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<東京怪談ノベル(シングル)>


戯れる時間、夢膨らむ時間

 今日もラストまで仕事だった。
「んー……っ」
 久美子は、大きく背伸びをした。「充実!」
 それを見ていた仕事仲間が笑う。
「仕事で充実してない川添さんって見たことないですよ〜?」
「羨ましいくらい、いつも充実って言ってるっスよ」
「違うわよ、あなたたち」
 久美子は伸ばしていた両腕を下ろし、ちっちっと指先を振った。
「どんなに『今日は嫌な日だった〜!』って思ってても、それを埋めるくらいの仕事をして充実に変える! これぞ極意!」
 おおー! と周りから拍手が起こった。
 えっへんと久美子は胸を張った。

 ……なんて、ね。
 今日もクレームがついて、内心嫌な思いがうずまいているんだけど。

 川添久美子はとあるファミリーレストランのウエイトレスだ。立派なベテラン、フロアチーフでこそないがリーダー格。
 それだけに、久美子はファミレス内のごたごたに巻き込まれやすかった。
(今日のクレームは……仕方ないのよね。髪の毛入ってるって、一番やっちゃいけないことだわ……)
 服を着替えて店を出ながら、久美子は反省していた。
 クレームにも色々ある。どうしようもない理不尽なクレームなら、最近は却って後に引きずらずに思考を切り替えることができるようになった。
 けれど……
 明らかにこちらに非があるクレームは、ベテランだからこそ反省の思いが強くてすっきりしない。
 寒空の下、ため息をついたら白く染まった。
(だめだめ、元気出さないと)
 明日も仕事。切り替えないと。
 幸い久美子には最高の趣味があった。
 かついでいたスポーツバッグをポンと叩いて、
「さっ。今日も思い切り泳いでこよーっと!」
 元気よく両手を広げ、冷たい空気を気持ちよく吸い込んで、久美子は歩き出した。

 行く先は夜遅くまでやっているフィットネスクラブ。
 久美子は泳ぐために、毎日のようにそこに通っていた。

 カウンターで会員証を見せる。常連だから顔は覚えられていて、
「今日も気持ちよく泳いでいってくださいね」
 とカウンターの女性に笑顔を向けられた。
 久美子は笑顔で、
「もちろんです」
 と返した。

 持って来ているのは競泳用の水着やゴーグル。本格的だ。
 暖房の入っている更衣室で手早く着替えると、すぐにプールへと向かった。
 ひゅっと、風が通ったかのように、肌に軽い冷えを感じる。
 クラブのプールは、時間が時間だけに静かだった。客で埋もれるファミレスとは正反対だ。気持ちは自然と切り替わる。
 プール横でしっかりと準備運動。怪我をしたら話にならない。
 数人すでにプールに入っている人々は、真剣に泳ぎ続けていて久美子が入ってきたことに気づいてもいないようだった。
 久美子は彼らの邪魔をしないように、端からゆっくりと足を浸す。
 冷たい。
 ――足先から、体の中へと浸透していく何か。
 久美子はこの瞬間が好きだ。地面に足をつけている時とはまったく違う……浮力に身を任せる瞬間。
 ここのプールは片道が50mだった。上級者用で、初心者向けとして別のプールがある。
 とん、と足がプールの底についた。
 胸元まで水に浸かった。
 ゴーグルをはめて、一回頭まで潜る。それからざぱっと顔を出した。
「〜〜〜気持ちいいっ!」
 思わず声が出た。振り向いた人がいて、慌てて口を押さえた。
 いけないいけない。こういうところでもルールは守らなきゃ。
 別にしゃべってはいけないというルールがあるわけではないが、こちらのプールはひたすら泳ぐのが好きな人が集まっていると言っていい。心地よくすいすい泳いでいる時に、仮に傍でぎゃーぎゃー騒いでいる人間がいたら興ざめだろう。
 久美子はもう一度肩まで浸かって完全に体を水に慣らしてから、ようやくとん、と底を蹴り、壁を蹴って泳ぎだした。
 すう……と水の中に溶け込むような感覚。
 それでいて、水に抗っているような感覚。
 不思議な不思議な、それは水の魔力。
 久美子はクロールを始める。ゆっくりと水をかいて、前に、前に。足で水を弾けば、水はまるで久美子を押すように先へ進めてくれる。
 水泳とは、水と遊ぶことだ。
 たとえ競泳選手でもそうに違いないと――久美子は漠然と思う。
 水とじゃれて、全身で会話して。
 ――思い込みじゃない。水は、返事をしてくれる。確かな感触で。
 そして久美子がうまく体を動かせば、彼女を導くように前に進ませてくれるのだ。
(ふう……今日も水との相性最高ね!)
 クロールのまま50mへ達して、ターン。今度は背泳ぎになった。
 視界がぐるんと切り替わる。天井が見える。背泳ぎのためにあと何mなのかを示すロープが見えた。
 背泳ぎは知らず行き先が曲がってしまいやすい。けれど久美子にとっては得意種目だ。
 他の種目とは違う感触を一番味わえる。人間は水に浮く、そんなことを一番感じさせてくれる泳ぎ。
 背泳ぎの時は、自然と動きがゆっくりになった。
 無駄な動きはしない方がいい。背泳ぎは、とりわけその要素が多い。
 それさえうまくいけば、背泳ぎは信じられないほど速く進めるようになる。
(気持ちいいのよね〜……他の泳ぎとはまた違った、このすいすいと進む感覚……)
 水に身をゆだねるような感覚が多い背泳ぎ。それに任せていたら、いつの間にか残り5mのロープが見えてきていた。
 次も背泳ぎにしよう。そう思いながらターンの準備に入ろうとした、その時。
(あら?)
 視界の端に、人影が見えた。
 久美子はターンするのをやめて、そのまま泳ぎを止めた。すとんと底に足をつき、ゴーグルを額まであげて顔をあげる。
「あ、やっぱり」
「こんばんー」
 そこには常連の友人が、にやにやしながら立っていた。軽く手を振って、
「相変わらず、背泳ぎの時は幸せそうだね?」
「……ゴーグルしてるのにそんなの分かる?」
「分かるよ。全身からオーラ出してるもん」
 久美子は軽く笑った。そして、
「あなたも泳ぐのね。追いついてごらんなさいよっ!」
「あ、久美子ー!」
 久美子はクロールで一気に泳ぎだした。ざばっと水飛沫が立ち、本気を出した彼女に応えるように水は大きく揺れる。
 友人は慌ててプールに入り、
「負けないわよ!」
 とばかりに思い切り泳ぎ始めた。
 久美子と彼女の力量差はない。しかし先に泳ぎ始めたのは久美子だ。差が縮まらない。
 後ろで友人が物凄い勢いで水をかき、キックしているのを感じる。
 ――追いついてみせるんだからね!
 そんな声が、水を通して聞こえる気がする。
 久美子は胸中で微笑した。ほら、水は会話ができる。こうして伝えてくれる。
 友人が追い上げてくる気配にも焦ることなく、彼女は優美な動きでクロールを続けた。
 やがて友人が追いついた。いたずらに足にタッチしてくる。
 べしょべしょべしょとわざとキックして、水をかけてやった。
 ――なにするのよー! と声が聞こえる気がした。
 久美子は笑いながら前へ進む。進む。進む……
 このまま終わりがなければいいと、ふと思った。

 海を想像する。終わりがないわけではないけれど、太平洋や大西洋、どこもかしこもひとりでは泳ぎきれないほど広いのだ。
 海を想像する。終わりなき広大な水の中を、自分は水と遊びながら進むのだ。

 ――とん、と指先が壁についた。
「やった!」
 友人の声が聞こえた。「勝った!」
 気がつくと2人は並んでいて、久美子が立つよりも友人の方が早く壁にもたれかかっている。
「………」
 久美子はぼんやりと友人を見つめる。
「ちょっとー、悔しいっ! とかないの?」
 膨れる友達に、ぽつりと言ってみた。
「海で、泳ぎたいなあ」
 はあ? とすっとんきょうな声が返ってきた。
 久美子は壁を押してみる。その先にはいかない。行けない。
「海ならこんな壁ないのに」
「……沖縄にでも行けば?」
 呆れ声が返ってきた。
(沖縄……沖縄かあ……)
 久美子は日本にもある美しい海を想像する。さんご礁。色とりどりの魚たち。身近で見たらどんなにきれいなんだろうか?
 彼らは知っている。自分よりも知っている。水と遊ぶ方法を。
 自分も彼らと一緒に、水と遊べるだろうか。
(なーんて、ね)
 まだまだ夢のまた夢かな。そう思って苦笑した。
 でも。
 それでも、夢は膨らむ。
 心の中にあった仕事のわだかまりなど綺麗に流れ去って、代わりに胸を埋めたのは海への憧れ。
 そして久美子はとんとプールの底を蹴り、壁を蹴って泳ぎ始めた――平泳ぎ。
 どんな泳ぎよりものんびりできる泳ぎ。
 安らぎになる泳ぎ。
 思い切り体を伸ばす瞬間は、とてもとても気持ちよくて。
 久美子ー! とまた友人が追ってくるのが分かった。
 水と遊んでる。友と遊んでる。
 ああ、気持ちいい。
 ああ、楽しい。
 月並みの言葉が実感をともなって心に強く染み渡る。
 そして、思うのだ。

(私、泳ぐの大好きだわ)

 水と呼吸を合わせ、水に導かれ、体はもう動くがままに、さあこの先へ行こう――
 久美子は水面に顔を出し、思い切り息を吸い込んでから、再び水の中へと顔を潜らせた。


 ―FIN―