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<東京怪談ノベル(シングル)>


飴玉一つ 笑顔二つ


 ■

 淡い月明かりが薄い雲の合間から降り注ぐ夜だった。
 カタン、と。
 不意の物音に眠っていた意識を呼び覚まされた少女。
 しかし彼女、一条樹里は、どうして自分が起きてしまったのか判らず、ベッドに上半身だけを起こして「?」と小首を傾げていた。
 緩やかに波打つ長い髪の、秋の穂を思わせる柔らかな金色に、空と海の境界を思わせる青い瞳は、子供特有の愛らしさを更に引き立て、まるで一流の職人が手掛けた欧州人形のよう。
 手荒に扱えば壊れてしまいそうな繊細さ。
 眠りを妨げられたのも、奇妙な物音に不安を抱いたからだろうか?


 ――なんて思うのは樹里の外見しか知らない者達だけだ。
 知っていれば、むしろ傍にいる大人達の方が必死になって彼女を“止めた”に違いない。
「何だろう…」
 ぽつりと呟いて立ち上がった少女は、その足で窓に近付く。
 カーテンをほんの少し開けて、眺めた外。
「!」
 驚いた。
 なに、に。
 空を飛んでいった人影に!
「どこ行ったの!?」
 樹里は窓を開け、身を乗り出して空を見上げる。
 人影は上に消えた。
「おくじょう?」
 そうかなと思うと同時に何かが光る。
 屋上で間違いない。
「いかなきゃ!」
 言うが早いか少女はカーディガンを手に部屋を飛び出していた。




 ■

 樹里が暮らすのは交通の便や周辺環境が非常に良い都内のマンション。
 と言っても、建設段階から購入を決めていたわけではなく、父親の転勤が決まった直後に「運良く」このような利便性に優れたマンションへ越してくる事が出来たのだ。
 引越しに先駆けて物件を探していた父親が、とても親切な不動産屋さんと知り合えたおかげらしい。
 しかし真実は違う。
 ここは幽霊マンションという悪名高き物件であり、これを普通に暮らせるよう生まれ変わらせたのは、他でもない、樹里の母親だった。
 最も、少女にはそのような事実を知る由は無いし、今でも時折現れる悪霊を母が誰にも気付かれぬよう握り潰している事も知らない。
 ただ、少なくともこの夜の出逢いは、悪霊がもたらした類稀なる良縁。

「さっさと失せろ!」

 屋上の一角。
 威勢の良い掛け声と共に空に描かれる白銀色の軌跡。
 同時に何か黒いものが、砂山のようにサラサラと崩れ落ちて行くのが少女の目にも映った。
「…ったく、何なんだこのマンションは…」
 長身痩躯を覆う黒いスーツに漆黒の髪。
 手に持つ日本刀が、不意に闇に紛れて――。
「かぁっっこいいーー!!」
「!?」
 感動して声を上げた樹里に、男がぎょっと振り向く。
「お兄ちゃん、こんばんは! いっちっじょぉおっ!!じゅぅりでぇーっす!」
「は、はぁ…?」
 困惑する彼に駆け寄り、真っ直ぐに見上げる。
「ね、お兄ちゃんのおなまえは?」
 目を輝かせた少女の、満面の笑み。
 その笑顔の威力を知らないのは本人だけだ。
「か、影見河夕だが……」
 ほとんど無意識に答えていた青年。
「かげみかわゆ? じゃあ“かわぴー”だ!」
「――」
 絶句する青年に、樹里はやはり笑顔だった。




 ■

 静かな月夜の屋上に、少女の朗らかな声が響く。
「さっきのは、なんてわざ? なにを退治していたの?」
「何…って、いや…俺達の敵が、この建物に彷徨い込んできた悪霊と同化したものを、だな……」
 あまり詳細を話したくはないらしい河夕だが、樹里の熱望の眼差しに気圧されてしまっているらしく、つい口が滑る。
「したっけお兄ちゃんは“せいぎのみかた”?」
「は…」
「悪ものをこらしめているんでしょ?」
「…まぁ…結果としてはな…」
 正義の味方と呼ばれるのも心苦しいのか、曖昧な返答。
 しかし樹里には充分だ。
「すごい、すごい! お兄ちゃんかっこいい!」
 臆面の無い大絶賛に、最初は当惑していた青年も、いつしか目元を綻ばせる。
「参ったな…」
 そう呟いて頭を掻く。
「ね! ひっさつわざは? ピンチのときにだけつかう“ちょうひっさつわざ”おしえて!」
「――ふっ」
 口元に拳を当てて笑うのを押し止める。
「そんなの無いって」
「えー?」
「俺には仲間が大勢いるからな。ピンチの時には仲間が助けてくれる。……言い換えれば仲間が俺の超必殺技、か」
「?」
 樹里はきょとんと小首を傾げる。
 妙に感慨深げに告げる彼の言葉が、いまいち理解出来なかったのだ。そんな少女の反応にハッとした河夕は赤面。
「そ、それはいいとしてっ、こんな時間に外に出て親が心配するんじゃないのか?」
「あ」
 勢いで飛び出してきた樹里は、言われて気付く。
 確か部屋の窓も開けっ放しだ。
 だが。
「お兄ちゃん、もういっちゃうの?」
「あぁ、次の役目もあるしな」
「そっかぁ」
 残念、と視線を落とした樹里は、河夕の手にある傷に気付いた。
「お兄ちゃん、ケガしてる」
「え?」
 彼も言われて初めて自分の手の甲に生じた擦り傷に気付くが、それだけ。
「平気だ、放っておけば治る」
 サラリと言い切る彼に、絆創膏などは持ち合わせていなかったが、羽織っていたカーディガンのポケットに一つだけ渡せる物があった。
 普段は泣いている人に贈る笑顔の源だけれど。
「お兄ちゃん、これあげる!」
「――飴?」
「ケガが、はやくなおりますようにって!」
 コロンと手から手へ渡されるキャンディー。
 添えられる笑顔。
「……ったく」
 河夕がぽつりと呟いた。
 そんな彼を見上げようとしたと同時。
「おやすみ。良い夢を――」
 彼は顔を見せなかった。
 不意に目の前を闇に覆われて、樹里の意識は、それきりだ。




 ■

「!」
 普段と同じ起床の合図で目覚めた樹里は自室のベッドの上だった。
「え…」
 カーディガンは椅子の上。
 窓も、閉まっている。
「えぇ?」
 唐突に訪れた朝に少女は戸惑う。
 何が何だか。


 さっぱり訳が判らず、昨夜なにか変わった事があったかと両親に聞いても欲しい答えは得られない。
 逆に、そんな事を聞いてくる樹里に何があったのかと聞き返され、
「すごいの見たの! 人が空を飛んでね、おくじょうで悪ものを…」
 正直に話せば、言い終えるより早く両親から零れたのは柔らかな笑い声だった。
 テレビの見過ぎ。
 きっと夢を見たのだろう、と。
「ちがーう!」
 絶対に!
 絶対に! 嘘なんか言ってない!
 自分は確かに見たし、会ったのだ。
 夜の闇に似た漆黒の髪と、深い色の瞳を持つ影見河夕に――。
「あれ?」
 両親に憤慨しつつも、学校へ行く準備をするためにパジャマのボタンを外そうとした、その時。
 手が硬い何かに触れる。
「何だろう、これ……」
 慌てて自分の寝巻きを見下ろした樹里は、その襟元に不思議な色合いをした何かが有る事に気付いた。
 だが、そのままではよく見えず、急いで鏡の前に移動する。
 そうして改めて覗き込んだそこには、白のようで、銀のような。
 優しい輝きを放つ羽根を象った模様。
 ブローチなどの装飾品ではなく、その部分の生地だけが加工されているのだ。
「かわぴー…?」
 きっとそうだ。
 飴玉の礼か、――また会おうの約束か。
「……っ!」
 樹里は顔を綻ばせた。
 夢じゃない、出逢いの証を彼は残してくれていた。


 静かな月夜の、悪霊が繋いだ縁。
 願わくば次は陽の下で――。




 ―了―