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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


ある貴婦人のダイヤ





 四十代と思われる婦人が差し出したネックレスはごく普通のものであった。
 チェーンはプラチナだろうか。つやを消された銀色が上品に光っている。腕のいい職人でなければ作り出せないであろうごく小さな爪にしっかりと押さえられ、シンプルな台座におさまっているのは大ぶりのブリリアントカットのダイヤモンド。婦人が身に着けている藤色のワンピースとつばの大きな帽子同様、シンプルではあるが決して安物ではない。
 「これが買い取ってほしいっていう品かい?」
 碧摩・蓮(へきま・れん)はキセルをとんと叩いて灰を落とし、やや斜めに婦人を見た。ええ、とだけ婦人は応えた。婦人の目の動きは大きなつばに隠れて読み取れない。
 買い取ってくれというなら買い取らないでもない。ネックレスなどありふれた商品だし、これほど大きなダイヤなら需要もあろう。しかしここはアンティークショップ・レン。見た目はごく普通でも実体はただのアクセサリーであるはずがない。
 「どうも分からないねえ。なんでわざわざうちまで来たんだい? こんなに立派なネックレスならいくらでも買い手がつくじゃないか」
 重厚なビロードの小箱に納められたダイヤは店内の薄暗い照明を受けて七色の微細な光の粒を惜しげもなく発している。昨今は中古のブランド品や貴金属を扱う店もポピュラーになってきているわけだし、そういう場に持ち込めば簡単に売りさばけるのではないか。
 「それでは、これをお持ちになってみてください」
 睦月・綾乃(むつき・あやの)は繊細なレースに包まれた手で小箱をとり、蓮に手渡した。ああ、と蓮は何気ない返事をして何気ない手つきで受け取る。
 しかし――濃紺の小箱が蓮の手に乗った瞬間、信じられないことが起こった。さっきまであれほど光を放っていたダイヤが見る間に曇り、輝きのかけらすらも失ってしまったのである。
 「これは・・・・・・どういうことだい?」
 蓮は綾乃婦人の許可を得てネックレスを箱から取り出した。慎重に光に透かしてみる。ついさっきまで輝きのかけらたちを贅沢に抱いていた宝石は、今や薄汚れたガラス玉同然に濁り、光を失っていた。
 綾乃が黙って手を伸ばし、蓮の手からネックレスを取る。そして上等なレースの手袋を外してネックレスを首にかけた。
 蓮は息を呑んだ。婦人の首にかけられた瞬間、ダイヤは先程と同じように輝きを取り戻したのである。
 「不思議でしょう」
 綾乃は疲れた表情で言い、胸元でまばゆいばかりに輝くネックレスにそっと触れた。「私から離れた途端にガラス玉以下になってしまいますの」
 「なるほどね。普通の宝石店じゃ売れないわけだ」
 さすがに蓮は飲み込みが早かった。
 「でも、そんな状態じゃうちでだって買えないよ。ジルコニアどころかガラス玉にも劣るダイヤを買ったって売れるはずがないからね。そのネックレスの由来はどうなっているんだい?」
 「私の夫が作った物ですわ。夫は高名なジュエリーデザイナーでしたの」
 「でした?」
 過去形の言い方を訝しんだ蓮は鋭く婦人の言葉を復唱した。
 「はい。一年前に亡くなりました」
 婦人は世間話でもするかのように無造作に言った。「夫の死後半年ほど経った頃にこのネックレスが私の所へ送られて来たのです。同封されていた手紙にはこの品が夫の手によるものであることが記されておりました。私への最期のプレゼントだと。夫は以前から心臓の病を患っていて、死期を悟っていたそうですわ。手術を受けるために病院へ入ったのですが、治療が間に合わずに」
 亡くなったのだと、綾乃は淡々と語った。
 「経緯は分かった。だが、どうしてそれを売ろうとするんだい? いわば愛する旦那さんの形見じゃ――」
 「愛してなんておりません」
 綾乃はやや語気を強めて蓮の言葉を遮った。思いがけない敵意を感じて蓮は目をぱちくりさせる。
 「仮面夫婦ですわ。夫は世界的なジュエリーデザイナー、私は元ドクター。羨ましいと何度言われたことか。でも愛し合っての結婚ではなかった。私にくれた数々の宝石も夫婦仲を取り繕うためだけのもの。死んでまでこんな物なんか・・・・・・虫酸が走る」
 綾乃はわなわなと唇を震わせてネックレスのダイヤをつかむ。チェーンが切れてしまうのではないかと思うほど強く。
 「あの人が作ったジュエリーなんか見たくもありません。買い取ってください。いえ、引き取ってくださるだけでも構いません。だから――」
 「悪いけど、今すぐには無理だね」
 蓮は軽い舌打ちとともに言った。「そんな状態で買い取ったって何かよくないことが起こるに決まってる。これでも客商売だ、そんなことが起こると分かっている物を扱ったりなんかできない。まずはそのダイヤの因縁を解いてからだ。それでいいね」
 「・・・・・・はい」
 綾乃は仕方ないという表情で肯いた。



 「確かにお見合い結婚ではありましたけれど」
 綾乃の母だという老婦人は、二人の問いにそう言って首をかしげたのだった。綾乃と同じ血筋というだけあって、服装や物腰からは上品さがごく自然に滲み出している。
 「綾乃と遼平さん――ご夫君のお名前ですけれども――は、それはそれは愛し合っておられましたよ。子供には恵まれませんでしたが」
 ゆっくりと語る老婦人の視線は、目の前のテーブルに置かれたICレコーダーの上をちらちらと行き来している。こういった機器が珍しいのであろう。シュラインは「お気になさらずに」とでも言うようにごく儀礼的に微笑んで見せ、続きを促す。
 「遼平さんのほうはそれまでにも幾度かお見合いをなさっていたそうですが、いずれも一度会ったきりですぐにお断りしたとか。それが綾乃のことだけはいたくお気に召したようで……お歳が十ほど離れていらしたせいもあるんでしょうかねえ。綾乃といる時の遼平さんの相好の崩しようと言ったら、見ているこちらが照れてしまうほどでございました。綾乃は初めてのお見合いでしたし、お相手のお歳もかなり上であまり気乗りしていなかったようですけれども、遼平さんに気に入られて悪い気はしなかったのでしょうねえ、とんとん拍子に話が進んで」
 めでたく結婚ということに相成ったのだと婦人は話を結んだ。思わぬ情報にシュラインは「そうですか」とやや拍子抜けしたように相槌を打った。蓮から聞いた綾乃の様子とはまるで正反対である。
 「しかし」
 気を取り直してシュラインは再度尋ねた。「綾乃さん本人は“仮面夫婦だった”と漏らしていらしたそうなんです。その辺りで何かご存じのことは?」
 心当たりでもあるのであろうか、老婦人はシュラインの問いに物憂げに溜息をついた。
 「最初は綾乃も遼平さんを好いておりまして、それはもう睦まじい夫婦でしたけれども……遼平さん、ああいうお仕事でございましょう? パーティーの類に夫婦で出席しなければならないことも多うございまして。そういう席を幾度か経験した後でございましょうかねえ、綾乃が“私は飾りなのね”と周囲に話すようになったのは」
 「飾り……ですか?」
 「ええ」
 古い考えではありますけれど、と前置きして母は続ける。「世間には“家庭を持って一人前”という感覚がいまだにございますでしょう? 遼平さんのような社会的地位のある方なら周りも特にうるさかったのではないでしょうか。綾乃は、自分はただ遼平さんに“所帯持ち”というステータスを与えるための装置のようなものだったのだとこぼしておりました。それに遼平さんの場合は四十手前になってからのご結婚でしたからねえ、ご両親も気を揉んでおられたとうかがっております。それもあって綾乃は遼平さんのお気持ちを疑ったのでしょう」
 シュラインは相槌を打ちつつ頭の中で素早く計算する。綾乃は遼平より十歳ほど年下だというのだから、綾乃が結婚したのは二十代の終わりということになる。医学部を卒業し、研修も終えて、ようやく正式なドクターになれたという辺りではなかろうか。
 (そんなタイミングで結婚してあっさり寿退職、か)
 青い瞳がちらりと動く。何年もかけてやっと医者になれたというのに未練はなかったのであろうか。それは逆に、綾乃が医者としての仕事よりも遼平との家庭に価値を見出したということを示唆しているのかも知れないが……。
 「そうなんですか」
 とやや遅れ、シュラインの隣で樋口真帆が同じような感想を漏らす。老婦人は口元に微笑をたたえて真帆に顔を向ける。まるで自分の孫でも見るかのような表情だ。
 「やっぱり。思った通りです」
 真帆は老婦人の笑顔に応じるようににっこり微笑み、ややのんびりと口を開く。「愛し合っての結婚じゃなかったって聞いてましたけど、そんなことなかったんだ」
 その話題はだいぶ前に出たはずだと思ったが、シュラインは軽く苦笑するだけに留めておいた。老婦人はといえば、微笑を絶やさぬまま首を傾けている。真帆はにこにこしたまま続けた。
 「それなのに、どうして綾乃さんは“愛し合っての結婚じゃなかった”なんて言ったんでしょう? もしかして政略結婚みたいな雰囲気があったとか?」
 「いいえ、そんなことはないわ」
 愛らしく小首をかしげる真帆に目を細めながらも老婦人はきっぱりと言い切った。「確かに先方は遼平さんに釣り合うような女性を探したということもあるけれど……それでも、遼平さんは今までにお見合いをした女性ではなく綾乃を選んだのだから。心から綾乃を好いていたのよ。綾乃もねえ、せっかく研修医の課程を修了して正式なドクターになったばかりだったのに、遼平さんと二人であたたかい家庭を築くんだって言ってすぐ病院を辞めたほどだったのに」
 老婦人から得られた情報はそんなところであった。二人は礼を言って彼女の元を辞し、次の調査へと向かう。
 「うん。やっぱり、仮面夫婦なんかじゃなかったんですね。良かった」
 シュラインより二、三歩後ろを歩きながら真帆は嬉しそうに笑っている。シュラインは真帆の歩幅に合わせてやや足を緩めながら「そうね」と相槌を打つが、真帆のように無邪気に喜ぶ気にはなれない。
 「蓮さんから聞いただけで、直接本人に会ったわけじゃないけど……綾乃さんが嘘を言っていたとは思いにくいわ。長く夫婦をやっていれば色々あるもの、最初はどうあれ年を経るうちに気持ちが変わっていったとしてもおかしくないはず。問題はその過程ね」
 幸せいっぱいで結婚したはずの二人が、どうして綾乃をして「仮面夫婦」と言わしめるほどになってしまったのであろうか。邪推する気はないが、夫婦に子供がいなかったというのもその辺りが関係しているのかも知れないとすら思えてくる。
 「でも……確かに、綾乃さんは旦那さんから気持ちが離れてしまったのかも知れませんけど」
 やや遠慮がちな口調ではあったが、真帆ははっきりと異を唱える。「遼平さんのほうは奥さんを愛してたんじゃないですか? どんな理由があれ、いくつも宝石を贈ってるくらいですから」
 「そうね。遼平さん側の視点からも聞き込みをしてみないと。でも綾乃さんは“夫婦仲を取り繕うためだけの贈り物”と言っていたそうだし……あるいは、社交人の妻として恥ずかしくない身なりをさせるためだったとも考えられるけど」
 「うーん。現物を見せてもらえればいいんですけど。綾乃さんのためだけに作られたジュエリーなのか、単に取り繕うための物だったのか、見れば分かることがあるかも知れません」
 「ええ。ご夫君からの贈り物をああいうふうに感じていたのには理由があるはずですもの」
 真帆の言葉に肯きつつシュラインは応じる。「何かの会に出る為にだとか、誰かの前で渡されたとか、そういったことがあったのかも綾乃さんに確認してみましょう。それと……例のネックレスとの違いも。もしそのネックレスが他言無用で作られていた物なら、取り繕う為の品ではないということにもなり得るし」
 「ネックレスが遼平さんの死後半年も経って送られてきたのはどうしてなんでしょう。何かの記念日に合わせたとか?」
 半ば独り言のように言い、真帆は眉間に皺を寄せて腕組みをしてしまう。童顔の彼女がそんな大人びたしぐさをするのはどこかアンバランスだが、シュラインは軽く目を細めただけで視線を前方に戻した。
 (ご夫君をそれほど嫌っているのなら、何故身につけると輝きが戻ることをご存じなのか……)
 嫌いな相手からの贈り物だというのに、少なくとも一度は身に着けてみたということになる。蓮の話を聞いた時からずっと怪訝に思っていたことだ。それに、引き取るだけで良いのなら子供用のおもちゃとして買い手はあるのではなかろうか。普通のリサイクルショップにでも売ればいい話である。そもそも本当にいらないのなら捨てれば済む話。それをわざわざ蓮の店に持ち込み、調査を依頼した。結局、心のどこかで何かが気になっているということではないのか?
 (理解に苦しむわね)
 夫の贈り物を気にかける一方で、憎々しげに“仮面夫婦”などと言い放つ。素直でないというだけのことではないのか。愛する者がいる身としてシュラインはやや冷めた顔で肩をすくめる。その後で「エマさん」という真帆の声でふっと我に返った。
 「私、遼平さんが入院してた病院に行って色々聞いてみたいんです。遼平さんがどんな人だったのかとか……もしかしたらネックレスのことも聞けるかも知れないし」
 遼平の入院先は蓮が綾乃から聞き出している。シュラインは肯き、手帳のページを繰った。蓮が事前に綾乃から聞いておいてくれた夫婦の親戚や遼平の仕事先のスタッフ、友人等の連絡先が連ねられている。
 「それじゃ、私はまず遼平さんの仕事先に行ってみるわ。アポはもう取ってあるし」
 後ほど蓮の店で合流することを約束し、二人はそれぞれの調査地へと出向くことにした。



 どの角度から見ても見事な品である。光の粒子に彩られた石はもちろんのこと、台座やチェーンにも手抜きが見当たらない。つやの消された上品な地金に取り付けられた小さな爪もよく磨かれ、わずかの曇りや歪みすら見つからない。ビルのワンフロアに入っているフードコートのテーブルを確保したシュラインは、件のネックレスを様々な角度から撮影したデジカメの画像を確認しながら手元のカタログと丹念に見比べていく。カタログの品々と綾乃のネックレスには、“シンプルながらも気品のある、石そのものの美しさを一層引き出すデザイン”という共通点が見てとれる。ネックレスの台座の裏に小さく彫られた流れるような筆記体のロゴも全く同じだった。
 カタログの脇に置いたコーヒーのカップに手を伸ばした所で、足音と気配に気づく。
 「お待たせいたしました。いかがでしょうか? 我が『January』の品々は」
 柔和な男性の声。目を上げると、遼平が立ち上げた会社の副社長を務めている佐川という男が微笑んでいた。
 「素敵ですね。私もひとつくらい身に着けてみたいものです」
 わざとらしくない程度の社交辞令とともにシュラインはコーヒーを口に運んだ。白いカップに薄く残った口紅をさりげなく拭った後で思わず「武彦さん、ひとつ買ってくれないかしら」などと考えてしまい、苦笑いを漏らす。
 蓮から依頼を受けた直後、手始めに睦月遼平が手がけるブランド『January』――1月の陰暦名とかけたのであろう――の本社ビルに連絡を入れて事情を話すと、三十分だけならという条件付きで佐川副社長との面会が許された。その上、シュラインとの面会を望んだのは佐川のほうであったという。こうもあっさり会社の幹部と話せるとは思っていなかったシュラインであったが、聞けば佐川は遼平の学生時代からの親友であり、ブランドを立ち上げた時のメンバーの一人でもあったのだそうだ。親友に関することなら是非、という佐川自身の申し出があったのだと取次の受付嬢は言っていた。
 「遼平さんと同じようなデザインの癖を持つデザイナーさんなどはいらっしゃいますか?」
 「とは?」
 シュラインの問いに佐川は怪訝そうに軽く首を傾ける。「念のため、ですが」と前置きしてシュラインは続けた。
 「綾乃さんに贈られたこのネックレスが本当に遼平さんの手によるものなのかどうか、確かめておきたくて」
 「ははぁ。私の記憶では睦月と似たジュエリーを作る人間はいなかったと思いますが……お望みとあらばスタッフに調べさせましょう。ちょっと失礼」
 佐川は椅子から立ち上がり、携帯を取り出してどこぞに電話をかけている。遼平と似たデザインの品を手掛ける宝石デザイナーがいないか調べるように短く指示を出し、再び席に戻った。
 「私が見る限りでは、間違いなく遼平のデザインだと思いますがねぇ」
 シュラインの手からデジカメを拝借した佐川は懐かしい物でも見るように目を細める。「ほら、この『January』のロゴ。このロゴは遼平の直筆を元にデザインしたものなのですが、筆記体のJにクセがありますでしょう? これを精確に真似られる人間はそうそういません」
 「成程。遼平さんがこのネックレスを作っていたことはご存じでしたか?」
 「いいえ。初めて見ました。なんでも、綾乃さんに贈られた品だそうですね」
 いつものことですが、と佐川は付け加える。「遼平はそういう男でした。サプライズが好きでしてね。いつも内緒で自らジュエリーを作って綾乃さんにプレゼントして」
 「遼平さん自らが、綾乃さんのためだけにジュエリーを手がけたということですか?」
 訝しんでやや鋭く確認したシュラインに佐川は肯き、「仲の良い夫婦でしたから」と微笑む。
 「遼平が結婚した時は仲間内でも評判になりましてね。あんな歳下の美人と結婚できるなんて、と。遼平自身も綾乃さんが自慢の種のようでした。パーティーに出席する時はいつも最高のドレスやジュエリーを与えて……若くて綺麗な女房を持つことは男の夢だ、と」
 シュラインはやや冷めた瞳で相槌を打った。綾乃の気持ちがここにきて初めて少し分かったような気がする。
 遼平が欲したのは綾乃自身ではなく、“結婚してくれる、年下の綺麗な女”。綾乃がそう感じていたとしたらどうだろう。
 「今回のネックレスは遼平さんの死後半年経って送られて来た物なんですが。半年という時間差について何かお心当たりはありますか? いつ頃作った物なのか、半年より前のネックレスの保管者などももしご存じでしたら」
 「さて。オーダーメイドのジュエリーなら製作時間がかかることもままありますが」
 死後半年ですか、と言って佐川は腕を組んでしまう。「いつ頃から着手していたのか知りませんが、もし生前から手掛けていたのであれば少々時間がかかり過ぎている気がしますね。しかし……申し上げた通り、遼平は綾乃さんへのプレゼントとなるととにかく隠したがったもので。残念ながら私は何も――」
 存じません、と言いかけた後で佐川は「あ、いや」と片手を上げて前言を打ち消す。その後で「手がかりになるかどうかは分かりませんが」と断り、続けた。
 「スーツを着た男性が遼平の病室を訪れているのを幾度か目にしました。見たことのない顔で……遼平に尋ねても“知人だ”と言うだけで、教えてくれませんでした。ただ、その男性に会った後に私に向って“いいことを思いついたんだ”と嬉しそうに話してくれたことはありますが。具体的に何を頼んだのかはさっぱりで」
 「男性ですか。具体的に何か特徴のようなものは?」
 「さて……それほど特徴のある人物ではなかったような。ただ、同じジュエリー業界の人間なんじゃないかという印象は受けましたがね」
 同業者の直感ですが、と佐川は苦笑交じりに肩をすくめてみせる。シュラインは肯いただけで、それ以上は尋ねなかった。その人物が遼平の入院先に出入りしていたというのなら、真帆が何か情報を掴んでくるかも知れない。
 「では、ネックレスに使われたダイヤモンドはどこから入手していたかも……」
 「存じません。お役に立てずに申し訳ない」
 佐川は心から申し訳なさそうに言って軽く頭を下げた。シュラインはそれを打ち消すように首を横に振り、逆に丁寧に頭を下げた後で言った。
 「できれば、このままスタッフのどなたかにお話を伺うことはできませんか? 今すぐでなくてもよろしいのですが」
 「ああ、構いませんよ。長時間は無理ですが……と、失礼」
 震え始めた携帯を胸ポケットから取り出し、佐川は短く応対する。その後で、
 「先程の、遼平と似たようなジュエリーを手掛けるデザイナーについてですが。確認させた結果、特にそういうデザイナーの方はいらっしゃらないそうです」
 とシュラインに告げた。



 その後もビルに留まって遼平のスタッフに聞き込みを試み、さらに遼平の親戚にも電話で話を聞いたが、目新しい情報は得られなかった。ただ、どの人間も、遼平が綾乃をたいそう大事にしていたことだけは間違いないと口を揃えた。
 アンティークショップ・蓮への道を辿りながら、遼平は遼平なりに妻を愛していたのかも知れないとシュラインは思い始めていた。遼平が欲したのが“年下の美しい女”だったとしても、容姿など年齢を重ねれば衰えるのが必定。いい大人の遼平がそれを考えなかったとは思えない。それに、遼平は今まで幾度か見合いを断っている。その中には綾乃と同じくらい歳の離れた相手もいたし、政治家の息女や弁護士などもいたと遼平の親戚は言っていた。それでもあえて綾乃を選んだのだから、きっと遼平は綾乃を愛していたのだ。どんな男とて若くて美しい妻を持てば鼻の下は伸びるというもの。自慢のひとつもしたくなるだろう。
 だが、綾乃がどう感じていたかはまた別である。“世界的ジュエリーデザイナー・睦月遼平の妻”として社交人が集うパーティーに出席し、自分の“役割”を痛感させられる。その上、拠り所である夫には容姿や年齢ばかりを自慢の種にされ、否応なく気持ちが冷えていったとしても無理はないかも知れない。
 蓮の店には既に真帆が姿を見せていた。店の奥の部屋の古びたテーブルに着き、小さな紙片を手にしながら何やら難しい顔をしている。よほどその紙が気になっているのであろうか、シュラインに顔を向けようともしない。
 「どうだった? 何か――」
 分かった? と聞きかけたシュラインの声は真帆の悲鳴にかき消された。続いて響く鈍い衝撃音、倒れる椅子。シュラインはただ歩み寄って肩を叩いただけだったのだが、どうやら真帆はシュラインが店に入って来たことにすら気付いていなかったらしい。シュラインが肩を叩くと同時に小さな体が悲鳴とともに飛び上がり、そのまま椅子から転がり落ちてしまったのである。
 「……ごめんなさい。大丈夫?」
 シュラインはその場にかがみ込んで真帆を助け起こした。悪いことをしたわけではないのだが、打ちつけた腰をさすりながら目に涙を浮かべるいたいけな少女の姿を見ていると思わず謝罪の言葉が口をついて出てしまう。うんうん唸りながらも真帆は懸命に肯き、「あの、これ」と言って手に持った紙片をシュラインに差し出した。
 椅子から転げ落ちた衝撃でひしゃげてしまったのであろう、紙片はやや折り曲がっている。紙の上に目を落としたシュラインは軽く眉尻を持ち上げた。
 名刺である。そこに記された名前は高野哲也。会社名は『La・Vie』(ラ・ヴィ)。フランス語で『人生』『生涯』の意だ。
 「病院の看護師さんからもらいました」
 真帆はようやく椅子に腰かけ直して言った。「遼平さんのお見舞いに来てた男の人がくれた名刺だそうです」
 「どんな人なのか、聞けた?」
 佐川が話していた人物のことを瞬時に思い出したシュラインは間髪入れずに聞き返す。真帆は痛む腰を気にしながらも肯いた。
 「スーツを着た普通の男の人、と。その人が来てる間、遼平さんは病院の人もお見舞いの人も病室に入れなかったんですって。結構頻繁に来てたみたいです。そのうち看護師さんとも顔見知りになって、どんな仕事をしてるのかって尋ねたらこの名刺をくれたんだそうです。宝石を扱う仕事だって言って」
 『あなたの大切な相手を一生おそばに』。名刺の社名の傍らにはそんなフレーズが記されている。その謳い文句からは宝石業であることは連想し難いが……。
 「それで……その看護師さんが言うには、その会社、遺灰ダイヤモンドを扱ってるそうなんです。今、初瀬日和さんが遺灰ダイヤについて詳しく調べてるところで」
 「遺灰ダイヤ?」
 珍しく、シュラインはやや声高にそう聞き返していた。



 「綺麗、ですね」
 初瀬日和が口にしたのはごくごく平凡な単語であったが、シュラインとてそうとしか形容できなかったであろう。それほどの品々であった。
 睦月邸の応接室のテーブルに並べられたジュエリーの数々。すべて遼平が綾乃に贈った品物だ。ネックレスに指輪にイヤリング、バレッタ……。陽の光を受け、惜し気もないきらめきと大粒の石たちはその存在を充分なまでにアピールしている。すべて遼平が綾乃に贈った物である。真帆はシュラインが持ち帰って来た『January』ブランドのカタログを片手に、その品々をつぶさに検分していた。既製品をただ買って贈っただけなのか、綾乃のために遼平自らが腕をふるったオリジナルの物なのかが気になるのであろう。
 「綺麗なのは当たり前ですわ」
 自分の娘にも等しい年齢の日和に対して綾乃は丁寧語で応じ、綺麗に紅を引いた唇をかすかに歪ませる。「宝石ですもの」
 「そんなおっしゃり方はいかがなものかと」
 青い瞳にやや冷めた光を灯し、シュラインは綾乃をちらりと見やる。自宅にいるというのに、この貴婦人は上品なクリーム色のワンピースとカーディガンに身を包み、髪もきちんと整えて三人の前に座っている。部屋着という風情ではない。この広い邸宅や、天井から下がるクリスタルのシャンデリアを見てもそれなりの資産を持っているのであろうことがうかがえた。
 「綺麗ですね」
 真帆が日和と全く同じ感想を口にし、ぱたんとカタログを閉じて深く肯いた。「それに、すごい」
 「何がすごいんですの?」
 ややのんびりとした真帆の口調に綾乃はかすかな苛立ちをこわばらせ、尋ねる。しかし真帆はそんなことなど気にする様子もなく、口許にえくぼを浮かべて目を上げた。
 「このジュエリー、ひとつもカタログに載ってない。旦那さんが奥さんのために全部オリジナルで作ったってことですよね。それに副社長さんが言ってたそうですよ。遼平さんはいつもみんなに内緒で綾乃さんのためにジュエリーを作ってたって」
 「それはそうでしょう。既製品を機械的に与えるよりは、そちらのほうが周りにアピールできますから。仲の良い夫婦だと」
 小賢しい手段だとでも言いたげに綾乃は呟く。シュラインは小さく息をつき、ソファに座り直した。
 「そう思う根拠を具体的にお聞かせ願えませんか? 例えば何かの会に出るためにとか、人前でジュエリーを渡されたりとか、そういうことがあったのでしょうか」
 「何度もありました。あの人が主催するパーティーの席で、バースデイプレゼントだと言って壇上で渡されたこともあります」
 「それは逆に、奥さまを大事に思っているということを皆に知らしめたかったからでは?」
 と言うシュラインに対し、綾乃は緩やかに微笑んで軽く肯いた。だがその頬はかすかにこわばっている。
 「確かにそうでしょうね。たとえ内実がどうあろうとも、第三者には仲の良い夫婦であることを誇示しておいたほうが無難ですから。夫婦不仲説など流れたら週刊誌が面白おかしく書き立てて、あの人の仕事にも影響が出るかも知れませんし」
 それよりも、と綾乃は言葉を切って三人の顔を順々に見た。「例のネックレスのことが分かったと伺ったのですけれど。そちらのお話はどうなったのでしょう?」
 三人と綾乃の間に並べられた数々のジュエリーの脇にはビロード張りの濃紺の小箱が控え目に置かれている。
 あの後三人は名刺の高野哲也という男に連絡し、遼平が自分の遺骨でダイヤモンドを作って綾乃に送るように高野に依頼していたことを確認した。ネックレスの台座やチェーンは生前の遼平が作り、ダイヤのカットについても遼平が指示を出していたことも。その後綾乃に電話をし、ネックレスの送り主の名が睦月遼平になっていたこと、配達日指定便ではなかったことも昨日のうちに確認している。
 「こちらを」
 日和がそっと差し出したのはインターネットからプリントアウトした遺灰ダイヤの資料であった。昨日、自宅のパソコンで調べてきたものである。手に取った綾乃の顔色が小さく変わるのが見てとれた。
 「……夫の嫌がらせでしょうか?」
 そして唇を震わせ、戸惑いと不快の色を浮かべながら目を上げる。「お骨で作ったダイヤモンドだなんて」
 身も蓋もない言い方をすれば、生物もダイヤモンドも原料は同じ。炭素原子である。特殊な加工を施せば遺灰や遺骨を原料にダイヤモンドを精製することも可能なのだ。必要な灰や骨の量はマグカップ一杯程度。元々骨壷にはすべての骨は納まりきらないのだから、骨壷に入りきらなかった分の骨だけで充分に足りる。人間だけではなく、ペットの骨でも制作が可能だそうだ。ダイヤの精製や加工にかかる期間はおよそ半年。遼平の死後半年が経ってからネックレスが送られて来た理由はそこにあったのである。
 「このダイヤはご夫君そのものというわけですね。言うなれば、ご夫君の気持ちがそのまま形になった品」
 シュラインは綾乃の黒い瞳をじっと見据える。宝石そのもののいわれに今回の事実に関わりそうな逸話があるのかも知れないと考えていたが、その推測はどうやら当たったようだ。
 「きっと嫌がらせですわ」
 綾乃はシュラインの言葉を否定するようにやや語気を荒げ、強く首を横に振る。「気味が悪い。これはいわば夫の体の一部ではありませんか。死んでから体の一部を送りつけてくるなど……」
 そして薄気味悪い物でも見るかのように濃紺の小箱を見やる。日和は茶色の瞳を音もなく細め、口を開いた。
 「愛する人にこそご自分の体の一部を持っていて欲しかったのではないでしょうか。ちょうど、愛する人に自分の持ち物を持っていて欲しいと願うように」
 「あの男は私を愛してなどおりません」
 綾乃の声は静かだったが、断固たる否定の色彩をもって応接室に響いた。しかしシュラインは気付いていた。断定的な語調とは裏腹に、綾乃の瞳がわずかに揺らめいていたことを。
 「皆様も既にお聞きかも知れませんけれど、あの人にとっての私はただの飾りでしたの」
 綾乃は視線を落とし、呻くように言葉を紡ぐ。無意識のしぐさであろうか、膝の上に置かれた白い手はかすかに震え、ワンピースの裾を小さく握り締めていた。
 「あの人が欲したのは『ジュエリーデザイナー・睦月遼平』の妻としてふさわしい女。パーティーに連れて歩いても恥ずかしくないような女……。世界的ジュエリーデザイナーがいつまでも独身では恰好がつきませんでしょう? 私という個人を気に入ったわけではありませんのよ。あの男も、私がそう感じていたことに気付いていたのでしょう」
 整った唇の端が笑みの形に歪む。それは皮肉めいた冷笑というより悲しげな自嘲の笑みに見えなくもない。
 「夫婦仲が壊れては大変と、それはもう取り繕うのに必死でした。こちらの数々のジュエリーの他にも、パーティーに出るためのドレスや靴、バッグなど……数え切れないほどの贈り物を私に買ってよこしました」
 「うん。だからそれは、好きな人の気を引きたかったからですよね?」
 綾乃の言葉に笑顔で肯きつつ反論するのは真帆である。「好きな人に振り返って欲しくていろんなことをするのと同じなんじゃないですか? プレゼントなんて一番分かりやすい方法だと思いますよ」
 綾乃は真帆に顔を向け、そっと微笑んだだけだった。
 『何も分かっていらっしゃらないんですのね、お嬢さん』とでも言いたげに。
 どうやら少女二人の言葉は頑なな婦人の心には届かないようだ。彼女たちより大人である自分ならばという確固たる自信があったわけではないが、それでもシュラインは指摘せずにはいられなかった。
 「綾乃さん。それじゃひとつお尋ねしますけど」
 綾乃の瞳が動き、シュラインの顔の上で止まる。
 「なぜご夫君は、今までお見合いをした女性ではなくあなたを選ばれたのでしょう?」
 その瞬間、かすかな音を立てて空気がこわばったような気がした。あるいはそれは錯覚だったのかも知れない。だが、綾乃の息がほんの一瞬止まり、妙な緊張感がその場を支配したことは確かであった。
 「ご夫君が幾度かお見合いをしたことも、それをことごとく断ってきたことも、ご夫婦ならばご存じですよね?」
 背筋を伸ばしたまま、シュラインは一気に核心へと切り込む。夫人は目を伏せ、膝の上に手を置いたまま微動だにしない。
 「そうですね。それはそうです」
 昨日のうちにシュラインの聞き込みの結果を聞いていた日和も静かに同調する。単に結婚相手が欲しかっただけならば他の相手でもいいはずだと。
 「本当は分かっておられたんですよね。でも認めたくなかった。そうではありませんか?」
 というシュラインの言葉に綾乃は答えなかった。その沈黙が、彼女の心情を雄弁に物語っているかのようだった。
 シュラインは昨日の真帆の調査結果を思い出していた。真帆が遼平の入院先で聞いた話も、シュラインが聞き込みで得た情報とそれほど差はなかった。遼平は常に妻の身を案じ、妻が見舞いに来る度に心から喜んでいたという。もっとも、綾乃が遼平を見舞った回数はそれほど多くはなかったようだが。たまに病室を訪れても着替えや差し入れを置いてさっさと帰ってしまっていたのだそうだ。
 ただ――ひとつ気になるのは、入院した時の遼平の容態だ。病院に入った時には既に手遅れに近い状態だったという。真帆の話では、元ドクターである妻が夫の異変にどうして気付かなかったのだろうと病院スタッフが首をひねっていたそうだ。
 「すごく照れ屋な人だったんじゃないかな」
 綾乃に断ってネックレスの小箱を手に取り、誰にともなく真帆は呟く。独り言を装って綾乃に聞かせようとしているかのように。
 「“愛してる”って、なかなか言えなかったんだと思う。不器用だったのかも知れないね」
 小さな手がそっと箱の蓋を開く。中から現れた曇った石が無言で真帆を見上げていた。ガラス球にも劣る石ころが。遺灰ダイヤのことについては日和が丹念に調べてくれたが、そのデータの中には『特定の人物から離れると輝きを失う』という特性は見当たらない。『La・Vie』社の高野哲也に電話で聞き取りを試みた際もその疑問をぶつけたが、高野は「そんなはずはない。遺灰ダイヤは確かに人工物だが、天然のダイヤと組成は何ら変わりないのだから」と怪訝そうに言うばかりであった。
 それなのに、このダイヤは綾乃のそばにある時だけ輝く。この事象をどう説明しよう。このダイヤはいわば遼平そのもの。言い換えれば、綾乃に対する遼平の強い思いがそのまま形になったもの。遼平の気持ちそのものなのだ。だからこそ綾乃の手を離れると輝きを失うのではないか。綾乃の元から離れるのを拒むように……。確たる証拠はないが、三人の見解はそれで一致したのであった。
 「本当に大切な相手だからこそ、触れるのにも勇気が要ったり、素直に自分の心を言葉に表せなかったのかもしれません」
 私にも大好きな人がいます、と続け、日和はほんのりと頬を染めてうつむく。「でも、どうしても自分の気持ちをきちんと伝えられなかったりすることもありますから……照れが入ってしまったりして」
 遼平は遼平なりに綾乃を愛していたのであろう。だが、ちょっとした行動や言動から綾乃の誤解を招いてしまった。その溝を埋めようと遼平が躍起になるごとに、綾乃の気持ちは遼平から離れていったのかも知れない。
 綾乃は相変わらず口を閉ざしたままであった。だが、生来白い顔がさらに血の気を失っているように見えるのはどういうわけか。
 「……嘘、です」
 そして頑なに首を横に振る。蚊の鳴くような声はわずかに震えていた。
 「まだそんなことをおっしゃるのですか」
 シュラインは半ば呆れて口を開いた。「ご覧になったでしょう、あのダイヤモンドの輝き。ご夫君があなたを愛していなかったとおっしゃるのなら、あなたが身に着けている時だけ輝く理由はどう説明――」
 「だって、私は」
 ややうわずった声であった。綾乃はシュラインの言葉を遮り、長い睫毛を震わせながら目を上げる。
 「……あの人を見殺しにしたんですのよ」
 綾乃の声はかすれ、色を失った唇はどうしようもないほどに震えていた。



 私も元は医者の端くれですもの。あの男の体に病が棲みついていることはすぐに分かりました。
 病院に行ったほうがいいんだろうかとあの人に尋ねられるたび、私は「心配することはない」と答えました。「元ドクターの私が言うんだから間違いない、ただの疲れだ」と。私のことを信じきっていた夫は病院に行くこともなく、その後もしばらく通常通りの生活を続けておりましたが、ある日仕事先で倒れて病院に担ぎ込まれ、手術が必要な状態だと担当医に告げられました。
 ……ええ。私は確かに思ったのです。
 このまま手遅れになって死ねば良いと。
 こんな男など、死んでしまえば良いと。だから倒れるまで病院にも行かせなかった。
 それなのに、あの人は私を愛していたというのですか?
 私は、ああ、私は、私は!



 咳込むような独白の後で綾乃の体がソファから崩れ落ちる。続いて響いた鈍い衝撃音にシュラインはわずかに顔を歪ませた。泣き崩れた綾乃はガラス製のテーブルの縁に頭部を打ちつけて血を流しながら、それにすら気付かぬまま嗚咽しているのだった。
 決して激しいものではない。むしろ静かな嗚咽であった。だからこそ余計に耳に痛い。綾乃はワンピースの裾が乱れるのも構わずに、重厚な絨毯の上に手をついて涙を流し続ける。シュラインは無言でハンカチを取り出し、綾乃の傷口にあてがった。
 「私……なんてことを」
 綾乃は顔を両手で覆う。震える肩を後ろからそっと両手で抱くのは日和だ。いたわるように、優しく。日和はそのまま綾乃に寄り添い、背中にそっと耳を押し当てた。
 「とても温かい音」
 そして、誰にともなく呟いて目を閉じる。背中越しでも、綾乃の心音は日和の耳に確かに届いていた。「こんな音をさせるくらいですから、奥さまも本当はとても温かい方なのですね。素直にお気持ちを言えなかったのは奥さまも同じだったんでしょうか?」
 日和の手の中で綾乃の肩がびくりと震える。シュラインは日和の言葉に賛同するように綾乃の肩をさすった。
 「綾乃さん」
 という真帆の呼びかけに応じてのろのろと上げられた顔は涙で濡れ、化粧も落ち、貴婦人にふさわしからぬものであった。綾乃の視線の先にはネックレスを手にした真帆が微笑みながら立っている。くすんだダイヤモンドのネックレスを持ち、真帆は綾乃の前に膝をついた。
 「ネックレスを……大切な旦那さんを、そばに置いてあげてください」
 間近で綾乃を見つめる夕焼け色の瞳。アイラインもマスカラも落ち、目の周りを黒く汚した綾乃は濡れた瞳をかすかに震わせる。
 「そうです。このネックレスは……ご主人がご自分の心をそのまま結晶にしたもの。奥様が世界の誰よりも大切というお気持ちを。だから、奥様から離れるとくすんで輝きを失ってしまう。それでも……手放してよろしいのですか?」
 背中から伝わってくる日和の声に綾乃は小さく嗚咽する。真帆はチェーンの留め金を外し、綾乃の首筋に手を回した。綾乃は逆らわなかった。真帆にされるがままになっていた。
 「――綺麗」
 思わず、シュラインは呟いていた。
 綾乃の白い胸元におさまった大粒のダイヤはみるみる本来の姿を取り戻していった。きらきらと、音もなく。人工の光の下でどうしてこれほどきらめくことができるのであろうか。一点のくすみも淀みもなく光り輝くその姿は何物にも喩え難い。否、そもそも他の物に喩えること自体が筋違いであろう。このダイヤモンドは、世界でただひとつの、綾乃のそばで輝くためだけに作られた宝石なのだから。
 ダイヤモンド。この世で最も硬い石。永遠に輝き続ける、くすむことのない意志の証。
 伝えきれなかった遼平の思いは、今、ダイヤモンドという形になって妻の胸にある。夫の不器用な思いをなかなか受け入れられなかった不器用な妻のそばに。お互いにどこかでボタンを掛け違えてしまった夫婦の思いがようやくひとつに重なった。たとえそれが遅すぎる結末だったとしても。
 「遼平さん」
 初めて夫の名を呼び、綾乃はネックレスを握り締めた。「ごめんなさい……ごめんなさい」
 悲痛なまでの綾乃の泣き声はいつまでもいつまでも続く。涙が汚れた頬を伝い、顎から落ちて、ダイヤの上に滴る。綾乃の涙を受けたダイヤは無言のまま一層輝きを増していた。



 「ずいぶんちぐはぐだな」
 シュラインから話を聞いた草間は身も蓋もない感想を漏らして濃いコーヒーに口をつけた。「心のどこかで旦那のことが好きだったんなら、なんで病院に行くことを勧めなかったんだ。ちょっとでも好きなら、旦那に対して『死んでしまえばいい』なんて思うか?」
 女心は分からないな、とぼやいて草間は小さく肩を揺する。いつもの興信所で事務机の前に腰掛けながら、「でも」とシュラインは反論した。
 「少しだけ分かる気がする。好きだからこそ不安になって信じられなくなったり、憎らしくなる気持ち……。愛しているからこそ、相手にも自分を愛して欲しいもの」
 相手が自分を本当に愛しているのかどうか不安になるのだろうとシュラインは短く言った。
 愛しているからこそ信じられるし、相手にどう思われても構わない。
 愛しているからこそ相手の気持ちを疑ってしまうし、なかなか信じられない。
 どちらも真理であろう。どちらが間違っているとか正しいとか、そういうことではないのだ。
 だが草間は「ふん」と軽く鼻を鳴らし、汚いデスクの上を掻き分けてカップを置く。
 「それなら、おまえも好きな男を疑うタイプか?」
 「誰もそんなこと言ってないでしょ」
 逆に、と付け加えてシュラインは矛先を草間に向ける。「武彦さんはどうなの。疑う? 好きな人のこと」
 「さてね。でも」
 はぐらかすように答え、草間はがりがりと頭をかいた。「好きな人を疑うより、信じて騙されるほうがいいんじゃないか?」
 予期せぬ回答パターンにシュラインは目をぱちくりさせた。その間に草間は立ち上がり、「あーあ、仕事仕事」とわざとらしく伸びをしながら事務所の奥へと入っていってしまう。
 「……なるほど、ね」
 シュラインはわずかに笑みを浮かべた。苦笑とも照れ隠しともとれる、ひどく曖昧な表情を。 (了)
 
 

 

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
 3524/初瀬・日和(はつせ・ひより)/女性/16歳/高校生
 6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生・見習い魔女



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■         ライター通信          ■
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シュライン・エマ様



クリスマスに続いての挨拶となります、宮本ぽちです。
今回も、と申しますか、いつもご注文ありがとうございます。

すれ違ったままだった夫婦の思いを繋いでくださり、感謝です。
大事な人がいらっしゃるエマ様は、綾乃たちの夫婦の形に色々と思うところもあるのかな…とライターなりに解釈させていただいたのですが、いかがでしたでしょうか。
ラストシーンのやり取り…お二人のイメージを壊していないことを祈ります。
ちなみに遺灰ダイヤもそれを扱う会社も実在します。La・Vie社はもちろん架空の会社ですが。

色々な意味でお気に召して頂けたら嬉しいです。
ご注文、重ねてありがとうございました。
またどこかでお会いできる機会に恵まれることを祈りつつ、今回はこの辺りで失礼させて頂きます。



宮本ぽち 拝