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<東京怪談・PCゲームノベル>


桜媛奇譚――飽贄の章・壱――



■ 露月王 ― 初秋 ―  ■

 夏を経て、少しづつ秋の気配が漂い始める。
 依然日差しの強さは変わらないものの、そこにうだるような暑さは無く。傍らを掠めてゆく風は冷涼で、随分と過ごしやすくなっていた。
 まだ紅葉には早いが、秋特有の陽光を受けた木々は、夏とは違った艶やかな色彩を帯び始めている。
 その光の中で、一人の女が静かに呂の鳥居を見上げていた。
 赤とも黒ともつかない不思議な色合いの長い髪に、紅の瞳。均等の取れた顔立ちは、ややきつい印象を受ける。だが、女の身の内から出る圧倒的な存在感の方が、より周囲に畏怖の念を抱かせた。
 参道に植えられた木々がざわめいている。
 木々が葉を揺らし枝を枝垂らせる様は、まるで女に敬意をはらい、頭を垂れているようにも見える。だが女はそれをまるで意に介さず、不愉快そうに表情を歪ませた。
「嫌な土地だこと……」
 吐き捨てるように女が呟く。
「この私が春の眷属を助けるなど……そうは思わなくて? 蔓王」
 煩わしげに鳥居から視線を背けると、女は蔓王の名を呼びながら、参道の一点を見据えた。
 程なくして、女が視線を向けた場の空気が歪み始める。歪みは次第に大きさを増し、波紋の形状を成してゆく。
 女が無言でそれを見つめていると、やがて波紋の中央から一筋の風と共に蔓王が姿を現した。
「……お久しぶりです。露月王姉さま」
 蔓王は真顔のまま女へと静かに頭を下げる。だが、露月王(つゆつき)と呼ばれた女は不機嫌なまま端的に言葉を放った。
「一体これは何なの?」
 露月王の射抜くような視線に、蔓王が思わず閉口する。

 村の中核を成す三つの鳥居と神社。そしてその最奥に在る神木桜。
 呂の鳥居とそこに張られた注連縄を一目見ただけで、露月王はそれが何を意味しているのかを理解していた。
「人間に関わると、ろくな事にならないという典型を見ているようね」
 蔓王に呼ばれて来てみれば、とんでもない災厄が自分を待ち構えていたものだと、露月王は鼻で笑う。対して、蔓王は切実に露月王へと嘆願する。
「夢の外は夏のままですが、夢内には秋が訪れます。姉さまの支配下に入りますので、僕はこの夢の中には留まれません。お嫌かもしれませんが……」
「解っているのなら、何故この私を呼んだの」
「…………」
 蔓王が人間に親しみを抱き、自ら近づこうとするのに対し、露月王は必ず一線を引いて接した。
 人間は常に二つの事物を比較し、物事に優劣をつけることを好む。力を有するものに迎合し依存もするが、事が及んで集団化すると途端に手のひらを返して敵意をむき出しにする。そんな人間の性質を、露月王は酷く嫌っていた。
 だから、蔓王が神木桜に宿る神を助けたいと思い、村人たちの苦しみに心を痛めていると解っていても、露月王がそれに感化される事は決してない。
 神と人間は決して相容れない存在(もの)だと、露月王は心のどこかで割り切っていた。
 露月王は一度深い溜息を吐くと、俯いている蔓王の顎に人差し指を当てて己の方へ顔を向かせた。
「いいこと? 夢へ入り込んだ人間達に危険が及ぶようであれば助けてあげる。でもそれだけ。私は一切関わらない」
「……はい。皆さんには、僕から姉さまの事を伝えておきます」
 蔓王の言葉を聞くと、露月王は再び溜息をつきながら空を仰いだ。
 木々の合間から覗く空は何処までも青く澄み渡り、木漏れ日が揺らいで大地に細やかな陰影を作っている。あと数ヶ月もすれば、この世界は艶やかな錦の色に染め上げられるだろう。
「本当に……嫌な土地だこと」
 美しいのは表面上だけだと告げる露月王に、蔓王は返す言葉を見い出せなかった。



■ 承前 ― 晩秋 ― ■

 御流神社の御縄結いが終わった後、夢を渡った五人は雄滝村にある一軒の空き家へと身を寄せていた。
 三室しかない平屋ではあるが、呂の鳥居のすぐ近くに建てられている所為か、屋根や土壁に綻びもなく、他の民家と比べればまだましな造りだ。
 そんな平屋の土間にある連子窓から、芳賀百合子は随分と長い間外の光景を眺めていた。

 村の木々が艶美な色合いを呈し始める、晩秋。
 秋の深まりと共に風は冷たさを増し、それに揺られて、色づいた木々が葉を参道へと落としている。その所為か、質素極まりない村の雰囲気が一転し、どこか華やいでいるようにも見えた。
「紅葉はきれい。でも……冬が来るの、嫌だな」
 ぽつりと呟き、百合子は微かに視線を落とした。
 夏に川辺で水遊びをした。それをつい昨日の事のように思い出せるのに、季節は音もなく過ぎ去ってゆく。
 殊に秋から冬へと移り変わる時期は、自分一人が取り残されているような心持になって、漠然とした焦燥感に苛まれる。百合子はそれが好きではなかった。
 百合子は瞳を閉じると、心の中に在る感情の一切を払拭するかのように、一度大きく深呼吸をした。その時。
「百合子さんじゃないですか。こんな所でどうかしたんですか?」
 そんな穏やかな声が聞こえて思わず振り返ると、そこには、きょとんとした様子で百合子を見つめる樋口真帆の姿があった。


 水を飲む為に土間へ足を運んだ真帆は、障子戸を開けた先に百合子の姿を見つけると笑顔を向けた。
 ふらりと部屋を出たまま戻ってくる様子もなかったから、てっきり百合子は外へ出たのだとばかり思っていた。一体何をしていたのだろうと不思議に思いながら、真帆は靴を履いて土間へ降り立つと、百合子の傍らまで歩み寄った。
 百合子は曖昧な微笑みを浮かべながら、連子窓の向こうに見える景色を指差してくる。
「何となくね、秋だなぁって……思ってたの」
 土間の連子窓は参道に面している。そこから臨めるのは御流神社へと続く道筋だ。
 紅葉の舞い散る中、村の子供達が参道を走って神社へ向う姿が視界に入り込む。雨歌の元へ遊びにいくのだろうか。
 木枠に細い枝を差し込んでいるだけの連子窓からは、当然のように外気が流れ込んできて、真帆は思わず己の頬に両手を当てた。
「随分と寒くなりましたよね」
「うん。夢の外はまだ夏だなんて、嘘みたいだね」
「……そういえば、蔓王さんはもうこの夢の世界には居ないんでしょうか」
「夏の気配はもう無いから、多分」
 真帆の言葉に、百合子が頷く。

 夏から秋へと移り変わる頃、蔓王が全員の前に姿を現した事があった。
 夢とはいえ、夏が去ればこの場に留まる事は出来ない。そう言って自分達に頭を下げる蔓王の姿はとても痛々しく見えた。だからこそ、心配しないでと笑顔で蔓王を見送ったが、やはり不安が無いといえば嘘になる。
 そんな気持ちを察したのか、百合子が真帆へと笑顔を見せた。
「でも蔓王のかわりに秋の神様が私たちを護ってくれてるって、言ってたし」
「露月王さん、でしたっけ。まだ一度も姿を見せてくれませんよね。どんな方なんでしょうか」
 飽贄の祭りが執り行なわれるのは明後日だ。けれど依然として露月王が自分達五人の前に姿を現す事は無かった。
「……露月王も神木桜の神さまも、どこにいるのかな」
 何事も無く、ただ静かに時が流れてゆく。
 この静寂が一体いつまで続くのか。誰もがそれを思いつつ、口に出せずにいた。

 百合子と真帆の間に沈黙が流れた時。
「二人とも、ここに居たのか」
 背後からそう声をかけてくる者があった。
 二人が同時に振り返ると、開け放たれた障子戸の奥から、榊紗耶がこちらへ向って歩いてくるのが見えた。紗耶は静かな口調で二人を促してくる。
「奥に、皆揃っている。そろそろ始めるから……」
「あ、はい! 百合子さん行きましょう」
 真帆の呼びかけに、百合子も慌てて頷いた。

 飽贄の祭りの前に一度全員で集い、互いが持ちうる情報を交換し合おうと言ったのは紗耶だった。
 蔓王が居らず、露月王も自分達の前に姿を現さない今、頼れるのは同じ境遇にある五人だけだ。
 夢見の力で「自分達はこの村の住人だ」と村人や夢主に思い込ませてはいるものの、実際は御縄の儀で村の在りようを垣間見たに過ぎない。
 この先何が起こっても柔軟に対応する術を持つ為には、何より互いが協力し合う事を考えなければならないと紗耶は考えていた。
「少しでも、見えないものが見えてくるといいけれど……」
 何かを為せるのならと、蔓王と約束した。その思いが紗耶を駆り立てていた。
 百合子と真帆が土間からこちらへ上がってくるのを見届けると、紗耶はそのままゆっくりと踵を返して奥の部屋へと歩き出した。


*


 始まりは『伊の鳥居』。
 そこから長い参道を経て御流神社の『呂の鳥居』へ辿り着く。
 鳥居を抜けた奥には拝殿が置かれ、拝殿から橋を渡った先に在るのが神楽殿。
 神楽殿から本殿までは山道になっており、蛇行しながら山を登っていかなければならない。
 御縄結いの儀式で山を登った時は、道の両脇に置かれた石灯籠に火を灯しながら向ったからかなりの時間を要したけれど、実際の距離はどれくらいだろう。
 やがて『波の鳥居』と本殿を抜けると、その先には御神体である桜の木が祀られている――。


 奥の部屋に集った五人は、藤宮永を中心にして円陣を組むように座り込んでいた。
 藤宮永と冷泉院蓮生の二人もまた、男子禁制のきまりを反故に、蔓王の力を借りて御神木のもとへ行った。だが、実際に拝殿を抜けて波の鳥居までを歩いたわけではないから、その道程を知らない。だからこそ、まずは村の地図を紙に書き出し、その全貌を掴もうということになったのだ。
 簡略化した地図だが、漠然と頭の中で捉えるよりも視覚的に捉えた方が、全体像を掴みやすい。
 やがて、一通り村の地図を書き終えた頃、蓮生が地図を眺めながら呟いた。
「……拝殿から神木桜まで、随分長い道程だったんだな」
 永は筆を置くと、蓮生の言葉に頷いて返す。
「そのようですね。私達は夏神様の力をお借りしましたから、神木桜まで一瞬で辿り着けたのですが……」
 改めて地図に視線を落とした永は、ふとあることに気付いて顔をしかめた。
 その様子に、紗耶が首を傾げる。
「永さん、どうかしたのか?」
「いえ。奇妙な村だと思ってはいましたが、こうして地図にしてみると、それがいっそう際立つと思いまして」
 永に言われて、全員が半紙に描かれた地図へと視線を落とす。
 永が再び口を開いた。
「まず『伊の鳥居』から神楽殿までの道程ですが、建物を除外すると一直線上に道が出来ています」
 永は、半紙に記された地図をゆっくりと指し示しながら話を続ける。
「ですが神楽殿を抜けた途端、急激に道が蛇行し始める。この境が極端過ぎるのですよ。どこか、違和感を感じてなりません」
 確かに神楽殿を境にして、それまで直線だった参道が歪みを帯びる。
「そういうものだ」と言ってしまえばそれまでの事だが、ともすれば見過ごしてしまいがちな村の構造に、永は疑問を抱いた。
 そんな永に対し、真帆が顔を上げて一つの推測を呈してくる。
「神楽殿から奥は山に入るからじゃないですか? 流石に、山道に逆らって真っ直ぐにご神木のある場所まで登って行くのは難しいと思います」
 地形上やむを得ないのではないかと言う真帆の言葉に、永は考え込むように沈黙した。


「道は別として、ご神木である桜……不思議な桜だったな。声が聞こえないといっていたか」
 そう言ったのは紗耶だった。
 真夏であるにも拘らず、神木桜は満開に咲き誇っていた。だが、一緒に行った百合子がどんなに呼びかけても神木が言葉を返してくれる事は無く、そこに神の不在を知ったのだ。
 本来あるべき場所から離れた神は無事で居るのだろうか。

 室内に、束の間の沈黙が訪れた。
 ややあって、永は村の地図を眺めながら思案げに腕を組むと、その沈黙を破った。
「桜さんが仰るには、この村では、あえて姫神の力を神社の内に封じ込めているそうです。ですが蓮生さんが村長(むらおさ)から聞いた話と、桜さんの話は些か食い違うのです」
「食い違い、ですか?」
 真帆の問いかけに、蓮生は全員を見渡しながら村長から言われた事を口にする。
「大昔、神木桜の根元で村の男が殺されたと聞いた。血の穢れに触れた神木姫神がそれを怒って村に旱魃を招いていて、村人達は姫神の怒りを静めるために、神木桜を祀っているって……」
 神の力を故意に封じているという桜。
 怒りに駆られて雨を降らせない神に祈りを捧げているという村長。
 何故二人の話が食い違っているのか。
 元々村に住んでいるわけでもない五人が、それを考えたところで答えなど出るはずもない。

 永は組んでいた腕を緩めると、やがて全員へとこう告げた。
「とりあえず飽贄の祀りは明後日ですし、短い期間ですが各自で色々と調べてみましょう。神木桜から離れてしまった姫神の事。三つの祀りの真に意図するところ。ほんの些細な事でも、知りえた情報は共有しておいた方が良いでしょう」
 永の言葉に、全員が同意を込めて頷いた。
「私と真帆さんは神楽の練習もあるし……自由に動ける時間は少ないけれど」
「はい。でも少しでも合間を見つけて、村の方々から情報を得てみます」
 紗耶と真帆が交互にそう告げる。
 次いで言葉を発したのは蓮生と百合子。
「俺は、神楽を見せてもらおうと思うけど、直接参加するわけではないから、何か手掛かりになるようなことが分らないか、巫女の桜やこの村の自然と話してみようと思う」
「うん。私は神楽に参加しないし、時間もあるから……」
 ここに来た理由は、祭りを楽しむ為ではない。哀しみの念に捉われ続けている神木桜の神を救い出す事だ。
 限りある時間の中で少しでもこの夢をよい方向へ持って行きたいと思う気持ちは、全員同じだった。
「飽贄の祀り……神の心を癒す為という話ですが、果たして本当に神の心は癒されるのか。囚われの姫の御機嫌伺いにしか思えません。捕らえた側の自己満足ですか、ね」
 永は独り言のように呟くと瞳を閉じた。

 村の祀り神。
 旱魃から逃れる為に神へ縋る村人達。
 その神の言葉を聞き、神哭の祀りで神の力を解き放つ役割を担う巫女。
 それぞれがどのようにして動き、何を為そうとしているのか。
 見えそうで見えない真実を見定める為に、夢を渡った五人が動こうとしていた。



■ 霊威の片鱗 ■

 翌朝、飽贄祭前日――。
 浅い眠りから覚めた永は、一人寝床から抜け出して村の中を歩いていた。
 太陽はまだ山の端に隠れたまま姿を見せず、周囲は淡い藍色に包まれている。
 既に朝餉の支度を始めているのだろうか。参道の脇に建てられている民家の窓からは、小さな灯りと共に柔らかい湯気が外へと零れ出ていた。
 時折、住人が戸口から外へ出てくるのを見留めると、永は二言三言他愛のない挨拶を交わす。誰もが疲れきった表情をしているのは、収穫期に充分な糧を得られなかったからかもしれない。
 夏の日照りにやられ、ひび割れた畑から取れるのは微弱な糧。下手をすれば冬を越すことさえも危ぶまれる。
 だが、ここに住む村人達の気質はいたって穏やかで、生活の貧しさを口に出して愚痴る者は居ない。ただ雨が降ればいいと、降って欲しいとひたすら神に願い、祈っているだけだった。

 土地に根ざした信仰は世界中何処にでもある。
 山があれば山の神を祀り、太陽が昇れば陽の神を崇める。
 古来より人間は人智の及ばぬものに敬意を示し、『神』という名をつけ人格化する事を好む。雄滝村の住人の心を支えているのも、やはりそうした類のものなのだろう。
 だが、何故それを御神木に宿る姫神に託すのか、永にはそれが解らなかった。
 雨は即ち水域のものだ。祈雨を願うのであれば、真実祀るべきは御神木ではなく、川の神ではないのか。
 そこまで考え、永はふと桜の言葉を思い出した。
 かつてこの神社に祀られていたのは、拝殿奥に流れる御流川の神だったという事。
 それがいつの時代からか、神木桜を祀るようになったという事。
「祀り神がすり替った理由を桜さんが知らない以上、姫神様に直接お伺いするのが一番なのでしょうが……」
 肝心な姫神が神木に宿っていないのでは話にならない。
 だが。
 神木桜を見に行った夜。蓮生が「木から神が抜け出している」と言ったのを聞いた時から、永の中で漠然とした推測が成り立っていた。
 左本右末に張られた注連縄。
 神木桜から抜け出したという姫神。
 そして穢れに弱く呂の鳥居内から出られない、雨歌。

 永が思いを巡らせながら参道の先へ視線を向けると、拝殿の前に誰かが佇んでいる姿が見えた。
 こんな早朝に一体誰が神社へ詣でているのか。
 目を凝らしても、永の居る位置からではそれが誰なのかわからない。永は一度考えるのを止めると、居住まいを正して参道を歩き出した。


*


 見覚えのある後姿だった。
 桜柄の和服を身に纏い、長い黒髪を早朝の風に揺らしながら、少女は拝殿を見上げていた。
 恐らく桜か雨歌だろう。だがこの薄暗がりの中で、背後から双子のどちらであるのかを判別するのは難しい。永は相手を驚かせないよう、距離を保ちながら少女へ声をかけようとした。

 俄かに、周囲の木々が葉擦れの音を立て始めた。
 強い風が吹き、境内を埋め尽くしていた落ち葉が、一斉に螺旋を描くように舞い上がる。
 不意を突かれた永は、咄嗟に右手で己の顔を庇い、やがて視界の先にある光景に気付いて驚愕に目を見張った。
 大気中に舞い上がった紅葉が、一瞬にして桜の花弁へと転じたのだ。
 境内に植えられた全ての木々が淡紅色に色づき、風に乗って花弁を上空へと散らしている。
 枝が風の威力で荒々しく揺れ、折れてしまいそうだった。
――否、そうではない。
 桜の花弁が、木の枝が、永を少女へ近づけまいと、行く手を阻もうとしているように見える。
 場を取り巻く空気が異様な程に張り詰めていた。
 拝殿と対峙する少女の後姿から感じ取れるのは、気高さと気品。そして他者の介在を許さないという、絶対的な拒絶。
 動けなかった。
 言葉を発する事も、その場から去る事も。永はただ真っ直ぐに少女を見つめることしか出来なかった。

 儚げで消え入りそうな雰囲気を持つ桜。
 反面、庶民的で明るく、少し我侭なところのある雨歌。
 だが、今永の目の前に居るのはどちらでもない。少女の器を持った、別の何かだ。
 永の中に芽生えた推測が、確信に変わりはじめた時。
「……早いのね。まだ日が昇ったばかりなのに」
 背を向けたまま、凛とした口調で少女が永に語りかけてきた。
 咄嗟の一言が出てこない。足元がおぼつかなくなり、体中から血の気が引いてゆく。
 自分の身に何が起こっているのか理解できず、永は冷たくなる両手を強く握りしめると、高鳴る心臓を鎮めるために深呼吸をした。だがそれは徒労に終わった。
 息が出来ず、視界が回る。
 まるで得体の知れない強大な力が、己の魂を鷲掴みにして肉体から引きずり出そうとしているような感覚。
「……どうしたの?」
 少女が振り返る。花弁に邪魔をされて、顔が見えない。
「どうして言葉を返してくれないの?」
 少女がそう呟いた瞬間、突如として永の視界から、色という色が失われていった。



 どこにいるのだろう。
 モノクロというよりはセピアに近い色彩の中、それまであったはずの拝殿が消え去り、永は見たこともない橋の上に立っていた。
 肉体から魂魄が離れ、別の場所に導かれでもしたのだろうか。
 仔細は定かでないが、先ほどまでの息苦しさは嘘のように消え去り、今はむしろ心地よいとさえ感じていた。
 橋の下を流れる川は雄大で、水底の小さな石が見えるほど透き通っている。
 日差しを受けて水面は煌き、その中を川魚が自由に泳ぎまわっているのが見えた。
 橋を越えた向こうには、土壁で囲まれた巨大な社殿が建てられており、その社殿のすぐ横で、一本の桜の木が満開の花弁を咲かせていた。木はどっしりと大地に根を張り、枝を四方へ伸ばしている。
 美しい光景だった。
 水が満ち溢れ、生命に溢れ、穏やかな空気で満たされた世界。
 よもや三途の川にでも連れて来られたのかと、そんな考えが永の脳裏を掠めた時。ふと対岸に人の気配を感じた永は、視線を前方へと向けた。
 いつからそこに居たのか。社殿の入り口に一人の男が佇み、無言で永を見つめていた。地に着きそうなほどに長い髪を持ち、広大袖の見慣れない衣服を纏っている。
 男の表情は酷く硬質で、そこから何を考えているのか察する事は出来ない。
 やがて男は永から視線を外すと、踵を返して社殿の方へと歩き出した。
 その時。

――捨ててしまうの? 全て……

 憂いを含んだ女の声が背後から聞こえてきて、永は咄嗟に振り返った。
 だが女の姿を視認する前に、永は再び急激な目眩に襲われて重心を崩し、その場に蹲った。


*


 誰かの声が聞こえる。
 それは聞き覚えのある声で、何度も何度も自分の名を呼び続けていた。
 何故自分の名を必死に呼び続けているのか。
 これは一体誰の声か。
 思い巡らし、その声の主を判別した瞬間、永は急激に現実へと引き戻された。

 視界が明確化する。
 最初に飛び込んできたのは、心配そうに自分を覗き込んでいる少女の顔だった。
 長い髪に桜柄の和服。桜……若しくは雨歌だ。
 だが何をそんなに心配しているのかわからない。
 自分は今、何を見ていたのか――。
 夢と現の境が判然とせず、永は半ば独り言のように呟いた。
「ここは……」
 色彩が戻っている。自分を見つめる少女の大きな瞳が、困惑の色に揺れていた。
「覚えていないの? 永さん、貧血を起こして急に蹲ったの」
 言われてはじめて、永は自分が砂利の上にしゃがみ込んでいる事に気付いた。
 手が妙に痺れている。視線を落とすと、両手とも血の気が失せたように真っ白だった。
「ここは御流神社の拝殿よ。私は雨歌。解る?」
 雨歌はその場に腰を落としたまま、永の顔を覗き込んでいる。
「御流、神社……」
 言われ、永は周囲に目を向けた。
 冷涼な風が流れ、それに揺られた境内の木々が葉擦れの音を立てている。
 砂利の上に降り注いでいるのは、桜ではなく艶やかな紅葉。
 正面には荘厳な造りの拝殿が置かれ、先ほど自分が佇んでいた橋などどこにもなかった。
「……幻?」
 全てがあるがままの姿に戻っている。
 幻覚を見たのかと思いはすれど、白昼夢と一言で片付けてしまうにはあまりにも印象が強すぎた。
「……何か、見たの?」
 茫然自失といった風な永の様子に不安を抱いたのか。雨歌が探るような口調でそう語りかけてきた。
「……川を見ました。橋の向こうに巨大な社殿と桜の木」
 先ほど見た光景が鮮明に脳裏に蘇ってくる。
「髪の長い男が一人対岸に居ましたが……」
 よもや三途の川の番人でもないでしょうと、永は雨歌の心配を払拭させるべく、努めて軽い調子の言葉を選んだ。
 だがそれを聞いた雨歌は、小さく息を呑むと視線を永から逸らした。
「……人が傍に居るって、気付くのが少し遅かった」
「…………」
「早朝なら誰も来ないと思ってたのに……」
 雨歌の声は小さくかすれ、語尾が上手く聞き取れない。その表情から受け取れるのは、動揺と困惑。そして後悔。普段の気丈な姿からはおよそ想像もつかないほど、今の雨歌は弱々しく感じられる。
「貴方は、ここで何を?」
 単に散歩をしていたわけでも、祈りを捧げていたわけでもないはずだ。だとすれば、早朝拝殿に赴いていた理由は何だ。
 永の問いかけに、雨歌は暫くの間沈黙していたが、やがて一言だけ言葉を発した。
「……距離を、測ってたの」
「距離?」
 永の言葉に、雨歌が無言で頷く。
 一体何の距離を測っていたのか。普段の永であればストレートに問いただしただろう。口に出せなかったのは、依然酷い倦怠感が体を支配しており、上手く思考が働かなかったからだ。

 永は力を振り絞ってその場から立ち上がると、己の額に手をあてた。辛うじて平屋まで戻る体力は残っていそうだ。
「話の途中で申し訳ありませんが、少し休みます」
「……一人で戻れる?」
「ご心配なく。貴方は、呂の鳥居からは出られないのでしょう」
 また貴方に倒れられても今日は運べませんから、と永は微かな笑みを浮かべる。
 雨歌は神妙な面持ちで言葉を詰まらせ、やがて「ごめんなさい」と一言だけ謝罪の言葉を口にした。
 いつしか、山の端から顔を覗かせた太陽が、眩いばかりの陽光を放って二人を照らし始めていた。



■ 解き紐 ■

 雨歌と別れて平屋に戻った永は、卓袱台の前に座り、昨日作り上げた村の地図を眺めていた。
 室内には誰も居ない。紗耶と真帆は神楽の稽古に出かけているし、百合子と蓮生も、恐らく姫神の所在を探しに外へ出たのだろう。
 外に面した障子を開け放っていると、時折秋鳥の囀りが永の耳に届く。晩秋の風は冴え冴えとしていて、己の神経を研ぎ澄ますには丁度良かった。

 貧血を起こして幻を見た――。
 そう一言で片つけてしまうのは簡単だが、少なくとも拝殿に足を運ぶ直前まで、己の体に問題はなかったように思う。
「解せませんね。意識が飛ぶほど体調が悪かった訳ではありません。貧血というよりはむしろ、体から精神が引きずり出されるような感覚だったのですが……」
 呟きながら、永は地図に記された拝殿奥に目を留める。
 拝殿の裏手には御流川を渡す橋が掛けられている。その先にあるのは神楽殿。
 この経路以外に抜け道がないとすれば、雄滝村にある橋は一つだけのはずだ。
 実際に自分の目で見たわけではないから、即座にこれと判断するのは躊躇われるが、先程自分が見た景色は、もしかしたらこの場所なのではないだろうか。
 永は地図を卓袱台へ置くと、腕を組んで微かに眉間にしわを寄せた。
「幻覚を見たのは雨歌さんに声をかけようとした直後から、ですか」
 早朝、誰も居ないことを予測して、彼女は一体何の距離を測っていたのか。
 やはり無理を押してでも雨歌に問えばよかったと、珍しく永が後悔した時。戸口の開く音とともに、誰かの声が聞こえてきた。
 声からして蓮生と百合子だろう。そう思っていると、程なくして二人が永の居る奥の間へと姿を現した。
「お早うございます……というには少し時が絶ち過ぎましたか。お帰りなさい」
 こんな時であっても、自然と鉄壁の笑顔を浮かべてしまう自分に、習慣というものは恐ろしいと永は心の底で自嘲する。
 永に気づいた百合子が、ふと顔を上げた。
「……永さん」
 力なく呟かれた声。百合子の顔は酷く青ざめており、今にも泣き出してしまいそうだった。一歩後ろに立つ蓮生もどこか暗い面持ちで、永は瞬時に何かがあったのだと悟る。
「どうしました? 二人とも顔色が優れないようですが……」
 一瞬、百合子と蓮生は互いの顔を見合わせたが、直ぐに永へと向き直った。
「桜が……」
 そう呟き、百合子が言葉を濁す。
「桜さんがどうかしましたか?」
 二の句を告げられず、百合子が俯く。蓮生は無言で百合子の肩に手を置くと、低く硬質な声でこう告げた。
「……桜が、殺される」


*


 陽が傾き始めていた。
 まだ夕刻というには早い時間だが、冬が近づくにつれて日照時間も短くなる。障子を透かして居間へ入り込んでくる陽光は、既に朱色を帯びていた。
 まるで血の色のようだと、永は思う。
 別の場所で、既知の仲間と談笑しながらこの景色を眺めていたら、全く別の感想を抱いたかもしれない。だがこの村の陰湿さを前にしては、全てが色褪せて見える。
 百合子と蓮生を前に、永は正座をしたまま深い溜息を零した。

 永が平屋へ戻ったのと入れ違いに、百合子と蓮生は巫女達が住む屋敷へ向かったのだという。
 皆神楽の練習で舞殿へ向かっていた為、話を聞くことは出来なかったようだが、かわりにあるものを見つけたらしい。
 屋敷の最奥に建てられた巨大な慰霊塔。
 そしてそれを囲むように造られた無数の墓石。
「そこで秋の神様……露月王に会ったの」
 血の気の引いた顔で百合子が話すのを、永は無言で聞いていた。
「巫女の命を神前で断ち切る事で、姫神の涙雨を請うんだって、露月王が……」

 姫神が外へ出られないよう鳥居内に封じ込めるのが一の祀り、御縄の儀。
 封じ込められた姫神の力が極限まで満ちるのを待つ二の祀り、飽贄の儀。
 姫神の前で巫女を殺し、神の力と涙を村へ解き放つ三の祀り、神哭の儀。

 巫女の命を代償に、姫神の涙は雨となって大地を潤し、村を潤す。殺された巫女の屍は屋敷の最奥へと埋葬され、人目につくことは無い。それが村で行われる祈雨の実体。
 一体これまでにどれだけの人間が殺されて来たのか。想像するだけで永は背筋の凍る思いがした。
 蓮生が、百合子のかわりに話を続ける。
「露月王が、巫女の命を救いたければ姫神を探せと言っていたんだ。でも流石に、白昼堂々と拝殿の奥へ行くことは出来ない」
「……確かに。あの注連縄がある以上、姫神様が呂の鳥居の外に居るとは考え難いですからね」
 探すのならば鳥居内だ。だが――。
「姫神様は、蔓王のように実体を持っているのでしょうか」
 それはかねてより永が疑問に感じていた事だ。
 桜は春に属するもの。当然、四季を司る蔓王達より姫神は格下になるはずだ。蔓王でさえ長時間実体を保つことの出来ない場所で、果たして姫神が実体を持てるのか。
 永が口を開きかけた時。
「……依代」
 百合子が視線を伏せながら、ぽつりと一言呟いた。
「よりしろ?」
 意味がわからず、蓮生が百合子に疑問を投げかける。百合子は頷くと、淡々とした口調で言葉を返した。
「簡単に言うとね、人間の体に神さまが乗り移ること。自分の体を貸して、神様の言葉を代弁したりするの。普通は巫女がその役割をするのかな。だから巫女に降りれば、神さまは自由に動ける」
「つまり巫女の資格を持ってる誰かに、姫神が入り込んでいるという事か?」
「うん。でも誰でも依代になれる訳じゃないよ。ちゃんと神さまの声を聞くことが出来るひと。その力に耐えられる精神と身体を持っていないと、心が壊れちゃうから」
 あたかも当然のように話す百合子に、蓮生はやや驚いた表情を浮かべた。
「……随分詳しいんだな」
 百合子は微かに困ったような笑顔を見せると、
「私も巫女筋だから……そういうこと、少しわかるの」
 弱々しい口調で蓮生にそう告げた。

 雨の降る日に生まれた子供達を「巫女」と一括りにしてしまうのは簡単だが、実際は生贄の対象とされているに過ぎない。全員が姫神の声を聞けるわけではないだろう。
 純粋無垢な魂と身体を持ち、神の意志を解し、それ相応の霊力を内に持つ人間――。
「……私は、姫神は雨歌さんを依り代としているのではないかと、思っています」
 一瞬の間をおいて、永が一つの推論を呈す。
 百合子と蓮生は無言のままで、永の言葉に反論や疑問を投げかけては来なかった。もしかしたら、暗に二人とも同じ事を考えたのかもしれない。
 早朝に見た雨歌は、明らかに普段と様子が違っていた。その姿に、自分は確かに雨歌とは別の何かを感じ取った。
 ただ推測を裏付けるに足る根拠が無いのだ。
 本人に直接問いただしても「違う」と一蹴にされれば、食い下がる余地はなくなる。だが。
「以前、桜さんが姫神に会ったことのある口振りで、話をされていました。彼女に問えば、確証が取れるはずです」
 永は地図を見つめながら、再び口を閉ざした。

 長い時の中で、数多の人間の死を見せ続けられた姫神は何を想い、何を考えて雨歌を依り代としたのだろう。
 そうして、これから何を成そうとしているのだろう。
 幾重にも絡みついた紐が少しづつ解かれてゆくように、見えなかった真実が少しづつ自分達の目の前に姿を現し始めたような気がした。





<飽贄の章 ―壱― 了>



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】


【1711/榊・紗耶(さかき・さや)/女性/16歳/夢見】
【3626/冷泉院・蓮生(れいぜいいん・れんしょう)/男性/13歳/少年】
【5976/芳賀・百合子(ほうが・ゆりこ)/女性/15歳/中学生兼神事の巫女】
【6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生*見習い魔女】
【6638/藤宮・永(ふじみや・えい)/男性/25歳/書家】



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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、綾塚です。この度は『桜媛奇譚――飽贄の章・壱――』をご発注くださいまして、まことに有難うございました。 そして、またもや私事で恐ろしいほど遅延してしまい……深くお詫び申し上げます。

 三連作の二話目前半になります。本来ならこのノベルで飽贄全てを終わらせるはずだったのですが、私の体調不良及び頂いたプレイングから判断して、飽贄に入る前にワンクッション置かせて頂きました。飽贄の祀り前日の出来事です。
 祀りに直接参加する方と、見学なさる方・参加しない方とで大別しております。一本の筋を軸に、雨歌寄りの話と桜寄りの話で作り上げていますので、前回同様、他のPC様のノベルをお読みいただくと大体の全貌がつかめるのではないかと。
 ただこれは毎回思うことなのですが……書き手は全てを把握して書いているものなので、真っ白な状態のプレイヤー様にお読み頂いて、果たして理解して頂けるかどうかという不安が頭の中に渦巻いています…(すみません。私の文章力の問題です…)ご不明な点や不可解な点がありましたら、遠慮なくご一報くださいませ。
 それでは、少しでもお気に召して頂けましたら幸いです。