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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


ある貴婦人のダイヤ





 四十代と思われる婦人が差し出したネックレスはごく普通のものであった。
 チェーンはプラチナだろうか。つやを消された銀色が上品に光っている。腕のいい職人でなければ作り出せないであろうごく小さな爪にしっかりと押さえられ、シンプルな台座におさまっているのは大ぶりのブリリアントカットのダイヤモンド。婦人が身に着けている藤色のワンピースとつばの大きな帽子同様、シンプルではあるが決して安物ではない。
 「これが買い取ってほしいっていう品かい?」
 碧摩・蓮(へきま・れん)はキセルをとんと叩いて灰を落とし、やや斜めに婦人を見た。ええ、とだけ婦人は応えた。婦人の目の動きは大きなつばに隠れて読み取れない。
 買い取ってくれというなら買い取らないでもない。ネックレスなどありふれた商品だし、これほど大きなダイヤなら需要もあろう。しかしここはアンティークショップ・レン。見た目はごく普通でも実体はただのアクセサリーであるはずがない。
 「どうも分からないねえ。なんでわざわざうちまで来たんだい? こんなに立派なネックレスならいくらでも買い手がつくじゃないか」
 重厚なビロードの小箱に納められたダイヤは店内の薄暗い照明を受けて七色の微細な光の粒を惜しげもなく発している。昨今は中古のブランド品や貴金属を扱う店もポピュラーになってきているわけだし、そういう場に持ち込めば簡単に売りさばけるのではないか。
 「それでは、これをお持ちになってみてください」
 睦月・綾乃(むつき・あやの)は繊細なレースに包まれた手で小箱をとり、蓮に手渡した。ああ、と蓮は何気ない返事をして何気ない手つきで受け取る。
 しかし――濃紺の小箱が蓮の手に乗った瞬間、信じられないことが起こった。さっきまであれほど光を放っていたダイヤが見る間に曇り、輝きのかけらすらも失ってしまったのである。
 「これは・・・・・・どういうことだい?」
 蓮は綾乃婦人の許可を得てネックレスを箱から取り出した。慎重に光に透かしてみる。ついさっきまで輝きのかけらたちを贅沢に抱いていた宝石は、今や薄汚れたガラス玉同然に濁り、光を失っていた。
 綾乃が黙って手を伸ばし、蓮の手からネックレスを取る。そして上等なレースの手袋を外してネックレスを首にかけた。
 蓮は息を呑んだ。婦人の首にかけられた瞬間、ダイヤは先程と同じように輝きを取り戻したのである。
 「不思議でしょう」
 綾乃は疲れた表情で言い、胸元でまばゆいばかりに輝くネックレスにそっと触れた。「私から離れた途端にガラス玉以下になってしまいますの」
 「なるほどね。普通の宝石店じゃ売れないわけだ」
 さすがに蓮は飲み込みが早かった。
 「でも、そんな状態じゃうちでだって買えないよ。ジルコニアどころかガラス玉にも劣るダイヤを買ったって売れるはずがないからね。そのネックレスの由来はどうなっているんだい?」
 「私の夫が作った物ですわ。夫は高名なジュエリーデザイナーでしたの」
 「でした?」
 過去形の言い方を訝しんだ蓮は鋭く婦人の言葉を復唱した。
 「はい。一年前に亡くなりました」
 婦人は世間話でもするかのように無造作に言った。「夫の死後半年ほど経った頃にこのネックレスが私の所へ送られて来たのです。同封されていた手紙にはこの品が夫の手によるものであることが記されておりました。私への最期のプレゼントだと。夫は以前から心臓の病を患っていて、死期を悟っていたそうですわ。手術を受けるために病院へ入ったのですが、治療が間に合わずに」
 亡くなったのだと、綾乃は淡々と語った。
 「経緯は分かった。だが、どうしてそれを売ろうとするんだい? いわば愛する旦那さんの形見じゃ――」
 「愛してなんておりません」
 綾乃はやや語気を強めて蓮の言葉を遮った。思いがけない敵意を感じて蓮は目をぱちくりさせる。
 「仮面夫婦ですわ。夫は世界的なジュエリーデザイナー、私は元ドクター。羨ましいと何度言われたことか。でも愛し合っての結婚ではなかった。私にくれた数々の宝石も夫婦仲を取り繕うためだけのもの。死んでまでこんな物なんか・・・・・・虫酸が走る」
 綾乃はわなわなと唇を震わせてネックレスのダイヤをつかむ。チェーンが切れてしまうのではないかと思うほど強く。
 「あの人が作ったジュエリーなんか見たくもありません。買い取ってください。いえ、引き取ってくださるだけでも構いません。だから――」
 「悪いけど、今すぐには無理だね」
 蓮は軽い舌打ちとともに言った。「そんな状態で買い取ったって何かよくないことが起こるに決まってる。これでも客商売だ、そんなことが起こると分かっている物を扱ったりなんかできない。まずはそのダイヤの因縁を解いてからだ。それでいいね」
 「・・・・・・はい」
 綾乃は仕方ないという表情で肯いた。


 
 「確かにお見合い結婚ではありましたけれど」
 綾乃の母だという老婦人は、二人の問いにそう言って首をかしげたのだった。綾乃と同じ血筋というだけあって、服装や物腰からは上品さがごく自然に滲み出している。
 「綾乃と遼平さん――ご夫君のお名前ですけれども――は、それはそれは愛し合っておられましたよ。子供には恵まれませんでしたが」
 ゆっくりと語る老婦人の言葉に耳を傾けつつも、真帆の視線は目の前のテーブルに置かれたICレコーダーの上をちらちらと行き来する。同行したシュライン・エマが持参した物だ。幾度か見たこともあるが、真帆の目にはやはり珍しい機器である。もう一度ちらりと目をやると、同じくレコーダーを見ていた老婦人と目が合った。どうやら真帆と同じ心持ちであったらしい。二人は軽く顔を見合わせ、どちらからともなくじんわりと微笑んだ。
 「遼平さんのほうはそれまでにも幾度かお見合いをなさっていたそうですが、いずれも一度会ったきりですぐにお断りしたとか。それが綾乃のことだけはいたくお気に召したようで……お歳が十ほど離れていらしたせいもあるんでしょうかねえ。綾乃といる時の遼平さんの相好の崩しようと言ったら、見ているこちらが照れてしまうほどでございました。綾乃は初めてのお見合いでしたし、お相手のお歳もかなり上であまり気乗りしていなかったようですけれども、遼平さんに気に入られて悪い気はしなかったのでしょうねえ、とんとん拍子に話が進んで」
 めでたく結婚ということに相成ったのだと婦人は話を結んだ。
 「しかし」
 とシュラインが尋ねた。「綾乃さん本人は“仮面夫婦だった”と漏らしていらしたそうなんです。その辺りで何かご存じのことは?」
 心当たりでもあるのであろうか、老婦人はシュラインの問いに物憂げに溜息をついた。
 「最初は綾乃も遼平さんを好いておりまして、それはもう睦まじい夫婦でしたけれども……遼平さん、ああいうお仕事でございましょう? パーティーの類に夫婦で出席しなければならないことも多うございまして。そういう席を幾度か経験した後でございましょうかねえ、綾乃が“私は飾りなのね”と周囲に話すようになったのは」
 「飾り……ですか?」
 「ええ」
 古い考えではありますけれど、と前置きして母は続ける。「世間には“家庭を持って一人前”という感覚がいまだにございますでしょう? 遼平さんのような社会的地位のある方なら周りも特にうるさかったのではないでしょうか。綾乃は、自分はただ遼平さんに“所帯持ち”というステータスを与えるための装置のようなものだったのだとこぼしておりました。それに遼平さんの場合は四十手前になってからのご結婚でしたからねえ、ご両親も気を揉んでおられたとうかがっております。それもあって綾乃は遼平さんのお気持ちを疑ったのでしょう」
 「そうなんですか」
 と感想を漏らした真帆に、老婦人は口元に微笑をたたえて顔を向ける。まるで自分の孫でも見るかのような表情だ。
 「やっぱり。思った通りです」
 真帆は老婦人の笑顔に応じるようににっこり微笑み、ややのんびりと口を開く。「愛し合っての結婚じゃなかったって聞いてましたけど、そんなことなかったんだ」
 夫からの贈り物を邪険に扱うのが理解できず、まずは結婚の経緯を調べようとやって来たのであるが、慕い合っての結婚だというのなら一安心だ。老婦人は微笑を絶やさぬまま首を傾けている。真帆はにこにこしたまま続けた。
 「それなのに、どうして綾乃さんは“愛し合っての結婚じゃなかった”なんて言ったんでしょう? もしかして政略結婚みたいな雰囲気があったとか?」
 「いいえ、そんなことはないわ」
 愛らしく小首をかしげる真帆に目を細めながらも老婦人はきっぱりと言い切った。「確かに先方は遼平さんに釣り合うような女性を探したということもあるけれど……それでも、遼平さんは今までにお見合いをした女性ではなく綾乃を選んだのだから。心から綾乃を好いていたのよ。綾乃もねえ、せっかく研修医の課程を修了して正式なドクターになったばかりだったのに、遼平さんと二人であたたかい家庭を築くんだって言ってすぐ病院を辞めたほどだったのに」
 老婦人から得られた情報はそんなところであった。二人は礼を言って彼女の元を辞し、次の調査へと向かう。
 「うん。やっぱり、仮面夫婦なんかじゃなかったんですね。良かった」
 シュラインより二、三歩後ろを歩きながら真帆は嬉しそうに笑う。縁もゆかりもない他人なのだが、真帆はまるで我がことのように安堵していた。シュラインは真帆の歩幅に合わせてやや足を緩めながら「そうね」と相槌を打つが、真帆のように無邪気に喜ぶ気にはなれないようである。
 「蓮さんから聞いただけで、直接本人に会ったわけじゃないけど……綾乃さんが嘘を言っていたとは思いにくいわ。長く夫婦をやっていれば色々あるもの、最初はどうあれ年を経るうちに気持ちが変わっていったとしてもおかしくないはず。問題はその過程ね」
 幸せいっぱいで結婚したはずの二人が、どうして綾乃をして「仮面夫婦」と言わしめるほどになってしまったのであろうか。邪推する気はないが、夫婦に子供がいなかったというのもその辺りが関係しているのかも知れないとすら思えてくる、とシュラインは呟いた。
 「でも……確かに、綾乃さんは旦那さんから気持ちが離れてしまったのかも知れませんけど」
 やや遠慮がちな口調ではあったが、真帆ははっきりと異を唱える。「遼平さんのほうは奥さんを愛してたんじゃないですか? どんな理由があれ、いくつも宝石を贈ってるくらいですから」
 「そうね。遼平さん側の視点からも聞き込みをしてみないと。でも綾乃さんは“夫婦仲を取り繕うためだけの贈り物”と言っていたそうだし……あるいは、社交人の妻として恥ずかしくない身なりをさせるためだったとも考えられるけど」
 「うーん。現物を見せてもらえればいいんですけど。綾乃さんのためだけに作られたジュエリーなのか、単に取り繕うための物だったのか、見れば分かることがあるかも知れません」
 「ええ。ご夫君からの贈り物をああいうふうに感じていたのには理由があるはずですもの」
 真帆の言葉に肯きつつシュラインは応じる。「何かの会に出る為にだとか、誰かの前で渡されたとか、そういったことがあったのかも綾乃さんに確認してみましょう。それと……例のネックレスとの違いも。もしそのネックレスが他言無用で作られていた物なら、取り繕う為の品ではないということにもなり得るし」
 「ネックレスが遼平さんの死後半年も経って送られてきたのはどうしてなんでしょう。何かの記念日に合わせたとか?」
 半ば独り言のように言い、真帆は眉間に皺を寄せて腕組みをしてしまう。童顔の彼女がそんな大人びたしぐさをするのは少々アンバランスだが、どこか愛らしい。しばし思案した後で真帆は「エマさん」と口を開き、組んだ腕をほどいた。
 「私、遼平さんが入院してた病院に行って色々聞いてみたいんです。遼平さんがどんな人だったのかとか……もしかしたらネックレスのことも聞けるかも知れないし」
 遼平の入院先は蓮が綾乃から聞き出している。シュラインは肯き、手帳のページを繰った。蓮が事前に綾乃から聞いておいてくれた夫婦の親戚や遼平の仕事先のスタッフ、友人等の連絡先が連ねられている。
 「それじゃ、私はまず遼平さんの仕事先に行ってみるわ。アポはもう取ってあるし」
 後ほど蓮の店で合流することを約束し、二人はそれぞれの調査地へと出向くことにした。



 あ、と真帆は声を上げた。玄関脇のベンチに腰かけている黒髪の少女に心当たりがある。だが自分が探している相手なのかどうか自信がない。その気持ちが現れたのであろう、持ち上げかけた手がためらいがちにみぞおちの辺りで止まり、ひどく中途半端に手を振る格好になってしまう。そんな真帆の姿に気付いたのか、少女のほうも緩やかに立ち上がって微笑んだ。
 「初瀬さん。こんにちは」
 真帆は小走りに初瀬日和に駆け寄り、人懐っこい笑みとともに挨拶した。日和も柔らかな声で応じて軽く会釈する。どこか似通った空気を漂わせながら、ほぼ同年齢の少女二人は連れ立って病院の玄関ドアをくぐった。
 「大きな病院ですね」
 温かな黄色を帯びた白を基調に整えられた院内を歩きながら日和は正直な感想を漏らす。床も壁も磨き抜かれ、一片の汚れすら見当たらない。外来の待合室に並べられたソファも清潔そのものだ。糊のきいたブラウスに身を包み、穏やかな物腰で対応する受付嬢の声が心地よく鼓膜を揺らす。杖をついて歩く老人の体を支える看護師の脇を通り抜けながら真帆は日和に応じた。
 「綾乃さんが勤めてたのもこういう病院だったのかな。大病院に勤めてたって言ってたっけ」
 「そうですね。大病院にお勤めだったのなら、きっと医療に情熱を燃やすドクターでいらっしゃったのでしょう」
 綾乃さんの親類に電話で簡単に話を聞いたのですけれど、と前置きして日和は続ける。「そんな奥さまが仕事を辞められたのはご自身の意志だったそうですね。だからきっと……奥様もご主人を愛しておられたのです」
 日和の口調は穏やかであったが、その言葉の裏には静かな確信が感じられる。きっと彼女も真帆たちと同じような情報を得たのであろう。自分が考えていたことを言い当てられた真帆は何だか嬉しくなって、「うん」と笑顔で大きく肯いた。
 院内の案内板で確認し、二人は循環器内科へと向かう。遼平は心臓の病で入院していたというのだから行先はそこで良いはずだ。場所は七階である。
 「ああ、あの旦那さん? 人当たりのいい人よ。有名人だからって偉そうなところもないし。でもやっぱり忙しかったみたいね。仕事関係の人がしょっちゅう病室に出入りしてたし」
 「確か、いつも奥さんの話ばっかりしてたわよね? ずいぶん奥さんのことを気にかけてたみたいだけど、ねぇ」
 「奥さんのほうはどうかしら。そんなにお見舞いには来てなかったわね。たまに来ても、着替えや差し入れだけ置いてすぐ帰っちゃう感じだったし」
 「あの奥さん、元ドクターなんでしょ? どうして旦那さんの異変に気付かなかったのかしら。旦那さん、ここに入院した時にはもう手遅れに近い状態だったのよ」
 ナースステーションでお茶とお菓子を振る舞われながら、少女二人はナースたちの話に聞き入る。もっとも、看護師たちは聞き込みに協力しているというより噂話をネタにお喋りに興じているようにしか見えないのだが。本来ならば医療関係者がこのように患者の情報をぺらぺら明かすことはないのだが、真帆たちが「遼平の親類の者だ」と名乗って聞き込みを試みた成果であろう。
 「遼平さん、奥さんにネックレスをプレゼントしたんです。奥さんに内緒で作ったんじゃないかって思ってるんですけど」
 真帆はカップを両手で抱え込んだまま顔を上げ、自分の親ほどの年齢の看護師たちを見回す。「それっぽいそぶりなんか、ありました? こっそりジュエリーをデザインしてたりとか」
 「さあ……あ、そうだ。ねーえ、井上さん」
 メンバーの中で最年長とおぼしき看護師が奥に声をかける。井上と呼ばれた四十がらみの看護師が間延びした返事とともに顔を見せた。
 「井上さん、確かあの人から名刺もらってなかったっけ? 睦月さんの所にしょっちゅう来てたスーツの人」
 「スーツの人?」
 日和が怪訝そうに顔を上げる。スーツの人、という言い方は遼平が立ち上げたブランド『January』の関係者を指すものとしては不自然であろう。かといって遼平の親類や友人を指しているとも考えにくい。
 人の良さそうな井上看護師はいったん奥に引っ込み、一枚の名刺を手にして戻って来た。
 「高野さんっていう人。睦月さんの所にしょっちゅう来てたから、私たちとも顔見知りになってね」
 それで名刺をもらったのだと井上看護師は言い、二人に名刺を示してみせる。記された名は高野哲也、会社名は『La・Vie』(ラ・ヴィ)。フランス語で『人生』『生涯』の意味である。その社名からは業務内容までは読み取れない。遼平の所に出入りしていたのなら宝石関係だろうか。社名の傍らに記された『あなたの大切な相手を一生おそばに』というフレーズからは連想しにくいが……。
 「あの旦那さん、高野さんが来てる間は誰も病室に入れなかったのよ。秘密の相談でもしてたのかしらね。高野さんが帰った後で嬉しそうに“いいことを思いついた”なんて話してたことはあったけど」
 「この高野さんって人、何のお仕事をしてるんですか?」
 「人骨でダイヤを作ってるんだって」
 「はい?」
 期せずして、少女二人のやや素っ頓狂な声が重なった。



 遺灰ダイヤモンド。それが高野の会社が扱っている品だという。インターネットなどで遺灰ダイヤについて詳しく調べてみるという日和といったん別れ、真帆はアンティークショップ・蓮へと戻った。シュラインはまだ戻って来ていないようだ。
 店の奥の部屋でテーブル席にちょこんと着き、真帆は井上看護師からもらい受けた名刺を手に考え込む。もしや遼平が自分の遺骨でダイヤモンドを作って綾乃に送るように依頼したということなのだろうか。この高野という男にもコンタクトをとってみる必要があるだろう。
 (もし、遼平さんのお骨でできてるなら)
 あのダイヤはまさに遼平そのものだ。だとしたら、やはり綾乃のためだけに作られたものとしか思えない。その思いがこもっているから他人に渡るとくすんでしまうのではないか……。そんな気がしてならなかった。
 と、その時であった。
 「どうだった?」
 という声とともに後ろからぽんと肩を叩かれる。「何か――」
 分かった? とでも声の主は言いかけたのであろう。だがその声は真帆の悲鳴によってかき消されていた。続いて響く鈍い衝撃音、飛び上った小さな体とともに倒れる椅子。真帆は見事に椅子から転がり落ち、固い床に腰を打ちつけていた。
 「……ごめんなさい。大丈夫?」
 かがみ込んで真帆を助け起こすのはシュラインである。思索にふけるあまり彼女が戻って来たことに気付かなかったのだと真帆はようやく思い至り、うんうん唸りながらも懸命に肯く。
 「あの、これ」
 腰をさすりながらどうにか名刺を差し出す。椅子から転げ落ちた衝撃で折れ曲がってしまっているが、仕方あるまい。
 「遼平さんの病室に出入りしてた人だそうです。遺灰ダイヤモンドを扱ってるって聞きました」
 「遺灰ダイヤ?」
 珍しく、シュラインはやや声高に聞き返す。真帆は肯き、ようやく椅子に座り直した。そこへ蓮が顔を見せる。
 「お待ちどう。全員集合ってところかね」
 そう口にした蓮の後ろから顔を見せたのは日和だった。手にしたトートバッグには遺灰ダイヤについての資料が入っているのであろうか。
 「遼平さんは人当たりのいい人だったそうです。厭味なところもなくて、奥さんのことをいつも気にかけてたって……」
 「そう。やっぱりご夫君はご夫君なりに奥様を愛していらしたのかしら」
 シュラインは複雑な表情を浮かべ、聞き込みの結果を二人に話して聞かせる。遼平の見合い相手の中には政治家の息女や弁護士といった人物もいたこと。遼平は年下で美人の綾乃を自慢の種にしていたこと。綾乃をたいそう大事にしていたこと。サプライズが好きで、いつも内緒でジュエリーをデザインしては綾乃にプレゼントしていたこと。さらに遼平は「若くて綺麗な女房を持つことは男の夢だ」と言っていたこと。
 「若くて綺麗な奥さん、ですか」
 真帆は小さく呟いて軽く目を伏せた。“世界的ジュエリーデザイナー・睦月遼平の妻”として社交人が集うパーティーに出席し、自分の“役割”を痛感させられる。その上、拠り所である夫には容姿や年齢ばかりを自慢の種にされ、否応なく気持ちが冷えていったとしても無理はないかも知れない。
 「遼平さんが欲していたのは綾乃さんではなく、“自分と結婚してくれる、年下の綺麗な女”……綾乃さんがそう感じていたとしたら」
 気持ちが冷えていったとしても仕方ないのかも知れないとシュラインは短く言葉を結ぶ。しかし真帆ははっきりと首を横に振った。たとえ綾乃がそう感じていたとしても、遼平の真意はそうではないと確信していたから。
 「きっと大事に思っていたんです。だって、どんなに綺麗な人だって必ず歳を取るじゃないですか。綾乃さんだっていつかはおばあちゃんになるんだから」
 「そうです。結婚って、一生一緒にいることを前提にしてするものでしょう? お互いに老いても添い遂げることを約束して……」
 真帆の言葉に日和も同調する。シュラインも内心では同じようなことを考えていたのであろう、二人の言葉に小さく肯いた。



 「綺麗、ですね」
 日和が口にしたのはごくごく平凡な単語であったが、他のいかなる人間とてそうとしか形容できなかったであろう。それほどの品々であった。
 睦月邸の応接室のテーブルに並べられたジュエリーの数々。すべて遼平が綾乃に贈った品物だ。ネックレスに指輪にイヤリング、バレッタ……。陽の光を受け、惜し気もないきらめきと大粒の石たちはその存在を充分なまでにアピールしている。すべて遼平が綾乃に贈った物である。真帆はシュラインが持ち帰って来た『January』ブランドのカタログを片手に、その品々をつぶさに検分する。既製品をただ買って贈っただけなのか、それとも綾乃のために遼平自らが腕をふるったオリジナルの物なのか。後者であれば夫婦仲を取り繕うためだけに贈られたのではないことになる。
 「綺麗なのは当たり前ですわ」
 自分の娘にも等しい年齢の日和に対して綾乃は丁寧語で応じ、綺麗に紅を引いた唇をかすかに歪ませる。「宝石ですもの」
 「そんなおっしゃり方はいかがなものかと」
 青い瞳にやや冷めた光を灯し、シュラインは綾乃をちらりと見やる。自宅にいるというのに、この貴婦人は上品なクリーム色のワンピースとカーディガンに身を包み、髪もきちんと整えて三人の前に座っている。部屋着という風情ではない。この広い邸宅や、天井から下がるクリスタルのシャンデリアを見てもそれなりの資産を持っているのであろうことがうかがえた。
 「綺麗ですね」
 真帆は日和と全く同じ感想を口にし、ぱたんとカタログを閉じて深く肯いた。「それに、すごい」
 「何がすごいんですの?」
 ややのんびりとした真帆の口調に綾乃はかすかな苛立ちをこわばらせ、尋ねる。しかし真帆はそんなことなど気にも留めず、いつも通り口許にえくぼを浮かべて目を上げた。
 「このジュエリー、ひとつもカタログに載ってない。旦那さんが奥さんのために全部オリジナルで作ったってことですよね。それに副社長さんが言ってたそうですよ。遼平さんはいつもみんなに内緒で綾乃さんのためにジュエリーを作ってたって」
 「それはそうでしょう。既製品を機械的に与えるよりは、そちらのほうが周りにアピールできますから。仲の良い夫婦だと」
 小賢しい手段だとでも言いたげに綾乃は呟く。シュラインは小さく息をつき、ソファに座り直した。
 「そう思う根拠を具体的にお聞かせ願えませんか? 例えば何かの会に出るためにとか、人前でジュエリーを渡されたりとか、そういうことがあったのでしょうか」
 「何度もありました。あの人が主催するパーティーの席で、バースデイプレゼントだと言って壇上で渡されたこともあります」
 「それは逆に、奥さまを大事に思っているということを皆に知らしめたかったからでは?」
 と言うシュラインに対し、綾乃は緩やかに微笑んで軽く肯いた。だがその頬はかすかにこわばっている。
 「確かにそうでしょうね。たとえ内実がどうあろうとも、第三者には仲の良い夫婦であることを誇示しておいたほうが無難ですから。夫婦不仲説など流れたら週刊誌が面白おかしく書き立てて、あの人の仕事にも影響が出るかも知れませんし」
 それよりも、と綾乃は言葉を切って三人の顔を順々に見た。「例のネックレスのことが分かったと伺ったのですけれど。そちらのお話はどうなったのでしょう?」
 三人と綾乃の間に並べられた数々のジュエリーの脇にはビロード張りの濃紺の小箱が控え目に置かれている。
 あの後三人は名刺の高野哲也という男に連絡し、遼平が自分の遺骨でダイヤモンドを作って綾乃に送るように高野に依頼していたことを確認した。ネックレスの台座やチェーンは生前の遼平が作り、ダイヤのカットについても遼平が指示を出していたことも。その後綾乃に電話をし、ネックレスの送り主の名が睦月遼平になっていたこと、配達日指定便ではなかったことも昨日のうちに確認している。
 「こちらを」
 日和がそっと差し出したのはインターネットからプリントアウトした遺灰ダイヤの資料であった。昨日、自宅のパソコンで調べてきたものである。手に取った綾乃の顔色が小さく変わるのが見てとれた。
 「……嫌がらせでしょうか?」
 そして唇を震わせ、戸惑いと不快の色を浮かべながら目を上げる。「お骨で作ったダイヤモンドだなんて」
 身も蓋もない言い方をすれば、生物もダイヤモンドも原料は同じ。炭素原子である。特殊な加工を施せば遺灰や遺骨を原料にダイヤモンドを精製することも可能なのだ。必要な灰や骨の量はマグカップ一杯程度。元々骨壷にはすべての骨は納まりきらないのだから、骨壷に入りきらなかった分の骨だけで充分に足りる。人間だけではなく、ペットの骨でも制作が可能だそうだ。ダイヤの精製や加工にかかる期間はおよそ半年。遼平の死後半年が経ってからネックレスが送られて来た理由はそこにあったのである。
 「このダイヤはご夫君そのものというわけですね。言うなれば、ご夫君の気持ちがそのまま形になった品」
 シュラインは綾乃の黒い瞳をじっと見据える。宝石そのもののいわれに今回の事実に関わりそうな逸話があるのかも知れないと考えていたが、その推測はどうやら当たったようだ。
 「きっと嫌がらせですわ」
 綾乃はシュラインの言葉を否定するようにやや語気を荒げ、強く首を横に振る。「気味が悪い。これはいわば夫の体の一部ではありませんか。死んでから体の一部を送りつけてくるなど……」
 そして薄気味悪い物でも見るかのように濃紺の小箱を見やる。日和は茶色の瞳を音もなく細め、口を開いた。
 「愛する人にこそご自分の体の一部を持っていて欲しかったのではないでしょうか。ちょうど、愛する人に自分の持ち物を持っていて欲しいと願うように」
 「あの男は私を愛してなどおりません」
 綾乃の声は静かだったが、断固たる否定の色彩をもって応接室に響いた。しかし真帆は気付いていた。断定的な語調とは裏腹に、綾乃の瞳がわずかに揺らめいていたことを。
 「皆様も既にお聞きかも知れませんけれど、あの人にとっての私はただの飾りでしたの」
 綾乃は視線を落とし、呻くように言葉を紡ぐ。無意識のしぐさであろうか、膝の上に置かれた白い手はかすかに震え、ワンピースの裾を小さく握り締めていた。
 「あの人が欲したのは『ジュエリーデザイナー・睦月遼平』の妻としてふさわしい女。パーティーに連れて歩いても恥ずかしくないような女……。世界的ジュエリーデザイナーがいつまでも独身では恰好がつきませんでしょう? 私という個人を気に入ったわけではありませんのよ。あの男も、私がそう感じていたことに気付いていたのでしょう」
 整った唇の端が笑みの形に歪む。それは皮肉めいた冷笑というより悲しげな自嘲の笑みに見えなくもない。
 「夫婦仲が壊れては大変と、それはもう取り繕うのに必死でした。こちらの数々のジュエリーの他にも、パーティーに出るためのドレスや靴、バッグなど……数え切れないほどの贈り物を私に買ってよこしました」
 「うん。だからそれは、好きな人の気を引きたかったからですよね?」
 真帆は綾乃の言葉に笑顔で肯きつつも反論した。「好きな人に振り返って欲しくていろんなことをするのと同じなんじゃないですか? プレゼントなんて一番分かりやすい方法だと思いますよ」
 綾乃は真帆に顔を向け、そっと微笑んだだけだった。
 『何も分かっていらっしゃらないんですのね、お嬢さん』とでも言いたげに。
 「綾乃さん。それじゃひとつお尋ねしますけど」
 綾乃の瞳が動き、シュラインの顔の上で止まる。シュラインは綾乃の目から視線を逸らさずに続けた。
 「なぜご夫君は、今までお見合いをした女性ではなくあなたを選ばれたのでしょう?」
 その瞬間、かすかな音を立てて空気がこわばったような気がした。あるいはそれは錯覚だったのかも知れない。だが、綾乃の息がほんの一瞬止まり、妙な緊張感がその場を支配したことは確かであった。
 「ご夫君が幾度かお見合いをしたことも、それをことごとく断ってきたことも、ご夫婦ならばご存じですよね?」
 背筋を伸ばしたまま、シュラインは一気に核心へと切り込む。夫人は目を伏せ、膝の上に手を置いたまま微動だにしない。
 「そうですね。それはそうです」
 日和も静かに同調する。単に結婚相手が欲しかっただけならば他の相手でもいいはずだと。
 「本当は分かっておられたんですよね。でも認められなかった。そうではありませんか?」
 というシュラインの言葉に綾乃は答えなかった。その沈黙が、彼女の心情を雄弁に物語っているかのようだった。
 「すごく照れ屋な人だったんじゃないかな」
 綾乃に断ってネックレスの小箱を手に取り、誰にともなく真帆は呟く。独り言を装って綾乃に聞かせようとしているかのように。
 「“愛してる”って、なかなか言えなかったんだと思う。不器用だったのかも知れないね」
 小さな手がそっと箱の蓋を開く。中から現れた曇った石が無言で真帆を見上げていた。ガラス球にも劣る石ころが。遺灰ダイヤのことについては日和が丹念に調べてくれたが、そのデータの中には『特定の人物から離れると輝きを失う』という特性は見当たらない。『La・Vie』社の高野哲也に電話で聞き取りを試みた際もその疑問をぶつけたが、高野は「そんなはずはない。遺灰ダイヤは確かに人工物だが、天然のダイヤと組成は何ら変わりないのだから」と怪訝そうに言うばかりであった。
 それなのに、このダイヤは綾乃のそばにある時だけ輝く。この事象をどう説明しよう。このダイヤはいわば遼平そのもの。言い換えれば、綾乃に対する遼平の強い思いがそのまま形になったもの。遼平の気持ちそのものなのだ。だからこそ綾乃の手を離れると輝きを失うのではないか。綾乃の元から離れるのを拒むように……。確たる証拠はないが、三人の見解はそれで一致したのであった。
 「本当に大切な相手だからこそ、触れるのにも勇気が要ったり、素直に自分の心を言葉に表せなかったのかもしれません」
 私にも大好きな人がいます、と続け、日和はほんのりと頬を染めてうつむく。「でも、どうしても自分の気持ちをきちんと伝えられなかったりすることもありますから……照れが入ってしまったりして」
 遼平は遼平なりに綾乃を愛していたのであろう。だが、ちょっとした行動や言動から綾乃の誤解を招いてしまった。その溝を埋めようと遼平が躍起になるごとに、綾乃の気持ちは遼平から離れていったのかも知れない。
 綾乃は相変わらず口を閉ざしたままであった。だが、生来白い顔がさらに血の気を失っているように見えるのはどういうわけか。
 「……嘘、です」
 そして頑なに首を横に振る。蚊の鳴くような声はわずかに震えていた。
 「まだそんなことをおっしゃるのですか」
 シュラインは半ば呆れて口を開いた。「ご覧になったでしょう、あのダイヤモンドの輝き。ご夫君があなたを愛していなかったとおっしゃるのなら、あなたが身に着けている時だけ輝く理由はどう説明――」
 「だって、私は」
 ややうわずった声であった。綾乃はシュラインの言葉を遮り、長い睫毛を震わせながら目を上げる。
 「……あの人を見殺しにしたんですのよ」
 綾乃の声はかすれ、色を失った唇はどうしようもないほどに震えていた。



 私も元は医者の端くれですもの。あの男の体に病が棲みついていることはすぐに分かりました。
 病院に行ったほうがいいんだろうかとあの人に尋ねられるたび、私は「心配することはない」と答えました。「元ドクターの私が言うんだから間違いない、ただの疲れだ」と。私のことを信じきっていた夫は病院に行くこともなく、その後もしばらく通常通りの生活を続けておりましたが、ある日仕事先で倒れて病院に担ぎ込まれ、手術が必要な状態だと担当医に告げられました。
 ……ええ。私は確かに思ったのです。
 このまま手遅れになって死ねば良いと。
 こんな男など、死んでしまえば良いと。だから倒れるまで病院にも行かせなかった。
 それなのに、あの人は私を愛していたというのですか?
 私は、ああ、私は、私は!



 咳込むような独白の後で綾乃の体がソファから崩れ落ちる。続いて響いた鈍い衝撃音に真帆は思わず両手で口を覆い、かすかに悲鳴を漏らした。泣き崩れた綾乃はガラス製のテーブルの縁に頭部を打ちつけて血を流しながら、それにすら気付かぬまま嗚咽しているのだった。
 決して激しいものではない。むしろ静かな嗚咽であった。だからこそ余計に耳に痛い。綾乃はワンピースの裾が乱れるのも構わずに、重厚な絨毯の上に手をついて涙を流し続ける。シュラインは無言でハンカチを取り出し、綾乃の傷口にあてがった。
 「私……なんてことを」
 綾乃は顔を両手で覆う。震える肩を後ろからそっと両手で抱くのは日和だ。いたわるように、優しく。日和はそのまま綾乃に寄り添い、背中にそっと耳を押し当てた。
 「とても温かい音」
 そして、誰にともなく呟いて目を閉じる。背中越しでも、綾乃の心音は日和の耳に確かに届いていた。「こんな音をさせるくらいですから、奥さまも本当はとても温かい方なのですね。素直にお気持ちを言えなかったのは奥さまも同じだったんでしょうか?」
 日和の手の中で綾乃の肩がびくりと震える。シュラインは日和の言葉に賛同するように綾乃の肩をさすった。
 「綾乃さん」
 という真帆の呼びかけに応じてのろのろと上げられた顔は涙で濡れ、化粧も落ち、貴婦人にふさわしからぬものであった。綾乃の視線の先にはネックレスを手にした真帆が微笑みながら立っている。くすんだダイヤモンドのネックレスを持ち、真帆は綾乃の前に膝をついた。
 「ネックレスを……大切な旦那さんを、そばに置いてあげてください」
 間近で綾乃を見つめる夕焼け色の瞳。アイラインもマスカラも落ち、目の周りを黒く汚した綾乃は濡れた瞳をかすかに震わせる。
 「そうです。このネックレスは……ご主人がご自分の心をそのまま結晶にしたもの。奥様が世界の誰よりも大切というお気持ちを。だから、奥様から離れるとくすんで輝きを失ってしまう。それでも……手放してよろしいのですか?」
 背中から伝わってくる日和の声に綾乃は小さく嗚咽する。真帆はチェーンの留め金を外し、綾乃の首筋に手を回した。綾乃は逆らわなかった。真帆にされるがままになっていた。
 「――綺麗」
 思わず、シュラインは呟いていた。
 綾乃の白い胸元におさまった大粒のダイヤはみるみる本来の姿を取り戻していった。きらきらと、音もなく。人工の光の下でどうしてこれほどきらめくことができるのであろうか。一点のくすみも淀みもなく光り輝くその姿は何物にも喩え難い。否、そもそも他の物に喩えること自体が筋違いであろう。このダイヤモンドは、世界でただひとつの、綾乃のそばで輝くためだけに作られた宝石なのだから。
 ダイヤモンド。この世で最も硬い石。永遠に輝き続ける、くすむことのない意志の証。
 伝えきれなかった遼平の思いは、今、ダイヤモンドという形になって妻の胸にある。夫の不器用な思いをなかなか受け入れられなかった不器用な妻のそばに。お互いにどこかでボタンを掛け違えてしまった夫婦の思いがようやくひとつに重なった。たとえそれが遅すぎる結末だったとしても。
 「遼平さん」
 初めて夫の名を呼び、綾乃はネックレスを握り締めた。「ごめんなさい……ごめんなさい」
 悲痛なまでの綾乃の泣き声はいつまでもいつまでも続く。涙が汚れた頬を伝い、顎から落ちて、ダイヤの上に滴る。綾乃の涙を受けたダイヤは無言のまま一層輝きを増していた。


 
 磨き抜かれた窓の向こうには冬枯れの景色が広がる。茶色い芝生の上に立つ裸の木々。花壇にも乾いた土の色しか見えず、色彩という色彩が鳴りをひそめている。しかしその上に注ぐ陽射しの色は柔らかで、空気はクリアだ。真帆はひんやりとしたガラスにそっと掌を当て、静かな景色をしばし眺める。痩せた老人の乗った車椅子を押して中庭を横切っていく看護師の姿が目に入った。
 大したことはないと綾乃は言ったが、頭を打っているのだからと諭し、真帆は手当のために彼女を連れて病院を訪れた。恐らく心配はないだろうが念のためMRIを撮ってみようという医師の言葉に従い、検査を受けたところである。精神的にも疲労していた綾乃は、MRIの読影結果が出るまで処置室を借りて休むことになった。
 真帆は窓を離れ、ベッドの傍らに引っ張ってきた椅子にちょこんと腰かける。処置室のベッドに横たわった綾乃は目を閉じ、毛布のかかった胸の辺りを規則的に上下させていた。眠ってしまったようだ。
 ならば――
 真帆はこうべを垂れて目を閉じ、お祈りでもするかのように胸の前で両手を組み合わせる。
 「ごめんなさい」。泣き崩れながら、綾乃は謝罪の言葉だけを繰り返していた。それも綾乃の本心であろう。しかし真帆が聞きたかったのは別の言葉だ。遼平が望んでいたのも、そして綾乃が本当に言いたかったのも、きっともっと別の……。
 ふわり。
 室内だというのにかすかな風が吹き、真帆の柔らかな髪の毛が一瞬だけなびいた。



 綾乃は茫然と立ちつくしていた。
 小さなチャペル。忘れようとしても忘れえぬその場所。世界的ジュエリーデザイナーがこんな小さな会場で、という周囲の声を押しのけて夫が選んだ結婚式場。
 むせかえるような新緑の中に立つ白い教会はまるでおとぎ話の挿絵のようだ。戸惑いながらも綾乃は歩を進め、礼拝堂の扉に手をかける。いつの間にか自分の身が純白のウエディングドレスに包まれていることに気付いて息を呑んだ。
 (そう。夢、なのね)
 綾乃は己にそう言い聞かせながら小さく息を吸い、扉を開いた。(結婚式の時の夢……)
 深紅の絨毯が小さな祭壇までまっすぐに続いている。そしてその先に待っていたのは、タキシード姿の――
 「綾乃」
 振り返って微笑む男性は、五十代の遼平であった。
 綾乃の目がみるみる見開かれる。さあ、と遼平が綾乃に向って手を伸ばした。おずおずと手を差し出した綾乃ははっとした。遼平の手に置いた自分の手もまた、現在の四十代の自分のものであった。
 綾乃は遼平に手を取られ、祭壇に上った。神父も牧師も、参列者もいない。二人だけであった。
 遼平は無言だった。綾乃の手を大事そうに両手で握ったまま、ただ微笑んでいる。その顔のなんと幸せそうなことか。綾乃の唇がわなないた。涙がこぼれていた。
 「済まない」
 握る手に力を込めて遼平の唇が言葉を紡ぐ。「だけど綾乃、これだけは信じて欲しい。私は君を――」
 二人の声が、言葉が、期せずして重なる。
 今度は夫の目が見開かれる番であった。
 もう一度その言葉を口にし、泣き濡れた顔で妻はにこりと微笑んだ。
 どんな神話のどんな女神もかなわないであろう、とびきり魅力的な笑顔であった。



 どれくらい目を閉じていただろう。処置室の扉をノックする音に気付き、真帆はゆるゆると手をほどく。顔をのぞかせた看護師がMRIの結果が出た旨を告げる。もう少ししたら診察室に行くと真帆は答えて看護師を下がらせた。
 もう少しだけ、綾乃にこの夢を見ていてほしい。
 綾乃はまだ眠っている。新たな涙があふれ、頬を伝っていった。真帆はハンカチを取り出し、綾乃を起こしてしまわないように細心の注意を払いながら涙を拭ってやった。温かい涙であった。
 (良かった)
 安らかな綾乃の寝顔を覗き込む真帆の顔に自然と微笑が満ちていく。(伝えたいこと、ちゃんと伝えられたんですね)
 あるいは遅すぎたのかも知れない。今更だと人は呆れるかも知れない。だが、伝えられないままでいるよりはずっとずっとましなはずだ。
 毛布からはみ出した綾乃の手を両手で握り、真帆は再び目を閉じる。
 しばしの幸せにたゆとう貴婦人の胸元では、大粒のダイヤモンドがまばゆいばかりに輝いていた。 (了)
 
 



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生・見習い魔女
 0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
 3524/初瀬・日和(はつせ・ひより)/女性/16歳/高校生





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■         ライター通信          ■
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樋口真帆様



クリスマスに続いてこんにちは、宮本ぽちです。
ご注文まことにありがとうございました。
続けてお会いできるとは思っておらず、大変嬉しいサプライズでした。

すれ違ったままだった夫婦の思いを繋いでくださり、ありがとうございます。
遼平のほうは綾乃を愛していたのではとのお言葉、ライターの心情の面でも商品作成の面でも大変助かりました。
当初は悲しい結末のまま終わらせる予定でしたが、樋口様がいてくださったおかげで救いのあるラストにすることができ、感謝しております。

それでは、ご注文重ねてありがとうございました。
またどこかでお会いできる機会に恵まれることを祈りつつ、今回はこの辺りで失礼させていただきます。
ちなみに遺灰ダイヤもそれを扱う会社も実在します(La・Vie社はもちろん架空の会社ですが)。



宮本ぽち 拝