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<東京怪談ノベル(シングル)>


最初の晩餐 ―天狗と猫とカツ丼と―





 武骨な手によって目の前に置かれる蓋つきの丼。その脇には汁椀と漬物、つけ合わせの小鉢。小鉢の中身は酢の物のようだ。
 「代金はいつも通りで頼む」
 無愛想なデスクの上に食事を並べていく丼屋の店員に北浦一輝は鷹揚な口調で告げる。五十がらみの男性店員は親しみのこもった笑みとともに一輝に頭を下げた。
 「いつもごひいきに、坊ちゃん」
 「坊ちゃんはやめろって言ってんだろうが」
 一輝は店員を追い払うように片手を振る。店員は「へいへい」と笑い、来た時と同じように岡持ちを提げてオフィスから出ていった。
 店員の足音が遠くなったことを確認してから、天波慎霰は一輝に向き直る。
 「何だよ、これ」
 「カツ丼。絶品だぞ」
 「そうじゃなくてよ」
 カツ丼は嫌いではないし、事実、蓋をしたままの丼からは食欲をそそる香りが立ち上っているが、それはともかくとして。慎霰は与えられた回転式の椅子に前後逆に腰かけたまま一輝に詰め寄る。
 「なんでわざわざカツ丼なんだよ?」
 「飯おごれって言ってここに来たのはおまえだろうが。茶飲むか?」
 「そういうことじゃねぇんだって」
 一輝が差し出した湯呑を受け取りながらも慎霰はがりがりと頭をかきむしった。「もっとこう……あるだろうが! あの夢に出て来たような豪華な飯とは言わねぇが、それなりのフルコースみてぇなのとかよぉ!」
 「フギャッ」
 だん、と床を踏み鳴らした慎霰の剣幕に驚き、白黒のブチ猫が不細工な悲鳴を上げてのそのそと逃げていく。
 最初にこの『オフィス北浦』を訪れた時、慎霰は一輝の依頼を受けて“裏の鍵”を探しに夢世界へと赴いた。憂さ晴らしにちょうど良いという理由で。その際慎霰がつけた条件が「夢がつまらなかったら食事をおごれ」というもの。そして夢の内容にやや不満を持った慎霰は、一輝に約束を果たさせようとこのオフィスに再びやって来たのである。高そうなスーツや靴を身に着けている辺りからしてたいそう金を持っているのだろう、いいものをおごってくれそうだと期待に胸を膨らませながら。
 が、一輝が選んだのはカツ丼であった。しかも出前の。
 入ったこともない高級な店で食べたこともないような高価なディナーをおごってもらえるとばかり思っていた慎霰の落胆ぶりは想像に難くない。
 「金持ってるくせに出前かよ。さてはてめぇケチだな?」
 「おいおい、そりゃあ誤解ってもんだぜ天狗様」
 一輝の言い回しは洋画の吹き替え版のように大袈裟であった。肩をすくめ、両掌を天井に向けてみせるジェスチャーもこれまた大袈裟である。
 「考えてもみろよ。金があったらこんなオンボロオフィスなんかにいると思うか?」
 「む」
 一理ある。だが、「でもよ」と慎霰は反論した。
 「結構いい服着てんじゃねぇか。実は金持ちのボンボンなんじゃねえのか?」
 「それはトップシークレット」
 一輝はぱちんと片目をつぶり、顔の前で人差し指を立てて振ってみせた。やはりどこかおどけた、滑稽なしぐさである。
 「俺みたいなイケメンが金持ちのお坊ちゃまなんて知れたら世間の女どもがほっとかねぇだろ? 色男は素性を隠しておくに限るのさ」
 「何が色男だ」
 慎霰は軽く舌打ちした。気取ったジェスチャーも自意識過剰な台詞もわざとそうしていることがはっきりと分かるからであろうか、それほど厭味には感じない。しかしそれが逆に憎たらしいし、気に食わないことも確かだ。
 「その“金持ちのお坊ちゃま”が、こんなオンボロオフィスで何やってんだよ?」 
 「質問ばっかりだな」
 一輝の目がすいと細められる。その後で唇の端にあの意地の悪い笑みが浮かんだ。
 「さてはおまえ、俺に興味があるのか?」
 「馬鹿言ってんじゃねえ! 誰がてめぇなんか」
 慎霰は必要以上に語気を荒げて両の掌をデスクの上に叩きつける。その剣幕に怯えたブチ猫が耳を後ろに倒し、のそのそと一輝の後ろに隠れてしまった。ムキになるなよ、と一輝にいさめられて慎霰は唇をへの字に結ぶ。確かに、ムキになって否定しなければいけないような場面ではないだろう。大声を出す必要もなかったかも知れない。
 だが、なぜか感情がたかぶったのだ。単に言われたことが不愉快だったせいであろうか。それとも、本心を指摘されて本能的に反発してしまったとでもいうのだろうか。
 では、本心を指摘されて不快になるのはなぜか。
 それは自分がその本心を認めたくないからだ。
 単純明快なそのロジックを打ち消しつつも、思わず内心で舌打ちが出る。なんだか面白くない。前回もそうであったが、この男の前に立つとなぜこんな心持ちになるのであろう。
 「まぁ……その、なんだ」
 慎霰は腕組みをしてどっかりと椅子の上にあぐらをかいた。「要するにうさんくせぇんだよ、おまえ。こんな所でオフィス構えて仕事は何やってんのかとか、気になるじゃねぇか」
 台詞の最後に「ごく一般人の感覚としてな」と付け加えることも忘れない。一輝は「成程」と応じ、喉の奥で軽く笑った。
 「前は探偵やってたんだよ。今はこの通り廃業したが」
 「へぇ。なんで探偵なんかやってたんだ?」
 「探偵やってりゃいろんな人間のいろんな噂が耳に入ってくるだろ」
 ひとつ肩をゆすって一輝は自嘲気味に笑う。「探し人の手がかりも見つかりやすいかも知れないと思ってな」
 「誰か探してるのか?」
 「弟とお袋」
 「あ?」
 思わず声高に聞き返す。一輝は目を細めて慎霰を見、かすかに口の端を歪めた。
 「弟とお袋がいなくなっちまったんだ。俺を置いて。で、探偵の仕事やってりゃ何か手がかりみたいなもんを掴めるかと思ったんだが、やっぱ甘くねえよな。手がかりらしい手がかりはゼロさ」
 自嘲気味の乾いた笑み。慎霰はやや視線を伏せ、口をつぐんだ。単なる好奇心ゆえの質問だったのだが……。嫌なことを思い出させてしまったのかも知れない。
 「あー……なんつーか、その……」
 きまり悪そうに頭をかきながら何とか言葉をかけようと慎霰が四苦八苦していると、一輝は不意に小さく笑った。初めはくくくと喉を鳴らすようなあの笑い方であったが、すぐに大きく口を開けた哄笑に変わる。
 「どうだ、今の話?」
 「……あ?」
 「じーんと来なかったか? 飲み屋のお姉さん方には結構ウケるんだが」
 一輝の笑いは止まらない。何を言っているのか分からず、慎霰はぽかんと口を開ける。だがそれもほんの一瞬で、次の瞬間には顔を真っ赤にして拳を繰り出していた。
 「からかいやがったのか!」
 「悪い悪い、男にも試してみたかったんだよ」 
 一輝はまだ笑っている。笑いながら慎霰の拳を左手で受け止め、押し戻した。「それより早く食おうぜ。冷めちまう」
 パイプ椅子に腰かけ、一輝はパキッと音を立てて箸を割る。慎霰はまだ何か言いたそうに口をむずむずさせるが、何となくそのタイミングを失ったような形になって割り箸を手に取った。この寒々しいボロオフィスで出前のカツ丼を割り箸でつつく羽目になるとは思っていなかった。この部屋の無愛想さと相まって、警察の取調室にでもいるようかのな感覚にすら襲われる。
 「ったくよぉ……なんでカツ丼なんか……お?」
 ぼやきながら丼の蓋を取った慎霰であったが、漂う香りにぷくりと鼻の穴を膨らませた。ダシは鰹か、それとも昆布か。いや、そんなことはどうでもいいし、どっちだって大差ない。じんわりと立ちのぼる湯気の中から現れたのは半熟卵でとじられた肉厚のカツ。衣は美しいきつね色。切り口からは澄んだ肉汁があふれているのが見てとれる。慎霰はやや性急な手つきで箸を割り、早速カツの一枚を口に運んだ。湯気や卵の水分にもめげず、さっくりとした歯ごたえを保っているのはどういうわけであろう。とろりとした卵に程良く閉じ込められたダシの味と肉が絡まり、噛むほどに旨みが広がっていく。代々受け継がれてきた伝統ある職人の手によるものであることがうかがえた。
 もっとも、そんな熟練した職人の味と技も慎霰にかかれば「うめぇ」の一言で片付けられてしまったのであるが。
 「うめぇだろ、カツ丼『なんか』も」
 悪戯っぽい一輝の笑みに気付き、慎霰ははっとして丼から顔を上げる。いつの間にか夢中になって黙々と食べてしまっていたらしい。慌てて箸を置いてわざと仏頂面を作ってみせるが、一輝はげらげらと声を上げて笑った。もっとも、口をもぐもぐさせながら頬についたごはん粒やカツの衣のかけらを懸命に拭う慎霰を見れば一輝でなくてもそうしたであろうが。



 「そんでよぉ、言ってやったんだ」
 丼片手に慎霰の自慢話は止まらない。「“悪者退治を気取るならせめててめぇの力でやりやがれ、天狗様のフンドシで相撲取って偉そうにしてんじゃねえ!”ってな」
 箸を持った拳が右ストレートでも繰り出すかのように大きく突き出された。一輝はデスクの上に頬杖をつき、天狗の妖具が絡んだ事件を警視庁の某エリート管理官と一緒に追いかけた時の武勇伝を語って聞かせる慎霰をにやにやしながら眺めている。
 「ほぉ。しかし、よく警察が民間人に協力してくれたもんだな?」
 「警察にはツテがあるんだ。俺の力で何度か事件を解決してやったことがあるからな。っていうか、その赤天狗の時はそいつのほうから俺に協力を要請してきたんだしよ」
 そいつ、というのはその管理官のことである。もっとも、『協力を要請された』などという平和的な経緯ではなかったわけだが。どちらかというと『脅された』と言ったほうが適切だ――が、それは一輝に明かす必要もないし、明かす気もない。
 ブチ猫が慎霰の足元で空の丼を舐めている。猫は魚が好きなんじゃねえのかと思いつつ、慎霰は膨れた腹をさすりながら椅子の背に体を預けた。既にカツ丼を二杯平らげ、三杯目に手をつける前の小休止である。一輝は新しい茶を淹れると言っていったん席を外した。
 改めてオフィスの中を見回してみる。コンクリートがむき出しになった殺風景な空間だ。置かれている調度品も必要最低限のもの。だが、壁を埋めるいくつもの扉がただの四角い空間ともいえるこの部屋を特殊たらしめている。
 「なぁ」
 ポットと急須を手に戻って来た一輝に慎霰は尋ねる。「あの扉、なんであんなにたくさんあるんだ?」
 オフィスの壁一面に埋め込まれた『扉』。“現実世界と夢世界を繋ぐ”というその役割からすれば、ひとつあれば足りるように思える。
 「そりゃおまえ、あれは現実と夢を繋ぐ扉だからさ」
 いくつもあって当たり前だろ、と一輝は乾いた笑いを浮かべて慎霰の湯呑に茶を注ぐ。「前にも言ったかも知れねえが、夢ってのは多かれ少なかれ人の願望でできてる。ってことは夢もひとつじゃねぇってことさ。人がいろんな望みを持つようにな」
 答えになっているような、なっていないような。曖昧な返答である。慎霰は「ふん」とひとつ鼻を鳴らし、三杯目の丼の蓋を取った。においを嗅ぎ付けて足元に擦り寄ってくるブチ猫をにべもなく「しっしっ」と爪先で追い払う。
 「でも、夢世界ってのはあの“塔”のことなんだろ? “塔”はひとつだけなんじゃねぇのか?」
 行き先がひとつならばそこに繋がる扉もひとつだけで良いはずだ、という慎霰の指摘に一輝はにやりと笑う。底意地の悪い笑みだ。馬鹿にされている。そう感じた慎霰は抗議しようとしたが、「いいか」という一輝の言葉によって先手を取られていた。
 「どこの国の誰だったかねぇ。確かお偉い心理学者だったと思うが、こんなことを言ってた」
 もったいぶった前置きに続いて、一輝の人差し指が慎霰の鼻先で振られる。「人は誰でも、心の中に四つの窓を持ってるんだとよ」
 「あ?」
 「自分からも他人からも見える窓、自分からは見えるけど他人からは見えない窓、他人からは見えるけど自分には見えない窓、そして、自分にも他人にも見えない窓。“窓”を“自分自身”って読み替えてみれば分かりやすいかも知れねぇが」
 朗々とした一輝の口調とは対照的に、難解な専門書の文面でも追うかのように慎霰の眉がぎゅっと中央に寄る。
 「つまり、おまえというひとつの器の中に四種類のおまえがいるってことだ」
 一輝は拳の背で慎霰の胸板を軽く叩いた。「それと同じさ。ひとつの塔の中にいくつもの世界があってもおかしくねぇだろ?」
 分かったような、分からないような。眉間に深い皺を寄せたまま慎霰は首をかしげる。
 「よくわかんねえけど、結局、あの扉ひとつひとつが違う夢に繋がってるってことか?」
 「ま、概ねそんな感じだ」
 「ふうん」
 と慎霰は鼻を鳴らす。だが納得はしていなかった。夢の内容は扉によって違う。だが、扉の先にあるのは同じ“塔”。映画館みたいなものなのだろうか。ひとつの劇場で複数の作品を上映する映画館に喩えればすんなり腑に落ちる気がしないでもない。いや、それも少し違うような……。考えれば考えるほどこんがらがり、慎霰の脳の配線はぷすぷすと音を立てて焦げつきつつある。
 そんな様子を見透かしたのであろうか、一輝はデスクに肘をついて軽く身を乗り出すような姿勢を取った。
 「なんか聞きてぇことでもあんのか?」
 愛想のないコンクリートの部屋。スチールのデスク。目の前にはスーツの男。ご丁寧にカツ丼という小道具まで揃っている。これでスタンドライトでもあればまさに取調室といった風情だ。先に質問をしたのはこちらであるというのに、逆に尋問されているような気分になってくる。
 「別にぃ」
 だが、慎霰はぷいと顔を背けて椅子の上であぐらをかいた。「こんな場所にこんなたくさん扉があったら、誰だって不自然に思うだろうが」
 「それなら自分で行って確かめてみるか? “鍵”はちゃんと持ってるし、自由に行き来できるぜ」
 「今日は遠慮しとく。また変なもんが出て来たらめんどくせぇからな」
 「ほぉ」
 慎霰を覗き込む一輝の目がまたすうっと細まった。「変なもんが出て来たのか? この間の夢に」
 「う・る・せ・え。じろじろ見るんじゃねえよっ」
 慎霰は箸と丼をデスクに置き、椅子についたキャスターをキュルキュルと軋ませながら一輝と距離を取った。その隙にブチ猫がのそのそとデスクに近付いていくが、慎霰は気付かない。
 「ちょっと不思議なんだよなぁ」
 さりげなく質問の続行を試みる。なるべく一輝と目を合わせないようにしながら。「おまえ、『夢の世界では何でも思うがまま』って言ってたじゃねぇか」
 「ああ。結構楽しめただろ?」
 「そうでもねえよ。気に食わねぇもんが……」
 と言いかけて慌てて「いや」と打ち消す。「……気に食わねぇ酒や料理が出て来たりして、俺の思いのままってわけでもなかったぜ。おまえイカサマしてねぇか?」
 「イカサマとは、こりゃまたあんまりな言い方で」
 一輝はまた大袈裟に言い、両の掌を上に向けて脚を組んでみせた。
 「俺はゲートキーパー。ただの門番さ。あくまで『扉』の開け閉めをするだけ。向こうの世界で何が起こるかなんて、俺の与り知るところじゃ――」
 「それは前も聞いた」
 声にやや苛立ちをにじませ、一輝の言葉を遮る。「俺の望みが何でも叶うってんなら、なんで俺の好かねぇもんまで出てくるんだよ?」
 「じゃ、おまえは自分が見たい夢の内容を自分でコントロールできるのか?」
 「あ?」
 まただ。また質問を質問で返された。ちゃんと答えろ、と口を開きかけた慎霰であったが、案の定また一輝が「例えば」と人差し指を立てて機先を制していた。
 「布団に入る前に、今夜はあんな夢が見たいな、こんな夢が見たいな、なんて考えたとする。んで、その夢のことを想像しながら眠りについたとして」
 一輝は組んだ脚をほどき、デスクの上に両肘をついて両手の指を組み合わせた。外国人めいた大きな唇にまた意地の悪い笑みが浮かんでいる。
 「自分の希望通りにその夢を見られるか?」
 「……む」
 慎霰は軽く唸って腕を組んでしまった。確かに、見ようと思った夢が見られるとは限らない。むしろ希望通りの夢が見られることなど稀な気がする。しかしそれとこれとは別ではなかろうか。もっとも、どこがどう別なのかと問われればうまく説明はできないのだが。
 「な? 願望が常に願望通りに現れるとは限らねえんだよ」
 煙に巻くような一輝の口調が混乱に拍車をかける。何も言わずにふくれっ面を向ける慎霰に一輝は声を上げて笑った。
 「もっと言えば、そうだな、さっきの“窓”の話」
 「四つの窓ってやつか?」
 「ああ。人は誰でも、自分からは見えない窓を持ってるって言ったろ。自分の心には自分でも見えない部分がある。それと似たようなもんで、自分の願望を自分がちゃんと認識してるとは限らねえのよ」
 「……何?」
 慎霰の眉尻が険しい音とともに吊り上がる。それに気付いていないのか気付かぬふりをしているのか――この男なら恐らく後者であろう――、一輝は「分かりやすく言い換えると」と言葉を継いだ。
 「人は誰でも自分の知らない自分を持ってる。それと同じで、自分が知らない自分の望みってのも少なからずあるってことさ」
 慎霰はやや斜めに首を傾け、じっと一輝を見据えていた。
 自分が認識していない願望。自分の知らない望み。
 ……いや。それはやや不正確であろう。認識していないわけではないし、まったく知らないわけでもない。ただ、その存在を認めたくないだけなのだから。
 (……やっぱムカつく。こいつ)
 得体の知れぬ笑みを浮かべながらこちらの様子をうかがっている一輝の視線に本能的な反発を覚える。ならばこんなオフィスなど訪れなければいいだけの話なのだが、いけ好かない奴だと思いつつも慎霰は再びこの場所にやって来てしまったのだ。その理由が自分でも何となく分かっているからこそ余計に不愉快なのかも知れない。
 年長の男は嫌いだ。
 だが、一輝のことを拒絶したいとまでは思わない。
 ……でも、自分は年長の男が嫌いだ。
 これも“窓”なのだろうか。自分から見えない、自分の目からも他人の目からも隠したい場所にある“窓”。慎霰は思わず視線を伏せ、しばし無言のまま考え込んでしまう。
 が。
 その時、のそり、と視界の端を白黒の毛が横切った。
 同時に一輝が笑い声を上げる。
 このずんぐりした体でどうしてと思うほど俊敏な動きであった。慎霰がデスクに置きっぱなしにしたカツ丼を虎視眈々と狙っていたブチ猫が、丸い体をしならせて跳躍していた。伸ばした爪がデスクの縁にひっかかる。そしてするりとデスクに上り、食べかけの丼から鮮やかにカツを奪い取ったのだ。
 「てめえ!」
 慎霰が椅子から飛び降りた時には既に遅かった。ブチ猫は一目散にオフィスの隅まで駆けていき、慎霰に背を向けて獲物を頬張っている。愛想のない顔で、時折勝ち誇ったように慎霰を振り返りながら。
 「返せ馬鹿、それ最後のひとつだったんだぞ!」
 くどいようだが、遅かったのである。慎霰が大事にとっておいた最後のひときれは、ずんぐりむっくりの野良猫の胃袋にきれいにおさまっていた。猫は怒りに任せて突き出された慎霰の腕をひょいとかわし、食後の毛づくろいを始める。その余裕たっぷりのしぐさがこれまた憎たらしい。
 「この……てめぇ猫だろうが! 猫のくせになんで肉なんか食うんだよ! 魚食ってろ魚!」
 「猫は油が好きなんだよ。行灯の油を舐める化け猫の話とか、聞いたことねえか?」
 悠々と身だしなみを整える野良猫のそばで地団駄を踏む慎霰の頭に、ぽんと一輝の手が置かれた。「っていうか、食えるもんは何でも食わなきゃ野良なんてやってられねえだろ」
 反射的に一輝を見上げた慎霰の唇がむずむずと動く。上から押さえられるような感覚はやはり不愉快だが、大きな手で頭を撫でられているようにも感じられてわずかな心地良さを覚えていた。
 だからこそどこか不快でもある。胸の辺りでうずいているこのむかつきは、大量に摂取した揚げ物の油のせいではあるまい。
 「許してやれって。カツ丼ならいつでもおごってやるよ、食いたくなったらまた俺ん所に来い」
 「……ケッ」
 やや間を置き、露骨な舌打ちをして慎霰はぷいとそっぽを向いてしまう。
 “誰がおまえなんかに会いに来るかってんだ”。
 喉元まで込み上げたその台詞は、やはり声にはならなかった。(了)