慮がちに問う。
「……隣、いいか?」
 シュラインは黙って移動し、草間の為にスペースを空けた。彼はシュラインから少し離れた所に座り、ぽつりと口を開く。
「なあ、おまえの顔しか知らない奴らが、俺におまえの事を訊ねる時、どういう風に言うか知ってるか?」
 唐突な質問にシュラインは首を傾げる。草間はこちらを見ないまま答えた。
「概ね皆、『あのスタイル抜群の美女』か、『色っぽい美人さん』って言うな」
 それは光栄な話だが、話に全く脈絡がない。そう思ったが、シュラインは何も言わずにおいた。草間は煙草を取り出して火をつける。
「俺はナルシストじゃないんでな。世間に言わせりゃ立派な美人さんが、自分に好意を持ってると信じるほど自惚れちゃいない」
「あら」
 シュラインは思わず笑みを零した。
「謙虚なのね、武彦さんって」
「情けない話だが、自信がない、と言い換えてもいい」
 草間は相変わらずこちらを見ない。紫煙を吐き出し、それが消えていくのをぼんやりと眺めている。再び煙草を口に運んだかと思うと、自嘲混じりに言い捨てる。
「何せ、甲斐性がないからな」
「でも、それなりに食べてはいけてるじゃない」
 現に草間もシュラインも、今まで一度も食い詰めた事はない。公共料金の滞納はたまにあるが、かと言って借金がある訳でもなし。ただ、金銭的なゆとりが生まれる事は稀であるというだけだ。
「おまけに、部屋の掃除もロクにできんほどの無精者だし」
「叩き直し甲斐があるわね」
 言いながら体をずらし、シュラインは草間の近くに寄った。手を伸ばせば触れ合えるだけの距離を置いて。
「探偵なんて、胡乱な職業だしな。おまけに怪奇系の依頼ばかりが増えるときたもんだ」
「あら、少なくとも武彦さんの仕事ぶりは胡乱なんかじゃないわよ。怪奇系の依頼は退屈しないし、私は嫌いじゃないわ」
「……危険も付き纏うしな」
 そこでようやく、草間はちらりとシュラインの方を見た。その口調からは冗談めいた響きが消えている。シュラインは彼に向かって嫣然と笑って見せた。
「そうね。でも何かあった時は、武彦さんが助けてくれるんでしょ?」
 草間は困ったような表情で、微かに笑う。
「おまえが俺の事を信頼してくれてるのはよく分かった。だが、その根拠は何なんだ?」
 何故か、遠回しに「どうして俺なんかに惚れたんだ?」と訊かれているような気がする。シュラインは少し考え込み、言葉を選びながら答えた。
「そうね……。強いて言うなら、小さな信頼の積み重ねかしら」
 それは本当に些細なものの累積で、全てを言葉で言い表す事は難しい。
 例えば、依頼主に対する草間の言動からうかがえる誠意。渋々引き受けた怪奇系の依頼を、何だかんだ言いながら完遂する責任感。サポートスタッフへのそれとない気配り。無論、どれも完璧という訳ではないのだが、少なくとも草間武彦という男と一緒に働いてみれば、誰でも彼の働きぶりには多少なりとも好感が持てる筈だ。だからこそ、草間興信所には多くの依頼が舞い込んでくるのだとシュラインは思う。
 草間の仕事は、彼の望むハードボイルド路線とはかけ離れてしまいつつあるが、それも草間の持つ義侠心ゆえのものであると分かるだけに微笑ましく、好ましく、そしていとおしい。雑駁な東京の街には草間のような存在が必要なのだと思うし、彼ならこの街で起こる怪事件を解決に導く為の手管と人脈を有する事が出来る。シュラインはそれを知っているのだ。経験則──今まで草間と一緒に積み重ねてきた時間に拠って。
 そして、それは同時に、草間に対する恋心を募らせていくのに充分な時間と経験だったのだと思う。
 いつ、何がきっかけで草間の事を慕うようになったのか、シュラインは憶えていない。それほどに自然な成り行きだったから。
「なるほどな。今まで一度もおまえに悪さをしなかったから、俺は安全な男だと思われてるって訳か」
 わざとらしくつまらなさそうな口調で草間は言う。シュラインはそれに澄まして答えた。
「そういう事に……なるのかしらね?」
「そう言われると、指一本たりとも触れられんな。何せ、今まで積み上げてきた信頼が崩壊しかねん」
 草間は苦い笑みを浮かべて、溜息と一緒に紫煙を吐き出す。
「……思ってたよりもずっと牽制が上手いんだな、シュライン。さては、もう何人か袖にしてるな? これなら滅多な事は起こらんだろうと、俺も安心できるってもんだ」
 言いながら、草間は煙草を揉み消して立ち上がり、部屋を出ようとする。そうはさせじと、シュラインは事も無げに口を開いた。
「指一本触れてみる? 信頼が、別の何かに変わるかもしれないわよ」
 ぽつりとシュラインが言うのに、草間の動きが止まる。彼は立ち止まり、オウム返しに「別の何か?」と呟いた。
「何かってのは、何だ?」
「さあ。触れてみれば分かるかも」
 言葉の意味を吟味するように、草間は眉根を寄せ、訝るような口調で問う。
「……何をされてもいいと思ってる訳じゃない、って言わなかったか?」
「ええ。でも、うんと優しくしてもらえるなら、話は別よ」
 誘うでも遠ざけるでもない、自然な笑みを浮かべてシュラインは答える。
 それで通じたのだろう、草間はベッドに座り直し、ゆっくりとシュラインに向けて手を伸ばした。ためらいを見せるかと思いきや、それは迷いのない動きでシュラインのうなじに近づき、髪留めをそっと外す。
 ゆるくウェーブのかかった艶やかな黒髪が、はらりと解ける。それを掬い上げて梳く指の優しさを、シュラインは生涯忘れないでいたいと思った。感触を、記憶に深く刻み込むよう目を閉じ、囁くように訊ねる。
「ね。やっぱり改めて訊いておきたいんだけど、武彦さんにとって、私は何なのかしら」
「答えてもいいが、一度しか言わんぞ。……あと、笑ってくれるなよ」
 そう言われても、わくわくして口許が緩むのを抑えられない。善処するわ、と答えると、草間はシュラインの耳に唇を寄せた。
「……おまえは俺にとって、たった一人の女だ」
 短い一言だったが、その声音は真摯さと、控え目な甘さを孕んでいた。シュラインは、笑み零れる唇を手で押さえて俯く。
「おい、こら。笑うなと言ったろ」
 極まりの悪そうな草間の言葉に、シュラインは小さく首を横に振った。憮然とする彼の指を捉えて、違うの、と呟く。
「おかしくて笑ってるんじゃないわ。……幸せなの」
 引き寄せた指は煙草の──草間の匂いがする。それに頬を押し当てると、匂いはより強くなった。閉じた瞼に、同じ匂いの呼気がかかるのを覚えながら、シュラインは感じていた。
 二人がこれまで積み重ねたものが、一瞬にして、鮮やかに色を変えるのを。



 あれから二週間が経つ。
 シュラインは頬杖をつきながら電話の前で待機している。その唇からはここ数日、幾度となく溜息が零れていた。
「まさか、こんな邪魔が入るなんてね……」
 あの時、二人はようやく互いの気持ちを通わせたというのに、感激に浸る間もなく次の仕事が飛び込んできた。折角いい所だったのにと、思い返す度に残念な気持ちになる。
 あの日以来、草間はサポートスタッフを引き連れて遠方へと出張中だ。シュラインは連絡役を請け負い、こうして事務所に詰めている。かかってくる草間からの電話はいつも通りの簡潔さで、あの夜の余韻など微塵も感じさせない。
 お互い、仕事の時には恋愛感情を差し挟まず、今まで通りに過ごそうという約束は確かにした。が、こうまで判で押したように事務的だと、あの日の出来事が夢に思えてくる。
 何度目かの溜息を落とした時、「宅急便でーす」という平和な声が聞こえた。
 荷物を受け取り、シュラインはそれを検める。平たい大きな箱で、嵩の割に中身はやたらと軽い。送り主はと見ると草間の名前が書かれていて、受取人はシュラインに指定されていた。
「武彦さんからだわ……。何かしら?」
 昨晩、電話で話した時、彼は荷物を送るなどという話はしていなかった。小首を傾げながら包装を解くと、びっくりするようなものが目に飛び込んできた。
 白の毛皮のコートである。純白かと思いきや、光の加減で美しくシルバーグレーに輝く。手触りはなめらかで柔らかく、驚くほど軽い。試しに羽織ってみると着心地は最高で、おまけにとても温かかった。
「これってひょっとして、とっても高価なものなんじゃ……?」
 どうしてこんな物をと訝っていたら、電話が鳴った。相手は草間だ。開口一番、シュラインは訊ねた。
「武彦さん、これ、なあに?」
『これ? ……ああ、もう届いたのか』
 草間の声が、笑い含みに答える。
『ちょっと早いが、誕生日プレゼントだ。着心地はどうだ?』
「誕生日?」
 シュラインはカレンダーを見る。言われて初めて、自分の誕生日が近い事に気がついた。
「着心地なら大満足だけど……。でもこれ、一体どうしたの? こんな高そうなもの、いくらなんでも受け取れないわ」
 困惑気味に答えると、電話の向こうで草間が事も無げに言う。
『ああ、気にするな。うまい具合に材料を調達できたんでな。元手はタダみたいなもんだ』
「……材料?」
 あまりにも驚いて、シュラインは失念していた。毛皮のコートがあるという事は、その分、毛皮を剥がれた生き物が存在するという事に。
「ちょっと、これ、一体何の毛皮なの?」
 ──沈黙。ややあって、草間は平静を装った口調で問いかけてくる。
『なかなかいい毛皮だろう? 気に入ってもらえたか?』
「素敵だし、気に入ったけど……、ねえ、これ、何の毛皮?」
『安心しろ。妖怪悪鬼の類じゃない。かといって何の罪もない生き物でもない。仕留めたついでに毛皮を頂いただけだ』
 シュラインは、まるで草間の首を締めるように受話器のコードを掴む。
「だから、何の毛皮なのって訊いてるのに!」
『シュライン』
 草間の声が曰くありげに低くなった。
『気に入ってくれたんだろう? なら、詮索はしないで受け取ってくれ。なけなしの知恵と乏しい資金でやっと用意したんだ』
 そう言われてしまうと問い詰める事はできなかった。シュラインは溜息混じりに答える。
「分かったわ。でも、危険な事はしてないわよね?」
 ああ、と答えるタイミングが僅かに遅い。これは嘘だなと看破しながらも、シュラインはそれを指摘せずにおいた。
「それならいいの。……ありがと。とっても嬉しいわ」
『いや、済まんな。こんな物しか用意できなくて。でも多分、おまえに似合うと思う』
 贈られた物よりも、草間のその言葉の方が嬉しかった。シュラインは緩む頬を精一杯引き締めてきりりと顔を上げ、業務連絡を終えて受話器を置いた。そうして改めてじっくりと毛皮のコートを眺める。
 材料の知れない怪しい毛皮だが、美しい品には違いない。一体どこでどうやってこんなものを、と思考を巡らせた時、ふと思い出した。
 現在、草間が赴いているのは奈良だ。数多くの遺跡を有する事で知られる明日香村。古事記の時代には真神原と呼ばれた、歴史ある土地。そこには、地名と同じ名の神獣がいた筈だ。
 一匹は黒で、もう一匹は白。神格化された狼だと言われる、その獣の名前は大口真神。善人を守護し、悪人を裁き、火難と盗難から人々を守ると言われているが、折に獰猛な顔を覗かせ、人を食い殺す事もあるという。
「……まさかね」
 草間の事だ、得体の知れない毛皮でも、身につけていて害になりはしないだろうと信頼する事にした。何よりも、忙しい彼が、ちゃんとシュラインの誕生日を忘れずにいてくれた事が嬉しい。
「お返しは何にしようかしら……」
 呟きながら、何とはなしにポケットに手を入れると、指先に紙の感触がした。何かと思って引っ張り出すと、小さなメッセージカードが出てくる。
 誕生日おめでとう、という常套句の次には、お返しはこの間の続きで頼む、と書かれていた。シュラインは笑み崩れて、カードに唇を押し当てる。
「了解よ、武彦さん」
 彼の帰りがこれほど待ち遠しい事は今までになかった。シュラインはいそいそとコートを箱にしまい、その日が来るのを待つ事にした。
 これから先、二人の間に積み重ねられていくものに思いを馳せながら。





《終》