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<東京怪談・PCゲームノベル>


もう一つの片割れ





 動物は相手を見るというから、もしかすると人外の気配を一目で察したのかも知れない。ポチはのそのそと一輝の後ろに隠れてしまった。耳を後ろにぴたりと倒した警戒の姿勢のまま、一輝の脚の間から探るようにじっと恋(れん)を見つめている。
 「夢ねぇ」
 恋は花魁衣装に包まれた華奢な肩をやや窮屈そうに揺らして応じた。「っつーか、俺たち悪魔に夢も希望もないんだけどな」
 「ほう」
 と一輝が目をぱちくりさせたのは三つの理由によってだ。一つめは、てっきり少女だとばかり思っていた中性的な容貌の恋の口から明らかに少年であると分かる声と言葉使いが飛び出したこと。二つめは、恋が己が悪魔であると名乗ったこと。三つめは、恋が率直に口にした言葉がひどく現実的であること。
 「悪魔には夢も希望もない、か。ちげぇねぇ」
 特に三つ目の理由が気に入ったらしく、一輝はさも愉快そうにくくくと喉を鳴らして笑った。
 「そんならやめとくか?」
 そして、こつん、こつんという靴音をさせながら恋に歩み寄る。着崩したスタイルではあるが、よくよく見ればスーツそのものは決して安物ではないし、黒光りする革靴も高級品であることは恋の目にも明らかであった。
 「無事に帰って来られるだなんて一言も言ってねえしな。夢世界に持ち込めるのはおまえの意識だけ。体はこっちの世界に残していかなきゃならない。当然、長い間戻って来なければ体のほうが死んじまう。ま、あっちでは意識の力で体みたいなもんが作られるから生身の時と同じように行動はできるがな。それに――俺が開閉できるのは、こっちからあっちへの扉だけだ」
 悪魔にこんなこと言っても脅しにはならねえだろうが、と一輝は付け加える。その言葉通り恋にとっては一輝の説明など脅威でも何でもなく、ただ腕を組んで「望みったってなぁ」とぼやきながら考え込むだけだ。
 「んーまぁ、なくはないけど……強いて言えば、だらだら生きることかな?」
 「なるほど」
 そいつぁいい、と一輝は声を上げて笑う。「じゃ、連れてってやろうか」
 その後で持ち上げてみせた左手には先程ちらりと見えた真鍮の鍵が握られていた。
 部屋の壁一面にはいくつもの扉が埋められている。ざっと見渡しただけでも十はあるだろうか。重厚な材質に施された彫刻は意外にシンプルだ。高さは2メートルもなく、取り立てて変わった点はない。向こう側へと開くタイプの一枚扉で、ドアノブにあたる部分には錆びた金属製のリングが取り付けられている。元々は茶色だったのであろうが、全体に浮いた黒ずみがこの扉が経た年月の長さを物語っていた。
 立ち並ぶ扉はどれも同じデザインで、すべてが同じように見える。だが一輝は迷う様子も見せずに、部屋の入口のほぼ正面の部分の壁にある扉へと歩み寄る。その後を緩慢について行った恋だったが、途中でふと足を止めた。
 少し離れた場所に、ひとつだけ、違う扉がある。部屋の角にひっそりと身を寄せるように、他の扉たちから隔離されるようにして取りつけられた黒塗りの観音扉。高さも幅も他の扉より一回り以上小さい。これでは子供くらいしかくぐれないのではないだろうか。取っ手やノブもなく、扉というよりはただの板といった風情だ。それでもそれが扉だと分かったのは、本来ならばドアノブがあるべき場所に鍵穴らしき小さな穴が開いていたからだった。
 あの扉は何だと問う前に、恋の意識は一輝のほうに引き戻されていた。
 妙な空気が頬を撫でたのだ。温かいのか冷たいのかも分からない、かすかな空気の流れ。あるいはそれは風と言い換えてもいいのかも知れない。しかし、風と呼ぶにはあまりにも得体の知れない感触であった。あの扉の向こうから流れ出てきた空気だと直感した。
 一輝が手にした鍵は音もなく扉に吸い込まれていた。吸い込まれた、という形容がまさに適切だった。空気の中にでもすうっと入り込むのかのような静けさで鍵は扉に埋まり、そして回すこともなく引き抜かれる。鍵を引き抜く瞬間、一輝の手の中で淡い光が発せられた。
 扉は細く開いていた。かすかにのぞく隙間から、先ほど感じた嫌な空気が細く流れ出て来ている。扉の向こうが暗いのか明るいのかすらも判然としない。恋は眉間に皺を寄せて向こう側の世界を凝視した。妖や魔の類が潜んでいる気配はなさそうだが、だからこそどこか薄気味悪い。そこに住む者によってではなく、その世界そのものが作り出す得体の知れない気配というものが確かにそこにあった。
 「いいか、よく聞けよ。扉に触ると急に眠くなるが、儀式みたいなもんだから心配しなくていい。気がついた時には夢世界に立ってる。向こうの世界は大きなひとつの塔みたいなもんだ」
 「塔?」
 「気が付くと塔の最上階のフロアに立ってるはずだ。目の前に下りの階段があるから、そこを降りていけ」
 「一階じゃなくて最上階から入るのか」
 首をひねりつつも恋は肯く。「じゃあ……後はこの扉を開ければいいのか、おっさん?」
 「ああ。俺はただのゲートキーパー、門番さ。この先に進むかどうか、決めるのはおまえだ」
 おっさんと呼ばれたことを否定するでもなく一輝は肯く。恋は「ふうん」と軽く鼻を鳴らして扉に向きなおった。
 ためらいはなかった。小さな手を伸ばしてむんずと扉の取っ手のリングを掴む。硬く、ひやりとした感触があった。
 同時に、ぐらりと視界が揺れた。
 「あ」
 不意に激しい睡魔に襲われ、足がふらつく。意志とは関係なく瞼が重くなっていく。懸命に目を開こうとするが、どうやら無駄な抵抗であるらしい。これが一輝の言っていた“儀式のようなもの”なのか。リングを掴んだ手に力を込めたわけでもないのに扉は静かに向こう側へと開いていく。軋む音すら立てずに、滑るように。まるで、扉に手をかけた者を吸いこもうとでもするかのように。
 「――Have a good dream.」
 かすかに笑みを含んだ一輝の声が聞こえる。唇の端にやや皮肉っぽい表情を浮かべて貴人に礼をするように右腕を胸の下で折った一輝の姿をわずかに視界の端にとらえ、恋は糸の切れたマリオネットのようにその場に昏倒していた。



 目を開けていることすら分からないような、薄暗い場所であった。
 不可思議な感覚だった。足の下が温かいのか冷たいのか、固いのか柔らかいのかすらも分からない。虚ろな薄闇の中に恋はぽつねんと立っていた。ただ、体を包む空気はぬるま湯のようで、何だかひどく心地良い。
 記憶は意外にはっきりしている。あの「扉」に手をかけた途端に急激に眠くなり、気が付くとここに立っていた。ここはすでに夢世界なのだろうか? 一輝も、ポチもいない。少なくとも、先程まで立っていたオフィス北浦の室内ではないことは確かだった。
 背後を振り返ってみる。ただ、薄い闇が広がっているだけだ。扉を開けてここに来たはずなのに、扉など影も形もない。
 (なんだ)
 目の前で手を開閉し、さらに自分の着衣がオフィス北浦にいた時と全く変わっていないことを確認して恋は多少拍子抜けした。
 (現実世界にいた時と何も変わんねえじゃん)
 右手で左腕をつねってみる。指に感じる皮膚の感触も、腕に感じる痛みも現実世界のそれと全く同じだ。
 「さて、と。鍵を探せって言ってたな」
 と声に出して呟いた頃にはようやく闇に目が慣れていた。真っ暗なわけではないのに、ごく薄いベールが幾重にもかかっているかのように視界が悪い。
 恋が立っているのは建物の中であるようだ。伸ばした手に壁のような物が触れる。煉瓦のような規則的な模様が見てとれた。一輝が言っていた通り、ここがすでに“塔”の中なのだろう。ぐるりと視線をめぐらしてみると、どうやらこの場所がだだっ広い円形の空間であるらしいことが認識できた。
 そして、正面には下りの階段が伸びている。
 他の場所に繋がっていそうなものは階段以外には何もない。一輝の言葉に従ってこの階段を降りるしかなさそうだ。一段目に足を下ろすとやはり得体の知れない妙な感覚があったし、足音もしなかったが、それだけだった。地に足がついているという感触だけは確かにある。思ったより普通だな、と恋はまた拍子抜けした。
 階段の両側には相変わらず煉瓦造りのような壁が続いている。階段の先には踊り場や扉のようなものは見当たらない。下へ下へと階段が螺旋を巻いているだけだ。ずいぶん殺風景な世界である。夢の世界だというのなら、もっと明るい、おとぎ話のようなパステルカラーの世界でもよさそうなものだが。
 恋はふと足を止めた。かすかに音が聞こえてくる。何だろう。物音や人の声とは違う。楽器の類だ。耳を澄ませてみる。これは――オルゴール?
 途切れ途切れに聞こえてくる音色はひどく緩慢だ。たとえるならば、ネジが切れる寸前のオルゴールのような。曲名は分らないが、そのゆっくりとしたテンポと素朴な単音はひどく心地よい。この空間を満たす人肌程度の室温と相まって、柄にもなく鼻の奥がかすかにツンとした。
 ずっとずっと昔、主と出会うよりも前に感じたもの。人間ならば誰でも、一度は感じたことのある安楽さ。
 まるで――ベビーベッドの中のような心地良さだった。
 自分を囲むたくさんのおもちゃと、そしてあたたかい家族。体に感じる人肌の空気はまるで母親の腕に抱かれているかのようで、心地よい眠気を誘う。これが自分の望みと関係あるのだろうか。それとも、この世界独特の雰囲気なのか?
 (なんか……いい感じ)
 ふわぁ、とあくびが出る。このぬるさは嫌いではない。起床時間に目が覚めたもののもう少しだけ床に入っていたいというあの怠惰な感覚に似ている。生ぬるい空気とともに睡魔がふわりと体を包む。だがそれが何とも言えず気持ち良い。こんな階段で寝るなんてと思わぬでもないが、どうせ誰もいないのだ。望みが何でも叶うのが夢世界だと一輝は言っていたのだし、恋の好きなように過ごせば良かろう。
 どれくらい眠っていただろうか。まだ半分寝ぼけたままごろんと寝返りを打った恋はふっと目を開いた。体の下にふかふかと柔らかい感触がある。怪訝に思って伸ばした手に絹のような滑らかな感触が触れる。体を起こすと、ふんわりとした羽毛の掛け布団が肩からずれ落ちた。
 「何だこりゃ?」
 周囲を見回した恋は半ばぽかんとして口を開けていた。
 眠る前まで辺りを覆っていたはずの薄闇はすっかり晴れている。下へ下へと続いていた階段も、煉瓦に似た壁も、天井すらも消えうせていた。どこかの旅館の一室かとでも思うような広々とした和室に厚い布団が敷かれ、恋はそこに寝かされていたのであった。
 もぞもぞと起き出してみる。真冬だというのに布団から出ても寒さはない。部屋は十二畳はあるだろうか。南側には磨き抜かれた雪見障子が見える。開けてみると、その先は絨毯の敷かれた細い廊下のような空間があった。藤椅子が二脚、ガラスのテーブルを挟んで並べられている。磨き抜かれた窓ガラスの向こうには視界を覆うばかりの湖。深い水の色と冬のクリアな空気が静謐な景色となって窓の外に広がっていた。湖に面した静かな旅館とでもいった風情である。
 (ん。悪くねぇな)
 などと考えながらもうひとつあくびを漏らす。透き通った窓から差し込むぬくぬくとした陽射し。眠気を呼び戻されてしまいそうだ。
 「ま、いっか」
 あまり深く考えないことにした。所詮夢の中のことである。ここがどこなのか知らないが、旅館というシチュエーションは悪くなかろう。好きな時に眠り、好きな時に起きる。客として宿泊しているのだから一日中部屋でぼんやりしていても咎める者はない。食事は上げ膳据え膳、風呂だって好きな時に入れる。『だらだら生きる』という望みを叶えるための場としては案外ちょうど良いかも知れない。
 もう一度布団にもぐり込もうとした時、襖の向こうからほのかに漂ってくるにおいに気付いた。怪訝に思って襖を開き、恋は思わず「おっ」と声を上げた。
 襖の向こうはやはり十二畳ほどの和室であった。部屋の中央に置かれた大きな長方形の卓の上に所狭しと食事が並べられている。時間からして昼餉であろうが、それにしてはずいぶん豪華である。まさに旅館の食事といった風情だ。テーブルの端には米飯の入った櫃と茶碗もきちんと用意されていて、恋は迷わず卓に着いて箸を手に取った。



 オフィスの床に倒れた恋の頭の下には安物のクッションが入れられている。一輝はコーヒーのカップを片手に、デスクの上の置き時計をちらりと見た。恋が向こう側の世界に入ってから三時間余りが経過している。
 ポチは1メートルほど離れた場所に鎮座し、恋を見守っている。時折のそりと腰を上げて遠巻きに恋の周りをうろうろし、またお座りの姿勢を取る。さっきからその繰り返しだ。
 「心配すんなって」
 恋の寝顔を覗き込み、一輝はぽんとポチの頭に手を置く。「結構楽しんでるみたいじゃねえか」
 門番である一輝は夢世界での出来事に干渉することはできないし、あちらの世界で何が起こっているかも把握できない。しかし昼寝をしているような恋の気楽な寝顔を見れば、彼がそこそこ良い夢を見ているのだということは容易に推察できる。
 恋の口がむにゃむにゃと動く。寝言であろうが、何を呟いたかまでは聞き取れない。ごろんと寝返りを打ち、小さく口を開けて寝息を立てる姿は白昼の惰眠に身を委ねる様子と微塵も変わりなかった。



 「ん、が」
 よだれが顎へと伝う嫌な感覚で恋は我を取り戻す。満腹のあまりまた眠ってしまったようだ。目をこすりながら体を起こすと、卓の上に広げられていたはずの空の食器はいつの間にか綺麗に片付けられていた。眠っている間に仲居のような人間が来て片付けてくれたのであろうか。
 「さて……次はどうすっかな」
 部屋には誰もいない。窓からは西日が差し込んでいる。昼食の後、こんな時間まで眠っていても誰にも咎められないというのは良い気分だ。夜になればまた夕餉の膳が出てくるのであろう。何もしなくても飯が食える、どれだけだらけても誰にも何も言われないというのは実に気楽なものである。ここでは何もしなくて良いのだ。
 頭をぼりぼりと掻きながら襖を開けると、床の間には布団がきれいにのべられていた。昼食の前後に恋が直した覚えはないのだが、これも誰かが整えてくれたのだろうか。羽毛の掛け布団の上にはきちんとたたまれた浴衣と帯が置いてある。風呂にでも入るか、と恋は呟いて浴衣に着替えた。風呂が部屋についているらしいことは既に調べてある。
 風呂は露天であった。大浴場に比べれば小さいが、一人で入るには充分すぎる広さである。岩で作られた湯船の前に広がる湖のおもては鏡のようで、さざなみひとつ立っていない。黄昏の空を仰げば、雲すらも形を変えずにその場に留まっているようである。
 (ずいぶん静かだな)
 まるで時間が止まっているかのようだ。だが、この緩慢な雰囲気は嫌いではない。何もせず、何もする必要がなく、ただ時間だけがのろのろと過ぎてゆく。ちゃぷんと音を立てて肩まで湯につかると、心地よい温度が体の中をめぐっていく感覚がはっきりと分かった。のぼせては湯船から出て風に当たり、体が冷えてはまた湯船につかり。それを幾度か繰り返し、途中で体も洗って、体を湯船に入れたまま岩の上に顎を乗せてぼんやり景色を眺め、緩慢な時間を思う存分堪能する。湖の上を渡って頬を撫でていく風の冷たさで初めて夜の訪れに気付き、ようやく湯船から出て部屋に戻ると卓の上には既に夕餉が並べられていた。
 至れりつくせりの待遇である。そのうえ海の幸や山の幸をこれでもかと贅沢に使用した品々は昼食にも増して豪華な内容だが、一体誰が来て準備してくれたのであろうか。人が出入りすればその形跡くらいは残るはずなのに、この部屋には気配の残滓すら見当たらないのはどういうわけだろう。
 「ま、いっか」
 今度も深く考えないことにした。所詮夢である。楽しんだ者勝ちだ。汁椀や煮物の鉢の蓋を次々に取ってゆく。見た目も鮮やかな料理たちに次々と箸をつけ、恋は思う存分食事を楽しんだ。
 満腹になった後でもう一度風呂に入り、部屋に戻ると食器は綺麗に片付けられていたが、もはや気にならなかった。畳の上に大の字になって伸びをする。壁や天井をぐるりと見回すが、この部屋には時計がないようだ。もっとも、不便は感じない。時間など気にしなくて良いし、気にする必要もないのだから。ここでは何もしなくて良いのだ。ただ好きな時に寝て好きな時に起き、決まった時間になれば食事も出てくる。恋が何かする必要などない。ただこの怠惰な時間を好きなように好きなだけ楽しめば良いのだ。
 「悪くねぇな、ここ。あの北浦って奴、結構いいことしてくれんじゃん」
 恋はまたあくびをして体を横に向け、頭の下に腕を入れた。「結構いい奴なのかな? 見た目悪人っぽいけど」
 その頃、現実世界で一輝がくしゃみをしていたかどうかは定かではない。
 「お気に召していただけたようで、何よりでございますわ」
 「あー?」
 不意に響いた女の声。寝転がったまま首を伸ばしてそちらに顔を向けると、和服に身を包んだ黒髪の女性が正座で座っていた。白い地に真っ赤な牡丹という着物の柄、きれいに結い上げられた髪を飾る鶴のかんざしという装いからすると、仲居ではなく女将であろうか。いつの間に入ってきたのか。物音はおろか、気配すら感じなかった。もっとも、それを気にする恋ではないのだが。
 「誰? あんた」
 「この場所の主でございます。お見知りおきを」
 三十を少し出たばかりと思われる色白の女は三つ指をついて丁寧に頭を下げる。恋は「んー」と鷹揚に返事をして体を彼女のほうに向けた。
 「なかなかいいよ、ここ。すげぇ快適だし。普通の旅館とかだと決まった時間に仲居が来て、うぜぇじゃん? ここは誰も来ないのがいいね」
 「ありがとうございます。あなた様のお邪魔になりませぬよう、なるべく従業員は姿を現さないようにしておりますゆえ」
 「ああ、誰にも見られねぇってのが最高。どんだけだらだらしてても誰にも邪魔されねぇし、俺は何もしなくていいし? それになんだか空気がいいな。空気っていうか、温度? ぬるま湯みたいな感じの。気持ち良くて、なんか眠ーくなる感じ」
 「もったいないお言葉にございます」
 女は着物の袖を口許に持っていき、くつくつと笑った。「ならば、ずっとここにいらしてはいかがでしょう?」
 「あん?」
 恋の黒い瞳がすいと細められる。
 女は笑みの表情を保ったままであった。だが、紅を引いた唇の形は着物の袖に隠されて読み取れない。
 くあ、と恋はまたあくびをした。
 「やだ」
 そして言った。女がゆるゆると首をかしげる。
 「い・や・だ」
 もう一度、はっきりと言い渡すように恋は繰り返す。相変わらず横になったまま、ややはだけた浴衣の前を直そうともせずに。
 「なぜでございましょう?」
 口許を袖で隠したまま女は言った。だが白い顔からは笑みが消えている。
 「なぜったって。夢ってのはつまらんもんじゃん? 絶対やだよ、お断りだね」
 それだけ言い放って、恋はごろりと寝返りを打って女に背を向けた。確かにこの世界は悪くない。しかし、ノーと答えると最初から決めていた。どれだけ楽であろうと、夢は所詮夢なのだから。
 しばし、沈黙が降りた。女はじっと黙っているようだ。ただ、恋の背中を見据える虚ろな視線だけを感じた。
 「さようでございますか」
 やがて女は言い、先ほどのように恋の背中に向かって三つ指を揃える。「かしこまりました」
 「ん。分かったら帰んなよ」
 と恋が背中を向けたまま後ろ手を振って見せた時だった。
 何もかもが消え失せた。部屋も、畳も、窓の外の景色も、大きな卓も。代わりに、周囲にはいつの間にか濃い靄が立ち込めている。初めてこの世界に来た時と同じように得体の知れない薄闇が形成されつつあった。思わず背後を振り返った時には女の姿は濃い靄に隠れ、おぼろげなシルエットしか見えなくなっていた。
 <ありがとう>
 そして、全く別の声が遠くから響いてくるように聞こえてきた。耳朶を打つその声は成人男性のものであったが、どこかで聞いたことがあるような気がする。いや、正確には“以前どこかで聞いた誰かの声に似ている”と言ったほうが適切か。しかし、どこの誰かに似ているのかは思い出せない。
 <よくおっしゃってくれました。あなたが帰るべき場所は現実世界。この世界じゃありません>
 「あー? 誰だよあんた?」
 恋はようやく体を起こし、いるともいないとも分からぬ声の主に向かって問う。相手の姿が見えないのはこの靄のせいばかりとは思えない。相手がかすかに笑う気配が感じられた。
 <あなたに僕の願いを託します。これは僕の賭け……あちらの世界に、伝えてください>
 何言ってんだよ、と言いかけた時であった。
 足元に靄が這い寄り始めた。一層濃く、重い靄であった。靄は音もなく這い上がり、恋の脚を、腰を、腕を、あっという間に埋めていく。振り払っても振り払っても靄は晴れない。危険なものではなさそうだが、靄に包まれていくにつれてひどく眠くなるのはどういうわけか。意志に反して瞼がどんどん重くなり、全身から力が抜けていく。
 「ちょ……ま、て」
 既にろれつが回っていない。懸命に目をこすりながら恋は抗うように低く呻く。
 「鍵……鍵を探さなきゃいけねえんだ。北浦って奴に頼まれた……こっちからあっちに戻るための……」
 <大丈夫です。鍵は既にあなたの中にある>
 声の主である男はそっと微笑んだらしかった。その言葉の意味を問うことも声の主を確かめることもできず、恋は崩れるようにその場に倒れ込んだ。



 徐々に意識が戻っていく。体の下にあるのは冷たく固い感触。あの部屋のふかふかの羽毛布団とは大違いだ。耳の周りを何かがしたしたと往復する気配に気付いて恋はふっと眼を開いた。
 「お」
 まず目に飛び込んできたのは白黒のブチ猫の顔であった。ポチは恋と目が合うとやや驚いたように金色の瞳を見開き、背を向けてのそのそと歩いて行ってしまう。その先にはスラックスをはいた脚があった。
 「よぉ」
 一輝がポチを抱き上げて恋の前にしゃがみ込み、唇の端を持ち上げてみせた。「いい夢見られたかい?」
 にやり、とした笑い方。何もかも見透かされているような底意地の悪い表情だが、恋にすれば取るに足らないことである。恋は「まあまあ」と緩慢に答え、あくびを漏らしながらのろのろと起き上った。
 デスクの上に置いてある日付表示付きのクロックを見やると、このオフィスを訪れてから半日ほどしか経っていないことが分かった。着衣もここに来た時の花魁衣装に戻っている。軽く腕を振り、体を動かしてみた。体のどこにも異常はない――と思ったのだが。
 「何だ、これ」
 胸の辺りがぼんやりと光っていることに気付いて素っ頓狂な声を上げる。服の下に手を入れて探ってみるが、自分の胸板の感触があるだけだ。痛くもかゆくも、熱くも冷たくもない。もちろん傷などもついていない。ただ光っているだけのようだ。
 「でかした」
 一輝はかすかに唇の端を持ち上げ、恋の胸の前に左手をかざした。
 光が強くなったようだ。暖色系の、白熱電球の明かりのような色の光。輝きを増した光は静かに恋の胸の上を離れ、掌に乗るほどの小さな球体を形作り、やがて――その中に、持ち手が三つ葉のクローバーの形をした鍵が現れた。
 ポチの瞳孔が大きく見開かれる。光が消えると一輝の手の中に音もなく鍵が落ちた。一輝が所持している「表の鍵」と同じデザインのものである。「表の鍵」は茶色に近い錆びた金色をしているが、こちらはくすんだ銀色であった。
 「裏の鍵、だ」
 銀色の鍵を恋の鼻先に差し出し、一輝はにやりと笑ってみせる。「さて、ここからが本番」
 チェーンから「表の鍵」を外して、「裏の鍵」と一緒に手の上に並べてみせる。その後で、タネもしかけもないことをアピールするマジシャンのように手を開いて恋の前に示した。
 一輝の手がぎゅっと握られる。閉じた指の間から細い光の筋が漏れた。そして開いた手の中からは、持ち手が四つ葉のクローバーの形をした金色に光り輝く一本の鍵が現れた。恋は「おお」と小さく声を上げて一輝の顔と鍵を交互に見比べた。
 「これが“鍵”の本当の姿さ」
 一輝は金色の鍵をスラックスにつけたチェーンに取り付け、言った。「表の鍵と裏の鍵は二本でひとつ……一体のものなんだ。助かったぜ、感謝してる」
 「鍵なんか持って帰って来てねえけど? 急に眠くなって、それで気が付いたらここに戻って来てて――」
 「質問に何て答えた?」
 「あ?」
 「聞かれただろ? このままずっと夢世界にいたいか、みたいなこと」
 「あぁ、あれ」
 恋は鼻からひとつ息を吐き出して答えた。「嫌だって答えたよ。夢なんてのはつまらんもんだから、ってさ」
 「正解。よくできました」
 一輝は軽い拍手とともに半分おどけて言った。幼稚園児をほめる優しい先生のような言い方で。小馬鹿にされたような気がしないでもないが、恋が口を開く前に一輝が言葉を継いでいた。
 「それが夢から現実へ戻ってくるための“裏の鍵”だ」
 一輝は拳の背で恋の胸をとんと叩いてみせた。「俺が持ってる鍵はゲートキーパーが扱いやすいように具現化されたただの器。本当の鍵はおまえのここにある」
 言わんとすることが分からずに、恋はやや眉根を寄せて一輝を見上げる。一輝は「だから」と笑って続けた。
 「夢はあくまで夢。帰るべき場所は現実。人の“現実世界に帰ろう”っていう意志こそが、こっちへ戻ってくるための鍵ってことさ」
 「……あぁ。なるほどね」
 こちらの世界に戻ってくる直前に聞こえたあの男の声が脳裏に蘇る。“鍵は既にあなたの中にある”。あの言葉の意味が、やっと分かった。
 「あ。でもよ」
 しかしその後ですぐに別の疑問が生まれ、恋は黒い髪の毛をさらりと揺らして一輝を振り返った。門番である一輝自身は夢の中に入ることができない、だから代わりに恋を行かせた。それはよしとしよう。だが、“鍵”となる答えが分かっているのなら、なぜ最初にそれを教えてくれないのか? 単純な二者択一とはいえ、もし答えを誤っていたらこちらに戻って来られたかどうか分からないというのに。
 恋が考えていることを察したのか、一輝はひょいと肩をすくめてみせた。
 「俺が答えを教えたら意味がねえんだ。あの質問の答えは、おまえが自分で考えて出した答えじゃないと駄目なんだよ」
 分かったような、分からないような。理由になっているような、なっていないような。煙に巻くようなひどく中途半端な答えであったが、恋は「ふうん」と鼻を鳴らしただけであった。理由はどうあれ無事に戻って来られたわけだし、恋にとってはさして重要な問題でもないからだ。
 「ところで……もうちょっと詳しく聞かせてくれねえか? おまえの答え」
 「答え? 何の?」
 「夢の中での質問のだよ。なんでノーって答えたか」
 「あぁ」
 恋は大して興味もなさそうに応じ、左右に一度ずつ首を傾けた。固い床に寝かされていたせいですっかりこってしまった首がこきこきと軽快な音を立てる。
 「さっきも言ったけど、夢ってのはつまんねえもんよ。俺、現実主義だし? 厳しかろうが甘かろうが現実好きだし」
 それにさぁ、と恋は更に付け加える。「あの場面でイエスって言ったらなんか雑魚っぽくてヤダ。っつーわけでノー」
 恋の言葉が終わるのを待っていたかのように一輝の哄笑が響いた。天井を仰ぎ見んばかりに上体を反らし、腹を抱えるようなしぐさまでつけて。
 「おもしれぇなぁ。現実主義か、なるほどなるほど」
 「悪魔ってのはそんなもんよ。人間に夢見せてなんぼっていう奴もいるしなぁ」
 「そうか、悪魔か。そういえばそうだったな」
 一輝の笑いは止まらない。くくく、と心底愉快そうに喉を鳴らしながら恋の肩をぽんぽんと叩く。
 「ほんっとおもしれぇな、おまえ。また来いよ? おまえなら面白いことをしでかしてくれそうな気がする」
 「悪魔に命令すんじゃねぇよ、バーカ」
 恋は舌を出し、一輝に向って中指を突き立ててみせた。 (了)
 
 



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 5326/恋・―(れん・ー)/男性/14歳/悪魔



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■         ライター通信          ■
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恋様



お初にお目にかかります、宮本ぽちと申します。
ご注文まことにありがとうございました。
納期ぎりぎりのお届けになってしまい、申し訳ありません。

さて、いかがでしたでしょうか…。
『だらだら生きる』とのことで…具体的にどんな感じにしたらいいのか悩みましたが、こんな流れで仕上げました。
プレイングの雰囲気からいって、シリアスになるよりも気楽に過ごしていただくことに重点を置けば良いのかなと感じた結果でした。

楽しんでいただけることを祈るばかりです。
ご注文、重ねてありがとうございました。
またいつかお会いできる機会に恵まれれば光栄です。



宮本ぽち 拝